無動寺 (大津市)
滋賀県大津市にある延暦寺の塔頭
無動寺(むどうじ)は、滋賀県大津市にある天台宗の寺院。比叡山にある総本山延暦寺東塔無動寺谷の塔頭。山号は比叡山。本尊は不動明王。正式には無動寺明王堂といい、延暦寺五大堂の一つで千日回峰行の拠点である。無動寺は東塔の一谷ではあるが別格で「南山」と呼ばれている。
無動寺明王堂 | |
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所在地 | 滋賀県大津市坂本本町4220 |
位置 | 北緯35度3分45.1秒 東経135度50分37.7秒 / 北緯35.062528度 東経135.843806度 |
山号 | 比叡山 |
宗派 | 天台宗 |
本尊 | 不動明王 |
創建年 | 貞観7年(865年) |
開山 | 相応和尚(建立大師) |
正式名 | 比叡山 無動寺明王堂 |
札所等 | 近畿三十六不動尊第26番 |
無動寺谷には明王堂の他にも大乗院、法曼院、弁天堂などがある。
歴史
編集平安時代前期の貞観7年(865年)に、延暦寺の僧で千日回峰行の始祖として知られている相応和尚(建立大師)によって創建された。
元慶6年(882年)に陽成天皇の勅により無動寺は天台別院(天台南岳別院)となっている。
院政期に住持になった寛慶がその地位を高めて東塔から自立すると、無動寺は東塔・西塔・横川に匹敵する発言力を持つようになった。寛慶は当時の天台座主仁豪の座主への権力集中に反対する勢力の中心となり、永久の強訴の際には清水寺破却に対する仁豪の責任を追及して延暦寺内で内紛を起こしている。後に寛慶は天台座主に補された。
寛慶の後を継いだ天台座主行玄は自らの拠点を青蓮院に移す。それがやがて後の「青蓮院門跡」のルーツとなっていく[1]。
元亀2年(1571年)9月に織田信長による比叡山焼き討ちで全焼するが、その後天正年間(1573年 - 1592年)に再建されている。
天保14年(1843年)に大火によって焼失するが、しばらくして再建された。
無動寺明王堂の本尊・不動明王に仕える僧侶「輪番」は、千日回峯行を満行した大阿闍梨か回峯行中の阿闍梨が勤めることとなっている。
葛川明王院は当寺の奥の院である。
境内
編集前後の札所
編集- 近畿三十六不動尊霊場
- 25 円満院 - 26 無動寺明王堂 - 27 葛川息障明王院
現地情報
編集脚注
編集出典
編集- ^ 衣川仁「延暦寺三門跡の歴史的機能」永村眞 編『中世の門跡と公武権力』(戎光祥出版、2017年) ISBN 978-4-86403-251-3
関連項目
編集- 天台南山無動寺建立和尚伝
- 葛川明王院
- 神ノ木弁財天 - 京都市右京区にある神社。無動寺に授けられた木像を祀っている。
外部リンク
編集- 近畿三十六不動尊霊場会 FaceBook