熊谷 珪碩(くまがい けいせき、寛政6年(1794年) - 万延元年(1860年))は、江戸時代後期の日本の医師蘭方医)。号は道一益夫。字は恕郷

信濃国高遠藩士・熊谷勇左衛門の子で、同藩領の筑摩郡本洗馬村(現長野県塩尻市)の医家・熊谷祐碩の養子となる[1]。同藩儒の中村元恒に学び、文化年間に美濃国大垣の蘭方医江馬蘭斎に入門して帰郷し、開業した[1]嘉永3年(1850年)から、江馬家より分与された牛痘苗を用いて、高遠領内や塩尻地方一帯の住民に種痘を実施し、子の熊谷謙斎(倉三郎)に受け継がれて明治18年(1885年)まで続けられた。これが信濃国における種痘の最初の事例となった。また天保年間に江馬家から届いた複数の手紙が残されており、江馬塾の様子や、ドゥーフ・ハルマの完成、カローメル等の蘭方系新薬の紹介、シーボルトの来日などが記されている。

自著に「病家示要訓」「工夫書」「三省の説」「豊凶の弁」「子弟教示書」などがある。謙斎の孫には東北帝国大学総長熊谷岱蔵がいる[1]

脚注 編集

  1. ^ a b c 「塩尻市誌」p.917

参考文献 編集

  • 「塩尻市誌第3巻 第4編近世 第9章教育・文化・宗教」
  • 長野県史通史編 第6巻 中世3」
  • 「天然痘との闘い 3 中部日本の種痘」岩田書院 2022年