牛乳煎餅(ぎゅうにゅうせんべい)は、伊豆大島の名産菓子

由来編集

大正7年6月11日、昭和天皇(当時は皇太子)が伊豆大島に行幸する際、和菓子製造販売店『甘晴堂本舗』(2012年現在、既に廃業)に大島役場より献上品の依頼があった。二代目店主の髙田登良男により牛乳煎餅が考案され、昭和天皇へ献上したことにより、牛乳煎餅の製造販売が始まった。当初の牛乳煎餅は縦8.5cm横6.5cmの長方形で、水を一滴も使わず、大島牛乳、大島バター小麦粉砂糖のみを材料とし、大島産の椿油を焼き油として使用していた。そのため煎餅と名がつくものの米菓ではなくクッキーに近い。そして、大島産の椿炭(火力が強く、長時間高温を維持する)で一枚一枚手焼きされ、焼鏝で表には大島の民謡『大島節』の歌詞が、裏には甘晴堂の文字が浮き出る様に焼かれていた牛乳の香り際立つ甘い煎餅であった。大正から昭和に掛けて、甘晴堂本舗には菓子製造を学びに新島利島から若者が渡り、彼らが帰島して牛乳煎餅の製造が広まっていった。現在、牛乳煎餅は伊豆諸島の銘菓となり、各島で製造販売されている。

伊豆大島と乳牛編集

  • 江戸文学、曲亭馬琴の『椿説弓張月』によれば、鎮西八郎為朝が伊豆大島に流された、1156年の頃、この島には、野生の牛がたくさん棲んでいたと記されている。
  • 大島で乳牛の飼育が始まったのは、明治33年に純粋ホルスタイン種が導入されてからで、 一年中繁茂する島自生の『アシタバ』、『タガヤ』などの青草を飼料として、 最盛期には1200頭を超える程になり全国でも牛乳の産地として有名であった。

大島節編集

『わたしゃ大島御神火育ち、胸に煙は絶えやせぬ

 つつじ椿は御山を照らす、殿の御船(みふね)は,灘照らす』

外部リンク編集

  • 大島町役場:大島小史ー写真:昭和天皇、東宮時代ご来島(大正7年)[1]
  • みよし土産店(牛乳せんべい含む大島名産の販売店。通販も行っている)