武公(ぶこう、紀元前710年以前 - 紀元前678年)は、の第5代公。寧公の長子。

武公
第5代公
王朝
在位期間 前697年 - 前678年
都城 平陽
諡号 武公
生年 前710年以前
没年 前678年
寧公
陵墓 宣陽聚南東
嬴白

生涯

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寧公の長子として生まれた。寧公には3人の子があり、上の2人が同母であった。武公の生年は直接知られないが、同母弟の徳公は紀元前710年生まれで、その父が16歳のときである。太子に立てられた。

寧公12年(前704年)、寧公が22歳で死ぬと、大庶長の弗忌と威塁の三父は太子(武公)を廃し、末子の出子を立てて秦君とした。

出子6年(前698年)、三父らは数え年で11歳の出子を殺し、武公を秦君に立てた。

武公元年(前697年)、彭戯氏[1]を討伐し、華山の麓に行った。

武公3年(前695年)、出子を殺した罪で三父らを誅し、その三族を滅ぼした。

武公10年(前688年)、邽[2]・冀[3]の戎を討伐し、初めてここに県を置いた。

武公11年(前687年)、初めて杜[4]・鄭[5]に県を置いた。また、小虢を滅ぼした。

武公20年(前678年)、死去。宣陽聚の南東に葬られた。初めて人を殉死させ、その数は66人におよんだ。武公には子が1人あり、といったが、弟の徳公が継いで秦君となった。

脚注

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  1. ^ の一氏族。
  2. ^ 現在の甘粛省清水県
  3. ^ 現在の甘粛省甘谷県
  4. ^ 現在の陝西省西安市長安区
  5. ^ 現在の陝西省渭南市華州区

参考資料

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  • 史記』(秦本紀第五)