紀元前697年(きげんぜん697ねん)は、西暦ローマ暦)による年。紀元前1世紀共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元57年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前697年と表記されるのが一般的となった。

世紀 前8世紀 - 前7世紀 - 前6世紀
十年紀 前710年代 前700年代
前690年代
前680年代 前670年代
前700年 前699年 前698年
紀元前697年
前696年 前695年 前694年

他の紀年法 編集

できごと 編集

中国 編集

  • 夏四月己巳[1]國葬釐公,子の諸児(しょげい)が立って斉君(以降は襄公と表記)となった。
  • 厲公祭仲を殺すよう雍糾に命じたが、かえって雍糾は祭仲に殺害され、厲公はに亡命した。昭公が帰国して鄭の国君に立てられた。
  • 穆公が許に帰国して国君として立った。
  • 襄公桓公が艾で会合した。
  • 鄭の厲公が櫟に入った。
  • 冬十一月,魯の桓公・荘公恵公荘公が袲で会合した。[2][3]

誕生 編集

死去 編集

脚注 編集

  1. ^ 《春秋左傳・桓公十五年》:“夏四月己巳,葬齊僖公”
  2. ^ 《春秋左傳・桓公十五年》:“冬,十有一月,公會宋公,衛侯,陳侯,于袲,伐鄭。”
  3. ^ 《春秋左傳・桓公十五年》:“冬,會于袲,謀伐鄭,將納厲公也,弗克而還。”