引田の戦い

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引田の戦いひけたのたたかい)とは天正11年(1583年)、讃岐国大内郡(現:香川県東かがわ市)の引田城附近で行われた長宗我部氏羽柴秀吉の命により派遣された仙石秀久らとの戦いである。

賤ヶ岳の戦い
戦争戦国時代 (日本)
年月日:(1583年4月
場所:讃岐国大内郡引田
結果:長宗我部軍の勝利
交戦勢力
長宗我部軍 羽柴軍
指導者・指揮官
長宗我部元親
香川信景
仙石秀久
戦力
5,000(香川信景隊) 2,000(仙石秀久隊)


信長・秀吉との敵対

四国統一に向け阿波讃岐へと兵を繰り出していた元親は両国の一大勢力であった三好氏を駆逐し、天正8年(1580年)までに両国をほぼ制圧した。一方、中国攻略を進めていた織田信長は元親の台頭をよしとせず土佐阿波二国の所領安堵を条件に臣従するよう元親に迫るが、四国統一を悲願とする元親はこれを拒否しこれまで良好な関係を築いてきた信長と敵対する道を選んだ。信長と元親の敵対に乗じる形でかつて信長と敵対していた三好一族の十河存保は失地回復を目論み信長に接近し信長の後ろ盾を得ることに成功、存保らは天正9年(1581年)再び讃岐へと反攻を開始した。天正10年(1582年)、信長は三男の神戸信孝を総大将に丹羽長秀津田信澄らを中心とする四国討伐軍を編成し堺にて元親討伐の準備を整え始めた。しかし、同年本能寺の変により信長が横死すると信孝と長秀は明智光秀の娘婿である信澄が明智方へ内通していると疑い野田城にて信澄を討ち取るなど四国討伐軍内部に混乱が生じたため四国討伐は立ち消えとなってしまった。

本能寺の変が起こると三好康長は近畿へ逃避し三好側の反攻勢力は勢いを失ってしまった。元親はこれ機に阿波・讃岐の反攻勢力の一掃をはかり両国の完全掌握を目指した。中富川の戦いにて存保を破り、さらに8月には雑賀衆の助力も得て存保の立て籠もる勝瑞城を攻め落とすことに成功した。阿波に留まることが出来なくなった存保は讃岐虎丸城へと遁走し、秀吉に救援を求めた。

秀吉、仙石秀久を派遣

天正11年(1583年)、中央では秀吉と柴田勝家による主導権争いが日増しに激化し賤ヶ岳の戦いが起ころうとしていた。そのため存保の要請に対して多くの軍勢を割くことはできず、淡路水軍一党の乱を鎮圧するために淡路島へ派遣していた仙石秀久の軍勢に対して存保の援軍を命じた。命を受けた秀久は手勢2000を引きつれ、手始めに高松頼邑が守る喜岡城を攻めたが落とすことが出来ず、海上からすぐに入城できる引田城に入った。

引田城落城

天正11年(1583年)4月21日、秀久は長宗我部軍の香川信景隊5000が引田に向け進軍中であるとの報を受け、信景隊に奇襲をかけるため手勢を3つの隊に分け仙石勘解由仙石覚右衛門森権平をそれぞれ将とし街道沿いに伏兵をおいた。秀久の読みは的中し峠道にさしかかった信景隊に対し鉄砲を浴びせ、奇襲を受けた信景は一時退却をせざるを得なくなった。秀久本隊も追撃をかけ優勢に戦いを進めていたかに見えたが、数に勝る信景はすぐさま隊を立て直し次第に戦を優位に進めるようになった。先鋒が会戦しているとの報を受けた元親は配下の桑名太郎左衛門中島与市兵衛隊を救援に向かわせ、その後元親本隊も加わった。元親の増援がかけつけたことで長宗我部勢が仙石勢を完全に圧倒するようになり、支離滅裂となった仙石勢は多くの兵を失い引田城へ退却を余儀なくされた。この戦いで秀久はを取られる失態を見せたという逸話もある。この戦いで仙石勢は3つに分けた隊の将のうち仙石勘解由、森権平の2名が討死するなど壊滅状態となった。一方の長宗我部勢は中島与市兵衛が討死した。

元親はそのまま引田へ進撃、布陣した。翌日秀久の籠もる引田城を取り囲み総攻撃をかけたが、既に戦意を失った仙石勢は抵抗らしい抵抗を出来ずに城を逃げ出さざるを得なかった。

引田の戦いのその後

秀久は敗戦後淡路に逃げ帰り淡路と小豆島の守りを固め瀬戸内の制海権維持に務めた。一方の元親は天正12年(1584年)6月までに存保の居城である十河城や虎丸城も制圧し、勝ち目のなくなった存保は大坂の秀吉を頼って讃岐を脱出するほかなくなった。

関連項目

  • 賤ヶ岳の戦い - 奇しくも引田合戦は賤ヶ岳の戦いと同日に起こった。
  • 四国征伐
  • 九州征伐 - 秀吉に降った元親は九州討伐で秀久の下で宿敵存保とともに戦うことになり、嫡男信親を失い、また存保も討死した。