日本陸軍 (軍歌)
日本の軍歌
概要
各番ごとに兵科を歌いこみ、1番から10番まで一連の物語となっていおり、曲は「四千余万」(中村秋香)の譜を流用したものとなっている。 また、深沢登代吉は1901年に死去しているためこの「日本陸軍」が出来た時には故人だったということになる。[1] 輜重兵科の歌は「輜重兵の歌」(作詞作曲ともに不明)の歌が作られるまでは1937年(昭和12年)まで存在しなかったため、それまでは輜重兵に関してほぼ唯一の歌であった(輜重兵も参照)。
昭和初期から第二次世界大戦の敗戦まで、出征時の壮行歌や凱旋時に必ずと言っていいほど主に1番を中心に盛んに演奏され、歩兵の本領と同じく行軍中にも盛んに歌われたと言う[2][3]。
歌詞
日本陸軍
- 作詞 - 大和田建樹
- 作曲 - 深沢登代吉
- 出征
天に代わりて不義を討つ
忠勇無双の我が兵は
歓呼の声に送られて
今ぞ出で立つ父母の国
勝たずば生きて還(かえ)らじと
誓う心の勇ましさ- 斥候兵
或いは草に伏し隠れ
或いは水に飛び入りて
万死恐れず敵情を
視察し帰る斥候兵
肩に懸(かか)れる一軍の
安危はいかに重からん- 工兵
道なき道に道をつけ
敵の鉄道うち毀(こぼ)ち
雨と散りくる弾丸を
身に浴びながら橋かけて
我が軍渡す工兵の
功労何にか譬(たと)うべき- 砲兵
鍬(くわ)取る工兵助けつつ
銃(つつ)取る歩兵助けつつ
敵を沈黙せしめたる
我が軍隊の砲弾は
放つに当たらぬ方もなく
その声天地に轟(とどろ)けり- 歩兵(歩行)[4]
一斉射撃の銃(つつ)先に
敵の気力を怯(ひる)ませて
鉄条網もものかわと
躍り越えたる塁上に
立てし誉れの日章旗
みな我が歩兵の働きぞ- 騎兵
撃たれて逃げゆく八方の
敵を追い伏せ追い散らし
全軍残らずうち破る
騎兵の任の重ければ
我が乗る馬を子のごとく
労(いた)わる人もあるぞかし- 輜重兵
砲工兵騎の兵強く
連戦連捷せしことは
百難冒(おか)して輸送する
兵糧(ひょうろう)輜重のたまものぞ
忘るな一日遅れなば
一日たゆとう兵力を- 衛生兵
戦地に名誉の負傷して
収容せらるる将卒の
命と頼むは衛生隊
ひとり味方の兵のみか
敵をも隔てぬ同仁の
情けよ思えば君の恩- 凱旋
内には至仁の君いまし
外には忠武の兵ありて
我が手に握りし戦捷の
誉れは正義のかちどきぞ
謝せよ国民大呼(たいこ)して
我が陸軍の勲功(いさおし)を- 勝利(平和)
戦雲東におさまりて
昇る朝日ともろともに
輝く仁義の名も高く
知らるる亜細亜の日の出国
光めでたく仰がるる
時こそ来ぬれいざ励め
新日本陸軍
- 作詞 - 藤田まさと
※ここでは新たに追加された歌詞のみ記載する
- 爆撃隊
銃火一度狂う時
決死の友軍援けつつ
銀翼連ねて堂々と
敵を微塵に撃ち拉ぐ
鋭鋒無比の爆撃は
是皇軍の誇り也- 機関銃隊
敵陣如何に堅くとも手練れの腕ここにあり
見よ銃隊の行く所
山野に吠ゆる敵兵も
忽ち我に降伏す
誉れは何か譬うべき- 戦車隊
轟裂の音地を喰み
砲煙正に天を衝く
修羅の巷を悠々と
突破し去りて戦捷の
基を築く頼もしさ
時代の籠児戦車隊- 電信隊
世は文明の科学戦
戦線百里に跨がれば
前衛後部の連絡は
生死に関わる大事也
死地に見えて尚足らぬ
任務は重き電信隊- 皇軍凱旋
光は常に東方(ひがし)より
正義は常に我方(われら)より
戦雲此處(ここ)に治まりて
勇武の兵は今還る
いざ讃うべき皇軍の
建てし勲を大呼(たいこ)して歌詞の変遷
関連項目
- 軍歌
- 明治天皇と日露大戦争 - 劇中で使用された