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1890年から1910年ごろまで建造された。
快速の巡洋艦に匹敵する速力と、戦艦に準ずる攻撃力と防御力を有し、[[:en:Kantai_Kessen|艦隊決戦]]から[[通商破壊]]に至るまで多様な任務に投入される{{Efn|'''第九 装甲巡洋艦の構造能力任務'''{{Sfn|最新海軍通覧|1910|p=32a|ps=原本38-39頁}} 装甲巡洋艦構造の要義は鋭利なる攻撃力と急速航行の自由を有せしめ而かも敵彈の迫害を蒙るを免れしめん爲に相當の防禦を施すにある詳言すれば攻撃力たる砲熕及魚形水雷は戰艦に次くの強勢を有せしめ其上に速力を出來得る丈け高大ならしめる、防禦力としては戰艦に次くの厚い装甲鈑を舷側の水線部、砲塔、司令塔其他の要部に装着する又高大なる速力を發揮せしめる爲には推進機關及蒸汽罐の著しく強大なるへきこと勿論で石炭の貯藏亦極めて多くなくてはならぬから装甲巡洋艦の船體の重大なることは戰艦と相伯仲する程である<br/> 故に戰爭に際しては戰艦と伍して主戰艦隊に編制せられ或は装甲巡洋艦のみの隊を編し高速力を利用して敵艦隊に對して砲火の集中に有利なる位置を占め或は戰ひ疲れて逃遁する敵艦を追撃する等を本務とし又は防護艦隊が附いて居る輸送船隊を撃沈し或は強行偵察に從事する等武力と速力の高大とを併せ要する任務には最も適當なる艦種である。}}。
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[[大日本帝国海軍|日本海軍]]においては、[[日露戦争]]で[[上村彦之丞]]中将([[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]司令長官)が率いた6隻の装甲巡洋艦が有名である{{Efn|name="巡洋艦話p16"|'''四、装甲巡洋艦と巡洋戰艦'''{{Sfn|巡洋艦の話|1938|pp=16-21|ps=(原本23-33頁)四、装甲巡洋艦と巡洋戰艦}} 戰艦と巡洋艦とは前に述べた如く相異つてゐます。これが陸戰ならば咄嗟に輕装に早變りしたり、急に重い鎧に身を固めるといつた様なことも出來ませうが、巡洋艦を戰艦らしく改装することは一年二年ドックに入院しても此手術は中々六ヶ敷い。これを設計の時から何とか歩み寄らせて、堅牢戰艦と快速巡洋艦の任務を兼ねしめ得らるる重寶な艦型を得ようとした事は、昔々から企てられた跡があります。其の代表的なものは日本では日露戰爭前後にあつた装甲巡洋艦と、大正時代に盛に唱へられた所謂八八艦隊の一方の八を意味する八隻の高速巡洋戰艦であります。(中略)装甲巡洋艦といふのは防禦力の完備した巡洋艦といふ一般的な意味にも使用されるが、巡洋戰艦の前身ともいふべき日露戰役前後の大型巡洋艦が装甲巡洋艦として一番有名です。<br/> 日露戰爭の時、我が主力艦隊は三笠、敷島、富士、朝日、初瀬、八島の六大戰艦と上村艦隊と稱した出雲、吾妻、常磐、八雲、淺間、磐手の六大巡洋艦艦隊でした。此巡洋艦は皆八吋砲を備へ防禦装甲にはクルップ鋼又はハーベーニッケル鋼の水線帶甲七吋、防禦甲板二吋、砲塔装甲六吋、砲廓六吋、司令塔十四吋といつた風に厚い鐵壁に守られ、而も速力は當時の戰艦に比して二乃至三節の優速を持つて居た所謂装甲巡洋艦でありました。(中略)翌年[[太平洋艦隊_(ロシア海軍)|旅順艦隊]]既に亡び、[[ウラジオストク巡洋艦隊|浦潮艦隊]]も蟄伏して仕舞つた後、第二太平洋艦隊即ち[[バルチック艦隊|バルチツク艦隊]]が大擧して来寇した時、即ち日本海々戰の我艦隊陣容は戰艦艦隊六隻中[[初瀬 (戦艦)|初瀬]]、[[八島 (戦艦)|八島]]は機雷にかゝつて缺損して居り、装甲巡洋艦日進、春日が之に代り、大型巡洋艦艦隊は前年朝鮮海峡に分派せられ縦横に馳せ廻つた上村艦隊の六隻で合計十二隻、當時の最大軍艦が蜿蜒長蛇の單縦陣を作って主力艦隊を形成したのでありました。これと前年の上村艦隊の用法を併せ考げて見ると、戰艦以外に時に主力となり、時に巡洋艦隊本来の任務に服し得る様な合い子艦型があつたならば、なるほど便利なものだといふ理は分明して來ます。(以下略)}}。
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[[弩級戦艦]]の登場と共に{{Sfn|死闘の海|2004|pp=26-29|ps=(2)用語の説明/ド級戦艦}}、大口径砲を搭載した[[巡洋戦艦]]に進化した{{Efn|'''巡洋戰艦附装甲巡洋艦'''{{Sfn|帝国軍艦発達|1924|p=5}} 過去二十五年間の期間に於て我海軍にて建造されました巡洋戰艦と名のつく艦は四隻一一〇,〇〇〇噸馬力二五六,〇〇〇 装甲巡洋艦と云はれて居りますのが十二隻一二九,二四一噸馬力二二七,七五〇(此中に日進、春日を含んで居ります)であります。<br/>一體巡洋戰艦と云ふ語は合の子の語でありまして英國海軍に於て「[[ドレッドノート_(戦艦)|ドレッドノート]]」に次で「[[インヴィンシブル級巡洋戦艦|インフレッキシブル]]」級と申して艦種は[[弩級戦艦|弩級]]に属し同時に速力二十五節と云ふ快速の装甲巡洋艦を造りました頃から用いられた語でありまして戰艦の攻撃力と巡洋艦の速力とを併有する艦と云ふたのであります 其の意味から申しますると我海軍の[[筑波 (巡洋戦艦)|筑波]]、[[生駒 (巡洋戦艦)|生駒]]は蓋し巡洋戰艦の元祖であります 唯其時代には左様云ふ語が使はれなかったと云ふ丈であります 此巡洋戰艦と云ふものも元々装甲巡洋艦の一種でありますから茲には便宜上装甲巡洋艦と一緒に御話致します。(以下略)}}{{Efn|name="軍艦変遷、日露戦役"|'''(12)日露戰役の影響'''{{Sfn|石川島技報、軍艦の変遷|1941|p=7b|ps=(原本9頁)(12)日露戰役の影響}} 日本は[[清国海軍|清國海軍]]を殲滅したる以後は、俄に[[ヨーロッパ|歐洲]]の[[三国干渉|三大國を敵とするに至り]]、上記の如き[[六六艦隊計画|戰艦六隻、装甲巡洋艦六隻の建造を急ぎ]]、何れもその性能に於て歐洲各國のものに比し、船體兵器機關の何れかに於て優秀なるものを建造し、日清戰爭後十年にして終に[[ロシア帝国|露國]]と干戈相見ゆるに至つた。即ち我が國は再度最新鋭軍艦の實戰成果を示すことゝなりたる次第である。その日露海戰の教訓は十年前の日清海戰と同様に砲力の増大と同時に防禦力を大にし速力を増加することを必要と認めた。その結果として主力艦はその主砲の威力を増し、中間砲の口徑を大にし6吋砲を10吋砲と代へ、更に進んで主砲と同一ならしめ所謂備砲單一式に進み、英國に於てこの型の第一艦[[ドレッドノート (戦艦)|ドレッドノート號]]が建造され、こゝに弩級戰艦なるもの出現したり。この艦型に至る過程には、我が國の戰艦[[薩摩型戦艦|薩摩級]]が中間砲を10吋砲としたるにヒントを得たり、とは當時英國軍令部長の話である。<br/> 巡洋艦も同一要望により、装甲巡洋艦はその防禦を強化すると同時に、主砲を戰艦と同口徑とし、唯その數を減じ速力は元通り戰艦より優速とし、所謂巡洋戰艦なるもの出現したり。我が國にて日露戰役中建造に着手したる[[筑波 (巡洋戦艦)|筑波]][[生駒 (巡洋戦艦)|生駒]]の[[筑波型巡洋戦艦|姉妹艦二隻]]は即ちこの巡洋戰艦の嚆矢である。のみならずこの二艦は艦首の[[衝角|衝角ラム]]を廢止し水線上を水切り型となす。この艦首の形は夫れ以降我が國は勿論諸外國も總てこれに倣ふことゝとなつた。(以下略)}}。