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[[江戸時代]]の[[大名]]家となった黒田氏には次の2氏がある。
 
==1.[[佐々木氏]]流を称する黒田氏==
[[鎌倉時代]]末期、[[黒田宗満|宗満]]のとき[[近江国]][[伊香郡]]黒田村に住み黒田氏を称する。16世紀初め[[黒田高政|高政]]のとき[[備前国]][[邑久郡]][[福岡 (瀬戸内市)|福岡]]に移って[[赤松氏]]の被官となり、高政の子[[黒田重隆|重隆]]の時に[[播磨国]]姫路に移り家伝の目薬を製造、販売しやがて[[土豪]]として成長したとされる。重隆の子[[黒田職隆|職隆]]が赤松氏の一族[[小寺氏]]に仕えてその養子となり小寺氏を称した。職隆の子[[黒田孝高|孝高]]が[[織田信長]]・[[豊臣秀吉]]に仕えて軍功があり黒田氏に復した。[[1587年]]([[天正]]15年)[[豊前国]][[中津城]]主12万石となる。[[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]で孝高・[[黒田長政|長政]]父子は徳川方につき軍功により[[筑前国]][[福岡城]]主52万石を与えられた。以後代々[[福岡藩]]主となった。[[明治維新]]後は[[侯爵]]に列せられた。
 
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    [[黒田長高|長高]]
 
==2.武蔵七党の一つ丹党の流れをくむ中山氏流の黒田氏==
この黒田氏は元々は[[武蔵七党]]の一つ[[丹党]]の末裔である[[中山氏]]の出身である。中山氏は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]][[後北条氏]]に仕え、後北条氏が滅亡した後には、[[徳川氏]]に属し、ある一族は[[旗本]]となり、また別の一族は[[水戸藩]]の[[附家老]]となった。[[上田七本槍]]の一人[[中山照守]]の曾孫の[[黒田直邦|直邦]]のとき、外祖父で[[館林藩]]主[[徳川綱吉]](のち5代将軍となる)の[[家老]][[黒田用綱]]の[[養子]]となって黒田姓と改め、[[1703年]]([[元禄]]16年)[[常陸国]][[下館藩]]主1万5000石となり、次いで[[上野国]][[沼田藩]]主2万5000石の領主となる。[[1742年]]([[寛保]]2年)[[黒田直純|直純]]のとき[[上総国]][[久留里藩]]3万石に転封となった。明治維新後子爵に列せられた。