「スレブレニツァの虐殺」の版間の差分

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=== ボシュニャク人男性の行軍 ===
スレブレニツァでは、兵役年齢にある身体の健全な男子は、50キロメートル離れたボスニア政府支配地域の[[トゥズラ (ボスニア・ヘルツェゴビナ)|トゥズラ]]まで、セルビア人勢力支配地域を徒歩で移動することを決定した。スレブレニツァへの攻撃が始まる前から既に住民らは疲弊し、食料や武器などあらゆるものが欠乏していた中、2日分の食料とわずかの武器をかき集め、ボシュニャク人の男性やその家族らは、トゥズラを目指すこととなった。行軍に参加した者の総数は1万人から1万5千人と見積もられ、このうちおよそ3分の1が[[ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍]](ARBiH)第28師団に属する軍人、残りの3分の2が民間人であったと見られる<ref name="osa2009-2-3-1-7-5">長有紀枝(2009) pp.149-151</ref>。夏の暑さによって多くのものが[[脱水 (医療)|脱水]]状態に陥り、また3日目からは食料も不足し、食料と飲料の確保は困難を極めた。武器も不足しており、全体の3分の1を占めていた軍人の中でも武装していたのは1000人のみであった、あるいは猟銃などで武装するのみであったとの証言もある。スレブレニツァの周辺にはセルビア人勢力によって敷設された地雷原があり、安全を確保できた経路は人1人分の幅しかなかったため、隊列の長さは12キロメートルから15キロメートルにも及んだ<ref name="osa2009-2-3-1-7-5" />。途中でなんどもセルビア人勢力からの攻撃を受けて多くの者が死傷しており、また攻撃や消耗、セルビア人側への投降などによって隊列から切り離された者の多くが後にスルプスカ共和国軍に捕らえられ、殺害されている。途中、錯乱を起こして仲間に襲いかかったり、自殺を図る者も多数あらわれた。行軍は6日間に及び、最終的にトゥズラまでたどり着くことができたのは全体の3分の1、4000人から6500人程度であった<ref name="NIOD 4-1-1">{{cite web|url=http://srebrenica.brightside.nl/srebrenica/toc/p4_c01_s001_b01.html|title=NIOD Srebrenica Report Part 4, Chapter 1, Section 1, Introduction|publisher=[[オランダ戦争資料研究所|NIOD]]|accessdate=2010-11-13|date=2002}}</ref><ref name="osa2009-2-3-2-5">長有紀枝(2009) pp.171-174</ref><ref name="saraha bosnia 331" />。
 
==== 7月11日:トゥズラ隊の出発 ====
1995年7月11日夕方、ボシュニャク人らの間で、身体の健全な男性は森へ入り、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍第28師団とともに隊列を組み、北のボシュニャク人支配地域へ向かうべきだとする知らせが流れた<ref name="ICTY-IIA7b">ICTY, "[http://www.un.org/icty/krstic/TrialC1/judgement/index.htm Prosecutor vs Krstic, Judgement]", II, A, 7, (b) [http://www.un.org/icty/krstic/TrialC1/judgement/krs-tj010802e-1.htm#IIA7b The Column of Bosnian Muslim Men]</ref>。
[[ファイル:Srebrenica massacre map.jpg|thumb|スレブレニツァ虐殺に関する軍事作戦の図。緑の矢印が脱出するボシュニャク人の行軍隊]]
 
22時ごろ、師団司令部は、スレブレニツァ自治体のボシュニャク人当局者とともに、隊列を組むことを決定した。森を抜けて[[トゥズラ (ボスニア・ヘルツェゴビナ)|トゥズラ]]を目指すほうが、セルビア人勢力の手に落ちるよりも、生き延びられる可能性が高いと考えたためである。行軍隊は村の近くのヤグリツィ(Jaglici)およびシュシュニャリ({{lang|sr|Šušnjari}})で結成された。1995年7月11日の真夜中ごろ、隊列は移動を開始し、[[ブラトゥナツ]]とコニェヴィチ・ポリェ({{lang|sr|Konjević Polje}})の間を北西に向かった。証言によると、1万から1万5千の男性が行軍に加わった。隊列のうち5千人は第28師団の軍人であったが、彼らが全て武装していたわけではなかった。その他、スレブレニツァの政治的指導者や地元病院の医療スタッフ、スレブレニツァの有力者一族などがいた。少数の女性や子ども、老人もこの行軍に加わり、森を歩いた<ref name="sahara bosnia" /><ref name="UNGA"/><ref name="ICTY-IIA7b" /><ref name="NethNIOD 4-WarDocs1-1">[http://193.173.80.81/srebrenica/ "Netherlands Institute for War Documentation"]{{リンク切れ|date=2009年4月}}</ref>。
 
隊列の先頭は第281旅団の兵士とスレブレニツァの有力者らであり、[[ナセル・オリッチ]]の 家族も含まれていた。途中の部分は兵士と民間人が混在しており、末尾は第282旅団の兵士が固めていた。スルプスカ共和国軍は、スレブレニツァのボシュ ニャク人らはポトチャリに逃げこむことを想定し、トゥズラまでの強行突破を図るという事態を想定していなかったため、即座に対応することができず、大きな混乱をもたらした<ref name="osa2009-2-3-1-7-5" /><ref name="NIOD 4-1-7>{{cite web|url=http://srebrenica.brightside.nl/srebrenica/toc/p4_c01_s007_b01.html|title=NIOD Srebrenica Report Part 4, Chapter 1, Section 7, 12 July: the VRS discovers the departure|publisher=[[オランダ戦争資料研究所|NIOD]]|accessdate=2010-11-13|date=2002}}</ref>。隊列の長さは12キロメートルから15キロメートルにも及び、先頭集団が出発したのが7月12日の0時過ぎで、末尾が出発したのは同12日の正午近くとなっていた<ref name="osa2009-2-3-1-7-5" />。
 
==== 7月12日-16日: カメニツァ丘での待ち伏せとサンディチでの虐殺 ====
ボシュニャク人の隊列がトゥズラまでの行軍を始めたことを知ったスルプスカ共和国軍は、急遽、可能な限りの兵力や重火器類を集めて対応を始めた。ボシュニャク人集団がカメニツァ(Kamenica)周辺を前進していた12日の午後8時頃、この集団がトゥズラへ向かうために必ず横断しなければならない舗装道路に、スルプスカ共和国軍が警戒線を敷いて待ち伏せしていた。隊列の先頭を歩いていた集団は、この警戒線が完成しないうちに道路を渡り切ることに成功したが、後続の集団はコニェヴィチ・ポリェ近くでこの道路を横断しようとしたところで、セルビア人の襲撃を受けることになった。隊列は中央で二分され、後続集団は道路を横断できないまま行く手をふさがれ、先頭集団との連絡は絶たれて取り残された。彼らはここに数日間にわたって閉じ込められ、その間、セルビア人側から激しい銃撃、砲撃を受け続けた。また、セルビア人はメガホンを用いて、ジュネーブ条約の順守や捕虜交換が行われる旨を告げ、投降を呼びかけた。彼らは、オランダ軍から奪った国連のヘルメットや青い車両などを用いて安心させるといった手段も用いた。後続集団に対するセルビア人の「人間狩り」によって、ノヴァ・カサバ(Nova Kasava)およびサンディチ(Sandići)では数千人のボシュニャク人が捕獲・投降によってスルプスカ共和国軍に捕らえられ、後に殺害されている<ref name="NIOD 4-1-8">{{cite web|url=http://srebrenica.brightside.nl/srebrenica/toc/p4_c01_s008_b01.html|title=NIOD Srebrenica Report Part 4, Chapter 1, Section 8, 12 July: the VRS deploys heavy weaponry|accessdate=2010-11-13}}</ref><ref name="NIOD 4-1-10">{{cite web|url=http://srebrenica.brightside.nl/srebrenica/toc/p4_c01_s009_b01.html|title=NIOD Srebrenica Report Part 4, Chapter 1, Section 9, 12 July: the first prisoners are taken|accessdate=2010-11-13}}</ref><ref name="osa2009-2-3-2-1-6">長有紀枝(2009) pp.158-160</ref><ref name="osa2009-2-3-2-2-1">長有紀枝(2009) pp.160</ref><ref name="saraha bosnia 331">佐原徹哉(2008)p.331</ref>。
 
道路を渡ることができた一団は、セルビア人による散発的な追撃に応戦しながら前進を続けた<ref name="osa2009-2-3-2-2-1" />。この集団の中では幻覚やせん妄の症状を呈する者が多数現われた。他者に攻撃したり自殺を図る者、その他意味不明の言動を繰り返す者も出ていた。行軍に加わっていた医師は、サンディチでの攻撃で化学兵器が用いられたと直感したと話している<ref name="fink" />。
 
==== 7月13日: ウドルチュ山行軍 ====
道路を横断できた先頭集団は、[[ヴラセニツァ]]市のウドルチュ山を目指して前進した。行軍は夜間、出来る限り森の中を通るようにして進められ、13日の朝にはウドルチュ山のふもとにたどり着き、集団の再編成を図った。はじめ、コニェヴィチ・ポリェでの封鎖を破り後続集団を救出するために、300人の兵士をコニェヴィチ・ポリェへと戻す計画が持ち上がったが、後に計画は撤回される。昼の間、この集団はウドルチュ山で待機し、後続集団を待った<ref name="NIOD 4-1-11">{{cite web|url=http://srebrenica.brightside.nl/srebrenica/toc/p4_c01_s011_b01.html|title=NIOD Srebrenica Report Part 4, Chapter 1, Section 11, 13 July: the journey continues|accessdate=2010-11-13}}</ref>。彼らはその後3日間にわたり、夜間を中心に北を目指して移動を続けた<ref name="osa2009-2-3-2-2-1" />。この過程で、一部の集団ははぐれて[[ツェルスカ]]方面に向かっている<ref name="NIOD 4-1-11" />。
 
==== 7月14日: スナゴヴォ山での待ち伏せ ====
13日の午後16時、ウドルチュ山で休息していたボシュニャク人の集団は、[[グロディ]]({{lang|sr|[[:fr:Glodi|Glodi]]}})方面に向けて行軍を再開した。一行はここから西よりに向きを変えて[[ツァパルデ (オスマツィ)|ツァパルデ]]({{lang|sr|[[:fr:Caparde (Osmaci)|Caparde]]}})へと向かおうとしていたが、セルビア人勢力はそれを予想してその手前のヴェリャ・グラヴァ山({{lang|sr|Velja Glava}})で待ち伏せをしていた。これに気づいたボシュニャク人の集団は、進路を北にとり[[スナゴヴォ]]({{lang|sr|[[:fr:Snagovo|Snagovo]]}})へと向かった。一部の集団ははぐれて、そのままツァパルデへ向かい、セルビア人の警戒線に正面から突っ込んでいってしまった<ref name="NIOD 4-1-11" />。隊列の主部はスナゴヴォに到達し、さらにリプリェ({{lang|sr|Liplje}})およびマルチチ({{lang|sr|[[:fr:Marčići|Marčići]]}})の近くへ移動した。セルビア人側の予想よりも東寄りの進路をとったことは、スルプスカ共和国軍の意表をついたものであり、ボシュニャク人の進路からわずか数キロメートル東にある[[ズヴォルニク]]がボシュニャク人に攻撃されるおそれを抱かせた。セルビア人はマルチチ付近で再び警戒線を張り、さらに警察官や兵士をかき集めて待ち伏せを図った。7月14日の夕方、ボシュニャク人の集団はセルビア人勢力の襲撃を受け、大規模な戦闘が起こった。日が変わって7月15日の午前4時30分頃にも、再度セルビア人による攻撃が行われた。戦闘のさなかに、ボシュニャク人の隊列はスルプスカ共和国軍の指揮官、ゾラン・ヤンコヴィッチ({{lang|sr|Zoran Janković}})少将を捕獲し、また武器や物資を獲得した<ref name="NIOD 4-1-13">{{cite web|url=http://srebrenica.brightside.nl/srebrenica/toc/p4_c01_s013_b01.html|title=NIOD Srebrenica Report Part 4, Chapter 1, Section 13, 15 July 1995|accessdate=2010-11-13}}</ref>。
 
==== 7月15日: 前線への接近 ====
14日の大規模攻撃で先頭集団からはぐれた一団を救出するために、一部の兵士が後方に残ることとなった。[[7月15日]]の夕方、第28師団は、スルプスカ共和国軍から奪った[[ウォーキートーキー]]を用い、トゥズラを拠点とするボスニア・ヘルツェゴビナ政府軍・第2軍団との通信に成功した。第2軍団ははじめは通信相手が第28師団であるとは信じなかったが、シャビッチ({{lang|sr|Šabić}})兄弟が互いを認識できたことにより、それぞれがセルビア人勢力との前線の前後にいることが確認された<ref name="NIOD 4-1-13" />。
 
ボシュニャク人の先頭集団は7月15日の夜8時ごろ、ボスニア政府支配地域主部とセルビア人勢力の前線となっているバリコヴィツァ({{lang|sh|Baljkovica}}, {{coord|44|27|N|18|58|E|name=Baljkovica|type:city}})前線までわずか数キロメートルのところにある、クリジェヴィチ({{lang|sr|Križevići}})に到達した。また、14日の大規模攻撃で先頭集団からはぐれた一団はリプリェ周辺に留まった。ウォーキートーキーの獲得により、スルプスカ共和国軍との直接の交渉も可能となった。第28師団は、拘束したヤンコヴィッチを交渉材料としてスルプスカ共和国軍のズヴォルニク旅団と連絡をとった。ズヴォルニク旅団の司令官ヴィンコ・パンドゥレヴィッチ({{lang|sr|Vinko Pandurević}})は、ボシュニャク人のトゥズラへの安全な移動を保証するとし、そのための時間的猶予を求めた。しかしこれは、セルビア人側が総攻撃を仕掛けるための時間稼ぎであり、ズヴォルニク旅団は繰り返し待機を求めた後に降伏を要求した<ref name="NIOD 4-1-13" />。
 
==== 7月16日: バリコヴィツァ前線突破 ====
バリコヴィツァ前線では、ボシュニャク人集団とボスニア政府支配地域とを遮断するように、スルプスカ共和国軍ズヴォルニク旅団所属の「ドリナの狼」が布陣していた。この部隊はズヴォルニク旅団の一員としてスレブレニツァの攻撃に参加していたが、第28師団の脱出の判明により他のズヴォルニク旅団部隊と共に追撃の為に投入されていた。ここでボシュニャク人集団はセルビア人側戦闘指揮所を襲撃して戦車2台と20mm機関銃を奪取し、3つのセルビア側塹壕線の内最初の1本を突破する。その後ボシュニャク人集団はボスニア政府軍第2軍団に対し、前線突破のために「ドリナの狼」への牽制攻撃を要請したが、目立った攻撃は確認されなかった。しかし、ボシュニャク人集団を先導する第28師団の元司令官[[ナセル・オリッチ]]が義勇兵を率いてボスニア政府地域側から「ドリナの狼」を攻撃、前線にわずかながらの空白を生むことに成功する。ボシュニャク人集団はこの間隙を突いて前線を突破するために最後の攻撃を行うことを決断した。集団側は自殺用の分を含め手持ちの武器弾薬すべてをかき集め第28師団将兵を先頭にオリッチ配下の義勇兵中隊と連携して「ドリナの狼」を攻撃、挟撃を受けた「ドリナの狼」の損害は著しく、ズヴォルニク旅団司令官パンドゥレヴィッチは独断で攻撃の中止命令を下した。これまでに、ズヴォルニク旅団は第28師団の追撃と同時に処刑前のボシュニャク人3000人の収容施設の捜索と確保まで命じられており、パンドゥレヴィッチ司令官は上層部に抗議していた。「ドリナの狼」が体制の立て直しを完了するまでの間、バリコヴィツァ前線に回廊を開くことになり、ボシュニャク人集団はそこを伝って最後の前線を突破した。この時点でボシュニャク人集団の人数は4000人から6500人にまで減少していた<ref name="事務総長報告">UN Doc A54/549,supra,note 1,para 386</ref><ref name="osa2009-2-3-2-5">長有紀枝(2009) pp.171-174</ref><ref name="saraha bosnia 331" /><ref name="NIOD 4-1-14">{{cite web|url=http://srebrenica.brightside.nl/srebrenica/toc/p4_c01_s014_b01.html|title=NIOD Srebrenica Report Part 4, Chapter 1, Section 14, 16 July: the breakthrough at Baljkovica|accessdate=2010-11-13}}</ref>。
 
==== 7月16日: トゥズラへの到着 ====
==== 7月16日: 回廊の閉鎖 ====
==== 他のグループ ====
 
=== スレブレニツァにおける男性市民殺害計画 ===
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=== 大量殺害 ===
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==== 7月13日: ブラトゥナツ旅団本部 ====
==== 7月13日朝: ヤダル川 ====
==== 7月13日午後: ツェルスカ渓谷 ====
==== 7月13日夕方: クラヴィツァ農業倉庫 ====
==== 7月13日-14日: ティシュチャ ====
==== 7月14日: グルバヴツィおよびオラホヴァツ ====
==== 7月14日-15日: ペトコヴィチ ====
==== 7月14日-15日: ロチェヴィチ ====
==== 7月14日-15日: クラ ====
==== 7月14日-17日: コズルク ====
==== 7月14日-16日: ブラニェヴォ農場 ====
==== 7月14日-16日: ピリツァ文化会館 ====
==== 7月13日-18日: ブラトゥナツ=コニェヴィチ・ポリェ道路 ====
==== 7月18日-19日: ネズク=バリコヴィツァ前線 ====
==== 7月19日-20日: ズヴォルニク旅団本部 ====
==== 7月20日-22日: メツェス地域 ====
==== 7月22日: スナゴヴォ ====
==== 7月-8月: トゥルノヴォ ====
=== 虐殺後 ===
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==== さまよう人々 ====
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==== ズヴォルニク7 ====
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== 脚注 ==
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== 参考文献 ==