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'''ライスシャワー'''は[[日本]]の[[競走馬]]。1992年の[[菊花賞]]、1993年・1995年の[[天皇賞]](春)など、[[中央競馬]]の長距離[[競馬の競走格付け|GI競走]]に優勝した。また、菊花賞と1993年の天皇賞(春)では、それぞれ[[ミホノブルボン]]の[[中央競馬クラシック三冠|クラシック三冠]]、[[メジロマックイーン]]の同競走
*記事中の[[馬齢]]はすべて2000年以前に使用された旧表記([[数え年]])とする。
== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
1989年3月、[[栗林商船|栗林運輸]]会長の栗林英雄が[[北海道]][[登別市]]に所有するユートピア牧場に生まれる。
=== 戦績 ===
==== デビューから東京優駿まで ====
[[重賞]]初出走となった2戦目の[[新潟2歳ステークス|新潟3歳ステークス]]では、水野が前日に騎乗停止処分を受けたことから急遽[[菅原泰夫]]が代役を務めた<ref name="rice2">『名馬列伝ライスシャワー』pp.20-21</ref>。当日は3番人気に推されたが、スタートで遅れて後方からのレースとなり、馬群の内側に包まれたまま11着と敗れた<ref name="rice2" />。3戦目に格上挑戦で出走した芙蓉ステークスでは騎手が水野に戻ると、最後の直線入り口で先頭に立ってから、1番人気アララットサンとの競り合いを制し、2勝目を挙げた<ref>柴田(1998)p.74</ref>。この競走後に右前脚の骨折が判明。全治3ヶ月と診断され、トレーニングセンター内での療養が図られた<ref>柴田(1998)p.76</ref>。
翌[[1992年]]3月29日、4歳となったライスシャワーは[[皐月賞]]への[[トライアル競走]]・[[スプリングステークス]]で復帰する。若手の水野では荷が重いとの判断から、ベテランの[[柴田政人]]が騎乗した<ref name="rice3">『名馬列伝ライスシャワー』pp.24-25</ref>。的場均にも声が掛けられていたが、的場は先約があるとの理由でこれを断っている<ref name="rice4">『名馬列伝ライスシャワー』pp.26-27</ref>。この競走で[[ミホノブルボン]]と初対戦したが、同馬が2着に7馬身差をつけて勝利した後方で4着となった。柴田政人は「この勝負ではミホノブルボンとの差は決定的だが、この先体調も良くなり、レースの距離も伸びれば、かなりいいところまで行く馬だと思ったよ。ぼくはもう皐月賞、ダービーに乗る馬が決まっていたんで、この馬に乗るのは多分この1回だけと思ったけど、もう乗らないのが惜しい気持ちになったもの」と述懐している<ref name="rice3" />。
次走・クラシック初戦の皐月賞より、的場均が騎手を務めた。この競走では最終コーナー手前から失速し、ミホノブルボン優勝の後方で8着<ref name="rice4" />、[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]へのトライアル競走・[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]でもやはり8着となった。的場はこの結果について「最初から過度の期待はしていなかった」とし、「このままじゃ本番(ダービー)も苦しいかなと、相手の実力を比較して考えました」と述べている<ref>『名馬列伝ライスシャワー』pp.28-29</ref>。5月31日に迎えた日本ダービーでは18頭立て16番人気の評価だったが、最終調教でライスシャワーの調子が上がっていることを感じた的場は「いい位置で粘りきることが、馬の力を引き出す一番の方法だと思って」逃げたミホノブルボンに続く2番手でレースを進めた<ref>『名馬列伝ライスシャワー』pp.30-31</ref>。最後の直線ではミホノブルボンとの差を詰めることができず、後方から追い込んできた[[マヤノペトリュース]]([[田原成貴]]騎乗)に一旦は交わされたが、最後に失速した同馬を差し返す形となり2着で入線。ミホノブルボンとの馬連配当2万9580円という波乱の立役者となった。的場は「もし田原騎手が『ブルボンを負かすのは無理』と、照準をブルボンではなく僕らに向けて2着狙いできていたら、おそらく楽に捉えられてしまっただろうし、そういう意味では、この2着はラッキーであったかもしれない」としながらも、「日が経つにつれて『この馬で、あのミホノブルボンに、三冠最後の菊花賞で何とか立ち向かいたい』という気持ちが、僕にも強く湧いてきた」と述懐している<ref>的場(2001)p.129</ref>。
==== ミホノブルボンのクラシック三冠を阻止 ====
夏は休養のため大東牧場で過ごし、7月下旬に帰厩<ref>柴田(1998)pp.93-97</ref>。9月24日に[[セントライト記念]]で復帰した。この日、的場は[[函館2歳ステークス|函館3歳ステークス]]に出走する[[インターマイウェイ]]に騎乗するため[[函館競馬場]]におり<ref name="rice4">『名馬列伝ライスシャワー』pp.34-35</ref>、鞍上には代わって[[田中勝春]]を迎えた。レースはミホノブルボンの僚馬[[レガシーワールド]]が先行し、ライスシャワーは第3コーナーからこれを捉えに動いたが、アタマ差届かす2着となった<ref>『名馬列伝ライスシャワー』pp.32-33「</ref>。ライスシャワーに騎乗せず函館に行った的場に、飯塚は「ダービー2着馬をふった」と不快感を示し、競走後には騎手交替が取り沙汰されたが、これを知った的場が飯塚に謝罪したことで事態は収拾し、主戦騎手は的場のまま据え置かれた<ref name="rice4" />。的場はこの件について「ライスシャワーはもう必要な教育がすべてできているので、ある意味では誰に手綱を譲っても安心である。しかし、若馬はそうはいかない。もしも何かのきっかけでレースが嫌いになったら、悪い癖がついたら……。能力がある馬でも、それを出し切れないまま終わってしまうかもしれない。どうしても僕らは心配性になってしまうし、先々を考えて選択したつもりだった」と述べている<ref>的場(2001)p.121</ref>。騎手が的場に戻った次走・[[京都新聞杯]]ではミホノブルボンと4度目の対戦となり、同馬に次ぐ2番人気に支持された。結果はミホノブルボンから1馬身半差の2着となり4連敗を喫したが、菊花賞はライスシャワーに向き、ミホノブルボンには不向きな3000メートルの長距離となることから、的場、飯塚ともに本番での逆転に自信を深めたという<ref name="rice4" />。
年末にはグランプリ競走・[[有馬記念]]に出走し、[[トウカイテイオー]]に次ぐ2番人気に推された。しかし、的場が後方に位置したトウカイテイオーの不調に気付かずスパートが遅れる結果となり、8着に終わった<ref group="注">トウカイテイオーは11着。</ref>。的場はこの競走について「僕が乗った中で、ライスシャワーに対して最も失礼なレースだった」と述べている<ref>的場(2001)p.133</ref>。
==== メジロマックイーンの天皇賞(春)3連覇を阻止 ====▼
[[古馬]]となった翌1993年は天皇賞(春)を目標に据え、[[目黒記念]]より始動。[[負担重量]]は59kgと過去最高であったが、的場は天皇賞制覇のために「自力で勝負できる"格"」が必要であると考え、相手を菊花賞3着馬の[[マチカネタンホイザ]]に定め、これを自力で追走し差し切る競馬を試みた<ref name="rice6">『名馬列伝ライスシャワー』pp.40-41</ref>。結果は2馬身半離されての2着であったが、調整途上でもあり陣営には納得のいく内容であった<ref name="rice6" />。続く[[日経賞]]で初めて1番人気の支持を受け、これに応えての勝利を挙げた。
次走はかねて目標としていた天皇賞(春)となり、当日に向けて非常に厳しい調教が課された。この競走を2連覇中であった[[メジロマックイーン]]を意識してのものであったが、「馬を虐め過ぎではないか」との批判が上がり、「メジロマックイーンに勝つ前に馬が潰れる」と揶揄されたほどの過酷な内容であった<ref>柴田(1998)p.142</ref>。しかしこの調教が功を奏し、天皇賞当日は前走から12kg減・東京優駿以来となる430kgと、限界まで絞り込んだ馬体での出走となった。このときのライスシャワーの状態について、的場は「なにか猛獣というか、すごい生命体というか、そばに近づいたときから、火でも吹かれるんじゃないかって、そんな恐ろしいような雰囲気がありましたが、乗ったらもう、馬じゃない別の生き物でしたよ。これで下手に怒らせたら、指や足を食いちぎられるんじゃないかと思ったぐらい」と述べ<ref name="rice5">『名馬列伝ライスシャワー』pp.44-45</ref>、また飯塚は「当日馬を見たとき、これは凄い、と思ったよ。走るという気力というか、迫力というか。見た目にはそれまでと特別変わっていないんだが、内から溢れ出るものがすごいんだ。このとき初めて、今日は勝つ、と確信したよ」と述べている<ref name="rice5" />。また[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列放送で実況を担当した[[杉本清]]は「この時のライスの身体は、まさに研ぎ澄まされた鋼のようでした」と述べている<ref>杉本(1995)p.133</ref>。
当日はメジロマックイーンに次ぐ2番人気に支持された。レースは前年の有馬記念を制した[[メジロパーマー]]が逃げ、マックイーンはこれを見る一団の中に位置、さらにライスシャワーがその直後につけた。周回2周目の最終コーナーでは完全にこの3頭が抜け出したが、直線半ばでメジロマックイーンをライスシャワーが捉えると、ゴールでは2馬身半の差を付けて優勝。同馬の天皇賞(春)三連覇および鞍上・武豊の五連覇を阻止した。走破タイム3分17秒1は菊花賞に続き再びのレコードタイムであった。ゴールの直後、杉本清は「関東の刺客、ライスシャワー。天皇賞でも圧倒的な人気のメジロマックイーンを破りました」と実況<ref name="shibata5">柴田(1998)p.155</ref>。この競走以降、ライスシャワーには「刺客」という異名も冠された<ref name="shibata5" />。
なお、的場はライスシャワーを悪役・敵役とする見方に不快感を抱いていたといい、自著の中で次のように述べている。
{{Quotation|確かに僕らはミホノブルボンの三冠を阻止し、メジロマックイーンの天皇賞三連覇を阻んだ。アイドルホースたちが歴史的偉業を達成する瞬間を邪魔してばかり、そんな印象なのだろうか。しかし、競走馬と勝負師が勝ちにいっているのだ。そこには悪役も何も、ないはずである。<br /><small>''(中略)''</small>メジロマックイーンのときもそうだった。《関東の刺客》とか《マーク屋》とか言われるのは、決して気持ちのいいものではない。「こっちの気も知らないで……」と僕などは思ってしまう。<br />僕らは勝つために、最大限の努力をしている。その努力には、さまざまな思いや戦略が、たとえひとつでも違っていたら勝利を勝ち取ることなどできないほどの緊密さ、複雑さで絡み合っている。そのあたりをこそ見てほしいのだ。それこそが勝負の面白さ、レースの面白さでもあると僕は思う。<br />アイドルだとか悪役だとか、馬たちを擬人化しては、ドラマ仕立てで眺めるのも競馬のひとつの楽しみ方なのかも知れないが、そうした見方では決して感じ取れない、ずっと奥の深い、面白い世界が、そこには広がっているはずである<ref>的場(2001)p.138</ref>。}}
==== スランプ ====
天皇賞後は放牧に出され、9月初頭に帰厩<ref>『名馬列伝ライスシャワー』pp.46-47</ref>。秋緒戦の[[オールカマー]]では1番人気に支持されたが、道中で後続を大きく離して逃げた[[ツインターボ (競走馬)|ツインターボ]]を捉えられず、勝った同馬から6馬身弱の差で3着となる。春秋連覇を目指した天皇賞では再度1番人気となったが6着と敗れ、以後[[ジャパンカップ]]、有馬記念も14着、8着と大敗した。飯塚は当時の状態について「見た目は普通、というか、春とほとんど変わらないデキなんだが……。どこか足りないというか、本当じゃない。調教も走るし、内臓だってまるで悪いところはない。そうなると、精神的な原因ということを考えたが、それがなにかわからない。そういう状態が、このシーズンずっと続いた」と述べている<ref>『名馬列伝ライスシャワー』p.50</ref>。
翌1994年の初戦は、関西の競馬場が合っているのではないかという飯塚の考えにより、西下して[[京都記念]](阪神競馬場)に臨んだ<ref name="rice7">『名馬列伝ライスシャワー』pp.54-55</ref>。結果は前年の菊花賞馬[[ビワハヤヒデ]]の5着となったが、的場によると「直線の動きは一瞬あれっ、というところがあり、もうひと追いすれば伸びる予感があった。長いスランプだったけど、ここらあたりがトンネルの出口かとも思った」という<ref name="rice7" />。京都記念の後には状態の向上が見られ始め<ref>『名馬列伝ライスシャワー』pp.56-57</ref>、関東に戻っての日経賞では最後の直線で先頭に立ち、差し込んできた[[ステージチャンプ]]にハナ差の2着と、復活の兆しを見せた。
しかし、天皇賞(春)連覇を目指しての調教中、3歳時に骨折した右前管骨を再び骨折を生じる。3歳時とは異なり競走生命を危ぶまれた重傷であり、この時点で引退が検討され、[[種牡馬]]となる道が模索された<ref>柴田 p.181</ref>。しかし長距離競走以外の実績に乏しかった点や、小柄な馬体が敬遠され受け入れ先が見つからず、現役続行が決定する<ref>柴田 p.182</ref>。その後はユートピア牧場に移動して療養、当初予想された以上に早期での快復を見せ、10月末に帰厩を果たした<ref>柴田 pp.188-192</ref>。2ヶ月後に迎えた復帰戦の有馬記念では、この年史上5頭目のクラシック三冠を達成した[[ナリタブライアン]]、当時最強牝馬と評されていた[[ヒシアマゾン]]に続く3着となった。しかし[[1995年]]の年明け2戦ではいずれも1番人気に推されたが、それぞれ60kg、59kgという斤量も響き<ref>柴田 pp.199-201</ref>、いずれも6着と敗れた。▼
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2ヶ月後には復帰戦の有馬記念を迎えた。この年史上5頭目のクラシック三冠を達成した[[ナリタブライアン]]、当時最強牝馬と評されていた[[ヒシアマゾン]]に続く3着となった。しかし[[1995年]]の年明け2戦ではいずれも1番人気に推されたが、それぞれ60kg、59kgという斤量も響き<ref>柴田 pp.199-201</ref>、いずれも6着と敗れた。
==== 2年ぶりの復活 ====
2年振りの出走を決定した[[天皇賞(春)]]では、前哨戦の[[阪神大賞典]]を圧勝していたナリタブライアンが故障により回避
かつて[[福永洋一]]が[[ニホンピロムーテー]]を駆り、似た作戦で菊花賞を制した前例はある<ref>的場(2001)p.148</ref>ものの、京都競馬場の長距離戦で第3コーナーから仕掛けることはセオリーを無視した騎乗とされており、的場はスパートを実行するまでゴール直前で誰かに差される光景を思い浮かべ、言い訳の言葉も考えていたという<ref name="rice8" />。的場は後に「あの騎乗は、もしライスシャワーが絶好調だったら絶対に選ばなかった乗り方だ。でもそのまま無難にのっていたら、おそらく着がいいところだったと思う。勝つ確率が、あの乗り方なら少しは高くなる。その一点に賭けて、僕らは勝ちに行ったのだ」と述べている<ref>的場(2001)p.151</ref>。
==== 宝塚記念 ====
天皇賞の
当日は3番人気に支持され、レースでは後方を進んだ。
=== 死後 ===
[[ファイル:Rice Shower monument.jpg|thumb|250px|京都競馬場内のライスシャワー記念碑
その死後、この年の[[JRA賞]]において「[[JRA賞特別賞|特別賞]]」が贈られた。また京都競馬場の職員たちの発案により、翌1996年
2010年の菊花賞当日に行われた「京都クラウンプレミアム」の競走名は、歴代菊花賞優勝馬を対象としたファン投票の結果「ライスシャワーメモリアル」となり<ref>{{Cite web |url=http://www.sponichi.co.jp/gamble/special/race/2010kiku/KFullNormal20100928097.html |title=菊花賞当日の最終は「ライスシャワーM」 |author= |publisher=[[スポーツニッポン|Sponichi Annex]] |accessdate=2013年4月22日 |date=2010-9-28}}</ref>、当日にはライスシャワーへのメッセージが募集され、それらは競走後にユートピア牧場のライスシャワーの墓前に供えられた<ref>{{Cite web |url=http://www.jra.go.jp/facilities/race/kyoto/news/20101125.html |title=ジョッキーチャリティーオークション及びライスシャワー号メッセージ受付へのご協力ありがとうございました! |author= |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2013年4月22日 |date=2010-11-25}}</ref>。
{{-}}
== 競走成績 ==
{| style="font-size: 90%; text-align: center; border: 0; border-collapse: collapse;"
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※タイム赤字はレコード(当時)
== 競走馬としての特徴・評価 ==
勝利した3つのGI競走は全て3000メートル以上の距離だったがことから、純然たるステイヤー(長距離向きの馬)であるとされる。競馬評論家の[[大川慶次郎]]は「ヘビーステイヤー」と呼び<ref>柴田(1998)p.222</ref>、競走番組が年々短・中距離偏重に向かっていたことから「最後のステイヤー」とも<ref>『名馬列伝ライスシャワー』p.132</ref><ref>渡辺(2004)p.46</ref>呼ばれた。飯塚好次は5歳秋以降の不振について、「ひとつの問題としては、やはり出るレースの距離が合わなかった」と述べている<ref name="yushun199510" />。一方、的場均は「あの馬が3000じゃないと走らないとかいうのは、人が勝手に言ってること<ref name="rice11">『名馬列伝ライスシャワー』p.108</ref>」、「2000メートルのレースでも、もし万全の状態で出ていれば十分勝負になるのがこの馬<ref>的場(2001)p.141</ref>」と述べている。
また、日本中央競馬会が発行したポスター「ヒーロー列伝」のキャッチコピーが「[[淀]]を愛した、孤高のステイヤー<ref group="注">淀=京都競馬場の俗称。競馬場が所在する地域の名称に由来する。</ref>」とされているように、京都競馬場を得意とした馬とも見られていた。京都競馬場におけるライスシャワーの優位性について、的場は次のように述べている。
{{Quotation|京都競馬場は「ライスシャワーに合っていた」というより、他の馬だと御すだけで苦労するところを、この馬は問題を起こさないぶん有利になるという感じだった。<br />京都の場合、上り、下りやアンジュレーションをどうこなすのかが全体的な問題になってくる。普通の馬の場合は、上りや下りになると力んでしまうので、ここでは力んじゃいけないんだぞ、と手綱を通じてなだめてやらなくてはならない。<br />でも、ライスシャワーの場合はそうした必要がまったくない。こちらが指示しないことは、絶対にやらないのだ。要らないところで力んだりしないし、騎手が、<br /> 「ここでは、これだけ走ってくれ」<br />と、伝えた分だけしか走らないという、まったくもって器用な芸当を難なくこなしてみせるのだ。<br />余計なことは一切しない。それこそ、手綱で指示しなくてもこちらが思うだけで通じる、すばらしく賢い馬だった<ref>的場(2001)p.146</ref>。}}
== 死の影響 ==
=== 「高速馬場」への批判 ===
宝塚記念施行前の京都競馬場は、2週間で3つのコースレコードが出るなど非常に馬場が固く締まった状態にあった。また、前日のメインレースの[[阪急杯]]でもバンブーユージンが故障し、安楽死処分となった。これ以前からJRA主催競馬場の馬場は固すぎるのではないかという批判があり、ライスシャワーの骨折はこの「高速馬場」に原因があったとして、レース後に非難の声が上がっ
また同誌上でイギリス人騎手[[アラン・ムンロ]]に行われたインタビューでは、記者から「日本は馬場が硬すぎる」などの批判が国内であることを聞かされたムンロが「馬場のことについて言えば、日本の馬場が他の国に比べてとくに硬いというようなことはありません。アメリカなどはどこへ行っても硬いし、だから骨折なんて日常茶飯事です。もちろんイギリスにだって硬い馬場はあります。だからそういうことを言う人がいるのなら、その人はたぶん馬場のこととか、世界の競馬のこととかをよく分かっていないのだと思います」と述べた<ref>『優駿』1995年11月号、pp.57-58</ref>。
=== 「ライスシャワーブーム」と批判 ===
天皇賞での復活劇から高まりつつあったライスシャワーの人気は、死を契機として頂点に達し、京都競馬場の記念碑建立等の一因となった。一方、この現象についてはライスシャワーの死が過剰に美化されているとの意見が存在し
また、[[須田鷹雄]]は執筆各誌で不快感を露わにし、その理由として「それは要するに、利己的な目的のために過ぎないからだ。悲劇に酔うためにライスシャワーを利用した。そう断定してもいいと思う。だって、元気で走っている頃、ファンはどれだけライスシャワーに思い入れを抱いていただろうか?『ブーム』には明らかに基盤になるものがない」と述べた<ref>『名馬列伝ライスシャワー』p.125</ref>。また、一部ファンからの非難が厩舎関係者に及んだため、須田はこうしたファンに対し「(ファンの感傷に)本物の関係者を巻き込むな」と批判した<ref name="suda">『競馬名馬&名勝負読本』 pp.230-231</ref>。さらに「ライスシャワー報道のひとつひとつが、驚くほど似たテイストで統一されているのはどうしてなのか」「[[経済動物]]論のように、本来競馬を支えている基本理念みたいなものが罪悪視されている状況はどうなのか」とマスコミも同時に批判し、一連の「ライスシャワーブーム」を「[[全体主義]]的」と評した<ref name="suda" />。記者の片山良三は、「志半ばで散ったライスシャワーを『かわいそう』と感じるのはファンなら当然のことで、競馬雑誌のファンの声欄にそうした意見が溢れるのは健全な流れ。しかし、ジャーナリズムに携わる人間までがセンチメンタリズムに流されるのはいかがなものだろう。『君のことは一生忘れない』式の文章が氾濫したことしたこと。そんな"敬語"を使えば馬のことを親身に思っていると錯覚させるようなテクニックは、プロの文章家のものとしては見苦しく感じられた<ref>『ダビスタコミック 3R』p.63</ref>」とマスメディアを批判した。
日本中央競馬会が2000年に行ったファン投票による名馬選定企画「[[Dream Horses 2000|20世紀の名馬大投票]]」では、13442票を集め11位にランクインした<ref>『優駿』2000年10月号、p.21</ref>。結果についての講評会の席上では、[[吉沢譲治]]が「一番おどろいた」結果としてライスシャワーの順位を挙げ、「どうしてもこの馬が11位の馬とは思えないんです。もっともっと上位に来るべき馬がいると思います。これはちょっと納得できないですね」と述べた<ref name="yushun200010">『優駿』2000年10月号、p.115</ref>。これに対し聞き手の結城恵助は「非業の死を遂げたという影響がある」とし、他にも競走中の事故が原因で死亡した馬が数々ランクインしていることを取り、作家の[[吉川良]]はこれを「日本人的美徳」と評した<ref name="yushun200010" />。
== 血統表 ==
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== 参考文献 ==
*松永郁子『名馬は劇的に生きる』(講談社、2000年)ISBN 978-4062102803
▲*柴田哲孝『ライスシャワー物語』(祥伝社ノン・ポシェット、1998年)
*的場均『夢無限』(流星社、2001年)ISBN 978-4947770035
*[[井口民樹]]「ライスシャワー - 淀に咲き、淀に散ったステイヤー」(日本中央競馬会『[[優駿]]』2001年7月号所収)▼
*『競馬名馬&名勝負読本』(宝島社、1996年)978-4796692533
*月本裕「ライスシャワー - 小さなヘビーステイヤー」(『サラブレッド101頭の死に方(文庫版)』〈徳間書店、1998年〉所収)▼
**北野海人「ステキな悪役ライスシャワーの殉職」
**須田鷹雄「ライスシャワー伝説はこれでいいのか?」
*[[アスキー (企業)|アスキーコミックス]]編集部(編)『ダビスタコミック 3R』(アスキー、1995年)ISBN 978-4756111715
**片山良三「ライスシャワーの選択」
*[[コーエーテクモホールディングス|光栄]]出版部(編)『名馬列伝 ライスシャワー』(光栄、1995年)ISBN 978-4877193188
**渡辺敬一郎「ライスシャワー全成績」
**須田鷹雄「外野からの祝福」
**「的場騎手インタビュー」
*『優駿』1995年9月号(日本中央競馬会)
**辻谷秋人「全国10場『馬場』レポート 中山/京都」
*『優駿』1995年10月号(日本中央競馬会)
**「オーナー、調教師が語るMemory of RICE SHOWER」
*『優駿』1995年11月号(日本中央競馬会)
**「優駿ロングインタビュー アラン・ムンロ騎手『ステッキと好奇心を携えて』」
*『優駿』2001年7月号(日本中央競馬会)
== 外部リンク ==
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