「関東大震災」の版間の差分

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*[[本庄事件 (1923年)|本庄事件]]
 
=== 朝鮮人暴動に関する事件とおよび流言による騒動 ===
[[ファイル:Osaka-AsahiShinbun (September3-1923).jpg|thumb|150px|朝鮮人が暴徒となって放火していると伝える[[朝日新聞|大阪朝日新聞]](1923年9月3日号外)]]
[[ファイル:Caution1923 NeverSpreadFalseRumors.jpg|thumb|150px|デマを流す者に対して警告する警視庁のビラ]]
[[ファイル:関東一帯を騒がした鮮人暴動の正体はこれ 放火殺人暴行掠奪につぎ橋梁破壊も企てた不逞団1.jpg|thumb|150px|記事差し止め解除を受けて朝鮮人の事件を伝える[[時事新報|東京時事新報]](1923年10月22日)]]
混乱するメディア情報の中には、「内[[在日韓国・朝鮮人|朝鮮人]]が暴徒化<ref>[[関東大震災犠牲同胞慰霊碑]]を参照</ref>した」「井戸に毒を入れ、また放火して回っている」というものもあった。流言こうした報道の数々が[[9月2日]]から[[9月6日]]にかけ、大阪朝日新聞、東京日日新聞、[[河北新聞]]で報じられており、大阪朝日新聞においては、9月3日付朝刊で「何の窮民か 凶器を携えて暴行 横浜八王子物騒との情報」の見出しで、「横浜地方ではこの機に乗ずる不逞鮮人に対する警戒頗る厳重を極むとの情報が来た」とし、3日夕刊(4日付)では「各地でも警戒されたし 警保局から各所へ無電」の見出しで「不逞鮮人の一派は随所に蜂起せんとするの模様あり・・・」と、警保局による打電内容を、3日号外では東朝(東京朝日新聞)社員甲府特電で「朝鮮人の暴徒が起つて横濱、神奈川を經て八王子に向つて盛んに火を放ちつつあるのを見た」との記者目撃情報が掲載されている。
 
こうした情報の信憑性については、早くも2日以降、官憲や軍内部において疑念が生じ始め、2日に届いた一報に関しては、第一師団(東京南部担当)が検証したところ虚報だと判明、3日早朝には流言にすぎないとの告知宣伝文を市内に貼って回っている<ref>『東京震災録』 東京市役所編・刊、1926年、P292、303、305</ref>。5日になり、見解の統一を必要とされた官憲内部で、精査の上、戒厳司令部公表との通達において
{{Cquote|不逞鮮人については三々五々群を成して放火を遂行、また未遂の事件もなきにあらずも、既に軍隊の警備が完成に近づきつつあれば、最早決して恐るる所はない。出所不明の無暗の流言蜚語に迷はされて、軽挙妄動をなすが如きは考慮するが肝要であろう}}
と公表<ref>報知新聞1923年9月5日号外</ref>。「朝鮮人暴動」の事実を肯定するも流言が含まれる旨の結論が出された。8日には、東京地方裁判所検事正南谷智悌が一部情報を流言内容を否定する見解を公表、併せて「(朝鮮人による)一部不平の徒があって幾多の犯罪を敢行したのは事実である」とし、中には婦人凌辱もあったと談話の中で語った<ref>報知新聞1923年10月20日</ref>。一部の流言については[[1944年]](昭和19年)に警視庁での講演において、[[正力松太郎]]も、当時の一部情報が「虚報」だったと発言している<ref>[[石井光次郎]]『回想八十八年』カルチャー出版刊、1976年発行</ref>。
;戒厳令発布
[[警視総監]]・[[赤池濃]]は「警察のみならず国家の全力を挙て、治安を維持」するために、「衛戍総督に出兵を要求すると同時に、警保局長に切言して」[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]・[[水野錬太郎]]に「[[戒厳令]]の発布を建言」した。これを受けて[[内務省 (日本)|内務省]][[警保局]](局長・[[後藤文夫]])が各[[地方長官]]に向けて以下の内容の警報を打電した。
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と“朝鮮人による火薬庫放火計画”なるものが伝えられた<ref>『現代史資料 第6巻-関東大震災と朝鮮人』[[みすず書房]]</ref>。
;自警団との衝突
実際、当時の混乱の中、大衆の多くが“暴徒と化した朝鮮人”を恐れ、[[自警団]]との衝突も発生した。そのため、朝鮮人や[[中国人]]なども含めた死者が出た。朝鮮人かどうかを判別するために[[国歌]]を歌わせたり<ref name="草鹿反省177">草鹿『一海軍士官の反省記』177頁</ref>、警官手帳を持った巡査が憲兵に逮捕され偶然いあわせた幼馴染の海軍士官に助けられたという逸話もある<ref>草鹿『一海軍士官の反省記』177-178頁</ref>。当時[[早稲田大学]]在学中であった後の大阪市長[[中馬馨]]は、叔母の家に見舞いに行く途中群集に取り囲まれ、下富坂警察署に連行され「死を覚悟」する程の暴行を受けたという<ref>中馬馨『市政に夢を』大阪都市協会([[昭和]]47年([[1972年]]))、p.563</ref>。また、[[福田村事件]]のように、[[方言]]を話す地方出身の日本内地人が殺害されたケースもある。聾唖者([[聴覚障害者]])も、多くが殺された<ref>1923年10月6日付読売新聞 ただし、読売新聞では、多数が殺傷されたと掲載されているものの、その証拠となる文献は少ない</ref>。[[日本共産党]]員で詩人の[[壺井繁治]]の詩「十五円五十銭」によれば、[[朝鮮語]]では語頭に[[濁音]]が来ないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として暴行、殺害した<ref>詩「十五円五十銭」。ただし創作以上のものは未確認。</ref>というが真偽は不明
 
一方で[[横浜市]]の鶴見警察署長・大川常吉は、保護下にある朝鮮人等300人の奪取を防ぐために、1000人の群衆に対峙して「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と群衆を追い返した。さらに「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升ビンの水を飲み干したとされる<ref>実際は、4合ビンに入れられた井戸水を飲み干して見せ、「朝鮮人が井戸に毒を入れたというのはデマである」と、自警団を追い返したのは、朝鮮人49人を保護した川崎警察署長・太田淸太郎警部である(「神奈川県下の大震火災と警察」神奈川県警察部高等課長西坂勝人著)(毎日新聞湘南版2006年9月9日朝刊)</ref>。また、軍も多くの朝鮮人を保護した。当時[[横須賀鎮守府]]・[[野間口兼雄]]長官の副官だった[[草鹿龍之介]]大尉(後の[[第一航空艦隊]]参謀長)は「朝鮮人が漁船で大挙押し寄せ、赤旗を振り、井戸に毒薬を入れる」<ref name="草鹿反省176"/>等のデマに惑わされず、[[海軍陸戦隊]]の実弾使用申請や、[[在郷軍人]]の武器放出要求に対し断固として許可を出さなかった<ref name="草鹿反省177"/>。横須賀鎮守府は戒厳司令部の命により朝鮮人避難所となり、身の危険を感じた朝鮮人が続々と避難している<ref>草鹿『一海軍士官の反省記』179頁</ref>。