関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年大正12年)9月1日11時58分32秒頃(日本時間、以下同様)[注釈 1]に発生した関東大地震によって、南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害である[注釈 2]

目次

概要編集

 
1931年(昭和6年)に開学した大阪帝国大学(現・大阪大学

神奈川県および東京府(現・東京都)を中心に隣接する茨城県千葉県から静岡県東部までの内陸と沿岸に及ぶ広い範囲に甚大な被害をもたらした。

大震災と呼ばれる災害では死因に特徴があり、本災では焼死が多く、阪神・淡路大震災兵庫県南部地震)では圧死東日本大震災東北地方太平洋沖地震)では溺死が多い[6]。本災において焼死が多かったのは、日本海沿岸を北上する台風に吹き込む強風が関東地方に吹き込み[7]風害参照)、木造住宅が密集していた当時の東京市東京15区)等で、火災が広範囲に発生したためである。

この災害は、2011年平成23年)3月11日に発生した東日本大震災以前の日本において、史上最大級の被害をもたらした。府県をまたいだ広範囲に渡る災害で未曽有の犠牲者・被災者が発生し、帝都を直撃して国難に及ぶことから、国(大日本帝国)も対応に追われた。しかし、内閣総理大臣加藤友三郎8月24日(発災8日前)に急死していたため、発災から内田康哉内閣総理大臣臨時代理として職務を代行、発災翌日の9月2日山本権兵衛が首相就任(なお、大命降下8月28日)、9月27日帝都復興院(総裁:内務大臣後藤新平が兼務)を設置し復興事業に取り組んだ。

金融の停滞で震災手形が発生し、緊急勅令によるモラトリアムを与えた。復興には相当額の外債が注入されたが、その半分は、火力発電の導入期にあった電力事業に費やされた[注釈 3]モルガン商会1931年昭和6年)までに占めて10億円を超える震災善後処理公債を引き受けたが、その額は当時の日本の年度別の国家予算の6割を超えるものであった[8]。引受にはロスチャイルドも参加した[9]。金策には森賢吾が極秘で奔走した。

日英同盟の頃から政府は資金繰りに苦慮していたが、特にこの復興事業は国債社債両面での対外債務を急増させた。また、震災不況から昭和金融恐慌1927年(昭和2年)3月~)、1930年昭和5年)行われた金解禁[10]はそして世界恐慌昭和恐慌)に至る厳しい経済環境下で悪影響が大きかったため、翌年には金輸出禁止[11]にされた。

なお、本災により東京市から郊外に移り住む者も多く、「天災によるドーナツ化現象」が発生した(参照)。40年近く後の高度経済成長期に三大都市圏の中心となる大阪府愛知県等に移住する者も多くみられ、特に大阪市は東京市を超え、世界第6位の人口を擁する都市に躍進した。阪神間では阪神間モダニズム後期の大大阪時代を迎え、六大都市の序列に影響を与えた。また、東京市電の機能不全を肩代わりさせるため東京市がT型フォードを約800台輸入してバス事業を開始[12][13]円太郎バス)。すると、全国にバス事業が広まると共に、輸入トラックを利用した貨物輸送も始まって、旅客および物流におけるモータリゼーションが到来した[13]。電話の自動交換機も普及した[14]


避難編集

 
日暮里駅(移転前)での8620形蒸気機関車牽引の避難列車。
 
靖国神社に設置された仮設住宅

東京市内の約6割の家屋が罹災したため、多くの住民は、近隣の避難所へ移動した。東京市による震災直後の避難地調査[15]によれば、9月5日に避難民12,000人以上を数える集団避難地は160箇所を記録。最も多い場所は社寺の59箇所、次いで学校の42箇所であった。公的な避難場所の造営として内務省震災救護事務局が陸軍のテントを借り受け、明治神宮外苑宮城前広場などに設営が行われた。また、9月4日からは、内務省震災救護事務局と東京府が仮設住宅(バラック)の建設を開始。官民の枠を超えて関西の府県や財閥、宗教団体などが次々と建設を進めたことから、明治神宮日比谷公園などには、瞬く間に数千人を収容する規模のバラックが出現したほか、各小学校の焼け跡や校庭にも小規模バラックが建設された。震災から約2か月後の11月15日の被災地調査[16]では、市、区の管理するバラックが101箇所、収容世帯数2万1,367世帯、収容者8万6,581人に達している。一方、狭隘な場所に避難民が密集したため治安が悪化。一部ではスラム化の様相を見せた[17]ため、翌年には内務省社会局、警視庁、東京府、東京市が協議し、バラック撤去の計画を開始している。撤去に当たっては、東京市が月島三ノ輪深川区猿江に、東京府が和田堀、尾久王子に小規模住宅群を造成した(東京市社会局年報、東京府社会事業協会一覧(1927年〔昭和2年〕))。また、義捐金を基に設立された財団法人同潤会による住宅建設も進んだ。

軍は橋を架け、負傷者を救護した。「軍隊が無かったら安寧秩序が保てなかったろう」(佐藤春夫「サーベル礼讃」、雑誌『改造』大震災号)という評価は、町にも、マスコミにも溢れた。警察は消防や治安維持の失敗により威信を失ったが、軍は治安維持のほか技術力・動員力・分け隔てなく被災者を救護する公平性を示して、民主主義意識が芽生え始めた社会においても頼れる印象を与えた[18]

震災後日本で初めてラジオ放送が始まった。避難の教訓からラジオは急速に普及し、国威発揚にも利用された[19]

被害編集

190万人が被災、10万5千人余が死亡あるいは行方不明になったとされる(犠牲者のほとんどは東京府と神奈川県が占めている)。建物被害においては全壊が10万9千余棟、全焼が21万2000余棟である。東京の火災被害が中心に報じられているが、被害の中心は震源断層のある神奈川県内で、振動による建物の倒壊のほか、液状化による地盤沈下崖崩れ、沿岸部では津波による被害が発生した。東京朝日新聞読売新聞国民新聞など新聞各社の社屋も焼失した。唯一残った東京日々新聞の9月2日付の見出しには「東京全市火の海に化す」、「日本橋京橋下谷浅草本所深川神田殆んど全滅死傷十数万」、「電信電話電車瓦斯山手線全部途絶」といった凄惨なものが見られた。同3日付では「横浜市は全滅 死傷数万」、「避難民餓死に迫る」、4日付では「江東方面死体累々」、「火ぜめの深川 生存者は餓死」、「横浜灰となる あゝ東京」…などという見出しが続いた。

 
京橋の第一相互ビルヂング屋上より見た日本橋および神田方面の惨状
1923年 関東地震の被害集計(諸井・武村 (2004))より引用[20]
住宅被害棟数 死者・行方不明者数
地域 全潰 非焼失 半潰 非焼失 焼失 流失・埋没 住宅全潰 火災 流出埋没 工場等の被害 合計
神奈川県 63577 46621 54035 43047 35412 497 125577 5795 25201 836 1006 32838
東京府 24469 11842 29525 17231 176505 2 205580 3546 66521 6 314 70387
千葉県 13767 13444 6093 6030 431 71 19976 1255 59 0 32 1346
埼玉県 4759 4759 4086 4086 0 0 8845 315 0 0 28 343
山梨県 577 577 2225 2225 0 0 2802 20 0 0 2 22
静岡県 2383 2309 6370 6214 5 731 9259 150 0 171 123 444
茨城県 141 141 342 342 0 0 483 5 0 0 0 5
長野県 13 13 75 75 0 0 88 0 0 0 0 0
栃木県 3 3 1 1 0 0 4 0 0 0 0 0
群馬県 24 24 21 21 0 0 45 0 0 0 0 0
合計 109713 79733 102773 79272 212353 1301 372659 11086 91781 1013 1505 105385
  • 非焼失の全潰・半潰は焼失および流出、埋没の被害を受けていない棟数。
  • 津波:静岡県熱海市 6m。千葉県相浜(現在の館山市) 9.3m。洲崎 8m、神奈川県三浦 6m。鎌倉市由比ケ浜で300人余が行方不明。関東大震災では、建物の倒壊と火災による被害が甚大で、津波と地震動の被害を分離することが困難なため、津波に関する報告は断片的で、津波の全体像が明確になっていなかった。津波の高さは、鎌倉由比ヶ浜では局地的に9mに達し、逗子、鎌倉、藤沢の沿岸では5mから7mの高さの津波が到達した。江ノ島電鉄の由比ヶ浜の停留所(現在の長谷4号踏切付近)に津波が到達し、中村菊三の手記「大正鎌倉餘話」で、中村は津波の被害者とみられる女性の遺体が、由比ヶ浜滞留所にあったと書いている[21]。静岡県伊東市宇佐美、旭光山行蓮寺には、[1]が現存している。

この震災の記録映像として、記録映画カメラマン白井茂による『関東大震大火実況』が残されており、東京国立近代美術館フィルムセンターが所蔵している。その一部は同センターの展示室の常設展で見ることができる。また横浜シネマ商会(現:ヨコシネ ディー アイ エー)の手による『横浜大震火災惨状』が、同社および横浜市中央図書館に所蔵されている。これ以外にも数本記録映画が存在しているが、オリジナルといえる作品は少ない[22]

人的被害編集

 
震災直後、尋ね人のビラが貼られた東京駅警備巡査派出所(1968年解体、1972年博物館明治村に移築)

2004年(平成16年)頃までは、死者・行方不明者は約14万人とされていた。この数字は、震災から2年後にまとめられた「震災予防調査会報告」に基づいた数値である。しかし、近年になり武村雅之らの調べによって、14万人の数字には重複して数えられているデータがかなり多い可能性が指摘され、その説が学界にも定着したため、理科年表では、2006年(平成18年)版から修正され、数字を丸めて「死者・行方不明 10万5千余」としている[23]

 
根府川駅から海中に転落した列車のうち、海岸に残った客車

地震の揺れによる建物倒壊などの圧死があるものの、強風を伴った火災による死傷者が多くを占めた。津波の発生による被害は太平洋沿岸の相模湾沿岸部と房総半島沿岸部で発生し、高さ10m以上の津波が記録された。山崩れや崖崩れ、それに伴う土石流による家屋の流失・埋没の被害は神奈川県の山間部から西部下流域にかけて発生した。特に神奈川県足柄下郡片浦村(現、小田原市の一部)の根府川駅ではその時ちょうど通りかかっていた列車が駅舎・ホームもろとも土石流により海中に転落し、100人以上の死者を出し、さらにその後に発生した別の土石流で村の大半が埋没、数百名の犠牲者を出した。


関東大震災により死去した著名人
関東大震災犠牲者の慰霊施設

建物編集

 
震災直後の被服廠跡地の避難民の遺体

地震の発生時刻が昼食の時間帯と重なったことから、136件の火災が発生した。大学や研究所で、化学薬品棚の倒壊による発火も見られた。一部の火災については、工藤美代子が「火元には、空き家や小学校、女学校、越中島の糧秣廠(兵員用の食料(糧)および軍馬用のまぐさ(秣)を保管する倉庫で、火薬類は保管していない)等、発火原因が不明な所があり、2日の午後に新しい火災が発生する等不審な点も多い」と主張している[25]。加えて能登半島付近に位置していた台風により、関東地方全域で風が吹いていたことが当時の天気図で確認できる。火災は地震発生時の強風に煽られ、本所区本所横網町(現在の墨田区横網)の陸軍本所被服廠跡地(現在の横網町公園。他、現在の墨田区立両国中学校日本大学第一中学校・高等学校などもこの場所に含まれる[注釈 4])で起こった火災旋風を引き起こしながら[26]広まり、旧東京市の約43%を焼失させ[27]鎮火したのは40時間以上経過した2日後の9月3日10時頃とされている。火災による被害は全犠牲者中、約九割に上る(当該の統計情報によれば、全体の犠牲者10万5385人のうち、火災が9万1781人を占めた)ともいわれている[28]。火災旋風により多くの被災者が吹き上げられた。被服廠跡で被災した人の中には15kmほど離れた市川まで吹き飛ばされた人もあった[29]。また、この火災旋風の高熱で熔けて曲がり塊となった鉄骨は東京都復興記念館に収蔵され展示されている。


 
大破した凌雲閣

東京市内の建造物の被害としては、凌雲閣(浅草十二階)が大破、建設中だった丸の内内外ビルディングが崩壊し作業員300余名が圧死した。また、大蔵省文部省内務省外務省警視庁など官公庁の建物や、帝国劇場三越日本橋本店など、文化・商業施設の多くが焼失した。神田神保町東京帝国大学図書館松廼舎文庫大倉集古館も類焼し、多くの貴重な書籍群や文化財が失われた。

震源に近かった横浜市では官公庁やグランドホテルオリエンタルパレスホテル(現存しない)などが石造・煉瓦作りの洋館であったことから一瞬にして倒壊し、内部にいた者は逃げる間もなく圧死した。さらに火災によって、外国領事館の全てが焼失、工場・会社事務所も90%近くが焼失した。千葉県房総地域の被害も激しく、特に北条町では古川銀行房州銀行が辛うじて残った以外は郡役所・停車場等を含む全ての建物が全壊。測候所と旅館が亀裂の中に陥没するなど、壊滅的被害を出した。

なお、地震以後も気象観測を続けた中央気象台(現在の気象庁。位置は現在とほぼ同じで若干濠寄り)では、1日21時頃から異常な高温となり、翌2日未明には最高気温46.4度を観測している[30]。この頃、気象台には大規模な火災が次第に迫り、ついに気象台の本館にも引火して焼失し多くの地震記録を失った[31]。気象記録としては無効とされ抹消されているものの、火災の激しさを示すエピソードである。

首都機能の麻痺編集

震災当時、通信・報道手段としては電報と新聞が主なものであった(ラジオ放送は実用化前であり[注釈 5]電話も一般家庭に普及していなかった)が、当時東京にあった16の新聞社は、地震発生により活字ケースが倒れて活字が散乱したことで、印刷機能を失い、さらに大火によって13社は焼失、報道機能は麻痺した。東京日日新聞報知新聞都新聞は焼け残り、東京日日は9月5日付夕刊を発行、最も早く復旧した。

郵便制度も同様であった。普通切手はがき、そして印紙も焼失し、一部に至っては原版までも失われた。全国各地の郵便局の在庫が逼迫することが予想されたため、目打なしの震災切手と呼ばれる臨時切手が民間の印刷会社(精版印刷・大阪、秀英舎・東京)に製造を委託され、9種類が発行された。その他にはがき2種類、印紙なども同様にして製造された。

さらに、11月に発行を予定していた皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)と良子女王(のちの香淳皇后)との結婚式記念切手東宮御婚儀」4種類のほとんどが、逓信省の倉庫で原版もろとも焼失し、切手や記念絵葉書は発行中止(不発行)となった。その後、当時日本の委任統治領だった南洋庁パラオ)へ事前に送っていた分が回収され、皇室関係者と逓信省関係者へ贈呈された。結婚式自体は1924年(大正13年)の1月に延期して挙行された。

関東以外の地域では、通信・交通手段の途絶も加わって、伝聞情報や新聞記者・ジャーナリストの現地取材による情報収集に頼らざるを得なくなり、新聞紙上では「東京(関東)全域が壊滅・水没」、「津波、赤城山麓にまで達する」、「政府首脳の全滅」、「伊豆諸島の大噴火による消滅」、「三浦半島の陥没」などといったやデマとされる情報が取り上げられた[32]

 
真鶴駅根府川駅間の寒ノ目山トンネルで埋没した上り第116列車の牽引機関車

震央から約120kmの範囲内にあった国有鉄道の149トンネル(建設中を含む)のうち、93トンネルで補修が必要となった。激しい被害を受けたのは、熱海線(現在の東海道線)小田原-真鶴間で、11トンネルのうち7トンネルが大破するなどの被害を生じた。地滑りや斜面崩落により坑口付近の崩落や埋没を生じたが、坑口から離れた場所でも亀裂や横断面の変形を生じている。深刻な被害を生じたのは、根ノ上山トンネル(熱海線:早川-根府川間)、与瀬トンネル(中央線:相模湖-藤野間)、南無谷トンネル(現在の内房線:岩井-富浦間)[33]

地震の混乱で発生した事件編集

 
各地裁判所及び刑務所の処置を報告する法曹会雑誌(10月)

司法省及び法曹会の下で、受刑者を一時解放した刑務所もあった。横浜刑務所では受刑者を名古屋へ移送することが9月7日になって決まり、同日に貼り紙による告知が行われたものの、解放されていた受刑者821名のうち、翌日早朝の期限までに戻ってきた受刑者は565名のみであった。

なおこの9月7日は治安維持法の前身となる緊急勅令が発布された日でもある。

 
政府による記事差し止めが解除されたことを受けて事件の詳細を報じる10月22日付東京時事新報[34]

9月2日午後11時、下江戸川橋を破壊中の朝鮮人を警備中の騎兵が射殺[35]。9月2日午後11時、南葛飾郡でこん棒などで武装した30人の朝鮮人が砲兵第七連隊第一中隊長代理砲兵中尉高橋克己のオートバイを包囲したが中尉は脱出に成功した[35]

軍活動編集

同時に、陸軍の中では、震災後の混乱に乗じて社会主義自由主義の指導者を殺害しようとする動きも見られた。

甘粕事件(大杉事件)では、大杉栄伊藤野枝・大杉の6歳の甥橘宗一らが憲兵隊に殺害され[36])、亀戸事件では労働運動の指導者平澤計七ら13人が亀戸警察署で、近衛師団に属する習志野騎兵第13連隊に銃殺され、平澤が斬首された。

震災後の殺傷事件編集

 
朝鮮人が暴徒となって放火していると伝える大阪朝日新聞(1923年9月3日号外)
 
デマを流す者に対して警告する警視庁のビラ
 
記事差し止め解除を受けて朝鮮人の事件を伝える東京時事新報(1923年10月22日)司法省が責任転嫁のために発表した実在性に疑問のある情報がベースとなっている。[37]

震災発生後、混乱に乗じた朝鮮人による凶悪犯罪、暴動などの噂が行政機関や新聞、民衆を通して広まり[38][39][34]、民衆、警察、軍によって朝鮮人、またそれと間違われた中国人、日本人(聾唖者など)が殺傷される被害が発生した[40][41][42]

これらに対して9月2日に発足した第2次山本内閣は、9月5日、民衆に対して、もし朝鮮人に不穏な動きがあるのなら軍隊および警察が取り締まるので、民間人に自重を求める「内閣告諭第二号」(鮮人ニ対スル迫害ニ関シ告諭ノ件)を発した[43][44]

内閣告諭第二號

今次ノ震災ニ乗シ一部不逞鮮人ノ妄動アリトシテ鮮人ニ対シ頗フル不快ノ感ヲ抱ク者アリト聞ク 鮮人ノ所為若シ不穏ニ亘ルニ於テハ速ニ取締ノ軍隊又ハ警察官ニ通告シテ其ノ處置ニ俟ツヘキモノナルニ 民衆自ラ濫ニ鮮人ニ迫害ヲ加フルカ如キコトハ固ヨリ日鮮同化ノ根本主義ニ背戻スルノミナラス又諸外國ニ報セラレテ決シテ好マシキコトニ非ス事ハ今次ノ唐突ニシテ困難ナル事態ニ際會シタルニ基因スト認メラルルモ 刻下ノ非常時ニ當リ克ク平素ノ冷静ヲ失ハス慎重前後ノ措置ヲ誤ラス以テ我國民ノ節制ト平和ノ精神トヲ発揮セムコトハ本大臣ノ此際特ニ望ム所ニシテ民衆各自ノ切ニ自重ヲ求ムル次第ナリ

大正十二年九月五日        内閣總理大臣

この内閣告諭第二号と同日、官憲は臨時震災救護事務局警備部にて「鮮人問題ニ関スル協定」という極秘協定を結んだ[37]。協定の内容は、官憲・新聞等に対しては一般の朝鮮人が平穏であると伝えること、朝鮮人による暴行・暴行未遂の事実を捜査して事実を肯定するよう努めること、国外に「赤化日本人及赤化鮮人が背後で暴動を煽動したる事実ありたることを宣伝」することである[37]。こうして日本政府は国家責任回避のため、自警団・民衆に責任転嫁して行くことになり、また実際に朝鮮人がどこかで暴動を起こしたという事実がないか、必死に探し回った[37]

流言の拡散と検証、収束

一方で震災発生後、内務省警保局、警視庁は朝鮮人が放火し暴れているという旨の通達を出していた[42]。具体的には、戒厳令を受けて警保局(局長・後藤文夫)が各地方長官に向けて以下の内容の警報を打電した。

東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、朝鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし

さらに警視庁からも戒厳司令部宛に

鮮人中不逞の挙について放火その他凶暴なる行為に出(いず)る者ありて、現に淀橋・大塚等に於て検挙したる向きあり。この際これら鮮人に対する取締りを厳にして警戒上違算無きを期せられたし

と“朝鮮人による火薬庫放火計画”なるものが伝えられた[45]

当時はテレビはむろんラジオも日本にはなく、新聞のみが唯一のマスメディアだったが記事の中には、「内朝鮮人が暴徒化[注釈 6]した」「井戸に毒を入れ、また放火して回っている」というものもあった。こうした報道の数々が9月2日から9月6日にかけ、大阪朝日新聞、東京日日新聞、河北新聞で報じられており、大阪朝日新聞においては、9月3日付朝刊で「何の窮民か 凶器を携えて暴行 横浜八王子物騒との情報」の見出しで、「横浜地方ではこの機に乗ずる不逞鮮人に対する警戒頗る厳重を極むとの情報が来た」とし、3日夕刊(4日付)では「各地でも警戒されたし 警保局から各所へ無電」の見出しで「不逞鮮人の一派は随所に蜂起せんとするの模様あり・・・」と、警保局による打電内容を、3日号外では東朝(東京朝日新聞)社員甲府特電で「朝鮮人の暴徒が起つて横濱、神奈川を經て八王子に向つて盛んに火を放ちつつあるのを見た」との記者目撃情報が掲載されている。また、相当数の民衆によってこれらの不確かな情報が伝播された[40]

これらの情報の信憑性については、2日以降、官憲や軍内部において疑念が生じ始め、2日に届いた一報に関しては、第一師団(東京南部担当)が検証したところ虚報だと判明、3日早朝には流言にすぎないとの告知宣伝文を市内に貼って回っている[46]。5日になり、見解の統一を必要とされた官憲内部で、精査の上、戒厳司令部公表との通達において

不逞鮮人については三々五々群を成して放火を遂行、また未遂の事件もなきにあらずも、既に軍隊の警備が完成に近づきつつあれば、最早決して恐るる所はない。出所不明の無暗の流言蜚語に迷はされて、軽挙妄動をなすが如きは考慮するが肝要であろう

と発表[47]。「朝鮮人暴動」の存在を肯定するも流言が含まれる旨の発表が行われた。

治安維持緊急勅令の発布

こうした流言の存在を奇貨として、治安維持法の前身であるが可決させることができなかった司法省の「過激社会運動取締法案」の替わりに、7日、緊急勅令治安維持の為にする罰則に関する件」(勅令403号)が発布された(同日の司法大臣は、前日までは大審院長であった思想検事系列の平沼騏一郎枢密院議長は司法官僚の清浦奎吾であった)。8日には、東京地方裁判所検事正南谷智悌が「鮮人の中には不良の徒もあるから、警察署に検束し、厳重取調を行っているが、或は多少の窃盗罪その他の犯罪人を出すかも知れないが、流言のような犯罪は絶対にないことと信ずる」と、流言と否定する見解を公表した[48]

また、震災後1ヶ月以上が経過した10月20日、日本政府は「朝鮮人による暴動」についての報道を一部解禁し、同時に暴動が一部事実であったとする司法省発表を行った。ただし、この発表は容疑者のほとんどが姓名不詳で起訴もされておらず信憑性に乏しく、自警団による虐殺や当局の流言への加担の責任を隠蔽、または朝鮮人に転化するために政府が「でっち上げた」ものとの説もある[37]

一部の流言については正力松太郎が、1944年(昭和19年)の警視庁での講演において、当時の情報が「虚報」だったと発言している[49]

戒厳令発布

警視総監赤池濃は「警察のみならず国家の全力を挙て、治安を維持」するために、「衛戍総督に出兵を要求すると同時に、警保局長に切言して」内務大臣水野錬太郎に「戒厳令の発布を建言」した。なお水野は朝鮮総督府政務総監時代の1919年9月2日(地震の4年前)、独立党党員に爆弾を投げられ重傷を負ったことがある[50]。これを受け、9月2日には、東京府下5郡に戒厳令を一部施行し、3日には東京府と神奈川県全域にまで広げた[40]。この戒厳令発令が水野内務大臣の最後の公務となり、内務大臣の役職は後藤新平に引き継がれた[51]。また、戒厳令のほか、経済的には、非常徴発令、暴利取締法、臨時物資供給令、およびモラトリアムが施行された[52]。最終的に政府は朝鮮人犯罪を一切報道しない報道規制を行うまでになった[要出典]。陸軍は戒厳令の下騎兵を各地に派遣し軍隊の到着を人々に知らせたが、このことは人々に安心感を与えたつつ、流言が事実であるとの印象を与え不安を植え付けたとも考えられる[40]。また、戒厳令により警官の態度が高圧化したとの評価もある[40]

自警団による暴行

軍・警察の主導で関東地方に4000もの自警団が組織され、集団暴行事件が発生した[41][53]。横浜地区では刑務所から囚人が解放されていたため、自警団の活動に拍車がかかった[54]。これら自警団の行動により、朝鮮人だけでなく、中国人、日本人なども含めた死者が出た。朝鮮人かどうかを判別するためにシボレスが用いられ、国歌を歌わせたり[55]朝鮮語では語頭に濁音が来ないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として暴行、殺害したとしている[注釈 7]。また、福田村事件のように、方言を話す地方出身の日本内地人が殺害されたケースもある。聾唖者(聴覚障害者)も、東京ろうあ学校の生徒の約半数が生死が判らない状態になり、卒業生の一人は殺された[56]。 9月4日、埼玉県の本庄町(現・本庄市)では、住民によって朝鮮人が殺害される事件が起きた(本庄事件)。同日、熊谷町(現・熊谷市)、5日には妻沼町でも同様の事件が発生している。 9月5日から6日に掛けて群馬県藤岡町(現・藤岡市)では藤岡警察署に保護された砂利会社雇用の在日朝鮮人ら17人が、署内に乱入した自警団や群衆のリンチにより殺害されたことが、当時の死亡通知書・検視調書資料により確認できる(藤岡事件)[57]

横浜市の鶴見警察署長・大川常吉は、保護下にある朝鮮人等300人の奪取を防ぐために、1000人の群衆に対峙して「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と群衆を追い返した。さらに「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升ビンの水を飲み干したとされる[注釈 8]。大川は朝鮮人らが働いていた工事の関係者と付き合いがあったとされている[42]。また、軍も多くの朝鮮人を保護した。当時横須賀鎮守府長官野間口兼雄の副官だった草鹿龍之介大尉(後の第一航空艦隊参謀長)は「朝鮮人が漁船で大挙押し寄せ、赤旗を振り、井戸に毒薬を入れる」[32]等のデマに惑わされず、海軍陸戦隊の実弾使用申請や、在郷軍人の武器放出要求に対し断固として許可を出さなかった[55]。横須賀鎮守府は戒厳司令部の命により朝鮮人避難所となり、身の危険を感じた朝鮮人が続々と避難している[58]。現在の千葉県船橋市丸山にあった丸山集落では、それ以前から一緒に住んでいた朝鮮人を自警団から守るために一致団結した[42]。また、朝鮮人を雇っていた埼玉県の町工場の経営者は、朝鮮人を押し入れに隠し、自警団から守った[42]

警官手帳を持った巡査が憲兵に逮捕され偶然いあわせた幼馴染の海軍士官に助けられたという逸話もある[59]。当時早稲田大学在学中であった後の大阪市長中馬馨は、叔母の家に見舞いに行く途中群集に取り囲まれ、下富坂警察署に連行され「死を覚悟」する程の暴行を受けたという[60]。歴史学者の山田昭次は、残虐な暴行があったとしている[42]

10月以降、暴走した自警団は警察によって取り締まられ、殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の4つの罪名で起訴された日本人は362名に及んだ。しかし、「愛国心」によるものとして情状酌量され、そのほとんどが執行猶予となり、残りのものも刑が軽かった[41][61]。福田村事件では実刑となった者も皇太子(のちの昭和天皇。当時は摂政)結婚で恩赦になった[61]。自警団の解散が命じられるようになるのは11月のことである。

被害者数
 
警視廳保護鮮人収容所 (目黑競馬場), 九月十三日
 
牛込神樂坂警察署ニテ領置セル自警團員ノ戎兇器

殺害された人数は複数の記録、報告書などから研究者の間で分かれており明確になっていない[62]。内閣府中央防災会議は虐殺による死者は震災による犠牲者の1から数パーセントに当たるとする報告書を作成している[40]吉野作造の調査では2613人余[注釈 9]上海大韓民国臨時政府の機関紙「独立新聞」社長の金承学の調査での6661人という数字があり[注釈 10]、幅が見られる[63]。犠牲者を多く見積もるものとしては、大韓民国外務部長官[注釈 11]による1959年の外交文章内に「数十万の韓国人が大量虐殺された」との記述がある[64]内務省警保局調査(「大正12年9月1日以後ニ於ケル警戒措置一斑」)では、朝鮮人死亡231人・重軽傷43名、中国人3人、朝鮮人と誤解され殺害された日本人59名、重軽傷43名であった[63]。なお、立件されたケースの被害者数を合算すると233人となる[65]

2013年6月には、韓国の李承晩政権時代に作成された、被害者289人の名簿が発見され、翌年には目撃者や遺族の調査が開始された[66]。2015年1月18日に第1次検証結果では名簿からは289人のうち18人が虐殺されたもの、また、名簿にない3名が新たに被害者として確認されたと韓国政府は主張した[67]。最終的に2015年12月に検証結果報告があり、韓国政府発表では名簿からは289人のうち28人が虐殺されたものと主張を確定した[68]

復興編集

 
「相州小田原の震害地へ急行の工兵隊」と「小田原十字町の惨状」(関東大震災画報 第一輯〔しゅう〕大阪毎日新聞)

山本権兵衛首相を総裁とした「帝都復興審議会」を創設する事で大きな復興計画が動いた。江戸時代以来の東京市街地の大改造を行い、道路拡張や区画整理などインフラ整備も大きく進んだ。公共交通機関が破壊され自動車の交通機関としての価値が認識されたことにより1923年(大正12年)に12,765台だった自動車保有台数が震災後激増、1924年(大正13年)には24,333台[69]1926年(大正15年)には40,070台となっていた[70]1929年世界恐慌など逆風が続く中、その後も漸増した。

その一方で、第一次世界大戦終結後の不況下にあった日本経済にとっては、震災手形問題や復興資材の輸入超過問題などが生じた結果、経済の閉塞感がいっそう深刻化し、後の昭和恐慌に至る長い景気低迷期に入った。震災直後の7日には緊急勅令によるモラトリアムが出され、29日に至って震災手形割引損失補償令が出されて震災手形による損失を政府が補償する体制が採られたが、その過程で戦後恐慌に伴う不良債権までもが同様に補償され、これらの処理がこじれて昭和金融恐慌を起こすことになる。

震災復興事業として作られた代表的な建築物には同潤会アパート聖橋復興小学校復興公園震災復興橋隅田川)、九段下ビルなどがある。また、復興のシンボルとして震災前は海だった所に瓦礫により埋め立てられ山下公園が作られ、1935年には復興記念横浜大博覧会でメイン会場となった。同公園内には1939年にインド商組合から市に寄贈された水飲み場(インド水塔)が設置されているが、これは在留インド人の事業復活のため低利融資や商館再建などに尽力した横浜市民らへのお礼として寄贈されたものである。現在この水飲み場は使用されていないが、イスラームモスクを思わせる屋根をした建造物が今も残されている[71]

横須賀軍港では、ワシントン海軍軍縮条約に従って巡洋戦艦から航空母艦に改装されていた天城型巡洋戦艦天城」が[72]、地震により竜骨を損傷して修理不能と判定された。代艦として、解体予定の加賀型戦艦加賀」が空母に改装された[73]。「加賀」と「天城」の姉妹艦「赤城」は太平洋戦争大東亜戦争)緒戦で活躍した。

震災発生後、大連沖で訓練中の長門型戦艦一番艦である長門が「横浜、東京が壊滅している」と報告を受け鹿児島大隅海峡を通り東京に救援物資を運んでいる。この時、長門が27ノットの速力を出していたのがイギリス海軍に目撃されている。

9月27日、帝都復興院が設置され、総裁の後藤新平により帝都復興計画が提案された。それは被災地を全ていったん国が買い取る提案や、自動車時代を見越した100m道路の計画(道路の計画には震災前の事業計画であった低速車と高速車の分離も含まれていた)、ライフライン共同溝化など、現在から見ても理想的な近代都市計画であったが、当時の経済状況や当時の政党間の対立などにより予算が縮小され、当初の計画は実現できなかった(後藤案では30億円だったが、最終的に5億円強として議会に提出された)。また土地の買い上げに関しては神田駿河台の住民が猛反発した。この復興計画の縮小が失策であったことは、東京大空襲時の火災の拡がり方や、戦後の高度経済成長期以降の自動車社会になって証明された。例えば道路については首都高速等を建設(防災のために造られた広域避難のための復興公園(隅田公園)の大部分を割り当てたり、かつ広域延焼防止のために造られた道路の中央分離帯(緑地)を潰すなどして建設された)する必要が出てきた。また現在も、一部地域では道路拡張や都市設備施設などの整備が立ち遅れているという結果を生んだ。

1930年(昭和5年)には帝都復興記念章が制定され(昭和5年8月13日勅令第148号「帝都復興記念章令」第1条)、帝都復興事業に直接または伴う要務に関与した者(同第3条1号2号)に授与された(同第3条)。

帝都復興記念章
表面
裏面

9月には台風災害なども多いことから、関東地震のあった9月1日を「防災の日」と1960年(昭和35年)に定め、政府が中心となって全国で防災訓練が行われている。ただし、宮城県沖地震を経験している宮城県桜島を擁する鹿児島県などのように、独自の防災の日を設けて、その日に防災訓練を行っている地域もある。


影響編集

耐震建築と不燃化

上述の通り、大震災ではレンガ造りの建物が倒壊した。また鉄筋コンクリート造りの建物も大震災の少し前から建てられていたものの、建設中の内外ビルディングが倒壊したのをはじめ日本工業倶楽部丸ノ内ビルヂングなども半壊するなど被害が目立った。そんな中、内藤多仲が設計し震災の3ヶ月前には完成していた日本興業銀行本店は無傷で残ったことから、一挙に耐震建築への関心が高まった。すでに1919年(大正8年)には市街地建築物法が公布され1920年(大正9年)施行されていたが、1924年(大正13年)に法改正が行われ日本で初めての耐震基準が規定された。同法は、後の建築基準法の基となった。

一方で震災では火災による犠牲者が多かったことから、燃えやすい木造建築が密集し狭い路地が入り組んでいた街並みを区画整理し、燃えにくい建物を要所要所に配置し広い道路や公園で延焼を防ぐ「不燃化」が叫ばれるようになった。内藤と対立していた佐野利器らが主張し、後に後藤新平によって帝都復興計画として具体化する。

また、鉄道省でもこの震災で多くの木造客車が焼失した教訓から、より安全な鋼製車への切り替えを研究するようになり、1926年9月に発生した山陽本線特急列車脱線事故で木造客車が脱線大破し多数の犠牲者を出したこともあって、電車・客車共に1927年度発注の新車からは鋼製車体への全面切替が実施されている。

遷都論議

震災直後には、参謀本部では周期的に大地震が発生するおそれがある東京からの遷都が検討され、当時、参謀本部員であった今村均京城近郊の竜山加古川八王子を候補地として報告したと述懐している[74][75]。しかし、震災発生から11日後の9月12日には、東京を引き続き首都として復興を行う旨を宣した詔書が発せられ[76]、遷都は立ち消えとなった。

人口動態

震災によって概して被害の大きかった東京市横浜市の市街地からは人口が流出し、郊外への移住者が相次いだ。前年の1922年(大正11年)から田園都市会社によって洗足田園都市住宅地の分譲が始まり、同じ年には箱根土地による目白文化村の分譲が始まったが、何れも被害が限定的だったことから震災後は人口が増加する。さらには常盤台国立学園都市など郊外での住宅開発が相次ぎ、郊外に居住して都心部の職場へ通うことが一種のステータスとなった。また、被災した芸術家や文豪たちは鎌倉浦和などに移住し、以後「鎌倉文士浦和画家」と言われた。

その一方で大阪市は東京・横浜からの移住者も加わって人口が急増し、一時的に大阪市が東京市を抜き国内で最も人口の多い市となった[注釈 12]。また、名古屋市京都市神戸市も関東からの移住者によって人口が一時的に急増した。この状況は1932年(昭和7年)に東京市が近隣町村を編入するまで続いた。

歴史認識問題
 
岡田紅陽撮影による、吉原遊女犠牲者の写真。2013年(平成25年)に韓国記録写真研究家のチョン・ソンギルは、関東大震災時における朝鮮人虐殺の犠牲者であるとの解説とともにこの写真を公開した[77]が、岡田紅陽写真美術館は不明な情報とした[78]

関東大震災時における朝鮮人殺害事件は、現在、歴史認識問題ともなっている。

横浜市立中学校副読本の内容について、当該の副読本の出版社は2011年(平成23年)に、関東大震災の折にデマが原因で朝鮮人が殺害されたことについて、従来「自警団の中に朝鮮人を殺害する行為に走るものがいた」との内容だったのを、「軍隊や警察、自警団などは朝鮮人に対する迫害と虐殺を行った。横浜でも各地で自警団が組織され、朝鮮人や中国人が虐殺される事件が起きた」とする内容に改定した[79][80]。市議会ではこの変更が問題となり、横浜市教育委員会は「横浜でも軍隊や警察による虐殺があったと誤解を受ける」として、当時の指導課長を2012年9月戒告処分としたほか、当時の指導主事らも文書訓戒とした[80]

2013年(平成25年)2月3日、韓国記録写真研究家のチョン・ソンギルは、岡田紅陽が東京府の委嘱を受け撮影し、震災の89日後に発売した『大正大震災大火災惨状写真集』と私家版のアルバム所収の「吉原公園魔ノ池附近」と記された吉原遊女犠牲者の写真[注釈 13][注釈 14]を、関東大震災における朝鮮人虐殺時の写真として公開し、韓国の聯合ニュースで報道された[82][77][注釈 15]

文化

谷崎潤一郎など関東の文化人が関西に大勢移住して阪神間モダニズムに影響を与えたり、震災によって職を失った東京の天ぷら職人が日本各地に移住したことで江戸前天ぷらが広まったり、震災をきっかけに関東と関西で料理人の行き来が起こって関西風のおでん種が関東に伝わったり[83]、客に相対してのカウンター文化が関東に広まったり(それまでは関東は客は席に座ってから店が注文を取るやり方が主流だった)と、震災は文化面でも様々な影響を与えた。関東大震災に関するフィクションは以下。

  • 不思議な少年山下和美)…6巻 ムメキクと周平
  • 帝都物語荒俣宏)…帝都・東京の滅亡を目論む魔人、加藤保憲が大地を巡る龍脈を操作して関東大震災を起こした。
  • 大虐殺(1960年、新東宝
  • 復活の地小川一水ハヤカワ文庫、全三巻)…SF小説。架空の惑星の大都市を襲った巨大地震とその後の復興を描く。後藤新平と帝都復興院をモデルにした人物・機関が登場する。
  • 連続テレビ小説
    • おはなはん(1966年放映)…大震災により一家と親戚付き合いをしていた細倉を亡くす。
    • おしん(1983年放映)…大震災によって事業財産を全て失うことになり、夫の故郷である佐賀県に家族共々身を寄せることになる。
    • 凛凛と(1990年上半期放映)…同年9月1日放送分に大震災のエピソードとなった。
    • あぐり(1997年上半期放映)…岡山であぐりの「おめでた」が明らかになった頃に、大震災が起こる(夫のエイスケは東京で大震災に見舞われ消息不明になるが、森潤の計らいであぐりと再会した)。
    • ごちそうさん(2013年下半期放映)…主人公・西門め以子()の「おめでた」が明らかになり様子を見に行けないため、め以子の夫である大阪市職員・西門悠太郎(東出昌大)が救援のため上京する。その後め以子の親友・室井桜子がめ以子の高等女学校の恩師・宮本先生が火事に巻き込まれて亡くなったことを知らせる。
    • 花子とアン(2014年上半期放映)…大震災により大森に居を構える村岡宅が半壊。近所の被災者に炊き出しを行い、被災した子供たちには童話の読み聞かせをしていた。また、親戚付き合いをしていた郁弥(夫の弟)を亡くす。
  • タイムスリップ1923-守のミラクル地震体験-(1994年、日本シネセル)…防災アニメ。小学5年生の主人公が突如、関東大震災当日の東京へタイムスリップしてしまう。
  • はいからさんが通る大和和紀)…物語のクライマックスで関東大震災が起こる。
  • 風立ちぬ風立ちぬ (2013年の映画)宮崎駿)…物語序盤で主人公が関東大震災に遭遇し、ヒロインと最初に出会う。
  • 天皇の料理番杉森久英)…同著者の小説を原作としたテレビドラマ。
    • 2015年版…6月28日放送分の第10話にて劇中で関東大震災が起こり、皇居前広場に避難した人々に炊き出しを行う。

上記以外に現代もしくは近未来の関東における大震災を描いた作品も多い。それらについては南関東直下地震の関連作品を参照。

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 当時の観測所の時計は13時間で2分ほど遅れることが指摘されており、必ずしも正確な時刻ではない[1]
  2. ^ この地震の震源の位置は研究者によって見解が異なっており、相模湾のほぼ中央部を震源とする説(今村明恒[1924]の北緯34.98度、東経139.37度、ハーバート・ターナー[1927]の北緯35.0度、東経139.5度)、相模湾の北部を震源とする説(Matuzawa[1928]の北緯35.27度、東経139.33度、ベノー・グーテンベルグチャールズ・リヒター[1954]の北緯35.25度、東経139.5度、宇佐美龍夫[1966]の北緯35.2度、東経139.3度)、神奈川県秦野市付近を震源とする説(金森博雄、宮村摂三[1970]の北緯35.4度、東経139.2度)、山梨県の河口湖付近を震源とする説(Hirano[1924])などがある。また、震源の深さは金森と宮村によれば0-10kmとされている[2]。地震の規模を表すマグニチュード(M)は、7.9から8.3の推定が有る[3][4][5]
  3. ^ 当時の電力会社の外債発行状況は以下のように英米向けである。復興に不必要な最新設備をゼネラル・エレクトリックなどから購入する費用も含まれている。NHK 1995.
    東京電灯 大正12年(1923年)6月 300万ポンド
    大同電力 大正13年(1924年)8月 1500万ドル
    東京電灯 大正14年(1925年)2月 60万ポンド
    宇治川電気 大正14年(1925年)3月 1400万ドル
    東邦電力 大正14年(1925年)3月 1500万ドル
    東邦電力 大正14年(1925年)7月 30万ポンド
    大同電力 大正14年(1925年)7月 1350万ドル
    東京電灯 大正14年(1925年)8月 2400万ドル
    信越電力 昭和2年(1927年)12月 675万ドル
    日本電力 昭和3年(1928年)1月 900万ドル
    東京電灯 昭和3年(1928年)6月 7000万ドル
    東京電灯 昭和3年(1928年)6月 400万ポンド
    東邦電力 昭和4年(1929年)7月 1145万ドル
    日本電力 昭和6年(1931年)2月 150万ドル
    台湾電力 昭和6年(1931年)7月 2280万ドル
    外債を引き受けた金融機関を発行元ごとに掲げる。日本興業銀行 『日本外債小史』 1948年 4章4節4-9 ホワイトホール・トラストをつくったピアソンは、1999年(平成11年)までラザード株の半分を保有した。ピアソンの沿革は英語版Pearson plc History を参照されたい。
  4. ^ 陸軍本所被服廠跡地の面積が東京ドームの1.5倍の広さであるため。
  5. ^ 日本におけるラジオ放送開始は1924年(大正13年)(ラジオ#日本初のラジオ放送)。
  6. ^ 関東大震災犠牲同胞慰霊碑を参照。
  7. ^ 日本共産党員で詩人の壺井繁治の詩「十五円五十銭」による。ただし創作以上のものは未確認。
  8. ^ 実際は、4合ビンに入れられた井戸水を飲み干して見せ、「朝鮮人が井戸に毒を入れたというのはデマである」と、自警団を追い返したのは、朝鮮人49人を保護した川崎警察署長・太田淸太郎警部との検証もある(「神奈川県下の大震火災と警察」神奈川県警察部高等課長西坂勝人著)(毎日新聞湘南版2006年9月9日朝刊)
  9. ^ 朝鮮罹災同胞慰問班の一員から聞いたという伝聞(「朝鮮人虐殺事件」吉野作造 『現代史資料(6) 関東大震災と朝鮮人虐殺』P357)
  10. ^ この調査では「屍体を発見できなかった同胞」数が2889人として、これも「虐殺数」に計算している。
  11. ^ 当時および2017年(平成29年)現在の大韓民国政府の「部」は日本の「省」に相当し、その長官は、日本の大臣に相当する
  12. ^ 大阪市は1925年(大正14年)に近隣の東成郡西成郡全域を編入したため、単純に市の面積が東京市より広いということもあった。
  13. ^ 岡田紅陽写真美術館による[78]
  14. ^ 同写真は東京大学社会情報研究所廣井研究室のウェブページに 「東京吉原遊郭内池中より水死者引上の惨状」]として掲載されている[81]
  15. ^ 明治44年(1911年)の吉原大火時の写真を捏造したものではないかとも話題になった[77]

出典編集

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  2. ^ 金森博雄、宮村摂三「Seismomentricak Re-Evalution of the Great Kanto Earthquake of September 1, 1923 (PDF) 」 、『東京大学地震研究所彙報』第48冊第2号、東京大学地震研究所、1970年6月10日、 115-125頁、 ISSN 09150862
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参考文献編集

ルポルタージュ
公的資料
参照文献
関連文献

関連項目編集

外部リンク編集

  1. ^ 竹久夢二美術館監修 『竹久夢二 大正ロマンの画家、知られざる素顔』 河出書房新社、2014年1月