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|画像 = JR hokkaidou youteimaru.jpg
|画像説明 = JR北海道に継承後の羊蹄丸
|種別 = [[鉄道連絡船|車載客船]]
|クラス =
|船籍 = {{JPN}}
|所有者 =
|運航者 = [[日本国有鉄道]]<br />[[北海道旅客鉄道]]
|建造所 = [[日立造船]]
|母港 = 国鉄時代: [[東京港]]<br />民営化後: [[函館港]]
|姉妹船 = [[津軽丸 (2代)|津軽丸(2代)]]・[[青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸
|建造費 = 18億2500万円
|信号符字 = JQBM
|発注 =
|起工 = [[1964年]](昭和39年)[[
|進水 = [[1965年]](昭和40年)[[2月20日]]
|竣工 = [[1965年]](昭和40年)[[7月20日]]
|就航 = [[1965年]](昭和40年)[[8月5日]]
|終航 = [[1988年]](昭和63年)[[3月13日]] (定期運航)<br /> [[1988年]](昭和63年)[[9月18日]] (暫定運航)
|最後 = 博物館船として展示後
|要目注記 = 新造時
|総トン数 = 8,311.48トン(5,375.93トン<ref>船舶積量測度法改正規則(1967.8.1.)による改測登録(1970.9.8.)後の総トン数:古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p162 成山堂書店1988</ref>)
|全長 = 132.00m
|垂線間長 = 123.00m
|型幅 = 17.90m
|型深さ = 7.20m
|満載喫水 = 5.20m▼
|主機 = 単動4サイクルトランクピストン排気ターボ過給機付ディーゼル機関<br />[[三井造船|三井]]B&W 1226 MTBF-40V <br />8台▼
▲|喫水 =
|最大出力 = 13,325軸馬力<ref name="koseki329">航跡p329 国鉄青函船舶鉄道管理局1978</ref>
▲|主機 = 単動4サイクルトランクピストン排気ターボ過給機付ディーゼル機関<br />三井B&W 1226 MTBF-40V 8台
|定格出力 = 1,600制動馬力×8
|最大速力 = 21.16[[ノット]] <ref>古川達郎 続連絡船ドックp11 船舶技術協会1971</ref><ref name="koseki329"/><ref name="eikonokoseki370">青函連絡船栄光の航跡p371青函連絡船要目表 国鉄青函船舶鉄道管理局1978</ref>
|航海速力 = 18.20[[ノット
|旅客定員 = 1,200名
|乗員 = 53名▼
▲|乗員 =
▲|車両搭載数 = [[有蓋車|ワム車]]換算48両
|その他 = [[救命胴衣]]数: 旅客用1700個<br />鉄道電報略号: ヨテマ
|備考 =
}}
'''羊蹄丸'''(ようていまる)
※津軽丸型の詳細は[[津軽丸 (2代)]]参照
[[1960年]]代初頭(昭和30年代半ば過ぎ)の[[青函連絡船]]の主力は、終戦前後に建造された船質の良くない[[戦時標準船]]ならびにそれに準じる船で、既に老朽化していた。これらの代替と、[[高度経済成長]]による輸送需要の著しい増大に対応するため建造されたのが[[津軽丸 (2代)|津軽丸]]型車載客船で、羊蹄丸はその第6船であった。この型の船は[[洞爺丸事故|洞爺丸事件]]や[[紫雲丸事故|紫雲丸事件]]を教訓とした安全性重視の設計と、当時の造船・海運界の最先端を行く自動化を誇り、[[青函航路]] 青森 - 函館間113.0kmを従来より40分短縮<ref>上りは50分短縮</ref>した3時間50分で結び、海の新幹線と呼ばれた。
津軽丸型6隻の船名は一応公募という形が取られたが、本船の船名は先代の洞爺丸型の羊蹄丸から引き継がれたもので、由来は「蝦夷富士」と呼ばれる[[北海道]]の[[羊蹄山]]にちなんでいる。船体に取り付けられている羊蹄山とイルカが描かれたシンボルマークもこれに由来する。終航後[[1996年]](平成8年)[[3月22日]]から2011年9月30日まで東京お台場[[船の科学館]]にて屋外展示されていた。▼
▲津軽丸型6隻の船名は一応公募という形が取られたが、本船の船名は
▲== 誕生 ==
=== 建造 ===
現在はテーマパーク「[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン]]」となっている場所にあった[[日立造船]]株式会社桜島工場の第4,068番船として建造されたが、本造船所にとって[[青函連絡船]]建造は初めてであった<ref>古川達郎 鉄道連絡船細見p115~117 JTBパブリッシング2008</ref>。建造方式は他の津軽丸型同様、既に当時広く普及していた[[ブロック工法]]で、これは予め工場で分割製作した船体ブロックを船台上で[[電気溶接]]して繋いでゆく工法であった。複数のブロックを同時に製作できるため工期短縮ができたが、溶接により熱せられた鋼板が冷却とともに縮むことを念頭にブロックを船台上に搭載する「位置決め」が重要であった。さらに[[鉄道連絡船|車載客船]]では、その複雑な構造のため溶接使用量が多く、比較的薄い鋼板を用いたこともあり、溶接による歪の発生が多発し、歪取り作業が増加して船体収縮や船体変形の傾向を強めた。しかし船体の長さが計画より縮むことは、鉄道車両を積載する船内軌道の有効長が縮むことになり、これは計画した車両数を積載できなくなることを意味する<ref>古川達郎 続連絡船ドックp33~37 船舶技術協会1971</ref>。このような困難な課題を克服しながら、羊蹄丸は計画通りの寸法で完成することができた。なお積載車両数は、左舷側の船1番線から、[[国鉄ワム60000形貨車|ワム]]換算で12両、14両、10両、12両の合計48両であった。
また[[大雪丸 (2代)|大雪丸(2代)]]・[[函館市青函連絡船記念館摩周丸|摩周丸(2代)]]同様、本船でも搭載主機械と主発電機の機種が[[津軽丸 (2代)|津軽丸型]]第3船までと異なり、機関部全体で約100トンの重量増加となって<ref>泉益生 連絡船のメモ(下巻)p274 船舶技術協会1977</ref>、船体の一層の軽量化が求められた。このため、溝形プレスを施した薄鋼板“ハット・プレート”(コルゲートプレート)を航海甲板の甲板室外板へ広く採用し<ref>古川達郎 続連絡船ドックp41 船舶技術協会1971</ref><ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p166 成山堂書店1988</ref>、外観上の特徴となった。
先代連絡船に比べ極力人手を省いた設計である自動化船である[[津軽丸 (2代)|津軽丸型]]はシリーズで建造され、当初、羊蹄丸は津軽丸型最終建造船となる予定であった。そのため、シリーズ最終船として、本船のみ船名のイニシャルを前部マストに表示していなかった。津軽丸型は、後に[[十和田丸]]が追加建造され、7隻となった。▼
ほぼ同時並行建造の[[函館市青函連絡船記念館摩周丸|摩周丸(2代)]]同様、車両甲板プラットホームから2等出入口広間への階段設置や<ref>古川達郎 鉄道連絡船細見p148 JTBパブリッシング2008</ref>、航海甲板後端後部消音器室後ろ側への歩行スペース拡張、鎖レバー・ブロック式甲種緊締具の部分導入も行われた<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p283 成山堂書店1988</ref>。
== 安全性 ==▼
▲当時最先
車両甲板船尾開口部への水密扉設置はもちろんのこと、車両甲板下の船体を12枚の水密隔壁で13区画に分け、隣接する2区画に浸水しても沈まない構造とし、船体中央部の5区画では、船底だけでなく側面もヒーリングタンク等で二重構造とした<ref>古川達郎 続連絡船ドックp166 船舶技術協会1971</ref><ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p168 成山堂書店1988</ref>。さらに乗客全員を収容できる多数の膨張式[[救命いかだ]](ライフラフト)と、緊急時に海面に投下された[[救命いかだ]]へ、客室から乗り移るための世界初の膨張式滑り台、[[火災報知機|火災警報装置]]、[[スプリンクラー設備]]などの安全設備が装備された。
== 船体色 ==
=== 建造中~現役時代 ===
[[洞爺丸]]の代船として建造された[[十和田丸 (初代)|十和田丸(初代)]]以前の青函連絡船の外舷下部塗色は黒と決められていたが、十和田丸(初代)で薄緑(10GY6/4)が採用され、これが好評であったことから、既存の車載客船もその後、全船、緑系統の“とくさ色”(10GY5/4)に塗色変更されていた。津軽丸型では、当初、船体の塗色は建造する造船所に一任
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=== 展示中 ===
ジェノヴァ国際博覧会日本館パビリオンに使用する際に外装を白/青へと塗色変更。その後、船の科学館での展示に際し塗り分け線が下げられるなど
== ファンネルマーク ==
[[画像:JNR logo on Yotei-maru 20080614.jpg|thumb|230px|right|煙突にあるJNR(国鉄)ロゴ]]
[[ファンネルマーク]]は煙突につけられた所有者を識別するマークで、[[比羅夫丸]]・[[田村丸]]就航翌年の[[1909年]](明治42年)、かつて官設鉄道が創業時から[[1885年]](明治18年)まで所属していた[[工部省]]の「工」の赤文字をファンネルマークとすることを「鉄道院汽船塗装規程第4条」で規定し、以後長らく「工」が使われてきたが<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p251 成山堂書店1988</ref>、[[1964年]](昭和39年)建造の[[津軽丸 (2代)|津軽丸(2代)]]からは、[[国鉄181系電車|151系「こだま」形]]特急電車に取り付けられた[[日本国有鉄道]]「JNR」(Japanese National Railways)を図案化したマークを赤色(7.5R4/14<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p235 成山堂書店1988</ref>)にし、ファンネルマークとして使用した。しかしこのマークのオリジナルの縦横比は1:8とファンネルマークには横長過ぎたため、[[松前丸 (2代)|松前丸(2代)]]以外の津軽丸型第1~5船では縦横比1.5:8に修正のうえ、煙突にはJNRマークが収まる白鉢巻塗装を施し、[[渡島丸 (2代) |渡島丸(2代)]]型6隻を含む羊蹄丸以降の建造船では更に2:8に修正し、鉢巻もそれに合わせ太くし、その鉢巻上に貼り付けられた<ref>松前丸は1.75:8で当初鉢巻なし、横幅は全船6.4m:古川達郎 続連絡船ドックp49 船舶技術協会1971</ref>。
[[1987年]](昭和62年)の[[国鉄分割民営化]]により青函連絡船は[[北海道旅客鉄道|JR北海道]]に継承され、船籍港は国鉄本社のあった東京から青函連絡船母港の函館に変更され、ファンネルマークもJR北海道のマーク「[[JR]]」 ([[コーポレートカラー]]はライトグリーン)に変更されたが、JNRほど横長ではないJRマークを、変形することなくJNRが収まっていた太さの異なる鉢巻に合わせた大きさで作成されたため、大小2種類のJRマークが出現した。なお、[[ジェノヴァ国際博覧会]]の展示船への改造時に、ファンネルマークは「JNR」に戻され、船籍港も東京に戻された。
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== 沿革 ==
[[ファイル:Yotei-maru June 2008.jpg|thumb|right|230px|船の科学館にて係留中の羊蹄丸]]
*[[1964年]](昭和39年)[[
*[[1965年]](昭和40年)[[
**[[8月5日]] -
**[[10月1日]] - ダイヤ改正により、常時津軽丸型で運航する客貨便の3時間50分
*[[1973年]](昭和48年)[[12月28日]] –旅客定員 通年1,330名<ref>航跡p345 国鉄青函船舶鉄道管理局1978</ref>
*[[1977年]](昭和52年)[[3月7日]] - 青函航路開設70周年を記念し各連絡船の「シンボルマーク」を発表
**[[6月]] – 両舷外壁に「シンボルマーク」設置
**[[7月]] – 遊歩甲板室後壁に「シンボルマーク」設置<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p250 成山堂書店1988</ref>
*[[1978年]](昭和53年)[[5月1日]] –喫茶室「サロン海峡」開設、旅客定員1,286名<ref>航跡p347 国鉄青函船舶鉄道管理局1978</ref>
*[[1986年]](昭和61年)[[10月6日]] - 青函連絡船70万航海達成。70万航海目の船となった。
*[[1987年]](昭和62年)[[4月1日]] - 国鉄分割民営化に伴い、JR北海道に継承。
*[[1988年]](昭和63年)[[3月13日]] -
**[[6月3日]]–[[9月18日]] - 「[[青函トンネル開通記念博覧会]]」(青函博)でのイベントの一環として「アンコール運航」と銘打って、十和田丸と共に1日計4便の暫定復活運航を行う。最終便は青森発函館行き下り3便。
**暫定運航期間中は夜間、函館と青森の桟橋にそれぞれ繋留され、シップホテルとしても利用されていた。函館には羊蹄丸、青森には十和田丸。利用に際しては「青函くつろぎカード」の事前購入を要した。宿泊料金は桟敷席の雑魚寝で一晩2500円、寝台室は部屋単位の発売で一室4名1万6000円だった。
**7月 - [[船の科学館|日本海事科学振興財団]](船の科学館)が購入。
**9月 - 船体引渡し。ディーゼル機関車[[国鉄DE10形ディーゼル機関車|DE10 30]]と客車[[国鉄スハ43系客車|スハフ44 25]]積載。当初[[1994年]](平成6年)開催を目指していた東京都主催の「[[世界都市博覧会]]」での展示公開準備のため[[三井造船]]千葉事業所へ回航、そのまま係船<ref name="sonogo23">古川達郎 鉄道連絡船のその後p23 成山堂書店2002</ref><ref>大神隆 青函連絡船物語p265 交通新聞社2014</ref>
*[[
**4月~12月 -[[三井造船]]由良事業所へ回航、船首車両甲板下の船員居住区から総括制御室までが撤去され、第1主機室最左舷の主機械(三井造船製)が同社で保存するため陸揚げされ、ファンネルマークがJNRに戻された<ref>大神隆 青函連絡船物語p266、267 交通新聞社2014</ref>。
* [[1994年]](平成6年)東京都主催の「[[世界都市博覧会]]」に羊蹄丸を公開する計画があったが、当時の[[青島幸男]]東京都知事が同博覧会の中止を[[公約]]としていたため、2年延期の後に中止が決定され、羊蹄丸公開も白紙撤回された。▼
**12月 -[[三井造船]]千葉事業所に戻り内装工事。
*[[1992年]](平成4年)2月-[[三井造船]]千葉事業所での改造工事竣工<ref>大神隆 青函連絡船物語p267 交通新聞社2014</ref>
*[[1992年]](平成4年)[[5月15日]]–[[8月15日]] - [[イタリア]]、[[ジェノヴァ国際博覧会]]の日本館パビリオンとなる。
▲*
*[[1995年]](平成7年)7月–船の科学館展示のため[[三井造船]]由良事業所で改装工事施行<ref name="sonogo23"/>
**10月–船の科学館の前面水域に係留<ref>大神隆 青函連絡船物語p268 交通新聞社2014</ref>
*[[1996年]](平成8年)3月22日 - 船の科学館別館([[フローティングパビリオン羊蹄丸]])として一般公開された。
*[[2003年]](平成15年)-[[ 2001年]](平成13年)の[[九州南西海域工作船事件]]で自沈した[[不審船]]から引き上げられた武器等の遺留品を船内で1年あまりにわたり展示。
*[[2008年]](平成20年)[[3月7日]] - 青函連絡船100周年記念行事を羊蹄丸・[[青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸|八甲田丸]]・[[函館市青函連絡船記念館摩周丸|摩周丸]]それぞれの会場で同時に行った。
*[[2011年]](平成23年)[[7月1日]] - 船の科学館のリニューアルに合わせ、同年9月30日限りで閉鎖することを発表<ref>[http://www.funenokagakukan.or.jp/kaiji/kyuushi.html 船の科学館 本館展示の休止について] 船の科学館お知らせ 2011年7月15日告示</ref>。同8月31日無償譲渡の仮申し込み受付を終了。同9月1日には、51件の問い合わせと35件の譲渡申し込みがあったと発表された<ref>http://www.funenokagakukan.or.jp/pdf/youteimaru.pdf</ref>。
* 2011年(平成23年)[[9月30日]] - 15時45分から休館記念式典として[[満艦飾|満船飾]]、出港の模擬実演などを実施。17時を以て船の科学館別館としての保存展示を終了。
*[[2011年]](平成23年)[[11月8日]] - [[愛媛県]][[新居浜市]]『えひめ東予シップリサイクル研究会』への無償譲渡が決定。2012年に[[新居浜東港]]で一般公開後、解体され資源リサイクルのための研究に供される<ref>[http://sankei.jp.msn.com/region/news/111108/tky11110821330012-n1.htm 羊蹄丸、愛媛に譲渡 船舶リサイクル研究のため]msn産経ニュース 2011年11月8日</ref>。
[[File:Yōtei Maru at niihama east port.jpg|thumb|新居浜東港にて公開中の羊蹄丸(2012年4月28日)]]
*[[2012年]](平成24年)[[3月25日]]解体のため午前8時30分船の科学館より 曳航船とよら丸の曳航にて出発、29日、新居浜東港に到着。
**[[4月27日]]〜[[6月10日]]
**[[6月]] –一般公開終了後、車両甲板にあった「青函ワールド」のセットならびに「青函ワールド」ミニシアター観賞用のグリーン自由椅子席3脚搬出し[[青森市|青森]]の[[青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸|八甲田丸]] へ移送<ref>「青函ワールド」およびグリーン自由椅子席2脚は直接、残り1脚は搬出作業担当会社から個人経由で八甲田丸へ</ref>
**[[7月]]4日・5日-新居浜東港黒島埠頭にて船尾扉開放し車両甲板に積載していたスハフ44 25とDE10 30搬出<ref>https://www.youtube.com/watch?v=9QFVSzIpymk「羊蹄丸」内から鉄道車両を搬出・愛媛新聞</ref>
**[[7月]] -[[香川県]][[多度津町]]の宮地サルベージの岸壁にて解体工事開始
*[[2013年]](平成25年)4月 - 解体終了
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== 輸送・運航実績 ==
*運航期間 - 22年7か月
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== 脚註 ==
{{Reflist|2}}
== 外部リンク ==
121 ⟶ 142行目:
[[Category:青函連絡船の船舶]]
[[Category:北海道旅客鉄道の船舶]]
[[Category:1965年進水船]]
[[Category:1965年竣工船]]
[[Category:博物館船]]
[[Category:日立造船が建造した船舶]]
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