「郡司ペギオ幸夫」の版間の差分

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'''郡司 ペギオ 幸夫'''(ぐんじ - ゆきお、英:Yukio-Pegio Gunji、本名:'''郡司 幸夫'''(読み同じ)、[[1959年]] - )は日本の理学者。現在、[[早稲田大学]]理工学術院基幹理工学部・研究科教授。
 
「”[[生命]]と[[物質]]の違いは何か”とは如何なる問いか。そして、我々はその問いに対して、如何なる答え方を用意すべきか」という問題に取り組んでいる<ref>[http://www.research.kobe-u.ac.jp/fsci-nonlinear/gunji/index.html 郡司 幸夫]{{リンク切れ|date=2015年7月}}</ref>。この問題に取り組む過程で[[内部観測]]と呼ばれる理論を発展させた。ペンネームのペギオ(Pegio)は、本当は自分の子供につけるはずの名前だったが、妻に反対されたため自分のペンネームに使っている<ref>[http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2005/08/post_0157.html 茂木健一郎 クオリア日記: 唐茄子屋ペギオ]</ref>。(本人が質料因を身に纏っているため真相が表に出ませんでしたが、正確には、「男の子だったらペニオ、女の子だったらヴァギコにしたかったけれど奥さんに拒否されたので足して2で割ったのを自分につけた」というのが真相です。
<ref>[https://twitter.com/labidochromis/status/8393209025658880 男の子だったらペニオ、女の子だったらヴァギコにしたかったけれど奥さんに拒否されたので足して2で割ったのを自分につけたという話だったと思う。]</ref>
<ref>[https://twitter.com/konamih/status/27537191089479680 顛末:子の誕生→ペニスとヴァギナから造語→奥さんの反対→自分のミドルネーム]</ref>
<ref>[https://twitter.com/kaztsuda/status/27676655388463104 「ちょっとアンタ、普段家のこと何もしないんだから、産まれてくる子供の名前くらい自分で考えなさいよ」「じゃぁ、男の子だったらペニ男、女の子だったらヴァギ子」「バッカじゃないの、そんなヘンな名前、自分に付けなさいよ」「よし、それならおれは明日からペギオを名乗る!」→郡司ペギオ幸夫]</ref>)
ただ単にペンギンが好きだからという説もある。また、あからさまに無視していた学生から大学に就職したことを報告するメールが届いたとき、「お前、偉くなんなよ」という一言を投げ返した。それによって相手が残念に感じることを厭わず、逆に(自分は)「誤解を受けやすいタイプである」という像を形成する。研究会の待ち合わせ場所や時刻は失念しても、現代思想の特集テーマ、それに必要な材料の収集、収集場所、原稿締め切り日時などを失念することはない。「誤解を受けやすいタイプである」という像は、こうした違和感を払拭するために一役買っている。しかも誤解による不利益は「お前、偉くなんなよ」と言われ残念に思ったことを押し殺す側が負う。かように彼にあって曖昧さは重要なのである。この曖昧さに参加する唯一の方法が、フレーム問題を口実にしたデータ整理と彼への同意であり、しかしそれは言葉や学問の力ではなく学位制度の力である。自らはメールに応答せず、返事を諦めた相手に向かって「コミュニケーションを自ら断ち切るサドである」と平気でいえてしまう。目の前で質問している相手を無視して、翌月の現代思想で質問者を誹謗中傷できてしまう。それを理解して態度を改めなければ自閉症(ただし郡司において自閉症の鑑別診断は「質料因を持つか持たないか」であり、その詳細は生命モデル=動くイラストによって定義=デモンストレートされる。「生きていることの科学」参照)者扱い。嫌味を嫌がる相手に「そういう役回りで言ってるんだよ」と本気で言えてしまう。「それを許せばその代わり・・・」というのが彼の言う曖昧さの実装=実相である。
 
二人称を強調する割りにモノローグに終始するのはなぜか?モノローグは他者から“釈明”という手段を奪うことによって、その人を沈黙させる。そしてそのモノローグは、他者のイメージ(仮想他者)を、自分の内なる声をおうむ返ししたり、承認したりするだけの位置に押しとどめる。それが「ですよね郡司さん」である。彼の周囲に二人称は実は存在しない。道を外から見つめ直さなければいけない時期に差し掛かった若者に、学位という生活保護を与え、モノローグを存立させる構造が内部観測である。その意味で、学位取得者の語る研究動機は臨死体験的で、西川アサキ「剣山を横に俺はもう死んでいる」や、太田宏之の断末魔の叫び「研究とは猿真似であり、ソースは二度つけ禁止、基本的に若者向けの甘いパフェなのである」(metaplant.comのインターネットアーカイブ参照)によく現れている。学位から離れて内部観測を研究する者が一人でもいただろうか?内部観測とは、日本人留学生が日本に職を得るために書いた、申請書類の類、所信表明演説的なモノローグである。
 
 
== 口癖 ==
 
・なんかすいません。
 
・多分同じことを言っていて
 
== スタンス ==
(1)# まず、二項対立、素朴実在論、アジョイントを捨て、それらと自分との距離がなるべく遠くなるように、徹底的に卑しめよ
 
(2)# 次に、「それらを我々は笑えるか」と自答し、我々の頭の中にある、距離概念だけ無効にせよ。卑しめたことを謝罪する必要はない。
(1)まず、二項対立、素朴実在論、アジョイントを捨て、それらと自分との距離がなるべく遠くなるように、徹底的に卑しめよ
(3)# そして、(本当のところ誰もわかってない)「本当の外部」に向かえ。
 
(4)# ただ、二項対立、素朴実在論、アジョイントがもたらす利益は最大限享受してよろしい。<ref>たとえば、『構造主義をめぐる生物学論争』(吉岡書店、1989年、ISBN 4842702230)</ref>
(2)次に、「それらを我々は笑えるか」と自答し、我々の頭の中にある、距離概念だけ無効にせよ。卑しめたことを謝罪する必要はない。
 
(3)そして、(本当のところ誰もわかってない)「本当の外部」に向かえ。
 
(4)ただ、二項対立、素朴実在論、アジョイントがもたらす利益は最大限享受してよろしい。<ref>たとえば、『構造主義をめぐる生物学論争』(吉岡書店、1989年、ISBN 4842702230)</ref>
 
 
Aが考えていた問題αがある。これについて英語論文を書き、本人の了解を得ることなくAとBを共著者に挙げ、事前の議論などは一切せずに、「何か意見があったら言うように」とスペルチェック前の論文を放り投げるように渡す。Aからαを剥奪する場合の、AとcoupleすべきBはAが嫌う人物である。しかも嫌う根拠が、郡司から「言ってやれよ」と指令を受けたBのAに対する嫌がらせによる。このようなAとBのとり方は剥奪couplingと呼ばれ、これに無自覚であるときユニタリー性の条件を満たし、些細なアイディアが増幅されスケールフリー性とLevy過程的性質を帯びる。「お前、ほんと底がないよね」はそうしたスケールフリー性の表現のひとつと考えられる。Levy過程への関心はそのようなαではあるが、Aが小嶋泉さんなので失笑を買っている。Levy過程に関連する問題は「量子場とミクロ・マクロ双対性」(ISBN-10: 4621065114)の前半の章の末尾に和文で書かれているが、背景と文脈をきちんと読まなければ容易に誤読する箇所である。<ref>[http://nozawa.ddo.jp/mkp/2006/kenmogilohas20061213.MP3 多様性とロペス]</ref>
 
 
 
随伴作用のことを随伴関手で括り、随伴関手を批判するスタイルは、一般化ゾンビと呼ばれている<ref>現代思想2013年2月号、pp.80-98</ref>。