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{{古代エジプトの王朝}}
{{出典の明記|date=2010年3月}}
'''プトレマイオス朝'''({{lang-grc|Πτολεμαῖοι}}、''Ptolemaioi''、[[紀元前305年|前305年]]-[[紀元前30年|前30年]])は[[マケドニア人|グレコ・マケドニア人]]を中核とした[[古代エジプト]]の王朝。[[アレクサンドロス3世]](大王)の死後、その後継者([[ディアドコイ]])となった[[プトレマイオス1世|ラゴスの子プトレマイオス]](1世)によって建設された。建国者の父親の名前から'''ラゴス朝'''とも呼ばれ、[[セレウコス朝]]や[[アンティゴノス朝]]とともに、いわゆる[[ヘレニズム]]国家の一つに数えられる。首都[[アレクサンドリア]]は古代[[地中海世界]]の経済、社会、文化の中心地として大きく発展し、そこに設けられた[[ムセイオン]]と付属の図書館([[アレクサンドリア図書館]])を中心に優れた学者を多数輩出した。対外的には[[歴史的シリア|シリア]]を巡ってセレウコス朝と、[[エーゲ海]]の島々や[[キプロス島|キュプロス島]]を巡ってアンティゴノス朝と長期にわたって戦いを繰り返したが、その終焉までエジプトを支配する王朝という大枠から外れることはなかった。
{{Infobox Former Country
|native_name = Πτολεμαϊκὴ βασιλεία<br />''Ptolemaïkḕ Basileía''
|conventional_long_name = プトレマイオス朝
|common_name = Ptolemaic Kingdom
|continent = Africa
|region = Mediterranean
|country = Egypt
|government_type = 君主制
|p1 = アルゲアス朝
|flag_p1 = Vergina Sun - Golden Larnax.png
|s1 = アエギュプトゥス
|flag_s1 = Spqrstone.jpg
|image_coat = Pt eagle.png
|coa_size = 130px
|symbol =
|symbol_type = {{仮リンク|エートス・ディオス|en|Aetos Dios}}<ref>Buraselis, Stefanou and Thompson ed; The Ptolemies, the Sea and the Nile: Studies in Waterborne Power.</ref>
|era = 古典古代
|year_start = [[紀元前305年]]
|event_start =
|year_end = [[紀元前30年]]
|event_end =
|image_map = PtolemaicEmpire.png
|image_map_caption = [[紀元前300年]]頃のプトレマイオス朝の領土(青)
|capital = [[アレクサンドリア]]
|common_languages = [[コイネー]], [[エジプト語]], [[ベルベル語派]]
|religion = [[セラピス]]<ref>''North Africa in the Hellenistic and Roman Periods, 323 BC to AD 305'', R.C.C. Law, '''The Cambridge History of Africa''', Vol. 2 ed. J. D. Fage, Roland Anthony Oliver, (Cambridge University Press, 1979), 154.</ref>
|currency = [[ドラクマ]]
|leader1 = [[プトレマイオス1世]] <small>(初代)</small>
|year_leader1 = [[紀元前305年]]–[[紀元前283年]]
|leader2 = [[クレオパトラ7世]] <small>(最後)</small>
|year_leader2 = [[紀元前51年]]–[[紀元前30年]]
|title_leader = [[ファラオの一覧#プトレマイオス朝時代|ファラオ]]
|today = {{flag|Cyprus}}<br>{{flag|Egypt}}<br>{{flag|Libya}}<br>{{flag|Turkey}}<br>{{flag|Israel}}<br>{{flag|Palestine}}<br>{{flag|Lebanon}}<br>{{flag|Syria}}<br>{{flag|Jordan}}
 
[[共和制ローマ|ローマ]]が地中海で存在感を増してくると、プトレマイオス朝はその影響を大きく受け、ローマ内の政争に関与すると共に従属国的な色彩を強めていった。実質的な最後の王となった[[クレオパトラ7世]]はローマの有力政治家[[ユリウス・カエサル]]や[[マルクス・アントニウス]]と結んで生き残りを図ったが、アントニウス軍と共に[[アウグストゥス|オクタウィアヌス]]と戦った[[アクティウムの海戦]]での敗北後、自殺に追い込まれた。プトレマイオス朝の領土はローマに接収され、[[帝政ローマ|帝政]]の開始と共に[[皇帝属州]]の[[アエギュプトゥス]]が設立された。
 
== 歴史 ==
=== アレクサンドロス3世とディアドコイ ===
{{Quote box
| quote = アレクサンドロスは[[リビュア]]なるアモン(アメン)に詣でたいという強い願望にとりつかれた。ひとつにはこの神に託宣を受けるためだった。アモンの神託は決して過つことがなく、[[ペルセウス]]は[[ポリュデクテス]]の命令で[[ゴルゴ]]退治に遣わされたさいに、また[[ヘラクレス]]もリビュアに[[アンタイオス]]を訪ね、[[ブシリス]]をエジプトに訪れた折りに、いずれもここで託宣をうかがったと伝えられていたからだ。それにアレクサンドロスにはペルセウスやヘラクレスと張りあう気持があった。彼はこのふたりの英雄の末裔であったし、また伝説がヘラクレスやペルセウスの出生をゼウスに結びつけているように、彼自身は自分の生まれをアモンに結びつけていたからでもある。
| source=-アッリアノス『アレクサンドロス大王東征記』第3巻§3<ref name="アッリアノスp191">[[#アッリアノス|アッリアノス]]『アレクサンドロス大王東征記』第3巻§3、大牟田訳 p. 191</ref>
| align = right
| width = 23em
}}
[[マケドニア王国]]の王、[[アレクサンドロス3世]](大王、在位:前336年-前323年)は、当時西アジアの大半とエジプトを支配していた[[アケメネス朝|ハカーマニシュ朝]](アケメネス朝)を征服するべく、前334年に東方遠征に出発し<ref name="森谷2000p7">[[#森谷 2000|森谷 2000]], p. 7</ref>、その途上、前332年にはエジプトに入り、これを無血平定した<ref name="桜井1997p191">[[#桜井 1997|桜井 1997]], p. 191</ref><ref name="森谷2000p6">[[#森谷 2000|森谷 2000]], p. 6</ref>。彼は[[ファロス島]]の対岸、[[ナイルデルタ]]西端の地点が良港であると見て、建築家[[デイノクラティス]]に都市計画を命じたという<ref name="アバディ1991p20">[[#エル=アバディ 1991|エル=アバディ 1991]], p. 20</ref><ref name="山花2010p158">[[#山花 2010|山花 2010]], p. 158</ref>。こうして[[アレクサンドリア]]市の建設が始まった<ref name="アバディ1991p20"/><ref name="山花2010p158"/>。この都市はその後エジプト最大の都市へと発展し、プトレマイオス朝の王都として機能するようになる。アレクサンドロス3世は同年にはエジプト西部の砂漠にある[[アメン]]神([[ゼウス]]と同一視された)の聖所[[シワ・オアシス]]を訪れ、「人類全体の王となれるか」と質問をし、「可」という神託を受けたと伝えられる<ref name="山花2010p158"/>。
{{エジプトの歴史}}{{古代エジプトの王朝}}
 
'''プトレマイオス朝'''は、[[古代エジプト]]の[[ヘレニズム]]国家の一つ([[紀元前306年]] - [[紀元前30年]])。[[アレクサンドロス3世]](アレキサンダー大王)の死後、部下であった[[プトレマイオス1世|プトレマイオス]]([[マケドニア]]出身の[[マケドニア人]])が創始した。[[首都]]は[[アレクサンドリア]]に置かれた。
アレクサンドロス3世は前331年4月にエジプトを離れてハカーマニシュ朝の残された領土の征服に向かい<ref name="森谷2000p150">[[#森谷 2000|森谷 2000]], p. 150</ref>、生前にエジプトに戻ることはなかった。彼は331年9月の[[ガウガメラの戦い]]で勝利し、逃亡したハカーマニシュ朝の王[[ダレイオス3世|ダーラヤワウ3世]](ダレイオス3世)は部下の裏切りによって殺害された<ref name="桜井1997p192">[[#桜井 1997|桜井 1997]], p. 192</ref>。その後、ハカーマニシュ朝の領土のほとんど全てをアレクサンドロス3世が征服したが、彼は前324年に[[バビロン]]市で病没した<ref name="桜井1997p193_194">[[#桜井 1997|桜井 1997]], p. 193_194</ref>。残された将軍たちはアレクサンドロス3世の後継者([[ディアドコイ]])たるを主張して争った。一連の戦いは[[ディアドコイ戦争]]と呼ばれる。当初主導権を握ったのは宰相([[千人隊長|キリアルコス]]、{{lang-grc|χιλίαρχος}})の[[ペルディッカス]]、有力な将軍であった[[クラテロス]]、遠征中にマケドニア本国を任されていた[[アンティパトロス]]らであった<ref name="シャムー2011pp59_60">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], pp. 59-60</ref>。他、[[メレアゲル]]や[[レオンナトス]]、[[アンティゴノス1世|アンティゴノス・モノフタルモス]](隻眼のアンティゴノス)、そしてラゴスの子プトレマイオス(1世)らも有力な将軍の列に加わっていた<ref name="ウォールバンク1988p62">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 62</ref><ref name="シャムー2011pp59_60"/>。
 
プトレマイオスはマケドニアの貴族{{仮リンク|ラゴス (プトレマイオス1世の父)|label=ラゴス|en|Lagus}}と{{仮リンク|アルシノエ (プトレマイオス1世の母)|label=アルシノエ|en|Arsinoe of Macedon}}の間の子である<ref name="松原2010pプトレマイオス">[[#松原 2010|西洋古典学事典]], pp. 1033-1038 「プトレマイオス(エジプト王室の)」の項目より</ref>。母アルシノエはアレクサンドロス3世の父であるマケドニア王[[フィリッポス2世]]の[[妾]]であり、後にラゴスに下げ渡されてその妻となりプトレマイオスを産んだ<ref name="松原2010pプトレマイオス"/>。この経緯から、アルシノエは下げ渡された時点で既にフィリッポス2世の子を身ごもっており、即ちプトレマイオスはフィリッポス2世の落胤(アレクサンドロス3世の異母兄弟)であるという言い伝えが生まれた<ref name="松原2010pプトレマイオス"/>。これが事実であるかどうかはともかくも、プトレマイオスは世代・身分ともにアレクサンドロス3世に近く、その学友として育ち、友人([[ヘタイロイ]])として、また信頼厚い将軍として東方遠征で様々な任務に従事した人物であった<ref name="松原2010pプトレマイオス"/>。
 
エジプトはギリシア人である[[ナウクラティスのクレオメネス]]の管理下に置かれていたが、[[バビロン会議]]の後、プトレマイオス1世がエジプトの実質的な支配権を掌握した<ref name="ウォールバンク1988p139">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 139</ref><ref name="シャムー2011pp59_60"/>。その後、ペルディッカスがアレクサンドロス3世の異母兄[[ピリッポス3世|アリダイオス]]と遺児[[アレクサンドロス4世]]を管理下に置き、帝国の大部分において事実上の首位権を確保したの対し、プトレマイオスはアンティゴノス、[[ヘレスポントス]]を支配する[[リュシマコス]]、本国のアンティパトロスらと結んで対抗し<ref name="ウォールバンク1988p66">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 66</ref><ref name="シャムー2011pp59_60"/>、親ペルディッカスとみなしたクレオメネスを殺害した<ref name="ウォールバンク1988p139">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 139</ref>。そして自らの立場を強化するためにマケドニア本国へ輸送されるはずであったアレクサンドロス3世の遺体を奪取してエジプトに運び込み、盛大な式典と共に[[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]に作った仮墓に埋葬した<ref name="シャムー2011p64">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 64</ref><ref name="ウォールバンク1988p65">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 65</ref>。その後遺体は、アレクサンドリアの墓所「[[セマ]]」に安置され、[[水晶]]の棺に納められたという<ref name="山花2010p163">[[#山花 2010|山花 2010]], p. 163</ref>。また、西方のギリシア人植民市[[キュレネ]]も征服して[[キレナイカ|リビュア]]方面を確保した<ref name="山花2010p166">[[#山花 2010|山花 2010]], p. 166</ref>。ペルディッカスは前321年{{refnest|group="注釈"|ウォールバンクの和訳書では前320年となっているが<ref name="ウォールバンク1988p66">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 66</ref>、他の全ての出典が321年とするため、それに従う。}}にプトレマイオスを討つためにエジプトに出兵したが[[ナイル川]]の渡河に失敗、セレウコスら部下たちに見切りをつけられ暗殺された<ref name="シャムー2011p65">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 65</ref><ref name="ウォールバンク1988p66"/>。
 
=== 王朝の建設 ===
[[ファイル:Ptolemy I Soter Louvre Ma849.jpg|thumb|left|[[プトレマイオス1世|ラゴスの子プトレマイオス]](1世)像。]]
ペルディッカスの死後、シリアの[[トリパラディソスの軍会|トリパラディソスで会議]]がもたれ、改めて各ディアドコイの領土の配分が話し合われた<ref name="シャムー2011p65"/>。この会議でもプトレマイオスはエジプトの支配権を維持した<ref name="シャムー2011p65"/>。長老格のアンティパトロスがペルディッカスに代わってアリダイオスとアレクサンドロス4世の後見を任されたが、前319年にアンティパトロスが死んだ後その地位を継承した[[ポリュペルコン]]に対して各ディアドコイたちが反対して同盟を結び、プトレマイオスもこれに加わった<ref name="シャムー2011p67">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 67</ref>。以降、アンティゴノス、[[カルディアのエウメネス]]、セレウコス、リュシマコス、アンティパトロスの子[[カッサンドロス]]と言ったディアドコイ諸侯たちとの間で同盟と対立が繰り返され、アレクサンドロス3世の帝国は次第に分割されて行くことになる<ref name="ウォールバンク1988pp62_81">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], pp. 62-81</ref><ref name="シャムー2011pp59_95">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], pp. 59-95</ref>。
 
以降の戦いの中で中心的役割を演じたのはアレクサンドロス帝国の大半に権威を確立したアンティゴノスとその息子[[デメトリオス1世 (マケドニア王)|デメトリオス・ポリオルケテス]](都市攻囲者デメトリオス)である<ref name="シャムー2011p71">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 71</ref>。プトレマイオスは今度はマケドニア本国を抑えた[[カッサンドロス]]、[[バビロニア]]を追われた[[セレウコス1世|セレウコス]]、リュシマコスらと結んでアンティゴノスに対抗し<ref name="シャムー2011p72">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 72</ref>、シリアおよび海上でアンティゴノスの息子デメトリオスと戦った<ref name="ウォールバンク1988p74">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 74</ref>。プトレマイオスはこの過程で、前310年には海路でギリシアに遠征し、小アジア南岸の[[リュキア]]、[[カリア]]、[[キュクラデス諸島]]の他、一時的ながら[[ペロポネソス半島]]の一部を支配下に置いた<ref name="波部2012p108">[[#波部 2012|波部 2012]], p. 108</ref>。しかし、前306年には[[サラミスの海戦]]でアンティゴノスの息子[[デメトリオス1世|デメトリオス・ポリオルケテス]](都市攻囲者デメトリオス)に敗れキュプロス島を奪われた。この勝利に勢いづいたアンティゴノス(1世)は、息子デメトリオス(1世)と共に同年中に王位を宣言した([[アンティゴノス朝]])<ref name="シャムー2011p76">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 76</ref>。
 
キュプロス島での勝利の余勢を駆ったデメトリオスはさらにエジプトに進軍したが、嵐のために大敗しシリアへと引き上げた<ref name="シャムー2011p77">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 77</ref>。これを挽回するために彼が[[ロドス]]を抑えるべく包囲すると、プトレマイオスはカッサンドロス、リュシマコスらとともにロドスを支援し、1年にわたる包囲([[ロドス包囲戦]])の末にデメトリオス軍を撃退した<ref name="シャムー2011p77"/>。この結果プトレマイオスはロドス人たちから神として祀られ、ソテル(''Sôter''、救世主)と渾名されることになる<ref name="シャムー2011p77"/>。そして前305/304年、アンティゴノス親子の後を追ってプトレマイオスも王位を宣言し(在位:前305年-前282年)、エジプトを支配する王家(プトレマイオス朝)が公式に誕生した<ref name="ウォールバンク1988p76">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 76</ref>。
 
前301年の[[イプソスの戦い]]でアンティゴノス1世がセレウコス1世、リュシマコス、カッサンドロスの連合軍に敗れ戦死すると、それに乗じたプトレマイオス1世は[[アラドス]]と[[ダマスカス]]以南のシリア、およびリュキア、[[キリキア]]、[[ピシディア]]の一部を支配下に置いた<ref name="ウォールバンク1988p79">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 79</ref>。一方、アジアではリュシマコスをも滅ぼしたセレウコス1世([[セレウコス朝]])がシリアから[[インダス川]]に至る広大な地域を支配下に置いて覇者となった<ref name="ウォールバンク1988p80">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 80</ref>。デメトリオス1世はマケドニアに渡り再起を図った<ref name="ウォールバンク1988p80"/>。やがて、彼の息子の[[アンティゴノス2世]](アンティゴノス・ゴナタス)がマケドニア本国に[[アンティゴノス朝]]を確立していく。プトレマイオス朝はこのセレウコス朝やアンティゴノス朝と共に[[ヘレニズム]]王朝の1つに数えられ、これらと東地中海地域の覇権を巡って争った。
 
=== 王朝の完成 ===
[[ファイル:PtolemaicEmpire.png|thumb|right|300px|[[紀元前300年]]頃のプトレマイオス朝の領土(青)]]
プトレマイオス1世は前283年に死去し<ref name="シャムー2011p100">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 100</ref>、その前に共同統治者となっていた息子の[[プトレマイオス2世]](フィラデルフォス、在位:285年-前246年)が後継者としてエジプトを統治した<ref name="シャムー2011p101">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 101</ref>。プトレマイオス2世は内乱や対外戦争では多くの苦難を味わったものの、父親が作り上げた行政機構の整備や知的活動を引き次いで組織化し<ref name="シャムー2011p101"/>、彼と続く[[プトレマイオス3世]]の時代はプトレマイオス朝の絶頂期であるとされる<ref name="シャムー2011p101"/><ref name="拓殖1982p24">[[#拓殖 1982|拓殖 1982]], p. 24</ref><ref name="波部2012p16">[[#波部 2012|波部 2012]], p. 16</ref>。
 
プトレマイオス2世は父王の死後、セレウコス朝と激しい争いを繰り広げた。前281年にセレウコス1世が[[プトレマイオス・ケラウノス]]<ref group="注釈">プトレマイオス・ケラウノスはプトレマイオス1世の息子であり、プトレマイオス2世の異母兄弟にあたる。父王との対立からエジプトを離れ、リュシマコスの庇護下にあった。リュシマコスがセレウコス1世に敗れた後、プトレマイオス・ケラウノスはセレウコス1世を暗殺した。</ref>に暗殺された後、セレウコス朝の支配者となっていた[[アンティオコス1世]]は、プトレマイオス朝の勢力を弱めようと画策し、プトレマイオス2世の政治基盤を揺さぶった<ref name="シャムー2011p102">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 102</ref><ref name="ウォールバンク1988p80"/>。アンティオコス1世はキュレネの統治者に任命されていた{{仮リンク|マガス (キュレネ王)|label=マガス|en|Magas of Cyrene}}に働きかけ、彼を臣下のギリシア人たちと共にプトレマイオス2世から離反させた<ref name="シャムー2011p101"/>。マガスはプトレマイオス2世の異父兄弟であり、プトレマイオス1世によってキュレネの支配者とされていた人物である。また、アンティオコス1世の娘アパマ(アパメー)と結婚していた<ref name="シャムー2011p102"/>{{refnest|group="注釈"|離反したマガスはエジプトの支配権の奪取をも試みたが失敗した<ref name="シャムー2011p101"/>。エジプトとキュレネが[[砂漠]]で隔てられていて双方とも有効な攻撃が困難であったことも手伝い、結局両者は妥協して相互の干渉を控えることになった<ref name="シャムー2011p101"/>。}}。さらに前274年から前271年にかけて、[[第一次シリア戦争]]が戦われた<ref name="シャムー2011p102"/>。シリアに侵攻したプトレマイオス2世は敗れたが、この戦争自体は痛み分けに終わった<ref name="シャムー2011p102"/>。続いて10年後にはセレウコス朝の新王[[アンティオコス2世]]との間で[[第二次シリア戦争]]が勃発し、プトレマイオス2世はシリア、小アジア方面で大幅な後退を余儀なくされた<ref name="シャムー2011p102"/>。以降数世紀にわたって繰り返し[[シリア戦争 (プトレマイオス朝)|シリア戦争]]が両王朝の間で戦われることになる。
 
また、プトレマイオス2世はエーゲ海方面では小アジアやエーゲ海の拠点を強化し、アンティゴノス朝と対立する[[アテナイ]]やその他のギリシア人ポリスを支援して東地中海での勢力基盤を固めようとした<ref name="波部2012pp79_87">[[#波部 2012|波部 2012]], pp. 79-87</ref><ref name="シャムー2011p102"/>。前265年頃にアンティゴノス朝とアテナイ、[[スパルタ]]を中心としたギリシアのポリス連合との間で[[クレモニデス戦争]]が勃発すると、海軍を派遣してアテナイ・スパルタを支援した<ref name="波部2012p88">[[#波部 2012|波部 2012]], p. 88</ref><ref name="ターン1987p21">[[#ターン 1987|ターン 1987]], p. 21</ref><ref group="注釈">ターン 1987の記述ではクレモニデス戦争の期間は前266年-前262年。</ref>。この戦争はリュシマコスとその妻でプトレマイオス2世の姉にあたる[[アルシノエ2世]]の息子[[プトレマイオス (リュシマコスの息子)|プトレマイオス]]をマケドニアの支配者とすることを目論んでのものであったと言われる<ref name="波部2012p96">[[#波部 2012|波部 2012]], p. 96</ref>{{refnest|group="注釈"|アルシノエ2世はプトレマイオス1世と妻[[ベレニケ1世]]の娘でありプトレマイオス2世にとって同母姉にあたる。彼女は当初リュシマコスと結婚したが、リュシマコスの死後エジプトに戻っており、姉弟であるプトレマイオス2世と結婚した。従ってリュシマコスとアルシノエ2世の息子プトレマイオスはプトレマイオス2世の義理の息子にあたる。プトレマイオス3世はプトレマイオス2世の実子であり、アルシノエ2世の子プトレマイオスとは別人である<ref name="シャムー2011p104">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 104</ref><ref name="拓殖1982p25">[[#拓殖 1982|拓殖 1982]], p. 25</ref>。}}。しかし、この戦争も前261年にアテナイがアンティゴノス朝によって陥落させられ敗退に終わった<ref name="波部2012p88"/><ref name="ターン1987p21"/><ref name="シャムー2011p103">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 103</ref>。
 
[[ファイル:PHAROS2013-3000x2250.jpg|thumb|left|ファロス島の大灯台の想像図。]]
こうした軍事上の失敗のために、東地中海におけるプトレマイオス朝の影響力は一時低下したものの、プトレマイオス2世統治下におけるエジプトの繁栄は多くの史料によって明らかになっている<ref name="シャムー2011p104"/>。彼は支配地であるエジプトから得られる豊かな収入を用いて壮大な宮殿、神殿を建設し、また[[ムセイオン]]に[[アレクサンドリア図書館]]として名高い図書館を建設して各地から優れた学者を招聘した<ref name="シャムー2011p104"/>{{refnest|group="注釈"|[[アレクサンドリア図書館]]の建設を行った王についてはプトレマイオス1世とプトレマイオス2世のいずれであるか確実にはっきりとはしない。[[モスタファ・エル=アバディ]]は現存史料からいずれの建設ともみなしうるが、従来プトレマイオス2世に帰されていたその業績は近年ではプトレマイオス1世のものとする方向に傾いていると述べる<ref name="アバディ1991p66">[[#エル=アバディ 1991|エル=アバディ 1991]], p. 66</ref>。しかし、[[フランソワ・シャムー]]<ref name="シャムー2011p104"/>や[[木村凌二]]<ref name="木村1997p203">[[#桜井 1997|桜井 1997]], p. 203</ref>など、多くの書籍でプトレマイオス2世の創建という前提で叙述が行われていることから、本文ではプトレマイオス2世の建設とする見解に依った。}}。このムセイオンの付属図書館は一説には50万とも70万とも言われる蔵書を抱え、ギリシア語の古典の校正や研究など、古典古代の学術発展に大きな影響を残すことになる<ref name="木村1997p203"/>。アレクサンドロス3世以来続けられてきた都市アレクサンドリアの建設自体もプトレマイオス2世時代にはほぼ完成するにいたり、地中海最大の都市・学芸の中心として多くの著作家たちの語り草となるようになった<ref name="アバディ1991p24">[[#エル=アバディ 1991|エル=アバディ 1991]], p. 24</ref><ref name="拓殖1982p29">[[#拓殖 1982|拓殖 1982]], p. 29</ref>。
 
また、王朝の権威を高めるための王室崇拝儀礼もプトレマイオス2世の時代に大きく整備された。父プトレマイオス1世を「救済神」(テオス=ソテル、''Theos Soter'')としたのを皮切りに、母ベレニケ1世も死後神々の座に加えた<ref name="拓殖1982p27">[[#拓殖 1982|拓殖 1982]], p. 27</ref>。さらに妻とした実姉[[アルシノエ2世]]も「弟を愛する女神」(テア=フィラデルフォス、''Thea Philadelphus'')として神格化し、その死後には自らを妻とともに「姉弟の神々」(テオイ=アデルフォイ、''Theoi Adelphoi'')として神の座に加えた<ref name="拓殖1982p27"/><ref name="シャムー2011p105">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 105</ref>。こうして王が神として統治するエジプトの伝統がプトレマイオス朝の支配に適合するように調整された<ref name="シャムー2011p105"/>。このようなプトレマイオス2世の処置はその後のプトレマイオス朝の王たちの範となった。以降プトレマイオス王家では兄弟姉妹婚と生前から神として崇拝を受けることが慣例となる<ref name="拓殖1982p28">[[#拓殖 1982|拓殖 1982]], p. 28</ref><ref name="シャムー2011p105"/>。
 
=== プトレマイオス3世の征服活動 ===
{{Quote box
| quote = 大王プトレマイオスは父方にはゼウスの子ヘラクレスの子孫より、母方にはゼウスの子ディオニュソスの子孫より生まれし、テオイ・ソテレス(救済神)たるプトレマイオス(一世)と王妃ベレニケ(一世)の子、テオイ・アデルフォイ(愛姉神)たる王プトレマイオス(二世)と王妃アルシノエ(二世)の子にして、父より(中略)王国を受け継ぎ、(中略)アジアへ遠征した。彼は[[ユーフラテス川|エウフラテス河]]のこちら側(西岸)の地域、[[パンピュリア]]、[[イオニア]]、[[ヘレスポントス]]、[[トラキア]]にわたる全地域と、これらの地域の全軍とインド象の支配者となり、これらの全地域における領主を従属させ、エウフラテス河を渡り、彼自身、[[バビロニア]]、[[スシアナ]]、[[ペルシア|ペルシス]]、[[メディア王国|メディア]]、そして[[バクトリア]]にいたるあらゆる地域において、ペルシア人によってエジプトから持ち去られた、いかなる聖物を彼自身が探し出し、この地域から得られた他の財宝とともに、エジプトへと回復し、(ユーフラテス)河に沿って兵を帰還させた(以下、欠損)
| source=-プトレマイオス朝の第三次シリア戦争戦勝記念碑文<ref>[[#波部 2012|波部 2012]], pp. 192-193の引用より孫引き</ref>
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}}
246年、父の跡を継いで王位についた[[プトレマイオス3世]](エウエルゲテス、在位:前247/246年-前222/221年)は、父王の代に離反していたキュレネの奪回に取り組んだ。キュレネを支配していたマガスは娘の[[ベレニケ2世]]をプトレマイオス3世と結婚させる予定でいたが、マガスの死後、その妻アパマはベレニケ2世の結婚相手としてアンティゴノス・ゴナタスの弟{{仮リンク|デメトリオス (美男王)|label=デメトリオス|en|Demetrius the Fair}}(美男王)を希望した<ref name="シャムー2011p105"/>。しかしベレニケ2世はデメトリオスを暗殺し、自らはプトレマイオス3世と結婚する道を選んだ<ref name="シャムー2011p105"/>。これによってキュレネ市はプトレマイオス朝の支配に復したが、キュレナイカの他の都市は反抗したため、結局軍事的処置によって再征服が行われた<ref name="シャムー2011p105"/>。同時に、東方では前246年以降、セレウコス朝の領土奥深くへ進軍した([[第三次シリア戦争]])。[[アッピアノス]]の記録によれば、この戦争はセレウコス朝の王アンティオコス2世に嫁いでいたプトレマイオス3世の姉妹[[ベレニケ (アンティオコス2世の妻)|ベレニケ]]が、別の妻[[ラオディケ (アンティオコス2世の妻)|ラオディケ]]に息子もろとも殺害されたことに対する報復として始まったという<ref name="アッピアノス§65">[[#アッピアノス|アッピアノス]]『シリア戦争』No.13§65</ref><ref name="シャムー2011p107">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 107</ref>。プトレマイオス3世はそれに先立ってアンティオコス2世がラオディケに毒殺された際にベレニケから支援を求められアンティオキアへと進軍していたが、到着した時には既にベレニケ母子も殺害された後であり、そのままアンティオキアを攻略して戦争に突入した<ref name="クレイトン1999p269">[[#クレイトン 1999|クレイトン 1999]], p. 269</ref>。
 
この第三次シリア戦争において、プトレマイオス3世はプトレマイオス朝の王としては対セレウコス朝の戦いで最大の成功を収めた。彼はシリア地方を席巻し、[[メソポタミア]]を突き抜けて[[バビロニア]]まで進軍した<ref name="シャムー2011p107"/>。バビロン市の包囲では現地軍の頑強な抵抗に合い、激しい戦闘が繰り広げられたことが現地の[[楔形文字]]史料である『[[バビロニア年代誌]]』の記録によって明らかとなっている<ref name="BHCP11">[[#BHCP11|『バビロニア年代誌』BHCP11]]</ref>{{refnest|group="注釈"|プトレマイオス3世自身は本国での反乱のために帰国しており、バビロンを攻撃したのは代理の将軍である<ref name="BHCP11"/>。}}。この年代誌は結末の部分が欠落しており、エジプト軍が最終的にバビロンの占領に成功したのかどうか不明瞭である<ref name="BHCP11サマリー">[[#BHCP11|『バビロニア年代誌』BHCP11]]、訳者サマリーより</ref>。プトレマイオス朝が建設した戦勝記念碑文では、バビロニア、小アジアに加え[[バクトリア]]、[[ペルシア]]、[[メディア王国|メディア]]など、セレウコス朝の全領土における成功が宣言されているが<ref name="シャムー2011p107"/><ref name="波部2012pp192_193">[[#波部 2012|波部 2012]], pp. 192-193</ref>、これが事実であるかどうかも不明である。単純な事実としてはこの戦争の集結後間もなく、セレウコス朝はバビロニアとシリアの支配を回復している<ref name="シャムー2011p107"/>。しかしそれでもなお、小アジアのエーゲ海沿岸部やシリア南部([[コイレ・シリア]])、そしてさらにセレウコス朝の首都[[アンティオキア]]の外港{{仮リンク|セレウキア・ピエリア|en|Seleucia Pieria}}までもがプトレマイオス朝の支配下に残った<ref name="シャムー2011p107"/><ref name="波部2012p183">[[#波部 2012|波部 2012]], p. 183</ref>。
 
プトレマイオス3世はこの戦争の後は大規模な対外遠征は行っていないが<ref name="シャムー2011p108">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 108</ref>、それでもさらなる勢力拡張を目指して、アテナイや[[アカイア同盟]]などギリシアの政情に介入を繰り返し、またアテナイの外港[[ペイライエウス]]に駐留していたアンティゴノス朝の軍団を撤退させた<ref name="シャムー2011p108"/>。これに対してアテナイは市民団の13番目の「部族」として「プトレマイス」を新設するという栄誉で応えた<ref name="シャムー2011p108"/>。
 
=== 後期プトレマイオス朝 ===
{{Quote box
| quote = エジプトではプトレマイオス(引用注:4世)が全く異なった状態にあった。即ち、近親殺しで王国を手に入れ、両親を殺したのに加えて、さらに兄弟をも殺害して、彼は、あたかも事がうまく運んだかのように思って贅沢に身を任せ、また、王宮全体も王のやり方に従ったのである。その結果、幕僚や長官たちだけでなく、全軍隊も軍事に精励するのをやめて、安逸と無為でだれ切り、腐り果てた。
| source=-ポンペイウス・トログス、ユスティヌス抄録『地中海世界史』第30巻§1<ref name="ユスティヌス1998第30巻§1">[[#ユスティヌス 1998|ユスティヌス]]『地中海世界史』第30巻§1, 合阪訳p. 349</ref>
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}}
伝統的な見解では最初の3代の治世が終わった後、プトレマイオス朝は領土の縮小、反乱の多発、王室の内紛などにため徐々に衰退へ向かっていったとされている<ref name="波部2012p18">[[#波部 2012|波部 2012]], p. 18</ref><ref name="シャムー2011p108"/><ref name="山花2010p169">[[#山花 2010|山花 2010]], p. 169</ref>{{refnest|group="注釈"|[[波部雄一郎]]は著作において、反乱や内紛は最盛期とされる最初の3代の時代にも見られることや、近親婚や暗君の統治による内政の混乱という見解が古典古代の著作家による視点を受け継いだものであることに触れ、このような一面的な解釈には再考の余地があると指摘している<ref name="波部2012pp18_21">[[#波部 2012|波部 2012]], pp. 18-21</ref>。ただし、波部自身も「プトレマイオス五世以降の王朝が、シリア、小アジア沿岸部、エーゲ海の領土の相次ぐ喪失により、ギリシア世界に進出し、政治的影響力を行使する地理的条件を失ったことは事実である」と述べており、またプトレマイオス朝史を前期と後期に分ける区分を用いてもいる<ref name="波部2012pp18_21"/>。従って本文では伝統的な見解に従った。}}。[[プトレマイオス4世]](在位:前222/221年-前204年{{refnest|group="注釈"|プトレマイオス4世の在位年は参考文献によって表記が一定しない。本文は波部2012に依った。具体的には次の通りである。前222/221年-前204<ref name="波部2012p287">[[#波部 2012|波部 2012]], p. 287</ref>、前221-前204<ref name="松原2010pプトレマイオス朝系図">[[#松原 2010|西洋古典学事典]],p. 1436「プトレマイオス朝エジプト王家の系図」より</ref><ref name="ユスティヌス1998p343注釈4">[[#ユスティヌス 1998|ユスティヌス]]『地中海世界史』第29巻, 合阪訳p. 343, 訳注4</ref>、前221-前203<ref name="拓殖1982p25"/>、前222-前206<ref name="山花2010pp169_170">[[#山花 2010|山花 2010]], pp. 169-170</ref>、前222-前205<ref name="クレイトン1999p266">[[#クレイトン 1999|クレイトン 1999]], p. 265</ref>。}})は、父を殺害して即位したことに対する皮肉から「{{仮リンク|フィロパトル|en|Philopator}}(''Philopator''、父を愛する者)という異名が与えられている<ref name="ユスティヌス1998p343注釈5">[[#ユスティヌス 1998|ユスティヌス]]、『地中海世界史』第29巻, 合阪訳p. 343, 訳注5</ref>。彼は即位に伴う流血とその放蕩な生活ぶりで名を知られている。父親の他、即位してから1年のうちに、母[[ベレニケ2世]]と弟[[マグス]]、叔父[[リュシマコス (プトレマイオス3世の弟)|リュシマコス]]を殺害し、アレクサンドリアのギリシア人[[ソシビオス]]に唆されて遊蕩にふける生活を送るようになったという<ref name="シャムー2011p145">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 145</ref><ref name="クレイトン1999p270">[[#クレイトン 1999|クレイトン 1999]], p. 270</ref><ref name="山花2010pp169_170"/>{{refnest|group="注釈"|実際にはプトレマイオス4世は王朝の影響力を強化すべく活動しており、また彼がその顕示欲から遂行したとされる大型軍船の建造などの事業も、国威発揚のための努力ともとることができる。また彼の時代には特に大きな領土の喪失もなく、彼の治世以降をプトレマイオス朝衰退の時代とする観点は見直すべきとする見解もある<ref name="波部2012pp18_21"/>}}。
 
プトレマイオス4世が即位して間もなく重大な問題となったのが同時期にセレウコス朝で新たに即位した[[アンティオコス3世]](大王、在位:前223年-前187年)の脅威であった。プトレマイオス朝の王位継承に伴う混乱を好機と見たアンティオコス3世は、前219年に第三次シリア戦争で失ったコイレ・シリアとセレウキア・ピエリアの奪還を目指して侵攻を開始し、[[第四次シリア戦争]]が勃発した<ref name="シャムー2011p145"/>。初年度のうちに全シリアがセレウコス朝の手に落ちたが、プトレマイオス4世はエジプト本国への攻撃を阻止することに成功し、さらに現地エジプト人2万人を軍隊に編入するという改革を実施することで軍団を強化した<ref name="シャムー2011p146">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 146</ref>。そして前217年にヘレニズム時代最大規模の会戦である[[ラフィアの戦い]]でセレウコス朝の軍隊を撃破することに成功し、セレウキア・ピエリアを除くコイレ・シリアを奪回した上で講話を結んだ<ref name="シャムー2011p146"/><ref name="山花2010p170">[[#山花 2010|山花 2010]], p. 170</ref><ref name="波部2012p238">[[#波部 2012|波部 2012]], p. 238</ref>。
{{Quote box
| quote = プトレマイオス(四世)のところでは、この(ラピアの戦いの)すぐあと、エジプト人との戦争が勃発した。この王はアンティオコス(引用注:3世)との戦争に備えてエジプト人に武器を与えていたのだが、これはその場面に限っていえば首肯できる方法ではあっても、将来のためにはつまづきの石となった。というのもラピアの勝利によって自信をふくらませたエジプト人たちは、もはやおとなしく命令に忍従するのをいさぎよしとせず、自分の力で身を守ることのできる人間として、それにふさわしい指導役の人物を求めるようになったのである。この要求はしばらくのちに実現することになる<ref group="注釈">このポリュビオスの見解は近現代の学者に大きな影響を与えている。しかし、現在ではエジプト人の反乱をラフィアの戦いでの貢献による自己意識の向上と言った要素に求める見解や、エジプト人を単なる被支配者層とみなす見解は見直しを迫られている。詳細は[[#グレコ・マケドニア人とエジプト人]]を参照。</ref>。
| source=-ポリュビオス『歴史』第5巻§107<ref name="ポリュビオス第5巻§107">[[#ポリュビオス 2007|ポリュビオス]]『歴史』第5巻§107, 城江訳、p. 276</ref>
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}}
 
しかし、この勝利の後のエジプト国内での反乱が、財政の悪化と共にプトレマイオス朝にとって重い負担となった<ref name="シャムー2011p147">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 147</ref>。反乱が頻発した背景には、軍隊の一員として大きな役割を果たしたエジプト人たちがある種の民族主義的な自意識を獲得し、中央政府の支配に復さなくなったとする見解が(古典古代から)伝統的に採用されている<ref name="波部2012pp18_21"/><ref name="シャムー2011p146"/><ref name="ウォールバンク1988p167">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 167</ref>。このような見解は現在では批判が行われているが<ref name="波部2012pp18_21"/>、原因は別としても前207/205年頃には[[テーベ]]を中心とする[[上エジプト]]が将軍[[ハロンノフリス]](ヒュルゴナフォル)と[[カロンノフリス]]親子を戴いてプトレマイオス朝から離反し、深刻な脅威をもたらした(南部大反乱)<ref name="周藤2014ap6">[[#周藤 2014a|周藤 2014a]], p. 6</ref><ref name="シャムー2011p147"/><ref name="波部2012p238"/>{{refnest|group="注釈"|この反乱の発生年次についても、参考文献の間で一致しないため次にまとめる。各出典でこの反乱の発生日時には次の年が割り当てられている。前207年<ref name="シャムー2011p147"/>、前206年<ref name="周藤2014ap1">[[#周藤 2014a|周藤 2014a]], p. 1</ref>、前205年<ref name="波部2012p238"/>。}}。
 
この反乱の発生直後、プトレマイオス4世が死亡して僅か6歳の[[プトレマイオス5世]](在位:前204年-前180年)が即位し、実権は延臣のソシビオスと[[アガトクレス (プトレマイオス朝)|アガトクレス]]が握った<ref name="周藤2014ap9">[[#周藤 2014a|周藤 2014a]], p. 9</ref>。しかし老齢のソシビオスは間もなく死亡し、アガトクレスも前203年には軍のクーデターにより殺害された<ref name="周藤2014ap9"/><ref name="山花2010p170"/>。幼少の王の即位と混乱を好機と見たセレウコス朝のアンティオコス3世と前202年にコイレ・シリアに侵入して[[第五次シリア戦争]]が勃発した<ref name="シャムー2011p150">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 150</ref>。前202年までにはエジプトとの境界に至る全シリアがセレウコス朝の支配下に入り、同時にアンティゴノス朝の[[ピリッポス5世|フィリッポス5世]]もセレウコス朝に同調し、エーゲ海のプトレマイオス朝の支配地であった[[キュクラデス諸島]]や[[ミレトス]]に攻撃をかけて、他のギリシア人ポリスもろとも、これを占領した<ref name="シャムー2011p150"/>。
 
=== ローマの拡張とプトレマイオス朝 ===
拡大するアンティゴノス朝の脅威に晒され、敗戦と内乱の渦中にあるプトレマイオス朝の支援も当てにできなくなったエーゲ海のギリシア人ポリス、[[ロドス]]、[[ビュザンティオン]]、[[キオス島|キオス]]、そして[[ペルガモン王国]]の[[アッタロス1世]]らは対アンティゴノス朝の同盟を結ぶと共に、[[第二次ポエニ戦争]]に勝利して地中海に覇権を確立しつつあったローマの支援を求めた<ref name="シャムー2011p151">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 151</ref>。ローマはギリシア情勢に介入し、前197年の[[キュノスケファライの戦い (紀元前197年)|キュノスケファライの戦い]]でアンティゴノス朝の軍団を打ち破ってギリシアにおけるアンティゴノス朝の領土を独立させ、同国の外交権を剥奪した<ref name="シャムー2011p152">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 152</ref><ref name="木村1997p277">[[#木村 1997a|木村 1997a]], p. 203</ref>。続いてギリシアへと勢力を拡張しようとしたセレウコス朝のアンティオコス3世も前191年の{{仮リンク|テルモピュライの戦い (前191年)|label=テルモピュライの戦い|en|Battle of Thermopylae (191 BC)}}と前190年の[[マグネシアの戦い]]でローマに敗れ、東地中海におけるローマの影響力は一挙に拡大した<ref name="シャムー2011pp158_159">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], pp. 158-159</ref>。
 
[[ファイル:Rosetta Stone.JPG|thumb|right|ロゼッタ・ストーン。[[大英博物館]]収蔵]]
こうした政治的動向の中で、プトレマイオス朝も次第にローマとの関わりを拡大させていく。ローマはこの時、プトレマイオス朝に対して好意的であり、アンティゴノス朝に対してプトレマイオス朝の領土に手を出さないよう警告を出した<ref name="周藤2014ap10">[[#周藤 2014a|周藤 2014a]], p. 10</ref>。しかしプトレマイオス朝はローマとセレウコス朝の和約においては何ら関与することができず、地中海における影響力の低下は明らかであった<ref name="周藤2014ap10"/>。国内では政権を握った[[アカルナニア]]人[[アリストメネス (プトレマイオス朝)|アリストメネス]]が前196年に[[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]でプトレマイオス5世の宣布式{{refnest|group="注釈"|王が自力で統治可能な年齢に達した事を公布する儀式<ref name="ポリュビオス2011p495注釈7">[[#ポリュビオス 2011|ポリュビオス]]、『歴史3』第18巻, 城江訳、p. 495, 訳注7</ref>。}}が執り行ない、国内の支持を集めるため土地の授与や免税などが宣言された<ref name="周藤2014ap10"/><ref name="山花2010p170"/>。この宣言文が刻まれた石碑が[[1799年]]に発見されており、現在は'''[[ロゼッタ・ストーン]]'''の名で知られている<ref name="山花2010p170"/>。これは[[エジプト語]]の解読に決定的な役割を果たすことになる<ref name="山花2010p171">[[#山花 2010|山花 2010]], p. 171</ref><ref name="クレイトン1999p271">[[#クレイトン 1999|クレイトン 1999]], p. 271</ref>。また、セレウコス朝との関係を改善すべくアンティオコス3世の娘[[クレオパトラ1世]]との婚姻も結ばれた<ref name="山花2010p171"/><ref name="クレイトン1999p271"/>。これらを通じて国内外の情勢が安定したことで、南部の反乱対応に注力することが可能となり、プトレマイオス5世は前186年に南部の反乱を鎮圧することに成功した<ref name="周藤2014app7,12">[[#周藤 2014a|周藤 2014a]], pp. 7,12</ref><ref name="ウォールバンク1988p167"/>。
 
前180年、プトレマイオス5世が死去すると[[プトレマイオス6世]](在位:前180年-前145年)が父親と同じく幼くして即位した<ref name="山花2010p172">[[#山花 2010|山花 2010]], p. 172</ref><ref name="クレイトン1999p271"/>。当初は母クレオパトラ1世が後見を務めていたが、彼女が死去すると、プトレマイオス6世は第五次シリア戦争で失ったコイレ・シリアを奪回するべく前170年にシリアへ侵攻した([[第六次シリア戦争)]]<ref name="クレイトン1999p271"/>。しかしペルシウム近郊で大敗を喫し、セレウコス朝の王[[アンティオコス4世]]に捕らえられた<ref name="シャムー2011p170">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 170</ref><ref name="山花2010p172"/><ref name="クレイトン1999p271"/>。この結果エジプトでは新たに弟の[[プトレマイオス8世]](在位:前170年-前163年)が擁立された<ref name="クレイトン1999p271"/>。
 
アンティオコス4世がプトレマイオス6世を傀儡とすることを目論み、庇護下に置いたプトレマイオス6世がナイルデルタを、プトレマイオス8世がメンフィス以南を統治するという形でエジプトが分割されたが<ref name="クレイトン1999p271"/>、自立を目指すプトレマイオス6世はプトレマイオス8世と同盟を結んでローマの支援を求めた<ref name="クレイトン1999p271"/><ref name="シャムー2011p170"/>。これに対してアンティオコス4世はキュプロス島を占領するとともにエジプトに侵攻してメンフィスを占領しアレクサンドリアを包囲した<ref name="クレイトン1999p271"/><ref name="シャムー2011p170"/>。窮地に陥ったプトレマイオス朝はローマの元老院に仲裁を求め、ローマは元[[コンスル]]の[[ガイウス・ポピリウス・ラエナス]]らを特使として派遣した<ref name="シャムー2011p170"/><ref name="クレイトン1999p271"/>。エジプトでアンティオコス4世と面会したポピリウスは、セレウコス朝のキュプロス島とエジプトからの撤退を強硬に要求し、これに屈したアンティオコス4世は本国へと撤退した<ref name="シャムー2011p170"/><ref name="クレイトン1999p271"/>。これは東地中海の支配者としてのローマの力を示すエピソードとなった<ref name="シャムー2011p170"/><ref name="クレイトン1999p271"/>。
 
プトレマイオス6世はエジプト王の地位を認められたが<ref name="クレイトン1999p272">[[#クレイトン 1999|クレイトン 1999]], p. 272</ref>、共通の利害で結ばれていたプトレマイオス6世とプトレマイオス8世の関係は、セレウコス朝の脅威が去ったことですぐに対立へと変わった<ref name="シャムー2011p190">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 190</ref>。プトレマイオス8世はエジプト王位を求め、前163年にローマに自らの地位の承認を求めた<ref name="シャムー2011p190"/>。交渉の末、かつてプトレマイオス1世の息子マガスがキュレネを分割した前例に倣い、プトレマイオス6世がエジプト王、プトレマイオス8世がキュレネ王とすることが定められた<ref name="シャムー2011p190"/>。しかしプトレマイオス8世がこれに満足することはなく、彼はローマに自ら出向いて、キュプロス島の領有権をも主張した<ref name="シャムー2011p190"/>。ローマの元老院は彼の主張を認め、キュプロス島が平和的にプトレマイオス8世に譲渡されるべきであると宣言したが、プトレマイオス6世はこれを拒否し、ローマも直接的な介入を行わなかったため、この宣言は履行されなかった<ref name="シャムー2011p190"/>。前156年から前155年にかけて、プトレマイオス6世はプトレマイオス8世を暗殺する挙に出たが失敗し、負傷したプトレマイオス8世は再びローマに出向いて自らの傷を見せて庇護を求め、またローマ人の好意を確かなものにするために、後継者無く自分が死んだ場合にはキュレネの王国をローマ人に遺贈するという遺言状を書いた<ref name="シャムー2011p190"/>。こうしてローマとの関係を強化したプトレマイオス8世はキュプロス島の武力占領を試みたが、敗れて捕らえられた<ref name="シャムー2011p191">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 191</ref>。しかし、ローマを恐れたプトレマイオス6世はプトレマイオス8世の罪を問うことなく釈放し、キュレネに帰した<ref name="シャムー2011p191"/>。
 
前145年、プトレマイオス6世はセレウコス朝に嫁がせていた娘の[[クレオパトラ・テア]]が宮廷紛争で窮地に陥ったのを助けるため出兵したが、重傷を負い、程なくして死亡した<ref name="シャムー2011p191"/><ref name="山花2010p173">[[#山花 2010|山花 2010]], p. 173</ref>。寡婦となったプトレマイオス6世の妻[[クレオパトラ2世]]は息子のプトレマイオス(7世、在位:前145年)を王として擁立した<ref name="シャムー2011p191"/><ref name="山花2010p173"/>。しかし、プトレマイオス8世はこれを好機としてエジプトに侵攻しアレクサンドリアを占領した<ref name="シャムー2011p191"/><ref name="山花2010p173"/>。クレオパトラ2世は息子の助命と引き換えにプトレマイオス8世との結婚を承諾し、ここにプトレマイオス8世(復辟、在位:前145年-前116年)、クレオパトラ2世、プトレマイオス7世の共同統治体制が成立することになった<ref name="シャムー2011p192">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 192</ref><ref name="山花2010p173"/>{{refnest|group="注釈"|山花はプトレマイオス8世と結婚したクレオパトラはクレオパトラ・テアであるとし、プトレマイオス7世はクレオパトラ・テアの息子であるとしているが、他の全ての参考文献と矛盾するため本文では採用していない<ref name="山花2010p173"/>。}}。しかし実際には婚礼の当日にプトレマイオス7世は殺害された<ref name="シャムー2011p192"/><ref name="山花2010p173"/>。そしてさらに、プトレマイオス8世がクレオパトラ2世の娘[[クレオパトラ3世]]とも結婚し王妃とすると、この母娘の間にも激しい対立が生じ、宮廷闘争は民衆をも巻き込んで激化した<ref name="シャムー2011p192"/><ref name="クレイトン1999p274">[[#クレイトン 1999|クレイトン 1999]], p. 274</ref><ref name="拓殖1982p34">[[#拓殖 1982|拓殖 1982]], p. 34</ref>。
 
即位の経緯からプトレマイオス8世はエジプト本国で人気が無く、同情も手伝って民衆はクレオパトラ2世への支持を強めた<ref name="シャムー2011p193">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 193</ref><ref name="クレイトン1999p274"/>。前132年にクレオパトラ2世が民衆を扇動して暴動を起こさせると、プトレマイオス8世はクレオパトラ3世と共にエジプトを脱出してキュプロス島へと逃れた<ref name="シャムー2011p193"/><ref name="クレイトン1999p274"/>。プトレマイオス8世は報復のためにクレオパトラ2世との間に儲けた息子[[プトレマイオス・メンフィティス]]を殺害してバラバラにした遺骸を彼女に送り付けたという<ref name="シャムー2011p193"/>。この事件は激しい報復合戦を産み、当時の世相は「蛮風(''Amixia'')」という表現で記憶された<ref name="シャムー2011p193"/>。2年に及ぶ内戦の末、クレオパトラ2世はセレウコス朝の王{{仮リンク|デメトリオス2世 (セレウコス朝)|label=デメトリオス2世|en|Demetrius II Nicator}}を頼ってシリアに亡命し、プトレマイオス8世が完全なエジプト王位を回復した<ref name="シャムー2011p194">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 194</ref>。彼はクレオパトラ2世に組したギリシア人組合に報復的な処置をとると共に、アレクサンドリアに在住していた学者や知識人にも不信の念を向け、これを恐れた学者たちがアレクサンドリアから去っていった<ref name="シャムー2011p194"/>。一方で前118年には大赦令が発布され、内乱の混乱を収める努力もなされた<ref name="シャムー2011p196">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 196</ref>。
 
=== 慢性的な内紛とローマへの従属 ===
プトレマイオス8世が前116年に死去した後、プトレマイオス朝はその滅亡まで慢性的な内紛と分裂に苦しみ、しかもプトレマイオス8世のように、それを収拾することのできる強力な支配者を見ることもなかった。遺言によってエジプトの支配権を継承したのはプトレマイオス8世の妻クレオパトラ3世であり、彼女は息子の[[プトレマイオス9世]](在位:前116年-前110年、前109年-前107年、前88年-前81年)に王位を授けたが、彼は弟の[[プトレマイオス10世]](在位:前110年-前109年、前107年-前88年)と激しい権力闘争を繰り広げた。そしてプトレマイオス9世は間もなく母親殺しを図ったとして地位を追われ前106年キュプロス島へ逃亡した<ref name="クレイトン1999p275">[[#クレイトン 1999|クレイトン 1999]], p. 275</ref>。これはクレオパトラ3世がプトレマイオス10世を溺愛していたため、彼に王位を与えるための謀略であったとも言われている<ref name="クレイトン1999p275"/>。クレオパトラ3世は息子のプトレマイオス10世と結婚したが、その溺愛にもかかわらず前101年にプトレマイオス10世によって殺害されたと言われている<ref name="クレイトン1999p275"/><ref name="シャムー2011p200">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 200</ref>。その後も兄弟は争いを続け、前88年にプトレマイオス10世が殺害されたことでプトレマイオス9世の勝利が確定した<ref name="クレイトン1999p275"/><ref name="シャムー2011p200"/>。
 
この争いの最中、キュレネではプトレマイオス8世の庶子[[プトレマイオス・アピオン]]がキュレネ王を名乗ってプトレマイオス朝の支配から離れた<ref name="シャムー2011p200"/>。彼は父親と同じく後継者無きまま死亡した際にはその領土をローマ人に譲渡するという遺言を作成してローマの支持を得たが、実際に後継者の無いまま死去したためキュレネはローマに贈与されることとなった<ref name="シャムー2011p200"/>。キュレナイカの各都市は各々自由都市を宣言しローマの元老院がそれを承認したが、ローマは直接統治には乗り出さなかった<ref name="シャムー2011p201">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 201</ref>。その後前87年から前86年にかけてキュレナイカで内紛が発生すると、キュレネ人たちはローマの有力者[[スッラ]]の配下[[ルキウス・リキニウス・ルクッルス|ルクッルス]]に秩序の回復を求め、キュレナイカは実際にローマの統治下に入っていった<ref name="シャムー2011p201"/>。そして前74年、ローマ元老院は[[キュレナイカ属州]]の設立を決議し、以降キュレナイカは完全にプトレマイオス朝の支配を離れた<ref name="シャムー2011p201"/>。
 
[[ファイル:Roman Empire in 44 BC.png|thumb|left|前44年のローマ。]]
前80年にプトレマイオス10世が死亡した際、彼は王位を娘の[[ベレニケ3世]]に譲り、その夫に甥の[[プトレマイオス11世]](在位:前80年)を据えたが、彼はベレニケ3世を疎んじて結婚後僅か1ヶ月で彼女を殺害した<ref name="クレイトン1999p275"/>。しかしこれに憤激した民衆によってプトレマイオス11世もその僅か19日後に殺害された<ref name="クレイトン1999p275"/>。この事件によってプトレマイオス朝の嫡出男子が存在しなくなったため、プトレマイオス9世の庶子で[[ポントス王国]]に送られていた[[プトレマイオス12世]](在位:前80年-前58年)が呼び戻されてエジプト王として、また同名の弟{{仮リンク|プトレマイオス (キュプロス王)|label=プトレマイオス|en|Ptolemy of Cyprus}}がキュプロス王に即位した<ref name="クレイトン1999p276">[[#クレイトン 1999|クレイトン 1999]], p. 276</ref><ref name="シャムー2011p220">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 220</ref>。素行不良の上、権力基盤が脆弱だったプトレマイオス12世はローマの支持に全面的に依存しており、そのためにローマの政界有力者への贈賄と献金に狂奔した<ref name="クレイトン1999p276"/><ref name="シャムー2011p220"/>。しかし度重なる献金とそのための重税に不満が高まり、そして前58年のローマによるキュプロス島併合を黙認し弟を見捨てたことが契機となってアレクサンドリアで暴動が発生し、ロドスへと逃亡を余儀なくされた<ref name="クレイトン1999p276"/><ref name="シャムー2011p220"/>。
 
この頃までに既にアンティゴノス朝はローマに滅ぼされており、前70年には[[ポントス王国]]([[第三次ミトリダテス戦争]])、前63年にはセレウコス朝もローマの軍門に下った<ref name="シャムー2011pp210_219">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], pp. 210-219</ref>。これによってプトレマイオス朝は東地中海でローマの直接支配下に無い唯一の国となる<ref name="シャムー2011p219">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 219</ref>。
 
王が不在となったエジプトではプトレマイオス12世の娘[[ベレニケ4世]](在位:前58年-前55)が旧セレウコス朝の王子で従兄弟でもある[[セレウコス・キュビオクサテス]]と結婚したが、結婚3日目には彼を殺害し、次いでポントス王[[ミトリダテス6世]]の息子と称するアルケラオスと結婚して共同統治者とした<ref name="クレイトン1999p276"/><ref name="松原2010pベレニーケー">[[#松原 2010|西洋古典学事典]], pp. 1146-1147 「ベレニーケー」の項目より</ref>。ローマに救援を求めたプトレマイオス12世は、ローマの将軍[[グナエウス・ポンペイウス]]の副官の同行の下で前55年にアレクサンドリアに戻り、以降ローマ軍の将校が指揮する[[ガリア人]]と[[ゲルマン人|ゲルマニア人]]の部隊が護衛としてアレクサンドリアに駐屯した<ref name="シャムー2011p220">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 220</ref><ref name="クレイトン1999p276"/>{{refnest|group="注釈"|松原『西洋古典学事典』<ref name="松原2010pベレニーケー"/>はベレニケ4世とアルケラオスの統治は6ヶ月間であり、プトレマイオス12世の帰還に伴って殺害されたとしているが、他の出典がプトレマイオス12世の帰還を共通して前55年としているため本文はそれに従った。}}。この処置によってプトレマイオス朝は実質的にローマの保護国となった<ref name="シャムー2011p220"/>。
 
=== 滅亡 ===
前51年、プトレマイオス12世が死去した時、その息子[[プトレマイオス13世]]はまだ10歳であった。そのため17歳になる娘の[[クレオパトラ7世]](在位:前51年-前30年)がプトレマイオス13世との結婚を条件に王位についた<ref name="シャムー2011p221">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 221</ref>。このクレオパトラ7世はその美貌と才知によって名高く、数々の伝説的な逸話が現代に至るまで伝えられている<ref name="シャムー2011p221"/>。一般にクレオパトラと言った場合には通常、このクレオパトラ7世を指す。
 
[[ファイル:Cleopatra and Caesar by Jean-Leon-Gerome.jpg|200px|thumb|19世紀の想像画に描かれた、絨毯にくるまれてカエサルの前へ訪れたクレオパトラ。[[ジャン=レオン・ジェローム]]作、1886年]]
間もなくプトレマイオス13世の側近たちはクレオパトラ7世の排除を画策し暗殺を試みたが、彼女はこれを察知してコイレ・シリアへと逃れた<ref name="クレイトン1999p277">[[#クレイトン 1999|クレイトン 1999]], p. 277</ref><ref name="シャムー2011p223">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 223</ref>。おりしも、ローマで[[第一回三頭政治]]を担っていたうちの一人、[[マルクス・リキニウス・クラッスス]]が[[パルティア]](アルシャク朝)との戦争で落命し、残された[[ユリウス・カエサル]]とグナエウス・ポンペイウスが対立していた<ref name="シャムー2011p222">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 222</ref>。前48年、ポンペイウスは敗れエジプトに逃れたが、カエサルの歓心を買おうとしたプトレマイオス13世の側近によって殺害された<ref name="シャムー2011p223"/>。カエサルはエジプトを訪れたが、ポンペイウスの殺害という処置は寧ろ彼を怒らせた。そしてこの時、クレオパトラ7世はカエサルに接近し(絨毯にくるまれてカエサルの下に運ばせたという逸話で知られる)その支持を獲得することに成功した<ref name="シャムー2011p223"/>。プトレマイオス13世と側近たちは民衆を扇動して暴動を起こし宮殿を襲わせたが、ローマ軍が投入されて鎮圧された。この混乱の中でプトレマイオス13世も殺害され、クレオパトラ7世は別の弟[[プトレマイオス14世]]と再婚した<ref name="シャムー2011p223"/>。一連の戦乱の中でアレクサンドリアの図書館も炎上破壊され、そこに伝存されていた著作の数々も焼失した<ref name="シャムー2011p223"/>。
 
カエサルと関係を持ったクレオパトラ7世は息子の[[カエサリオン]](プトレマイオス・カエサル)を儲け、後にローマで元老院立ち合いの下カエサルに認知された<ref name="シャムー2011p224">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 224</ref><ref name="木村1997p310">[[#木村 1997b|木村 1997b]], p. 310</ref>。その後カエサルが各地に戦いに向かう際、クレオパトラ7世はローマで彼の帰りを待ち、カエサルの別荘は一種の宮廷のような様相を呈した<ref name="シャムー2011p224"/>。しかしローマ市民のカエサリオンに対する視線は冷たく、前44年にカエサルが[[マルクス・ユニウス・ブルトゥス]](ブルータス)らに暗殺されたためエジプトへと帰国し、夫のプトレマイオス14世を廃してカエサリオンをプトレマイオス15世(前44年-前30年)として王位につけた<ref name="シャムー2011p225">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 225</ref><ref name="山花2010p183">[[#山花 2010|山花 2010]], p. 183</ref>。
 
前42年に[[フィリッピの戦い]]でブルトゥスらを破った[[アウグストゥス|オクタウィアヌス]]、[[マルクス・アントニウス]]、[[マルクス・アエミリウス・レピドゥス]]は[[第二回三頭政治]]を開始した。このうちアントニウスは前41年夏に軍事費の調達に協力を求めるためクレオパトラ7世を[[キリキア]]の[[タルスス]]に招聘し、そこでクレオパトラ7世に惚れ込みアレクサンドリアへ向かったと言われる<ref name="シャムー2011p226">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 226</ref><ref name="山花2010p183"/>。2人はこの地で遊興と祭典の日々を送り、人々はこの二人を[[ディオニューソス|ディオニュソス]]=[[オシリス]]と[[アフロディテ]]=[[イシス]]に例えた<ref name="シャムー2011p227">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 227</ref>。間もなくアントニウスはパルティアとの戦争のためにエジプトを離れ、オクタウィアヌスの姉[[小オクタウィア|オクタウィア]]と結婚したが、シリアでの防衛任務を部下に任せた後オクタウィアをイタリアへ帰らせ、クレオパトラ7世を[[アンティオキア]]に呼び寄せた<ref name="シャムー2011p227"/>。クレオパトラ7世はアントニウスがエジプトを離れる前に彼の子を懐妊しており、その双子の子供[[アレクサンドロス・ヘリオス]]と[[クレオパトラ・セレネ]]を伴ってアントニウスの下へ向かった<ref name="シャムー2011p227"/>。
 
アントニウスはプトレマイオス朝に対しコイレ・シリアの大部分とキリキアの一部、キュプロス島を与えた<ref name="シャムー2011p228">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 228</ref><ref name="木村1997p316">[[#木村 1997b|木村 1997b]], p. 316</ref>。これは単に愛人であるクレオパトラ7世への贈与というのみならず、自勢力として組み込んだプトレマイオス朝に軍船の建造のための木材を供給するための処置でもあった<ref name="シャムー2011p228"/>。前34年秋には、アントニウスを新たなディオニュソス、クレオパトラ7世を新たなイシス、そして彼らの間に生まれた3人の子(3人目は[[プトレマイオス・フィラデルフォス]])がローマの征服地の王として君臨することを宣言する祭儀がアレクサンドリアで催されたという<ref name="シャムー2011p229">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 229</ref>。さらに前32年にはアントニウスとオクタウィアの正式な離縁が伝えられたが、その後アントニウスがオクタウィアと離縁すると、オクタウィアヌスとの対立は決定的となり、アントニウスはクレオパトラ7世を同盟者としてオクタウィアヌスと対峙することになった<ref name="シャムー2011p228"/><ref name="木村1997p316"/>。アントニウスが行った贈与行為はオクタウィアヌスに恰好の宣伝材料を提供し、アントニウスの遺言状において彼が相続人としてクレオパトラ7世との子供を指名していたと伝えられたことと合わせローマ市民の憤激を呼んだ<ref name="シャムー2011p230">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 230</ref><ref name="木村1997p316"/>。
 
前31年、オクタウィアヌスは正式にアントニウス討伐に乗り出したが、アントニウスを反逆者と名指しするのは避け、クレオパトラ7世に対して宣戦した<ref name="木村1997p316"/>。同年9月2日に戦われた[[アクティウムの海戦]]でアントニウス、クレオパトラ7世は敗れ去り、前30年にはアレクサンドリアがオクタウィアヌス軍によって占領された<ref name="シャムー2011p230"/><ref name="木村1997p316"/>。クレオパトラ7世はオクタウィアヌスの懐柔を試みたが、その見込みがないことを悟ると自殺した<ref name="シャムー2011p232">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 232</ref><ref name="木村1997p317">[[#木村 1997b|木村 1997b]], p. 317</ref>。プトレマイオス15世(カエサリオン)はオクタウィアヌスによって処刑され、ここにプトレマイオス朝は滅亡した<ref name="シャムー2011p232"/><ref name="木村1997p317"/><ref name="クレイトン1999p278">[[#クレイトン 1999|クレイトン 1999]], p. 278</ref>。アントニウスとクレオパトラ7世の間の息子たちは消息不明となり、クレオパトラ・セレネは[[マウレタニア]]王[[ユバ2世]]に嫁いだ<ref name="シャムー2011p233">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 233</ref><ref name="山花2010p185">[[#山花 2010|山花 2010]], p. 185</ref>。
 
以降、エジプトはローマの皇帝属州[[アエギュプトゥス]]として[[アウグストゥス]](オクタウィアヌス)以降のローマ皇帝を財政的に支え、ローマ市民の[[パンとサーカス]]を保証していくことになる<ref name="クレイトン1999p279">[[#クレイトン 1999|クレイトン 1999]], p. 279</ref>。
 
== 社会と制度 ==
プトレマイオス朝は伝統的に整然とした官僚制と社会の細部にわたる統制によって繁栄した中央集権的国家として描かれてきた<ref name="森谷1997p123">[[#森谷 1997|森谷 1997]], p. 1997</ref><ref name="周藤2014bp19">[[#須藤 2014b|周藤 2014b]], p. 19</ref>。ウォールバンクはプトレマイオス朝の統治を「官僚主義的中央集権制の大規模な実権と描写されて良いものだが、それはまた商取引を統制し、経済を国家権力に従属させることによって、貴金属を蓄積することを狙いとしていた限り、[[重商主義]]のそれでもあった。」と評しており<ref name="ウォールバンク1988p145">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 145</ref>、ターンは、統計と戸籍を作り整然と徴税を行う強力な官僚機構、国家管理の事業や王領地と4種に分類される贈与地からなる土地制度などを通じ、国家が各種の産業や徴税を隈なく監督するプトレマイオス朝の制度を描いている<ref name="ターン1987pp161_186">[[#ターン 1987|ターン 1987]], pp. 161-186</ref>。20世紀半ば頃まで想定されていたこのようなプトレマイオス朝の姿は近年の研究によってほぼ否定されており、現在では上記のような説明は行われない<ref name="森谷1997p123"/><ref name="周藤2014bp19"/><ref name="波部2012p43">[[#波部 2012|波部 2012]], p. 43</ref><ref name="高橋2004pp148_149">[[#高橋 2004|高橋 2004]], pp. 148-149</ref>。
 
セレウコス朝やアンティゴノス朝に代表されるヘレニズム王国は、多用な歴史的伝統を保有する地域を支配するため、現地の様々な伝統的な支配機構を温存したモザイク状の国家を形成していたことが知られている。そしてプトレマイオス朝もまた、中央集権国家という伝統的なイメージとは異なり、地域ごとに中央政府による統制力の差が大きく、神殿などエジプトの伝統的な支配機構を取り込みながら支配を行っていたことが明らかとなっている<ref name="波部2012p44">[[#波部 2012|波部 2012]], p. 44</ref>。その官僚組織も、整然とした中央集権体制を構築するためよりも、むしろ流入したギリシア人、マケドニア人に対して便宜を図るために拡充されていったものであり、厳密に整理されたものではなく、各官僚が利益を求める中でその日その日の不定形な活動の集合体に過ぎなかったと考えられている<ref name="森谷1997p123"/><ref name="波部2012p43"/>。
 
=== グレコ・マケドニア人とエジプト人 ===
{{Multiple image
|total_width=350
|image1=Bust of Cleopatra VII - Altes Museum - Berlin - Germany 2017.jpg
|image2=Denderah3 Cleopatra Cesarion.jpg
|footer=ギリシア様式で作られたクレオパトラ7世頭像(左)とエジプトの伝統的な様式で描かれたクレオパトラ7世とカエサリオン(右、[[デンデラ神殿複合体]])
}}
プトレマイオス朝の支配を特徴付けるのは上部構造として支配者たるマケドニア人の王家(プトレマイオス家)を戴き、ギリシア人・マケドニア人が社会の中枢を担い、人口の多くを占めるエジプト人を支配していたことがある。プトレマイオス朝の王たちはエジプトの言語を理解せず、[[エジプト語]]を話すことができたのは歴代の中でも[[クレオパトラ7世]]だけであったとも言われている<ref name="クレイトン1999p278"/><ref name="ウィルキンソン2015p425">[[#ウィルキンソン 2015|ウィルキンソン 2015]], p. 425</ref>。
 
このような王国を安定的に支配するためには、[[重装歩兵]]戦術や宗教・文化を共有するグレコ・マケドニア系人材の恒常的な招致が必要であった。また、軍事的才覚や政治力を備えたギリシア本土の有力者の中からプトレマイオス朝へと訪れた人々は王のフィロイ(友人)として側近となり国家統治の基盤となった<ref name="波部2012p52">[[#波部 2012|波部 2012]], p. 52</ref>。アレクサンドリアのムセイオンを始めとした学者・知識人に対する保護もまたこれと同じ文脈で行われたものと見られる<ref name="波部2012p52"/>。こうしたギリシア人人材の確保策もまた、他のヘレニズム王国と共通する特徴でもあり、プトレマイオス朝がエーゲ海域に影響力を保持し続けようとした理由の一つであるとも考えられる<ref name="波部2012p52"/>。プトレマイオス朝時代にはギリシア本土からの移住や戦争捕虜などを通じて、多数のギリシア人軍事植民者がエジプトに流入していたことが確認されている<ref name="波部2012p52">[[#波部 2012|波部 2012]], p. 52</ref>。初期にはこの流入したギリシア人兵士たちに報酬として与える土地を確保し、国力自体を増大させるために大規模な開墾事業が行われた<ref name="周藤2014bpp136_145">[[#須藤 2014b|周藤 2014b]], pp. 136-145</ref>。
 
一方でギリシア人・マケドニア人とエジプト人の関係は単純な支配者と被支配者という構図だけで説明できるものでもなかったことが明らかとなっている<ref name="高橋2004p156">[[#高橋 2004|高橋 2004]], p. 156</ref>。エジプト人は既に数千年の伝統を持つ高度な行政文化を持つ人々であり、プトレマイオス王家はエジプトの伝統的な組織に大して十分な配慮する必要があった。新王国時代以来、[[上エジプト]]で支配的地位を持っていた[[アメン]]大神殿は常に油断のならない強力な勢力であったし<ref name="マニング2012p151">[[#マニング 2012|マニング 2012]], p. 151</ref>、下エジプト最大の伝統宗教の拠点であった[[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]の[[プタハ]]神殿の大神官家系はプトレマイオス朝初期から王家と密接な関係を築いていた<ref name="櫻井2012p23">[[#櫻井 2012|櫻井 2012]], p. 23</ref>。前2世紀には王国の中枢部や軍においてもエジプト人が多数進出しており<ref name="森谷1997p123"/>、エジプト人の出自でありながら、ギリシア的教養を身に着け、状況に応じてエジプト人としてもギリシア人としても振舞うような人々の存在も確認されている<ref name="高橋2004p156"/>。ギリシア語でエジプト国家の創建以来の歴史を書き、現在に至るまで使用される30の王朝の区分を構築した歴史家[[マネト]]もまた、ギリシア語を身に着けたエジプト人の神官でありプトレマイオス王家に仕えた人物であった<ref name="ウィルキンソン2015p421">[[#ウィルキンソン 2015|ウィルキンソン 2015]], p. 421</ref>。
 
ただし、こうした状況にもかかわらず、また有力な家系を含めエジプト人とギリシア人・マケドニア人との間で縁戚関係が持たれた例も知られるにもかかわらず{{refnest|group="注釈"|例えば、メンフィスのプタハ大神官の家系にはプトレマイオス王家の王女が輿入れした例がある<ref name="櫻井2012p28">[[#櫻井 2012|櫻井 2012]], p. 28</ref>。}}、プトレマイオス朝の治世中にギリシア人とエジプト人のコミュニティが融合し同化することはなく、別々の存在として存続していた<ref name="森谷1997p123"/>。
 
特にポリュビオスがラフィアの戦いにおけるエジプト人兵士の動員が彼らに自信を与え、それが南部大反乱の遠因となり王国の統一に深刻な問題をもたらしたという記録を残していることなどから、近現代の学者はギリシア人・マケドニア人の支配者に対するエジプト人の民族主義的な抵抗や自意識の存在を想定しもしたが、上記のような研究の進展によって、このような一面的な理解は大きく修正されつつある<ref name="周藤2014bpp312_317">[[#須藤 2014b|周藤 2014b]], pp. 312-317</ref><ref name="森谷1997p123"/><ref name="高橋2004p156"/>。
 
=== 地方統治 ===
{{see also|ノモス (エジプト)}}
エジプトでは[[エジプト先王朝時代|先王朝時代]](前32世紀頃以前)または、[[エジプト古王国|古王国]](前27世紀頃-前22世紀頃)の頃から[[ノモス (エジプト)|ノモス]](セパト)と呼ばれる州が設置されていた<ref name="古谷野2003p260">[[#古谷野 2003|古谷野 2003]], p. 260</ref>。このノモスは[[エジプト新王国|新王国]](前16世紀頃-前11世紀頃)時代までに[[上エジプト]]22州、下エジプト20州程度に整理され<ref name="古谷野2003p260"/><ref name="周藤2014bp131">[[#須藤 2014b|周藤 2014b]], p. 131</ref>、プトレマイオス朝もこの制度を受け継いだ。現在、エジプト語に由来するセパト(''{{Lang|egy-Latn|spȝt}}'')ではなく、ギリシア語由来のノモス(''{{lang-grc-short|νόμος}},'')の語が普及しているのはプトレマイオス朝とローマ支配時代に使用された経緯による<ref name="古谷野2003p260"/>。
 
ヘレニズム諸王国の王たちはグレコ・マケドニア系入植者のための都市を熱心に建設したが、プトレマイオス朝統治下のエジプトにおいては、新たに建設された「ギリシア的な」意味での都市は首都アレクサンドリアの他には上エジプト支配の拠点として作られた[[プトレマイス (上エジプト)|プトレマイス]]のみであり、ギリシア系入植者はエジプト人の集落に割当地([[クレーロス]]、{{lang-grc-short|κλῆρος}})を付与されて、エジプト人の集落に分住させられる形態を基本とした<ref name="周藤2014bp134">[[#須藤 2014b|周藤 2014b]], p. 134</ref><ref name="マニング2012p151"/>。
 
当時の集落形態については[[ファイユーム]]地方を除き情報が乏しい<ref name="周藤2014bp134"/>。上エジプトと下エジプトの接点に近いファイユーム地方ではギリシア人の入植が大規模に行われたことや、それに伴う堤防の建設や干拓などの大規模な水利事業、その建設のため労働管理などについて詳細が知られている<ref name="周藤2014bpp136_145">[[#須藤 2014b|周藤 2014b]], pp. 136-145</ref>。ファイユームの開発は[[エジプト中王国|中王国]](前21世紀頃-前18世紀頃)にも手を付けられていたが、本格的に行われたのはプトレマイオス朝時代であり、その集中的な開発によって生産性の高い広大な農地が広がった<ref name="周藤2014bpp136_145"/>。こうした農地は短冊状に生前と区画されており、ファイユームのフィラデルフィアなど居住地もギリシア式に格子状に整備されていた痕跡が確認されている<ref name="周藤2014bpp135,136_145">[[#須藤 2014b|周藤 2014b]], pp. 135, 136-145</ref>。アルシノエ2世にちなんでアルシノイテス州とも呼ばれたファイユームは、プトレマイオス朝支配下のエジプトでも特殊な地方であったと考えられるため、その状況を他の地域に一般化することはできないものの、ファイユーム地方を中心に発見されている豊富な古代の[[パピルス]]文書によって、当時の農村生活について他の地域では類を見ない具体的な情報を得ることができる<ref name="周藤2014bpp136_145"/>。
 
=== 学問 ===
{{see also|ムセイオン|アレクサンドリア図書館}}
[[ファイル:ancientlibraryalex.jpg|thumb|left|アレクサンドリア図書館を描いた19世紀の想像図。]]
ヘレニズム時代は古代世界における学問の革新的成果が多数生み出された時代であった<ref name="シャムー2011pp495_496">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], pp. 495-496</ref><ref name="ワインバーグ2016p56">[[#ワインバーグ 2016|ワインバーグ 2016]], p. 56</ref>。そしてとりわけ、プトレマイオス1世からプトレマイオス2世の時代に整備されたアレクサンドリアの[[ムセイオン]]と付属図書館はこの学術発展の潮流の中の中心であった<ref name="ワインバーグ2016p56"/><ref name="シャムー2011pp507_509">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], pp. 507-509</ref>。プトレマイオス朝の惜しみない支援に惹かれたギリシアの学者たちは大挙してアレクサンドリアへと渡った<ref name="ワインバーグ2016p57">[[#ワインバーグ 2016|ワインバーグ 2016]], p. 57</ref><ref name="ウォールバンク1988p250">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 250</ref>。現代の物理学者[[スティーヴン・ワインバーグ]]はその様を20世紀における[[ヨーロッパ]]から[[アメリカ合衆国|アメリカ]]への人の流れに例えている<ref name="ワインバーグ2016p57"/>。
 
政策的な支援と豊富な資金、そして各地から集まった学者たちによる研究によって多くの分野において特筆すべき成果が生み出され、後世に重大な影響を残した。アレクサンドリアでまず研究が奨励されたのは古典文献の蒐集と校訂といった文献学的な研究であった<ref name="周藤2014bp17">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], p. 17</ref><ref name="ウォールバンク1988p250"/><ref name="ワインバーグ2016p57"/>。[[エフェソスのゼノドトス]]や[[ビュザンティオンのアリストファネス]]、[[サモトラケのアリスタルコス]]と言った学者らによって進められた[[ホメーロス|ホメロス]]の研究([[ホメーロス問題|ホメロス問題]]も参照)を始めとして、現代に伝わる古代ギリシア時代の文学作品の多くはアレクサンドリアで行われた研究と整理の結果を通したものである<ref name="周藤2014bp17"/><ref name="ウォールバンク1988p250"/>。具体例としては例えば、ホメロスの叙事詩『[[イリアス]]』と『[[オデュッセイア]]』が現在のような24巻本に校訂したのはアレクサンドリア図書館の初代館長とされるエフェソスのゼノドトスであると伝えられており、また完本が現存する最古の歴史書とされる[[ヘロドトス]]の『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]』が現在の9巻構成にまとめられたのもアレクサンドリアにおいてであった<ref name="ベリー1966p39">[[#ベリー 1966|ベリー 1966]], p. 39</ref>。
 
こうした文学的研究の他にアレクサンドリアで隆盛を迎えたのが各種の「科学」(これは現代的な意味での科学ではないが)の研究であった<ref name="ワインバーグ2016p58">[[#ワインバーグ 2016|ワインバーグ 2016]], p. 58</ref>。当時ギリシア世界の学問の中心地はアレクサンドリアの他に[[アテナイ]]や[[ミレトス]]があったが、それぞれの知的風土には大きな違いがあった。アレクサンドリアにおける学問の特徴は、ギリシア世界で盛んであった万物の根源についての思索などの包括的な問題の研究ではなく、観察によって成果を得ることができる具体的な事象の研究が重視されたことであった<ref name="ワインバーグ2016p58"/>。この知的風土の下、[[光学]]、[[流体静力学]]、そして特に[[天文学]]が特筆すべき発達を遂げた<ref name="ワインバーグ2016p58"/>。当時のアレクサンドリアで活躍した主要な天文学者には、初めての学術的な[[太陽]]や[[月]]の大きさと地球からの距離の計算(それは不正確であったものの)を行った[[アリスタルコス|サモスのアリスタルコス]]や、[[日食]]を利用して月までの距離の計算精度を大幅に高めた[[ヒッパルコス]]、地球の大きさを計算した[[エラトステネス]]などがいる<ref name="ワインバーグ2016pp94_111">[[#ワインバーグ 2016|ワインバーグ 2016]], pp. 94-111</ref>。
 
アレクサンドリアにおける天文学の伝統はプトレマイオス朝滅亡後のローマ時代にも引き継がれ、古代から中世にかけての天文学に決定的な影響を与える[[クラウディオス・プトレマイオス]]を輩出することになる<ref name="ワインバーグ2016pp124-129">[[#ワインバーグ 2016|ワインバーグ 2016]], pp. 124-129</ref>。彼の研究は後世の[[天動説]]の理論的基盤を形成した<ref name="ワインバーグ2016pp124-129"/>。また、プトレマイオスのそれとは異なり、後世に受け継がれることはなかったものの、サモスのアリスタルコスは[[地動説]]に通じる事実(太陽が地球の周りを回っているのではなく、地球が太陽を周回している)に気付いていたことを示す記録も残されている<ref name="ワインバーグ2016pp94_111"/>。
 
ただし、その重要性、知名度に反して、こうした学問の中心となるべきムセイオンの付属図書館の運営実態については多くのことが不明である<ref name="周藤2014bp94">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], p. 94</ref>。図書館自体についての同時代史料はほとんど無く、現代に伝わる情報は数世紀後のローマ時代の著述家による信憑性の低い情報に由来しており、運営実態や建物の立地、規模などについても確実な情報は得られない<ref name="周藤2014bpp95-100">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], pp. 95-100</ref>。この図書館に資料を集めるため、アレクサンドリアに入港した船舶から本が見つかった場合には没収して写本を作成し、持ち主には写本の方を返却したという逸話や、アテナイから保証金と引き換えに悲劇のテキストを取り寄せ、やはり写本を作成してそれを返却したという逸話は、アレクサンドリア図書館の蒐集活動を象徴する話として良く知られている<ref name="周藤2014bpp95-100"/>。しかしこれらの話も紀元後2世紀の医師[[ガレノス]]の記録に登場するものであり、真実であるという確証をえることは不可能である<ref name="周藤2014bpp95-100"/>。
 
== 宗教 ==
歴史上のあらゆる国家と同様にプトレマイオス朝においても「宗教」、神々への崇拝は重要な意義を持っていた。プトレマイオス朝の宗教にはそれを特徴づける複数の要因があった。1つは伝統的なギリシア人たちの共同体にとって欠かす事ができなかった神々への崇拝であり<ref name="周藤2014bp105">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], p. 105</ref><ref name="シャムー2011pp455-459">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], pp. 455-459</ref>、いま1つは長い伝統を持ち、また「並外れて信心深い」(ヘロドトス)と評される土着のエジプト人たちの神々である<ref name="周藤2014bp105"/>。さらにヘレニズム時代に東地中海のマケドニア王朝の全てで進行していた支配者崇拝の隆盛<ref name="周藤2014bp106">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], p. 106</ref>が大きな影響を及ぼした。
 
=== セラピス ===
[[ファイル:Serapis Pio-Clementino Inv689 n2.jpg|thumb|right|カラトス(''calathos''、円筒形の籠、ラテン語ではモディウス)を乗せたセラピス(サラピス)の胸像。ローマ時代のコピー。]]
プトレマイオス朝時代に導入された新たな神として代表的なものが[[セラピス]](サラピス)である<ref name="周藤2014bpp114_115">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], pp. 114-115</ref>。セラピス神はより古い時代にエジプトに移住したギリシア人たちの間で信仰されていた習合神[[オセラピス]]神([[オシリス]]=[[アピス]])の神格に起源を持ち、一般的にはプトレマイオス1世時代にエジプトにおけるセラピス崇拝が確立されたと言われている<ref name="周藤2014bpp114_115"/><ref name="シャムー2011p475">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 475</ref>。各種の伝承はこの神の神性の創出と導入が宮廷主導で行われたことを示しており<ref name="周藤2014bpp116_117">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], pp. 116-117</ref>、アレクサンドリアに建設された{{仮リンク|アレクサンドリアのセラペウム|label=セラピス神殿|en|Serapeum of Alexandria}}がその信仰の中心となった<ref name="周藤2014bpp116_117"/>。この神はしばしば国家神としてギリシア人とエジプト人の双方から崇拝を受け、その融和と結束を図るために創造されたと言われる<ref name="周藤2014bp119">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], p. 119</ref>。しかし、実際にはセラピス崇拝はほとんどギリシア人の間でのみ見られるもので、エジプト人の間でそれが進んで崇拝されていた痕跡は乏しく、エジプトの地方にその信仰が浸透するのはローマ時代に入ってからである<ref name="周藤2014bpp119_120">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], pp. 119-120</ref>。このことから、恐らくセラピス神崇拝の確立の本来的な理由はギリシア人とエジプト人の統合を促すことではなかった。それはむしろ古くからエジプトに在住していたギリシア人たちの神を中核に据えることで、プトレマイオス朝の建国に伴って新たに移住してきたギリシア人たち(彼らもまた多様な背景を持ち、単純に一括りの存在ではなかった)がエジプトに住むギリシア人として共有できる神格を作り出すことにあったと考えられる<ref name="周藤2014bpp119_120"/><ref name="シャムー2011pp455-459"/>。実際にセラピスに対する儀礼はつとめてギリシア的な作法に従っており、その図像はゼウスのそれとほとんど区別がつかないものであった<ref name="シャムー2011p476">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 476</ref>。つまりこの神は、名前こそエジプトに起源を持つものの、それ以外全くギリシア的な神であり、ギリシアとエジプトの混交や一体化を示す要素は見られない<ref name="シャムー2011pp455-459"/>。
 
=== 支配者祭儀 ===
{{Quote box
| quote = 現実に恩恵を提供した者たちには、ほとんどの場合、正当に栄誉が払われたが、恩恵を提供する潜在力を持つ人物に対しても、栄誉は払われた。この「恩恵」には、今この瞬間に行われたものであれ、過去に行われたものであれ、救助(σωτήρία)、あるいは生命や富、また簡単には手に入らない品々などの保存が含まれる(中略)その栄誉を構成していたのは、犠牲、韻文または散文による(文学的)記念碑、名誉職である公的役職、(劇場の)最高席、墓、彫像、公的祝宴、一片の土地、あるいは-蛮族の行っているような-地に伏しての拝礼(προσκυνήσεις)、そして恍惚状態での歓呼(έκστάσεις)-要するに、その対象である個人が価値ある物と認めているものであった。
| source=-アリストテレス『弁論術』1.5.9<ref>[[#クラウク 2019|クラウク 2019]], p. 43 の引用より孫引き</ref>
| align = left
| width = 23em
}}
ヘレニズム時代を特徴付ける宗教的行為に、[[ポリス]]が生前からマケドニア系王朝の支配者を神の如き存在として崇拝する慣行がある<ref name="周藤2014bp106"/>。プトレマイオス朝の王たちもまたロドスを始めとしたギリシア人のポリスから神として祭儀を受けた。エジプトでは古くから王が神として崇められて来たが、このような慣行はエジプトの伝統ではなく、マケドニア系の諸王国とギリシア人ポリスの相互関係、そしてギリシアにおける伝統の中から現れてきたものとされている<ref name="周藤2014bp106"/><ref name="クラウク2019p39">[[#クラウク 2019|クラウク 2019]], p. 39</ref>。古代ギリシアにおいては元来、ポリスの創建者や独裁者からの解放者、戦死者などを「英雄」として神、または半神として祭儀を捧げる習慣があった<ref name="クラウク2019p41">[[#クラウク 2019|クラウク 2019]], p. 41</ref>。このことから[[ドイツ]]の神学者{{仮リンク|ハンス・ヨセフ・クラウク|en|Hans-Josef Klauck}}はギリシア人の精神的世界において、人は神の位階に昇ることが可能であるものであり、「神々と人間との境界」には抜け穴があったとしている<ref name="クラウク2019pp40_41">[[#クラウク 2019|クラウク 2019]], pp. 40-41</ref>。この様な崇拝は存命中の人物に対しても適用されるようになった。文献的な実例として存命中の人が神格化される最古の例は、前405年に[[ペロポネソス戦争]]で活躍した[[スパルタ]]の将軍[[リュサンドロス]]が神として祭られたものである<ref name="周藤2014bp106"/><ref name="クラウク2019p32">[[#クラウク 2019|クラウク 2019]], p. 32</ref>。神格化の対照となった人物は[[ソテル|救済者]](σωτήρ、''Sōtēr'')や[[エウエルゲテス|恩恵者]](Εὐεργέτης、''Euergétēs'')といった観念によって崇拝された<ref name="クラウク2019p43">[[#クラウク 2019|クラウク 2019]], p. 43</ref>。そして、ギリシアを征服した[[フィリッポス2世]]や[[アレクサンドロス3世]]といったマケドニアの王たちは自身の神格化された地位を要求したか、あるいはそれを要求していると考えたギリシア人の諸ポリスがこれに迎合して利益を得ようと図ったことによって、こうした王に対する神格化が常態化していったと考えられる<ref name="周藤2014bp119">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], p. 119</ref><ref name="クラウク2019pp45_46">[[#クラウク 2019|クラウク 2019]], p. 45-46</ref>。
 
マケドニア系の諸王朝は上記のようなギリシア人のポリスとマケドニア王の関係性を継承していた。プトレマイオス朝におけるこの支配者祭儀の端緒となったのは、[[ディアドコイ戦争]]中の前305年から行われたアンティゴノス朝のデメトリオス・ポリオルケテスによるロドス市の包囲である。この戦いでロドスは、プトレマイオス1世の多大な支援の結果、攻撃を防ぎきることに成功した<ref name="周藤2014bp111">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], p. 111</ref>。ロドス人はプトレマイオス1世の貢献を称え、リビュアのアメン(アモン)神にプトレマイオス1世を神として祭ることの是非を問うと、可との神託が下りたので、ロドス市内にプトレマイオンという聖域を設定して巨大な列柱館を建設した。そしてプトレマイオス1世に対して神に対するのと同様の祭儀が捧げられた<ref name="周藤2014bp111"/>。
 
実際に文献史料においてプトレマイオス1世が明確に神とされたことが確認できるのはその死後のことであるが<ref name="周藤2014bp112">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], p. 112</ref><ref name="拓殖1982p27"/>、プトレマイオス1世自身が発行したコインにおいて自らをゼウス神を連想させる姿で描かせていることから、彼が自身の神格化を積極的に推し進めていたことがわかる<ref name="周藤2014bp112"/>。同様の支配者祭儀はプトレマイオス2世時代以降も、ギリシアのポリスとプトレマイオス朝の関係においてポリス側が「自発的に」王を神として祭るという体裁を重視して継続された<ref name="周藤2014bp113">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], p. 113</ref>。
 
==== 王の神格化 ====
[[ファイル:Dionysos Louvre Ma87 n2.jpg|thumb|right|ディオニュソス像。[[ヘレニズム]]時代の作品のローマ時代のコピー。手足は18世紀の修復。]]
ギリシア人ポリスとの関係性とは別に、プトレマイオス朝の王たちは統治を安定させるための手段として、時々の政治情勢に対応しながら自らの神格化を継続的に行った。初代プトレマイオス1世以来、[[オリュンポス十二神|オリュンポス]]の神々に擬せられていたことが、[[貨幣学]]の成果や彫像などによって明らかとなっている<ref name="波部2012p187">[[#波部 2012|波部 2012]], p. 187</ref>。既に述べたようにプトレマイオス1世はゼウスと同一視された例が複数確認されており、プトレマイオス2世とその妻・姉のアルシノエ2世はゼウスと[[ヘーラー|ヘラ]]に見立てられていた<ref name="波部2012p188">[[#波部 2012|波部 2012]], p. 188</ref>。さらにプトレマイオス2世を[[ヘーラクレース|ヘラクレス]]や[[アポローン|アポロン]]に見立てる彫刻や文学作品が残されており、プトレマイオス3世、4世の時代には[[ヘーリオス|ヘリオス]]、[[ポセイドーン|ポセイドン]]、[[ヘルメス]]、[[アルテミス]]もまた王と同定された<ref name="波部2012p188"/>。プトレマイオス5世以降には、オリュンポスの神々のイメージは後退し、変わって[[ホルス]]や[[オシリス]]といったエジプトの神々との同定も行われるようになった<ref name="波部2012p190">[[#波部 2012|波部 2012]], p. 190</ref>。
 
こうした神々の中でも特に重要視されたのが[[ディオニューソス|ディオニュソス]]である。ディオニュソスは当時東地中海各地で人気を高めており、プトレマイオス朝においては初期の頃から王朝のシンボルであった<ref name="波部2012p200">[[#波部 2012|波部 2012]], p. 200</ref>。オリュンポスの神々のイメージが使用されなくなった後もディオニュソスと王との同定は強力に継続し<ref name="波部2012p190"/>、やがてプトレマイオス12世の時代には、王はディオニュソス神そのものとして「ネオス・ディオニュソス」とまで呼ばれるようになった<ref name="波部2012pp190,200">[[#波部 2012|波部 2012]], pp. 190, 200</ref>。プトレマイオス2世時代に創設された王朝の祭祀[[プトレマイエイア祭]]は、ギリシア世界において[[オリュンピア]]の祭典と同格の地位を与えられ<ref name="波部2012pp132_133">[[#波部 2012|波部 2012]], p. 133</ref>、園中では贅を尽くしてディオニュソスの神話が再現された<ref name="波部2012pp124_126">[[#波部 2012|波部 2012]], pp. 124-126</ref>。
 
こうした支配者として受ける祭儀、王と神とのイメージの重ね合わせを通じて、早くもプトレマイオス2世の治世には、故プトレマイオス1世が「救済神」(テオス=ソテル、''Theos Soter'')として明確に神格化され<ref name="拓殖1982p27">[[#拓殖 1982|拓殖 1982]], p. 27</ref>。プトレマイオス2世自身と妻・姉[[アルシノエ2世]]は生前の内に明確に神であることが明示された<ref name="クラウク2019p63">[[#クラウク 2019|クラウク 2019]], p. 63</ref><ref name="拓殖1982p27"/><ref name="シャムー2011p105"/>。この生前の神格化はこれ以来王朝が滅亡するまで継続した<ref name="クラウク2019p63"/>。
 
=== エジプトの神々 ===
[[ファイル:GD-EG-Edfou015.JPG|thumb|right|プトレマイオス朝時代に建造された[[エドフ神殿]]の[[ホルス]]像。]]
プトレマイオス朝の王たちはエジプト土着の伝統的な神々への祭祀を継続し、各神殿の守護者として振る舞った。[[ホルス]]、[[アヌビス]]、[[バステト]]、[[セクメト]]といった古い神々はなお人々の崇拝を受け続けており<ref name="長谷川2014pp67_68">[[#長谷川 2014|長谷川 2014]], pp. 67-68</ref>、また、[[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]の[[プタハ]]神殿やテーベの[[アメン]]神殿は旧時代から変わらず、最も強力な在地勢力を形成していた<ref name="櫻井2016">[[#櫻井 2016|櫻井 2016]]</ref><ref name="周藤2014a">[[#周藤 2014a|周藤 2014a]]</ref><ref name="周藤2014bpp312_330">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], pp. 312-330</ref><ref name="石田2004">[[#石田 2004|石田 2004]]</ref>。
 
プトレマイオス朝時代も伝統的建築様式に従ってエジプトの全土に神殿が建設されており、これらは現代に残る古代エジプトの宗教的建造物の中でもっとも保存状態が良好な一群を形成している<ref name="ウィルキンソン2002p27">[[#ウィルキンソン 2002|ウィルキンソン 2002]], p. 27</ref><ref name="スペンサー2009p66">[[#スペンサー 2009|スペンサー 2009]], p. 66</ref>。そのいくつかは古代エジプト時代を通じても最大規模のものであり、プトレマイオス3世時代に建設された[[エドフ神殿]]や[[フィラエ島]]の[[フィラエ神殿|イシス神殿]]、[[デンデラ]]の[[デンデラ神殿複合体|ハトホル神殿]]などが今なお往時の姿を留めている<ref name="スペンサー2009p66"/>。そこに描かれた王の姿は完全に伝統的なエジプトの様式に依っており、プトレマイオス朝の王たちが[[マアト]](秩序)を維持するエジプトの[[ファラオ]]として振舞っていたことを示す<ref name="スペンサー2009p66"/><ref name="ウィルキンソン2002p27"/><ref name="周藤2014bpp312_330"/>。
== 概要 ==
プトレマイオス朝はエジプトの伝統を取り入れて血族結婚を繰り返したとされ、200年以上エジプトを支配しながらエジプト人の血が混じらずマケドニア人の血脈を保ったとされていたが、[[クレオパトラ7世]]の妹である[[アルシノエ4世]]とされる骨の分析の結果、マケドニア系とアフリカ系の特徴を持っていたことが分かり、マケドニア人の血脈を保っていたという定説は覆った<ref name=nhk20090802>[[2009年]][[8月2日]]に放送された[[NHKスペシャル]]「シリーズ・エジプト発掘 第3集『クレオパトラ 妹の墓が語る悲劇』」で取り上げられた</ref>。
 
エジプトの神々の中にはプトレマイオス朝や後のローマ時代の思想的潮流と結びつき、またギリシアの神々のイメージも付与されて、広く地中海全域で信仰されるに至るものもあらわれた。その代表格は[[オシリス]]神の妻、かつ[[ホルス]]神の母である女神[[イシス]]であり、他に[[ハルポクラテス]]や聖牛[[アピス]]の信仰も広まった<ref name="小川1982p132">[[#小川 1982|小川 1982]], p. 132</ref>。イシスの神格はギリシアの女神[[アフロディテ]]などのイメージと重ね合わされることで著しく拡大し<ref name="小川1982"/>、セラピスのように全くギリシア的な姿に写されてエーゲ海沿岸のポリスで崇拝された<ref name="シャムー2011p477">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 477</ref>。こうしたエジプトに由来し、ギリシア的な改変を施された神々は、後のローマ時代の宗教の発達に少なからず影響を与えることになる<ref name="小川1982">[[#小川 1982|小川 1982]]</ref>。
代々「プトレマイオス」という名前を持った王が、姉・妹・叔母・姪などにあたる「ベレニケ」「アルシノエ」「クレオパトラ」という名前を持った女王と共同統治した。しかしプトレマイオス朝は一族内での殺し合いが頻繁に行なわれ、[[紀元前80年]]に同王朝の直系が断絶し、これに介入した[[共和政ローマ]]により、[[紀元前30年]]に滅ぼされた。
 
== 歴代プトレマイオス朝ファラオ ==
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| [[ベレニケ2世]]<small> (女王)</small>
| [[File:BerenikeIIOnACoinOfPtolemyIII.jpg|100px]]
| プトレマイオス3世の后。[[キュレネ]]王{{仮リンク|メガス (キュレネ王)|en|Magas of Cyrene|label=メガス}}の娘で、ベレニケ1世の孫<ref group="注釈">父メガスはベレニケ1世の前夫の子。</ref>。
| <small>前</small>244−<small>前</small>222年
|-
218 ⟶ 375行目:
| <small>前</small>80−<small>前</small>58年
|-
| [[クレオパトラ5世]] (6世)<ref group="注釈">クレオパトラ・セレネ1世をクレオパトラ5世として数えた場合、6世となる。</ref><small> (女王)</small>
|
| プトレマイオス12世の姉妹で后。
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references/>
{{Reflist|group="注釈"}}
 
=== 出典 ===
{{Commonscat|Ptolemaic dynasty|プトレマイオス朝}}
{{reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
=== 史料 ===
* {{Cite book |和書 |author=[[アッリアノス]] |translator=[[大牟田章]] |title=アレクサンドロス大王東征記 上 付インド誌 |series=[[岩波文庫]] |publisher=[[岩波書店]] |date=2001-6 |isbn=978-4-00-334831-4 |ref=アッリアノス}}
* {{Cite web |author=[[アッピアノス]] |url=https://www.livius.org/sources/content/appian/appian-the-syrian-wars/ |title=シリア戦争 |publisher=livius.org |accessdate=2019-5|ref=アッピアノス }}(英訳)
* {{Cite web |author= |date=2019-4|url=https://www.livius.org/sources/content/mesopotamian-chronicles-content/bchp-11-invasion-of-ptolemy-iii-chronicle/ |title=BCHP11 |publisher=livius.org |accessdate=2019-5|ref=BCHP11 }}(英訳)
* {{Cite book |和書 |author=[[ポリュビオス]] |translator=[[城江良和]] |title=[[歴史 (ポリュビオス)|歴史]] 2 |publisher=[[京都大学|京都大学学術出版会]] |series=[[西洋古典叢書]] |date=2007-9 |isbn=978-4-87698-169-4 |ref=ポリュビオス 2007 }}
* {{Cite book |和書 |author=[[ポリュビオス]] |translator=[[城江良和]] |title=[[歴史 (ポリュビオス)|歴史]] 3 |publisher=[[京都大学|京都大学学術出版会]] |series=[[西洋古典叢書]] |date=2011-10 |isbn=978-4-87698-192-2 |ref=ポリュビオス 2011 }}
* {{Cite book |和書 |author=[[グナエウス・ポンペイウス・トログス]] |author2=[[ユスティヌス]] 抄録 |translator=[[合阪學]] |title=地中海世界史 |publisher=[[京都大学|京都大学学術出版会]] |series=[[西洋古典叢書]] |date=1998-1 |isbn=978-4-87698-156-4 |ref=ユスティヌス 1998 }}
 
=== 書籍・論文 ===
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* {{Cite book |和書 |author=[[小川英雄]] |chapter=2 ミトラス・イシス・サバシオスの崇拝 |title=オリエント史講座 3 渦巻く諸宗教 |pages=116-136|publisher=[[学生社]] |date=1982-3 |isbn=978-4-311-50903-2 |ref=小川 1982 }}
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* {{Cite journal |和書 |author=[[櫻井かおり]] |date=2016 |title=プトレマイオス朝最末期におけるメンフィスのプタハ神官団 : BM EA 184の再考察 |journal=史友 |volume=48 |pages=23-35 |publisher=[[青山学院大学|青山学院大学史学会]] |naid=40020838248 |url=https://ci.nii.ac.jp/naid/40020838248 |accessdate=2019-5 |ref=櫻井 2012}}
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* {{Cite journal |和書 |author=[[周藤芳幸]] |date=2014-3 |title=南部エジプト大反乱と東地中海世界 |journal=名古屋大学文学部研究論集 |volume=60 |pages=1-16 |publisher=[[名古屋大学|名古屋大学文学部]] |naid=120005418049 |url=https://nagoya.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=17697&item_no=1&page_id=28&block_id=27 |accessdate=2019-5 |ref=周藤 2014a}}
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* {{Cite book |和書 |author=[[フランク・ウィリアム・ウォールバンク]] |translator=[[小河陽]] |title=ヘレニズム世界 |publisher=[[教文館]] |date=1988-1 |isbn=978-4-7642-6606-3 |ref=ウォールバンク 1988}}
 
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