メインメニューを開く

プトレマイオス朝

古代エジプトの王朝

プトレマイオス朝前305年-前30年)はグレコ・マケドニア人を中核とした古代エジプトの王朝。アレクサンドロス3世(大王)の死後、その後継者(ディアドコイ)となったラゴスの子プトレマイオス(1世)によって建設された。建国者の父親の名前からラゴス朝とも呼ばれ、セレウコス朝アンティゴノス朝とともに、いわゆるヘレニズム国家の一つに数えられる。首都アレクサンドリアは古代地中海世界の経済、社会、文化の中心地として大きく発展し、そこに設けられたムセイオンと付属の図書館(アレクサンドリア図書館)を中心に優れた学者を多数輩出した。対外的にはシリアを巡ってセレウコス朝と、エーゲ海の島々やキュプロス島を巡ってアンティゴノス朝と長期にわたって戦いを繰り返したが、その終焉までエジプトを支配する王朝という大枠から外れることはなかった。

ローマが地中海で存在感を増してくると、プトレマイオス朝はその影響を大きく受け、ローマ内の政争に関与すると共に従属国的な色彩を強めていった。実質的な最後の王となったクレオパトラ7世はローマの有力政治家ユリウス・カエサルマルクス・アントニウスと結んで生き残りを図ったが、アントニウス軍と共にオクタウィアヌスと戦ったアクティウムの海戦での敗北後、自殺に追い込まれた。プトレマイオス朝の領土はローマに接収され、帝政の開始と共に皇帝属州アエギュプトゥスが設立された。

目次

歴史編集

アレクサンドロス3世とディアドコイ編集

アレクサンドロスはリビュアなるアモン(アメン)に詣でたいという強い願望にとりつかれた。ひとつにはこの神に託宣を受けるためだった。アモンの神託は決して過つことがなく、ペルセウスポリュデクテスの命令でゴルゴ退治に遣わされたさいに、またヘラクレスもリビュアにアンタイオスを訪ね、ブシリスをエジプトに訪れた折りに、いずれもここで託宣をうかがったと伝えられていたからだ。それにアレクサンドロスにはペルセウスやヘラクレスと張りあう気持があった。彼はこのふたりの英雄の末裔であったし、また伝説がヘラクレスやペルセウスの出生をゼウスに結びつけているように、彼自身は自分の生まれをアモンに結びつけていたからでもある。
-アッリアノス『アレクサンドロス大王東征記』第3巻§3[1]

マケドニア王国の王、アレクサンドロス3世(大王、在位:前356年-前323年)は、当時西アジアの大半とエジプトを支配していたハカーマニシュ朝(アケメネス朝)を征服するべく、前334年に東方遠征に出発し[2]、その途上、前332年にはエジプトに入り、これを無血平定した[3][4]。彼はファロス島の対岸、ナイルデルタ西端の地点が良港であると見て、建築家デイノクラティスに都市計画を命じたという[5][6]。こうしてアレクサンドリア市の建設が始まった[5][6]。この都市はその後エジプト最大の都市へと発展し、プトレマイオス朝の王都として機能するようになる。アレクサンドロス3世は前322年にはエジプト西部の砂漠にあるアメン神(ゼウスと同一視された)の聖所シワ・オアシスを訪れ、「人類全体の王となれるか」と質問をし、「可」という神託を受けたと伝えられる[6]

アレクサンドロス3世は前331年4月にエジプトを離れてハカーマニシュ朝の残された領土の征服に向かい[7]、生前にエジプトに戻ることはなかった。彼は331年9月のガウガメラの戦いで勝利し、逃亡したハカーマニシュ朝の王ダーラヤワウ3世(ダレイオス3世)は部下の裏切りによって殺害された[8]。その後、ハカーマニシュ朝の領土のほとんど全てをアレクサンドロス3世が征服したが、彼は前324年にバビロン市で病没した[9]。残された将軍たちはアレクサンドロス3世の後継者(ディアドコイ)たるを主張して争った。一連の戦いはディアドコイ戦争と呼ばれる。当初主導権を握ったのは宰相(キリアルコス古代ギリシア語: χιλίαρχος)のペルディッカス、有力な将軍であったクラテロス、遠征中にマケドニア本国を任されていたアンティパトロスらであった[10]。他、メレアゲルレオンナトスアンティゴノス・モノフタルモス(隻眼のアンティゴノス)、そしてラゴスの子プトレマイオス(1世)らも有力な将軍の列に加わっていた[11][10]

プトレマイオスはマケドニアの貴族ラゴス英語版アルシノエ英語版の間の子である[12]。母アルシノエはアレクサンドロス3世の父であるマケドニア王フィリッポス2世であり、後にラゴスに下げ渡されてその妻となりプトレマイオスを産んだ[12]。この経緯から、アルシノエは下げ渡された時点で既にフィリッポス2世の子を身ごもっており、即ちプトレマイオスはフィリッポス2世の落胤(アレクサンドロス3世の異母兄弟)であるという言い伝えが生まれた[12]。これが事実であるかどうかはともかくも、プトレマイオスは世代・身分ともにアレクサンドロス3世に近く、その学友として育ち、友人(ヘタイロイ)として、また信頼厚い将軍として東方遠征で様々な任務に従事した人物であった[12]

エジプトはギリシア人であるナウクラティスのクレオメネスの管理下に置かれていたが、バビロン会議の後、プトレマイオス1世がエジプトの実質的な支配権を掌握した[13][10]。その後、ペルディッカスがアレクサンドロス3世の異母兄アリダイオスと遺児アレクサンドロス4世を管理下に置き、帝国の大部分において事実上の首位権を確保したの対し、プトレマイオスはアンティゴノス、ヘレスポントスを支配するリュシマコス、本国のアンティパトロスらと結んで対抗し[14][10]、親ペルディッカスとみなしたクレオメネスを殺害した[13]。そして自らの立場を強化するためにマケドニア本国へ輸送されるはずであったアレクサンドロス3世の遺体を奪取してエジプトに運び込み、盛大な式典と共にメンフィスに作った仮墓に埋葬した[15][16]。その後遺体は、アレクサンドリアの墓所「セマ」に安置され、水晶の棺に納められたという[17]。また、西方のギリシア人植民市キュレネも征服してリビュア方面を確保した[18]。ペルディッカスは前321年[注釈 1]にプトレマイオスを討つためにエジプトに出兵したがナイル川の渡河に失敗、セレウコスら部下たちに見切りをつけられ暗殺された[19][14]

王朝の建設編集

ペルディッカスの死後、シリアのトリパラディソスで会議がもたれ、改めて各ディアドコイの領土の配分が話し合われた[19]。この会議でもプトレマイオスはエジプトの支配権を維持した[19]。長老格のアンティパトロスがペルディッカスに代わってアリダイオスとアレクサンドロス4世の後見を任されたが、前319年にアンティパトロスが死んだ後その地位を継承したポリュペルコンに対して各ディアドコイたちが反対して同盟を結び、プトレマイオスもこれに加わった[20]。以降、アンティゴノス、カルディアのエウメネス、セレウコス、リュシマコス、アンティパトロスの子カッサンドロスと言ったディアドコイ諸侯たちとの間で同盟と対立が繰り返され、アレクサンドロス3世の帝国は次第にに分割されて行くことになる[21][22]

以降の戦いの中で中心的役割を演じたのはアレクサンドロス帝国の大半に権威を確立したアンティゴノスとその息子デメトリオス・ポリオルケテス(都市攻囲者デメトリオス)である[23]。プトレマイオスは今度はマケドニア本国を抑えたカッサンドロスバビロニアを追われたセレウコス、リュシマコスらと結んでアンティゴノスに対抗し[24]、シリアおよび海上でアンティゴノスの息子デメトリオスと戦った[25]。プトレマイオスはこの過程で、前310年には海路でギリシアに遠征し、小アジア南岸のリュキアカリアキュクラデス諸島の他、一時的ながらペロポネソス半島の一部を支配下に置いた[26]。しかし、前306年にはサラミスの海戦でアンティゴノスの息子デメトリオス・ポリオルケテス(都市攻囲者デメトリオス)に敗れキュプロス島を奪われた。この勝利に勢いづいたアンティゴノス(1世)は、息子デメトリオス(1世)と共に同年中に王位を宣言した(アンティゴノス朝[27]

キュプロス島での勝利の余勢を駆ったデメトリオスはさらにエジプトに進軍したが、嵐のために大敗しシリアへと引き上げた[28]。これを挽回するために彼がロドスを抑えるべく包囲すると、プトレマイオスはカッサンドロス、リュシマコスらとともにロドスを支援し、1年にわたる包囲(ロドス包囲戦)の末にデメトリオス軍を撃退した[28]。この結果プトレマイオスはロドス人たちから神として祀られ、ソテル(Sôter、救世主)と渾名されることになる[28]。そして前305/304年、アンティゴノス親子の後を追ってプトレマイオスも王位を宣言し(在位:前305年-前282年)、エジプトを支配する王家(プトレマイオス朝)が公式に誕生した[29]

前301年のイプソスの戦いでアンティゴノス1世がセレウコス1世、リュシマコス、カッサンドロスの連合軍に敗れ戦死すると、それに乗じたプトレマイオス1世はアラドスダマスカス以南のシリア、およびリュキア、キリキアピシディアの一部を支配下に置いた[30]。一方、アジアではリュシマコスをも滅ぼしたセレウコス1世(セレウコス朝)がシリアからインダス川に至る広大な地域を支配下に置いて覇者となった[31]。デメトリオス1世はマケドニアに渡り再起を図った[31]。やがて、彼の息子のアンティゴノス2世(アンティゴノス・ゴナタス)がマケドニア本国にアンティゴノス朝を確立していく。プトレマイオス朝はこのセレウコス朝やアンティゴノス朝と共にヘレニズム王朝の1つに数えられ、これらと東地中海地域の覇権を巡って争った。

王朝の完成編集

 
紀元前300年頃のプトレマイオス朝の領土(青)

プトレマイオス1世は前283年に死去し[32]、その前に共同統治者となっていた息子のプトレマイオス2世(フィラデルフォス、在位:285年-前246年)が後継者としてエジプトを統治した[33]。プトレマイオス2世は内乱や対外戦争では多くの苦難を味わったものの、父親が作り上げた行政機構の整備や知的活動を引き次いで組織化し[33]、プトレマイオス2世と続くプトレマイオス3世の時代はプトレマイオス朝の絶頂期であるとされる[33][34][35]

プトレマイオス2世は父王の死後、セレウコス朝と激しい争いを繰り広げた。前281年にセレウコス1世がプトレマイオス・ケラウノス[注釈 2]に暗殺された後、セレウコス朝の支配者となっていたアンティオコス1世は、プトレマイオス朝の勢力を弱めようと画策し、プトレマイオス2世の政治基盤を揺さぶった[36][31]。アンティオコス1世はキュレネの統治者に任命されていたマガス英語版に働きかけ、彼を臣下のギリシア人たちと共にプトレマイオス2世から離反させた[33]。マガスはプトレマイオス2世の異父兄弟であり、プトレマイオス1世によってキュレネの支配者とされていた人物である。また、アンティオコス1世の娘アパマ(アパメー)と結婚していた[36][注釈 3]。さらに前274年から前271年にかけて、第一次シリア戦争が戦われた[36]。シリアに侵攻したプトレマイオス2世は敗れたが、この戦争自体は痛み分けに終わった[36]。続いて10年後にはセレウコス朝の新王アンティオコス2世との間で第二次シリア戦争が勃発し、プトレマイオス2世はシリア、小アジア方面で大幅な後退を余儀なくされた[36]。以降数世紀にわたって繰り返しシリア戦争が両王朝の間で戦われることになる。

また、プトレマイオス2世はエーゲ海方面では小アジアやエーゲ海の拠点を強化し、アンティゴノス朝と対立するアテナイやその他のギリシア人ポリスを支援して東地中海での勢力基盤を固めようとした[37][36]。前265年頃にアンティゴノス朝とアテナイ、スパルタを中心としたギリシアのポリス連合との間でクレモニデス戦争が勃発すると、海軍を派遣してアテナイ・スパルタを支援した[38][39][注釈 4]。この戦争はリュシマコスとその妻でプトレマイオス2世の姉にあたるアルシノエ2世の息子プトレマイオスをマケドニアの支配者とすることを目論んでのものであったと言われる[40][注釈 5]。しかし、この戦争も前261年にアテナイがアンティゴノス朝によって陥落させられ敗退に終わった[38][39][43]

 
ファロス島の大灯台の想像図。

こうした軍事上の失敗のために、東地中海におけるプトレマイオス朝の影響力は一時低下したものの、プトレマイオス2世統治下におけるエジプトの繁栄は多くの史料によって明らかになっている[41]。彼は支配地であるエジプトから得られる豊かな収入を用いて壮大な宮殿、神殿を建設し、またムセイオンアレクサンドリア図書館として名高い図書館を建設して各地から優れた学者を招聘した[41][注釈 6]。このムセイオンの付属図書館は一説には50万とも70万とも言われる蔵書を抱え、ギリシア語の古典の校正や研究など、古典古代の学術発展に大きな影響を残すことになる[45]。アレクサンドロス3世以来続けられてきた都市アレクサンドリアの建設自体もプトレマイオス2世時代にはほぼ完成するにいたり、地中海最大の都市・学芸の中心として多くの著作家たちの語り草となるようになった[46][47]

また、王朝の権威を高めるための王室崇拝儀礼もプトレマイオス2世の時代に大きく整備された。父プトレマイオス1世を「救済神」(テオス=ソテル、Theos Soter)としたのを皮切りに、母ベレニケ1世も死後神々の座に加えた[48]。さらに妻とした実姉アルシノエ2世も「弟を愛する女神」(テア=フィラデルフォス、Thea Philadelphus)として神格化し、その死後には自らを妻とともに「姉弟の神々」(テオイ=アデルフォイ、Theoi Adelphoi)として神の座に加えた[48][49]。こうして王が神として統治するエジプトの伝統がプトレマイオス朝の支配に適合するように調整された[49]。このようなプトレマイオス2世の処置はその後のプトレマイオス朝の王たちの範となった。以降プトレマイオス王家では兄弟姉妹婚と生前から神として崇拝を受けることが慣例となる[50][49]

プトレマイオス3世の征服活動編集

大王プトレマイオスは父方にはゼウスの子ヘラクレスの子孫より、母方にはゼウスの子ディオニュソスの子孫より生まれし、テオイ・ソテレス(救済神)たるプトレマイオス(一世)と王妃ベレニケ(一世)の子、テオイ・アデルフォイ(愛姉神)たる王プトレマイオス(二世)と王妃アルシノエ(二世)の子にして、父より(中略)王国を受け継ぎ、(中略)アジアへ遠征した。彼はエウフラテス河のこちら側(西岸)の地域、パンピュリアイオニアヘレスポントストラキアにわたる全地域と、これらの地域の全軍とインド象の支配者となり、これらの全地域における領主を従属させ、エウフラテス河を渡り、彼自身、バビロニアスシアナペルシスメディア、そしてバクトリアにいたるあらゆる地域において、ペルシア人によってエジプトから持ち去られた、いかなる聖物を彼自身が探し出し、この地域から得られた他の財宝とともに、エジプトへと回復し、(ユーフラテス)河に沿って兵を帰還させた(以下、欠損)
-プトレマイオス朝の第三次シリア戦争戦勝記念碑文[51]

246年、父の跡を継いで王位についたプトレマイオス3世(エウエルゲテス、在位:前247/246年-前222/221年)は、父王の代に離反していたキュレネの奪回に取り組んだ。キュレネを支配していたマガスは娘のベレニケ2世をプトレマイオス3世と結婚させる予定でいたが、マガスの死後、その妻アパマはベレニケ2世の結婚相手としてアンティゴノス・ゴナタスの弟デメトリオス英語版(美男王)を希望した[49]。しかしベレニケ2世はデメトリオスを暗殺し、自らはプトレマイオス3世と結婚する道を選んだ[49]。これによってキュレネ市はプトレマイオス朝の支配に復したが、キュレナイカの他の都市は反抗したため、結局軍事的処置によって再征服が行われた[49]。同時に、東方では前246年以降、セレウコス朝の領土奥深くへ進軍した(第三次シリア戦争)。アッピアノスの記録によれば、この戦争はセレウコス朝の王アンティオコス2世に嫁いでいたプトレマイオス3世の姉妹ベレニケが、別の妻ラオディケに息子もろとも殺害されたことに対する報復として始まったという[52][53]。プトレマイオス3世はそれに先立ってアンティオコス2世がラオディケに毒殺された際にベレニケから支援を求められアンティオキアへと進軍していたが、到着した時には既にベレニケ母子も殺害された後であり、そのままアンティオキアを攻略して戦争に突入した[54]

この第三次シリア戦争において、プトレマイオス3世はプトレマイオス朝の王としては対セレウコス朝の戦いで最大の成功を収めた。彼はシリア地方を席巻し、メソポタミアを突き抜けてバビロニアまで進軍した[53]。バビロン市の包囲では現地軍の頑強な抵抗に合い、激しい戦闘が繰り広げられたことが現地の楔形文字史料である『バビロニア年代誌』の記録によって明らかとなっている[55][注釈 7]。この年代誌は結末の部分が欠落しており、エジプト軍が最終的にバビロンの占領に成功したのかどうか不明瞭である[56]。プトレマイオス朝が建設した戦勝記念碑文では、バビロニア、小アジアに加えバクトリアペルシアメディアなど、セレウコス朝の全領土における成功が宣言されているが[53][57]、これが事実であるかどうかも不明である。単純な事実としてはこの戦争の集結後間もなく、セレウコス朝はバビロニアとシリアの支配を回復している[53]。しかしそれでもなお、小アジアのエーゲ海沿岸部やシリア南部(コイレ・シリア)、そしてさらにセレウコス朝の首都アンティオキアの外港セレウキア・ピエリア英語版までもがプトレマイオス朝の支配下に残った[53][58]

プトレマイオス3世はこの戦争の後は大規模な対外遠征は行っていないが[59]、それでもさらなる勢力拡張を目指して、アテナイやアカイア同盟などギリシアの政情に介入を繰り返し、またアテナイの外港ペイライエウスに駐留していたアンティゴノス朝の軍団を撤退させた[59]。これに対してアテナイは市民団の13番目の「部族」として「プトレマイス」を新設するという栄誉で応えた[59]

後期プトレマイオス朝編集

エジプトではプトレマイオス(引用注:4世)が全く異なった状態にあった。即ち、近親殺しで王国を手に入れ、両親を殺したのに加えて、さらに兄弟をも殺害して、彼は、あたかも事がうまく運んだかのように思って贅沢に身を任せ、また、王宮全体も王のやり方に従ったのである。その結果、幕僚や長官たちだけでなく、全軍隊も軍事に精励するのをやめて、安逸と無為でだれ切り、腐り果てた。
-ポンペイウス・トログス、ユスティヌス抄録『地中海世界史』第30巻§1[60]

伝統的な見解では最初の3代の治世が終わった後、プトレマイオス朝は領土の縮小、反乱の多発、王室の内紛などにため徐々に衰退へ向かっていったとされている[61][59][62][注釈 8]プトレマイオス4世(在位:前222/221年-前204年[注釈 9])は、父を殺害して即位したことに対する皮肉から「フィロパトル英語版Philopator、父を愛する者)という異名が与えられている[69]。彼は即位に伴う流血とその放蕩な生活ぶりで名を知られている。両親の他、即位してから1年のうちに、母ベレニケ2世と弟マグス、叔父リュシマコスを殺害し、アレクサンドリアのギリシア人ソシビオスに唆されて遊蕩にふける生活を送るようになったという[70][71][67][注釈 10]

プトレマイオス4世が即位して間もなく重大な問題となったのが同時期にセレウコス朝で新たに即位したアンティオコス3世(大王、在位:前223年-前187年)の脅威であった。プトレマイオス朝の王位継承に伴う混乱を好機と見たアンティオコス3世は前219年に第三次シリア戦争で失ったコイレ・シリアとセレウキア・ピエリアの奪還を目指して侵攻を開始し、第四次シリア戦争が勃発した[70]。初年度のうちに全シリアがセレウコス朝の手に落ちたが、プトレマイオス4世はエジプト本国への攻撃を阻止することに成功し、さらに現地エジプト人2万人を軍隊に編入するという改革を実施することで軍団を強化した[72]。そして前217年にヘレニズム時代最大規模の会戦であるラフィアの戦いでセレウコス朝の軍隊を撃破することに成功し、セレウキア・ピエリアを除くコイレ・シリアを奪回した上で講話を結んだ[72][73][74]

プトレマイオス(四世)のところでは、この(ラピアの戦いの)すぐあと、エジプト人との戦争が勃発した。この王はアンティオコス(引用注:3世)との戦争に備えてエジプト人に武器を与えていたのだが、これはその場面に限っていえば首肯できる方法ではあっても、将来のためにはつまづきの石となった。というのもラピアの勝利によって自信をふくらませたエジプト人たちは、もはやおとなしく命令に忍従するのをいさぎよしとせず、自分の力で身を守ることのできる人間として、それにふさわしい指導役の人物を求めるようになったのである。この要求はしばらくのちに実現することになる[注釈 11]
-ポリュビオス『歴史』第5巻§107[75]

しかし、この勝利の後のエジプト国内での反乱が、財政の悪化と共にプトレマイオス朝にとって重い負担となった[76]。反乱が頻発した背景には、軍隊の一員として大きな役割を果たしたエジプト人たちがある種の民族主義的な自意識を獲得し、中央政府の支配に復さなくなったとする見解が(古典古代から)伝統的に採用されている[63][72][77]。このような見解には批判があるが[63]、原因は別としても前207/205年頃にはテーベを中心とする上エジプトが将軍ハロンノフリス(ヒュルゴナフォル)とカロンノフリス親子を戴いてプトレマイオス朝から離反し、深刻な脅威をもたらした(南部大反乱)[78][76][74][注釈 12]

この反乱の発生直後、プトレマイオス4世が死亡して僅か6歳のプトレマイオス5世(在位:前204年-前180年)が即位し、実権は延臣のソシビオスとアガトクレスが握った[80]。しかし老齢のソシビオスは間もなく死亡し、アガトクレスも前203年には軍のクーデターにより殺害された[80][73]。幼少の王の即位と混乱を好機と見たセレウコス朝のアンティオコス3世とアンティゴノス朝のフィリッポス5世は前202年にコイレ・シリアに侵入して第五次シリア戦争が勃発した[81]。前202年までにはエジプトとの境界に至る全シリアがセレウコス朝の支配下に入り、同時にアンティゴノス朝のフィリッポス5世も、他のギリシア人ポリスもろとも、エーゲ海のプトレマイオス朝の支配地であったキュクラデス諸島ミレトスに攻撃をかけてこれを占領した[81]

ローマの拡張とプトレマイオス朝編集

拡大するアンティゴノス朝の脅威に晒され、敗戦と内乱の渦中にあるプトレマイオス朝の支援も当てにできなくなったエーゲ海のギリシア人ポリス、ロドスビュザンティオンキオス、そしてペルガモン王国アッタロス1世らは対アンティゴノス朝の同盟を結ぶと共に、第二次ポエニ戦争に勝利して地中海に覇権を確立しつつあったローマの支援を求めた[82]。ローマはギリシア情勢に介入し、前197年のキュノスケファライの戦いでアンティゴノス朝の軍団を打ち破ってギリシアにおけるアンティゴノス朝の領土を独立させ、同国の外交権を剥奪した[83][84]。続いてギリシアへと勢力を拡張しようとしたセレウコス朝のアンティオコス3世も前191年のテルモピュライの戦い英語版と前190年のマグネシアの戦いでローマに敗れ、東地中海におけるローマの影響力は一挙に拡大した[85]

 
ロゼッタ・ストーン。大英博物館収蔵

こうした政治的動向の中で、プトレマイオス朝も次第にローマとの関わりを拡大させていく。ローマはこの時、プトレマイオス朝に対して好意的であり、アンティゴノス朝に対してプトレマイオス朝の領土に手を出さないよう警告を出した[86]。しかしプトレマイオス朝はローマとセレウコス朝の和約においては何ら関与することができず、地中海における影響力の低下も明らかにであった[86]。国内では政権を握ったアカルナニアアリストメネスが前196年にメンフィスでプトレマイオス5世の宣布式[注釈 13]が執り行ない、国内の支持を集めるため土地の授与や免税などが宣言された[86][73]。この宣言文が刻まれた石碑が1799年に発見されており、現在はロゼッタ・ストーンの名で知られている[73]。これはエジプト語の解読に決定的な役割を果たすことになる[88][89]。また、セレウコス朝との関係を改善すべくアンティオコス3世の娘クレオパトラ1世との婚姻も結ばれた[88][89]。これらを通じて国内外の情勢が安定したことで、南部の反乱対応に注力することが可能となり、プトレマイオス5世は前186年に南部の反乱を鎮圧することに成功した[90][77]

前180年、プトレマイオス5世が死去するとプトレマイオス6世(在位:前180年-前145年)が父親と同じく幼くして即位した[91][89]。当初は母クレオパトラ1世が後見を務めていたが、彼女が死去すると、プトレマイオス6世は第五次シリア戦争で失ったコイレ・シリアを奪回するべく前170年にシリアへ侵攻した(第六次シリア戦争)[89]。しかしペルシウム近郊で大敗を喫し、セレウコス朝の王アンティオコス4世に捕らえられた[92][91][89]。この結果エジプトでは新たに弟のプトレマイオス8世(在位:前170年-前163年)が擁立された[89]

アンティオコス4世がプトレマイオス6世を傀儡とすることを目論み、プトレマイオス6世がナイルデルタを、プトレマイオス8世がメンフィス以南を統治するという形でエジプトが分割されたが[89]、自立を目指すプトレマイオス6世はプトレマイオス8世と同盟を結んでローマの支援を求めた[89][92]。これに対してアンティオコス4世はキュプロス島を占領するとともにエジプトに侵攻してメンフィスを占領しアレクサンドリアを包囲した[89][92]。窮地に陥ったプトレマイオス朝はローマの元老院に仲裁を求め、ローマは元コンスルガイウス・ポピリウス・ラエナスらを特使として派遣した[92][89]。エジプトでアンティオコス4世と面会したポピリウスは、セレウコス朝のキュプロス島とエジプトからの撤退を強硬に要求し、これに屈したアンティオコス4世は本国へと撤退した[92][89]。これは東地中海の支配者としてのローマの力を示すエピソードとなった[92][89]

プトレマイオス6世はエジプト王の地位を認められたが[93]、共通の利害で結ばれていたプトレマイオス6世とプトレマイオス8世の関係は、セレウコス朝の脅威が去ったことですぐに対立へと変わった[94]。プトレマイオス8世はエジプト王位を求め、前163年にローマに自らの地位の承認を求めた[94]。交渉の末、かつてプトレマイオス1世の息子マガスがキュレネを分割した前例に倣い、プトレマイオス6世がエジプト王、プトレマイオス8世がキュレネ王とすることが定められた[94]。しかしプトレマイオス8世がこれに満足することはなく、彼はローマに自ら出向いて、キュプロス島の領有権をも主張した[94]。ローマの元老院は彼の主張を認め、キュプロス島が平和的にプトレマイオス8世に譲渡されるべきであると宣言したが、プトレマイオス6世はこれを拒否し、ローマも直接的な介入を行わなかったため、この宣言は履行されなかった[94]。前156年から前155年にかけて、プトレマイオス6世はプトレマイオス8世を暗殺する挙に出たが失敗し、負傷したプトレマイオス8世は再びローマに出向いて自らの傷を見せて庇護を求め、またローマ人の好意を確かなものにするために、後継者無く自分が死んだ場合にはキュレネの王国をローマ人に遺贈するという遺言状を書いた[94]。こうしてローマとの関係を強化したプトレマイオス8世はキュプロス島の武力占領を試みたが、敗れて捕らえられた[95]。しかし、ローマを恐れたプトレマイオス6世はプトレマイオス8世の罪を問うことなく釈放し、キュレネに帰した[95]

前145年、プトレマイオス6世はセレウコス朝に嫁がせていた娘のクレオパトラ・テアが宮廷紛争で窮地に陥ったのを助けるため出兵したが、重傷を負い、程なくして死亡した[95][96]。寡婦となったプトレマイオス6世の妻クレオパトラ2世は息子のプトレマイオス(7世、在位:前145年)を王として擁立した[95][96]。しかし、プトレマイオス8世はこれを好機としてエジプトに侵攻しアレクサンドリアを占領した[95][96]。クレオパトラ2世は息子の助命と引き換えにプトレマイオス8世との結婚を承諾し、ここにプトレマイオス8世(復辟、在位:前145年-前116年)、クレオパトラ2世、プトレマイオス7世の共同統治体制が成立することになった[97][96][注釈 14]。しかし実際には婚礼の当日にプトレマイオス7世は殺害された[97][96]。そしてさらに、プトレマイオス8世がクレオパトラ2世の娘クレオパトラ3世とも結婚し王妃とした後、この母娘の間にも激しい対立が生じ、宮廷闘争は民衆をも巻き込んで激化した[97][98][99]

即位の経緯からプトレマイオス8世はエジプト本国で人気が無く、同情も手伝って民衆はクレオパトラ2世への支持を強めた[100][98]。前132年にクレオパトラ2世が民衆を扇動して暴動を起こさせると、プトレマイオス8世はクレオパトラ3世と共にエジプトを脱出してキュプロス島へと逃れた[100][98]。プトレマイオス8世は報復のためにクレオパトラ2世との間に儲けた息子プトレマイオス・メンフィティスを殺害してバラバラにした遺骸を彼女に送り付けたという[100]。この事件は激しい報復合戦を産み、当時の世相は「蛮風(Amixia)」という表現で記憶された[100]。2年に及ぶ内戦の末、クレオパトラ2世はセレウコス朝の王デメトリオス2世英語版を頼ってシリアに亡命し、プトレマイオス8世が完全なエジプト王位を回復した[101]。彼はクレオパトラ2世に組したギリシア人組合に報復的な処置をとると共に、アレクサンドリアに在住していた学者や知識人にも不信の念を向け、これを恐れた学者たちがアレクサンドリアから去っていった[101]。一方で前118年には大赦令が発布され、内乱の混乱を収める努力もなされた[102]

慢性的な内紛とローマへの従属編集

プトレマイオス8世が前116年に死去した後、プトレマイオス朝はその滅亡まで慢性的な内紛と分裂に苦しみ、しかもプトレマイオス8世のように、それを収拾することのできる強力な支配者を見ることもなかった。遺言によってエジプトの支配権を継承したのはプトレマイオス8世の妻クレオパトラ3世であり、彼女は息子のプトレマイオス9世(在位:前116年-前110年、前109年-前107年、前88年-前81年)に王位を授けたが、彼は弟のプトレマイオス10世(在位:前110年-前109年、前107年-前88年)と激しい権力闘争を繰り広げた。そしてプトレマイオス9世は間もなく母親殺しを図ったとして地位を追われ前106年キュプロス島へ逃亡した[103]。これはクレオパトラ3世がプトレマイオス10世を溺愛していたため、彼に王位を与えるための謀略であったとも言われている[103]。クレオパトラ3世は息子のプトレマイオス10世と結婚したが、その溺愛にもかかわらず前101年にプトレマイオス10世によって殺害されたと言われている[103][104]。その後も兄弟は争いを続け、前88年にプトレマイオス10世が殺害されたことでプトレマイオス9世の勝利が確定した[103][104]

この争いの最中、キュレネではプトレマイオス8世の庶子プトレマイオス・アピオンがキュレネ王を名乗ってプトレマイオス朝の支配から離れた[104]。彼は父親と同じく後継者無きまま死亡した際にはその領土をローマ人に譲渡するという遺言を作成してローマの支持を得たが、実際に後継者の無いまま死去したためキュレネはローマに贈与されることとなった[104]。キュレナイカの各都市は各々自由都市を宣言しローマの元老院がそれを承認したが、ローマは直接統治には乗り出さなかった[105]。その後前87年から前86年にかけてキュレナイカで内紛が発生すると、キュレネ人たちはローマの有力者スッラの配下ルクッルスに秩序の回復を求め、キュレナイカは実際にローマの統治下に入っていった[105]。そして前74年、ローマ元老院はキュレナイカ属州の設立を決議し、以降キュレナイカは完全にプトレマイオス朝の支配を離れた[105]

 
前44年のローマ。

前80年にプトレマイオス10世が死亡した際、彼は王位を娘のベレニケ3世に譲り、その夫に甥のプトレマイオス11世(在位:前80年)を据えたが、彼はベレニケ3世を疎んじて結婚後僅か1ヶ月で彼女を殺害した[103]。しかしこれに憤激した民衆によってプトレマイオス11世もその僅か19日後に殺害された[103]。この事件によってプトレマイオス朝の嫡出男子が存在しなくなったため、プトレマイオス9世の庶子でポントス王国に送られていたプトレマイオス12世(在位:前80年-前58年)が呼び戻されてエジプト王として、また同名の弟プトレマイオス英語版がキュプロス王に即位した[106][107]。素行不良の上、権力基盤が脆弱だったプトレマイオス12世はローマの支持に全面的に依存しており、そのためにローマの政界有力者への贈賄と献金に狂奔した[106][107]。しかし度重なる献金とそのための重税に不満が高まり、そして前58年のローマによるキュプロス島併合を黙認し弟を見捨てたことが契機となってアレクサンドリアで暴動が発生し、ロドスへと逃亡を余儀なくされた[106][107]

この頃までに既にアンティゴノス朝はローマに滅ぼされており、前70年にはポントス王国第三次ミトリダテス戦争)、前63年にはセレウコス朝もローマの軍門に下った[108]。これによってプトレマイオス朝は東地中海でローマの直接支配下に無い唯一の国となる[109]

王が不在となったエジプトではプトレマイオス12世の娘ベレニケ4世(在位:前58年-前55)が旧セレウコス朝の王子で従兄弟でもあるセレウコス・キュビオクサテスと結婚したが、結婚3日目には彼を殺害し、次いでポントス王ミトリダテス6世の息子と称するアルケラオスと結婚して共同統治者とした[106][110]。ローマに救援を求めたプトレマイオス12世は、ローマの将軍グナエウス・ポンペイウスの副官の同行の下で前55年にアレクサンドリアに戻り、以降ローマ軍の将校が指揮するガリア人ゲルマニア人の部隊が護衛としてアレクサンドリアに駐屯した[107][106][注釈 15]。この処置によってプトレマイオス朝は実質的にローマの保護国となった[107]

滅亡編集

前51年、プトレマイオス12世が死去した時、その息子プトレマイオス13世はまだ10歳であった。そのため17歳になる娘のクレオパトラ7世(在位:前51年-前30年)がプトレマイオス13世との結婚を条件に王位についた[111]。このクレオパトラ7世はその美貌と才知によって名高く、数々の伝説的な逸話が現代に至るまで伝えられている[111]。一般にクレオパトラと言った場合には通常、このクレオパトラ7世を指す。

 
19世紀の想像画に描かれた、絨毯にくるまれてカエサルの前へ訪れたクレオパトラ。ジャン=レオン・ジェローム作、1886年

間もなくプトレマイオス13世の側近たちはクレオパトラ7世の排除を画策し暗殺を試みたが、彼女はこれを察知してコイレ・シリアへと逃れた[112][113]。おりしも、ローマで第一回三頭政治を担っていたうちの一人、マルクス・リキニウス・クラッススパルティア(アルシャク朝)との戦争で落命し、残されたユリウス・カエサルとグナエウス・ポンペイウスが対立していた[114]。前48年、ポンペイウスは敗れエジプトに逃れたが、カエサルの歓心を買おうとしたプトレマイオス13世の側近によって殺害された[113]。カエサルはエジプトを訪れたが、ポンペイウスの殺害という処置は寧ろ彼を怒らせた。そしてこの時、クレオパトラ7世はカエサルに接近し(絨毯にくるまれてカエサルの下に運ばせたという逸話で知られる)その支持を獲得することに成功した[113]。プトレマイオス13世と側近たちは民衆を扇動して暴動を起こし宮殿を襲わせたが、ローマ軍が投入されて鎮圧された。この混乱の中でプトレマイオス13世も殺害され、クレオパトラ7世は別の弟プトレマイオス14世と再婚した[113]。一連の戦乱の中でアレクサンドリアの図書館も炎上破壊され、そこに伝存されていた著作の数々も焼失した[113]

カエサルと関係を持ったクレオパトラ7世は息子のカエサリオン(プトレマイオス・カエサル)を儲け、後にローマで元老院立ち合いの下カエサルに認知された[115][116]。その後カエサルが各地に戦いに向かう際、クレオパトラ7世はローマで彼の帰りを待ち、カエサルの別荘は一種の宮廷のような様相を呈した[115]。しかしローマ市民のカエサリオンに対する視線は冷たく、前44年にカエサルがマルクス・ユニウス・ブルトゥス(ブルータス)らに暗殺されたためエジプトへと帰国し、夫のプトレマイオス14世を廃してカエサリオンをプトレマイオス15世(前44年-前30年)として王位につけた[117][118]

前42年にフィリッピの戦いでブルトゥスらを破ったオクタウィアヌスマルクス・アントニウスマルクス・アエミリウス・レピドゥス第二回三頭政治を開始した。このうちアントニウスは前41年夏に軍事費の調達に協力を求めるためクレオパトラ7世をキリキアタルススに招聘し、そこでクレオパトラ7世に惚れ込みアレクサンドリアへ向かったと言われる[119][118]。2人はこの地で遊興と祭典の日々を送り、人々はこの二人をディオニュソスオシリスアフロディテイシスに例えた[120]。間もなくアントニウスはパルティアとの戦争のためにエジプトを離れ、オクタウィアヌスの姉オクタウィアと結婚したが、シリアでの防衛任務を部下に任せた後オクタウィアをイタリアへ帰らせ、クレオパトラ7世をアンティオキアに呼び寄せた[120]。クレオパトラ7世はアントニウスがエジプトを離れる前に彼の子を懐妊しており、その双子の子供アレクサンドロス・ヘリオスクレオパトラ・セレネを伴ってアントニウスの下へ向かった[120]

アントニウスはプトレマイオス朝に対しコイレ・シリアの大部分とキリキアの一部、キュプロス島を与えた[121][122]。これは単に愛人であるクレオパトラ7世への贈与というのみならず、自勢力として組み込んだプトレマイオス朝に軍船の建造のための木材を供給するための処置でもあった[121]。前34年秋には、アントニウスを新たなディオニュソス、クレオパトラ7世を新たなイシス、そして彼らの間に生まれた3人の子(3人目はプトレマイオス・フィラデルフォス)がローマの征服地の王として君臨することを宣言する祭儀がアレクサンドリアで催されたという[123]。さらに前32年にはアントニウスとオクタウィアの正式な離縁が伝えられたが、その後アントニウスがオクタウィアと離縁すると、オクタウィアヌスとの対立は決定的となり、アントニウスはクレオパトラ7世を同盟者としてオクタウィアヌスと対峙することになった[121][122]。アントニウスが行った贈与行為はオクタウィアヌスに恰好の宣伝材料を提供し、アントニウスの遺言状において彼が相続人としてクレオパトラ7世との子供を指名していたと伝えられたことと合わせローマ市民の憤激を呼んだ[124][122]

前31年、オクタウィアヌスは正式にアントニウス討伐に乗り出したが、アントニウスを反逆者と名指しするのは避け、クレオパトラ7世に対して宣戦した[122]。同年9月2日に戦われたアクティウムの海戦でアントニウス、クレオパトラ7世は敗れ去り、前30年にはアレクサンドリアがオクタウィアヌス軍によって占領された[124][122]。クレオパトラ7世はオクタウィアヌスの懐柔を試みたが、その見込みがないことを悟ると自殺した[125][126]。プトレマイオス15世(カエサリオン)はオクタウィアヌスによって処刑され、ここにプトレマイオス朝は滅亡した[125][126][127]。アントニウスとクレオパトラ7世の間の息子たちは消息不明となり、クレオパトラ・セレネはマウレタニアユバ2世に嫁いだ[128][129]

以降、エジプトはローマの皇帝属州アエギュプトゥスとしてアウグストゥス(オクタウィアヌス)以降のローマ皇帝を財政的に支え、ローマ市民のパンとサーカスを保証していくことになる[130]

社会と制度編集

プトレマイオス朝は伝統的に整然とした官僚制と社会の細部にわたる統制によって繁栄した中央集権的国家として描かれてきた[131][132]。ウォールバンクはプトレマイオス朝の統治を「官僚主義的中央集権制の大規模な実権と描写されて良いものだが、それはまた商取引を統制し、経済を国家権力に従属させることによって、貴金属を蓄積することを狙いとしていた限り、重商主義のそれでもあった。」と評しており[133]、ターンは強力な官僚機構が統計と戸籍を作り整然と徴税を行い、国家管理の事業や王領地と4種に分類される贈与地からなる土地制度を持つという、国家機構が各種の産業や徴税を隈なく監督するプトレマイオス朝の制度を描いている[134]。このようなプトレマイオス朝の姿は近年の研究によってほぼ否定されており、現在では20世紀半ば頃まで採られていたような上記のような説明は行われない[131][132][135][136]

セレウコス朝やアンティゴノス朝に代表されるヘレニズム王国は、多用な歴史的伝統を保有する地域を支配するため、現地の様々な伝統的な支配機構を温存したモザイク状の国家を形成していたことが知られている。そしてプトレマイオス朝もまた、中央集権国家という伝統的なイメージとは異なり、地域ごとに中央政府による統制力の差が大きく、神殿などエジプトの伝統的な支配機構を取り込みながら支配を行っていたことが明らかとなっている[137]。その官僚組織も、整然とした中央集権体制を構築するためよりも、むしろ流入したギリシア人、マケドニア人に対して便宜を図るために拡充されていったものであり、厳密に整理されたものではなく、各官僚が利益を求める中でその日その日の不定形な活動の集合体に過ぎなかったと考えられている[131][135]

グレコ・マケドニア人とエジプト人編集

ギリシア様式で作られたクレオパトラ7世頭像(左)とエジプトの伝統的な様式で描かれたクレオパトラ7世とカエサリオン(右、デンデラ神殿複合体

プトレマイオス朝の支配を特徴付けるのは上部構造として支配者たるマケドニア人の王家(プトレマイオス家)を戴き、ギリシア人・マケドニア人が社会の中枢を担い、人口の多くを占めるエジプト人を支配していたことがある。プトレマイオス朝の王たちはエジプトの言語を理解せず、エジプト語を話すことができたのは歴代の中でもクレオパトラ7世だけであったとも言われている[127][138]

このような王国を安定的に支配するためには、重装歩兵戦術や宗教・文化を共有するグレコ・マケドニア系人材の恒常的な招致が必要であった。また、軍事的才覚や政治力を備えたギリシア本土の有力者の中からプトレマイオス朝へと訪れた人々は王のフィロイ(友人)として側近となり国家統治の基盤となった[139]。アレクサンドリアのムセイオンを始めとした学者・知識人に対する保護もまたこれと同じ文脈で行われたものと見られる[139]。こうしたギリシア人人材の確保策もまた、他のヘレニズム王国と共通する特徴でもあり、プトレマイオス朝がエーゲ海域に影響力を保持し続けようとした理由の一つであるとも考えられる[139]。プトレマイオス朝時代にはギリシア本土からの移住や戦争捕虜などを通じて、多数のギリシア人軍事植民者がエジプトに流入していたことが確認されている[139]。初期にはこの流入したギリシア人兵士たちに報酬として与える土地を確保し、国力自体を増大させるために大規模な開墾事業が行われた[140]

一方でギリシア人・マケドニア人とエジプト人の関係は単純な支配者と被支配者という構図だけで説明できるものでもなかったことが明らかとなっている[141]。エジプト人は既に数千年の伝統を持つ高度な行政文化を持つ人々であり、プトレマイオス王家はエジプトの伝統的な組織に大して十分な配慮する必要があった。新王国時代以来、上エジプトで支配的地位を持っていたアメン大神殿は常に油断のならない強力な勢力であったし[142]、下エジプト最大の伝統宗教の拠点であったメンフィスプタハ神殿の大神官家系はプトレマイオス朝初期から王家と密接な関係を築いていた[143]。前2世紀には王国の中枢部や軍においてもエジプト人が多数進出しており[131]、エジプト人の出自でありながら、ギリシア的教養を身に着け、状況に応じてエジプト人としてもギリシア人としても振舞うような人々の存在も確認されている[141]。ギリシア語でエジプト国家の創建以来の歴史を書き、現在に至るまで使用される30の王朝の区分を構築した歴史家マネトもまた、ギリシア語を身に着けたエジプト人の神官でありプトレマイオス王家に仕えた人物であった[144]

ただし、こうした状況にもかかわらず、また有力な家系を含めエジプト人とギリシア人・マケドニア人との間で縁戚関係が持たれた例も知られるにもかかわらず[注釈 16]、プトレマイオス朝の治世中にギリシア人とエジプト人のコミュニティが融合し同化することはなく、別々の存在として存続していた[131]

特にポリュビオスがラフィアの戦いにおけるエジプト人兵士の動員が彼らに自信を与え、それが南部大反乱の遠因となり王国の統一に深刻な問題をもたらしたという記録を残していることなどから、近現代の学者はギリシア人・マケドニア人の支配者に対するエジプト人の民族主義的な抵抗や自意識の存在を想定しもしたが、上記のような研究の進展によって、このような一面的な理解は大きく修正されつつある[146][131][141]

地方統治編集

エジプトでは先王朝時代(前32世紀頃以前)または、古王国(前27世紀頃-前22世紀頃)の頃からノモス(セパト)と呼ばれる州が設置されていた[147]。このノモスは新王国(前16世紀頃-前11世紀頃)時代までに上エジプト22州、下エジプト20州程度に整理され[147][148]、プトレマイオス朝もこの制度を受け継いだ。現在、エジプト語に由来するセパト(spȝt)ではなく、ギリシア語由来のノモス(古希: νόμος,)の語が普及しているのはプトレマイオス朝とローマ支配時代に使用された経緯による[147]

ヘレニズム諸王国の王たちはグレコ・マケドニア系入植者のための都市を熱心に建設したが、プトレマイオス朝統治下のエジプトにおいては、新たに建設された「ギリシア的な」意味での都市は首都アレクサンドリアの他には上エジプト支配の拠点として作られたプトレマイスのみであり、ギリシア系入植地はエジプト人の集落に割当地(クレーロス古希: κλῆρος)を付与されて、エジプト人の集落に分住させられる形態を基本とした[149][142]

当時の集落形態についてはファイユーム地方を除き情報が乏しい[149]。上エジプトと下エジプトの接点に近いファイユーム地方ではギリシア人の入植が大規模に行われたことや、それに伴う堤防の建設や干拓などの大規模な水利事業、その建設のため労働管理などについて詳細が知られている[140]。ファイユームの開発は中王国(前21世紀頃-前18世紀頃)にも手を付けられていたが、本格的に行われたのはプトレマイオス朝時代であり、その集中的な開発によって生産性の高い広大な農地が広がった[140]。こうした農地は短冊状に生前と区画されており、ファイユームのフィラデルフィアなど居住地もギリシア式に格子状に整備されていた痕跡が確認されている[150]。アルシノエ2世にちなんでアルシノイテス州とも呼ばれたファイユームは、プトレマイオス朝支配下のエジプトでも特殊な地方であったと考えられるため、その状況を他の地域に一般化することはできないものの、ファイユーム地方を中心に発見されている豊富な古代のパピルス文書によって、当時の農村生活について他の地域では類を見ない具体的な情報を得ることができる[140]

学問編集

ヘレニズム時代は古代世界における学問の革新的成果が多数生み出された時代であった[151][152]。そしてとりわけ、プトレマイオス1世からプトレマイオス2世の時代に整備されたアレクサンドリアのムセイオンと付属図書館はこの学術発展の潮流の中の中心であった[152][153]。プトレマイオス朝の惜しみない支援に惹かれたギリシアの学者たちは大挙してアレクサンドリアへと渡った[154][155]。現代の物理学者スティーヴン・ワインバーグはその様を20世紀におけるヨーロッパからアメリカへの人の流れに例えている[154]

政策的な支援と豊富な資金、そして各地から集まった学者たちによる研究によって多くの分野において特筆すべき成果が生み出され、後世に重大な影響を残した。アレクサンドリアでまず研究が奨励されたのは古典文献の蒐集と校訂といった文献学的な研究であった[156][155][154]エフェソスのゼノドトスビュザンティオンのアリストファネスサモトラケのアリスタルコスと言った学者らによって進められたホメロスの研究(ホメロス問題も参照)を始めとして、現代に伝わる古代ギリシア時代の文学作品の多くはアレクサンドリアで行われた研究と整理の結果を通したものである[156][155]。具体例としては例えば、ホメロスの叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』が現在のような24巻本に校訂したのはアレクサンドリア図書館の初代館長とされるエフェソスのゼノドトスであると伝えられており、また完本が現存する最古の歴史書とされるヘロドトスの『歴史』が現在の9巻構成にまとめられたのもアレクサンドリアにおいてであった[157]

こうした文学的研究の他にアレクサンドリアで隆盛を迎えたのが各種の「科学」(これは現代的な意味での科学ではないが)の研究であった[158]。当時ギリシア世界の学問の中心地はアレクサンドリアの他にアテナイミレトスがあったが、それぞれの知的風土には大きな違いがあった。アレクサンドリアにおける学問の特徴は、ギリシア世界で盛んであった万物の根源についての思索などの包括的な問題の研究ではなく、観察によって成果を得ることができる具体的な事象の研究が重視されたことであった[158]。この知的風土の下、光学流体静力学、そして特に天文学が特筆すべき発達を遂げた[158]。当時のアレクサンドリアで活躍した主要な天文学者には、初めての学術的な太陽の大きさと地球からの距離の計算(それは不正確であったものの)を行ったサモスのアリスタルコスや、日食を利用して月までの距離の計算精度を大幅に高めたヒッパルコス、地球の大きさを計算したエラトステネスなどがいる[159]

アレクサンドリアにおける天文学の伝統はプトレマイオス朝滅亡後のローマ時代にも引き継がれ、古代から中世にかけての天文学に決定的な影響を与えるクラウディオス・プトレマイオスを輩出することになる[160]。彼の研究は後世の天動説の理論的基盤を形成した[160]。また、プトレマイオスのそれとは異なり、後世に受け継がれることはなかったものの、サモスのアリスタルコスは地動説に通じる事実(太陽が地球の周りを回っているのではなく、地球が太陽を周回している)に気付いていたことを示す記録も残されている[159]

歴代プトレマイオス朝ファラオ編集

在位年が重複している箇所はすべて複数のファラオによる共同統治である。

ファラオ イメージ 続柄・備考 在位
プトレマイオス1世   初代。 305−285年
ベレニケ1世 (女王)   プトレマイオス1世の后。 ?−285年
プトレマイオス2世   プトレマイオス1世とベレニケ1世の子。 288−246年
アルシノエ1世 (女王)   プトレマイオス2世の最初の后。トラキアリュシマコスの娘。 284−274年
アルシノエ2世 (女王)   プトレマイオス2世の同母姉で2番目の后。 277−270年
プトレマイオス3世   プトレマイオス2世とアルシノエ1世の子。 246−222年
ベレニケ2世 (女王)   プトレマイオス3世の后。キュレネメガス英語版の娘で、ベレニケ1世の孫[注釈 17] 244−222年
プトレマイオス4世   プトレマイオス3世とベレニケ2世の子。 222−204年
アルシノエ3世 (女王)   プトレマイオス4世の同母姉妹で后。 220−204年
プトレマイオス5世   プトレマイオス3世とアルシノエ3世の子。 204−180年
クレオパトラ1世 (女王) プトレマイオス5世の后。シリアアンティオコス3世の娘。 193−176年
プトレマイオス6世   プトレマイオス5世とクレオパトラ1世の子。 180−164年
クレオパトラ2世 (女王)   プトレマイオス6世の同母妹で后。 173−164年
プトレマイオス8世   プトレマイオス6世及びクレオパトラ2世の同母弟。兄姉と共同統治。 171−163年
プトレマイオス6世   復位。 163−145年
クレオパトラ2世 (女王)   プトレマイオス8世の后。夫プトレマイオス6世の死後、同母弟の8世と再婚。一時、反乱軍を率いて夫8世を放逐し単独統治。 163−127年
プトレマイオス7世 プトレマイオス6世の子。8世に殺害されたとされる。 145−144年
プトレマイオス8世   プトレマイオス6世の死により復位。 145−131年
クレオパトラ3世 (女王) プトレマイオス8世の二番目の后。プトレマイオス6世とクレオパトラ2世の娘。 142−131年
プトレマイオス・メンフィティス英語版 母クレオパトラ2世により王とされるが、まもなくプトレマイオス8世により殺される。 131年
プトレマイオス8世   復位。 127−116年
クレオパトラ3世 (女王) プトレマイオス8世とともに復位。 127−107年
クレオパトラ2世 (女王)   プトレマイオス8世と復縁、プトレマイオス8世およびクレオパトラ3世と共同統治。 124−116年
プトレマイオス9世 プトレマイオス8世とクレオパトラ3世の子。 116−110年
クレオパトラ4世 (女王) プトレマイオス9世の同母姉妹で后。母クレオパトラ3世により放逐。 116−115年
クレオパトラ・セレネ1世 (女王) プトレマイオス9世の同母姉妹で二番目の后。母クレオパトラ3世により離縁。クレオパトラ5世と数える説がある。 115−107年
プトレマイオス10世   プトレマイオス9世の同母弟。母クレオパトラ3世に擁立されるが、対立し廃位。 110−109年
プトレマイオス9世 復位。母クレオパトラ3世により廃位。 109−107年
プトレマイオス10世   復位。母クレオパトラ3世を暗殺し、ベレニケ3世と結婚。 107−88年
プトレマイオス9世 弟プトレマイオス10世の死により復位。 88−81年
ベレニケ3世 (女王) プトレマイオス9世とクレオパトラ・セレネ1世の娘。プトレマイオス10世の后。のちにプトレマイオス11世と強制的に結婚させられ、その19日後に殺される。 81−80年
プトレマイオス11世 プトレマイオス10世の子。ベレニケ3世殺害に怒った群衆により虐殺される。在位80日。プトレマイオス朝直系最後の王。 80年
プトレマイオス12世   プトレマイオス9世の子。 80−58年
クレオパトラ5世 (6世)[注釈 18] (女王) プトレマイオス12世の姉妹で后。 79−57年
クレオパトラ6世 (女王) プトレマイオス12世の子とされるが、5世と同一人物との説がある。 ?−57年
ベレニケ4世 (女王) プトレマイオス12世とクレオパトラ5世 (6世) の娘。父の国外追放後、母と共同統治。 58−55年
プトレマイオス12世   復位。娘ベレニケ4世を処刑。 55−51年
クレオパトラ7世 (女王)   ベレニケ4世の妹。一般にクレオパトラとして知られる女王。 51−30年
プトレマイオス13世 クレオパトラ7世の弟で、7世と対立。 51−47年
アルシノエ4世 (女王) クレオパトラ7世の妹で、プトレマイオス13世の姉。弟13世とともに姉7世に対立。 48−47年
プトレマイオス14世 クレオパトラ7世とプトレマイオス13世の弟。 47−44年
プトレマイオス15世(カエサリオン)   クレオパトラ7世とユリウス・カエサルの子。3歳のときクレオパトラ7世が共同統治者に指名。プトレマイオス朝最後の王。 44−30

系図編集

マケドニア将軍
アンティパトロス
 
マケドニア貴族
ラグス (en)
 
アルシノエ (en)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エウリュディケー (en)
 
 
 
1 プトレマイオス1世
(在位 前305年 - 前285年)
 
 
 
2 ベレニケ1世 (en)
(? - 前285年)
 
フィリッポス
マケドニア貴族
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
トラキア
リュシマコス
 
5 アルシノエ2世 (en)
(前277年 - 前270年)
 
 
 
 
 
キュレネ
マガス (en)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
4 アルシノエ1世 (en)
(前284年 - 前274年)
 
 
 
 
 
 
3 プトレマイオス2世
(前288年 - 前246年)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
マケドニア王
プトレマイオス・ケラウノス (en)
 
マケドニア王
メレアグロス
 
6 プトレマイオス3世
(前246年 - 前222年)
 
 
 
7 ベレニケ2世
(前244年 - 前222年)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シリア
アンティオコス3世
 
9 アルシノエ3世
(前220年 - 前204年)
 
8 プトレマイオス4世
(前222年 - 前204年)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
11クレオパトラ1世
(前193年 - 前176年)
 
 
 
10 プトレマイオス5世
(前204年 - 前180年)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
13/16/23 クレオパトラ2世
(前173年 - 前164年、前163年 - 前127年、前124年 - 前116年)
 
12/15 プトレマイオス6世 (en)
(前180年 - 前164年、前163年 - 前145年)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
14/18/21 プトレマイオス8世 (en)
(前171年 - 前163年、前145年 - 前131年、前145年 - 前131年)
 
 
20 プトレマイオス・メンフィティス
(前131年)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19/22 クレオパトラ3世
(前142年 - 前131年、前142年 - 前131年)
 
17 プトレマイオス7世 (en)
(前145年 - 前144年)
 
クレオパトラ・テア
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25 クレオパトラ4世
(前116年 - 前115年)
 
 
24/28/30 プトレマイオス9世
(前116年 - 前110年、前109年 - 前107年、前88年 - 前81年)
 
 
26 クレオパトラ・セレネ
(クレオパトラ5世説あり、前115年 - 前107年)
 
 
 
 
 
27/29 プトレマイオス10世
(前110年 - 前109年、前107年 - 前88年)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
33/37 プトレマイオス12世
(前80年 - 前58年、前55年 - 前51年)
 
34 クレオパトラ5(6)世
(前79年 - 前57年)
 
31 ベレニケ3世
(前81年 - 前80年)
 
 
 
32 プトレマイオス11世
(前80年)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
36ベレニケ4世
(前58年 - 前55年)
 
35 クレオパトラ6世
(※と同一人物説あり、?年 - 前57年)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
40 アルシノエ4世
(前48年 - 前47年)
 
39 プトレマイオス13世
(前51年 - 前47年)
 
 
 
 
 
 
 
 
41 プトレマイオス14世 (en)
(前47年 - 前44年)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
38 クレオパトラ7世
(前51年 - 前30年)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ローマ独裁官
ユリウス・カエサル
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ローマ軍人
マルクス・アントニウス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
42 プトレマイオス15世
(カエサリオン、前44年 - 前30年)
 
アレクサンドロス・ヘリオス (en)
 
クレオパトラ・セレネ
 
プトレマイオス・フィラデルフォス (en)

脚注編集

[ヘルプ]

注釈編集

  1. ^ ウォールバンクの和訳書では前320年となっているが[14]、他の全ての出典が321年とするため、それに従う。
  2. ^ プトレマイオス・ケラウノスはプトレマイオス1世の息子であり、プトレマイオス2世の異母兄弟にあたる。父王との対立からエジプトを離れ、リュシマコスの庇護下にあった。リュシマコスがセレウコス1世に敗れた後、プトレマイオス・ケラウノスはセレウコス1世を暗殺した。
  3. ^ 離反したマガスはエジプトの支配権の奪取をも試みたが失敗した[33]。エジプトとキュレネが砂漠で隔てられていて双方とも有効な攻撃が困難であったことも手伝い、結局両者は妥協して相互の干渉を控えることになった[33]
  4. ^ ターン 1987の記述ではクレモニデス戦争の期間は前266年-前262年。
  5. ^ アルシノエ2世はプトレマイオス1世と妻ベレニケ1世の娘でありプトレマイオス2世にとって同母姉にあたる。彼女は当初リュシマコスと結婚したが、リュシマコスの死後エジプトに戻っており、姉弟であるプトレマイオス2世と結婚した。従ってリュシマコスとアルシノエ2世の息子プトレマイオスはプトレマイオス2世の義理の息子にあたる。プトレマイオス3世はプトレマイオス2世の実子であり、アルシノエ2世の子プトレマイオスとは別人である[41][42]
  6. ^ アレクサンドリア図書館の建設を行った王についてはプトレマイオス1世とプトレマイオス2世のいずれであるか確実にはっきりとはしない。モスタファ・エル=アバディは現存史料からいずれの建設ともみなしうるが、従来プトレマイオス2世に帰されていたその業績は近年ではプトレマイオス1世のものとする方向に傾いていると述べる[44]。しかし、フランソワ・シャムー[41]木村凌二[45]など、多くの書籍でプトレマイオス2世の創建という前提で叙述が行われていることから、本文ではプトレマイオス2世の建設とする見解に依った。
  7. ^ プトレマイオス3世自身は本国での反乱のために帰国しており、バビロンを攻撃したのは代理の将軍である[55]
  8. ^ 波部雄一郎は著作において、反乱や内紛は最盛期とされる最初の3代の時代にも見られることや、近親婚や暗君の統治による内政の混乱という見解が古典古代の著作家による視点を受け継いだものであることに触れ、このような一面的な解釈には再考の余地があると指摘している[63]。ただし、波部自身も「プトレマイオス五世以降の王朝が、シリア、小アジア沿岸部、エーゲ海の領土の相次ぐ喪失により、ギリシア世界に進出し、政治的影響力を行使する地理的条件を失ったことは事実である」と述べており、またプトレマイオス朝史を前期と後期に分ける区分を用いてもいる[63]。従って本文では伝統的な見解に従った。
  9. ^ プトレマイオス4世の在位年は参考文献によって表記が一定しない。本文は波部2012に依った。具体的には次の通りである。前222/221年-前204[64]、前221-前204[65][66]、前221-前203[42]、前222-前206[67]、前222-前205[68]
  10. ^ 実際にはプトレマイオス4世は王朝の影響力を強化すべく活動しており、また彼がその顕示欲から遂行したとされる大型軍船の建造などの事業も、国威発揚のための努力ともとることができる。また彼の時代には特に大きな領土の喪失もなく、彼の治世以降をプトレマイオス朝衰退の時代とする観点は見直すべきとする見解もある[63]
  11. ^ このポリュビオスの見解は近現代の学者に大きな影響を与えている。しかし、現在ではエジプト人の反乱をラフィアの戦いでの貢献による自己意識の向上と言った要素に求める見解や、エジプト人を単なる被支配者層とみなす見解は見直しを迫られている。詳細は#グレコ・マケドニア人とエジプト人を参照。
  12. ^ この反乱の発生年次についても、参考文献の間で一致しないため次にまとめる。各出典でこの反乱の発生日時には次の年が割り当てられている。前207年[76]、前206年[79]、前205年[74]
  13. ^ 王が自力で統治可能な年齢に達した事を公布する儀式[87]
  14. ^ 山花はプトレマイオス8世と結婚したクレオパトラはクレオパトラ・テアであるとし、プトレマイオス7世はクレオパトラ・テアの息子であるとしているが、他の全ての参考文献と矛盾するため本文では採用していない[96]
  15. ^ 松原『西洋古典学事典』[110]はベレニケ4世とアルケラオスの統治は6ヶ月間であり、プトレマイオス12世の帰還に伴って殺害されたとしているが、他の出典がプトレマイオス12世の帰還を共通して前55年としているため本文はそれに従った。
  16. ^ 例えば、メンフィスのプタハ大神官の家系にはプトレマイオス王家の王女が輿入れした例がある[145]
  17. ^ 父メガスはベレニケ1世の前夫の子。
  18. ^ クレオパトラ・セレネ1世をクレオパトラ5世として数えた場合、6世となる。

出典編集

  1. ^ アッリアノス『アレクサンドロス大王東征記』第3巻§3、大牟田訳 p. 191
  2. ^ 森谷 2000, p. 7
  3. ^ 桜井 1997, p. 191
  4. ^ 森谷 2000, p. 6
  5. ^ a b エル=アバディ 1991, p. 20
  6. ^ a b c 山花 2010, p. 158
  7. ^ 森谷 2000, p. 150
  8. ^ 桜井 1997, p. 192
  9. ^ 桜井 1997, p. 193_194
  10. ^ a b c d シャムー 2011, pp. 59-60
  11. ^ ウォールバンク 1988, p. 62
  12. ^ a b c d 西洋古典学事典, pp. 1033-1038 「プトレマイオス(エジプト王室の)」の項目より
  13. ^ a b ウォールバンク 1988, p. 139
  14. ^ a b c ウォールバンク 1988, p. 66
  15. ^ シャムー 2011, p. 64
  16. ^ ウォールバンク 1988, p. 65
  17. ^ 山花 2010, p. 163
  18. ^ 山花 2010, p. 166
  19. ^ a b c シャムー 2011, p. 65
  20. ^ シャムー 2011, p. 67
  21. ^ ウォールバンク 1988, pp. 62-81
  22. ^ シャムー 2011, pp. 59-95
  23. ^ シャムー 2011, p. 71
  24. ^ シャムー 2011, p. 72
  25. ^ ウォールバンク 1988, p. 74
  26. ^ 波部 2012, p. 108
  27. ^ シャムー 2011, p. 76
  28. ^ a b c シャムー 2011, p. 77
  29. ^ ウォールバンク 1988, p. 76
  30. ^ ウォールバンク 1988, p. 79
  31. ^ a b c ウォールバンク 1988, p. 80
  32. ^ シャムー 2011, p. 100
  33. ^ a b c d e f シャムー 2011, p. 101
  34. ^ 拓殖 1982, p. 24
  35. ^ 波部 2012, p. 16
  36. ^ a b c d e f シャムー 2011, p. 102
  37. ^ 波部 2012, pp. 79-87
  38. ^ a b 波部 2012, p. 88
  39. ^ a b ターン 1987, p. 21
  40. ^ 波部 2012, p. 96
  41. ^ a b c d シャムー 2011, p. 104
  42. ^ a b 拓殖 1982, p. 25
  43. ^ シャムー 2011, p. 103
  44. ^ エル=アバディ 1991, p. 66
  45. ^ a b 桜井 1997, p. 203
  46. ^ エル=アバディ 1991, p. 24
  47. ^ 拓殖 1982, p. 29
  48. ^ a b 拓殖 1982, p. 27
  49. ^ a b c d e f シャムー 2011, p. 105
  50. ^ 拓殖 1982, p. 28
  51. ^ 波部 2012, pp. 192-193の引用より孫引き
  52. ^ アッピアノス『シリア戦争』No.13§65
  53. ^ a b c d e シャムー 2011, p. 107
  54. ^ クレイトン 1999, p. 269
  55. ^ a b 『バビロニア年代誌』BHCP11
  56. ^ 『バビロニア年代誌』BHCP11、訳者サマリーより
  57. ^ 波部 2012, pp. 192-193
  58. ^ 波部 2012, p. 183
  59. ^ a b c d シャムー 2011, p. 108
  60. ^ ユスティヌス『地中海世界史』第30巻§1, 合阪訳p. 349
  61. ^ 波部 2012, p. 18
  62. ^ 山花 2010, p. 169
  63. ^ a b c d e 波部 2012, pp. 18-21
  64. ^ 波部 2012, p. 287
  65. ^ 西洋古典学事典,p. 1436「プトレマイオス朝エジプト王家の系図」より
  66. ^ ユスティヌス『地中海世界史』第29巻, 合阪訳p. 343, 訳注4
  67. ^ a b 山花 2010, pp. 169-170
  68. ^ クレイトン 1999, p. 265
  69. ^ ユスティヌス、『地中海世界史』第29巻, 合阪訳p. 343, 訳注5
  70. ^ a b シャムー 2011, p. 145
  71. ^ クレイトン 1999, p. 270
  72. ^ a b c シャムー 2011, p. 146
  73. ^ a b c d 山花 2010, p. 170
  74. ^ a b c 波部 2012, p. 238
  75. ^ ポリュビオス『歴史』第5巻§107, 城江訳、p. 276
  76. ^ a b c シャムー 2011, p. 147
  77. ^ a b ウォールバンク 1988, p. 167
  78. ^ 周藤 2014a, p. 6
  79. ^ 周藤 2014a, p. 1
  80. ^ a b 周藤 2014a, p. 9
  81. ^ a b シャムー 2011, p. 150
  82. ^ シャムー 2011, p. 151
  83. ^ シャムー 2011, p. 152
  84. ^ 木村 1997a, p. 203
  85. ^ シャムー 2011, pp. 158-159
  86. ^ a b c 周藤 2014a, p. 10
  87. ^ ポリュビオス、『歴史3』第18巻, 城江訳、p. 495, 訳注7
  88. ^ a b 山花 2010, p. 171
  89. ^ a b c d e f g h i j k l クレイトン 1999, p. 271
  90. ^ 周藤 2014a, pp. 7,12
  91. ^ a b 山花 2010, p. 172
  92. ^ a b c d e f シャムー 2011, p. 170
  93. ^ クレイトン 1999, p. 272
  94. ^ a b c d e f シャムー 2011, p. 190
  95. ^ a b c d e シャムー 2011, p. 191
  96. ^ a b c d e f 山花 2010, p. 173
  97. ^ a b c シャムー 2011, p. 192
  98. ^ a b c クレイトン 1999, p. 274
  99. ^ 拓殖 1982, p. 34
  100. ^ a b c d シャムー 2011, p. 193
  101. ^ a b シャムー 2011, p. 194
  102. ^ シャムー 2011, p. 196
  103. ^ a b c d e f クレイトン 1999, p. 275
  104. ^ a b c d シャムー 2011, p. 200
  105. ^ a b c シャムー 2011, p. 201
  106. ^ a b c d e クレイトン 1999, p. 276
  107. ^ a b c d e シャムー 2011, p. 220
  108. ^ シャムー 2011, pp. 210-219
  109. ^ シャムー 2011, p. 219
  110. ^ a b 西洋古典学事典, pp. 1146-1147 「ベレニーケー」の項目より
  111. ^ a b シャムー 2011, p. 221
  112. ^ クレイトン 1999, p. 277
  113. ^ a b c d e シャムー 2011, p. 223
  114. ^ シャムー 2011, p. 222
  115. ^ a b シャムー 2011, p. 224
  116. ^ 木村 1997b, p. 310
  117. ^ シャムー 2011, p. 225
  118. ^ a b 山花 2010, p. 183
  119. ^ シャムー 2011, p. 226
  120. ^ a b c シャムー 2011, p. 227
  121. ^ a b c シャムー 2011, p. 228
  122. ^ a b c d e 木村 1997b, p. 316
  123. ^ シャムー 2011, p. 229
  124. ^ a b シャムー 2011, p. 230
  125. ^ a b シャムー 2011, p. 232
  126. ^ a b 木村 1997b, p. 317
  127. ^ a b クレイトン 1999, p. 278
  128. ^ シャムー 2011, p. 233
  129. ^ 山花 2010, p. 185
  130. ^ クレイトン 1999, p. 279
  131. ^ a b c d e f 森谷 1997, p. 1997
  132. ^ a b 周藤 2014b, p. 19
  133. ^ ウォールバンク 1988, p. 145
  134. ^ ターン 1987, pp. 161-186
  135. ^ a b 波部 2012, p. 43
  136. ^ 高橋 2004, pp. 148-149
  137. ^ 波部 2012, p. 44
  138. ^ ウィルキンソン 2015, p. 425
  139. ^ a b c d 波部 2012, p. 52
  140. ^ a b c d 周藤 2014b, pp. 136-145
  141. ^ a b c 高橋 2004, p. 156
  142. ^ a b マニング 2012, p. 151
  143. ^ 櫻井 2012, p. 23
  144. ^ ウィルキンソン 2015, p. 421
  145. ^ 櫻井 2012, p. 28
  146. ^ 周藤 2014b, pp. 312-317
  147. ^ a b c 古谷野 2003, p. 260
  148. ^ 周藤 2014b, p. 131
  149. ^ a b 周藤 2014b, p. 134
  150. ^ 周藤 2014b, pp. 135, 136-145
  151. ^ シャムー 2011, pp. 495-496
  152. ^ a b ワインバーグ 2016, p. 56
  153. ^ シャムー 2011, pp. 507-509
  154. ^ a b c ワインバーグ 2016, p. 57
  155. ^ a b c ウォールバンク 1988, p. 250
  156. ^ a b 周藤 2014b, p. 17
  157. ^ ベリー 1966, p. 39
  158. ^ a b c ワインバーグ 2016, p. 58
  159. ^ a b ワインバーグ 2016, pp. 94-111
  160. ^ a b ワインバーグ 2016, pp. 124-129

参考文献編集

史料編集

  • アッリアノス『アレクサンドロス大王東征記 上 付インド誌』大牟田章訳、岩波書店岩波文庫〉、2001年6月。ISBN 978-4-00-334831-4
  • アッピアノス. “シリア戦争”. livius.org. 2019年5月閲覧。(英訳)
  • BCHP11”. livius.org (2019年4月). 2019年5月閲覧。(英訳)
  • ポリュビオス歴史 2』城江良和訳、京都大学学術出版会西洋古典叢書〉、2007年9月。ISBN 978-4-87698-169-4
  • ポリュビオス歴史 3』城江良和訳、京都大学学術出版会西洋古典叢書〉、2011年10月。ISBN 978-4-87698-192-2
  • グナエウス・ポンペイウス・トログスユスティヌス 抄録『地中海世界史』合阪學訳、京都大学学術出版会西洋古典叢書〉、1998年1月。ISBN 978-4-87698-156-4

書籍・論文編集