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== 諸子百家 ==
 
=== 概要と概説百家の分類 ===
春秋戦国時代は優れた学者と思想家が数多く登場した時代としても知られている。当時の学問は師の下に弟子たちが集まる形で研鑽ないし伝承され、この師匠と門弟からなる学士集団は「家」と呼ばれた。「家」はより広い意味をも含み、同じ師のルーツを持つ一門を指す場合にも用いられた。互いに共通する思想ないし教義の相関性を持つ「家」の集合体は「流」とされ、これは学派と同義の言葉となった。「流」の開祖的存在であり、また特に後世への影響を残した師は「子」と称えられた。[[孔子]]、[[老子]]、[[荘子]]、[[墨子]]、[[孟子]]、[[荀子]]、[[韓非子]]といった偉大な思想家の輩出は'''[[諸子百家|諸子]]'''と呼ばれ、多種多様な学士集団の賑わいは'''[[諸子百家|百家]]'''と成句された。
 
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# [[神仙|方技家]] - 当時の医術と化学および[[神仙|仙人]]の知識などを扱った[[錬金術]]的学問。
 
=== 系譜と百家の推移 ===
春秋時代初期には「道」の思想家と「法」の理論家たちがすでに存在していた。[[自然哲学]](''natural philosophy'')の一種である「'''[[道家|道]]'''」は人間文化の誕生と共に自然発生し、[[政治哲学|政冶哲学]](''political philosophy'')の一種である「'''[[法家|法]]'''」は国家の成立と共に誕生した。国家と軍隊は表裏一体であった為、兵士ので軍動かし律する為の「'''[[兵家|兵]]'''」も同時に編み出されていた。春秋時代中に王侯士大夫の身分秩序の乱れが顕著になると、その回復と社会の安定を願って[[社会哲学]](''social philosophy'')の一種である「'''[[儒家|儒]]'''」の教えが生まれた。「儒」は「法」と反目する部分が多かった。
 
戦国時代に入ると「儒」と反目する部分が多く[[マルクス主義]]との親和性が高い[[社会哲学]]の一種である「'''[[墨家|墨]]'''」の思想が広まった。また「道」をベースにして[[森羅万象]]を解析する為の[[四元素|元素論]](''elemental theory'')を取り入れた「'''[[陰陽家|陰陽]]'''」の思想体系が形成された。思想家たちの交流と活動が盛んになるにつれて相手を説得ないし論破する為の[[弁論術|弁論]](''rhetoric'')が磨かれる事になり、理屈を組み立てる為の[[論理学]](''logic'')の一種である「'''[[名家 (諸子百家)|名]]'''」が誕生した。更に「名」の技術を外交戦略(''diplomatic strategy'')に応用した「'''[[縦横家|縦横]]'''」の一派が登場した。
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実学の探求も進められ、現代の[[農学]](''agriculture'')に近い「'''[[農家 (諸子百家)|農]]'''」と、様々な分野の[[雑学|雑学知識]](''trivia'')を収集した「'''[[雑家|雑]]'''」の関連書物が数多く編纂された。「雑」には動物植物鉱物天文などを扱う[[博物学]](''natural history'')的要素も含まれていた。「道」と「陰陽」をベースにした[[錬金術]](''alchemy'')的学問である「'''[[神仙|方技]]'''」も体系化された。「方技」はいわゆる仙人に関係した知識群であったが、当時における医学と化学も専門にした。世間の出来事や伝承を記した書物も数多く存在し、当時の[[報道|報道媒体]](''report)とも言える''これらの著述家たちは「'''[[小説家 (諸子百家)|小説]]'''」と分類された。
 
彼らの文化活動は戦国時代に隆盛を迎えた。紀元前350年頃に斉の首都[[臨シ区|臨淄]]に大規模な学問所が開設され、そこに集まった[[稷下の学士]]と称される思想家たちが日々自説を競い合い学問文化を発展させた故事は'''[[百家争鳴]]'''の成句として知られている。
 
== 諸侯と爵位 ==