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{{Battlebox
| battle_name=クラ湾夜戦{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=149a|ps=〈表4〉昭和18年、中・北部ソロモンの駆逐艦の海戦}}
| campaign=ソロモン諸島の戦い
|colour_scheme=background:#ffccaa;color:#2222cc
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| date=1943年7月5日-6日
| place=ソロモン諸島、[[クラ湾]]([[コロンバンガラ島]]と[[ニュージョージア島]]の間)
| result=日本軍の輸送作戦は一応成功も、{{Sfn|駆逐艦物語|2016|pp=79-80|ps=▽クラ湾夜戦}}。物資全ての陸揚げは失敗
| combatant1={{JPN1889}}
| combatant2={{USA1912}}
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| casualties2=軽巡洋艦1沈没
|}}
'''クラ湾夜戦'''(クラわんやせん、{{lang-en-short|Battle of Kula Gulf}}<ref group="注釈">アメリカ海軍側の呼称</ref><ref name="e">ポッター, 369ページ</ref>)は、[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])中、[[ソロモン諸島]]で[[1943年]]7月5日 - 6日に生起した[[日本軍]]と[[アメリカ軍]]との間の[[海戦]]のこと<ref>[[#写真PW六|写真太平洋戦争6巻]]12頁「〈ソロモンの戦い〉/クラ湾夜戦」</ref>。なお、ここではクラ湾夜戦の前夜に[[クラ湾]]で行われた水上戦闘についても合わせて述べる。
 
==背景 概要 ==
'''クラ湾夜戦'''は{{Sfn|海軍水雷戦隊|2016|p=195a|ps=▽クラ湾の海戦(クラ湾夜戦/昭和十八年七月六日)}}、[[太平洋戦争]]中盤の[[1943年]](昭和18年)7月5日 - 6日に[[ソロモン諸島]]([[ニュージョージア諸島]])[[コロンバンガラ島]]と[[ベララベラ島]]間の[[クラ湾]]で生起した夜間水上戦闘{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=229a|ps=クラ湾夜戦(第一次)合戦図(昭和十八年七月五、六日)・クラ湾夜戦(第二次)合戦図(昭和十八年七月六日)}}。
[[ソロモン諸島の戦い]]のうち、1942年11月30日から12月1日にかけての深夜に起こった[[ルンガ沖夜戦]]で、[[カールトン・H・ライト]]少将(アナポリス1912年組)率いる{{仮リンク|第67任務部隊|en|Task Force 67}}は[[田中頼三]]少将の[[第二水雷戦隊]]の一隊によって重巡洋艦群が手痛い損害を受けた。南太平洋軍司令官[[ウィリアム・ハルゼー・ジュニア|ウィリアム・ハルゼー]]大将は第67任務部隊の立て直しを図り、12月10日付で[[ヴォールデン・L・エインスワース]]をライトの後任として第67任務部隊司令官に据えた。[[軽巡洋艦]]を中心に再建された第67任務部隊は、エインズワースに率いられ[[ガダルカナル島]]から日本軍を追い出す最後の戦いの支援に任じた。特に[[ニュージョージア島]][[ムンダ (ソロモン諸島)|ムンダ]]に新たに建設されていた日本軍飛行場に対する[[艦砲射撃]]を行った戦闘行動は「エインズワース・エクスプレス」とも呼称され、歴史家[[サミュエル・モリソン|サミュエル・E・モリソン]]に「基地攻撃に関する長期間にわたるお手本」と評された。1943年3月に入り[[合衆国艦隊]]の再編成が行われて南太平洋部隊は「[[第3艦隊 (アメリカ軍)|第3艦隊]]」と呼称されるようになり、水陸両用戦部隊以外は「第36任務部隊」と改められた。
7月初頭、連合軍は[[カートホイール作戦]]により[[レンドバ島]]と[[ニュージョージア島]]に上陸を敢行し{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=232a|ps=連合軍の作戦計画}}、[[ニュージョージア島の戦い]]が始まった{{Sfn|戦史叢書39巻|1970|pp=365-366}}。日本軍は、ニュージョージア島の隣に位置する[[コロンバンガラ島]]の防備強化に迫られた{{Sfn|海軍水雷戦隊|2016|p=262}}。このうち日本海軍の[[南東方面艦隊]](司令長官[[草鹿任一]]海軍中将)は、麾下の外南洋部隊(指揮官[[鮫島具重]]海軍中将、[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]]司令長官)に対応を命じた{{Sfn|戦史叢書40巻|1970|pp=269a-272|ps=海上部隊の作戦}}。外南洋部隊増援部隊(指揮官[[秋山輝男]]海軍少将、第三水雷戦隊司令官)は秋月型駆逐艦[[新月 (駆逐艦)|新月]]に三水戦の将旗を掲げ、駆逐艦10隻(警戒部隊〈新月、谷風、涼風〉、輸送部隊〈望月、三日月、浜風/天霧、初雪、皐月、長月〉、陸兵2400名・物件180トン)でコロンバンガラ島への輸送作戦を実施する{{Sfn|歴群64、睦月型|2008|p=130a|ps=クラ湾夜戦と被害}}。
エインズワース少将率いる第36任務部隊は「ザ・スロット」と呼ばれた[[ニュージョージア海峡]]にて[[アーロン・S・メリル]]少将率いる第68任務部隊と交互に行動することになった。3月5日深夜から3月6日未明にかけて行われたビラ・スタンモーア夜戦ではメリル少将の第68任務部隊がコロンバンガラ島への輸送任務を終えて帰途についていた日本海軍の駆逐艦部隊をレーダー射撃による一方的な戦闘により撃沈した。
{{Main|ビラ・スタンモーア夜戦}}
 
一方、[[ヴォールデン・L・エインスワース]]少将は指揮下の軽巡洋艦3隻と駆逐艦4隻で連合軍の上陸作戦を掩護していたが、日本軍輸送艦隊(通称、東京急行)の接近をうけてクラ湾に展開した{{Sfn|駆逐艦入門|2006|pp=372-374|ps=クラ湾夜戦}}。夜間水上戦闘となり、日本側は新月が沈没して第三水雷戦隊司令部は全滅した{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=112-115|ps=「クラ湾夜戦」で司令官以下三〇〇名戦死}}{{Sfn|戦史叢書39巻|1970|pp=376a-377}}。またコロンバンガラ島に向かった輸送部隊からは、駆逐艦[[長月 (睦月型駆逐艦)|長月]]が座礁して失われた{{Sfn|重本ほか、陽炎型|2014|p=270|ps=長月(ながつき)}}。夜間砲撃戦でも複数隻が損傷した{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|pp=222-223}}。連合軍側は、軽巡洋艦[[ヘレナ (軽巡洋艦)|ヘレナ]]が魚雷攻撃により沈没した{{Sfn|海軍水雷戦隊|2016|p=195b}}。
また5月8日にもコロンバンガラ島への輸送任務を終えて帰途についていた第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)が触雷により全滅するということがあった。
 
日本軍の輸送作戦は一応成功したが(兵員約1600名揚陸){{Sfn|戦史叢書96巻|1976|pp=222-223}}、連合軍はニュージョージア諸島の各地で攻勢に出ており、中部ソロモンの戦局は悪化しつつあった{{Sfn|戦史叢書39巻|1970|p=378}}。本海戦(クラ湾夜戦)のあとも日本軍はコロンバンガラ島への増援輸送を継続した。7月12日には[[第二水雷戦隊]](軽巡洋艦[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]、司令官[[伊崎俊二]]少将)と米艦隊(エインスワース少将)の間で[[コロンバンガラ島沖海戦]]が生起した{{Sfn|駆逐艦入門|2006|pp=374-377|ps=コロンバンガラ島海戦}}。
一方でソロモン方面にいた主な有力なアメリカ艦隊は上記の二つのみであり、前年のガダルカナルを巡る戦闘で多数の航空母艦を撃沈もしくは大破させられたため1943年5月から10月までソロモン方面で行動可能なアメリカ海軍の正規空母は[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]1隻程度しかおらず航空戦力はもっぱら基地航空隊に頼っていた。このため6月から7月に限っては急遽イギリス海軍から借り受けた空母[[ヴィクトリアス (空母)|ヴィクトリアス]]がニュージョージア島の戦いを支援した。
 
==背景==
=== 連合軍の動向 ===
[[ソロモン諸島の戦い]]のうち、1942年(昭和17年)11月30日から12月1日にかけての深夜に起こった[[ルンガ沖夜戦]]で{{refnest|[[#城日記|城英一郎日記]]214頁<ref group="注釈">「(昭和17年)一二月一日(火)晴(中略)一六〇〇、軍令部総長、戦況〔奏上〕。昨夜、サボ島東海面にて、我d×8 敵有力部隊と夜戦。概報に依れば、敵B×1、C×1、d×2撃沈。我「高波」〔駆逐艦〕沈? 尚戦果確むるを要す。」《註、戦果は誤認》</ref>}}{{refnest|[[#城日記|城英一郎日記]]215頁<ref group="注釈">「(昭和17年)一二月三日(木)半晴(中略)戦況、三十日のサボ島沖夜戦の詳報来る。撃沈、B×1、C×1、d×2、我「高波」連絡なし。「ルンガ」沖夜戦として夕刻発表。」</ref>}}、[[カールトン・H・ライト]]少将(アナポリス1912年組)率いる{{仮リンク|第67任務部隊|en|Task Force 67}}は、外南洋部隊増援部隊指揮官[[田中頼三]]少将([[第二水雷戦隊]]司令官)率いる日本海軍の[[水雷戦隊]]によって、重巡洋艦群に手痛い損害を受けた{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=147|ps=〔ルンガ沖夜戦〕}}{{Sfn|駆逐艦物語|2016|p=75-76|ps=▽ルンガ沖夜戦}}。
南太平洋軍司令官[[ウィリアム・ハルゼー・ジュニア|ウィリアム・ハルゼー]]大将は第67任務部隊の立て直しを図り、12月10日付で[[ヴォールデン・L・エインスワース]]をライトの後任として第67任務部隊司令官に据えた。[[軽巡洋艦]]を中心に再建された第67任務部隊は、エインズワースに率いられ[[ガダルカナル島]]から日本軍を追い出す最後の戦いの支援に任じた。特に[[ニュージョージア島]][[ムンダ (ソロモン諸島)|ムンダ]]に新たに建設されていた日本軍飛行場に対する[[艦砲射撃]]を行った戦闘行動は「エインズワース・エクスプレス」とも呼称され、歴史家[[サミュエル・モリソン|サミュエル・E・モリソン]]に「基地攻撃に関する長期間にわたるお手本」と評された。1943年(昭和18年)3月に入り[[合衆国艦隊]]の再編成が行われて南太平洋部隊は「[[第3艦隊 (アメリカ軍)|第3艦隊]]」と呼称されるようになり、水陸両用戦部隊以外は「第36任務部隊」と改められた。
エインズワース少将率いる第36任務部隊は「ザ・スロット」と呼ばれた[[ニュージョージア海峡]]にて[[アーロン・S・メリル]]少将率いる第68任務部隊と交互に行動することになった。3月5日深夜から3月6日未明にかけて行われたビラ・スタンモーア夜戦では{{Sfn|駆逐艦入門|2006|pp=371-372|ps=ヴィラ・スタンモア海戦}}、メリル少将の第68任務部隊がコロンバンガラ島への輸送任務を終えて帰途についていた日本海軍の駆逐艦2隻([[村雨 (白露型駆逐艦)|村雨]]、[[峯雲 (駆逐艦)|峯雲]]){{refnest|[[#城日記|城英一郎日記]]250頁<ref group="注釈">「(昭和18年)三月八日(月)晴(中略)一五三〇~一五五〇、総長戦況奏上。五日夜、敵C、dコロンバンガラ砲撃の際、我d×2(「峯雲」「時津風」)交戦、沈没す。(以下略)」《註、沈没した駆逐艦は村雨》</ref>}}をレーダー射撃による一方的な戦闘により撃沈した{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|pp=148b|ps=〔ビラ・スタンモーア夜戦〕}}{{Sfn|駆逐艦物語|2016|pp=78-79|ps=▽ビラスタンモーア夜戦}}。
{{Main|ビラ・スタンモーア夜戦}}
5月8日には、コロンバンガラ島への輸送任務を終えて帰途についていた第15駆逐隊(親潮{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=92a|ps=親潮(おやしお)}}、黒潮{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=92b|ps=黒潮(くろしお)}}、陽炎{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=92c|ps=陽炎(かげろう)}})が、[[機雷]]と空襲により全滅する椿事も起きた{{Sfn|戦史叢書40巻|1970|p=209}}{{Sfn|駆逐艦物語|2016|p=62|ps=敷設機雷は250個}}。
 
一方でソロモン方面にいた主な有力なアメリカ艦隊は上記の二つのみであり、前年のガダルカナルを巡る戦闘で多数の航空母艦を撃沈もしくは大破させられたため1943年5月から10月までソロモン方面で行動可能なアメリカ海軍の正規空母は[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]1隻程度しかおらず、航空戦力はもっぱら基地航空隊に頼っていた。このため6月から7月に限っては急遽イギリス海軍から借り受けた空母[[ヴィクトリアス (空母)|ヴィクトリアス]]がニュージョージア島の戦いを支援した。
またニュージョージア島侵攻は5月中句に予定されていたが、ヨーロッパ戦線でのイタリア本土上陸作戦の準備と大西洋の船団護衛に多量の航空機と艦艇が回されたため、ニュージョージア島侵攻は6月初に、ついで6月30日に延期になった<ref>ポッター, 355ページ</ref>。
 
6月30日、アメリカ軍は[[ニュージョージア島]][[ムンダ (ソロモン諸島)|ムンダ]]飛行場対岸の[[レンドバ島]]に上陸し、同島を占領した{{Sfn|戦史叢書40巻|1970|pp=252-254}}{{refnest|[[#城日記|城英一郎日記]]292-293頁<ref group="注釈">「(昭和18年)六月三〇日(水)曇 戦況。昨夜「コロンバンガラ」に敵艦砲撃あり。今朝「レンドバ」島に敵大規模の上陸を企図。(以下略)」</ref>}}
{{seealso|ニュージョージア島の戦い}}
レンドバ島を占領する意味は、ここに重砲を据えてムンダ飛行場へ直接砲撃が可能になるということであり{{Sfn|戦史叢書40巻|1970|pp=260-262}}、いわば「不沈砲台」とするものであった<ref>ポッター, 359ページ</ref>。しかし、日本軍はその事を理解がレンドバ島に配備しておらず、わずか120名のいた守備隊は約140名にすぎず{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|pp=230a-232|ps=ニュージョージア島方面の陸上戦闘}}、[[リッチモンド・K・ターナー]]少将率いる水陸両用部隊に一蹴されたのであことになった<ref name="a">ニミッツ、ポッター, 167ページ</ref>。
引き続きレンドバ島の重砲の援護下、ニュージョージア島攻略部隊は続々と舟艇機動によってムンダ東方海岸に殺到する{{Sfn|戦史叢書40巻|1970|pp=260-262}}。ところが、攻略部隊は[[ジャングル]]内で日本軍側の[[縦深防御]]に手を焼いて進撃は進まなかった<ref name="a" />。[[ウィリアム・ハルゼー]]大将の南太平洋部隊([[第3艦隊 (アメリカ軍)|第3艦隊]]<ref>ポッター, 368ページ</ref>)内部では、この戦いをちょうど80年前の[[南北戦争]]時の[[ビックスバーグの包囲戦]]になぞらえ、包囲戦が終結した7月4日には同じように勝利を手にする事ができるだろうと考えていたが、この目論見も外れる形となった<ref>ポッター, 360ページ</ref>。
 
=== 日本軍の動向 ===
一方の日本軍側は、6月29日深夜に[[呂号第百九潜水艦|呂109]]がレンドバ島を目指す輸送船団を発見し、これを受けて[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]](司令長官[[鮫島具重]]中将)は第三水雷戦隊(秋山輝男少将)に対してレンドバ島突入を命じる<ref>『第三水雷戦隊戦時日誌』 C08030105800, pp.11</ref><ref>木俣『日本水雷戦史』316ページ</ref>。秋山少将は本来の戦隊[[旗艦]]である[[川内型軽巡洋艦]]1番艦[[川内 (軽巡洋艦)|川内]]<ref name="sana">『第三水雷戦隊戦時日誌』 C08030105800, pp.5</ref>に代え、3ヶ月前に就役した新鋭の[[秋月型駆逐艦]]5番艦[[新月 (駆逐艦)|新月]]に将旗を翻し、駆逐艦3隻([[望月 (駆逐艦)|望月]]、[[皐月 (睦月型駆逐艦)|皐月]]、[[夕凪 (2代神風型駆逐艦)|夕凪]])を率いてレンドバ島沖に向かった<ref name="sana" />。これとは別の駆逐艦部隊([[天霧 (駆逐艦)|天霧]]、[[初雪 (吹雪型駆逐艦)|初雪]]、[[長月 (睦月型駆逐艦)|長月]]、[[三日月 (睦月型駆逐艦)|三日月]]および[[水無月 (睦月型駆逐艦)|水無月]])がレンドバ島近海に先行して輸送船団を捜し求めていた<ref name="sana" />。しかし、[[スコール]]に見舞われて敵を発見することが出来ず、新月は[[ブイン (パプアニューギニア)|ブイン]]に、その他の駆逐艦は[[ブカ島]]にそれぞれ帰投した<ref name="sana" />。第三水雷戦隊は翌7月2日にも再度レンドバ島突入を行う。この時は3隻([[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]]、夕凪、三日月)からなる陽動隊を別に編成し、駆逐艦6隻(新月《三水戦旗艦》、天霧、初雪、長月、皐月、望月)は7月2日16時にブインを出撃して、日付が7月3日になろうとする頃にレンドバ島沖に到着<ref name="sanb">『第三水雷戦隊戦時日誌』 C08030105800, pp.12</ref>。この時もまた敵艦艇を発見することはできず、レンドバ島に対して[[艦砲射撃]]を行い引き揚げた<ref name="sanb" />。
1943年(昭和18年)6月末の時点において、南東方面([[ソロモン諸島]]、[[ビスマルク諸島]]、[[パプアニューギニア]])の現地最高責任者は、南東方面艦隊司令長官[[草鹿任一]]海軍中将<ref group="注釈">[[南東方面艦隊]]は、前年12月24日に新編された。草鹿任一海軍中将は、南東方面艦隊司令長官と[[第十一航空艦隊 (日本海軍)|第十一航空艦隊]]司令長官の兼任である。</ref>(南東方面部隊指揮官)である{{Sfn|戦史叢書40巻|1970|p=269b}}。中部ソロモン諸島を担任していたのは日本海軍であり、第八艦隊司令長官[[鮫島具重]]海軍中将(外南洋部隊指揮官)が所在の陸海軍部隊を指揮していた{{Sfn|戦史叢書40巻|1970|pp=251-252}}。現地で防備を担任していたのは、南東支隊(支隊長[[佐々木登]]陸軍少将)と第八聯合特別陸戦隊(司令官[[大田実]]海軍少将)であり、ニュージョージア島ムンダに司令所を置いていた{{Sfn|戦史叢書40巻|1970|pp=251-252}}。
 
6月29日深夜、[[呂号第百九潜水艦|呂109]]がレンドバ島を目指す輸送船団を発見し{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=207}}、6月30日朝にはラバウルの日本軍上級部隊(南東方面部隊、第八方面部隊)に連合軍レンドバ島上陸の速報が入った{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|pp=212a-213}}。
レンドバ島占領は、[[第8方面軍 (日本軍)|第八方面軍]]([[今村均]]中将)に[[コロンバンガラ島]]の防衛強化の重要性を再認識させた<ref>木俣『日本水雷戦史』317ページ</ref>。
これを受けてラバウルの[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]](司令長官[[鮫島具重]]中将・外南洋部隊指揮官)は麾下の第三水雷戦隊(司令官秋山輝男少将、外南洋部隊増援部隊指揮官)に対してレンドバ島突入を命じる<ref>木俣『日本水雷戦史』316ページ</ref>{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|pp=226a-230|ps=外南洋部隊水上部隊}}。
3日にムンダの日本軍南東支隊司令部で会議が開かれ、陸軍は海軍に「ニュージョージア島防衛にこだわった責任を取って支援部隊を送れ」と要求したが、海軍からは「ラバウルの航空部隊は(先月末の[[ルンガ沖航空戦]]により)消耗しており、艦隊は燃料不足で出撃できず」と返答された。さらに陸軍の佐々木支隊長がレンドバ島へ逆上陸して重砲を破壊することを提案し海軍に協力を求めたが、上陸に必要な[[大発]]はアメリカ軍の砲撃で破壊されており実行は不可能だった。
第三水雷戦隊の本来の戦隊[[旗艦]]は軽巡洋艦[[川内 (軽巡洋艦)|川内]]であったが<ref name="sana">『第三水雷戦隊戦時日誌』 C08030105800, pp.5</ref>、内地で修理中を終え6月30日に[[横須賀]]を出発したばかりだった{{refnest|[[#丸写真9軽巡II|写真日本の軍艦9巻、軽巡II]]、36-37頁「軽巡洋艦『川内、神通、那珂』行動年表 ◆川内◆」<ref group="注釈">軽巡川内は5月上旬から佐世保で修理と整備を実施。6月30日に横須賀出発後、7月5日にトラック泊地進出、7月8日ラバウル入港。</ref>}}。またラバウルには三水戦所属の軽巡洋艦[[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]]も停泊していたが<ref name="夕張行動">[[#丸写真8軽巡I|写真日本の軍艦9巻、軽巡II]]、131-132頁「軽巡洋艦『大井・北上・夕張』行動年表 ◆夕張◆」</ref><ref group="注釈">軽巡夕張は1943年(昭和18年)4月1日に、第八艦隊隷下の第三水雷戦隊に編入されていた。</ref>、秋山少将は新鋭の[[秋月型駆逐艦]]5番艦[[新月 (駆逐艦)|新月]]を旗艦に選んだ<ref name="sana" />。新月は3ヵ月前に竣工し{{Sfn|重本ほか、陽炎型|2014|p=327|ps=新月(にいづき)}}、6月25日ラバウルに到着していた{{refnest|[[#S1805四水戦日誌(2)]]p.10<ref group="注釈">「…有明ハ(司令官)7S指揮ノ下ニ7S(最上欠)新月ト共ニAdB電令作第二二五號ニ依ル「ラボール」」行輸送任務ニ従事二十三日「トラツク」発二十五日「ラボール」着揚陸後同地發二十七日「トラツク」皈着」</ref>}}。
ニュージョージア諸島は喉元に刃物を突きつけられた状態となって輸送が困難になることが予想されたため、防衛強化のために速射砲と陸兵1,300名、[[大発動艇|大発]]15隻分に相当する物件をコロンバンガラ島に輸送する事とした<ref name="senshia">『戦史叢書96』227ページ</ref>。輸送は二度の[[鼠輸送]]によって行われることとし、7月4日と7月5日に駆逐艦4隻ずつを送り込むことになった<ref name="sanc">『第三水雷戦隊戦時日誌』 C08030105800, pp.13</ref>。一方、アメリカ軍側もムンダ攻撃の支援のため、ニュージョージア島の[[クラ湾]]に面した地域に対しても上陸作戦を行う事となり、アメリカ第37歩兵師団三個大隊を乗せた[[高速輸送艦]]を主体とする輸送船団と、ヴォールデン・L・エインスワース少将率いる火力支援担当の第36.1任務群を送り込む事となった<ref>木俣『日本水雷戦史』318ページ</ref>。
 
レンドバ島上陸時における外南洋部隊増援部隊(第三水雷戦隊)の艦艇は、ラバウルに三水戦司令官直率部隊(新月、[[望月 (駆逐艦)|望月]]、[[皐月 (睦月型駆逐艦)|皐月]]、[[夕凪 (2代神風型駆逐艦)|夕凪]])、先行部隊のうち第11駆逐隊([[天霧 (駆逐艦)|天霧]]、[[初雪 (吹雪型駆逐艦)|初雪]])が[[ブカ島]]に、睦月型3隻(長月、水無月、三日月)が[[ブーゲンビル島]]ブインに配置されていた{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=226b}}。
新月(三水戦旗艦)はラバウル在泊部隊を率いてレンドバ島沖に向かった{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=226b}}。
新月とは別に、第11駆逐隊司令[[杉野修一]]大佐指揮下の駆逐艦部隊(天霧、初雪、[[長月 (睦月型駆逐艦)|長月]]、[[三日月 (睦月型駆逐艦)|三日月]]および[[水無月 (睦月型駆逐艦)|水無月]])がレンドバ島近海に先行して輸送船団を捜し求めていた{{Sfn|戦史叢書40巻|1970|p=270}}。しかし、[[スコール]]に見舞われて敵を発見することが出来ず{{refnest|[[#城日記|城英一郎日記]]294頁<ref group="注釈">「(昭和18年)七月二日(金)半晴、時々雨 午前、戦況説明を聞きに行く。「レンドバ」上陸の敵に対し、昨夜のdの夜襲は、天候の関係もあり実施出来ず。補給の上、今夜決行す。fb、fcにて空襲、敵C、d、〔航空機〕に対し相当の戦果あり。本日「トラック」より増勢。本日は、陸軍期も空襲の予定。(以下略)」</ref>}}、新月は[[ブイン (パプアニューギニア)|ブイン]]に、その他の駆逐艦は[[ブカ島]]に、それぞれ帰投した{{Sfn|戦史叢書40巻|1970|p=270}}(第八艦隊水上部隊の第一回出撃){{Sfn|戦史叢書39巻|1970|p=375}}。
 
水上部隊の出撃に呼応して日本軍航空部隊も連合軍上陸部隊に対して空襲をおこなうが{{Sfn|戦史叢書40巻|1970|pp=267-269|ps=陸海軍航空部隊の作戦}}{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|pp=223-226|ps=第一基地航空部隊}}、華々しい戦果報告とは裏腹に{{refnest|[[#城日記|城英一郎日記]]293頁<ref group="注釈">「(昭和18年)七月一日(木)半晴(中略)軍令部総長、戦況〔奏上〕。昨日、「レンドバ」方面敵上陸部隊に対する攻撃戦果につき。昨日〔航空機〕隊は、三回攻撃し、その綜合戦果、乙巡二撃沈、乙巡一大破、d×1撃沈、T×6撃沈破、〔航空機〕撃墜調査中(三〇機以上)。損害、未帰還機fc×15、flo×18、水上艦艇の夜襲は、成功せざりしが如し(天候も不良、敵も見えず)。(以下略)」</ref>}}、連合軍の行動を掣肘することが出来なかった{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|pp=214-215}}。日本海軍基地航空隊による空襲はその後も実施され、また日本陸軍航空隊([[一式戦闘機]]、[[三式戦闘機]]、[[九七式重爆撃機]])も7月2日より空襲を敢行した{{Sfn|戦史叢書40巻|1970|pp=268-269}}{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|pp=224-226}}。しかし連合軍の進撃を抑えることはできず、日本軍航空隊は連日の出撃で大損害を受けることになった<ref>[[#写真PW六|写真太平洋戦争6巻]]24-25頁「木俣滋郎/ソロモン方面基地航空隊の作戦」</ref>。
 
一方、連合軍レンドバ島上陸の速報を受けた連合艦隊は航空兵力・潜水艦兵力・水上部隊の南東方面派遣を下令し{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|pp=212a-213}}、この流れの中で前進部隊指揮官(第二艦隊司令長官[[近藤信竹]]中将)は駆逐艦[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]](第17駆逐隊)を急遽南東方面に派遣し、また出動準備中の重巡洋艦[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]、第24駆逐隊(涼風、江風)、陽炎型2隻(雪風、谷風)をして南東方面部隊の指揮下に入れた{{Sfn|戦史叢書39巻|1970|p=364}}。
なお連合軍のレンドバ島上陸以後、ラバウルの日本陸軍・海軍上層部はレンドバ島奪還を巡ってたびたび連絡会議を開いていた{{Sfn|戦史叢書40巻|1970|pp=260-262}}。しかし、レンドバ島逆上陸のため増援兵力の駆逐艦輸送を主張する陸軍と、駆逐艦の派遣を渋る海軍側で意見の折り合いがつかなかった{{Sfn|戦史叢書39巻|1970|pp=368-371|ps=現地軍の作戦指導}}{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|pp=212b-213、217-218}}。第八方面軍は海軍の限界を知り、レンドバ島奪還に消極的になりつつあった{{Sfn|戦史叢書40巻|1970|pp=260-262}}。現地ニュージョージア島を守備する南東支隊(南東支隊長[[佐々木登]]陸軍少将、第八聯合特別陸戦隊司令官[[大田実]]海軍少将)の幕僚会議は、重苦しい空気に包まれた{{Sfn|セ号作戦|2003|p=110}}。
 
7月2日、第三水雷戦隊は再度レンドバ島突入を敢行する{{Sfn|戦史叢書40巻|1970|p=270}}(第二回目の出撃){{Sfn|戦史叢書39巻|1970|p=375}}。この時は夕張艦長[[舟木守衛]]大佐指揮下の3隻(軽巡〈[[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]]〉、駆逐艦〈夕凪、三日月〉)で陽動隊を編成し、突撃隊(新月〔三水戦旗艦〕、天霧、初雪、長月、皐月、望月)は7月2日16時にブインを出撃して、日付が7月3日になろうとする頃にレンドバ島沖に到着した{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=227}}。この時も日本側は連合軍艦艇を発見することができず、魚雷艇を撃退したあとレンドバ島への[[艦砲射撃]]をおこない、引き揚げた{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=227}}{{refnest|[[#城日記|城英一郎日記]]294頁<ref group="注釈">「(昭和18年)七月三日(土)雨 一六〇〇、軍令部総長拝謁、戦況〔奏上〕。「レンドバ」に対し、陸軍機の上陸点附近の爆撃。昨夜「夕張」〔軽巡洋艦〕、d×5の夜襲、上陸点附近の砲撃。(以下略)」</ref>}}。
同時期、トラック泊地から来た重巡洋艦[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]](艦長[[有賀幸作]]大佐){{Sfn|大和最後の艦長|2011|p=226}}<ref>[[#丸写真6重巡II|写真日本の軍艦6巻、重巡II]]、108頁「重巡洋艦『鳥海』行動年表」</ref>と護衛の駆逐艦([[雪風 (駆逐艦)|雪風]]、[[谷風 (陽炎型駆逐艦)|谷風]]、[[涼風 (駆逐艦)|涼風]]、[[江風 (白露型駆逐艦)|江風]])は、ラバウルに到着した{{Sfn|豊田、雪風|2004|pp=233-234}}。この駆逐艦群が、クラ湾夜戦とコロンバンガラ島沖海戦を戦うことになる。
 
レンドバ島占領は、[[第8方面軍 (日本軍)|第八方面軍]](司令官[[今村均]]陸軍中将)に[[コロンバンガラ島]]の防衛強化の重要性を再認識させた<ref>木俣『日本水雷戦史』317ページ</ref>。陸軍は「ニュージョージア島防衛にこだわった責任を取って支援部隊を送れ」と要求したが、海軍は「ラバウルの航空部隊は(先月末の[[ルンガ沖航空戦]]により)消耗しており、艦隊は燃料不足で出撃できず」と返答した{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=111-112}}。
 
3日、現地ムンダの日本軍南東支隊司令部で会議が開かれた{{Sfn|戦史叢書39巻|1970|pp=373a-375|ps=ムンダ、ラバウル、東京}}。陸戦兵力を統一指揮する[[佐々木登]]陸軍少将(南東支隊長)は「レンドバ強行上陸案」(レンドバ島へ逆上陸して重砲を破壊すること。3日0735、南支電第154号)を提案したが{{Sfn|戦史叢書40巻|1970|pp=262-263}}{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|pp=218-219}}、第八聯合特別陸戦隊(司令官[[大田実]]海軍少将、参謀[[今井秋次郎]]中佐)は[[大発動艇]]の被害を理由に、すぐには同意しなかった{{Sfn|戦史叢書39巻|1970|p=376b}}{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=113-115}}。また第八艦隊は南東方面艦隊と第八方面軍の同意を得て、佐々木少将に対して自重を命じた<ref group="注釈">日本軍において、中部ソロモン防備の担任は日本海軍であったため、陸軍南東支隊は第八艦隊の指揮下にあった。現地では、陸軍南東支隊が海軍第八聯合特別陸戦隊を指揮する立場にあった。</ref>{{Sfn|戦史叢書40巻|1970|pp=262-263}}。
しかし、戦局は日本軍にとって悪化する一方だった。連合軍はレンドバ島に重砲を据え付け、ムンダへの砲撃を開始した(前述){{Sfn|戦史叢書40巻|1970|pp=260-262}}。つづいてレンドバ島とニュージョージア島間のルビアナ島とアンバアンバ島にも上陸した{{Sfn|戦史叢書40巻|1970|pp=260-262}}。ニュージョージア島東部にも上陸し、すでに橋頭堡を築いていた{{Sfn|戦史叢書40巻|1970|pp=257-259|ps=ビル方面の戦況}}{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=234|ps=挿図第14、ニュージョージア島米軍進攻概見図}}。
 
日本軍は、ニュージョージア諸島防備強化のため速射砲と陸兵2,600名、[[大発動艇|大発]]30隻分の物件と燃料80トン、そのほか海上トラック3隻をもちいてブイン~コロンバンガラ島輸送を実施することに決した{{Sfn|戦史叢書40巻|1970|p=270}}{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|pp=219-220|ps=外南洋部隊電令作第326号(7月3日1952)}}。輸送は二度の[[鼠輸送]]によって行われることとし、7月4日と7月5日に駆逐艦4隻ずつを送り込むことになった<ref name="sanc">『第三水雷戦隊戦時日誌』 C08030105800, pp.13</ref>。一方、アメリカ軍側もムンダ攻撃の支援のため、[[クラ湾]]に面したニュージョージア島北西部バイロコ地域に対して上陸作戦を行う事となり{{Sfn|戦史叢書40巻|1970|pp=293a-294|ps=バイロコ周辺の戦闘}}、アメリカ第37歩兵師団三個大隊を乗せた[[高速輸送艦]]を主体とする輸送船団と、ヴォールデン・L・エインスワース少将率いる火力支援担当の第36.1任務群を送り込む事となった<ref>木俣『日本水雷戦史』318ページ</ref>。
 
==7月4日深夜の戦闘==
===参加艦艇===
====日本海軍====
*第1回次出撃 指揮官[[金岡国三]]第22駆逐隊司令{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=221a}}
*第三水雷戦隊<ref name="sanc" />
: 駆逐艦:長月、皐月、新月、夕凪
: 輸送兵力1300名、物件大発15隻分
*第2回次出撃(計画のみ、予定変更。詳細後述)指揮官[[杉野修一]]第11駆逐隊司令{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=227}}
:駆逐艦:天霧、初雪、望月、三日月
 
====アメリカ海軍====
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===戦闘経過===
秋山少将以下第三水雷戦隊司令部は出撃せずブインにて作戦を指揮した<ref name="sanc" />。第二十二22駆逐隊司令[[金岡国三]]大佐に率いられた駆逐艦4隻は、7月4日16時40分にブインを出撃した{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=227}}。[[チョイスル島]]南岸沿いに南に下り、[[ニュージョージア海峡]]を縦断してコロンバンガラ島東岸に取りつく<ref name{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p="sanc" />227}}。クラ湾に入りつつあった22時15分、左舷前方10キロ先に、味方陸上射撃台と交戦中の敵艦隊を発見<ref nameした{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p="sanc" />227}}。この敵艦隊、つまり第36.1任務群は駆逐艦を2隻ずつ前後に配した陣形を取り、ニュージョージア島バイロコの呉鎮守府第六特別陸戦隊に対して砲撃を行っていた<ref name="d319">木俣『日本水雷戦史』319ページ</ref>。その最中、輸送船団の護衛にあたっていた駆逐艦[[:en:USS Ralph Talbot (DD-390)|ラルフ・タルボット]] (''USS Ralph Talbot, DD-390'') のレーダーが北方に目標を探知した<ref name="d319" />。だが、第36.1任務群はUターンをして右砲戦で艦砲射撃を続けた。第36.1任務群を魚雷の射程圏内に入れた金岡大佐は海戦を行う事を決心し、22時25分に魚雷発射を命じる<ref name{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p="senshia" />227}}。長月が6本、新月と夕凪が4本ずつ発射し<ref name="senshia" />、そのままクラ湾から去っていっ{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=227}}。その後、機を見て再度の攻撃と揚陸を試みるも、敵機の触接と襲撃を受け、最終的には物資揚陸を断念して7月5日6時にブインに帰投した<ref name{{Sfn|戦史叢書40巻|1970|p="sanc" />271}}。輸送作戦は失敗におわった{{Sfn|戦史叢書39巻|1970|p=375}}
 
エインスワース少将はラルフ・タルボットに探知した目標について報告させようとしたが<ref>木俣『日本水雷戦史』319、320ページ</ref>、間もなくストロングの右舷に3隻(長月、新月、夕凪){{Sfn|駆逐艦入門|2006|p=81}}からきた魚雷が命中する<ref name="d">木俣『日本水雷戦史』320ページ</ref><ref name="e" />。バイロコの呉第六海軍特別陸戦隊は[[伊勢型戦艦]]2隻([[伊勢 (戦艦)|伊勢]]、[[日向 (戦艦)|日向]])から下ろした14センチ砲を有していたが<ref>木俣『日本戦艦戦史』268、271ページ</ref>{{Sfn|戦史叢書40巻|1970|pp=173-175}}同地配備12センチ砲と14センチ砲も第36.1任務群に対して砲撃を行い{{refnest|[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]、428頁<ref group="注釈">○横須賀第七特別陸戦隊(五-〇七二六)</ref>}}、ストロングに三発の命中弾を与えた<ref name="d" />。ストロングは大破し、シャヴァリアが艦首をストロングに接触させつつも<ref name="dd">木俣『日本水雷戦史』325ページ</ref>乗員240名を救助した後、搭載していた爆雷が爆発して沈没した<ref name="d" />。エインスワース少将はこの攻撃を潜水艦によるものと信じていた<ref name="e" />。第36.1任務群は救助作業に一区切りをつけると、急遽[[ツラギ島]]に退却した<ref name="e" />。アメリカ軍側は駆逐艦1隻を失ったもののニュージョージア島ライス湾とバイロコ港にとりついた{{Sfn|戦史叢書39巻|1970|p=375}}{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=232b}}。連合軍は、コロンバンガラ島に対する圧力をいっそう強める事となった
 
===戦闘の後===
第三水雷戦隊は駆逐艦1隻を撃沈する戦果を挙げたものの、本来の目的である輸送任務は果たせなかった{{Sfn|セ号作戦|2003|p=115}}{{refnest|[[#城日記|城英一郎日記]]295頁<ref group="注釈">「(昭和18年)七月五日(月)当直 一五三〇、軍令部総長、戦況〔奏上〕。陸軍重爆を海軍戦闘機護衛、「レンドバ」揚陸場、爆撃。T×5撃沈、敵機九機撃墜、重爆十数機未帰還。/「コロンバンガラ」増援部隊d×2 敵Cに遭遇、揚陸せず引き返す。/夜は「ライス」にも上陸、「バイロコ」上陸は、守備隊撃退す。/「アンバアンバ」は我方、上陸敢行、撃退す。/「ソロモン」南東に、〔空母〕×1、T数隻あり。(以下略)」</ref>}}。
第三水雷戦隊は駆逐艦1隻を撃沈する戦果を挙げたものの、本来の目的である輸送任務は果たせなかった。そこで、7月5日に予定されていた輸送作戦では[[第二水雷戦隊]]([[伊崎俊二]]少将)からの応援艦を加えて部隊規模を大きくし、増援部隊全力を挙げて決行される事となった<ref name="senshia" /><ref>木俣『日本水雷戦史』322ページ</ref>。一方のアメリカ軍側は駆逐艦1隻を失ったものの上陸作戦には成功し、コロンバンガラ島に対する圧力をいっそう強める事となった。
 
輸送作戦実施中の7月4日午前中、ニュージョージア方面部隊指揮官(第八聯合陸戦隊司令官[[大田実]]海軍少将)は「現地部隊は7月5日夜に大発動艇の全力を投入してレンドバ島逆上陸を敢行するので、駆逐艦輸送はレンドバ島に直接実施されたし。外南洋部隊が駆逐艦輸送を実施しなくても、現地部隊は逆上陸を実施する」と通告した{{Sfn|戦史叢書40巻|1970|pp=264-265}}{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=221b|ps=第八聯合特別陸戦隊機密第040620番電}}。外南洋部隊と第八方面軍は現地部隊に自重を命じ、慰留電をおくった{{Sfn|戦史叢書40巻|1970|pp=264-265}}{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=221a}}。
==参加艦艇==
 
7月5日早朝、こんどは現地の南東支隊長(佐々木陸軍少将)がレンドバ奪回および逆上陸をふたたび意見具申する(南支電第182号){{Sfn|戦史叢書39巻|1970|p=376b}}。
同日午前11時、[[大本営]](陸軍部/参謀本部、海軍部/軍令部)は佐々木南東支隊長のレンドバ夜襲案を支持し、南東方面艦隊と第八方面軍にレンドバ島強襲を下令した{{Sfn|戦史叢書39巻|1970|p=376b}}{{Sfn|戦史叢書40巻|1970|pp=265-266}}。作戦指導の中には「(三)成否ヲ超越シテ速カニ「レンドバ」ヲ夜襲シ、以テ戦捷ノ端緒ヲ開クヲ得策トス」という項目があった{{Sfn|戦史叢書39巻|1970|p=376b}}。ラバウル(第八方面軍、南東方面艦隊〈第十一航空艦隊、第八艦隊〉)は、現地ムンダ(南東支隊、第八聯合陸戦隊)と、[[東京]](参謀本部、軍令部)の間で、文字通りの「板挟み」となる{{Sfn|戦史叢書39巻|1970|p=376b}}。外南洋部隊(指揮官[[鮫島具重]]第八艦隊司令長官)は重巡「[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]」を率いて7月6日夜のレンドバ島突入を計画したが、南東方面艦隊は「無謀である」と中止を命じた{{Sfn|戦史叢書39巻|1970|p=376b}}{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|pp=222-223}}。
 
一方、連合軍がニュージョージア島の各所に上陸したことで日本軍は対応を迫られ、南東方面部隊は増援部隊全力での輸送を命じた{{Sfn|戦史叢書40巻|1970|p=271}}{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=227}}。第三水雷戦隊は第二回輸送(天霧、初雪、望月、三日月)の予定を変更する{{Sfn|戦史叢書39巻|1970|p=376b}}{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|pp=221d、227}}。他部隊からの応援艦(二水戦・第24駆逐隊〈涼風〉、第十戦隊・第17駆逐隊〈谷風、浜風〉)を加えて部隊規模を大きくし、増援部隊の全兵力で決行する事になった{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|pp=222-223}}<ref>木俣『日本水雷戦史』322ページ</ref>。
 
== クラ湾夜戦参加艦艇 ==
===日本海軍===
*第三水雷戦隊、司令官[[秋山輝男]]少将(外南洋部隊増援部隊指揮官){{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=228}}<ref name="sand">『第三水雷戦隊戦時日誌』 C08030105800, pp.14</ref>
: 支援隊:秋月型駆逐艦新月(旗艦){{Sfn|戦史叢書39巻|1970|p=376b}}白露型駆逐艦[[涼風 (駆逐艦)|涼風]](第24駆逐隊司令[[中原義一郎]]大佐)陽炎型駆逐艦[[谷風 (陽炎型駆逐艦)|谷風]]
: 第一次輸送隊:指揮官[[折田常雄]]第30駆逐隊司令:第30駆逐隊(望月、三日月陽炎型駆逐艦[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]](「夕凪」は出撃せず
: 第二次輸送隊:指揮官[[杉野修一]]第11駆逐隊司令:第11駆逐隊(天霧、初雪第22駆逐隊(長月、皐月
輸送隊は陸兵2,400名、物件約180トンを搭載<ref name="senshib">『{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=228ページ</ref>}}
 
===アメリカ海軍===
*第36.1任務群<ref name="ee">木俣『日本水雷戦史』324ページ</ref>
: 軽巡洋艦:ホノルル(任務群旗艦)、ヘレナ、セントルイス
: 駆逐艦:ニコラス、[[オバノン (DD-450)|オバノン]]、[[ジェンキンス (DD-447)|ジェンキンス]]、[[ラドフォード (DD-446)|ラドフォード]]
 
==戦闘経過==
[[File:USS Radford (DD-446) steaming into Tulagi Harbour with 468 survivors form USS Helena (CL-50) on 6 July 1943.jpg|thumb|right|ヘレナの生存者を乗せた駆逐艦ラドフォード]]
[[File:Japanese destroyer Nagatsuki abandoned 1944.jpg|thumb|right|放棄された長月(1944年5月8日撮影)]]
第三水雷戦隊は当初、軽巡[[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]]を旗艦として出撃する予定であった{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|pp=322-323|ps=磁気機雷に触れる(七月)}}。だ7月5日[[ショートランド諸島|ショートランド泊地]]に入りつつあった時に触雷し作戦から除外されて新月を旗艦とした<ref name="夕張行動" />木俣『<ref group="注釈">軽巡夕張は7月17本水雷戦史』322323ページラバウル出発。7月30日より横須賀で修理。11月3日、ラバウルに到着。</ref><ref>[[#、秋山少将は「新月」を旗艦とした{{Sfn|軽巡二十五隻]]|2014|pp=150-151頁</ref>。また、第一次輸送隊に名を連ねていた夕凪は出撃しなかった<ref>『第三水雷戦隊戦時}}{{refnest|[[#高松宮六|高松宮誌』 C08030105800, pp.28</ref>。17時35分記6巻]]ブインを出撃430-431頁<ref namegroup="sand注釈" />。前夜と同様にチョイスル島沿いに南に下り、22時23分に第○増援部隊(五-次輸送隊を分離させて〇〇九)作十一号 本五日ノコロンバンガラ島東岸に先行させる<ref name="sand" />。一方の緊急輸送要領左ノ通改ム(中略)○36.1任務群はツ三水雷戦隊(五-一五〇〇)一四四五将旗ヲ「新月」ニ移揚。《「夕張」「ショートギに到着しンド」港内ニテ触雷浸水給油作業を行っていたラボールニ向フ》</ref name="ee" />}}に新手「東京急行」出発の報がもたらされる。ハルゼー大将から情報を受け取ったエインスワース少将[[機雷|磁気機雷]]は、急遽コロンバンダルカナル近海に引き返すこととから飛来した<ref[[TBF name="e" />。ただし、シャ(航空機)|TBFアァリアは艦首損傷とストログ乗員の上陸のため任務群から外され、代わりにェンキンスとラドフォドを任務群に加え雷撃機]]が投下していっ<ref name="dd" />。第36.1任務群は視界だと海域を29ノットの高速で北上し、う{{Sfn|駆逐艦入門|2006|pp=372-374|ps=クラ湾に差し掛かる頃に25ノットに速力を落として会敵に備えた<ref name="dd" />。エインスワース少将は当法について}}。またまず軽巡洋艦第一次輸送隊レーダー射撃によっ名を連ね先制攻撃を行、魚雷回避のめ軽巡洋艦を退避させた後「夕凪」は駆逐艦実際は出させるという戦法を採用なかった<ref>佐藤『第三水雷戦隊戦時日誌』 C08030105800, 80ページpp.28</ref>。
 
増援の艦隊型駆逐艦(谷風など)は7月4日夕刻にラバウルを出撃し、7月5日朝にショートランド泊地に進出した{{Sfn|駆逐艦物語|2016|p=14}}。新月(三水戦旗艦)で艦長達の打ち合わせをおこなう{{Sfn|駆逐艦物語|2016|p=15}}。同日17時35分、第三水雷戦隊はブインを出撃する{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=228}}。支援隊は1番艦新月、2番艦涼風、3番艦谷風の単縦陣であった{{Sfn|駆逐艦物語|2016|pp=16-17}}。前夜と同様にチョイスル島沿いに南に下り、22時23分に第一次輸送隊を分離させてコロンバンガラ島東岸に先行させる{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=228}}。
23時3分、新月は左20度5キロ先に敵艦隊を発見する<ref name="sand" />。23時18分にUターンののち<ref name="sand" />、23時43分に第二次輸送隊を分離<ref name="sand" />、その直前の23時36分にホノルルのレーダーが左前方に第三水雷戦隊を探知した<ref name="dd" />。23時48分、新月が同航する巡洋艦3隻、駆逐艦2隻を発見するに及び<ref name="senshib" />、23時52分に全軍集結を命じたef name="sand" />。23時54分、エインスワース少将は指揮下全艦艇に攻撃を命じる<ref name="dd" />。当面の目標を支援隊とし、一斉射撃を行った<ref name="senshib" />。23時56分、米艦隊はレーダーに映った最も大きな目標(新月)だけを目標としたため、新月は第36.1任務群からの砲撃を一身に浴び、日付が変わった0時6分には舵が故障した上、火災が発生<ref name="senshib" />。そのまま行方不明となった。第36.1任務群が砲撃を加えてもなんら反撃がなかったことから、エインスワース少将は筋書き通りに事が進んでいると判断し<ref>佐藤, 81ページ</ref>、次の行動を移ることとした。しかし、新月に砲撃が集中した結果、後続2隻(涼風、谷風)にはこの時には砲弾が降り注がず、アメリカ側は数の利を生かせなかった<ref>[[#ニミッツの太平洋海戦史]]171頁</ref>。
23時57分に2隻(涼風、谷風)は[[酸素魚雷|魚雷]]をそれぞれ8本ずつ発射して再装填のため一旦戦場を離脱した<ref name="tanikaze1">『駆逐艦谷風戦闘詳報』C08030753700, pp.6</ref><ref name="f">佐藤, 82ページ</ref>。0時2分、魚雷は第36.1任務群を襲い<ref name="tanikaze1" />、ヘレナに魚雷3本が命中した。1本は艦首部に命中して艦首をもぎ取り<ref name="f" />、2本は船体中央部のほぼ同一箇所に命中<ref>木俣『日本水雷戦史』326、327ページ</ref>。これによりヘレナの船体はV字型に裂け、そのまま沈没していった<ref>木俣『日本水雷戦史』326ページ</ref>。後続のセントルイスはヘレナへの追突を防ぐため右側に針路を取って戦場から一時離脱した<ref name="g">木俣『日本水雷戦史』327ページ</ref>。オバノンは第二次輸送隊と思しき目標に向けて魚雷を5本発射したが、命中しなかった<ref name="i">木俣『日本水雷戦史』329ページ</ref>。
 
一方の第36.1任務群はツラギに到着し、給油作業を行っていた<ref name="ee" />。そこに新手の「東京急行」出発の報がもたらされる。ハルゼー大将から情報を受け取ったエインスワース少将は、急遽コロンバンガラ島近海に引き返すこととした<ref name="e" />。ただし、シャヴァリアは艦首損傷とストロング乗員の上陸のため任務群から外され、代わりにジェンキンスとラドフォードを任務群に加えた<ref name="dd" />。第36.1任務群は視界の悪い海域を29ノットの高速で北上し、クラ湾に差し掛かる頃に25ノットに速力を落として会敵に備えた<ref name="dd" />。エインスワース少将は当夜の戦法について、まず軽巡洋艦にレーダー射撃によって先制攻撃を行い、魚雷回避のため軽巡洋艦を退避させた後、駆逐艦に突撃させるという戦法を採用した<ref>佐藤, 80ページ</ref>。
再装填のため一旦戦場を離脱した2隻(涼風、谷風)であったが、涼風は火災事故を起こし<ref name="tanikaze2">『駆逐艦谷風戦闘詳報』C08030753700, pp.7</ref>、一番砲が使用不能となった。さらに、機銃弾庫に被弾して第二次攻撃に遅れをとった<ref name="h">木俣『日本水雷戦史』328ページ</ref>。谷風も魚雷次発装填装置の故障のため、戦場に戻るのに手間取り<ref>『駆逐艦谷風戦闘詳報』C08030753700, pp.11,19,20,21,22</ref>、艦首に不発ながら命中弾を受けて損傷した<ref name="tanikaze2" /><ref>『駆逐艦谷風戦闘詳報』C08030753700, pp.12,14</ref><ref name="h" />。2時ごろには戦場に引き返したものの、新月も敵艦隊も発見できなかったので帰投することとした<ref name="senshib" />。また、全軍集結で集合した輸送隊のうち、第一次輸送隊の望月は触礁事故と大発の曳航索を推進器に絡ませたことにより遅れをとる<ref name="sane">『第三水雷戦隊戦時日誌』 C08030105800, pp.15</ref>。それでも、揚陸作業を終えて西方に向かった<ref name="senshib" />。第二次輸送隊は天霧が魚雷攻撃を、初雪が砲撃をそれぞれ行う<ref name="i" />。反撃により初雪が二発の不発弾を受けて損傷した後、揚陸地に向けて反転した<ref name="senshib" />。長月と皐月も突撃した天霧および初雪に続くも、敵情が分からなかったので先んじて揚陸作業に戻る<ref name="sane" /><ref name="senshib" />。しかし0時49分に長月がコロンバンガラ島ベネット入江に座礁した<ref name="sane" />。揚陸作業と同時に皐月による引き降ろし作業が行われたが成功せず、4時23分には引き降ろし作業が打ち切られた<ref name="sane" />。天霧および初雪も3時前には揚陸作業を済ませるが<ref name="senshib" />、ヘレナの生存者を救助中のニコラスとラドフォードからの砲撃を受けたため反撃を行う<ref name="sand" /><ref name="i" />。天霧は魚雷5本を発射し、1隻に命中と判断されたが<ref name="sand" /><ref name="senshic">『戦史叢書96』230ページ</ref>、実際にはラドフォードの艦尾をかすめ去っただけだった<ref name="j">木俣『日本水雷戦史』330ページ</ref>。西航中の望月もまたニコラスとラドフォードからの砲撃を受けるが、煙幕を張って退却していった<ref name="j" />。2隻(天霧、初雪)は[[ベララベラ島]]南岸沿いを通り9時に<ref name="sand" />、3隻(谷風、浜風、三日月)は7時30分<ref name="sand" />、2隻(涼風、望月)は9時15分<ref name="sane" />、そして皐月が10時に<ref name="sane" />それぞれブインに帰投した<ref name="sand" /><ref name="sane" />。ベネット入江で座礁中の長月は7月6日の朝、[[SBD (航空機)|SBD「ドーントレス」]]、[[TBF (航空機)|TBF「アベンジャー」]]、[[B-25 (航空機)|B-25]] の爆撃を受けて放棄された<ref name="j" />。新月・長月の生存者はコロンバンガラ島に上陸し、同地の横須賀第七特別陸戦隊に編入された<ref name="j" />。
 
23時3分、新月は左20度5キロ先に敵艦隊を探知する{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=228}}。これは新月が搭載していた[[電波探知機]]によるもので{{refnest|[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]、423頁<ref group="注釈">(昭和18年7月5日記事)「クラ」湾夜戦、「新月」電探ニテ先ヅ敵発見、併シナガラ敵ノ機先砲撃ニテ損傷、消息ヲタツ。第二十四駆逐隊「谷風」ハ引続シテヰテ敵ヲ雷撃、巡洋艦一、駆逐艦一ヲ撃沈。(以下略)</ref>}}、警戒隊(新月、涼風、谷風)は水上戦闘に備えた{{Sfn|駆逐艦物語|2016|pp=18-19}}。23時18分にUターンののち、23時43分に第二次輸送隊を分離した{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=228}}{{Sfn|駆逐艦物語|2016|p=19|ps=○クラ湾海戦図}}。その直前の23時36分にホノルルのレーダーが左前方に第三水雷戦隊を探知した{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=228}}。23時48分、新月が同航する巡洋艦3隻・駆逐艦2隻を発見するに及び23時52分に全軍集結を命じ、第二次輸送隊(天霧、初雪、長月、皐月)も反転して敵艦隊にむかった{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=228}}。23時54分、エインスワース少将は指揮下全艦艇に攻撃を命じる<ref name="dd" />。当面の目標を支援隊とし、23時56分に一斉射撃を行った{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=228}}。米艦隊はレーダーに映った最も大きな目標(新月)だけを目標としたため、新月は第36.1任務群からの砲撃を一身に浴び、日付が変わった0時6分には舵が故障した上、火災が発生する{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=228}}。新月は、そのまま行方不明となった{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=230c}}。
第36.1任務群は、前述のようにヘレナの739名の生存者を救助するためにニコラスとラドフォードを戦場に残し、また退去の際には3隻の救命ボートを海上に投下してツラギ島に退却していった。ニコラスとラドフォードは天霧、初雪および望月と交戦しつつも救助作業を行ったものの、全ての生存者を救助する事はできなかった。残りは救命ボートに分乗して漂流し、一部はベララベラ島にたどり着いて後刻味方駆逐艦によって救助された<ref name="g" />。
 
第36.1任務群が砲撃を加えてもなんら反撃がなかったことから、エインスワース少将は筋書き通りに事が進んでいると判断し<ref>佐藤, 81ページ</ref>、次の行動を移ることとした。しかし、新月に砲撃が集中した結果、後続2隻(涼風、谷風)にはこの時には砲弾が降り注がず{{Sfn|駆逐艦物語|2016|p=21a|ps=谷風水雷長は、この時点で艦首に不発弾1を受けたと回想。}}、アメリカ側は数の利を生かせなかった<ref>[[#ニミッツの太平洋海戦史]]171頁</ref>。
旗艦新月が連絡不能となったため、涼風座乗の第24駆逐隊司令[[中原義一郎]]大佐が支援隊(涼風、谷風)の指揮を引き継いだ{{Sfn|駆逐艦物語|2016|p=21b}}。23時57分に涼風と谷風は[[酸素魚雷|魚雷]]をそれぞれ8本ずつ発射したあと北上、再装填のため一旦戦場を離脱した<ref name="tanikaze1">『駆逐艦谷風戦闘詳報』C08030753700, pp.6</ref><ref name="f">佐藤, 82ページ</ref>。0時2分、魚雷は第36.1任務群を襲い<ref name="tanikaze1" />、ヘレナに魚雷3本が命中した。1本は艦首部に命中して艦首をもぎ取り<ref name="f" />、2本は船体中央部のほぼ同一箇所に命中<ref>木俣『日本水雷戦史』326、327ページ</ref>。これによりヘレナの船体はV字型に裂け、そのまま沈没していった<ref>木俣『日本水雷戦史』326ページ</ref>。後続のセントルイスはヘレナへの追突を防ぐため右側に針路を取って戦場から一時離脱した<ref name="g">木俣『日本水雷戦史』327ページ</ref>。オバノンは第二次輸送隊と思しき目標に向けて魚雷を5本発射したが、命中しなかった<ref name="i">木俣『日本水雷戦史』329ページ</ref>。
 
再装填のため一旦戦場を離脱した涼風と谷風であったが、涼風は火災事故を起こし<ref name="tanikaze2">『駆逐艦谷風戦闘詳報』C08030753700, pp.7</ref>、一番砲が使用不能となった。さらに、機銃弾庫に被弾して第二次攻撃に遅れをとった<ref name="h">木俣『日本水雷戦史』328ページ</ref>。谷風も魚雷次発装填装置の故障のため、戦場に戻るのに手間取り<ref>『駆逐艦谷風戦闘詳報』C08030753700, pp.11,19,20,21,22</ref>、艦首に不発ながら命中弾を受けて損傷した<ref name="tanikaze2" /><ref>『駆逐艦谷風戦闘詳報』C08030753700, pp.12,14</ref><ref name="h" />。2時ごろには戦場に引き返したものの、新月も敵艦隊も発見できなかったので帰投することとした{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=228}}{{Sfn|駆逐艦物語|2016|p=22}}。
 
また、全軍集結で集合した輸送隊のうち、第一次輸送隊の望月は触礁事故と大発の曳航索を推進器に絡ませたことにより遅れをとる{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=228}}<ref name="sane">『第三水雷戦隊戦時日誌』 C08030105800, pp.15</ref>。それでも、0時06分には揚陸作業を終えて西方に向かった{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=228}}。なお浜風は23時56分に雷撃を実施したと記録しているが、三水戦の[[戦闘詳報]]では、第一輸送部隊はこの時点で戦闘に参加していない{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=228}}。浜風は積載していた人員160名と物資を揚陸できないまま、ショートランド泊地にむかった{{refnest|[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]、433頁<ref group="注釈">○「浜風」(六-〇五三〇)「浜風」揚陸未済160名、物件大発五隻分。戦場急行ヲ止メショートランド湾ニ回航ス。</ref>}}。
第二次輸送隊は天霧が魚雷攻撃を、初雪が砲撃をそれぞれ行う{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=228}}。反撃により初雪が不発弾2発を受けて損傷した後、揚陸地に向けて反転した{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=228}}。
長月と皐月も、突撃した天霧および初雪に続いたが、敵情が分からなかったので0020には揚陸作業に戻る<ref name="sane" />{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=228}}。しかし0時46-49分に長月がコロンバンガラ島ベネット入江に座礁した{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=228}}。揚陸作業と同時に皐月による引き降ろし作業が行われたが成功せず、4時20分前後には引き降ろし作業が打ち切られた{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=230c}}。皐月は揚陸のため、泊地にむかった{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=230c}}。
天霧および初雪も3時前には揚陸作業を済ませるが{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=228}}、ヘレナの生存者を救助中のニコラスとラドフォードからの砲撃を受けたため反撃を行う<ref name="sand" /><ref name="i" />。天霧は魚雷5本を発射し、巡洋艦に2本命中と判断されたが<ref name="sand" />{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=230c}}、実際にはラドフォードの艦尾をかすめ去っただけだった{{Sfn|海軍水雷戦隊|2016|p=195b}}<ref name="j">木俣『日本水雷戦史』330ページ</ref>。天霧は被弾したものの、無事に戦場を離脱していった{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=229b}}。
揚陸を終えて西航中の望月{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=228}}もニコラスとラドフォードからの砲撃を受けるが、魚雷1本を発射し、煙幕を張って退却していった{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=229b}}{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=230c}}。
2隻(天霧、初雪)は[[ベララベラ島]]南岸沿いを通り9時に<ref name="sand" />、3隻(谷風、浜風、三日月)は7時30分<ref name="sand" />、2隻(涼風、望月)は9時15分<ref name="sane" />、そして皐月が10時に<ref name="sane" />それぞれブインに帰投した{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=230c}}。
 
ベネット入江で座礁中の長月は7月6日の朝{{Sfn|歴群64、睦月型|2008|pp=130b-131|ps=●「長月」の座礁と最期}}、[[SBD (航空機)|SBD「ドーントレス」]]、[[TBF (航空機)|TBF「アベンジャー」]]、[[B-25 (航空機)|B-25「ミッチェル」]]の爆撃を受けて放棄された<ref name="j" />。米軍が撮影した、残骸となった長月の写真が残っている<ref>[[#写真PW六|写真太平洋戦争6巻]]14頁(長月写真)</ref>。(新月)長月の生存者はコロンバンガラ島に上陸し{{refnest|[[#城日記|城英一郎日記]]296頁<ref group="注釈">「(昭和18年)七月八日(木)半晴(中略)「長月」乗員は「コロンバンガラ」陸上に移る。「ウィクハム」派遣隊中、一三三名「バイロコ」帰着。(以下略)」</ref>}}、同地の横須賀第七特別陸戦隊に編入された<ref name="j" />。
 
第36.1任務群は、前述のようにヘレナの739名の生存者を救助するためにニコラスとラドフォードを戦場に残し、また退去の際には3隻の救命ボートを海上に投下してツラギ島に退却していった。ニコラスとラドフォードは日本側輸送隊(天霧、初雪、望月)と交戦しつつも救助作業を行ったものの、全ての生存者を救助する事はできなかった。残りは救命ボートに分乗して漂流し、一部はベララベラ島にたどり着いて後刻味方駆逐艦によって救助された<ref name="g" />。
{{seealso|ヘレナ (軽巡洋艦)#ヘレナの生存者}}
 
==損害と海戦の後==
*日本海軍の損害<ref name="sane" />
: 沈没:新月{{Sfn|重本ほか、陽炎型|2014|p=327|ps=新月(にいづき)}}、長月{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=87|ps=長月(ながつき)}}
: 沈没:新月、長月
: 中破:天霧、初雪、谷風
: 小破:涼風、望月{{Sfn|歴群64、睦月型|2008|p=131a|ps=●「望月」の被害}}、皐月{{Sfn|歴群64、睦月型|2008|p=131b|ps=●「皐月」の被害}}
: 小破:涼風、望月
: 秋山少将以下、第三水雷戦隊司令部全滅{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=245}}
:陸軍兵1600名、物件90トン揚陸{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=230c}}
 
*アメリカ海軍の損害
: 沈没:ヘレナ
 
軍令部総長は[[昭和天皇]]に対し、一連の輸送と戦闘を以下のように報告した。
本来の目的であるコロンバンガラ島への輸送は、半数前後に相当する陸兵1,600名と物資90トンを揚陸するも、海戦の影響で全ての陸揚げには成功しなかった<ref name="senshic" />。
駆逐艦谷風戦闘詳報では、アメリカ軍の[[レーダー]]の脅威を訴え<ref>[[#谷風蓮76号日誌(1)]]p.15『七.参考(イ)昭和十八年七月五日夜半「クラ」灣夜戰々訓所見』</ref>、またアメリカ軍巡洋艦の装備と能力を正当に評価<ref>[[#谷風蓮76号日誌(1)]]p.17『一.今次夜戰ニ於テハ驅逐隊自体ガ主隊兼補助部隊ニシテ戰果発揚ハ遍ニ駆逐隊自身ノ攻撃効果ニ依ラザルベカラザルガ如キ情況ニシテ徒ニ肉迫猛撃シ猪突盲進スルハ装備優秀ナル敵新式巡洋艦以上ノ部隊ニ対シテハ我ガ未ダ近迫セザルニ全滅シ何等戰果ナク敵ヲシテ名ヲ威サシムルノミナリ』</ref>。『肉薄しないのは精神力の不足』と批判せぬよう指摘している<ref>[[#谷風蓮76号日誌(1)]]pp.17-18『(B)最近ニ於ケル「ソロモン」方面局地夜戰ヲ研究セラルルニ当リ対勢図ヨリ見ル発射距離ノ大ヲ以テ直ニ肉迫攻撃ノ精神力不足ト謂フハ早計ナリ爾後ノ対勢変化ノ状況ヲ洞察シ其ノ時機ガ駆逐艦ノ戰力発揮ノ好機ナルヤ否ヤニ着眼ノ要アリト偲ム』</ref>。
 
{{Quotation|一六〇〇、軍令部総長、戦況〔奏上〕。 昨夜、「コロンバンガラ」に増援部隊、輸送。第一次d×4 成功、第二次 d×4(内d×2は敵部隊と交戦、揚陸せず、d×2は今朝揚陸中)、支援部隊d×3 敵C、dの部隊と夜戦、C×1撃沈、C×1炎上、我方「新月」〔駆逐艦〕消息不明。|昭和18年7月六日 火曜日、[[城英一郎]]著/[[野村実]]編『城英一郎日記』295頁}}
ムンダ方面の戦闘は依然として厳しい状況であり、ニュージョージア島へ一部の兵力を移すこととなった<ref>『戦史叢書96』236ページ</ref>。この事により、その分だけコロンバンガラ島の兵力に穴が開くこととなるため、後詰め兵力を送り込む必要性が出てきた。そこで、7月9日にコロンバンガラ島への緊急輸送が行われ<ref>『戦史叢書96』236、237、245ページ</ref>、7月12日にも輸送作戦が行われるが、同日夜にクラ湾夜戦に似たような経過で[[コロンバンガラ島沖海戦]]が発生した。また、司令部が全滅した第三水雷戦隊の後任司令官として7月7日付で[[伊集院松治]]大佐([[金剛型戦艦]]1番艦[[金剛 (戦艦)|金剛]]艦長)が発令され<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072092100|昭和18年7月7日(発令7月7日付)海軍辞令公報(部内限)第1167号 p.4}}</ref>、7月10日に着任した<ref name="senshic" />。
 
駆逐艦谷風戦闘詳報では、アメリカ軍の[[レーダー]]の脅威を訴え<ref>[[#谷風蓮76号日誌(1)]]p.15『七.参考(イ)昭和十八年七月五日夜半「クラ」灣夜戰々訓所見』</ref>、またアメリカ軍巡洋艦の装備と能力を正当に評価{{refnest|[[#谷風蓮76号日誌(1)]]p.17<ref group="注釈">「 一.今次夜戰ニ於テハ驅逐隊自体ガ主隊兼補助部隊ニシテ戰果発揚ハ遍ニ駆逐隊自身ノ攻撃効果ニ依ラザルベカラザルガ如キ情況ニシテ徒ニ肉迫猛撃シ猪突盲進スルハ装備優秀ナル敵新式巡洋艦以上ノ部隊ニ対シテハ我ガ未ダ近迫セザルニ全滅シ何等戰果ナク敵ヲシテ名ヲ威サシムルノミナリ 」</ref>}}。「肉薄しないのは精神力の不足」と批判せぬよう指摘している{{refnest|[[#谷風蓮76号日誌(1)]]pp.17-18<ref group="注釈">「 (B)最近ニ於ケル「ソロモン」方面局地夜戰ヲ研究セラルルニ当リ対勢図ヨリ見ル発射距離ノ大ヲ以テ直ニ肉迫攻撃ノ精神力不足ト謂フハ早計ナリ爾後ノ対勢変化ノ状況ヲ洞察シ其ノ時機ガ駆逐艦ノ戰力発揮ノ好機ナルヤ否ヤニ着眼ノ要アリト偲ム 」</ref>}}。
エインスワース少将はハルゼー大将へ「7隻の日本軍艦を仕留めた」と報告し<ref name="e" />、ハルゼー大将はこれに対し賞賛の返答を行った<ref>ポッター, 370ページ</ref>。ヘレナの生存者の一部は後に12月20日に就役した[[クリーブランド級軽巡洋艦]][[ヒューストン (軽巡洋艦)|ヒューストン]] (''USS Houston, CL-81'') の乗組員の中核を成した<ref>中名生正己「アメリカ巡洋艦はいかに戦ったか」『アメリカ巡洋艦史』157ページ</ref>。また、戦死者や負傷者に[[火傷]]の者が多かったので、以後暑い気候の海域でも、基本的に肌の露出が少ない服装を着用することが義務付けられた<ref name="g" />。クラ湾夜戦から一週間後の7月12日、[[コーストウォッチャー|沿岸監視員]]が「東京急行」の通過を通報してきた<ref name="b">木俣『日本水雷戦史』332ページ</ref>。ハルゼー大将はエインスワース少将に再度の出撃を命じ<ref name="b">木俣『日本水雷戦史』332ページ</ref>、沈没したヘレナに代わって[[オーストラリア]]の軽巡洋艦[[リアンダー (軽巡洋艦)|リアンダー]] を編入した第36.1任務群は[[コロンバンガラ島]]近海へ出撃し、コロンバンガラ島沖海戦が発生したが日本艦隊に打撃を与えつつも自らも大きな損害を出した。
本来の目的であるコロンバンガラ島への輸送は{{refnest|[[#城日記|城英一郎日記]]頁<ref group="注釈">「(昭和18年)七月七日(水)半晴 支那事変六周年記念日。「コロンバンガラ」には、陸兵一,四〇〇輸送、坐礁中の「長月」〔駆逐艦〕爆撃を受く。(以下略)」</ref>}}、半数前後に相当する陸兵1,600名と物資90トンを揚陸するも{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=230c}}、海戦の影響で全ての陸揚げには成功しなかった。
戦局の重大さを考慮し、南東方面部隊指揮官[[草鹿任一]]海軍中将(南東方面艦隊司令長官兼第十一航空艦隊司令長官)は、6日0900に将旗を[[ブーゲンビル島]]ブインの戦闘司令所に掲げた{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|pp=222-223}}(8月3日、南東方面艦隊はラバウルに復帰){{Sfn|戦史叢書39巻|1970|pp=376c、397}}。第八艦隊司令部(外南洋部隊)もラバウルからブインへ移動し{{Sfn|豊田、雪風|2004|pp=240-241}}、第一根拠地隊司令部の指揮所{{Sfn|セ号作戦|2003|p=154|ps=根拠地隊司令部と同居であった。}}から指揮をとった{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=235}}。他方、第八艦隊(鳥海)のレンドバ攻撃は延期され、鳥海はクラ湾夜戦の損傷艦と共にラバウルに回航された{{Sfn|戦史叢書39巻|1970|p=376b}}。
 
また、クラ湾夜戦において司令官戦死・司令部全滅に到った第三水雷戦隊の後任司令官として、7月7日付で[[伊集院松治]]大佐(当時、戦艦[[金剛 (戦艦)|金剛]]艦長)が発令され<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072092100|昭和18年7月7日(発令7月7日付)海軍辞令公報(部内限)第1167号 p.4}}</ref>、伊集院は7月10日に着任した{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=230c}}{{Sfn|豊田、雪風|2004|pp=240-241}}。伊集院と伊崎少将が任命されるまで、[[有賀幸作]]大佐(重巡[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]艦長)が増援部隊指揮官(第三水雷戦隊司令官)の職務を代行した{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=245}}{{refnest|[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]、435頁<ref group="注釈">○外南洋部隊(六-一〇二九)作337号 「鳥海」ヲ増援部隊ニ編入、増援部隊指揮官ヲ「鳥海」」艦長トス〔行間書込〕(一〇-一〇二四)「鳥海」艦長ノ第三水雷戦隊司令官代理ヲ解ク《第三水雷戦隊司令官ハ「新月」ニテ、消息ヲ断チタリ。五日夜》。</ref>}}。前述のように「鳥海」をラバウルに戻したので、ブイン所在の第八艦隊司令長官[[鮫島具重]]中将(外南洋部隊指揮官)は陽炎型駆逐艦[[雪風 (駆逐艦)|雪風]](第16駆逐隊)を臨時の第八艦隊旗艦とした{{Sfn|豊田、雪風|2004|pp=240-241}}{{refnest|[[#高松宮六|高松宮日記6巻]]、436頁<ref group="注釈">○外南洋部隊(五-一〇三一)作331号 一、本職「鳥海」「雪風」「夕暮」ヲ率ヰ、本夕刻ラボール出撃、RWO(ショートランド)ニ回航、全作戦ヲ支援セントス。二、三、〔空白〕《第八艦隊進出》。《「雪風」ニ第八艦隊司令長官旗ヲ掲ゲ「鳥海」ハ増援部隊ニ入レ、第一根拠地隊司令部デ執務ス》</ref>}}。
 
連合軍がニュージョージア島の各所に上陸したことで、戦闘の焦点はレンドバ島からニュージョージア島本島にうつった{{Sfn|戦史叢書40巻|1970|pp=265-266}}。ムンダ方面の戦闘は依然として厳しい状況であり、ニュージョージア島にコロンバンガラ島の一部兵力を移すこととなった{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=236}}。この事により、その分だけコ島の防備に穴が開くこととなるため、後詰め兵力を送り込む必要性が出てきた。そこで、7月9日にコロンバンガラ島への緊急輸送が行われた{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|p=236}}。
7月12日にも[[第二水雷戦隊]]司令官[[伊崎俊二]]少将の指揮下で輸送作戦が行われるが{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|pp=237-238}}、同日夜にクラ湾夜戦に似たような経過で[[コロンバンガラ島沖海戦]]が発生した{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|pp=148c-149|ps=〔コロンバンガラ島沖海戦〕}}<ref>[[#写真PW六|写真太平洋戦争6巻]]16頁「コロンバンガラ島沖海戦」</ref>。
 
エインスワース少将はハルゼー大将へ「7隻の日本軍艦を仕留めた」と報告し<ref name="e" />、ハルゼー大将はこれに対し賞賛の返答を行った<ref>ポッター, 370ページ</ref>。ヘレナの生存者の一部は後に12月20日に就役した[[クリーブランド級軽巡洋艦]][[ヒューストン (軽巡洋艦)|ヒューストン]] (''USS Houston, CL-81'') の乗組員の中核を成した<ref>中名生正己「アメリカ巡洋艦はいかに戦ったか」『アメリカ巡洋艦史』157ページ</ref>。また、戦死者や負傷者に[[火傷]]の者が多かったので、以後暑い気候の海域でも、基本的に肌の露出が少ない服装を着用することが義務付けられた<ref name="g" />。クラ湾夜戦から一週間後の7月12日、[[コーストウォッチャー|沿岸監視員]]が「東京急行」の通過を通報してきた<ref name="b">木俣『日本水雷戦史』332ページ</ref>。ハルゼー大将はエインスワース少将に再度の出撃を命じ<ref name="b">木俣『日本水雷戦史』332ページ</ref>、沈没したヘレナに代わって[[ニュージーランド海軍]]の軽巡洋艦[[リアンダー (軽巡洋艦)|リアンダー]] を編入した第36.1任務群は[[コロンバンガラ島]]近海へ出撃し、コロンバンガラ島沖海戦が発生した{{Sfn|戦史叢書96巻|1976|pp=237-238}}。軽巡[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]沈没(第二水雷戦隊司令部全滅)と引き換えに、大きな損害を出すことになった{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|pp=148c-149|ps=〔コロンバンガラ島沖海戦〕}}。
 
{{Main|コロンバンガラ島沖海戦}}
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030753700|title=昭和十八年七月七日 駆逐艦谷風戦闘詳報第一号 昭和十八年七月五日昭和十八年七月六日「クラ」湾沖夜戦(『駆逐艦谷風戦闘詳報』)|ref=谷風蓮76号日誌(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030023200|title=昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(8)|ref=S1709第八艦隊(8)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030117000|title=昭和18年5月1日~昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)|ref=S1805四水戦日誌(2)}}
 
<!-- ウィキペディア「出典を明記する」より、著者五十音順 -->
* 「世界の艦船増刊第57集 第2次大戦のアメリカ巡洋艦」海人社、2001年
*<!--オイデ2011-->{{Cite book|和書|author=生出寿|authorlink=生出寿|year=2011|month=11|title=戦艦「大和」最後の艦長 {{small|海上修羅の指揮官}}新装版|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=9784-7698-2143-4|ref={{SfnRef|大和最後の艦長|2011}}}}
*<!-- オオクマ2016-10 -->{{Cite book|和書|author=大熊安之助ほか|authorlink=|year=2016|month=10|title=海軍水雷戦隊 {{small|駆逐艦と魚雷と軽巡が織りなす大海戦の実相}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1629-4|ref={{SfnRef|海軍水雷戦隊|2016}}}}
**(180-199頁){{small|元米海軍兵曹長・戦後米海軍報道班員}}ジョセフ・D・ハリントン『青い眼が見た九三式酸素魚雷奮戦記 {{small|姿なき暗殺者"酸素魚雷"に戦慄の日々を送った一米兵の海戦レポート}}』
**(262-267頁)「丸」編集部『二水戦旗艦「神通」ソロモンに全員戦死す {{small|探照灯を照射、集中砲火を浴びた火の玉軽巡のコロンバンガラ沖夜戦}}』
* 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年
* 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
*<!-- キマタ1989 -->{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|year=1989|month=3|title=日本軽巡戦史|publisher=図書出版社|ref={{SfnRef|日本軽巡戦史|1989}}}}
* 佐藤和正「ソロモン作戦II」『写真・太平洋戦争(第6巻)』光人社NF文庫、1995年、ISBN 4-7698-2082-8
*<!-- キマタ2006 -->{{Cite book|和書|author=[[原為一]]ほか木俣滋郎|authorlink=|year=20142006|month=1207|title=軽巡二十五隻駆逐艦入門 {{small|駆逐艦群の先頭に立った水雷隊旗艦奮戦と全貌花形徹底研究}}|chapter=|publisher=潮書房光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-15802217-80|ref=軽巡二十五隻{{SfnRef|駆逐艦入門|2006}}}}
*<!-- セカイ2001 -->「世界の艦船増刊第57集 第2次大戦のアメリカ巡洋艦」海人社、2001年
*<!--シガ2016-04 -->{{Cite book|和書|author=志賀博ほか|year=2016|month=4|title=駆逐艦物語 {{small|車引きを自称した駆逐艦乗りたちの心意気}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1615-7|ref={{SfnRef|駆逐艦物語|2016}}}}
**(9-22頁){{small|当時「谷風」水雷長・海軍大尉}}相良辰雄『十七駆逐隊「谷風」水雷長のクラ湾夜戦 {{small|昭和十八年七月五日夜、新月轟沈の電探射撃と敵巡を屠った魚雷戦}}』
**(50-62頁){{small|当時「陽炎」水雷長・海軍大尉}}高田敏夫『十五駆「陽炎」コロンバンガラ触雷沈没記 {{small|仕掛けられた罠。親潮、黒潮、陽炎を襲ったブラケット水道の悲運}}』
**(63-90頁){{small|戦史研究家}}大浜啓一『日本の駆逐艦かく戦えり {{small|太平洋戦争を第一線駆逐艦約一五〇隻が戦った海戦の実情}}』
*<!-- シゲモト2014-10 -->{{Cite book|和書|author=重本俊一ほか|year=2014|month=10|title=陽炎型駆逐艦 {{small|水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1577-8|ref={{SfnRef|重本ほか、陽炎型|2014}}}}
**(255-342頁){{small|戦史研究家}}伊達久『日本海軍駆逐艦戦歴一覧 {{small|太平洋戦争時、全一七八隻の航跡と最後}}』
*<!-- ジョウ 1982 -->{{Cite book|和書|author=城英一郎著|editor=野村実・編|year=1982|month=2|chapter=|title={{smaller|侍従武官}} 城英一郎日記|publisher=山川出版社|series=近代日本史料選書|isbn=|ref=城日記}}
*<!-- タカマツミヤ 1997六 -->{{Cite book|和書|author=[[高松宮宣仁親王]]著|coauthors=[[嶋中鵬二]]発行者|title=高松宮日記 第六巻 {{small|昭和十八年 二月~九月}}|publisher=中央公論社|year=1997|month=03|origyear=|ISBN=4-12-403396-6|ref=高松宮六}}
*<!-- タネガシマ2003 -->{{Cite book|和書|author=[[種子島洋二]]|coauthors=|year=2003|month=09|origyear=1975|chapter=|title=ソロモン海「セ」号作戦 {{small|コロンバンガラ島奇蹟の撤収}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2394-0|ref={{SfnRef|セ号作戦|2003}} }}
*<!-- トヨダ2004 -->{{Cite book|和書|author=[[豊田穣]]|coauthors=|year=2004|title=雪風ハ沈マズ {{small|強運駆逐艦栄光の生涯}}|publisher=光人社NF文庫新装版|isbn=978-4-7698-2027-7|ref={{SfnRef|豊田、雪風|2004}} }}
*<!-- ハラ2014 -->{{Cite book|和書|author=[[原為一]]ほか|year=2014|month=12|title=軽巡二十五隻 {{small|駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1580-8|ref={{SfnRef|軽巡二十五隻|2014}}}}
**{{small|当時「夕張」航海長・海軍少佐}}津田武彦『袖珍軽巡「夕張」ソロモンへの片道切符 {{small|船団を護衛して魔の海域に作戦する小型軽巡を襲った痛恨の一瞬}}』
* C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/[[実松譲]]、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1992年、ISBN 4-7704-0757-2
* ジェームズ・J・フェーイー/三方洋子(訳)『太平洋戦争アメリカ水兵日記』NTT出版、1994年、ISBN 4-87188-337-X
*<!--ホウエイチョウ39 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<4> {{small|―第三段作戦前期―}}|volume=第39巻|year=1970|month=10|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書39巻|1970}}}}
* [[防衛研究所]]戦史室編『[[戦史叢書]]96 南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後』[[朝雲新聞|朝雲新聞社]]、1976年
*<!--ボウエイチョウ40 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 南太平洋陸軍作戦<3> {{small|ムンダ・サラモア}}|volume=第40巻|year=1970|month=12|publisher=朝雲新聞社|ref={{Sfn|戦史叢書40巻|1970}}}}
*<!--ホウエイチョウ96 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> {{small|ガ島撤収後}}|volume=第96巻|year=1976|month=8|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書96巻|1976}}}}
* E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4
*<!--マル1989-6巻-->{{Cite book|和書|editor=雑誌『[[丸 (雑誌)|丸]]』編集部/編|year=1990|month=1|title=写真 日本の軍艦 {{small|重巡 II}} 高雄・愛宕 鳥海・摩耶 古鷹・加古 青葉・衣笠|volume=第6巻|publisher=光人社|isbn=4-7698-0456-3|ref=丸写真6重巡II}}
*<!--マル1990-8巻-->{{Cite book|和書|editor=雑誌『[[丸 (雑誌)|丸]]』編集部/編|year=1990|month=3|title=写真 日本の軍艦 {{small|軽巡I}} 天龍型・球磨型・夕張・長良型|volume=第8巻|publisher=光人社|isbn=4-7698-0458-X|ref=丸写真8軽巡I}}
*<!--マル1990-9巻-->{{Cite book|和書|editor=雑誌『[[丸 (雑誌)|丸]]』編集部/編|year=1990|month=4|title=写真 日本の軍艦 {{small|軽巡II}} 川内型・阿賀野型・大淀・香取型 砲艦|volume=第9巻|publisher=光人社|isbn=4-7698-0459-8|ref=丸写真9軽巡II}}
*<!--マル1995-6-->{{Cite book|和書|edior=雑誌「丸」編集部|year=1995|month=5|title=写真 太平洋戦争<第六巻> {{small|ソロモン/ニューギニア作戦II/マーシャル/ギルバート作戦}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2082-8|ref=写真PW六}}<br/>佐藤和正「ソロモン方面作戦II」(74-100ページ)
*<!-- レキシグンゾウ1998-8 -->{{Cite book|和書|author=歴史群像編集部編|year=1998|month=8|chapter=|pages=|title=水雷戦隊II 陽炎型駆逐艦 {{small|究極の艦隊型駆逐艦が辿った栄光と悲劇の航跡}}|series=歴史群像 太平洋戦史シリーズ|volume=第19巻|publisher=学習研究社|editor=|isbn=4-05-601918-5|ref={{SfnRef|歴群19、水雷戦隊II|1998}} }}
**(85-94頁)向井学「艦隊型駆逐艦全131隻行動データ」
**(143-158頁){{small|戦闘ドキュメント}} 日本駆逐艦の奮戦 PATR1〔水雷戦隊かく戦えり〕/PART2〔ルンガ沖夜戦〕
*<!-- レキシグンゾウ2008-05 -->{{Cite book|和書|author=歴史群像編集部編|year=2008|month=05|chapter=|pages=|title=睦月型駆逐艦 {{small|真実の艦艇史4 ― 謎多き艦隊型駆逐艦の実相}}|series=歴史群像 太平洋戦史シリーズ|volume=第64巻|publisher=学習研究社|editor=|isbn=978-4-05-605091-2|ref={{SfnRef|歴群64、睦月型|2008}} }}
 
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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==関連項目==
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{{Commons|Battle of Kula Gulf}}
*[[太平洋戦争]]  /  [[第二次世界大戦]]
*[[大日本帝国]]  /  [[大日本帝国海軍]]
*[[海戦]]
 
{{Campaignbox-bottom|ソロモン諸島の戦い}}
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{{デフォルトソート:くらわんやせん}}
[[Category:1943年のイギリス保護領ソロモン諸島]]