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このほか、昭和期の調査で、次の地域での藤織りの記録が確認されている。
* 県西部の[[遠江]]地域では、ヤマフジの繊維で織った着物を「フヂギモノ」と称し、「フヂギモノ」といえば仕事着をさすほど一般的だった<ref name="{{Cite book|和書|author=瀬川清子 |title=きもの |publisher=六人社 |year=1948 |page=13-15 |isbn=}}">{{Cite book|和書|author=瀬川清子 |title=きもの |publisher=六人社 |year=1948 |page=13-15 |isbn=}}</ref>。
* 天竜川流域の山間部では、藤布は総じて「フヂギモノ」と呼ばれ、[[秋葉山 (静岡県)|秋葉山]]麓にあった'''喜多村'''などでは近年まで家族用として一冬に7~8反は織られた<ref name="『無形の民俗文化財記録第26集 紡織習俗Ⅱ 島根県・鹿児島県』文化庁文化財保護部、1981年。「出雲の藤布紡織習俗」の項、4-12頁。">『無形の民俗文化財記録第26集 紡織習俗Ⅱ 島根県・鹿児島県』文化庁文化財保護部、1981年。「出雲の藤布紡織習俗」の項、4-12頁。</ref>。用途は、麻布や葛布とほとんど同じで、仕事着<ref group="注">「サクバキ」、「チョウバキ」等と称された。</ref>のほか、単衣の着物やモモヒキなどの普段着や、穀物袋や豆腐の漉し布に用いられた<ref name="有岡利幸『花と樹木と日本人』八坂書房、2016年、260-278頁。">有岡利幸『花と樹木と日本人』八坂書房、2016年、260-278頁。</ref>。この地域には、[[1828年]]([[文政]]11年)に'''浦川村'''、'''川合村'''<ref group="注">両村とも、天竜川の支流である水窪川流域の山村に位置した。</ref>と、'''大井村'''<ref group="注">天竜川の東に位置した。</ref>で記録された『高反別村差出明細帳』に、「女は藤はたを心得」云々とあり、江戸時代以前から農業のかたわらの女性の仕事として藤織りが定着していたことがわかる<ref name="{{Cite journal|和書|journal=日本大学文理学部(三島)研究年報 |title=静岡県の衣服に関する江戸時代の文献的考察-藤布について- |volume=28 |year=1980 |page=321-332頁 |issue=}}">{{Cite journal|和書|journal=日本大学文理学部(三島)研究年報 |title=静岡県の衣服に関する江戸時代の文献的考察-藤布について- |volume=28 |year=1980 |page=321-332頁 |issue=}}</ref>。近年でも、'''[[水窪町]]'''<ref group="注">現在は、天竜区の一部にあたる。</ref>では藤布の痕跡が確認されている<ref name="{{Cite journal|和書|journal=名古屋女子大学紀要 |title=被覆構成における素材に関する研究Ⅰ-藤布について- |volume= |issue=22}}">{{Cite journal|和書|journal=名古屋女子大学紀要 |title=被覆構成における素材に関する研究Ⅰ-藤布について- |volume= |issue=22}}</ref>。
* 志太郡の'''[[徳山村 (静岡県)|徳山村]]'''<ref group="注">現在は、[[榛原郡]][[川根本町]]に含まれる。</ref>では、明治30年頃まで、藤織りをして、仕事着の上衣、ハバキ、手甲などを仕立てた。藤織りの手順は、次の通りである。藤は秋に採集し、平らな石の上で小槌で叩いて繊維を採り出し、中皮のよい繊維だけを灰汁で煮て、水にさらして白い繊維とし、これを細かく裂いて糸取りに巻き取り、地機で織った。この村では[[アイ (植物)|アイ]]を育てており、藍染めは紺屋に依頼して染めてもらったが、自分で織った藤布は自分で染めた<ref name="{{Cite book|和書|author=文化庁 |title=日本民俗地図Ⅷ(衣生活)解説書 |publisher=国土地理協会 |year=1982 |page=274-278 |isbn=}}">{{Cite book|和書|author=文化庁 |title=日本民俗地図Ⅷ(衣生活)解説書 |publisher=国土地理協会 |year=1982 |page=274-278 |isbn=}}</ref>。同じくかつては志太郡に含まれた'''[[川根町]]'''でも、藤織りの痕跡が確認されている<ref name="{{Cite journal|和書|journal=名古屋女子大学紀要 |title=被覆構成における素材に関する研究Ⅰ-藤布について- |volume= |issue=22}}">{{Cite journal|和書|journal=名古屋女子大学紀要 |title=被覆構成における素材に関する研究Ⅰ-藤布について- |volume= |issue=22}}</ref>。
* 安倍郡の'''黒俣村'''<ref group="注">[[清沢村]]を経て、現在の静岡市葵区西部に含まれる。藁科川の中流域に位置する。</ref>では、明治初年から30年頃までの間、藤で布(タフ)を織っていた。ひじょうに丈夫でタシツケや風呂敷に用いた<ref name="{{Cite book|和書|author=文化庁 |title=日本民俗地図Ⅷ(衣生活)解説書 |publisher=国土地理協会 |year=1982 |page=274-278 |isbn=}}">{{Cite book|和書|author=文化庁 |title=日本民俗地図Ⅷ(衣生活)解説書 |publisher=国土地理協会 |year=1982 |page=274-278 |isbn=}}</ref><ref name="{{Cite journal|和書|journal=名古屋女子大学紀要 |title=被覆構成における素材に関する研究Ⅰ-藤布について- |volume= |issue=22}}">{{Cite journal|和書|journal=名古屋女子大学紀要 |title=被覆構成における素材に関する研究Ⅰ-藤布について- |volume= |issue=22}}</ref>。
* 周智郡の'''[[熊切村]]'''<ref group="注">現在の浜松市天竜区の東端に位置する。</ref>では、明治45年頃まで藤織りをした。藤蔓は春先に伐り、中皮だけを集めて灰汁で煮、川の水にさらして洗い、乾燥させた後、細かく裂いて手で積んだ。これを糸車で撚り、機で織っている<ref name="{{Cite book|和書|author=文化庁 |title=日本民俗地図Ⅷ(衣生活)解説書 |publisher=国土地理協会 |year=1982 |page=274-278 |isbn=}}">{{Cite book|和書|author=文化庁 |title=日本民俗地図Ⅷ(衣生活)解説書 |publisher=国土地理協会 |year=1982 |page=274-278 |isbn=}}</ref>。
* [[伊豆半島]]の'''[[西浦村 (静岡県)|西浦村]]'''<ref group="注">現在は、[[沼津市]]に含まれる。</ref>では、明治末頃まで藤織りをして、おもに仕事着に着用した。この村では藤糸のみで織ったものを「コギノ」といい、経糸に藤糸・緯糸に木綿を使用した裂き織りを「ザッコ」、藤と麻で織ったものを「ヌノ」と呼んだ。この村の藤織りは[[伝統芸能]]「[[西浦田楽]]」の衣装である[[水干]]にも用いられている<ref name="{{Cite journal|和書|journal=名古屋女子大学紀要 |title=被覆構成における素材に関する研究Ⅰ-藤布について- |volume= |issue=22}}">{{Cite journal|和書|journal=名古屋女子大学紀要 |title=被覆構成における素材に関する研究Ⅰ-藤布について- |volume= |issue=22}}</ref>。また、藤糸で織った能衣装が、当地の観音堂に納められている。明治40年頃までは、藤の繊維を、トウモロコシの皮を煮詰めた灰汁に入れ、赤黒く染色して使用した<ref name="{{Cite book|和書|author=文化庁 |title=日本民俗地図Ⅷ(衣生活)解説書 |publisher=国土地理協会 |year=1982 |page=274-278 |isbn=}}">{{Cite book|和書|author=文化庁 |title=日本民俗地図Ⅷ(衣生活)解説書 |publisher=国土地理協会 |year=1982 |page=274-278 |isbn=}}</ref>。
 
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