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{{政治家
|人名 = 初代ファラドンの初代グレイ子爵<br/>エドワード・グレイ
|各国語表記 = {{Lang|en|Edward Grey, <br/>1st Viscount Grey of Fallodon}}
|画像 = Portrait of Edward Grey, 1st Viscount Grey of Fallodon by Sir James Guthrie.jpg
|画像説明 =
|画像説明 = サー・[[ジェイムズ・ガスリー (画家)|ジェイムズ・ガスリー]]による肖像
|国略称 = {{GBR3}}
|生年月日 = [[1862年]][[4月26日]]
|出生地 = {{ENGGBR3}}・[[イングランド]]・[[ロンドン]]
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1862|4|26|1933|9|7}}
|死没地 = {{ENGUK}}・[[イングランド]]・[[ノーサンバーランド (イングランド)|ノーサンバーランド]]{{Interlang仮リンク|ファラドン|en|Fallodon}}
|出身校 = [[オックスフォード大学]][[ベリオール・カレッジ (オックスフォード大学)|ベリオール・カレッジ]]
|前職 =
|現職 =
|所属政党 = [[自由党 (イギリス)|自由党]]
|称号・勲章 = [[ガーター勲章]]受勲者(KG)<br />(KG)、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC)<br />(PC)、[[ロンドン動物学会]]会員(FZL)<br />(FZL)、[[ノーサンバーランド (イングランド)|ノーサンバーランド]]州副知事(DL)(DL)
|世襲の有無 =
|親族(政治家) = サー・[[ジョージ・グレイ (第2代準男爵)|ジョージ・グレイ]]準男爵(祖父)
|配偶者 = ドロシー・ウィドリントン<br/>パメラ・テナント
|サイン =
|国旗 = イギリス
|職名 = [[外務・英連邦大臣|外務大臣]]
|内閣 = [[ヘンリー・キャンベル=バナマン|キャンベル=バナマン]]内閣<br />第1次・第2次[[ハーバート・ヘンリー・アスキス|アスキス]]内閣
|当選回数 =
|就任日 = [[1905年]][[12月10日]]
|退任日 = [[1916年]][[12月10日]]
|国旗2 = イギリス
|退任理由 =
|職名2 = {{仮リンク|外務政務次官 (イギリス)|label=外務政務次官|en|Under-Secretary of State for Foreign Affairs}}
|内閣2 = 第4次[[ウィリアム・グラッドストン|グラッドストン]]内閣、[[アーチボルド・プリムローズ (第5代ローズベリー伯爵)|ローズベリー伯爵]]内閣
|就任日2 = [[1892年]][[8月18日]]
|退任日2 = [[1895年]][[6月20日]]
|国旗3 = イギリス
|職名3 = [[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員
|当選回数3 =
|選挙区3 = {{仮リンク|ベリック・アポン・ツイード選挙区|en|Berwick-upon-Tweed (UK Parliament constituency)}}
|就任日3 = [[1885年]][[11月24日]]
|退任日3 = [[1916年]][[7月7日]]
|国旗4 = イギリス
|職名4 = [[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員
|就任日4 = [[1916年]][[7月27日]]
|退任日4 = [[1933年]][[9月7日]]
}}
'''[[グレイ準男爵|ファラドンの初代グレイ子爵]]エドワード・グレイ'''({{Lang-en|Edward Grey, 1st Viscount Grey of Fallodon, {{postnominals|country=GBR|size=100%|sep=,|KG|PC|DL|FZS}}}}、[[1862年]][[4月26日]] - [[1933年]][[9月7日]])は[[イギリス]]の[[政治家]]。[[自由党 (イギリス)|自由党]]に所属し、党内では[[ハーバート・ヘンリー・アスキス|アスキス]]らとともに[[自由帝国主義|自由帝国主義者]]の代表的人物の一人として知られた。自由党政権下の[[1905年]]から[[1916年]]にかけて[[外務・英連邦大臣|外務大臣]]を務めた。[[三国協商]]を推進し、[[ドイツ帝国|ドイツ]]に対して包囲網や[[建艦競争]]を仕掛け、[[第一次世界大戦]]を招いた。
{{Commonscat|Edward Grey, 1st Viscount Grey of Fallodon}}
初代ファラドンのグレイ子爵'''エドワード・グレイ'''({{Lang-en-short|'''Edward Grey''', Viscount Grey of Fallodon}}、[[1862年]][[4月26日]] - [[1933年]][[9月7日]])は[[イギリス]]の[[政治家]]・[[鳥類学]]者である。[[自由党 (イギリス)|自由党]]所属。[[第一次世界大戦]]開戦時の[[外務・英連邦大臣|イギリスの外務大臣]]。
 
[[1882年]]に[[グレイ準男爵|(ファラドンの)準男爵]]位を継承し、[[1916年]]にファラドンのグレイ子爵に叙された。
[[1862年]]、[[ロンドン]]で生まれる。[[ウィンチェスター・カレッジ]]から[[オックスフォード大学]][[ベリオール・カレッジ (オックスフォード大学)|ベリオール・カレッジ]]に進むが退学。[[1882年]]に祖父のサー・[[ジョージ・グレイ (第2代準男爵)|ジョージ・グレイ]]([[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|第2代グレイ伯]]の甥)から[[準男爵]]位を継ぐ。
 
== 経歴 ==
1885年、[[バーウィック・アボン・ツイード]]から自由党員として当選。[[1905年]]から[[ヘンリー・キャンベル=バナマン|キャンベル=バナマン]]内閣の外相になり、第1次及び第2次[[ハーバート・ヘンリー・アスキス|アスキス]]内閣でもその職を務める。
=== 外務大臣就任まで ===
[[1862年]][[4月25日]]に陸軍軍人[[ジョージ・グレイ (1835-1874)|ジョージ・ヘンリー・グレイ]]中佐(第2代{{仮リンク|グレイ準男爵|label=準男爵|en|Grey Baronets}}[[ジョージ・グレイ (第2代准男爵)|ジョージ・グレイ]]の息子)とその妻ハリエット・ジェーン・ピアソンの間の息子として生まれた<ref name="thepeerage">{{Cite web |url=http://thepeerage.com/p2000.htm#i19991|title=Edward Grey, 1st Viscount Grey of Fallodon|accessdate= 2019-03-24|last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref><ref name="CP VG">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/greyfall1916.htm|title=Grey of Fallodon, Viscount (UK, 1916 - 1933)|accessdate= 2019-03-24|last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。
 
[[ウィンチェスター・カレッジ]]を経て[[オックスフォード大学]][[ベリオール・カレッジ (オックスフォード大学)|ベリオール・カレッジ]]で学ぶ<ref name="thepeerage"/>。
[[第一次世界大戦]]開戦時には[[イギリス]]を参戦に導く役割を担う。1916年、[[デビッド・ロイド・ジョージ|ロイド・ジョージ]]内閣成立に及び辞職。イギリスの外相の最長在任記録(1905-1916年まで11年間)を持つ。
 
[[1882年]][[9月9日]]に祖父の第2代準男爵[[ジョージ・グレイ (第2代准男爵)|サー・ジョージ・グレイ]]の死により第3代準男爵位を継承した<ref name="thepeerage"/><ref name="CP VG"/>。
[[1916年]]にファラドンのグレイ子爵となり、[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]へ退く。眼を患っており、大戦集結時にはほぼ視力を失っていた。
 
[[1885年]]に{{仮リンク|ベリック・アポン・ツイード選挙区|en|Berwick-upon-Tweed (UK Parliament constituency)}}から[[自由党 (イギリス)|自由党]]の[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員に選出された。1916年に[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員に転じるまでこの選挙区から当選をつづけた<ref name="thepeerage"/><ref name="CP VG"/>。
[[1919年]]から[[1920年]]まで[[在アメリカ合衆国イギリス大使]]。
 
グレイは第5代[[ローズベリー伯爵]][[アーチボルド・プリムローズ (第5代ローズベリー伯)|アーチボルド・プリムローズ]]、[[ハーバート・ヘンリー・アスキス]]、{{仮リンク|リチャード・ホールデン (ホールデン子爵)|label=リチャード・ホールデン|en|Richard Haldane, 1st Viscount Haldane}}らとともに自由党内で帝国主義的外交を主張する「[[自由帝国主義|自由帝国主義派]]」の議員だった{{sfn|中村祐吉|1978| p=19}}{{sfn|坂井秀夫|1967|p=330}}。
1933年の彼の死で、[[爵位]]を継ぐものはなく、ファラドンのグレイ子爵は一代限りとなった。
 
[[1892年]]から[[1895年]]にかけて第4次[[ウィリアム・グラッドストン|グラッドストン]]内閣と[[アーチボルド・プリムローズ (第5代ローズベリー伯爵)|ローズベリー伯爵]]内閣において{{仮リンク|外務政務次官 (イギリス)|label=外務政務次官|en|Under-Secretary of State for Foreign Affairs}}を務めた{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=300}}<ref name="thepeerage"/><ref name="CP VG"/>。
弟が二人いたが共に[[アフリカ]]での猛獣狩りで命を落とした。一人はライオンに、もう一人はバッファローに殺された。
 
[[1905年]]には婦人参政権運動家{{仮リンク|アニー・ケニー|en|Annie Kenney}}から演説を妨害され、婦人参政権を認めるか態度表明を要求されたが、グレイは回答を拒否し、それに反発したケニーらが騒動を起こして逮捕されるという事件があった{{sfn|村岡健次|木畑洋一|1991| p=247}}。
釣りを趣味としており、フライフィッシングに関する著書を出している。
 
=== 外務大臣 ===
[[File:Edward Grey 1914.jpg|thumb|180px|1914年の第3代準男爵サー・エドワード・グレイ]]
[[1905年]]12月の保守党政権[[アーサー・バルフォア|バルフォア]]内閣から自由党政権[[ヘンリー・キャンベル=バナマン|キャンベル=バナマン]]内閣への政権交代によりグレイが[[外務・英連邦大臣|外務大臣]]に就任した。ロシアに赴任していた[[チャールズ・ハーディング (初代ハーディング・オブ・ペンズハースト男爵)|サー・チャールズ・ハーディング]]が呼び戻されて、グレイを補佐する{{仮リンク|外務省事務次官 (イギリス)|label=外務事務次官|en|Permanent Under-Secretary of State for Foreign Affairs}}に付けられた{{sfn|君塚直隆|2012|p=200-201}}。グレイ時代から外務官僚が英国の外交政策に大きくかかわるようになった。19世紀末までは外務官僚が外交政策の決定に関与することなどほとんどできなかったのだが、グレイは当時の外務大臣としては異例の庶民院議員であったため、与野党の対立が激しくなっていた20世紀初頭にあって、事務方に政策の立案や実行を任せるケースが多かった。そして当時の外務官僚には反ドイツ主義者が多かった{{sfn|君塚直隆|2012|p=302}}。
 
政権交代直後にキャンベル=バナマンとグレイは、旧保守党政権の首相だったバルフォア、外相だった第5代[[ランズダウン侯爵]][[ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第5代ランズダウン侯爵)|ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス]]と四者会談を行い、外交については継続性を維持することを確認している{{sfn|君塚直隆 |2012|p=201}}。実際に自由帝国主義者であるグレイの外交は前保守党政権とほとんど変わらないものだった。帝国への積極介入、親仏外交、対独強硬外交など保守党政権時代から一致した外交政策がとられた{{sfn|佐々木雄太|木畑洋一|2005|p=89}}。
 
[[第一次モロッコ事件]]をめぐって1906年1月から4月にかけて開催された[[アルヘシラス会議]]においても[[フランス第三共和政|フランス]]を支持し、[[モロッコ]]における各国の権益の均等を謳いつつ、フランスの権益を優先的に認める内容の議定書の締結を主導した{{sfn|君塚直隆|2012|p=201-215}}。
 
またグレイは駐英[[ロシア帝国|ロシア]]大使の{{仮リンク|アレクサンドル・フォン・ベンケンドルフ|ru|Бенкендорф, Александр Константинович}}と親密な関係を持ち、英露連携を推進{{sfn|君塚直隆|2012|p=250}}。[[1907年]]8月にはロシアと[[英露協商]]を結んだ。[[ペルシャ]]については北部をロシア、南部をイギリスの勢力圏とし、[[アフガニスタン]]についてはイギリスの勢力圏とし、[[チベット]]については双方不干渉という英露の権益対立を互譲的に解決した。これにより50年に渡る中央アジアでの英露の覇権争い([[グレート・ゲーム]])は終わり、[[三国協商]]関係が成立した。以降イギリスはフランス・ロシアと連携して[[ドイツ帝国|ドイツ]]との本格的な敵対関係に入った{{sfn|佐々木雄太|木畑洋一|2005| p=89}}。ドイツとの[[建艦競争]]のため、閣内においてアスキスや[[レジナルド・マッケナ]]らとともにドレッドノート型戦艦の積極的建造を訴える「大海軍派」として行動し、[[デイヴィッド・ロイド・ジョージ]]ら「小海軍派」と対立した{{sfn|村岡健次|木畑洋一|1991|p=237}}{{sfn|坂井秀夫|1967|p=398}}。
 
1908年4月からの[[ハーバート・ヘンリー・アスキス|アスキス]]内閣でも外相に留任。アスキスは外交のほとんどをグレイに委ねた{{sfn|中村祐吉|1978|p=70}}。
 
1908年10月に[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]](1878年[[ベルリン条約 (1878年)|ベルリン条約]]によりオーストリア支配下にあったが、名目上[[オスマン帝国|オスマン]]が宗主権をもっていた)の併合宣言と[[ブルガリア公国|ブルガリア]]のオスマンからの独立宣言があり、ドイツがこれを支持する一方、[[セルビア王国 (近代)|セルビア]]やロシアは反対した。グレイもベルリン条約の締結国の同意なしにこのような宣言を一方的にすることは認められないと考え、国際会議を提唱した。協商関係に入っていたロシアやフランスもそれを支持したが、オーストリアが国際会議にかけられることに乗り気ではなかった。またグレイ自身も「事前の合意なき国際会議を開いても無意味」という考えから慎重な面があり、露仏と足並みがそろっているとはいえなかった。結局1909年2月にはオーストリアとトルコの二国間で併合を事実上認める議定書が交わされたことで会議外交で解決する機を失った{{sfn|君塚直隆|2012|p=268-277}}。
 
ドイツとの緊張緩和のため、1909年2月には国王[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]の訪独を実現させた。事務次官ハーディングを同行させてドイツ当局と交渉を行ったが、懸案の建艦競争もバグダッド鉄道の件も解決できずに終わった{{sfn|君塚直隆 |2012| p=317-323}}。
 
1911年7月1日、ドイツは、フランスがモロッコで起きた反仏反乱を鎮圧するために出兵したのに対抗し、モロッコ・アガディールに砲艦を派遣。[[第二次モロッコ事件]]が発生した。グレイはドイツがモロッコから同港を獲得すれば英本国と英領アフリカ植民地、南米との交易が脅かされると恐れ、ドイツに対して断固たる姿勢を取る必要があると決断した。7月4日にも「英国の権益にも大きな影響を及ぼすので、我々が参加しないような新しい取り決めを認めることはできない」とドイツ政府に通告{{sfn|坂井秀夫|1967|p=466}}。モロッコを勢力圏と見做していたフランスもドイツへの反発を強め、ヨーロッパ情勢は一触即発となった。9月17日にグレイはマッケナ海相に「ドイツは奇襲攻撃を仕掛けてくるかもしれない。海相はこれに対して準備をしなければならない」という警告を発し、戦争準備を開始させた{{sfn|坂井秀夫|1967|p=467}}。しかし1911年11月4日には独仏両国間でフランスがモロッコを保護国とすることをドイツが認める代わりにフランス領[[コンゴ]]の一部をドイツへ割譲するという協定が締結されたため、第二次モロッコ危機は収束した{{sfn|坂井秀夫|1967|p=468}}。
 
全体としてグレイ外交はフランスやロシアに密着しすぎていたため、ドイツに接近してその行動を抑制する積極外交を怠り、[[第一次世界大戦]]を招来することになったといえる{{sfn|佐々木雄太|木畑洋一|2005| p=92-93}}。
 
1914年8月からはじまった[[第一次世界大戦]]をめぐってはアスキス内閣は参戦派と不介入派に分かれたが、グレイは海相[[ウィンストン・チャーチル]]とともに参戦派として行動した。アスキスはグレイを支持し、8月3日にドイツ軍がベルギーへ侵攻すると参戦を決意した{{sfn|中村祐吉|1978| p=103-104}}。同日グレイは議会においてベルギーの中立擁護とフランスとの間に結んでいた軍事協定に基づきイギリスも参戦すべきであると演説した{{sfn|村岡健次|木畑洋一|1991| p=257}}。野党の[[保守党 (イギリス)|保守党]]、[[労働党 (イギリス)|労働党]]、{{仮リンク|アイルランド議会党|en|Irish Parliamentary Party}}も反対はせず、戦時中は党派争いを停止して政府を支持することを表明した。これにより挙国体制ができた{{sfn|中村祐吉|1978| p=104}}。
 
1915年5月からの[[挙国一致内閣]]でも外相に留任{{sfn|中村祐吉|1978| p=112}}。同時期[[イタリア王国|イタリア]]を協商側に引き込む、秘密交渉を行った{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=301}}。
 
1916年7月27日に[[連合王国貴族]]ファラドンのグレイ子爵に叙され<ref name="thepeerage"/><ref name="CP VG"/>、[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員に列した<ref name="hansard">{{Cite web |url= https://api.parliament.uk/historic-hansard/people/sir-edward-grey/index.html |title= Sir Edward Grey |accessdate= 2019-03-28 |author= [[イギリス議会|UK Parliament]] |work= [http://hansard.millbanksystems.com/index.html HANSARD 1803–2005] |language= 英語 }}</ref>。
 
しかし眼を患っており、視力が落ちすぎていたため、1916年12月の政変で首相がアスキスから[[デイヴィッド・ロイド=ジョージ]]に代わったのを機に外相を辞した。11年間の在任はイギリス外相の最長在任記録だった{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=300}}。
 
=== 外相退任後 ===
[[File:1stViscountGreyOFFallodonOld.jpg|thumb|180px|晩年のファラドンのグレイ子爵の肖像画({{仮リンク|エリオット&フライ|en|Elliott & Fry}})]]
この後2、3年は公的生活から遠ざかって安静にし、視力が回復した<ref name="EB1922">{{Cite EB1922 |last=Buckle |first=George Earle |authorlink=:en:George Earle Buckle |wstitle=Grey of Fallodon, Edward Grey, 1st Viscount}}</ref>。
 
ロイド・ジョージ政府の求めに応じて[[1919年]]から[[1920年]]にかけては[[在アメリカ合衆国イギリス大使]]を務めた<ref>{{London Gazette |issue=31581 |date=3 October 1919 |page=12139 }}</ref>。しかし[[ワシントンD.C.|ワシントン]]にいたのは3か月程度だった<ref name="EB1922"/>。
 
[[1933年]][[9月7日]]に死去した。子供はなく、ファラドンのグレイ子爵位は廃絶した。準男爵位は[[はとこ]]の[[チャールズ・グレイ (第4代準男爵)|チャールズ・グレイ]]が継承した<ref name="CP VG"/>。
 
== 人物・評価 ==
グレイの評価を巡っては歴史家のスタイナー(Steiner)とジョン・チャムリーの間で論争となった。スタイナーは第一次世界大戦にイギリスが参戦していく過程においてドイツの外交・軍事政策が攻撃的だったのでイギリス側がどのように努力しても戦争回避は困難だったと主張する。一方チャムリーはグレイには当初対独開戦の意思がなかったとしても、英仏協商に縛られた柔軟性のない外交によりドイツとの対決を招き、第一次世界大戦になってしまったと主張する。一方スティーブンソンは第一次世界大戦の直接の原因とされる建艦競争は開戦前にイギリスの勝利で終わっており、むしろドイツとフランス・ロシア間の陸軍競争が主たる原因としている。この立場もグレイがいかなる外交をしようと結局大戦は不可避だったという結論になるため、グレイ擁護論である{{sfn|佐々木雄太|木畑洋一|2005| p=92-93}}。
 
ただしスタイナーもグレイの眼疾と議会での多忙により、イギリス外交は外務官僚たちの意思が大きく反映されるようになってしまい、こうした「グレイの取り巻き」たちが三国協商・反ドイツ一辺倒の外交を推進した結果がイギリスの第一次世界大戦参戦ではないかという分析をしている{{sfn|佐々木雄太|木畑洋一|2005| p=79}}。
 
[[釣り]]を趣味としており、1899年には『フライフィッシング(Fly-Fishing)』という著書を出している<ref name="EB1922"/>。
 
== 栄典 ==
=== 爵位/準男爵位 ===
[[1882年]][[9月9日]]の祖父[[ジョージ・グレイ (第2代准男爵)|ジョージ・グレイ]]の死去に以下の準男爵位を継承した<ref name="thepeerage"/><ref name="CP VG"/>。
*'''(ファラドンの)第3代[[グレイ準男爵|準男爵]]''' {{small|(3rd Baronet "of Fallodon")}}
*:([[1814年]][[7月29日]]の[[勅許状]]による連合王国[[準男爵]]位)
 
[[1916年]][[7月27日]]に以下の爵位を新規に叙された<ref name="thepeerage"/><ref name="CP VG"/>。
*'''ノーサンバーランド州におけるファラドンのファラドンの初代[[グレイ準男爵|グレイ子爵]]''' {{small|(1st Viscount Grey of Fallodon, of Fallodon in the County of Northumberland)}}
*:([[勅許状]]による[[連合王国貴族]]爵位)
 
=== 勲章 ===
*[[1912年]]、[[ガーター勲章]]ナイト (KG)<ref name="thepeerage"/><ref name="CP VG"/>
 
=== その他 ===
*[[1902年]]、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]] (PC)<ref name="thepeerage"/><ref name="CP VG"/>
*[[ロンドン動物学]]会会員(FZL)
*ノーサンバーランド州副知事 (DL)
 
== 家族 ==
1885年10月20日にドロシー・ウィドリントン(Dorothy Widdrington)と最初の結婚をしたが<ref name="thepeerage"/><ref name="CP VG"/>、彼女は1906年に事故で命を落とした<ref name="EB1922"/>。1922年にパメラ・ジュネビエーブ・アデレイド・テナント(Pamela Genevieve Adelaide Tennant)と再婚した<ref name="thepeerage"/><ref name="CP VG"/>。しかしいずれの結婚でも子供はできなかった<ref name="EB1922"/>。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|1}}
 
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=[[坂井秀夫]]|date=1967年|title=政治指導の歴史的研究 近代イギリスを中心として|publisher=[[創文社]]|asin=B000JA626W|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author1=[[佐々木雄太]]|author2=[[木畑洋一]]|date=2005年(平成17年)|title=イギリス外交史|publisher=[[有斐閣]]|isbn=978-4641122536|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=[[君塚直隆]]|year=2012|title=ベル・エポックの国際政治 エドワード七世と古典外交の時代|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4120044298|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author1=[[松村赳]] |author2=[[富田虎男]]|year=2000|title=英米史辞典|publisher=[[研究社]]|isbn=978-4767430478|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author1=[[村岡健次_(歴史学者)|村岡健次]]|author2=[[木畑洋一]]|date=1991年(平成3年)|title=イギリス史〈3〉近現代|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634460300|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=[[中村祐吉]]|year=1978|title=イギリス政変記 アスキス内閣の悲劇|publisher=[[集英社]]|asin=B000J8P5LC|ref=harv}}
 
== 関連項目 ==
* [[エドワード・グレイ野外鳥類研究所]]({{interlang|en|Edward Grey Institute of Field Ornithology}})
 
== 外部リンク ==
{{先代次代|[[外務英連邦大臣|外務大臣]]|1905-1916|[[ヘンリー・チャールズ・キース・ペティ=フィッツモーリス (第5代ランズダウン侯)|第5代ランズダウン侯爵]]|[[アーサー・バルフォア]]}}
{{Commonscat|Edward Grey, 1st Viscount Grey of Fallodon}}
*{{hansard-contribs | sir-edward-grey | Sir Edward Grey }}
*{{Cite EB1922 |last=Buckle |first=George Earle |authorlink=:en:George Earle Buckle |wstitle=Grey of Fallodon, Edward Grey, 1st Viscount}}
*{{UK National Archives ID}}
*{{Internet Archive author|name=Sir Edward Grey}}
*{{NPG name}}
{{s-start}}
{{s-par|uk}}
{{succession box | title = {{仮リンク|ベリック・アポン・ツイード選挙区|en|Berwick-upon-Tweed (UK Parliament constituency)}}<br>選出[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員| years = {{仮リンク|1885年イギリス総選挙|label=1885年|en|United Kingdom general election, 1885}}–{{仮リンク|1916年ベリック・アポン・ツイード選挙区補欠選挙|label=1916年|en|Berwick-upon-Tweed by-election, 1916}} | before = {{仮リンク|デイヴィッド・ヒューム (1838-1901)|label=デイヴィッド・ヒューム|en|David Milne Home (politician)}}<br />{{仮リンク|ヒューバート・ジャーニンガム|en|Hubert Jerningham}}| after ={{仮リンク|フランシス・ブラック (ティルマス・パークの初代準男爵)|label=フランシス・ブラック|en|Sir Francis Blake, 1st Baronet, of Tillmouth Park}}}}
{{s-off}}
{{succession box | before={{仮リンク|ジェイムズ・ローサー (初代アルスウォーター子爵)|label=ジェイムズ・ローサー|en|James Lowther, 1st Viscount Ullswater}}| title={{仮リンク|外務政務次官 (イギリス)|label=外務政務次官|en|Under-Secretary of State for Foreign Affairs}} | years=1892年–1895年| after=[[ジョージ・カーゾン (初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵)|ジョージ・カーゾン]]}}
{{succession box | before=[[ヘンリー・チャールズ・キース・ペティ=フィッツモーリス (第5代ランズダウン侯)|第5代ランズダウン侯爵]]| title=[[外務英連邦大臣|外務大臣]] | years=1905年–1916年| after=[[アーサー・バルフォア]]}}
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{{succession box|title={{仮リンク|自由党貴族院院内総務|en|List of United Kingdom Liberal Party leaders#Leaders of the Liberal Party in the House of Lords}}|years=1923年–1924年|before=[[ロバート・クルー=ミルンズ (初代クルー侯爵)|初代クルー侯爵]]|after={{仮リンク|ウィリアム・ライゴン (第7代ビーチャム伯爵)|label=第7代ビーチャム伯爵|en|William Lygon, 7th Earl Beauchamp}}}}
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{{s-bef|before={{仮リンク|マシュー・ホワイト・リドリー (初代リドリー子爵)|label=初代リドリー子爵|en|Matthew White Ridley, 1st Viscount Ridley}}}}
{{s-ttl|title={{仮リンク|ノース・イースタン鉄道|en|North Eastern Railway (UK)}}会長 |years=1904年–1905年}}
{{s-aft|after={{仮リンク|ジョン・ロイド・ウォートン|en|John Lloyd Wharton}}}}
{{s-dip}}
{{succession box | before=[[ルーファス・アイザックス (初代レディング侯爵)|初代レディング伯爵]] | title=[[在アメリカ合衆国イギリス大使]] | years=1919年–1920年 | after={{仮リンク|オークランド・ゲデス (初代ゲデス男爵)|label=サー・オークランド・ゲデス|en|Auckland Geddes, 1st Baron Geddes}}}}
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{{succession box|title={{仮リンク|オックスフォード大学学長|en|Chancellor of the University of Oxford}}|years=1928年–1933年|before={{仮リンク|ジョージ・ケイヴ (初代ケイヴ子爵)|label=初代ケイヴ子爵|en|George Cave, 1st Viscount Cave}}|after=[[エドワード・ウッド (初代ハリファックス伯爵)|初代アーウィン男爵]]}}
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{{succession box | before=[[ジョージ・グレイ (第2代准男爵)|ジョージ・グレイ]] | title={{仮リンク|グレイ準男爵|label=(ファラドンの)第3代準男爵|en|Grey Baronets}}| after=[[チャールズ・グレイ (第4代準男爵)|チャールズ・グレイ]]| years=1882年–1933年}}
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{{イギリスの外務大臣}}
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