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封境、宣和奉使高麗圖經
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なお、高句麗は『[[南斉書]]』「高麗伝」に「高麗」という国名で表記されており、隋唐代の史書でも高麗と表記する。冊封の際の正式名が「高句麗王」から「高麗王」となったのは520年の[[梁 (南朝)|梁]]の冊封が最初であり、高句麗が意識的に高麗へと改名したとする説もある<ref name="田中1995pp23_24" />。だが改名したとする決め手もなく、単に省略形が定着しただけである可能性もある<ref name="田中1995pp23_24" />。[[矢木毅]]は、冊封体制における慣例として国号の字数を2文字に揃えた物であるとしている<ref name="矢木2012pp51_52">[[#矢木 2012|矢木 2012]], pp 51-52</ref>。
 
== 封境 ==
[[宣和奉使高麗図経]]によれば、東西二千餘里、南北一千五百餘里。<ref>[http://db.history.go.kr/KOREA/item/compareViewer.do?levelId=cnkd_003_0020#cnkd_003r_0020_0006_ 宣和奉使高麗圖經 > 『宣和奉使高麗圖經』 卷第三 城邑 > 封境]</ref>
 
== 歴史 ==