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==誕生までの経緯==
{{see also|{{仮リンク|暗号文書|en|Cipher Manuscripts}}}}
[[File:Polygraphiae.jpg|thumb|160x160px|ポリグラフィア|代替文=]]
[[ファイル:Golden Dawns charter.jpg|サムネイル|200x200ピクセル|設立許可証]]
{{See also|暗号文書 (黄金の夜明け団)}}
黄金の夜明け団の誕生は、英国[[フリーメイソン]]系の[[サロン|オカルト系サロン]]{{efn2|フリーメイソンの組織ではないが{{sfn|吉村|2013|pp=52}}、それに付属する[[秘教]]研究会のような存在であった(魔術は研究対象ではなかった){{sfn|吉村|2013|pp=62-63}}。}}である{{仮リンク|英国薔薇十字協会|en|Societas Rosicruciana in Anglia}}の会員{{仮リンク|ウィリアム・ウィン・ウェストコット|en|William Wynn Westcott}}が、1887年、暗号で書かれた一連の小冊子を入手したことに始まる。このいわゆる「{{仮リンク|暗号文書|en|Cipher Manuscripts}}」について、ウェストコットは先輩フリーメイソンのA・F・A・ウッドフォードから1886年2月付の手紙で発見の報を受け、その翌年に譲り受けたものだとまことしやかに説明した。近人の説として、それは創作されたエピソードであり、実際には1886年に死去した英国薔薇十字協会員ケネス・マッケンジーの遺した浩瀚な文書から見つかったものではないかとする向きもある{{sfn|吉村|2013|p=63}}(ウッドフォードはマッケンジーの親友であった{{sfn|キング|1994|p=48}})。いずれにせよ暗号文書そのものはウェストコットの手による贋作ではなかった{{sfn|吉村|2013|p=64}}。この暗号文書は16世紀の修道院長[[ヨハンネス・トリテミウス|トリテミウス]]の著した書物『{{仮リンク|ポリグラフィア|en|Polygraphia (book)}}』にある[[換字式暗号|暗号法]]で書かれており{{sfn|吉村|2013|p=64}}、ウェスコットはなんとか解読することができた{{sfn|キング|1994|p=49}}。
黄金の夜明け団の誕生は、英国[[フリーメイソン]]の[[サロン|オカルト系サロン]]{{efn2|フリーメイソンの組織ではないが{{sfn|吉村|2013|pp=52}}、それに付属する[[秘教]]研究会のような存在であった(魔術は研究対象ではなかった){{sfn|吉村|2013|pp=62-63}}。}}である{{仮リンク|英国薔薇十字協会|en|Societas Rosicruciana in Anglia}}の会員{{仮リンク|ウィリアム・ウィン・ウェストコット|en|William Wynn Westcott}}が、1886年2月に知人から60枚の[[暗号文書 (黄金の夜明け団)|暗号文書]]を譲り受けた事から始まる。
 
ウェストコットの供述によると、彼はこの一連の文書が16世紀の書物『{{仮リンク|ポリグラフィア|en|Polygraphia (book)}}』記載の[[換字式暗号|暗号法]]で書かれている事に気付き{{sfn|吉村|2013|p=64}}、興味を覚えた彼は早速解読に取り掛かった{{sfn|キング|1994|p=49}}。1887年9月に全ての復号化に成功したウェストコットは、文書の中にドイツ在住の{{仮リンク|アンナ・シュプレンゲル|en|Anna Sprengel}}という人物の住所を見つけ、同時に返信を望んでいる一文も確認した。アンナと書簡連絡を取るようになったウェストコットは、彼女を伝説の[[薔薇十字団]]の教義を継承する偉大な魔術師であると認め、[[秘密の首領]]と仰ぐようになった。かねてより独自のオカルト団体を作りたいと考えていたウェストコットは、アンナ嬢との手紙のやり取りの中でその意志を伝えると、彼女からドイツ[[薔薇十字団]]が公認する魔術結社設立の許可を受け取った。その教義内容は暗号写本に記載されているものとなった。ウェストコットはこの秘密の首領のお墨付きを元に、友人[[マグレガー・メイザース|マグレガー・マザーズ]]と年長の{{仮リンク|W・R・ウッドマン博士|en|William Robert Woodman}}を共同創立者にして、1888年3月1日に[[神殿|神殿(テンプル)]]と称する魔術結社の運営施設をロンドンに開いた。
 
これが黄金の夜明け団の発足であり、ドイツ[[薔薇十字団]]の流れを汲むものとされた。ウェストコットが運営面を担当し、マザーズは教義面を担当した。冒頭の英国薔薇十字協会の会長でもあるウッドマン博士は権威付けのための名義貸しのようなものだった。この三人は同時に[[アデプト]]となり団体の首領となった。英国薔薇十字協会は[[キリスト教神秘主義]]のさらに深遠を扱う{{仮リンク|キリスト教秘儀派|en|Esoteric Christianity}}のサロンであり{{要出典|date=2019-05-25}}、在籍者は[[フリーメイソン]]に限られていた。黄金の夜明け団は事実上その分派であったが、一般人でも入団できたことから組織的な繋がりはなく、また教義上の系譜も否定された。
 
==神殿の開設==
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[[ファイル:Photoevelyn3.jpg|サムネイル|207x207ピクセル|イーブリン・アンダーヒル]]
[[ファイル:Moina Mathers.jpg|サムネイル|228x228ピクセル|ミナ・ベルクソン|代替文=]]
1888年3月1日に最初の運営施設となる「{{仮リンク|イシス・ウラニア神殿|en|Isis-Urania Temple}}」が英国ロンドンに開かれた。続けて年内に[[サマセット州]]の[[ウェストン・スーパー・メア|ウェストン・スーパー・メア区]]に「[[オシリス]]神殿」を設置し、[[ウェスト・ヨークシャー州|西ヨークシャー州]]の[[ブラッドフォード (イングランド)|ブラッドフォード市]]にも「[[ホルス]]神殿」を開設した。さらに主要団員の{{仮リンク|ジョンJウィリアムW・ブロディ=イネス|labe=ブロディ=イネス|en|John William Brodie-Innes}}が[[エディンバラ]]の地に「[[アメン]]・[[ラー]]神殿」を設立した。1892年にマザーズはロンドンを離れて[[パリ]]に移住し、そこで自身の「[[ハトホル|アハトル]]神殿」を立ち上げた。その後、アメリカからの参加者が増えたので、1900年までに「[[トート]]・[[ヘルメース|ヘルメス]]神殿」が[[シカゴ]]に開かれたが、こちらはフランチャイズ的な組織であったようである。
 
[[フリーメイソン]]限定であった英国薔薇十字協会と異なり、ウェストコットの意向で黄金の夜明け団は一般人にも門戸が開かれていた。またメイソン系とは一線を画して団内を男女平等にし、補職と待遇に性差による区別を付けなかった。団員は主に紹介と推薦によって集められ、また[[大英博物館]]周辺などでこれはと思った人物を勧誘することもあった。その際はフリーメイソンと英国薔薇十字協会のブランドが利用され、さらに興味を引いた人間には[[薔薇十字団]]の名も持ち出された。こうして設立から2年の間に文化人、知識人、中産階級を中心にして100名以上が加入した。
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1890年秋の時点で黄金の夜明け団には、[[ヴィクトリア朝]]社会の様々な階層から参加した100名以上の団員が在籍していた。その中には女優の{{仮リンク|フロレンス・ファー|en|Florence Farr}}、アイルランド革命家兼女優{{仮リンク|モード・ゴン|en|Maud Gonne}}、画家[[パメラ・コールマン・スミス|パメラ・C・スミス]]、ノーベル賞詩人[[ウィリアム・バトラー・イェイツ|W・B・イェイツ]]、小説家の[[アーサー・マッケン]]や[[アルジャーノン・ブラックウッド|アルジャノン・ブラックウッド]]、詩人の[[ウィリアム・シャープ (作家)|ウィリアム・シャープ]]、文筆家の[[アーサー・エドワード・ウェイト|A・E・ウェイト]]といった当時の著名な文化人や知識人も名を連ねており、後に魔術師として名を成す[[アレイスター・クロウリー]]も一時期メンバーであった。かの[[アーサー・コナン・ドイル|コナン・ドイル]]も勧誘されたことがあった。
 
1891年、ウェストコットは秘密の首領であるアンナ嬢からの連絡が途絶えたと団内で公表した。これは独自のスタイルで今後の教義と活動の幅を広げようとする意思表示でもあった。同年末に高齢の首領ウッドマンが死去した。1892年にマザーズは妻の{{仮リンク|モイナ・マザーズ|label=モイナ|en|Moina Mathers}}とともにパリへ移住し、そこで新たな秘密の首領との接触に成功したと発表した。ウェストコットはやや驚いたようで、この辺から団内のぎくしゃくが始まったと見られている。ウェストコットは対立をけたので、以後の教義はマザーズが全面的に作成することになった。1897年に検死官が本職のウェストコットは、団員の誰かが[[ハンサムキャブ|辻馬車]]内に置き忘れた団内文書から、勤務先の当局に魔術結社との繋がりを知られてしまい、黄金の夜明け団から手を引くことを余儀なくされ首領職を辞任した。その結果、パリ在住のマザーズが唯一の首領になった。マザーズはロンドンのイシス・ウラニア神殿の運営をフロレンス・ファーにまかせてイギリス側の代表とした。しかし、ファーを始めとするロンドンの団員たちは、マザーズの日頃の言動と頻繁な会議欠席に不満を募らせて、彼のリーダーシップに疑問を抱くようになっていった。
 
1899年、イシス・ウラニア神殿は団内の問題児であった[[アレイスター・クロウリー]]の[[アデプト]]昇格を拒否した。これに反発したクロウリーはパリにいる首領マザーズを頼った。1900年1月16日にマザーズはロンドン側への当てつけも兼ねて、パリのアハトル神殿でクロウリーをアデプトに昇格させた。ロンドンに帰還したクロウリーは、ファーたちにマザーズの昇格決定に従うよう要求した。ファーは断固拒絶し、問題が収束するまでのイシス・ウラニア神殿の閉鎖とイギリス代表辞任の意思を表明した。パリのマザーズは、ファーたちの背後でウェストコットが糸を引いていると疑うようになり、彼の信用を落とせばロンドン側を切り崩せると考えて、秘密の首領アンナ嬢の書簡はウェストコットの捏造であったと暴露した。これによって団内全体が紛糾することになった。ファーたちはウェストコットの回答も得た上で事態収拾の会合を繰り返し開き、3月3日にマザーズに対して捏造とする証拠の提示を求めた。この予想外の反応に困惑したマザーズは拒否という態度を取った。調停は決裂し、23日にパリのマザーズはファーの解任指示を出したが、逆に29日のロンドンの会議で首領マザーズの追放が決定された。憤激したマザーズは愛弟子であるクロウリーをロンドンへ派遣し、イシス・ウラニア神殿の保管庫にある重要文書と儀式道具を押収させて運営不能にするという型破りの作戦に出た。これは保管庫の所在地からブライスロードの戦いと呼ばれたが、建物に押し入ったところで当然のごとく通報されて失敗した。
 
==分裂==
ブライスロードの事件で黄金の夜明け団の確執と亀裂は修復不可能となった。イシス・ウラニア神殿は主宰者フロレンス・ファーの多数派と、{{仮リンク|エドワードEウィリアムW・ベリッジ|en|Edmund William Berridge}}<!--なぜか英語版の記事名は Edmund William Berridge になっているが、Edward が正しい。-->を中心とするマザーズ支持派に分裂した。この内紛を傍観する立場であったホルス神殿とオシリス神殿はそのままマザーズの下に残った。ブロディ=イネス主宰のアメン・ラー神殿はファー派に合流した。こうして1900年6月の時点で黄金の夜明け団は、マザーズ派とファー派に二分されることになった。
 
その後のファー派では新たな内輪揉めが発生したので、収束のために[[ウィリアム・バトラー・イェイツ|W・B・イェイツ]]が新しく代表に就任したが、数々の衝突に嫌気が差したイェイツは1901年に退団した。同年に{{仮リンク|ホロス夫妻|en|Ann O'Delia Diss Debar}}の詐欺事件にマザーズが巻き込まれて黄金の夜明け団の名称がスキャンダラスに報道されてしまったために、已むなくマザーズ派は黄金の夜明けの第一団を「{{仮リンク|A∴O∴|en|Alpha et Omega}}」と改称し、社会的体面を重んじるファー派も第一団を「{{仮リンク|暁の星|en|Stella Matutina}}」した。直後にファーは退団し「暁の星」はブロディ=イネスと{{仮リンク|ロバートR・フェルキン|en|Robert William Felkin}}が代表になった。1903年になると従来の教義に否定的だった[[アーサー・エドワード・ウェイト|A・E・ウェイト]]の派閥が「暁の星」から離脱して、イシス・ウラニアの名を冠する独自の神殿を1914年まで運営した{{sfn|キング|1994|pp=114, 135}}(この結社名はG∴D∴独立修正儀礼」でありを設立した{{sfn|吉村|2013|p=112}}、「聖黄金の夜明け団」とも称される)。儀式魔術に反発しつつ在籍を続けたウェイトは、自分の団体作りのためにイシス・ウラニア神殿を利用していたことになるが、いわく付きとなった黄金の夜明け名義を採用しているので一定の思い入れはあったようである。ウェイトの独立劇で「暁の星」は多くの団員を失った。1906年にマザーズは黄金後は夜明け団の幕引きを決めて、パリのアハトル神殿を本部とする「{{仮リンク|A∴O∴|en|Alpha et Omega}}」に改編した{{sfn|キング|1994|p=134}}。同じ頃、ブロディ=イネスがフェルキンの方針に不満を覚えて[[エディンバラ]]へ帰還し、1907年までに自身主宰するアメン・ラー神殿とともに「暁の星」を離れて、マザーズと和解した後に「A∴O∴」へ合流した(マザーズに従った一派が第一団を「A∴O∴」に改名したのはこの頃{{sfn|キング|1994|p=134}})。さらに団員を失った「暁の星」はフェルキンの下で数々の混乱を経ながら続いた。一方で分裂の原因となった[[アレイスター・クロウリー]]は結局、マザーズとも仲違いした末に飄然と世界放浪へ旅立って帰還後の1907年に「[[銀の星]]」を結成した。
 
最終的に、黄金の夜明け団は「{{仮リンク|曙の星|en|Stella Matutina}}」「{{仮リンク|A∴O∴|en|Alpha et Omega}}」「聖黄金の夜明け団G∴D∴独立修正儀礼」「[[銀の星]]」といった四つの団体に分裂して、その教義は様々な形で受け継がれながらも歴史の中に姿を消したのである。
 
==教義概要==