「黄金の夜明け団」の版間の差分
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==誕生までの経緯==
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[[ファイル:Golden Dawns charter.jpg|サムネイル|200x200ピクセル|設立許可証]]
{{See also|暗号文書 (黄金の夜明け団)}}
黄金の夜明け団の誕生は、英国[[フリーメイソン]]の[[サロン|オカルト系サロン]]{{efn2|フリーメイソンの組織ではないが{{sfn|吉村|2013|pp=52}}、それに付属する[[秘教]]研究会のような存在であった(魔術は研究対象ではなかった){{sfn|吉村|2013|pp=62-63}}。}}である{{仮リンク|英国薔薇十字協会|en|Societas Rosicruciana in Anglia}}の会員{{仮リンク|ウィリアム・ウィン・ウェストコット|en|William Wynn Westcott}}が、1886年2月に知人から60枚の[[暗号文書 (黄金の夜明け団)|暗号文書]]を譲り受けた事から始まる。
ウェストコットの供述によると、彼はこの一連の文書が16世紀の書物『{{仮リンク|ポリグラフィア|en|Polygraphia (book)}}』記載の[[換字式暗号|暗号法]]で書かれている事に気付き{{sfn|吉村|2013|p=64}}、興味を覚えた彼は早速解読に取り掛かった{{sfn|キング|1994|p=49}}。1887年9月に全ての復号化に成功したウェストコットは、文書の中にドイツ在住の{{仮リンク|アンナ・シュプレンゲル|en|Anna Sprengel}}という人物の住所を見つけ、同時に返信を望んでいる一文も確認した。アンナと書簡連絡を取るようになったウェストコットは、彼女を伝説の[[薔薇十字団]]の教義を継承する偉大な魔術師であると認め、[[秘密の首領]]と仰ぐようになった。かねてより独自のオカルト団体を作りたいと考えていたウェストコットは、アンナ嬢との手紙のやり取りの中でその意志を伝えると、彼女からドイツ[[薔薇十字団]]が公認する魔術結社設立の許可を受け取った。その教義内容は暗号写本に記載されているものとなった。ウェストコットはこの秘密の首領のお墨付きを元に、友人[[マグレガー・メイザース|マグレガー・マザーズ]]と年長の{{仮リンク|W・R・ウッドマン
これが黄金の夜明け団の発足であり、ドイツ[[薔薇十字団]]の流れを汲むものとされた。ウェストコットが運営面を担当し、マザーズは教義面を担当した。冒頭の英国薔薇十字協会の会長でもあるウッドマン
==神殿の開設==
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[[ファイル:Photoevelyn3.jpg|サムネイル|207x207ピクセル|イーブリン・アンダーヒル]]
[[ファイル:Moina Mathers.jpg|サムネイル|228x228ピクセル|ミナ・ベルクソン|代替文=]]
1888年3月1日に最初の運営施設となる「{{仮リンク|イシス・ウラニア神殿|en|Isis-Urania Temple}}」が英国ロンドンに開かれた。続けて年内に[[サマセット州]]の[[ウェストン・スーパー・メア|ウェストン・スーパー・メア区]]に「[[オシリス]]神殿」を設置し、[[ウェスト・ヨークシャー州|西ヨークシャー州]]の[[ブラッドフォード (イングランド)|ブラッドフォード市]]にも「[[ホルス]]神殿」を開設した。さらに主要団員の{{仮リンク|
[[フリーメイソン]]限定であった英国薔薇十字協会と異なり、ウェストコットの意向で黄金の夜明け団は一般人にも門戸が開かれていた。またメイソン系とは一線を画して団内を男女平等にし、補職と待遇に性差による区別を付けなかった。団員は主に紹介と推薦によって集められ、また[[大英博物館]]周辺などでこれはと思った人物を勧誘することもあった。その際はフリーメイソンと英国薔薇十字協会のブランドが利用され、さらに興味を引いた人間には[[薔薇十字団]]の名も持ち出された。こうして設立から2年の間に文化人、知識人、中産階級を中心にして100名以上が加入した。
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1890年秋の時点で黄金の夜明け団には、[[ヴィクトリア朝]]社会の様々な階層から参加した100名以上の団員が在籍していた。その中には女優の{{仮リンク|フロレンス・ファー|en|Florence Farr}}、アイルランド革命家兼女優{{仮リンク|モード・ゴン|en|Maud Gonne}}、画家[[パメラ・コールマン・スミス|パメラ・C・スミス]]、ノーベル賞詩人[[ウィリアム・バトラー・イェイツ|W・B・イェイツ]]、小説家の[[アーサー・マッケン]]や[[アルジャーノン・ブラックウッド|アルジャノン・ブラックウッド]]、詩人の[[ウィリアム・シャープ (作家)|ウィリアム・シャープ]]、文筆家の[[アーサー・エドワード・ウェイト|A・E・ウェイト]]といった当時の著名な文化人や知識人も名を連ねており、後に魔術師として名を成す[[アレイスター・クロウリー]]も一時期メンバーであった。かの[[アーサー・コナン・ドイル|コナン・ドイル]]も勧誘されたことがあった。
1891年、ウェストコットは秘密の首領であるアンナ嬢からの連絡が途絶えたと団内で公表した。これは独自のスタイルで今後の教義と活動の幅を広げようとする意思表示でもあった。同年末に高齢の首領ウッドマンが死去した。1892年にマザーズは妻の{{仮リンク|モイナ・マザーズ|label=モイナ|en|Moina Mathers}}とともにパリへ移住し、そこで新たな秘密の首領との接触に成功したと発表した。ウェストコットはやや驚いたようで、この辺から団内のぎくしゃくが始まったと見られている。ウェストコットは対立を回避
1899年、イシス・ウラニア神殿は団内の問題児であった[[アレイスター・クロウリー]]の[[アデプト]]昇格を拒否した。これに反発したクロウリーはパリにいる首領マザーズを頼った。1900年1月16日にマザーズはロンドン側への当てつけも兼ねて、パリのアハトル神殿でクロウリーをアデプトに昇格させた。ロンドンに帰還したクロウリーは、ファーたちにマザーズの昇格決定に従うよう要求した。ファーは断固拒絶し、問題が収束するまでのイシス・ウラニア神殿の閉鎖とイギリス代表辞任の意思を表明した。パリのマザーズは、ファーたちの背後でウェストコットが糸を引いていると疑うようになり、彼の信用を落とせばロンドン側を切り崩せると考えて、秘密の首領アンナ嬢の書簡はウェストコットの捏造であったと暴露した。これによって団内全体が紛糾することになった。ファーたちはウェストコットの回答も得た上で事態収拾の会合を繰り返し開き、3月3日にマザーズに対して捏造とする証拠の提示を求めた。この予想外の反応に困惑したマザーズは拒否という態度を取った。調停は決裂し、23日にパリのマザーズはファーの解任指示を出したが、逆に29日のロンドンの会議で首領マザーズの追放が決定された。憤激したマザーズは愛弟子であるクロウリーをロンドンへ派遣し、イシス・ウラニア神殿の保管庫にある重要文書と儀式道具を押収させて運営不能にするという型破りの作戦に出た。これは保管庫の所在地からブライスロードの戦いと呼ばれたが、建物に押し入ったところで当然のごとく通報されて失敗した。
==分裂==
ブライスロードの事件で黄金の夜明け団の確執と亀裂は修復不可能となった。イシス・ウラニア神殿は主宰者フロレンス・ファーの多数派と、{{仮リンク|
その後のファー派では新たな内輪揉めが発生したので、収束のために[[ウィリアム・バトラー・イェイツ|W・B・イェイツ]]が新しく代表に就任したが、数々の衝突に嫌気が差したイェイツは1901年に退団した。同年に{{仮リンク|ホロス夫妻|en|Ann O'Delia Diss Debar}}の詐欺事件にマザーズが巻き込まれて黄金の夜明け団の名称がスキャンダラスに報道されてしまったために、
最終的に、黄金の夜明け団は「{{仮リンク|曙の星|en|Stella Matutina}}」「{{仮リンク|A∴O∴|en|Alpha et Omega}}」「
==教義概要==
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