「黄金の夜明け団」の版間の差分

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1890年秋の時点で黄金の夜明け団には、[[ヴィクトリア朝]]社会の様々な階層から参加した100名以上の団員が在籍していた。アイルランド革命家兼女優{{仮リンク|モード・ゴン|en|Maud Gonne}}、小説家の[[アーサー・マッケン]]や[[アルジャーノン・ブラックウッド|アルジャノン・ブラックウッド]]、詩人フィオナ・マクラウドこと[[ウィリアム・シャープ (作家)|ウィリアム・シャープ]]、物理学者[[ウィリアム・クルックス]]、コンスタンス・ワイルド([[オスカー・ワイルド]]夫人)といった当時の著名な文化人や知識人も一時的にせよ名を連ねていた。かの[[アーサー・コナン・ドイル|コナン・ドイル]]も勧誘されたことがあった。特筆すべき団員としては女優の{{仮リンク|フロレンス・ファー|en|Florence Farr}}、ノーベル賞詩人[[ウィリアム・バトラー・イェイツ|W・B・イェイツ]]がおり、フリーメイソンや魔術に関する書籍を濫造していた隠秘学者[[アーサー・エドワード・ウェイト|A・E・ウェイト]]、後に魔術師として名を成す[[アレイスター・クロウリー]]、[[ウェイト版タロット]]を作画した画家として知られる[[パメラ・コールマン・スミス|パメラ・C・スミス]]も団員であった。
 
1891年、ウェストコットは秘密の首領であるシュプレンゲルからの連絡が途絶えたと団内で公表し、団体運営は新たな節目を迎えた。これはより由なスタイルで今後の教義と活動の幅を広げようとする意思表示でもあった。同年末に高齢の首領ウッドマンが死去した。1892年にメイザースは妻の{{仮リンク|モイナ・メイザース|label=モイナ|en|Moina Mathers}}とともにパリへ移住し、そこで新たな秘密の首領との接触に成功したと発表した。ウェストコットはやや驚いたようで、この辺から団内のぎくしゃくが始まったと見られている。ウェストコットは対立を回避し、以後の教義はメイザースが全面的に作成することになった。1897年頃ウェストコットは黄金の夜明け団の役突然首領職を辞し{{sfn|江口|亀井|1983|pp=75-76}}との関係体運営から手絶っ引いた{{sfn|キング|江口訳|1994|p=55}}。その理由これにはっきりしない諸説あるが、ロンドン警察の検死官であったが本職のウェストコットは、団員の誰かが[[ハンサムキャブ|辻馬車]]内に置き忘れた団内文書から勤務先の当局に魔術結社との繋がりを知られてしまい、それで黄金職業倫理上夜明け団から手難色引くことを余儀なくされた結果見られてう説がある{{sfn|キング|江口訳|1994|p=55}}。その結果、こうしてパリ在住のメイザースが実質的に唯一の首領になった。メイザースはロンドンのイシス・ウラニア神殿の運営をフロレンス・ファーにまかせてイギリス側の代表とする新体制を発足させ。しかし、ファーを始めとするロンドンの団員たちは、メイザースの日頃の言動と頻繁な会議欠席に不満を募らせて、彼のリーダーシップに疑問を抱くようになっていった。
 
1899年、イシス・ウラニア神殿は団内の問題児であった[[アレイスター・クロウリー]]の[[アデプト]]昇格を拒否した。これに反発したクロウリーはパリにいる首領メイザースを頼った。1900年1月16日にメイザースはロンドン側への当てつけも兼ねて、パリのアハトル神殿でクロウリーをアデプトに昇格させた。ロンドンに帰還したクロウリーは、ファーたちにメイザースの昇格決定に従うよう要求したが、ファーは断固拒絶し問題が収束するまでのイシス・ウラニア神殿の閉鎖とイギリス代表辞任の意思を表明した。パリのメイザースは、ファーたちの背後でウェストコットが糸を引いていると疑心暗鬼に駆られるようになり、彼の信用を落とせばロンドン側を切り崩せると考えて、秘密の首領シュプレンゲルの書簡はウェストコットの捏造であったと暴露した。これによって団内全体が紛糾することになった。ファーたちはウェストコットの回答も得た上で事態収拾の会合を繰り返し開き、3月3日にメイザースに対して捏造とする証拠の提示を求めた。この予想外の反応に困惑したメイザースは拒否という態度を取った。調停は決裂し、23日にパリのメイザースはファーの解任指示を出したが、逆に29日のロンドンの会議で首領メイザースの追放が決定された。憤激したメイザースは愛弟子であるクロウリーをロンドンへ派遣し、イシス・ウラニア神殿の保管庫にある重要文書と儀式道具を押収させて運営不能にするという型破りの作戦に出た。これは保管庫の所在地からブライスロードの戦いと呼ばれたが、建物に押し入ったところで当然のごとく通報されて失敗した。
 
==分裂==
ブライスロードの事件で黄金の夜明け団の確執と亀裂は修復不可能となった。イシス・ウラニア神殿は主宰者フロレンス・ファーの多数派と、{{仮リンク|E・W・ベリッジ|en|Edmund William Berridge}}<!--なぜか英語版の記事名は Edmund William Berridge になっているが、Edward が正しい。-->を中心とするメイザース支持派に分裂した。この内紛を傍観する立場であったホルス神殿とオシリス神殿はそのままメイザースの下に残った。ブロディ=イネス主宰のアメン・ラー神殿はファー派に合流した。こうして1900年6月の時点で黄金の夜明け団は、メイザース派とファー派に二分されることになった。
 
その後のファー派では新たに彼女と{{仮リンク|アニー・ホーニマン|en|Annie Horniman}} の内輪揉め対立発生深刻化したので、収束のために[[ウィリアム・バトラー・イェイツ|W・B・イェイツ]]が新しくたな代表に就任したが、数々の衝突に嫌気が差したイェイツは1901年に退団した。同年に{{仮リンク|ホロス夫妻|en|Ann O'Delia Diss Debar}}の詐欺事件にメイザースが巻き込まれて黄金の夜明け団の名称がスキャンダラスに報道されてしまったために、社会的体面を重んじるファー派は「{{仮リンク|暁の星|en|Stella Matutina}}」と改称した。直後にファーは退団し「暁の星」はブロディ=イネスと{{仮リンク|R・フェルキン|en|Robert William Felkin}}が代表になった。1903年になると従来の教義に否定的であった[[アーサー・エドワード・ウェイト|A・E・ウェイト]]の派閥が「暁の星」から離脱して「聖黄金の夜明け団」と称する団体を組織した{{sfn|江口|亀井|1983|pp=91-93}}。儀式魔術に反発しつつ在籍を続けたウェイトは、{{独自研究範囲|自分の団体作りのためにイシス・ウラニア神殿を利用していたことになるが、いわく付きとなった黄金の夜明け名義を採用しているので一定の思い入れはあったようである|date=2019-05-27}}。ウェイトの独立劇で「暁の星」は多くの団員を失った。{{要出典範囲|1906年にメイザースは黄金の夜明け団の幕引きを決めて、パリのアハトル神殿を本部とする魔術結社「{{仮リンク|A∴O∴|en|Alpha et Omega}}」に組織再編した|date=2019-05-27}}。同じ頃、ブロディ=イネスはフェルキンの方針に不満を覚えて[[エディンバラ]]へ帰還し、1907年に自身主宰のアメン・ラー神殿とともに「暁の星」を離れて、メイザースと和解した後に「A∴O∴」派へ合流した。さらに団員を失った「暁の星」はフェルキンの下で数々の混乱を経ながら続いた。
 
以上の経緯で黄金の夜明け団は分裂し、「{{仮リンク|暁の星|en|Stella Matutina}}」、「{{仮リンク|A∴O∴|en|Alpha et Omega}}」派、「聖黄金の夜明け団」という黄金の夜明け系の3つの分派が鼎立する事態となった{{sfn|江口|亀井|1983|pp=93-94}}。こうして元祖「黄金の夜明け団」は終焉を迎え、最終的にその教義は様々な形で受け継がれながらも、歴史の中に姿を消したのである。一方で分裂の引金を引いた[[アレイスター・クロウリー]]は結局、メイザースとも仲違いした末に飄然と世界放浪へ旅立って帰還後の1907年に「[[銀の星]]」を結成した。