「黄金の夜明け団」の版間の差分
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黄金の夜明け団の創設は、[[フリーメイソン]]系の[[サロン|神秘主義サロン]]である{{仮リンク|英国薔薇十字協会|en|Societas Rosicruciana in Anglia}}{{efn2|英国薔薇十字協会は、[[秘教]]的な事柄に関心をもつ少数のフリーメイソン(フリーメイソンリーの会員)によって1866年に結成された{{sfn|Goodrick-Clarke|2008|p=196}}社交クラブ([[サロン]])のような団体であった。メイソンのみで構成された団体ではあるが、フリーメイソン組織ではなく{{sfn|吉村|2013|pp=52}}、メイソンリーに付属する秘教研究会のような存在であった(黄金の夜明け団とは異なり、魔術は研究対象ではなかった){{sfn|吉村|2013|pp=62-63}}。1870年代から1880年代にかけて、同協会ではいくつかの儀式や、カバラやフリーメイソンの象徴性についての講義などが行われていた{{sfn|Goodrick-Clarke|2008|p=197}}。}}の会員{{仮リンク|ウィリアム・ウィン・ウェストコット|en|William Wynn Westcott}}が、1887年8月に知人より60枚の[[暗号文書 (黄金の夜明け団)|暗号文書]]を譲り受けた事から始まる。
{{要出典範囲|以下はウェストコット本人の供述となるが、この一連の文書が1518年[[ヨハンネス・トリテミウス|トリテミウス]]著『{{仮リンク|ポリグラフィア|en|Polygraphia (book)}}』記載の[[換字式暗号|暗号法]]で書かれている事に気付いた彼は、早速解読に取り掛かったという|date=2019-05-27}}。同年9月に全ての復号化に成功したウェストコットは、文書の中にドイツ在住の{{仮リンク|アンナ・シュプレンゲル|label=アンナ・シュプレンゲル|en|Anna Sprengel}}という人物の住所を見つけ、同時に返信を望んでいる一文も確認した。シュプレンゲルと書簡連絡を取るようになったウェストコットは、彼女を伝説の[[薔薇十字団]]の教義を継承する偉大な魔術師であると認め、[[秘密の首領]]と仰ぐようになった。かねてより独自のオカルト団体を作りたいと考えていたウェストコットは、シュプレンゲルとの手紙のやり取りの中でその意志を伝えると、彼女が所属するというドイツの魔術結社 ''Die Goldene Dämmerung(黄金の夜明け
こうして発足した黄金の夜明け団は{{efn2|この創立譚はあくまで神話である。前述の暗号文書がウェストコットの偽造でないことはほぼ確実であるが、その入手経路について現代の研究者はウェストコットの主張を必ずしも額面通りに受けとっていない{{sfn|吉村|2013|pp=63-64}}。そして、その後に行われたシュプレンゲルとの文通はウェストコットの捏造であろうと考えられている{{sfn|吉村|2013|p=65}}{{sfn|Goodrick-Clarke|2008|p=197}}。}}、ドイツ[[薔薇十字団]]の流れを汲むものとされた。ウェストコットが運営面を担当し、メイザースは教義面を担当した。冒頭の英国薔薇十字協会の会長でもあるウッドマンは権威付けのための名義貸しのようなものであった。この三人は同時に[[アデプト]]となり団体の首領(''ruling chief'')<!--(''three ruling Chiefs of the Order'')-->となった。英国薔薇十字協会は
ファイル:WilliamRobertWoodman.png|ウッドマン
ファイル:William Wynn Westcott PNG.png|ウェストコット
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1891年、ウェストコットは秘密の首領であるシュプレンゲルからの連絡が途絶えたと公表し、団体運営は新たな節目を迎えた。これはより自由なスタイルで今後の教義と活動の幅を広げようとする意思表示でもあった。同年末に高齢の首領ウッドマンが死去した。1892年にメイザースは妻の{{仮リンク|モイナ・メイザース|label=モイナ|en|Moina Mathers}}とともにパリへ移住し、そこで新たな秘密の首領との接触に成功したと発表した。ウェストコットはやや驚いたようで、この辺から団内のぎくしゃくが始まったと見られている。彼は対立を回避し、以後の教義はメイザースが全面的に作成することになった。1897年頃にウェストコットは突然首領職を辞して団体運営から手を引いた。これには諸説あるが、ロンドン警察の検死官が本職であるウェストコットは、団員の誰かが[[ハンサムキャブ|辻馬車]]内に置き忘れた団内文書から勤務先の当局に魔術結社との繋がりを知られてしまい、職業倫理上の規定に従わざる得なかった為という話が有力視されている。こうしてパリ在住のメイザースが唯一の首領になった。メイザースはロンドンのイシス・ウラニア神殿の運営をフロレンス・ファーにまかせてイギリス側の代表とする新体制を発足させたが、ファーを始めとするロンドンの団員たちは、メイザースの日頃の言動と頻繁な会議欠席に不満を募らせて、彼のリーダーシップに疑問を抱くようになっていった。
1899年、イシス・ウラニア神殿は団内の問題児であった[[アレイスター・クロウリー]]の[[アデプト]]昇格を拒否し、これに反発したクロウリーがパリにいる首領メイザースを頼った事で新たな波乱が巻き起こった。1900年1月16日にメイザースは自身に反抗的なロンドン側への当てつけも兼ねて、パリのアハトル神殿でクロウリーをアデプトに昇格させた。ロンドンに帰還したクロウリーは、ファーたちにメイザースの昇格決定に従うよう要求したが、ファーは断固拒絶し問題が収束するまでのイシス・ウラニア神殿の閉鎖とイギリス代表辞任の意思を表明した。対立が続く中でパリのメイザースは、ファーたちの背後でウェストコットが糸を引いていると疑心暗鬼に駆られるようになり、彼の信用を落とせばロンドン側を切り崩せると考えて、2月16日付けの
==分裂==
ブライスロードの事件で黄金の夜明け団の確執と亀裂は修復不可能となった。
その後のファー派では[[ウィリアム・バトラー・イェイツ|W・B・イェイツ]]が代表に就任したが、ファー
以上の経緯により、黄金の夜明け団は「{{仮リンク|A∴O∴|en|Alpha et Omega}}」「{{仮リンク|暁の星|en|Stella Matutina}}」「聖黄金の夜明け」といった三つの団体に分裂して{{sfn|江口|亀井|1983|pp=93-94}}、その教義は様々な形で受け継がれながらも歴史の中に姿を消したのである。一方で分裂の原因となった[[アレイスター・クロウリー]]は結局、メイザースとも仲違いした末に飄然と世界放浪へ旅立って帰還後の1907年に「[[銀の星]]」を結成した。<gallery mode="packed" heights="160">
ファイル:Mathers.jpg|メイザース(A∴O∴)
ファイル:2989 Dr Felkin.jpg|フェルキン(暁の星)
ファイル:ArthurEdwardWaite~1880.JPG|ウェイト(聖黄金の夜明け)
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