「黄金の夜明け団」の版間の差分

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|leader_title = [[首領]]
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*ウィリアム・Wウィン・ウェストコット<small>(1888-1897)</small>
*[[マグレガー・メイザース]] <small>(1897-1903)</small>
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[[ファイル:Annie Horniman.jpg|サムネイル|203x203ピクセル|アニー・ホーニマン]]
[[ファイル:Maude Gonne McBride nd.jpg|サムネイル|234x234px|モード・ゴン|代替文=]]
[[ファイル:Pamela Colman Smith circa 1912.jpg|サムネイル|252x252px|パメラ・Cコールマン・スミス|代替文=]]
[[ファイル:Constance Lloyd 1882.jpg|代替文=|サムネイル|220x220ピクセル|コンスタンス・メアリー・ロイド]]
1888年3月1日に最初の運営施設となる「{{仮リンク|イシス・ウラニア神殿|en|Isis-Urania Temple}}」が英国ロンドンに開かれた。続けて年内に[[サマセット州]]の[[ウェストン・スーパー・メア|ウェストン・スーパー・メア区]]に「[[オシリス]]神殿」が、[[ウェスト・ヨークシャー州|西ヨークシャー州]]の[[ブラッドフォード (イングランド)|ブラッドフォード市]]にも「[[ホルス]]神殿」が開設された。さらに主要団員の{{仮リンク|ジョン・ウィリアム・ブロディ=イネス|labe=ブロディ=イネス|en|John William Brodie-Innes}}が[[エディンバラ]]の地に「[[アメン]]・[[ラー]]神殿」を設立した。1892年にメイザースはロンドンを離れて[[パリ]]に移住し、そこで「[[ハトホル|アハトル]]神殿」を立ち上げた。また{{要出典範囲|アメリカからの参入者も増えたので|title=支部設立の可否は参入者の多寡によるのでしょうか?出典にはそのようなことは書かれていません。別の出典が必要です。|date=2019-05-31}}、1900年までに「[[トート]]・[[ヘルメース|ヘルメス]]神殿」を含む複数の支部がアメリカに設置された{{sfn|江口|亀井|1983|pp=65-66}}。こちらでは物好きな米国人のための{{sfn|江口|亀井|1983|p=65}}位階売買が行なわれてメイザースの収入源になっていたという{{sfn|キング|江口訳|1994|pp=134-135}}。
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==隆盛そして軋轢==
{{See also|秘密の首領}}
1890年秋の時点で黄金の夜明け団には、[[ヴィクトリア朝]]社会の様々な階層から参加した100名以上のメンバーが在籍していた。並みいる団員の中には女優の{{仮リンク|フロレンス・ファー|en|Florence Farr}}、アイルランド革命家で女優の{{仮リンク|モード・ゴン|en|Maud Gonne}}、ノーベル賞詩人[[ウィリアム・バトラー・イェイツ|W・B・イェイツ]]、小説家の[[アーサー・マッケン]]と[[アルジャーノン・ブラックウッド|アルジャノン・ブラックウッド]]、詩人[[ウィリアム・シャープ (作家)|ウィリアム・シャープ]]、物理学者[[ウィリアム・クルックス]]、[[オスカー・ワイルド]]の妻{{仮リンク|コンスタンス・ロイド|label=コンスタンス|en|Constance Lloyd}}といった当時の著名な文化人、知識人が短期間の在籍を含めて名を連ねていた。隠秘学方面の人物としては著述家の[[アーサー・エドワード・ウェイト|A・E・ウェイト]]、魔術師[[アレイスター・クロウリー]]、[[ウェイト版タロット]]を描いた画家[[パメラ・コールマン・スミス|パメラ・C・スミス]]などがいた。
 
1891年、ウェストコットは秘密の首領であるシュプレンゲルからの連絡が途絶えたと公表し、団体運営は新たな節目を迎えた。これはより自由なスタイルで今後の教義と活動の幅を広げようとする意思表示でもあった。同年末に高齢の首領ウッドマンが死去した。1892年にメイザースは妻の{{仮リンク|モイナ・メイザース|label=モイナ|en|Moina Mathers}}とともにパリへ移住し、そこで新たな秘密の首領との接触に成功したと発表した。ウェストコットはやや驚いたようで、この辺から団内のぎくしゃくが始まったと見られている。彼は対立を回避し、以後の教義はメイザースが全面的に作成することになった。1897年頃にウェストコットは突然首領職を辞して団体運営から手を引いた。これには諸説あるが、ロンドン警察の検死官が本職であるウェストコットは、団員の誰かが[[ハンサムキャブ|辻馬車]]内に置き忘れた団内文書から勤務先の当局に魔術結社との繋がりを知られてしまい、職業倫理上の規定に従わざるを得なかったためという話が有力視されている。こうしてパリ在住のメイザースが唯一の首領になった。メイザースはロンドンのイシス・ウラニア神殿の運営をフロレンス・ファーにまかせてイギリス側の代表とする新体制を発足させたが、ファーをはじめとするロンドンの団員たちは、メイザースの日頃の言動と頻繁な会議欠席に不満を募らせて、彼のリーダーシップに疑問を抱くようになっていった。
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==分裂==
ブライスロードの事件で黄金の夜明け団の確執と亀裂は修復不可能となった。ファーたちはメイザースを支持する{{仮リンク|エドワード・ウィリアム・ベリッジ|en|Edmund William Berridge}}<!--なぜか英語版の記事名は Edmund William Berridge になっているが、Edward が正しい。-->一派の除名も決定し、追い出されたベリッジらはロンドンの別住所に同名の神殿を開設したのでイシス・ウラニア神殿は二つに分裂することになった。この内紛を傍観していたホルス神殿とオシリス神殿はそのままメイザースの下に残ったが、双方ともメンバーは少数であった。{{仮リンク|ジョン・ウィリアム・ブロディ=イネス|labe=ブロディ=イネス主宰|en|John William Brodie-Innes}}運営のアメン・ラー神殿はファーたちに合流した。アメリカにある複数の神殿はメイザースとのコネクションを維持した。こうして1900年4月の時点で黄金の夜明け団は、メイザース派とファー派に二分されることになった。
 
その後のファー派では[[ウィリアム・バトラー・イェイツ|W・B・イェイツ]]が代表に就任したが、ファーと{{仮リンク|アニー・ホーニマン|en|Annie Horniman}}の婦人対立に手を焼いたイェイツは匙を投げる形で1901年に退団した。同年に{{仮リンク|ホロス夫妻|en|Ann O'Delia Diss Debar}}の詐欺事件にメイザースが巻き込まれて黄金の夜明け団の名称がスキャンダラスに報道されてしまったために、社会的体面を重んじるファー派は「{{仮リンク|暁の星|en|Stella Matutina}}」と改称した。その前後にファーは退団し「暁の星」はブロディ=イネスと{{仮リンク|ロバート・ウィリアム・フェルキン|en|Robert William Felkin}}が代表になった。ブロディ=イネスは[[エディンバラ]]のアメン・ラー神殿を運営し、フェルキンは[[ロンドン]]のイシス・ウラニア神殿を運営した。ホーニマンもこの頃に退団した。1903年になると儀式魔術の実践に否定的であった[[アーサー・エドワード・ウェイト|A・E・ウェイト]]がイシス・ウラニア神殿内で派閥工作を始め、同神殿施設の所有権をも掌握したウェイトは自分たちを独立修正儀礼派と称してフェルキンらを圧迫し、従来の儀式魔術を指向する「暁の星」派を退場へと追いやった。ウェイトは自身の乗っ取り色を薄めるために、パリのメイザースと連絡を取った上で表向き彼への忠誠を誓い、その公認団体とする同意を取り付けて「聖黄金の夜明け」と名乗るようになった。メイザースは公認のみで教義上の関与はしなかった。ウェイトたちに離反されたフェルキンはロンドン市内に新しくアマウン神殿を立ち上げて「暁の星」の運営施設とした。{{要出典範囲|1906年にメイザースは黄金の夜明け団そのものの幕引きを決めて、パリのアハトル神殿を本部とする魔術結社「{{仮リンク|A∴O∴|en|Alpha et Omega}}」に組織再編した|date=2019-05-27}}。同じ頃、フェルキンの方針に不満を覚えるようになったブロディ=イネスは「暁の星」を離れてメイザースと和解し、1907年にアメン・ラー神殿とともに「A∴O∴」へ合流した。残された「暁の星」はフェルキンの下で数々の混乱を経ながら続いた。
 
以上の経緯により、黄金の夜明け団は「{{仮リンク|A∴O∴|en|Alpha et Omega}}」「{{仮リンク|暁の星|en|Stella Matutina}}」「聖黄金の夜明け」といった三つの団体に分裂して{{sfn|江口|亀井|1983|pp=93-94}}、その教義は様々な形で受け継がれながらも歴史の中に姿を消したのである。一方で分裂の原因となった[[アレイスター・クロウリー]]は結局、メイザースとも仲違いした末に飄然と世界放浪へ旅立って帰還後の1907年に「[[銀の星]]」を結成した。<gallery mode="packed" heights="160">
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==教義概要==
{{See also|四元素#対応関係}}
黄金の夜明け団の教義は、古今東西の隠秘学知識の綜合体とも言うべきものある。ユダヤの秘教哲学である[[カバラ]]を中心にして、[[神智学]]の流れを汲む東洋神秘思想、[[エジプト神話|エジプト神話学]]、[[グリモワール]]、[[四元素|古典元素]]、[[タロット]]、[[星占い|占星術]]、[[ジオマンシー]]、[[錬金術]]、[[エノク語]]、[[タットワ]]を含むインド密教などあらゆる知識が習合されていた。ただしなお、彼ら英国人にとって親しみ易い最も身近な隠秘学であるはずの[[キリスト教神秘主義]]は、創設者たちがメイソン系団体の方で手掛けていた事情からる程度意図的にえて避けられていたようでおり、これは同時に一つの方向性を示しているす事にもなった。カバラに内包される[[生命の樹]]が団内の聖典的な象徴図表とされ、上述の各分野から引用される多種多様な知識は生命の樹の各要素に対照させる形で分類され整理された。その中にはこじつけ的な照応も散見されるが、あらゆる隠秘学および神秘思想分野から蒐集された知識群の比較的高度な体系化が黄金の夜明け団教義の最大の特徴であった。
 
上述の知識群は、創設者をはじめとするアデプトたちが言わば自由研究的に持ち寄って考察を加えた後に、教義団体の方向性に沿う形で再解釈され、必要に応じて団内のカリキュラムに組み込まれた。魔術の研鑽に必要とされる様々な知識は、アデプトによってテキスト化されて秘儀参入者たちに学ばれた。団内ではアデプト一人一人の独自研究が奨励されており、それぞれの研究成果は「飛翔する巻物」と題された団内文書の各巻に編集されてアデプトたちの間で相互に閲覧された。この自由な知識探究の気風は団内の教義を発展させる原動力となったが、他方で迷走の一因にもなった。団内ではマグレガー・メイザース考案の教義が最も大きな説得力を持っており、極端に言えば黄金の夜明け魔術とはメイザース思想の体現物と言えた。後にメイザースから離反した団体の者でさえ彼の考案物には一目置き、またある者は彼のブランドを積極的に利用した。
 
団員たちは秘儀参入時に団内で得た知識を口外しないことを誓約していたので、その教義内容が公にされることはなかった。しかし、後継団体の度重なる分裂と内輪揉めにより、知識そのものの喪失を危惧した[[イスラエル・リガルディー]]が関係文書を書籍にまとめて公開出版するという手段に踏み切ったことで、それまで謎に包まれていた黄金の夜明け団教義の大部分が一般に入手できるようになった。この英断または独断は魔術関係者の間で大きな賛否を巻き起こした。なお、リガルディーは1969年に自宅を魔術マニアに荒らされ数々の貴重なコレクションを盗まれるという憂き目に合っている。魔術関係者の中にはこれを天罰と見る者{{誰|title=この記述およびその情報源(註参照)は、「これは天罰だろう」と述べた人物の名を明示していません。|date=2014年2月}}もいた{{sfn|リガルディー編|江口訳|1993b|loc=訳者解説}}。