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|退任日9 = [[1972年]][[6月24日]]
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[[ファイル:Gotouda.JPG|300px|thumb|衆議院議員選挙当時のポスター(徳島県阿南市)]]
'''後藤田 正晴'''(ごとうだ まさはる、[[1914年]][[8月9日]] - [[2005年]][[9月19日]])は、日本の[[内務省 (日本)|内務]]・[[建設省|建設]]・[[警察庁|警察]]・[[防衛省|防衛]]・[[自治省|自治]][[官僚]]、政治家。官僚機構の頂点に立った後、政界に転身し内閣官房長官を長らく務め、「'''カミソリ後藤田'''」、「'''日本の[[ユーリ・アンドロポフ|アンドロポフ]]'''」、「'''日本の[[ジョゼフ・フーシェ]]'''」などの異名を取った。
 
[[警察庁長官]](第6代)、[[衆議院議員]](7期・[[徳島県全県区]])、[[自治大臣]]([[第2次大平内閣|第27代]])、[[国家公安委員会委員長]]([[第2次大平内閣|第37代]])、[[北海道開発庁|北海道開発庁長官]](第42代)、[[内閣官房長官]](第[[第1次中曽根内閣|45]]・[[第2次中曽根内閣 (第2次改造)|47]]・[[第3次中曽根内閣|48]]代)、[[行政管理庁長官]](第47代)、[[総務庁|総務庁長官]](初代)、[[法務大臣]]([[宮澤内閣 (改造)|第55代]])、[[副総理]]([[宮澤内閣 (改造)|宮澤改造内閣]])などを歴任した。
 
==来歴・人物==
===生い立ち===
1914年8月9日、[[徳島県]][[麻植郡]][[東山村 (徳島県)|東山村]](現在の[[吉野川市]][[美郷 (吉野川市)|美郷]])に生まれる。後藤田家は[[忌部氏]]の流れを汲むとされており、[[江戸時代]]には[[庄屋]]を務めた家柄である。
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父親の後藤田増三郎は、[[自由党 (日本 1890-1898)|自由党]]の壮士として出発し、[[徳島県議会]]議員、麻植郡会議長などを務めた地元の名士であった。
 
しかし、[[19211922年]]に[[腎臓]]病で父を、[[1923年]]に母を相次いで失い、のちに姉・好子の婚家で徳島有数の素封家であった井上家に預けられた{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}
 
[[徳島県立富岡西高等学校|富岡中学]]を経て、[[1932年]]に[[水戸高等学校 (旧制)|旧制水戸高等学校]](乙類)に入学{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}。[[1935年]]に[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京帝国大学法学部]][[法学|法律学科]]に入学(1学期修了後に[[政治学|政治学科]]へ転科)した{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}。早くから[[官吏]]を志望していたが、[[外地]]勤務の思いも強く、[[南満州鉄道]]が第一希望だったといわれる。しかし[[1937年]]の満鉄入社試験では東大卒者と[[京都大学|京大]]卒者それぞれに設けられた入社試験日を間違えて断念。[[高等文官試験]]にも失敗した。翌[[1938年]]には高文に8番の席次で合格、翌[[1939年]]に東京帝大法学部政治学科を卒業すると、[[内務省 (日本)|内務省]]に入省した。入省同期には、同じ徳島出身で後に[[防衛省|防衛]][[官僚]]の事実上トップになる[[海原治]]がおり、両者は交流があったいる{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}
 
=== 官僚時代 ===
[[内務省 (日本)|内務省]]では、土木局道路課に振出し配属される。[[1940年]]1月に[[富山県警察部]]労政課長に出向{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}。3月に[[大日本帝国陸軍|陸軍]]に[[徴兵]]され、4月に[[歩兵連隊#台湾歩兵連隊|台湾歩兵第二連隊]]に陸軍[[二等兵]]として入営し{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}、5月に[[歩兵連隊#台湾歩兵連隊|台湾歩兵第一連隊]]に配属される。内務省の[[高等官]]であった点と、[[幹部候補生 (日本軍)|甲種幹部候補生]]に合格したため、[[陸軍経理学校]]で学び<ref>後藤田正晴回顧録「情と理」49頁</ref>、[[兵科#経理部|経理部]][[将校]]候補生として陸軍[[軍曹]]を経て翌年の[[1941年]]10月には陸軍主計[[少尉]]に任官した。[[1945年]]に主計[[大尉]](ポツダム任官)で[[日本の降伏{{sfn|終戦]]を迎え、[[台北]]で台湾人らが[[爆竹]]を鳴らして喜ぶ姿を目『私当たりにする。[[日本統治時代の台湾後藤田正晴』編纂委員会|台湾]]に[[国民革命軍2007|中国国民政府軍]]が進駐し、翌年の[[1946年]]4月まで[[捕虜]]生活を送ったpp=384-388}}
 
[[1945年]]3月に結婚{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}、同年8月に主計[[大尉]](ポツダム任官)で[[日本の降伏|終戦]]を迎え、[[台北]]で悲嘆に暮れる日本人と対照的に[[爆竹]]を鳴らして喜ぶ台湾人の姿を目の当たりにする{{refnest|group=注釈|後藤田は最後となった訪中で[[清華大学]]で講演した際にこのエピソードに触れ、「部下の中には台湾人がたくさんいて、とても仲が良く、私は日本人と台湾人ということで何の隔たりも感じていなかった。日本人は、台湾の統治は朝鮮とは違うと思っていた。温和な統治であったし、台湾人も十分協力的であった。しかし一九四五年八月十五日、日本が敗戦した日のことである。日本人が運命に困惑し、悲しみの淵に落とされたその晩、台北の町には爆竹が鳴り響き、人々は手に手を取って踊り、勝った!勝った!と喜びの声を上げていた。これで私は夢から覚めた。武力で異民族を統治するのは所詮無理な話であると完全に悟った。なぜなら彼らの心までは征服できないからだ。これは私のような、台湾人に対して差別的感情がない者で、台湾人のことを信じきっていた日本人を震撼させる現実だった」と語っている{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=179}}。}}。[[日本統治時代の台湾|台湾]]に[[国民革命軍|中国国民政府軍]]が進駐し、翌年の[[1946年]]4月まで[[捕虜]]生活を送った。
1946年5月、[[復員]]すると共に内務省に復職し、[[神奈川県]]経済部商政課長、10月 本省に戻り地方局に配属された。又、同時期に内務省職員組合委員長となっている。[[1947年]]8月の[[警視庁 (内務省)|警視庁]]保安部経済第二課長をきっかけに主に[[日本の警察|警察]]畑を歩み、内務省廃止後は[[警察庁]]に所属して警察官僚となった。
 
1946年5月、[[復員]]すると共に内務省に復職し{{refnest|group=注釈|[[鈴木俊一 (東京都知事)|鈴木俊一]]が後藤田について「軍務勤務はあるが、主計の将校として通常の業務をこなしていただけで、諜報謀略とは無縁だ。六年間、兵役に行っているため、内務省の色もついていない」と[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]に報告したこともあって、[[公職追放]]は免れた{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=93-94}}。}}、5月付で[[神奈川県]]経済部商政課長{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}、10月に本省へ戻り、11月に地方局事務官となる{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}。又、同時期に内務省職員組合委員長となっている。[[1947年]]8月の[[警視庁 (内務省)|警視庁]]保安部経済第二課長をきっかけに主に[[日本の警察|警察]]畑を歩み、内務省廃止後は[[警察庁]]に所属して警察官僚となった。
[[1949年]]3月、[[東京警察管区]]本部刑事部長。[[1950年]]8月、[[警察予備隊]]本部警務局警備課長兼調査課長。[[1952年]](昭和27年)8月、[[国家地方警察]]本部警備部警邏交通課長。[[1955年]]7月、[[警察庁長官官房]]会計課長。[[1959年]]、[[自治庁]]税務局長の[[小林與三次]]らの引きで、自治庁長官官房長、税務局長を歴任した。なお“[[軍隊]]ではない”という建前の警察予備隊の階級呼称(尉官相当=警察士など)を考案したことは、警察予備隊時代の後藤田の携わった仕事の一つである。
 
[[1949年]]3月、[[東京警察管区]]本部刑事部長{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}。[[1950年]]8月、[[警察予備隊]]本部警務局警備課長兼調査課長{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}。[[1952年]](昭和27年)8月、[[国家地方警察]]本部警備部警邏交通課長{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}。[[1955年]]7月、[[警察庁長官官房]]会計課長。[[1959年]]3月、[[自治庁]]税務局長の[[小林與三次]]らの引きで、自治庁長官官房長{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}、同年10月に税務局長{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}。なお“[[軍隊]]ではない”という建前の警察予備隊の階級呼称(尉官相当=警察士など)を考案したことは、警察予備隊時代の後藤田の携わった仕事の一つである。
[[自治事務次官]]に就いた小林の慰留を振り切り、[[1962年]]5月に警察庁に復帰、長官官房長、[[警備局]]長、警務局長、[[警察庁次長]]を経て、[[1969年]][[警察庁長官]]に就任。長官時代は、[[よど号ハイジャック事件]](よど号乗っ取り事件)を始め、[[極左暴力集団]]によるテロ、[[ハイジャック]]、[[成田空港予定地の代執行]]、[[東峰十字路事件]]、[[あさま山荘事件]]、爆弾事件などの対処に追われた。
 
[[自治事務次官]]に就いた小林の慰留を振り切り、[[1962年]]5月に警察庁に復帰し長官官房長{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}、[[1963年]]8月に[[警備局]]長{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}、1965年3月警務局長{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}・同年5月[[警察庁次長]]を経て{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}、[[1969年]]8月[[警察庁長官]]に就任{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}。長官時代は、[[よど号ハイジャック事件]](よど号乗っ取り事件)を始め、[[極左暴力集団]]によるテロ・[[ハイジャック]]・[[成田空港予定地の代執行]]([[東峰十字路事件]])・[[あさま山荘事件]]・爆弾事件などの対処に追われた。
この頃の部下の一人が、後に初代[[内閣安全保障室]]長を務める[[佐々淳行]]である。佐々の著作によれば、当時[[要人]][[テロリズム]]を警戒して、[[セキュリティポリス|護衛]]をつけて欲しいと再三促されたが、「有り難う。でも私は結構」<ref group="注釈">一方、佐々は別の著書ではその際に「いらんッ、君はまちがってるよ。[[日本の警察官|警官]]が警官守ってどうする、[[駆逐艦]]が駆逐艦守ってどうする?警察は国民を守り、駆逐艦は商船守るんだ。ワシを守る余裕があったら犯人をつかまえろ!!」と激しく叱咤されたとも語っている。</ref>と、頑なに断り続けたという。なお、後藤田は実際に[[土田・日石・ピース缶爆弾事件]]の標的の1人となっている。
 
この頃の部下の一人が、後に初代[[内閣安全保障室]]長を務める[[佐々淳行]]である。佐々の著作によれば、当時[[要人]][[テロリズム]]を警戒して、[[セキュリティポリス|護衛]]をつけて欲しいと再三促されたが、「有り難う。でも私は結構」<ref group="注釈">一方、佐々は別の著書{{Full citation needed|date=2019年11月27日}}ではその際に「いらんッ、君はまちがってるよ。[[日本の警察官|警官]]が警官守ってどうする、[[駆逐艦]]が駆逐艦守ってどうする?警察は国民を守り、駆逐艦は商船守るんだ。ワシを守る余裕があったら犯人をつかまえろ!!」と激しく叱咤されたとも語っている。</ref>と、頑なに断り続けたという。なお、後藤田は実際に[[土田・日石・ピース缶爆弾事件]]の標的の1人となり、[[郵便爆弾]]が途中で暴発したことで難を逃れているが、このとき郵便局員が重傷を負っている。
[[1972年]]に警察庁長官を辞任した。同年7月、[[第1次田中角栄内閣]]の[[内閣官房副長官]](事務)に就任。田中の懐刀として辣腕を揮った。なお、田中は後藤田を引き入れる際に、[[内閣改造]]の暁には大臣にすることを約束したが、後藤田は選挙民の洗礼を受けなければ、そういうポストには就けないとして、[[国務大臣]]就任を断っている<ref name="hosaka">保阪正康『後藤田正晴 異色官僚政治家の軌跡』(中公文庫、2009年)</ref>。
 
[[1972年]]6月に警察庁長官を辞任した{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}。同年7月、[[第1次田中角栄内閣]]の[[内閣官房副長官]](事務)に就任{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}。田中の懐刀として辣腕を揮った。なお、田中は後藤田を引き入れる際に、[[内閣改造]]の暁には大臣にすることを約束したが、後藤田は選挙民の洗礼を受けなければ、そういうポストには就けないとして、[[国務大臣]]就任を断っている<ref name="hosaka">保阪正康『後藤田正晴 異色官僚政治家の軌跡』(中公文庫、2009年)</ref>。また、議員バッチのないまま要職につくことの限界を感じた後藤田は[[第33回衆議院議員総選挙]]に出馬することを希望したが、「この内閣は、君で持っているのだ。選挙戦で官邸がカラになったら、内閣は潰れてしまう」と田中に慰留され、機会を逃した<ref name=":2">{{Cite web|title=田中角栄「怒涛の戦後史」(14)名補佐役・後藤田正晴(中)|url=https://www.excite.co.jp/news/article/Weeklyjn_21000/|website=エキサイトニュース|accessdate=2019-12-16|date=2019-12-09|author=小林吉弥}}</ref>。
 
===政治家時代===
政界に進出すべく後藤田は、[[1974年]]7月の[[第10回参議院議員通常選挙]]に郷里の[[徳島県選挙区]]から立候補する事を決めた。しかし、1人区である[[徳島県選挙区]]では、現職に田中内閣の副総理であった[[三木武夫]](当時副総理)の城代家老と言われた[[久次米健太郎]]が現職であっことから、問題が複雑になる。[[自由民主党 (日本)|自民党]]公認を巡り、調整のって党内が紛糾する。果、局田中が押し切って後藤田公認を与えたが、これに[[番町政策研究所|三木陣営派]]が反発。久次米は無所属で立候補したため、県内で保守が真っ二つとなり、選挙戦は三角代理戦争・[[阿波戦争]](三角代理戦争)と呼ばれる熾烈なものとなった。選挙戦は、当初、後藤田に有利と見られたが、結果は、久次米19万6210票に対し、後藤田は15万3388票で敗北した。また、選挙後、後藤田陣営から268人もの[[選挙違反]]者が、[[徳島県警察]]によって[[逮捕<ref>{{Cite (日本法)web|検挙]]された。そして「金権腐敗選挙」title=阿波戦争強く非難された。後に後藤田「あの選挙は自分の人生の最大の汚点」と述べている。更に強力な後ろ盾であった[[田中角栄]]も[[田中金脈問題]]をきっかけに首相を辞任し、選挙戦を通じて政敵となった三木が後継[[自由民主党総裁|総裁]]に選出され、後藤田にとっては雌伏を余儀なくされる事態が続いたurl=https://kotobank.jp/word/%E9%98%BF%E6%B3%A2%E6%88%A6%E4%BA%89-881890|website=コトバンク|accessdate=2019-12-18|publisher=}}</ref>
 
当初は党主流派の支援を受けた後藤田が有利と見られていた。しかし結果は、久次米が19万6210票を取得したのに対し、後藤田は15万3388票で及ばず、敗北であった。さらに、後藤田が選挙に不慣れであったこともあって、陣営から268人もが[[徳島県警察]]によって[[選挙違反]]で[[逮捕 (日本法)|検挙]]されることとなり、「金権腐敗選挙」と強く非難される憂き目を見た。後藤田はお詫び行脚に奔走するとともに逮捕者には[[弁護士]]を手配した{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=380}}。後に後藤田は、「あの選挙は自分の人生の最大の汚点」と述べている。更に強力な後ろ盾であった[[田中角栄]]も[[田中金脈問題]]をきっかけに首相を辞任し、選挙戦を通じて政敵となった三木が後継[[自由民主党総裁|総裁]]に選出され、後藤田にとっては雌伏を余儀なくされる事態が続いた。一方で後藤田は、このときの落選とその後の地道な選挙活動で、自分自身の世の中を見る目に甘さがあることに気づき、自分自身も変わったと述べている{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=176}}。
 
[[1976年]]の[[第34回衆議院議員総選挙]]に[[徳島県全県区]](当時)から立候補し、ときの内閣総理大臣である三木武夫との直接対決となった。[[ロッキード事件]]に絡めた[[ネガティブ・キャンペーン]]も受けたが、後藤田が落選以来地道に続けてきた地元への行脚が功を奏し、6万8990票を獲得して三木に続く2位当選を果たした。一方で、前回の参院選挙で後藤田を支援してくれた[[秋田大助]]と少年期に寝食を共にした甥の[[井上普方]](社会党)が、最後の1議席を巡って5位争いをすることとなり、気まずい選挙でもあった(結果は、秋田が落選){{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=37・266-269}}。
 
{{要出典範囲|この頃、徳島の闇社会のドンである[[山口組]]の[[尾崎彰春]]を評して、「尾崎君は紳士だ」と警察官僚のトップにいた後藤田が発言したとして、世人の眉を顰めさせた。|date=2019年12月}}
 
[[1976年]]の[[第34回衆議院議員総選挙]]に[[徳島県全県区]](当時)から立候補し、三木武夫と直接対決となった。[[ロッキード事件]]に絡めたネガティブキャンペーンも受けたが地道に続けてきた地元の行脚が功を奏し、6万8990票を獲得して三木に続く2位当選を果たした。この頃、徳島の闇社会のドンである[[山口組]]の[[尾崎彰春]]を評して、「尾崎君は紳士だ」と警察官僚のトップにいた後藤田が発言したとして、世人の眉を顰めさせた。以後、自民党[[木曜クラブ|田中派]]に所属し、田中の庇護の下、当選回数が少ないにも拘らず、顕職を歴任した。
 
[[1978年]]の[[自由民主党総裁選挙|自民党総裁選挙]]において、田中派は[[大平正芳]]を支持したが、自民党史上となるめての国民参加型(一般党員・党友に投票権付与)による予備選挙が導入されていため[[1978年自由民主党総裁選挙]]において田中派は現職の[[福田赳夫]]が優勢と見られていたに挑む[[大平正芳]]を支持しかしこの選挙戦の指揮を執った後藤田は、党員名簿を調達し、[[東京都]]の一般党員・党友に対して、[[ヘリコプター]]まで利用した戸別訪問を行うなどのローラー作戦を敢行した。予備選挙の結果は、福田優勢との当初の下馬評を覆して、大平748点、福田638点。福田は「天の声にも変な声もたまにはある」と発言して本選挙を辞退、大平正芳内閣が成立した。[[1979年]]11月、[[第2次大平内閣]]の[[自治大臣]]兼[[国家公安委員会委員長]]兼[[北海道開発庁|北海道開発庁長官]]として初入閣した{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}。この時当選回数僅か2回であり、年功序列で衆議院当選5回から6回が初入閣対象とされていた当時の政界にあっては、異例の出世であった。1981年11月、[[鈴木善幸改造内閣]]で選挙制度調査会会長{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}
 
[[1982年]]11月、首班指名を受けた[[中曽根康弘]]に請われて、[[第1次中曽根内閣]]で内閣官房長官に就任し、内外を驚かせた。首相派閥から選出することが慣例である内閣官房長官人事を他派閥から選出したこともあるが、これはロッキード判決に備えた田中角栄に押し切られたものと受け止められ、第一次中曽根内閣は、田中派の閣僚が後藤田も含めた6名に上ったことから「田中曽根内閣」と諷刺されたが、事実は、自派の人材難に悩む一方で内務省の後輩として後藤田の手腕と実力をよく知る中曽根本人の強い求めによるものであった{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=21}}
 
当初、後藤田は、『今まで“君付け”していた者の下には就けない』(内務省入省年次では[[1939年]]入省の後藤田は、[[1941年]]入省の中曽根より先輩に当たる)と就任に難色を示していた。しかし、中曽根は、自派の人材難に加え、[[行政改革]]の推進と大規模災害等有事に備え、官僚機構の動かし方を熟知し、情報収集能力を持つ後藤田を必要とした{{refnest|group=注釈|中曽根は[[平沢勝栄]]に「なぜ後藤田さんのような一言居士で口うるさく、使いにくい、煙たい人物を官房長官に起用したのか」と問われた時、「理由は二つ。一つは行政改革を断行するには、てきぱきと判断できて官僚を抑えられる人物が必要なこと。もう一つは、関東大震災級の震災が起きた場合の危機管理ができる政治は後藤田さん以外にいないと考えたからだ」と答えている{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=234}}。}}。更に、長期的な視野で見れば田中派に対して中曽根が打ち込んだ楔でもあった。こうして、官房長官となった後藤田は、1982年12月の[[レフチェンコ事件]]{{refnest|group=注釈|アメリカでの[[スタニスラフ・レフチェンコ]]の証言を受けて事態の重大性を認識した後藤田は日本独自の検証を指示する一方、無自覚にソ連への情報提供者となった人物に配慮するとともに機密保護法の制定については慎重な立場を示した{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=217-222}}。}}や、[[1983年]]1月の[[中川一郎]]の自殺事件、同年9月の[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]による[[大韓航空機撃墜事件]]{{refnest|group=注釈|この事件への対応で後藤田は[[自衛隊]]の機密情報であったソ連軍通信の傍受記録を公表する決断を下すとともに、航路を逸脱して事件を誘発し日本人の犠牲者を出した大韓航空の責任を追及している{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=223-229}}。}}、[[三原山]]噴火による住民の全島避難の際に優れた[[危機管理]]能力を発揮[[1985年]]8月12日に起きた[[日本航空123便墜落事故]]当時は、初代[[総務庁長官]]として、首相・中曽根を支えた。[[日中友好会館]]会長<ref>{{Cite news|url=http://www.china-embassy.or.jp/jpn/jbwzlm/zrgx/t511580.htm|title=日中友好会館が本館落成20周年祝賀会|work=|newspaper=[[駐日中華人民共和国大使館]]|date=2008-09-06|accessdate=2017-11-20}}</ref>を務めるなど[[中華人民共和国]]に対する太いパイプをもち、当時の[[中国共産党]]首脳が比較的親日的なこともあり、内閣官房長官在任中の[[日中関係史|日中関係]]は[[靖国神社問題]]や[[光華寮訴訟]]に関する摩擦もあったが総じて比較的良好な状態だった。
 
=== 行革推進 ===
中曽根内閣が最大の課題とした[[行政改革]]では、1983年12月に[[行政管理庁長官]]{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}1984年7月に新設された[[総務庁|総務庁長官]]として{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}、3公社民営化などを推進した。[[第2次中曽根内閣 (第2次改造)|第2次中曽根第2次改造内閣]]・[[第3次中曽根内閣]]では内閣官房長官に再任され{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}、単なる内閣官房長官を越えた「副総理格」と見なされた。
 
[[イラン・イラク戦争]]終結に当たり、[[海上自衛隊]]の[[掃海艇]]を[[ペルシャ湾]]に派遣する問題が浮上した際には、「私は閣議でサインしない」と猛烈に反対し、中曽根に派遣を断念させ、中曽根に物を言える存在である事を印象付けた。中曽根政権の5年間、一貫して閣僚を務めたのは後藤田だけである。
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===副総理===
[[1992年]]12月に[[宮澤内閣 (改造)|宮澤改造内閣]]で[[法務大臣]]に就任{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}。[[第3次中曽根内閣]]で内閣官房長官を務めて以来、久々の入閣であった。[[1993年]]4月、[[副総理]]兼[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]の[[渡辺美智雄]]が病気辞任したため、法相としては異例ながら副総理を兼務し、大物大臣として閣内において存在感を示した。{{要出典|date=2018年2月|当時すでに高齢であった後藤田の入閣に対し、政策研究の手間を取らせないため、官僚時代から精通していた治安系の官庁のトップである法務大臣として入閣したと見られる。}}
 
法相在任中は、1989年11月の[[日本における死刑|死刑]]執行から死刑執行停止状態(モラトリアム)が続いていたことについて「[[法治国家]]として望ましくない」との主旨の発言をし、1993年3月に3年4ヶ月ぶりに3人の[[死刑囚]]に対する死刑執行命令を発令した{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=245-252}}。法相在任中に、警察庁長官として事件解決に携わった[[連合赤軍]]事件の[[永田洋子]]と[[坂口弘]]の死刑が確定した時期であったことも注目された。また[[金丸信]]摘発にあたり、かつて田中の公判検事であった[[吉永祐介]]を[[検事総長]]に起用するという過去の恩讐を越えた人事を行い話題を呼んだ。またカミソリといわれた官僚時代と異なり{{refnest|group=注釈|政界進出後の後藤田は「そんなことしたら、票が減る」と"カミソリ"と呼ばれるのを嫌い、「ワシは女性票が取れなくてね」とかつての峻厳なイメージが残っていることを気にかけていた{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=51-52}}。}}、法相就任後は好々爺の雰囲気をかもし出し国民からも親しまれた。
 
しかし、選挙制度改革をめぐり、かつて政治改革に共に取り組んだ羽田孜らのグループの造反により宮澤内閣不信任決議案が可決される。羽田、[[小沢一郎]]らは自民党を離党し、[[新生党]]を結党。また、同じく政治改革を推進してきた[[武村正義]]、[[鳩山由紀夫]]らのグループは、内閣不信任案には反対票を投じたものの、羽田らに次いで離党し、[[新党さきがけ]]を結党した。解散総選挙の結果、自民党は羽田派の集団離党により過半数を割り、[[三塚博]]を中心に後藤田をポスト宮澤に推す動きがあったが、[[新生党]]の小沢一郎に機先を制され、[[細川護熙]]首班の[[非自民]][[連立政権]]が成立した。宮澤の後任の自民党総裁には、後藤田が最も寵愛していた[[河野洋平]]が就任。後藤田は河野の指南役を務め、自民党の最高実力者となった。
 
===政治家引退後===
最初の[[小選挙区制]]の選挙となった[[1996年]]の[[第41回衆議院議員総選挙|総選挙]]には、高齢を理由として出馬せず、政治の第一線を退いた。引退する旨を3人の子供に伝えた時、二世議員にならないよう頼んだという{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=349}}。その後も政治改革、行政改革、外交、安全保障問題などで積極的に発言を続けた。
 
[[河野洋平]]を非常に可愛がり、[[与党]]の対中外交に影響を与えた。また、「[[新しい歴史教科書をつくる会|つくる会]]」の新しい歴史教科書([[扶桑社]]発行)の採択には、一貫して反対の立場をとった。
 
「[[新しい歴史教科書をつくる会|つくる会]]」の新しい歴史教科書([[扶桑社]]発行)の採択には、一貫して反対の立場をとった。
[[イラク戦争]]における[[自衛隊海外派遣|自衛隊派遣]]に反対した。[[小泉純一郎]]内閣に対して「過度の[[ポピュリズム]]が目立ち、危険だ」と批判した。また、小泉内閣のスローガンでもあった、「官から民へ」について、「利潤を美徳とする民間企業が引き受けられる限度を明示せずに、官から民へは乱暴である」と発言した。後藤田の死後、当時[[民進党代表|民主党代表]]の[[前原誠司]]は国会質問でこの発言を引用した。
 
[[イラク戦争]]における[[自衛隊海外派遣|自衛隊派遣]]に反対した。[[小泉純一郎]]内閣に対して「過度の[[ポピュリズム]]が目立ち、危険だ」と批判した。また、小泉内閣のスローガンでもあった、「官から民へ」について、「利潤を美徳とする民間企業が引き受けられる限度を明示せずに、官から民へは乱暴である」と発言した{{refnest|group=注釈|後藤田の死後、当時[[民進党代表|民主党代表]]の[[前原誠司]]は国会質問でこの発言を引用した<ref>{{Cite web|title=第163回国会 本会議 第4号(平成17年9月28(水曜日))|url=http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigirokua.nsf/html/kaigirokua/000116320050928004.htm|website=www.shugiin.go.jp|accessdate=2019-12-15}}</ref>。}}。また、小泉政権への牽制役として期待をかけていた[[野中広務]]が政界引退を表明したときには、自ら出向いて「日本にとって今が一番重要なときなんだ。恥をかかすことになるけれども『後藤田が止めた』と言って、あと三年頑張ってくれ」と頭を下げた{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=30}}。
 
佐々の著書によると、引退後も後藤田は現職の首相をはじめとする政権中枢に安全保障にかかわる問題や災害対応についてアドバイスを与えていた。また、佐々などかつての部下を[[総理大臣官邸]]に送って、処理の補助を行わせていたという<ref name=waga404>佐々淳行 『わが上司 後藤田正晴』、文春文庫、2002年、404〜406頁</ref>。
 
引退後の後藤田は、しばしば[[右翼|右派]]勢力から「[[左翼]]ハト派」「親中派」と罵ら目さたが身辺での威圧や嫌がらせを受けていた。後藤田は自分は[[保守]]的病弱政治家であるとし「自分が左派扱妻を気遣ってされるのは、日本[[右傾]]化、夫人はむ過ぎていろ「もう遠慮すのではことも失うこともないのかはず。言いたいことをどんどん言って下さい」と反駁し勧めという{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=45}}
 
後藤田は自分は[[保守]]的な政治家であるとし「自分が左派扱いされるのは、日本が[[右傾]]化し過ぎているのではないのか」と反駁した。
 
政界のご意見番的な立場で[[TBSテレビ|TBS]]の『[[時事放談]]』に出演していたこともある。
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[[2005年]][[9月19日]]、[[肺炎]]のため死去、91歳だった。喪はしばらく伏せられた。その経歴に比して、ごく質素な葬儀だったという。
 
==後藤田五訓 人物 ==
 
=== 治安維持 ===
学生運動が盛んであった警察庁次長時代、警官を殺しかねないような暴れ方をしていた学生が逮捕されると「お巡りさん、[[タバコ]]くれませんか」などと態度を一変させるという情報を得た後藤田は、「基本的には革命など起こるわけがない」と確信した。対処にあたる警官には能力がありながらも経済的に進学できなかった若者が多かったのに対し、暴れる学生ほど家庭に恵まれており、精鋭化した暴徒学生は所詮は社会のはぐれ者にしかならないと見抜いたのである<ref name="hosaka" />。
 
[[成田空港予定地の代執行|成田空港予定地での第一次代執行]]直後にヘリコプターで現地を視察した後藤田は、反対派について「ありゃあ蟷螂の斧じゃのう」と言い帰京したという。運輸[[政務次官]]として[[成田空港問題]]に対処していた[[佐藤文生]]は、後藤田は現場を勇気づける意味で言ったのだろうとしながらも、東峰十字路事件が発生した第二次代執行において警察庁の指示で警察の動員数が千葉県警が作成した当初計画より削減されたことへの一つの説として、このエピソードが警察庁幹部に影響したといわれているとしている<ref>{{Cite book|author=[[佐藤文生]]|title=はるかなる三里塚|date=|year=1978|accessdate=|publisher=講談社|pages=108-109}}</ref>。
 
[[警備業]]の黎明期にあった1970年代、[[特別防衛保障]]をはじめとする警備会社の不当事案が社会問題化していた。[[警備業法]]の制定など規制強化が図られる中、後藤田は警察庁長官として「プライベートポリスの思想、これは我が国においては認めたくないというのが私の基本的な考え方でございます」としながらも、警備会社は「必要悪」であるとの認識を示した<ref name="minkei">[[猪瀬直樹]]『民警』[[扶桑社]]、2016年 ISBN 978-4594074432、204p-205p</ref><ref>{{Cite web|url=http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/068/0050/06805180050026c.html|title=衆議院会議録情報 第068回国会 地方行政委員会 第26号|accessdate=2018-04-19|website=kokkai.ndl.go.jp}}</ref>。
 
===後藤田五訓===
中曽根内閣で創設された内閣官房6室制度発足の場で、内閣官房長官の後藤田が、部下である初代の内閣五室長の[[的場順三]](内閣内政審議室)、国広道彦([[内閣外政審議室]])、[[佐々淳行]]([[内閣安全保障室]])、谷口守正([[内閣情報調査室]])、[[宮脇磊介]](内閣広報官室)に対して与えた訓示を、「後藤田五訓」という。長年仕え、初代内閣安全保障室長を務めた[[佐々淳行]]が自著に記したことで世に明らかとなった。内容は次のとおり。
#出身がどの省庁であれ、省益を忘れ、国益を想え
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本人はこの訓示を忘れていたらしく、佐々のところへ「今、人が来て『後藤田五訓を揮毫してくれ』と言うんだが、後藤田五訓とは何ぞ」と聞きに来て、佐々が説明すると「ワシ、そんな事言うたかな?どうせ君があることないこと吹聴しとるんじゃろう」と佐々が書いたメモを片手に帰っていったという<ref>佐々淳行 『わが上司 後藤田正晴』、文春文庫、2002年、152頁</ref>。
 
===官房長官談話===
:[[中曽根康弘]]総理大臣の[[靖国神社問題|靖国神社公式参拝]]中止時の談話
 
「昨年実施した公式参拝は、過去における我が国の行為により多大の苦痛と損害を蒙った近隣諸国の国民の間に、そのような我が国の行為に責任を有する[[A級戦犯]]に対して礼拝したのではないかとの批判を生み、ひいては、我が国が様々な機会に表明してきた過般の[[戦争]]への反省とその上に立った平和友好への決意に対する誤解と不信さえ生まれるおそれがある」ため「[[内閣総理大臣]]の[[靖国神社]]への公式参拝は差し控えることとした」
 
またこの件を、「非常に残念だ。参拝というのは純粋に素直な気持ちで行えばいい。それを公人、私人といった分け方で言うのはおかしい。」と話した。つまり、戦争で逝った人たちを悼むという素朴な気持ちこそが大切である、というのであった。
つまり、戦争で逝った人たちを悼むという素朴な気持ちこそが大切である、というのであった。
 
なお、内閣総理大臣在任中の小泉純一郎による靖国神社参拝が問題になっていた頃、参拝に反対する自民党議員の勉強会に講師として呼ばれた後藤田は「くだらない負け惜しみは言わない方がいい」と発言している{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=147-148}}。
==政治家引退の時の演説==
 
===阪神・淡路大震災への対応===
[[阪神・淡路大震災]]発生翌日に首相官邸を訪ね、「総理、地震は天災だから防ぎようがない、しかしこれからは、まかりまちがうと人災になる。しっかりやってくれ」と[[村山富市]]を叱咤激励した{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=124}}。
 
その後、竹下登の要請を受けて阪神・淡路復興委員会の特別顧問に就任<ref name=":1">{{Cite web|title=復興へ 第18部 この国 震災3年の決算|url=https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/sinsai/03/rensai/199801/0005609972.shtml|website=神戸新聞NEXT|accessdate=2019-12-16|date=1998-01-14}}</ref><ref>{{Cite web|title=衆議院会議録情報 第132回国会 議院運営委員会 第7号|url=http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/132/0440/13202170440007c.html|website=kokkai.ndl.go.jp|accessdate=2019-12-16}}</ref><ref>{{Cite web|title=参議院会議録情報 第132回国会 議院運営委員会 第5号|url=http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/132/1440/13202171440005c.html|website=kokkai.ndl.go.jp|accessdate=2019-12-16|publisher=国立国会図書館}}</ref>。震災への対応にあたる村山内閣を補佐し、社会党への批判が集まる中、「誰が代わりにやれば出来ると言うんだ?自民党政権だって出来ないよ」と庇った<ref>{{Cite web|title=昭和偉人伝|url=https://archives.bs-asahi.co.jp/ijinden/prg_029.html|website=BS朝日|accessdate=2019-12-16}}</ref>。
 
後藤田は[[運輸大臣]]の[[亀井静香]]に[[神戸港]]の復旧を最優先にするよう指示したとするが<ref name=":1" />、その一方で復興委員会第1回会合では「焼け太りは認められない」<ref>{{Cite web|title=阪神大震災から22年で思い出す3人|url=https://www.sankei.com/west/news/170116/wst1701160047-n1.html|website=産経WEST|accessdate=2019-12-16|author=[[鹿間孝一]]}}</ref>、第2回会合では「計画は物理的、社会的、財政的にぎりぎりの線でやってほしい。それを超すと理想倒れになる」「政府としては個人の損失に直接補償しない建前だ」と発言し<ref>{{Cite web|title=災の国~問われる「覚悟」~ |(3)被災地の夢 政と官の壁手も足も出ず|url=https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/sinsai/20/rensai/201501/0007631885.shtml|website=神戸新聞NEXT|accessdate=2019-12-16|date=2015-01-04}}</ref>、公平性などの観点から国からの支援はインフラの復旧までであり、それ以上の計画については原則地元の責任と資金で行うべきであるとの方針を示した。この「'''後藤田ドクトリン'''」によって復興予算が削減されたことが、震災前までは[[コンテナ]]取扱量で世界第3位であった神戸港が[[釜山港]]に水をあけられて[[国際競争]]に敗れた原因であるとする主張がある<ref>{{Cite web|title=震災20年 復興の課題と成果は 有識者に聞く|url=https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/sinsai/20/201501/0007632092.shtml|website=神戸新聞NEXT|accessdate=2019-12-16|date=2015-01-04}}</ref><ref>{{Cite journal|author=[[五百籏頭真]]|date=2014-10-16|title=特別講演Ⅰ 「大震災の時代に生きる」|url=https://redcross.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=17&item_id=5844&item_no=1|journal=日赤医学|volume=66|pages=31–33}}</ref><ref>{{Cite web|title=【対韓 最後通牒】GSOMIA破棄までする韓国…有事の際はどうなる!? 「軍事境界線」近いソウルや仁川、日本人の滞在・旅行は減らすべき 空港や港湾のハブを奪還せよ|url=https://www.zakzak.co.jp/soc/news/190828/pol1908280002-n1.html|website=zakzak|accessdate=2019-12-16|author=[[八幡和郎]]|date=2019-08-28}}</ref>。
 
後藤田は後日のインタビューで、当時としては最大級の予算を[[大蔵省]]から引き出したとしつつ、復興委員会では都市建設や開発に論議が集中しており、職を失った人たちへの手当て等の生活の復旧についての議論が足りなかったと述べた<ref name=":1" />。
 
===政治家引退の時の演説===
[[警察庁長官]]から政界に進出し、[[内閣官房長官]]まで務めた後藤田が公職から退く際、演説を行った。その中で後藤田は「私には心残りがある」と語り、その一つは政治改革を掲げつつそれが単なる選挙制度改革で終わってしまったこと、そしてまた一つは、警察官僚として部下に犠牲を強いてしまったことだという。警察庁時代に「のべ600万人の[[日本の警察官|警察官]]を動員した[[安保闘争|第二次安保]]警備で、『殺すなかれ』『極力自制にせよ』と指示した結果、こちら側に1万2000名もの死傷者を出してしまった。いまでも私は、その遺族の方々や、生涯治ることのない[[身体障害|ハンデキャップ]]を背負った方々に対して、本当に心が重い。これが私の生涯の悔いである」と語っている<ref>佐々淳行 『日本の警察』 PHP新書、1999年、54頁</ref>。
 
後藤田の警察庁時代は[[日本の学生運動|学生運動]]が過激化し、[[極左]][[過激派]]によるテロや[[暴動]]が頻発していた時期であり、[[警備]]などに従事していた警察官に多くの死傷者が出て、後藤田はこれへの対処に追われた。例として、後藤田が警察庁長官であった[[1971年]][[9月]]、[[三里塚闘争]]渦中の[[成田空港予定地の代執行]](第二次代執行)中に起きた[[東峰十字路事件]]では、後方警備に従事していた[[機動隊#第二機動隊(方面機動隊・特別機動隊)|特別機動隊]]が過激派などの空港反対派の集団によるゲリラ襲撃を受け、機動隊員に[[火炎瓶]]が投げ付けられ、火だるまになり、のた打ち回っている所を[[鉄パイプ]]や[[角材]]、[[竹槍|竹ヤリ]]などで滅多打ちにされて隊員3名が死亡し、約100名が重軽傷を負った。負傷した若い隊員の中にはあごの骨を砕かれ、全ての歯を失い、全身を100針も縫い、一時重体となった隊員もいた<ref>読売新聞 2007年12月26日付記事</ref>。警察庁時代の後藤田の部下であった[[佐々淳行]]は著書の中で、これら悲痛な思い出が、後藤田に引退の際の台詞を言わせたのではないかと語っている<ref>佐々淳行 『日本の警察』 PHP新書、1999年、54,55頁</ref>。
 
=== 憲法と安全保障 ===
==エピソード==
警察予備隊本部課長時代、[[福知山市]]で水害が生じたときに駐屯地の司令が手続きを踏まずに独断で部隊を出動させる出来事があった。このとき後藤田は「実力をもった部隊の独断専行は絶対、許すべきではない」「こういうときこそ、将来のため、現在において厳しい躾をしておかなくてはならない」と、[[文民統制]]徹底の観点から厳しい姿勢で臨んでいる{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=199-200}}。
*学生運動が盛んであった警察庁次長時代、警官を殺しかねないような暴れ方をしていた学生が逮捕されると「お巡りさん、[[タバコ]]くれませんか」などと態度を一変すると言う情報を得た後藤田は、「基本的には革命など起こるわけがない」と確信した。対処にあたる警官には能力がありながらも経済的に進学できなかった若者が多かったのに対し、暴れる学生ほど家庭に恵まれており、精鋭化した暴徒学生は所詮は社会のはぐれ者にしかならないと見抜いたのである<ref name="hosaka" />。
 
*[[警備業]]の黎明期にあった1970年代、[[特別防衛保障]]をはじめとする警備会社の不当事案が社会問題化していた。[[警備業法]]の制定など規制強化が図られる中、後藤田は警察庁長官として「プライベートポリスの思想、これは我が国においては認めたくないというのが私の基本的な考え方でございます」としながらも、警備会社は「必要悪」であるとの認識を示した<ref name="minkei">[[猪瀬直樹]]『民警』[[扶桑社]]、2016年 ISBN 978-4594074432、204p-205p</ref><ref>{{Cite web|url=http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/068/0050/06805180050026c.html|title=衆議院会議録情報 第068回国会 地方行政委員会 第26号|accessdate=2018-04-19|website=kokkai.ndl.go.jp}}</ref>。
後年は安全保障や憲法の問題に関してはハト派寄りの発言が多いことで知られたが、[[日本国憲法第9条|憲法第9条]]について問われた時、「いまのような国会答弁だと、自衛隊が認知されたような、されんような、そんな可哀想な状態で、命を捨てる仕事がどこにありますか、将来、国民が変えたらいいといえば、変えればいい」と自衛隊への理解や憲法改正の容認を示し<ref name="hosaka" />、「書きすぎの感がある」「賞味期限がきているのではないか」とも述べていた{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=49}}。後藤田自身は1項については保持し、2項については「領域外での武力行使は行わない」と明記すべきとの考えであったといわれる{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=49}}。すなわち、独立・自存のための[[自衛権]]は憲法以前の[[自然権]]としていずれの国でも認められるものであり、最低限の武力装置を備えておくのは当然であるが、海外派兵に関するあらゆる方便を排除するために海外での武力行使禁止を明示すべきであるというのが後藤田の基本的考えであった{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=360・363}}。
*[[成田空港予定地の代執行|成田空港予定地での第一次代執行]]直後にヘリコプターで現地を視察した後藤田は、反対派について「ありゃあ蟷螂の斧じゃのう」と言い帰京したという。運輸[[政務次官]]として[[成田空港問題]]に対処していた[[佐藤文生]]は、後藤田は現場を勇気づける意味で言ったのだろうとしながらも、東峰十字路事件が発生した第二次代執行において警察庁の指示で警察の動員数が千葉県警が作成した当初計画より削減されたことへの一つの説として、このエピソードが警察庁幹部に影響したといわれているとしている<ref>{{Cite book|author=[[佐藤文生]]|title=はるかなる三里塚|date=|year=1978|accessdate=|publisher=講談社|pages=108-109|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。
 
*{{要出典範囲|政界進出後、警察官僚時代を振り返り[[社会党]]と[[民社党]]は警察庁のマークの対象外だったとし「社会党ほどダラ幹(堕落した幹部)の党はない。民社党は記憶にない。あれは何をしておったのだろう。危ないと思うのは[[共産党]]と[[公明党]]だ。この国への忠誠心がない政党は危ない。共産党は前から徹底的にマークしているからいいが、公明党はちょっと危ない」としていた。|date=2018年3月}}
[[日本国憲法]]そのものについては、「生まれは決して良いとは言えない」「本来は占領終了直後に日本人の手によってつくり直すべき筋合いのものであった」としながらも、「人類が将来向かっていくべき理想を掲げている」とその意義を認めている{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=360}}。
 
[[冷戦]]終結後は米軍への基地供与には消極的であり、[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安保条約]]を平和友好条約に変換すべきとの考えも持っていたが{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=125}}{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=362}}、[[普天間基地移設問題]]に関して[[岡本行夫]]から[[辺野古]]移設について説明を受けたときには否定も肯定もしなかった{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=134}}。
 
=== 経済政策 ===
「土地の[[私的所有権|私有権]]はそりゃあ大事だろう。だがそのうえに胡座をかいていていいのか。社会生活や[[国民経済]]にプラスに働くように、土地の私有権と言うものを使っていかなければいかないのではないか。私有権ばかりを重視していては国民生活はどうなるのか」<ref name="hosaka"/>と[[公共の福祉]]と[[財産権]]のバランスを取るべきとの認識を示すとともに、「政府の経済政策の基本原則は、国民が自分の持ち家を持って、家族が一家団欒で生活できるようにすることだが、こんなに不動産が上がったら、それが不可能になるだろう」と地価の上昇とそれを煽る銀行の姿勢に懸念を表明し、官房長官として銀行局長に指示を出したのがきっかけで、[[住宅金融専門会社]]ができた{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=101-102}}。
 
「競争社会にしないと世界的な競争に耐えられないということはわかるんだけれども、競争社会の中で落ちていく人のことをどうするんだということをぜひ考えてもらいたい」と述べ、[[格差社会]]に対する警鐘を鳴らしている{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=169}}。
 
=== 中国との関係 ===
内閣官房長官在任中の中曽根政権時代の[[日中関係史|日中関係]]は、中曽根の参拝が発端となった[[靖国神社問題]]や[[光華寮訴訟]]に関する摩擦もあったが、当時の[[中国共産党]]首脳が比較的親日的であったこともあり、総じて良好な状態だった。
 
後藤田は1994年に[[日中友好会館]]会長{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=384-388}}<ref>{{Cite news|url=http://www.china-embassy.or.jp/jpn/jbwzlm/zrgx/t511580.htm|title=日中友好会館が本館落成20周年祝賀会|work=|newspaper=[[駐日中華人民共和国大使館]]|date=2008-09-06|accessdate=2017-11-20}}</ref>を務め[[中華人民共和国]]に対する太いパイプをもち、後藤田自身も「[[一つの中国]]」を支持するなど中華人民共和国に対しては基本的に融和的な姿勢を示していた{{refnest|group=注釈|清華大学での講演で「台湾人は台湾人であっても、心はそれぞれ福建人、広東人、客家人、であり、それはつまり中国人だということである。台湾人の心は、自分は中国人であり、自分の祖国は中国であり、中国はひとつの国家だということである」と述べている{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=179}}。}}。
 
一方で、[[江沢民]]による厳しい対日政策が行われていた1999年には、中国の要人を前に「両国関係で最も重要なのは、双方の国民感情が良い方向へ向かうことだ。そのためには、指導者、報道機関などが、つねに友好を育てる方向を向いていなければならない」と苦言を呈することもあった{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=186}}。
 
=== 人間関係 ===
==== 田中角栄 ====
 
1952年の暮れに、後藤田が「第二機動隊構想」の腹案を実現するため、翌年度予算での警察予算の増額を衆院予算委員会のメンバーであった田中に陳情したことから交流が始まった。田中は引き受けた陳情は必ず実現し、両者の信頼関係は深まっていた<ref name=":3">{{Cite web|title=田中角栄「怒涛の戦後史」(14)名補佐役・後藤田正晴(上)|url=https://wjn.jp/article/detail/8812136/|website=週刊実話|accessdate=2019-12-16|author=小林吉弥}}</ref>。
 
阿波戦争で破れたことは田中へのダメージとなったが、田中は「ワシのことは気にせんでいい」と後藤田を気遣った<ref name=":2" />。
 
後藤田は政界の頂点に上り詰めた田中に対してはっきりと直言し、田中もそれを許容した<ref name=":3" />。
 
後年、「田中派には二階堂(進)、[[江崎真澄|江崎(真澄)]]、後藤田という3人の首相候補がいる。順番を間違ってはいかんッ」と田中が言ったことがある。これは独自の動きを見せ始めた竹下登を牽制してのことであるが、同時に田中の後藤田に対する信頼の厚さが伺える。田中派の大部分が竹下派になびいた後も、後藤田は組せずに田中への筋を通した<ref>{{Cite web|title=田中角栄「怒涛の戦後史」(14)名補佐役・後藤田正晴(下)|url=https://news.nifty.com/article/domestic/government/12151-499776/|website=ニフティニュース|accessdate=2019-12-16|author=小林吉弥|date=2019-12-16}}</ref>。
 
後藤田は「私が政界入りしてすぐ大臣になったり官房長官として長く政府の中枢にいるなど厚遇されたのも、田中さんのお陰である。(中略)そういう意味で私は田中さんに恩義を感じている」と述べている{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=174}}。
 
==== 中曽根康弘 ====
大戦後半に米軍の台湾上陸に備えて防衛体制構築が図られ、後藤田は陸軍の資材獲得の任務についたが、海軍も同様に資材を求めて競争となり、相手の手強さに辟易としていた。戦後、中曽根と懐旧談をしていたときに実はその指揮を取っていた海軍主計将校が中曽根であったことがわかり、お互い笑って握手し健闘を讃えた{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=25}}。
 
==== 村山富市 ====
[[日本社会党委員長]]に就任した直後の[[村山富市]]と会食を持ち、「自衛隊の認否については貴方の党と私の考えは違う。それは仕方がないとしても、武装した自衛隊を海外に出さないということについては一致するのではないか。是非この一線だけはお互いに守っていきたい」と話した。村山が首相となった後も[[阪神・淡路大震災]]などの折に触れて後藤田はアドバイスや激励を送り、村山も耳を傾けていた{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=-122-126}}。
 
===エピソード===
 
*{{要出典範囲|政界進出後、警察官僚時代を振り返り[[社会党]]と[[民社党]]は警察庁のマークの対象外だったとし「社会党ほどダラ幹(堕落した幹部)の党はない。民社党は記憶にない。あれは何をしておったのだろう。危ないと思うのは[[共産党]]と[[公明党]]だ。この国への忠誠心がない政党は危ない。共産党は前から徹底的にマークしているからいいが、公明党はちょっと危ない」としていた。|date=2018年3月}}。一方で、晩年に[[不破哲三]]から著書を送られたときには丁寧な書状を返しており、そのうち一通は死の一週間前に書かれたものであった{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=254-256}}。
*中曽根は組閣に際して田中にトイレで「後藤田を貸してもらえませんか?」と官房長官登用を交渉したといわれるが<ref>佐々淳行 『わが上司 後藤田正晴』 文春文庫、2002年、232頁</ref>、中曽根自身の回顧では[[九段]]の料亭で田中と会食したときに申し入れたとされている{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=21}}。
*{{要出典範囲|最初の選挙で逮捕者を出して以降、講演会の出納簿を予算性に変え、後藤田が自らチェックを行った。|date=2018年3月}}
*{{要出典範囲|当時政局の焦点となっていた[[ロッキード事件]]の公判の前日、内閣官房長官の記者会見の席上で「ときに、裁判のある日はいつでしたかね」と問いかけ、記者たちを唖然とさせた。|date=2018年3月}}
*官房長官の初仕事である閣僚名簿の発表の際、閣僚の名前を読み間違えることがあった(例えば[[羽田孜]][[農林水産大臣]]を「はだしゅう」、[[鈴木省吾 (政治家)|鈴木省吾]]法務大臣を「すずきしょうご」、[[河野洋平]][[科学技術庁長官]]を「かわのようへい」等と読み間違えた)。これは、通常であれば最初に決まる官房長官ポストの調整が難航し、後藤田が各閣僚の名前の読みを確認する時間がなかったためである<ref>後藤田正晴 『情と理㊦ カミソリ後藤田回顧録』 講談社α文庫 p148-149</ref>。
*官房長官就任に際し、中曽根は田中にトイレで「後藤田を貸してもらえませんか?」と交渉したという<ref>佐々淳行 『わが上司 後藤田正晴』 文春文庫、2002年、232頁</ref>。
*[[読売ジャイアンツ|巨人]]ファンであり、自ら入場券を購入して一般のファンと一緒に観戦した。[[明治神宮野球場]]で[[ファウルボール]]に危うく当たりかけたことがある。「ジャイアンツは駄目だ。あんなデブばっかりそろえて非常識だ。勝てるわけないじゃろ」と苦言を呈し、スター選手ばかりを集めて若手の育成を怠るジャイアンツの行く末を心配していた。同じ徳島出身の[[上田利治]]を参院選出馬に勧誘したことがある{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=261・321-323}}。
*官房長官の初仕事である閣僚名簿の発表の際、閣僚の名前を読み間違えることがあった(例えば[[羽田孜]][[農林水産大臣]]を「はだしゅう」、[[鈴木省吾 (政治家)|鈴木省吾]]法務大臣を「すずきしょうご」、[[河野洋平]][[科学技術庁長官]]を「かわのようへい」等と読み間違えた)。これは、通常であれば最初に決まる官房長官ポストの調整が難航し、後藤田が各閣僚の名前の読みを確認する時間がなかったためである。<ref>後藤田正晴 『情と理㊦ カミソリ後藤田回顧録』 講談社α文庫 p148-149</ref>
*後藤田の自宅には毎日深夜に右翼から電話がかかってきていた。それを聞いた[[板東英二]]が電話番号を変えるよう進言すると、「バカ、そんなことをしたら誰が彼らの話を聞いてやるんだ」と取り合わなかった{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=262}}。
*{{要出典範囲|1993年に[[村山富市]]が[[日本社会党委員長]]に就任時、「[[自衛隊]]について社会党と意見の違いはあるけど、自衛隊が武装して海外に出ていくことには反対しなければならない。その点は同じ考えです」と話した。「自衛隊の[[自衛隊海外派遣|海外派遣]]や[[集団的自衛権]]の行使など、憲法が認めないことがなし崩しになることに危惧を抱いていた」と評価していた。首相時代の村山にとって後藤田は良き相談相手の一人であった。|date=2018年3月}}
*[[東京ディズニーランド]]の開園準備を行っていた[[高橋政知]]・[[加賀見俊夫]]ら[[オリエンタルランド]]・[[三井不動産]]・[[京成電鉄]]の経営陣の相談役であった。オープンに立ち会った後藤田はいたく気に入り、その後もアトラクションのオープンやイベントの開催に立ち会った{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=278-279}}。
*安全保障や憲法の問題に関してはハト派寄りの発言が多いことで知られるが、[[日本国憲法第9条|憲法第9条]]について問われた時、「いまのような国会答弁だと、自衛隊が認知されたような、されんような、そんな可哀想な状態で、命を捨てる仕事がどこにありますか、将来、国民が変えたらいいといえば、変えればいい」と自衛隊への理解や憲法改正の容認を示す発言をしている。ただし、自身を含む[[太平洋戦争]]に関わった世代は徒に憲法改正を口にすべきではないという持論であった<ref name="hosaka"/>。
*部下には「雷」を落としまくっていた後藤田であったが、自然現象の[[雷]]は苦手だった{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=308-309}}。
*[[石附弘]]に[[西郷隆盛]]と[[大久保利通]]のどちらが好きか尋ねられると、「そんなこと決まってるじゃないか。大久保だよ、君。近代日本の基礎は、大半大久保がつくったんだ」と答えた{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=315}}。
* [[昭和天皇]]にご進講をすることが何度かあり、厳しくも温かい叱責を受けることがあった。夫人が一人で[[園遊会]]に出席したときには、昭和天皇自ら「後藤田長官は大変だね」「長官によろしくね」と声がけした。昭和天皇の最初の体調異変と言われる、1987年の誕生日の祝宴での嘔吐にいち早く気づき、夫人を伝令役にして[[山本悟 (侍従長)|山本悟]]宮内庁次長に事態を伝えている{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=381-382}}。
*警察官の増員については、警察官の使い方に無駄が多く組織運営の合理化・効率化をするべきとして長らく認めなかったが、1995年に[[オウム真理教]]のテロなど警察事象の増加や治安の悪化が深刻になると一転して大増員を承諾し、各省庁への根回しを行った{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=302}}。
*内務官僚出身の後藤田は「[[内務省 (日本)|内務省]]を復活させなければ死ぬに死ねない」と言ったとされるが、後藤田本人は否定している。ただし、後藤田の6年後輩で、警察庁でコンビを組んでいた[[渡部正郎]]が、前述の発言は後藤田のものだと証言している<ref>田原総一朗 『警察官僚の時代』 講談社文庫 p.17</ref>。なお、同じく内務官僚出身だった中曽根は、内閣総理大臣の時に'''内政省'''の名で復活を検討したが、後に断念して代わりに[[総務庁]]が設置されて後藤田は初代長官となった。
 
===語録===
 
*「われわれの任務は、この[[安田講堂]]だけで終わるわけではない。治安というのは、長期的に見て取り組まなければならない。必要なのは、彼らに敵対心だけを与えないことだ。いずれ彼らも善良な市民として育っていくわけだから、そういうしこりをのこすと長い目でみれば不利になる。今、必要なのは彼らの行動を国民から浮き上がらせてしまうことだ。なんと愚かなことをしているのか、と理解してもらうことだ。少々対応が遅れて、警察は何をやっている、と非難されても構わない。われわれは軍隊とは異なるのだから…」 - [[東大安田講堂事件]]に際して<ref name="hosaka"/>
==== 官僚時代 ====
*「過激派のテロで、第一線の若い警察官が殉職するのは気の毒であり、対策を急がねばならないが、本当に怖いのは過激派ではなくて、違法な手段で政権奪取を狙う共産党だ」<ref name="hosaka"/>
 
*「こんな紙切れ一枚が何になる、それより部下を殺した犯人をこの長官室まで連れてこい」 - 東峰十字路事件の責任を取ろうと[[辞表]]を持参した千葉県警本部長に対して<ref name="hosaka"/>
*「われわれの任務は、この[[安田講堂]]だけで終わるわけではない。治安というのは、長期的に見て取り組まなければならない。必要なのは、彼らに敵対心だけを与えないことだ。いずれ彼らも善良な市民として育っていくわけだから、そういうしこりをのこすと長い目でみれば不利になる。今、必要なのは彼らの行動を国民から浮き上がらせてしまうことだ。なんと愚かなことをしているのか、と理解してもらうことだ。少々対応が遅れて、警察は何をやっている、と非難されても構わない。われわれは軍隊とは異なるのだから…」 - [[東大安田講堂事件]]に際して<ref name="hosaka" />
*「過激派のテロで、第一線の若い警察官が殉職するのは気の毒であり、対策を急がねばならないが、本当に怖いのは過激派ではなくて、違法な手段で政権奪取を狙う共産党だ」<ref name="hosaka" />
*「こんな紙切れ一枚が何になる、それより部下を殺した犯人をこの長官室まで連れてこい」 - 東峰十字路事件の責任を取ろうと[[辞表]]を持参した千葉県警本部長に対して<ref name="hosaka" />
*「新聞は警察官が過激派の火炎びんを浴びて殉職すると『死亡』と書く。どうして『殺人』と書かないんだ。あれは誤報だ」<ref name="hosaka" />
*「[[羽仁五郎]]のように若い過激派をおだてて原稿料を稼ぐやつほど、この世で悪いやつはいない。お金になるといえば、何をやってもいいのか」<ref name="hosaka" />
*「[[ゴルフ]]なんて簡単ですよ。ボールを馬鹿な政治家か意地の悪い[[新聞記者]]の頭だと思ってひっぱたけばよく飛びますよ」<ref name="hosaka" />
*「君、そんな馬鹿な・・・」 - [[山岳ベース事件]]により連合赤軍のメンバー12人がすでに殺されていたという報告を受けて<ref>{{Cite book|author=久能靖|title=浅間山荘事件の真実|date=|year=2002|accessdate=|publisher=河出文庫|page=351}}</ref>。
*「君らに迷惑がかからんように夕刊の締め切り時間も調べておいたんだ」 - 新聞記者らに自身の警察庁長官辞任を伝えたときのことについて<ref name="hosaka" />
 
*「土地の[[私的所有権|私有権]]はそりゃあ大事だろう。だがそのうえに胡座をかいていていいのか。社会生活や[[国民経済]]にプラスに働くように、土地の私有権と言うものを使っていかなければいかないのではないか。私有権ばかりを重視していては国民生活はどうなるのか」<ref name="hosaka"/>
==== 田中政権 ====
 
*「本当に俺は世の中を知らないと思った。俺が見てきたのは、せいぜい『制度の中の悪人』だけだった。あいつら言葉巧みで、思わず俺も騙されたんだよ。まあでも、俺を騙せたんだから大したもんだ」 - 最初の選挙での失敗を振り返って<ref>{{Cite news|title=あの田中角栄が惚れ込んだ最強の官房長官「カミソリ後藤田」の素顔(週刊現代)|url=http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48711?page=2|accessdate=2018-04-05|language=ja-JP|work=現代ビジネス}}</ref>
*「総理、あなたはいま昇り龍だからいいが、下り龍になったら相手を見て物を言わんと足をすくわれますよ」 - 後藤田の前で「警察なんてチョロイ」と口を滑らせた田中角栄に対して<ref name=":3" />。
 
==== 中曽根政権 ====
 
*「修繕して担いだらどうだ。ダメになったら捨てたらいい」 - 総裁選で中曽根を推すことについて「あんなボロみこし担げない」といった金丸信に対して<ref>{{Cite web|title=時の在りか:長期政権を作ったふたり|url=https://mainichi.jp/articles/20191207/ddm/005/070/008000c|website=毎日新聞|accessdate=2019-12-18|author=伊藤智永|date=2019-12-07}}</ref>。
*「写真週刊誌の取材の行き過ぎもあり、'''ビート君'''の気持ちはよくわかる。かといって直接行動に及ぶのは許されることではない」 - 官房長官当時に発生した[[ビートたけし]]による[[フライデー襲撃事件]]について。たけしの暴力行為を批判しつつ[[写真週刊誌]]の姿勢を牽制した<ref>{{Cite news|title=事件から30年 「フライデー事件」が問いかけるもの(てれびのスキマ) - Yahoo!ニュース|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/tvnosukima/20161209-00065267/|accessdate=2018-04-05|language=ja-JP|work=Yahoo!ニュース 個人}}</ref>。
 
*「どんな立派な堤防でもアリが穴を開けたら、そこから水がちょろちょろ出て、いずれ堤全体が崩れることになる。」 - [[自衛隊ペルシャ湾派遣]]を牽制して<ref>{{Cite book|last=英治|first=大下|title=内閣官房長官秘録|url=https://www.worldcat.org/oclc/893833852|date=2014|publisher=Īsutopuresu|isbn=9784781650371|location=Tōkyō|last2=大下英治.|oclc=893833852}}</ref>。
==== その他 ====
*「江田君、死刑判決を下すのは司法だ。だが、辛い執行を行うのはわれわれ法務省だ。死刑判決を下すのであるならば、君ら裁判所が執行すればいい」 - 法務大臣時代、死刑廃止を申し入れてきた[[裁判官]]出身の[[江田五月]]に対し<ref name=":0">{{Cite book|author=堀川惠子|title=教誨師|date=|year=2014|accessdate=|publisher=講談社|isbn=4062187418|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。
*「No.2はNo.1の地位を狙ってはいかん。[[周恩来]]を見い。不倒翁といわれた周恩来は、決してNo.1になろうとせず、No.2に徹したから、[[毛沢東]]は安心してやれたし、[[林彪]]や[[鄧小平]]の競争心からの敵意も招かなかった。ワシはNo.2に徹する。名参謀総長じゃよ。トップを狙う野心がないから、中途入社の自民党でもワシのいる場所があったのだ」 - 竹下政権の後任として自民党総裁選に出馬するよう求めた内閣五室長に対して{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=78-79}}。
*「どんな立派な堤防でもアリが穴を開けたら、そこから水がちょろちょろ出て、いずれ堤全体が崩れることになる。」 - [[自衛隊ペルシャ湾派遣]]を牽制して<ref>{{Cite book|last=英治|first=大下|title=内閣官房長官秘録|url=https://www.worldcat.org/oclc/893833852|date=2014|publisher=Īsutopuresu|isbn=9784781650371|location=Tōkyō|last2=大下英治.|oclc=893833852}}</ref>。後藤田は自衛隊の海外派遣を牽制する際、しばしばこの「蟻の一穴」論を用いた。
* 「全公務員が楽しみにしている給料を値切るなんて悪い奴は地獄へ行け」 - 人事院勧告を受けた公務員給与改善を財政的事情で削減する案を説明に来た的場順三に対して。その後、折衝の結果バランスが取れた実施案に修正された{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|pp=100-101}}。
*「江田君、死刑判決を下すのは司法だ。だが、辛い執行を行うのはわれわれ法務省だ。死刑判決を下すのであるならば、君ら裁判所が執行すればいい」 - 法務大臣時代、死刑廃止を申し入れてきた[[裁判官]]出身の[[江田五月]]に対し<ref name=":0">{{Cite book|author=堀川惠子|title=教誨師|date=|year=2014|accessdate=|publisher=講談社|isbn=4062187418}}</ref>。
* 「[[団塊の世代]]か。君らには悩まされた。君らは、数が多く、死ぬまで競い合い、バイタリティも能力もある。しかし、壊すことは得意だが、つくることは下手」 - [[細川興一]]が昭和22年生まれとわかり{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=109}}。
*「君たち一生懸命、勉強しろよ。それから誰にも負けない専門分野を持って一日三十分でもいいから本を読みなさい。もう一点。新聞社の名刺があるから、誰でも相手してくれることを忘れてはいかん。錯覚してはいかんよ」 - 取材に来る記者らに対し{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=236}}。
* 「自分を含め政治家は、いつも(刑務所の)塀の上を歩いている。常に十分に注意しないと内側に落ちる」{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=292}}
 
==== 引退後 ====
 
*「実際に国民の安全を守る責任を負う側としては可能な限り幅広く、強力、かつテロリスト側の様々な手法に弾力的に対処・運用できる法律が望ましいだろうが、それは同時に社会を暗くしやせんか。(中略)[[アメリカ同時多発テロ事件|アメリカ同時多発テロ]]のような大きな事件があった直後は国民は怒りと恐怖から強いリーダーシップを求め、何でもありの強権的措置を容認し、不自由さをも甘受する。しかしこれは長続きしない。事態が膠着し思うような結果が出ないとき、国民がどこまで我慢するか。リーダーは国民のテンションが高いときには逆に冷静に、抑制的になるように努めることだ。日本のような国でも権力がその気になって突っ走ると、これを止めるのは容易なことではない。権力が暴走するとき、法は権力に都合よく運用される。なればこそ、今ある法律や仕組みの中に権力を抑制するための先人の工夫が入っている。世の中の動きにつれ、方や制度が変わるのは当然だが、時として十分な議論もなく安易に方が改変され運用解釈が変えられていくのをみると、心配だ」{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=222}}
*「菅だけは絶対に総理にしてはいかん。」「あれは運動家だから統治ということはわからない。あれを総理にしたら日本は滅びるで」 - 厚生大臣としてマスコミで持ち上げられていた[[菅直人]]について。しかし、[[自社さ]]政権時の発言として連立政権への影響を考えて、御厨貴がオーラルヒストリーした際にオフレコだとして当時は削除させた<ref>「知の格闘: 掟破りの政治学講義 」p61,御厨貴 ,ちくま新書 ,2014年1月7日</ref>。
**なお、当の菅は後に総理大臣となって官房長官に[[仙谷由人]](菅同様に[[全学共闘会議|全共闘運動]]に参加し、ピース缶爆弾事件の弁護人を務めた過去があり、後藤田と同じ徳島県出身でもある)を起用した際、「よく中曽根政権の後藤田先生の名前が出るが、そうした力を持つ方でなければならない」と後藤田を引き合いに出し、仙谷も「官房長官の中では戦後最も実績を挙げた」と後藤田について言及している<ref>{{Cite web|url=https://www.sankei.com/premium/news/150830/prm1508300031-n1.html|title=【番頭の時代】第4部・永田町のキーマン(3) 「後藤田五訓」官僚の省益戒め 後藤田正晴元官房長官|accessdate=2018-12-06|last=INC|first=SANKEI DIGITAL|date=2015-08-30|website=産経ニュース|publisher=|language=ja}}</ref>。
*「『行政改革』『構造改革』等と言葉が大きくなりすぎて、国家すなわち中央省庁に有為な人材が集まらなくなった時、将来どうなるかが心配だ」 - 晩年、「今は役人暗黒時代で、役人イジメがひどすぎる」と嘆いた[[渡辺秀央]]に対して{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=69}}。
 
=== 評価 ===
* [[中曽根康弘]]「官僚出身でありながら、頑なに硬直せず、酸いも甘いも噛み分け、平生は温顔の政治家だった。然し、万般に亘り自己の定見を堅持し、時期を選んで国民に訴えておられた。その中身は公式や既成の所論に惑わされず、庶民、謂わば日本国民全般の世論を洞察し、また、日本のアジア諸国に対する、長期的将来的立場も洞察した上での緻密な思想の上での柔軟的発言であった。前歴が警察からの出身であるので、日本の一般大衆の心理への洞察と同時に、戦争の経験を経て日本の平和国家としての立場を些かも崩さずに、ややもすれば左右に傾こうとする日本の政治軌道を中央ラインに維持させることに懸命の努力を払っていたと思う{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=24}}」
* [[筑紫哲也]]「あくまでも大変なエリートでありますから、国家ということを軸に考えました。しかし、その国家の中身がかなり後藤田さん的であった。つまり、国家のために国民が犠牲になるとか、そういう形の国家の捉え方を非常に嫌った、国民があっての国なんだということをたえず考えた。旧内務官僚というのは大変戦前いろいろ悪評が高いわけですけれども、一方で主体的には自分たちが民を護るんだという『護民官』の意識が非常に強かったのだろうとわたしは思っております{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=46}}」
*[[ジェラルド・カーティス]]「私の後藤田氏のイメージを一つの言葉で言うならば、その言葉は『権力者』である。優れた政治家の特徴は、目的を実現するために権力を使いこなすだけではない。同時に重要なのは[[国家権力]]の怖さを知り、権力を慎重に扱うことである。彼は、公人としての長い人生経験から、政治指導者が自分の力を買いかぶって権力を乱用したり、間違った目的のために権力を使用することがどれほど危険であるかということを身にしみるほどわかっていたと思う。また、後藤田氏のいろんな発言を振り返ってみると、民主主義国においては国民の支持を得たうえではじめて正当な権力を発揮できるということを固く信じていたとわかる{{sfn|『私の後藤田正晴』編纂委員会|2007|p=56}}」
 
==栄典==
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== 関連書籍 ==
* {{Citation|和書|author=[[保阪正康]]|title=後藤田正晴 異色官僚政治家の軌跡』(文藝春秋、|year=1993年、|publisher=[[文文庫]]、1998年)|isbn=978-4902127157|edition=}}
** 改訂版:{{Citation|和書|author=[[保阪正康]]|title=後藤田正晴』(|year=2009|publisher=[[中公文庫]](新編)、2009年、ちくま文庫(定本)、2017年) |isbn=978-4902127157|edition=}}
* {{Citation|和書|author=[[佐々淳行]]|title=わが上司後藤田正晴 決断するペシミスト』(|year=2000|publisher=[[文藝春秋]]、2000年、文春文庫、2002年) ISBN 4167560097|isbn=978-4163561806|edition=}}
* {{Citation|和書|author=[[佐々淳行]]|title=後藤田正晴と十二人の総理たち もう鳴らないゴット・フォン』(|year=2006|publisher=[[文藝春秋、2006年、文春文庫、2008年) ISBN 4167560151。続編]]|isbn=978-4163681207|edition=}}
* {{Citation|和書|author=[[津守滋]]|title=後藤田正晴の遺訓 国と国民を思い続けた官房長官』(|year=2007|publisher=[[ランダムハウス講談社]]、2007年)|isbn=4270001941|edition=}}
*:* 著者は外務省出身で官房長官時代の秘書官。ISBN 4270001941
* {{Citation|和書|title=私の後藤田正晴|year=2007|publisher=講談社|isbn=4062139340|editor=『私の後藤田正晴』(同編纂委員会編、講談社、[[2007年]]9月)。[[三回忌]]に刊行}}
*:[[政界]]官界*後藤田と縁が深かった報道関係者からが中心となり、[[岡本行夫三回忌]]となる2007年9月に刊行。[[ジェラルド・カーティス政界]]・[[大宅映子]]等官界関係者をはじめ、関りのあった様々な立場の著名人三十名が執筆している。ISBN 4062139340
* {{Citation|和書|author=[[御厨貴]]|title=後藤田正晴と矢口洪一の統率力』(|year=2010|publisher=[[朝日新聞出版]]、2010年) |isbn=978-4022507099|edition=}}
**改題:{{Citation|和書|author=[[御厨貴]]|title=後藤田正晴と[[矢口洪一]] 戦後を作った警察・司法官僚』(|year=2016|publisher=[[ちくま文庫]]、2016年)。ISBN |isbn=4480433775|edition=}}
 
== 演じた俳優 ==
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{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
 
== 関連項目 ==
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{{DEFAULTSORT:ことうた まさはる}}
[[Category:後藤田正晴|*]]
[[Category:日本昭和時代戦後の閣僚経験者]]
[[Category:平成時代の閣僚]]
[[Category:日本の法務大臣]]
[[Category:日本の自治大臣]]
[[Category:総務庁長官]]
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[[Category:1914年生]]
[[Category:2005年没]]
[[Category:日本の法務大臣]]