後藤田 正晴(ごとうだ まさはる、1914年8月9日 - 2005年9月19日)は、日本の内務建設警察防衛自治官僚、政治家。官僚機構の頂点に立った後、政界に転身し内閣官房長官を長らく務め、「カミソリ後藤田」、「日本のアンドロポフ」、「日本のジョゼフ・フーシェ」などの異名を取った。

後藤田 正晴
ごとうだ まさはる
生年月日 1914年8月9日
出生地 日本の旗 日本 徳島県吉野川市
没年月日 (2005-09-19) 2005年9月19日(91歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都文京区(順天堂大学医学部附属順天堂医院)[1]
出身校 東京帝国大学法学部政治学科卒業
所属政党 自由民主党
称号 陸軍主計大尉
正三位
勲一等旭日大綬章
法学士
親族 父・後藤田増三郎
甥・井上普方
大甥・後藤田正純

内閣 宮澤改造内閣
在任期間 1993年4月8日 - 1993年8月9日

日本の旗 第55代 法務大臣
内閣 宮澤改造内閣
在任期間 1992年12月12日 - 1993年8月9日

日本の旗 第47-48代 内閣官房長官
内閣 第2次中曽根第2次改造内閣
第3次中曽根内閣
在任期間 1985年12月28日 - 1987年11月6日

内閣 第2次中曽根内閣
第2次中曽根第1次改造内閣
在任期間 1984年7月1日 - 1985年12月28日

日本の旗 第45代 内閣官房長官
内閣 第1次中曽根内閣
在任期間 1982年11月27日 - 1983年12月27日

その他の職歴
日本の旗 第47代 行政管理庁長官
第2次中曽根内閣

(1983年12月27日 - 1984年6月30日
日本の旗 第27代 自治大臣
第37代 国家公安委員会委員長
第42代 北海道開発庁長官
第2次大平内閣

1979年11月9日 - 1980年7月17日
日本の旗 衆議院議員
1976年12月10日 - 1996年9月27日
日本の旗 第6代 警察庁長官
1969年8月12日 - 1972年6月24日
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警察庁長官(第6代)、衆議院議員(7期・徳島県全県区)、自治大臣第27代)、国家公安委員会委員長第37代)、北海道開発庁長官(第42代)、内閣官房長官(第454748代)、行政管理庁長官(第47代)、総務庁長官(初代)、法務大臣第55代)、副総理宮澤改造内閣)などを歴任した。

来歴編集

生い立ち編集

1914年8月9日、徳島県麻植郡東山村(現在の吉野川市美郷)に後藤田増三郎とその妻ひでの子として生まれる。後藤田家は忌部氏の流れを汲む郷士の末裔とされており[注釈 1]江戸時代には庄屋を務めた家柄である。なお、後藤田は末っ子で、上に8人の兄姉いたが、成人できたのは後藤田含めて6人であった[3][4]

父・増三郎は政治好きで、自由党の壮士として酒造業で得た資金を政治活動や地元の教育の普及に使い、徳島県議会議員や麻植郡会議長などを務めた地元の名士であった[3]

しかし、1922年肝臓病で父を亡くす。徳島市内の病院で父の亡骸を引き取って戻ってきた母を峠で迎えた後藤田に、普段は気丈なひでは「とうとうお前を父無し子にしてしまった」と涙を流した。その母も1923年に他界。のちに姉・好子の婚家で徳島有数の素封家であった井上家に預けられた。長兄が遺産を処分しながら弟たちの学費を工面してくれたため金には困らなかったが、早くに両親を亡くした経験はその後の後藤田の人格形成に大きな影響を与える[3][5]

富岡中学を経て、1932年旧制水戸高等学校(乙類)に入学[5]1935年東京帝国大学法学部法律学科に入学(1学期修了後に政治学科へ転科)した[5]

在学中の後藤田は、南満州鉄道(満鉄)に入社して中国大陸に渡ることと高等文官試験を受けて官吏になることが希望であった。しかし1937年の満鉄入社試験では東大卒者と京大卒者それぞれに設けられた入社試験日を間違え、頼み込んで一応面接をしてもらったが不合格。難関の高等文官試験も、一度目の受験では失敗した[6][7]

1938年には高文に8番の席次で無事合格。翌1939年に東京帝大法学部政治学科を卒業[8]

内務省入省・従軍経験編集

帝大卒業後、内務省に入省[8]。入省同期には、同じ徳島出身で後に防衛官僚の事実上トップになる海原治がいる[5]

内務省では、土木局道路課に振出し配属される[5]。このときの直属の課長は灘尾弘吉で、後藤田の教育役となったのは内務事務官の細田徳寿であった[9]1940年1月に細田の招きで富山県警察部労政課長に出向。労務報国会の組織や労働災害の認定などを担当した[5][10][11]

同年3月に陸軍徴兵され、4月に台湾歩兵第二連隊に入営[5]。もともと後藤田は短期現役制度がある海軍を志願していたが不合格とされており、陸軍では高等官への例外扱いがないため二等兵から始めることとなった。そのため、初年には一般の兵士同様に「うぐいすの谷渡り」などの新兵いじめを古参兵から受けた[12]

同年5月に台湾歩兵第一連隊に配属される。甲種幹部候補生に合格したため陸軍経理学校で補給について学ぶ[注釈 2][12]経理部将校候補生として陸軍軍曹を経て翌1941年10月には陸軍主計少尉に任官し[5][14]高砂義勇隊台湾特設労務報国隊の編成に携わった[15]1943年9月に主計中尉に昇進[14]1945年3月には東京に滞在しており、東京大空襲を経験している[16]。同月に徳島商工会議所会頭吉野勢之助の養女・松子と結婚[5][17]

同年8月に終戦を迎え、台北で悲嘆に暮れる日本人と対照的に爆竹を鳴らして喜ぶ台湾人の姿を目の当たりにしてショックを受ける[注釈 3][19]。同日、仲が良かった職業軍人の大尉が後藤田のもとを訪ねてきて、日本の将来などについて論じあった。それが大尉の「別れの挨拶」であったことを後藤田が知るのは、彼が三八式歩兵銃で自殺してしまった後であった[20]。同月、ポツダム進級により主計大尉となる[14]。入営時からは9階級の進級であった[21]

間もなく台湾に進駐してきた陳儀中将が率いる中国国民政府軍によって武装解除され、翌年の1946年4月まで捕虜生活を送った。捕虜といっても苦役はおろか拘束もほとんどなく、盛り場に酒を飲みに行くこともできたという。台湾での日本の統治が割合良好であったこともあり、現地人による日本人に対する報復行為は敗戦後も殆ど見られなかった[注釈 4]基隆港から離台する際、戦中から日本人と台湾人の間に差別をつけずに接していた後藤田に餞別を渡そうと、元部下の現地人が見送りに来てくれた[23][24]

基隆港から田辺港(和歌山県)まで乗せられたリバティ船には、アメリカの工業力をまざまざと感じた。上陸するなり、台湾の軍司令部勤務者であるにもかかわらずシラミが湧いた兵卒と同じ扱いで、米兵から有無を言わさずにDDTを浴びせられ、後藤田は戦に負けたことを改めて実感した[24]

とまれ、戦死の危機を運と機転によって何度も紙一重で切り抜け、後藤田は祖国の地を再び踏むことができた[注釈 5][26]

官僚時代編集

復員後、故郷での静養を経て、内務省に復職[注釈 6]。5月付で神奈川県経済部商政課長となる[5]。ここでは衣料品や炭などの物資配給を担当したが、前任者は「特別配給」を求める在日朝鮮人から乱暴狼藉を受けていた。自分の人生は「昭和20年でいったん終わった」と割り切るとともに公平性を重視していた後藤田はこれを受け付けずにあくまで日本人と平等に分配した。なお、後藤田の後任者は商工省の優秀な人物であったが、籠絡されたために事件となり、退職を余儀なくされている[28][29]。神奈川県知事の内山岩太郎には目をかけられ、吉田茂首相やアメリカ海軍司令部のベントン・W・デッカー司令官への訪問に同伴した[28][29]

10月に本省へ戻され、11月に地方局職員課の事務官となる[5]。また、高橋幹夫の後任として内務省職員組合委員長になる[30]。地方局職員課では局長が郡祐一で課長が小林與三次であり、後藤田は地方公務員法の制定や労働組合との折衝、公職追放令に携わった。追放解除の陳情[注釈 7]にうんざりした後藤田は、公職追放業務の管轄が内務省を離れて内閣の公職適否審査委員会に移管される際に同期の岡田典一に押し付けて内務省に留まった[32]

後藤田は、立法が苦手であったことや既に警視庁で多忙を極めていた海原治からの誘いもあって、「常識さえあればできる」警察への異動希望を岡崎英城丹羽喬四郎に申し出、警視総監である門叶宗雄の計らいにより1947年8月に警視庁保安部経済第二課長となり、物資の統制を担当した[33]。以後警察畑を歩み、同年12月の内務省廃止後は警察庁に所属する警察官僚となった。警視庁警務部警務課長となり、警察人事の刷新に注力している[34]1949年3月、東京警察管区本部刑事部長[5]

1950年8月、警察予備隊本部警務局警備課長兼調査課長となり、警察予備隊の創設や自衛隊の前身となる保安隊の計画策定に従事している[5][35][36]なお“軍隊ではない”という建前の警察予備隊の階級呼称(尉官相当=警察士など)を考案したことは、警察予備隊時代の後藤田の携わった仕事の一つである。[要出典]

1952年(昭和27年)8月、国家地方警察本部警備部警邏交通課長[5]。在職中に二重橋事件が発生し、国会で追求を受けている[37][38]1955年7月、警察庁長官官房会計課長となり、パトカーの整備[注釈 8]や通信・鑑識能力の強化等、警察の科学化を推進した[40][41]。また人事課長であった新井裕とともに自治庁に働きかけて定員数を増やして警察力を強化し、「革命の前夜」の状況であった当時の社会情勢に備えている[42]

1959年3月、自治庁税務局長の小林與三次らの引きで、自治庁長官官房長[5]。同年10月に金丸三郎の後任として同庁税務局長となり、地方自治体の財源について大蔵省と折衝を行うとともに、地方自治と税制のキャリアを積む。このとき固定資産税課税標準を収益還元価格から売買価格に改めている[注釈 9][5][44][45]。また、料飲税の導入にあたっては自民党三役(前尾繁三郎幹事長・田中角栄政調会長・赤城宗徳総務会長)が出してきた修正案を拒絶し、原案を押し通している。このとき後藤田はクビを覚悟し、後藤田の今後を心配した内山岩太郎神奈川県知事から県営の宅地をあてがわれているが、結局クビは繋がった[45]

自治事務次官に就いた小林の慰留を振り切り、1962年5月に警察庁に復帰し長官官房長[5][44]1963年8月に警備局[5]、1965年3月警務局長[5]・同年5月警察庁次長を経て[5]1969年8月警察庁長官に就任[5]。長官時代は、極左暴力集団によるテロや暴動が相次いでおり、よど号ハイジャック事件瀬戸内シージャック事件三島事件三里塚闘争あさま山荘事件山岳ベース事件テルアビブ空港乱射事件など、頻発する重大事件への対処に追われた。1971年9月の第1次坂下門乱入事件のときには、佐藤栄作総理大臣から事前に連絡を受けていたにもかかわらず中核派系沖縄青年らによる皇居闖入を防止できず、責任を取るべく進退伺を出しているが、国家公安委員長中村寅太に慰留されている[46][47]

この頃の部下の一人が、後に初代内閣安全保障室長を務める佐々淳行である。佐々の著作によれば、当時要人テロリズムを警戒して、護衛をつけて欲しいと再三促されたが、「有り難う。でも私は結構」[注釈 10]と、頑なに断り続けたという。なお、後藤田は実際に土田・日石・ピース缶爆弾事件の標的の1人となり、郵便爆弾が途中で暴発したことで難を逃れているが、このとき郵便局員が重傷を負っている。

政界への道のり編集

1972年6月24日に警察庁長官を辞任[46][5]。同年7月、1972年自由民主党総裁選挙に勝利した田中角栄に抜擢され、第1次田中角栄内閣内閣官房副長官(事務)に就任[注釈 11][5]。田中の懐刀として辣腕を揮った。

国土庁の設立が構想された際にその初代長官となるよう田中から打診されたが、後藤田は民間人閣僚となることを潔しとせず断っている[49][50]。後藤田は山下元利からの誘いもあって第33回衆議院議員総選挙に出馬することを希望したが、「この内閣は、君で持っているのだ。選挙戦で官邸がカラになったら、内閣は潰れてしまう」と田中に慰留され、また選挙への準備不足も指定されたことから、機会を逃した[51][46][49]

後藤田は、1974年7月の第10回参議院議員通常選挙に郷里の徳島県から立候補する事を決めた。しかし、徳島県は三木派を率いる三木武夫(当時副総理)のお膝元であり、しかも1人区である徳島県選挙区では三木派の城代家老と言われた久次米健太郎[注釈 12]が現職であったことから、自民党公認を巡って党内が紛糾する[注釈 13]。結局徳島県連の投票により後藤田が公認候補とされたが、三木派の猛反発を招いた。久次米は無所属で立候補したため、県内で保守が真っ二つとなり、選挙戦は阿波戦争(三角代理戦争)と呼ばれる熾烈なものとなった[53][49][54]

当初は財界と党主流派の支援を受けた後藤田が有利と見られていた。しかし、農協などとの強い関係を持つ久次米陣営が猛烈に巻き返して19万6210票を取得したのに対し、後藤田は15万3388票で及ばず、結果は敗北であった。さらに、後藤田が選挙に不慣れであったこともあって、陣営から268人もが徳島県警察によって選挙違反検挙されることとなり、「金権腐敗選挙」と強く非難される憂き目を見た。後藤田はお詫び行脚に奔走するとともに、私財を売り払って逮捕者に弁護士を手配した[49][55]。後に後藤田は、「あの選挙は自分の人生の最大の汚点」と述べている。更に強力な後ろ盾であった田中角栄田中金脈問題をきっかけに首相を辞任し、選挙戦を通じて政敵となった三木が後継総裁に選出され、後藤田にとっては雌伏を余儀なくされる事態が続いた。一方で後藤田は、このときの落選とその後の地道な選挙活動で、自分自身の世の中を見る目に甘さがあることに気づき、自分が変わるきっかけになったと述べている[49][56]

1976年第34回衆議院議員総選挙徳島県全県区(当時)から立候補し、ときの内閣総理大臣である三木武夫との直接対決となった。ロッキード事件に絡めたネガティブ・キャンペーンも受けたが(久保発言[注釈 14]、落選以来後藤田が「徹底して歩け」との田中の指示どおりに地道に続けてきた地元への行脚が功を奏し、6万8990票を獲得して三木に続く2位当選を果たした。一方で、前回の参院選挙で後藤田を支援してくれた秋田大助と少年期に寝食を共にした甥の井上普方(社会党)が、最後の1議席を巡って5位争いをすることとなり、気まずい選挙でもあった(結果は、秋田が落選)[49][59]

この頃、徳島の闇社会のドンである山口組尾崎彰春を評して、「尾崎君は紳士だ」と警察官僚のトップにいた後藤田が発言したとして、世人の眉を顰めさせた。[要出典]

当選後は自民党田中派に所属。選挙の勉強も兼ねて総務局次長として東京都議会選挙の指導を任された[60]

大平政権誕生に貢献編集

初めての国民参加型(一般党員・党友に投票権付与)による予備選挙が導入された1978年自由民主党総裁選挙において、田中派は現職の福田赳夫に挑む大平正芳を支持。西村英一の指示を受け、後藤田は東京都に地盤を持たない大平派に代わって大票田である東京地区での大平票を伸ばす任務を負った[注釈 15]。後藤田は佐々木義武浜野清吾と協力して、区議会議員を動員してリストアップした党員に対して徹底した戸別訪問作戦と電話作戦を展開した。その結果、当初東京地区は現職の福田が圧倒的有利で二位が都議会議員とのつながりを持っている中曽根康弘が二位と言われていたが、結果は大平が4割程度を抑えて二位に躍進した。後藤田の地元徳島地区でも三木派が推す河本敏夫を抑えて大平が一位であった[62][63]。予備選挙の結果は、福田優勢との当初の下馬評を覆して、大平748点、福田638点。福田は「天の声にも変な声もたまにはある」と発言して本選挙を辞退、大平正芳内閣が成立した。

1979年11月、第2次大平内閣自治大臣国家公安委員会委員長北海道開発庁長官として初入閣した[注釈 16][5]。この時当選回数僅か2回であり、年功序列で衆議院当選5回から6回が初入閣対象とされていた当時の政界にあっては、異例の出世であった。1981年11月、鈴木善幸改造内閣で選挙制度調査会会長[5]

中曽根政権の補佐編集

1982年11月、首班指名を受けた中曽根康弘に請われて、第1次中曽根内閣で内閣官房長官に就任し、内外を驚かせた。首相派閥から選出することが慣例である内閣官房長官人事を他派閥から選出したこともあるが、これはロッキード判決に備えた田中角栄に押し切られたものと受け止められ、第一次中曽根内閣は、田中派の閣僚が後藤田も含めた6名に上ったことから「田中曽根内閣」と諷刺されたが、事実は、自派の人材難に悩む一方で内務省の後輩として後藤田の手腕と実力をよく知る中曽根本人の強い求めによるものであった[65]

当初、後藤田は、『今まで“君付け”していた者の下には就けない』(内務省入省年次では1939年入省の後藤田は、1941年入省の中曽根より先輩に当たる)と就任に難色を示していた。しかし、中曽根は、自派の人材難に加え、行政改革の推進と大規模災害等有事に備え、官僚機構の動かし方を熟知し、情報収集能力を持つ後藤田を必要とした[注釈 17]。更に、長期的な視野で見れば田中派に対して中曽根が打ち込んだ楔でもあった。こうして、官房長官となった後藤田は、1982年12月のレフチェンコ事件[注釈 18]や、1983年1月の中川一郎の自殺事件、同年9月のソ連軍による大韓航空機撃墜事件[注釈 19]三原山噴火による住民の全島避難の際に優れた危機管理能力を発揮。1985年8月12日に起きた日本航空123便墜落事故当時は、初代総務庁長官として、首相・中曽根を支えた。

中曽根内閣が最大の課題とした行政改革では、1983年12月に行政管理庁長官[5]、1984年7月に新設された総務庁長官として[5]、3公社民営化などを推進した。第2次中曽根第2次改造内閣第3次中曽根内閣では内閣官房長官に再任され[5]、単なる内閣官房長官を越えた「副総理格」と見なされた。

イラン・イラク戦争終結に当たり、海上保安庁巡視船または海上自衛隊掃海艇ペルシャ湾に派遣する問題が浮上した際には、「私は閣議でサインしない」と猛烈に反対し[69]、中曽根に派遣を断念させ、中曽根に物を言える存在である事を印象付けた。中曽根政権の5年間、一貫して閣僚を務めたのは後藤田だけである。

今日では明らかとなっているが、1987年(昭和62年)の東芝機械ココム違反事件では、通商産業省は半ば黙認し、公訴時効になりかけた外為法違反を、外事課・生活安全課へ圧力をかけて、事件とさせたのは後藤田である。日米の摩擦が激化、中曽根首相が訪米した時期と併せての政治的判断であった。

こうした後藤田の重用は、自民党内、なかんずく出身母体の田中派の議員の激しいねたみを招き、「向日葵」というあだ名を付けられることもあった[70]。のちに首相となった橋本龍太郎は、後藤田よりかなり年下だが、当選回数が自分より遥かに少ない事から、一時期「後藤田クン」と呼び、内務省のエリート官僚である後藤田の誇りを傷つけたという。

これに加え、田中派が膨張策を取り、外様の議員が幅を利かせるようになり、元来田中直系ともいうべき、小沢一郎梶山静六羽田孜渡部恒三ら中堅若手は、世代交代を標榜する竹下登金丸信を担いで創政会を旗揚げした。その中で、田中は脳梗塞で倒れる。後藤田は、田中派が竹下派と二階堂進グループに分かれた際は、どちらにも与せず無派閥となる。

首班への打診を辞退編集

竹下内閣成立後は、暫く表舞台から退くが、リクルート事件の発覚により竹下首相が退陣を表明し、竹下同様の疑惑を抱えた派閥領袖が軒並み逼塞を余儀なくされる中、リクルート事件に無縁だった伊東正義田村元、福田赳夫、河本敏夫坂田道太らの長老と共に後継総裁候補に名前が挙がったが、後藤田は「私は総理にならないほうがいい。第一に警察出身者。二に田中角栄に見出してもらい、三に最初の選挙のとき陣営からたくさんの選挙違反者を出している。この三つでダーティイメージになってしまった。四に中曽根に五年仕えたことで、彼の影が拭えない。五番目は糖尿病だ。私は総大将には向かないのだよ」と述べ、総裁就任を固辞した。結局竹下は外務大臣宇野宗佑に白羽の矢を立てたが、リクルート事件や消費税導入、宇野首相の女性問題もあって短命に終わった。

海部内閣の参謀編集

宇野の後を受けた海部俊樹内閣では、伊東正義を本部長に擁する自民党政治改革推進本部の本部長代理となり、伊東や「ミスター政治改革」の異名をとる羽田孜らと共に小選挙区制導入に執念を燃やした。後藤田の案は後に導入された小選挙区比例代表並立制であったが、実際の案との大きな違いは、1票制であることだった。これは、小選挙区に投じた候補の政党が、そのまま比例区の政党票になるというものである。従って、野党各党が比例票を稼ぐには、共倒れを承知で小選挙区に独自候補を立てる必要があるというものだった。その性質上、野党選挙協力を封じる効果があり、自民党に極めて有利な内容だった。加えて、比例代表区は都道府県別に分割され、県によっては比例区の意味のない定数1となるところもあり、これまた第1党の自民党に極めて有利な内容だった。

この時は結局、小泉純一郎ら自民党内の改革慎重派など、自民党内の反改革勢力によって政治改革法案が廃案に追い込まれ、「(政治)改革に政治生命を賭ける」と明言していた海部が首相続投を断念したために実を結ばなかったが、武村正義北川正恭など三塚派若手を中心とした改革積極派との間に強い信頼関係を築き、1993年に自民党下野の際、後継首班候補として後藤田の名があがる伏線となった。

1990年湾岸戦争が勃発し、アメリカからの自衛隊の多国籍軍参加の要請ないし圧力がかけられたときには一貫して反対姿勢を貫いた。

宮澤内閣の番頭編集

1992年12月に宮澤改造内閣法務大臣に就任[5]第3次中曽根内閣で内閣官房長官を務めて以来、久々の入閣であった。1993年4月、副総理外務大臣渡辺美智雄が病気辞任したため、法相としては異例ながら副総理を兼務し、大物大臣として閣内において存在感を示した。当時すでに高齢であった後藤田の入閣に対し、政策研究の手間を取らせないため、官僚時代から精通していた治安系の官庁のトップである法務大臣として入閣したと見られる。[要出典]

法相在任中は、1989年11月の死刑執行から死刑執行停止状態(モラトリアム)が続いていたことについて「法治国家として望ましくない」との主旨の発言をし、1993年3月に3年4ヶ月ぶりに3人の死刑囚に対する死刑執行命令を発令した[71]。法相在任中に、警察庁長官として事件解決に携わった連合赤軍事件の永田洋子坂口弘の死刑が確定した時期であったことも注目された。また金丸信摘発にあたり、かつて田中の公判検事であった吉永祐介検事総長に起用するという過去の恩讐を越えた人事を行い話題を呼んだ。またカミソリといわれた官僚時代と異なり[注釈 20]、法相就任後は好々爺の雰囲気をかもし出し国民からも親しまれた。

しかし、選挙制度改革をめぐり、かつて政治改革に共に取り組んだ羽田孜らのグループの造反により宮澤内閣不信任決議案が可決される。羽田、小沢一郎らは自民党を離党し、新生党を結党。また、同じく政治改革を推進してきた武村正義鳩山由紀夫らのグループは、内閣不信任案には反対票を投じたものの、羽田らに次いで離党し、新党さきがけを結党した。解散総選挙の結果、自民党は羽田派の集団離党により過半数を割り、三塚博を中心に後藤田をポスト宮澤に推す動きがあったが、新生党の小沢一郎に機先を制され、細川護熙首班の非自民連立政権が成立した。宮澤の後任の自民党総裁には、後藤田が最も寵愛していた河野洋平が就任。後藤田は河野の指南役を務め、自民党の最高実力者となった。

政治家引退後編集

最初の小選挙区制の選挙となった1996年総選挙には、高齢を理由として出馬せず、政治の第一線を退いた。引退する旨を3人の子供に伝えた時、二世議員にならないよう頼んだという[73]。その後も政治改革、行政改革、外交、安全保障問題などで積極的に発言を続けた。

河野洋平を非常に可愛がり、与党の対中外交に影響を与えた。

つくる会」の新しい歴史教科書(扶桑社発行)の採択には、一貫して反対の立場をとった。

イラク戦争における自衛隊派遣に反対した。小泉純一郎内閣に対して「過度のポピュリズムが目立ち、危険だ」と批判した。また、小泉内閣のスローガンでもあった、「官から民へ」について、「利潤を美徳とする民間企業が引き受けられる限度を明示せずに、官から民へは乱暴である」と発言した[注釈 21]。また、小泉政権への牽制役として期待をかけていた野中広務が政界引退を表明したときには、自ら出向いて「日本にとって今が一番重要なときなんだ。恥をかかすことになるけれども『後藤田が止めた』と言って、あと三年頑張ってくれ」と頭を下げた[75]

佐々の著書によると、引退後も後藤田は現職の首相をはじめとする政権中枢に安全保障にかかわる問題や災害対応についてアドバイスを与えていた。また、佐々などかつての部下を総理大臣官邸に送って、処理の補助を行わせていたという[76]

引退後の後藤田は、しばしば右派勢力から「ハト派」「親中派」と目され、身辺での威圧や嫌がらせを受けていた。後藤田は病弱な妻を気遣っていたが、夫人はむしろ「もう遠慮することも失うこともないはず。言いたいことをどんどん言って下さい」と勧めたという[77]

後藤田は自分は保守的な政治家であるとし「自分が左派扱いされるのは、日本が右傾化し過ぎているのではないのか」と反駁した。

政界のご意見番的な立場でTBSの『時事放談』に出演していたこともある。

2005年9月19日午後8時53分、東京都文京区順天堂大学医学部附属順天堂医院肺炎のため死去、91歳だった[1]。遺志により同月21日にその死が明かされた[1]。その経歴に比して、ごく質素な葬儀だったという。

人物編集

思想・政見・政策編集

治安維持編集

学生運動が盛んであった警察庁次長時代、警官を殺しかねないような暴れ方をしていた学生が逮捕されると「お巡りさん、タバコくれませんか」などと態度を一変させるという情報を得た後藤田は、「基本的には革命など起こるわけがない」と確信した。対処にあたる警官には能力がありながらも経済的に進学できなかった若者が多かったのに対し、暴れる学生ほど家庭に恵まれており、精鋭化した暴徒学生は所詮は社会のはぐれ者にしかならないと見抜いたのである[78]

成田空港予定地での第一次代執行直後にヘリコプターで現地を視察した後藤田は、反対派について「ありゃあ蟷螂の斧じゃのう」と言い帰京したという。運輸政務次官として成田空港問題に対処していた佐藤文生は、後藤田は現場を勇気づける意味で言ったのだろうとしながらも、東峰十字路事件が発生した第二次代執行において警察庁の指示で警察の動員数が千葉県警が作成した当初計画より削減されたことについて、この発言が警備計画策定時の警察庁幹部に影響していたという説を紹介している[79]

警備業の黎明期にあった1970年代、特別防衛保障をはじめとする警備会社の不当事案が社会問題化していた。警備業法の制定など規制強化が図られる中、後藤田は警察庁長官として「プライベートポリスの思想、これは我が国においては認めたくないというのが私の基本的な考え方でございます」としながらも、警備会社は「必要悪」であるとの認識を示した[80][81]

後藤田五訓編集

中曽根内閣で創設された内閣官房6室制度発足の場で、内閣官房長官の後藤田が、部下である初代の内閣五室長の的場順三(内閣内政審議室)、国広道彦(内閣外政審議室)、佐々淳行内閣安全保障室)、谷口守正(内閣情報調査室)、宮脇磊介(内閣広報官室)に対して与えた訓示を、「後藤田五訓」という。長年仕え、初代内閣安全保障室長を務めた佐々淳行が自著に記したことで世に明らかとなった。内容は次のとおり。

  1. 出身がどの省庁であれ、省益を忘れ、国益を想え
  2. 悪い、本当の事実を報告せよ
  3. 勇気を以って意見具申せよ
  4. 自分の仕事でないと言うなかれ
  5. 決定が下ったら従い、命令は実行せよ

佐々によれば、この五訓を裏返すと、まさに危機管理最悪の敵の「官僚主義」になるという[82]。本人はこの訓示を忘れていたらしく、佐々のところへ「今、人が来て『後藤田五訓を揮毫してくれ』と言うんだが、後藤田五訓とは何ぞ」と聞きに来て、佐々が説明すると「ワシ、そんな事言うたかな?どうせ君があることないこと吹聴しとるんじゃろう」と佐々が書いたメモを片手に帰っていったという[83]

戦争観・靖国神社に対する見解編集

極東国際軍事裁判を傍聴したことがある。被告人は主に国の指導者がであり、裁判中はきちんとして微動だにしないことが一般的であったが、後藤田が見に行ったときはソ連側の証人の日であり、関東軍特種演習がソ連を敵国として準備するためのものである言質を取るためにA級戦犯として証言をさせられた鈴木貞一が、悔しさで歯ぎしりしている姿を見た。企画院総裁であった頃の鈴木を知る後藤田はもともと良い印象を持っていなかったが、「そんなこと言わなくてもいいじゃないか」と思いつつも気の毒に感じている[84]

中曽根が総理大臣として靖国神社を公式参拝した翌年の1986年8月14日、後藤田は翌日の終戦記念日における首相の参拝有無について以下のような内閣官房長官談話を発表している[85]

「昨年実施した公式参拝は、過去における我が国の行為により多大の苦痛と損害を蒙った近隣諸国の国民の間に、そのような我が国の行為に責任を有するA級戦犯に対して礼拝したのではないかとの批判を生み、ひいては、我が国が様々な機会に表明してきた過般の戦争への反省とその上に立った平和友好への決意に対する誤解と不信さえ生まれるおそれがある」ことなど「諸般の事情を総合的に考慮し、慎重かつ自主的に検討した結果、明8月15日には、内閣総理大臣靖国神社への公式参拝は差し控えることとした」

そのうえで、「公式参拝は制度化されたものではなく、その都度、実施すべきか否かを判断すべきものであるから、今回の措置が、公式参拝自体を否定ないし廃止しようとするものでないことは当然である。政府は引き続き良好な国際関係を維持しつつ、事態の改善のために最大限の努力を傾注するつもりである」「各国務大臣の公式参拝については、各国務大臣において、以上述べた諸点に十分配慮して、適切に判断されるものと考えている」としている。

一方で、内閣総理大臣在任中の小泉純一郎による靖国神社参拝が問題になっていた頃、参拝に反対する自民党議員の勉強会に講師として呼ばれた後藤田は「くだらない負け惜しみは言わない方がいい」と発言している[86]

阪神・淡路大震災への対応編集

阪神・淡路大震災発生翌日に首相官邸を訪ね、「総理、地震は天災だから防ぎようがない、しかしこれからは、まかりまちがうと人災になる。しっかりやってくれ」と村山富市を叱咤激励した[87]

その後、竹下登の要請を受けて阪神・淡路復興委員会の特別顧問に就任[88][89][90]。震災への対応にあたる村山内閣を補佐し、社会党への批判が集まる中、「誰が代わりにやれば出来ると言うんだ?自民党政権だって出来ないよ」と庇った[91]

後藤田は運輸大臣亀井静香神戸港の復旧を最優先にするよう指示したとするが[88]、その一方で復興委員会第1回会合では「焼け太りは認められない」[92]、第2回会合では「計画は物理的、社会的、財政的にぎりぎりの線でやってほしい。それを超すと理想倒れになる」「政府としては個人の損失に直接補償しない建前だ」と発言し[93]、公平性などの観点から国からの支援はインフラの復旧までであり、それ以上の計画については原則地元の責任と資金で行うべきであるとの方針を示した。この「後藤田ドクトリン」によって復興予算が削減されたことが、震災前まではコンテナ取扱量で世界第3位であった神戸港が釜山港に水をあけられて国際競争に敗れた原因であるとする主張がある[94][95][96]

後藤田は後日のインタビューで、当時としては最大級の予算を大蔵省から引き出したとしつつ、復興委員会では都市建設や開発に論議が集中しており、職を失った人たちへの手当て等の生活の復旧についての議論が足りなかったと述べた[88]

政治家引退の時の演説編集

警察庁長官から政界に進出し、内閣官房長官まで務めた後藤田が公職から退く際、演説を行った。その中で後藤田は「私には心残りがある」と語り、その一つは政治改革を掲げつつそれが単なる選挙制度改革で終わってしまったこと、そしてまた一つは、警察官僚として部下に犠牲を強いてしまったことだという。警察庁時代に「のべ600万人の警察官を動員した第二次安保警備で、『殺すなかれ』『極力自制にせよ』と指示した結果、こちら側に1万2000名もの死傷者を出してしまった。いまでも私は、その遺族の方々や、生涯治ることのないハンデキャップを背負った方々に対して、本当に心が重い。これが私の生涯の悔いである」と語っている[97]

後藤田の警察庁時代は学生運動が過激化し、極左過激派によるテロや暴動が頻発していた時期であり、警備などに従事していた警察官に多くの死傷者が出て、後藤田はこれへの対処に追われた。例として、後藤田が警察庁長官であった1971年9月三里塚闘争渦中の成田空港予定地の代執行(第二次代執行)中に起きた東峰十字路事件では、後方警備に従事していた特別機動隊が過激派などの空港反対派の集団によるゲリラ襲撃を受け、機動隊員に火炎瓶が投げ付けられ、火だるまになり、のた打ち回っている所を鉄パイプ角材竹ヤリなどで滅多打ちにされて隊員3名が死亡し、約100名が重軽傷を負った。負傷した若い隊員の中にはあごの骨を砕かれ、全ての歯を失い、全身を100針も縫い、一時重体となった隊員もいた[98]。警察庁時代の後藤田の部下であった佐々淳行は著書の中で、これら悲痛な思い出が、後藤田に引退の際の台詞を言わせたのではないかと語っている[99]

憲法と安全保障編集

警察予備隊本部課長時代、福知山市で水害が生じたときに駐屯地の司令が手続きを踏まずに独断で部隊を出動させる出来事があった。このとき後藤田は「実力をもった部隊の独断専行は絶対、許すべきではない」「こういうときこそ、将来のため、現在において厳しい躾をしておかなくてはならない」と、文民統制徹底の観点から厳しい姿勢で臨んでいる[注釈 22][101]

後年は安全保障や憲法の問題に関してはハト派寄りの発言が多いことで知られたが、憲法については「国のためにあるのであって、憲法のために国があるのではない」として野党や進歩的文化人と異なる見解を示している[69]

また、憲法第9条について問われた時、「いまのような国会答弁だと、自衛隊が認知されたような、されんような、そんな可哀想な状態で、命を捨てる仕事がどこにありますか、将来、国民が変えたらいいといえば、変えればいい」と自衛隊への理解や憲法改正の容認を示し[78]、「書きすぎの感がある」「賞味期限がきているのではないか」とも述べていた[102]。後藤田自身は1項については保持し、2項については交戦権を認めたうえで「領域外での武力行使は行わない」と明記すべきとの考えであった[102][103]。すなわち、独立・自存のための自衛権は憲法以前の自然権としていずれの国でも認められるものであり、最低限の武力装置を備えておくのは当然であるが、海外派兵に関するあらゆる方便を排除するために海外での武力行使禁止を明示すべきであるというのが後藤田の基本的考えであった[104]。統合幕僚長であった栗栖弘臣による「超法規発言」にも、「やむを得ざる栗栖君の選択だろうと思います」と述べている[105]。晩年は社会の右傾化をより憂慮していたため、意図的にこれらの見解について発言することを控えていた[103]

日本国憲法そのものについては「生まれは決して良いとは言えない」「本来は占領終了直後に日本人の手によってつくり直すべき筋合いのものであった」としながらも、「人類が将来向かっていくべき理想を掲げている」とその意義を認めている[106]

冷戦終結後は米軍への基地供与には消極的であり、日米安保条約を平和友好条約に変換すべきとの考えも持っていたが[107][108]普天間基地移設問題に関して岡本行夫から辺野古移設について説明を受けたときには否定も肯定もしなかった[109]

また、日本の情報機関については他国に比べて極めて貧弱であり強化すべきであるが、情報の収集・防衛に特化させ謀略は行うべきでないとの考えであった[110]

経済政策編集

「土地の私有権はそりゃあ大事だろう。だがそのうえに胡座をかいていていいのか。社会生活や国民経済にプラスに働くように、土地の私有権と言うものを使っていかなければいかないのではないか。私有権ばかりを重視していては国民生活はどうなるのか」[78]公共の福祉財産権のバランスを取るべきとの認識を示すとともに、「政府の経済政策の基本原則は、国民が自分の持ち家を持って、家族が一家団欒で生活できるようにすることだが、こんなに不動産が上がったら、それが不可能になるだろう」と地価の上昇とそれを煽る銀行の姿勢に懸念を表明し、官房長官として銀行局長に指示を出したのがきっかけで、住宅金融専門会社ができた[111]

「競争社会にしないと世界的な競争に耐えられないということはわかるんだけれども、競争社会の中で落ちていく人のことをどうするんだということをぜひ考えてもらいたい」と述べ、格差社会に対する警鐘を鳴らしている[112]

中国との関係編集

もともとは過去の軍歴から台湾との接点の方が多かったが、1977年に日中友好国会議員団(山下元利団長)の一員として訪中して見聞を広めた。同年10月に二階堂進大村襄治とともに再度訪中し、覇権条項などをめぐり日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約(日中平和友好条約締結)の下交渉を行っている[113][114]

内閣官房長官在任中の中曽根政権時代の日中関係は、中曽根の参拝が発端となった靖国神社問題光華寮訴訟に関する摩擦もあったが、当時の中国共産党首脳が比較的親日的であったこともあって総じて良好な状態であった。

1994年に日中友好会館会長[5][115]を務めるなど、後藤田は中華人民共和国に対する太いパイプをもち、後藤田自身も「一つの中国」を支持するなど中華人民共和国に対しては基本的に融和的な姿勢を示していた[注釈 23]

一方で、江沢民による厳しい対日政策が行われていた1999年には、中国の要人を前に「両国関係で最も重要なのは、双方の国民感情が良い方向へ向かうことだ。そのためには、指導者、報道機関などが、つねに友好を育てる方向を向いていなければならない」と苦言を呈することもあった[116]

人間関係編集

昭和天皇編集

昭和天皇にご進講をすることが何度かあり、厳しくも温かい叱責を受けることがあった。夫人が一人で園遊会に出席したときには、昭和天皇自ら「後藤田長官は大変だね」「長官によろしくね」と声がけした。昭和天皇の最初の体調異変と言われる、1987年の誕生日の祝宴での嘔吐にいち早く気づき、夫人を伝令役にして山本悟宮内庁次長に事態を伝えている[117]

後藤田は、昭和天皇が本当に自身で判断したのは終戦の最終決断(御前会議におけるポツダム宣言受諾の聖断)のみで、この決断も本来は総理大臣であった鈴木貫太郎が行うべきものであり、戦争責任については輔弼責任者を追及すべきであったとしている[118]

岸信介編集

官僚時代に自民党幹事長であった岸信介と対面したことがある。そのときには、岸が大変な素晴らしい能力の持ち主であるとともに戦争に対する反省がないという印象を受けた[119]

「岸さんの立場になれば言い分はあるだろうな」としながらも、個人的には元戦犯容疑者が日本の首班になることに対しては疑問があったとしている[119]

佐藤栄作編集

警察庁長官を務めていた時の総理大臣であったが、お互いに好きではなかったとしている[120]

田中角栄編集

1952年の暮れに、後藤田が「第二機動隊構想」の腹案を実現するため、翌年度予算での警察予算の増額を衆院予算委員会のメンバーであった田中に陳情したことから交流が始まった。飲み込みが早い田中は、実現が困難なことには「それは後藤田君、難しいぞ、しかしやってみるわ」と言い「わかった」と言って引き受けた陳情は必ず実現することから、後藤田は信頼を深めていった[121][122][123]。一方、自治庁税務局長在任時の料飲税導入にあたっては、「手を握ろう」と申し入れてきた当時幹事長の田中を「あんたと手を握ったら高いものにつくから僕はいやだ」とはねのけ、田中を怒らせている[124]

通産大臣であった田中に警察庁長官退任の挨拶に行った際には産炭地振興公団(現・都市再生機構)総裁のポストを打診されたが、辞退している[125][126]。なお、長官辞任は過激派対策に疲れて静養しようとしたものであり、次のポストが決まっていたわけではないとしている[127]。第一次田中内閣組閣当日の7月7日の朝に田中から自宅で待機するように言われ、田中の意図を察した後藤田は逃げるべく退官の挨拶回りに出かけた。しかし、自動車電話で呼び出しを受けてしまい、官邸で官房副長官を引き受けるよう田中に言われた後藤田は辞めたいときにはすぐに辞めさせることを条件に了承した[126]

阿波戦争で破れたことは田中へのダメージとなったが、田中は「ワシのことは気にせんでいい」と後藤田を気遣った[51]

政界の頂点に上り詰めた田中に対しても後藤田ははっきりと直言し続け、田中もそれを許容した[122]

後年、「田中派には二階堂(進)、江崎(真澄)、後藤田という3人の首相候補がいる。順番を間違ってはいかんッ」と田中が言ったことがある。これは独自の動きを見せ始めた竹下登を牽制してのことであるが、同時に田中の後藤田に対する信頼の厚さが伺える。田中派の大部分が竹下派になびいた後も、後藤田は組せずに田中への筋を通した[128]

後藤田は「私が政界入りしてすぐ大臣になったり官房長官として長く政府の中枢にいるなど厚遇されたのも、田中さんのお陰である。(中略)そういう意味で私は田中さんに恩義を感じている」と述べ[129]、「その田中さんが退陣、裁判、病気とお気の毒な境涯にあり、何らお返しのできないまま今日に至っている。それが私の負い目である」としている[69]

三木武夫編集

三木のことは、官僚時代は郷里の先輩として敬意を表していた[130]

しかし、泥沼の選挙戦を経た後の後藤田は、少派閥でありバルカン政治家にならざるを得ない三木の立場に理解を示すとともに政界浄化などの立派な主張を一貫して続けていた点などは評価しつつも、三木のことを「率直に言うと信頼はできない人だと思っている」と述べている[130]

福田赳夫編集

1978年自由民主党総裁選挙では現職の福田に挑戦する大平の勝利に貢献したが、政界入り前の次長・長官時代には田中よりも自民党幹事長であった福田のほうが接点が多かった[131][132]。当時の後藤田にとって福田は飄々としていてなおかつ温かみのある話がしやすい人物であり、野沢の福田邸にも時々訪問していた。福田のことは「政治家の中では優れた人だと思うな」と評価している[133]

田中内閣の官房副長官を受命した際、後藤田は首相官邸内のトイレですれ違った福田から「おれが総理でも、君はここに入っていたな」と声をかけられている[131][134]

大平正芳編集

後藤田が内務省地方局に在任していたときの大蔵省給与三課長が大平であり、大平の方が年次が上であったことから、指導を受けていた。最初の参院選の後で後藤田が落選のお詫びに党本部に行ったとき、幹事長であった大平は後藤田を暖かく迎えて激励している。落選後に多くの者から手のひらを返すような態度を取られた後藤田は、「本当にこの人は情誼の厚い人だな」という思いを持った[135][61]

警察での経験から総裁選に勝利した大平に身辺の警戒の仕方を説き、大平もそれを忠実に実行したことが、実際に暴漢に襲われた際の護身に役立っている[136]

中曽根康弘編集

大戦後半に米軍の台湾上陸に備えて防衛体制構築が図られ、後藤田は陸軍の資材獲得の任務についたが、海軍も同様に資材を求めて競争となっていた。海軍でその任務を負っていたのが中曽根でありその辣腕ぶりは陸軍台湾司令部ではよく知られていたが、実は中曽根も当時陸軍の手強さに辟易としていた。戦後、後藤田と懐旧談をしていたときにそのときの海軍主計将校であったことがわかると、中曽根は笑って後藤田と握手を交わした[137][138]

後藤田と中曽根の間で本格的な交流が始まったのはお互いに閣僚となった第一次田中内閣以降のことで、それ以前は海原清平が主催する飲み会で顔を合わせる程度であった[139]

鈴木内閣で行政管理庁長官となった中曽根に後藤田が「行政改革はいまでかつて成功したためしのない仕事だが、本気でやるつもりですか」と尋ねたところ、中曽根が「なんとしてもやりたいし、いまがその時期である」と述べたことから、定期的に2人で会食しながら談義するようになった[140]

中曽根は組閣に際して田中にトイレで「後藤田を貸してもらえませんか?」と官房長官登用を交渉したといわれるが[141]、中曽根自身の回顧では九段の料亭で田中と会食したときに申し入れたとされている[65]。また、後藤田は自由民主党総裁選挙前の1982年10月8日の時点で中曽根から「近く政界に地殻変動がある。その卦が出ている。そのときには後藤田さん、官邸に入って私を助けてもらいたい」と直接打診されたとしている[131]

中曽根内閣での官房長官在任時、中曽根と後藤田は性格が対照的であったものの、真正面から議論したのはイラン・イラク戦争での艦艇派遣についてのみであり、それ以外は細かい指示や打ち合わせが不要なほど政治に関する判断に相違がなかった[142]

村山富市編集

日本社会党委員長に就任した直後の村山富市と会食を持ち、「自衛隊の認否については貴方の党と私の考えは違う。それは仕方がないとしても、武装した自衛隊を海外に出さないということについては一致するのではないか。是非この一線だけはお互いに守っていきたい」と話した。村山が首相となった後も阪神・淡路大震災などの折に触れて後藤田はアドバイスや激励を送り、村山も耳を傾けていた[143]

エピソード編集

  • 英語が嫌いで、入試の英語が易しいというのが水戸高を選んだ理由の一つであった。警察予備隊では米軍顧問団との談判もあったが、一切英語を使わずに通した[144]
  • 水戸高では陸上競技をやったが、あまりものにはならなかった。一方、陸軍で習った剣道は上達が早く、斎村五郎から感心されたほどであった[145]
  • 入省間もない頃、日中戦争が拡大する中で判任官のまま軍隊に送り出されて不利な扱いを受けることを恐れた同期生たちにおだてられ、人事課長であった町村金五に直談判して、「内務省はいったい私どもを判任官のまま兵隊に出すのか、それとも高等官で殺すんですか」と熱弁を奮った。その後、町村は後藤田に会うたび「君ぐらい傍若無人なやつはいない」といい続けたという[6]
  • 政界進出後、警察官僚時代を振り返り社会党民社党は警察庁のマークの対象外だったとし「社会党ほどダラ幹(堕落した幹部)の党はない。民社党は記憶にない。あれは何をしておったのだろう。危ないと思うのは共産党公明党だ。この国への忠誠心がない政党は危ない。共産党は前から徹底的にマークしているからいいが、公明党はちょっと危ない」としていた。[要出典]一方で、晩年に不破哲三から著書を送られたときには丁寧な書状を返しており、そのうち一通は死の一週間前に書かれたものであった[146]
  • 最初の選挙で逮捕者を出して以降、講演会の出納簿を予算性に変え、後藤田が自らチェックを行った。[要出典]
  • 警察庁長官在任中は、政治からの中立性を守るために、業務で面会する政治家は総理大臣・内閣官房長官・国家公安委員長・自民党三役の6役のみであった。最初の参院選で摘発を受けたときに後藤田が「何でおればかりやるんだ」と不満を漏らしたところ「あなたがそう教えたじゃないですか」と言われた[147]
  • 自民党総裁選予備選挙での票の獲得により支持候補の総裁就任に貢献してきた後藤田であるが、予備選挙制度自体には派閥の弊害を全国に拡散するものであるとして疑問を持っていた[148]
  • 官房長官の初仕事である閣僚名簿の発表の際、閣僚の名前を読み間違えることがあった(例えば羽田孜農林水産大臣を「はだしゅう」、鈴木省吾法務大臣を「すずきしょうご」、河野洋平科学技術庁長官を「かわのようへい」等と読み間違えた)。これは、通常であれば最初に決まる官房長官ポストの調整が難航し、後藤田が各閣僚の名前の読みを確認する時間がなかったためである[149]
  • 当時政局の焦点となっていたロッキード事件の公判の前日、内閣官房長官の記者会見の席上で「ときに、裁判のある日はいつでしたかね」と問いかけ、記者たちを唖然とさせた。[要出典]
  • 巨人ファンであり、自ら入場券を購入して一般のファンと一緒に観戦した。明治神宮野球場ファウルボールに危うく当たりかけたことがある。「ジャイアンツは駄目だ。あんなデブばっかりそろえて非常識だ。勝てるわけないじゃろ」と苦言を呈し、スター選手ばかりを集めて若手の育成を怠るジャイアンツの行く末を心配していた。同じ徳島出身の上田利治を参院選出馬に勧誘したことがある[150]
  • 日本ゴルフ協会の会長を務め[151]、地元出身のプロゴルファー尾崎将司の後見役もしている[152]
  • 後藤田の自宅には毎日深夜に右翼から電話がかかってきていた。それを聞いた板東英二が電話番号を変えるよう進言すると、「バカ、そんなことをしたら誰が彼らの話を聞いてやるんだ」と取り合わなかった[153]
  • 東京ディズニーランドの開園準備を行っていた高橋政知加賀見俊夫オリエンタルランド三井不動産京成電鉄の経営陣の相談役であった。オープンに立ち会った後藤田はいたく気に入り、その後もアトラクションのオープンやイベントの開催に立ち会った[154]
  • 部下には「雷」を落としまくっていた後藤田であったが、自然現象のは苦手だった[155]
  • 石附弘西郷隆盛大久保利通のどちらが好きか尋ねられると、「そんなこと決まってるじゃないか。大久保だよ、君。近代日本の基礎は、大半大久保がつくったんだ」と答えた[156]
  • 後藤田の評伝を書いた保阪正康によれば、後藤田は自らを地方局畑出身でありややもすると思想の取締を口にしがちな警保局育ちと異なることを誇りにしている節があった[注釈 24]。評伝の原稿を予めチェックさせるよう求めてきた後藤田に対し、保阪が後藤田の心理描写の部分の提出だけに留めて「それは検閲ですよ」と断ると、後藤田は驚いた顔をしたのち、「そうか」と言って引き下がった。なお、その後後藤田は冒頭の書き出しを修正するよう強く求めてきたが、保阪は応じず、最終的に後藤田も受け入れている[159]
  • 警察官の増員については、警察官の使い方に無駄が多く組織運営の合理化・効率化をするべきとして長らく認めなかったが、1995年にオウム真理教のテロなど警察事象の増加や治安の悪化が深刻になると一転して大増員を承諾し、各省庁への根回しを行った[160][161]
  • 内務官僚出身の後藤田は「内務省を復活させなければ死ぬに死ねない」と言ったとされるが、後藤田本人は否定している。ただし、後藤田の6年後輩で、警察庁でコンビを組んでいた渡部正郎が、前述の発言は後藤田のものだと証言している[162]。なお、後年の後藤田は、内務省が官選の知事を置いて全国の警察網を統括していた戦前の状況と現在とでは異なるとして「そんな考え方(内務省復活)は単なる過去の夢みたいなことで思い出しているだけで、それは間違いだ、時代錯誤だ」と明確に否定的な考えを述べている[163]。また、同じく内務官僚出身だった中曽根は、内閣総理大臣の時に内政省の名で復活を検討したが、後に断念して代わりに総務庁が設置されて後藤田は初代長官となった。

語録編集

官僚時代編集

  • 「われわれの任務は、この安田講堂だけで終わるわけではない。治安というのは、長期的に見て取り組まなければならない。必要なのは、彼らに敵対心だけを与えないことだ。いずれ彼らも善良な市民として育っていくわけだから、そういうしこりをのこすと長い目でみれば不利になる。今、必要なのは彼らの行動を国民から浮き上がらせてしまうことだ。なんと愚かなことをしているのか、と理解してもらうことだ。少々対応が遅れて、警察は何をやっている、と非難されても構わない。われわれは軍隊とは異なるのだから…」 - 東大安田講堂事件に際して[78]
  • 「過激派のテロで、第一線の若い警察官が殉職するのは気の毒であり、対策を急がねばならないが、本当に怖いのは過激派ではなくて、違法な手段で政権奪取を狙う共産党だ」[78]
  • 「こんな紙切れ一枚が何になる、それより部下を殺した犯人をこの長官室まで連れてこい」 - 東峰十字路事件の責任を取ろうとを持参した千葉県警本部長に対して[78][164]
  • 「新聞は警察官が過激派の火炎びんを浴びて殉職すると『死亡』と書く。どうして『殺人』と書かないんだ。あれは誤報だ」[78]
  • 羽仁五郎のように若い過激派をおだてて原稿料を稼ぐやつほど、この世で悪いやつはいない。お金になるといえば、何をやってもいいのか」[78]
  • ゴルフなんて簡単ですよ。ボールを馬鹿な政治家か意地の悪い新聞記者の頭だと思ってひっぱたけばよく飛びますよ」[78]
  • 「君、そんな馬鹿な・・・」 - 山岳ベース事件により連合赤軍のメンバー12人がすでに殺されていたという報告を受けて[165]
  • 「君らに迷惑がかからんように夕刊の締め切り時間も調べておいたんだ」 - 新聞記者らに自身の警察庁長官辞任を伝えたときのことについて[78]

田中政権編集

  • 「本当に俺は世の中を知らないと思った。俺が見てきたのは、せいぜい『制度の中の悪人』だけだった。あいつら言葉巧みで、思わず俺も騙されたんだよ。まあでも、俺を騙せたんだから大したもんだ」 - 最初の選挙での失敗を振り返って[166]
  • 「総理、あなたはいま昇り龍だからいいが、下り龍になったら相手を見て物を言わんと足をすくわれますよ」 - 後藤田の前で「警察なんてチョロイ」と口を滑らせた田中角栄に対して[122]

中曽根政権編集

  • 「修繕して担いだらどうだ。ダメになったら捨てたらいい」 - 総裁選で中曽根を推すことについて「あんなボロみこし担げない」といった金丸信に対して[167]
    • なお、金丸の回顧では、逆に後藤田が田中に対して「なんであんなオンボロみこしをかつぐのか」と問い、田中が「オンボロみこしだからかつぐんだ」と答え、金丸が真意を尋ねると「オンボロみこしならいつでも捨てられるじゃないか」と田中が言い放ったことにされている。さらに、後日金丸が「オンボロみこしをかついだ感想を聞きたいね」とからかうと、後藤田が「それは言ってくれるな」と頭をかいたとしている[168]
  • 「写真週刊誌の取材の行き過ぎもあり、ビート君の気持ちはよくわかる。かといって直接行動に及ぶのは許されることではない」 - 官房長官当時に発生したビートたけしによるフライデー襲撃事件について。たけしの暴力行為を批判しつつ写真週刊誌の姿勢を牽制した[169]

その他編集

  • 「No.2はNo.1の地位を狙ってはいかん。周恩来を見い。不倒翁といわれた周恩来は、決してNo.1になろうとせず、No.2に徹したから、毛沢東は安心してやれたし、林彪鄧小平の競争心からの敵意も招かなかった。ワシはNo.2に徹する。名参謀総長じゃよ。トップを狙う野心がないから、中途入社の自民党でもワシのいる場所があったのだ」 - 竹下政権の後任として自民党総裁選に出馬するよう求めた内閣五室長に対して[170]
  • 「どんな立派な堤防でもアリが穴を開けたら、そこから水がちょろちょろ出て、いずれ堤全体が崩れることになる。」 - 自衛隊ペルシャ湾派遣を牽制して[171]。後藤田は自衛隊の海外派遣を牽制する際、しばしばこの「蟻の一穴」論を用いた。
  • 「全公務員が楽しみにしている給料を値切るなんて悪い奴は地獄へ行け」 - 人事院勧告を受けた公務員給与改善を財政的事情で削減する案を説明に来た的場順三に対して。その後、折衝の結果バランスが取れた実施案に修正された[172]
  • 「江田君、死刑判決を下すのは司法だ。だが、辛い執行を行うのはわれわれ法務省だ。死刑判決を下すのであるならば、君ら裁判所が執行すればいい」 - 法務大臣時代、死刑廃止を申し入れてきた裁判官出身の江田五月に対し[173]
  • 団塊の世代か。君らには悩まされた。君らは、数が多く、死ぬまで競い合い、バイタリティも能力もある。しかし、壊すことは得意だが、つくることは下手」 - 細川興一が昭和22年生まれとわかり[174]
  • 「君たち一生懸命、勉強しろよ。それから誰にも負けない専門分野を持って一日三十分でもいいから本を読みなさい。もう一点。新聞社の名刺があるから、誰でも相手してくれることを忘れてはいかん。錯覚してはいかんよ」 - 取材に来る記者らに対し[175]
  • 「自分を含め政治家は、いつも(刑務所の)塀の上を歩いている。常に十分に注意しないと内側に落ちる[176]
  • 「(シベリヤ抑留について)六十万人もの大軍がそのままの形で捕虜にされて、極寒の地で強制労働に従事し、思想教育を受けたソ連抑留の経験をした人は、おそらく、人間の本性をまざまざと見せつけられたはずです。天皇制主義者としていちばん元気のよかったのが、案外、真っ先にコロッと寝返るんだからね。そして日本に帰ってきたら、天皇島上陸、なんて言う。向こうで洗脳教育を受けてきて、日本という天皇島に上陸して占拠するというんだ。見ちゃおれんがな。それが最近は、また復古派の先頭に立っている。彼らは、一番最初は軍国主義、捕虜になったら共産党、帰ってきたら初めのうちが共産党、そのうち選挙に出て政治家になったら、また大国主義だ[177]
  • 「(連合国軍占領下の日本について)良くぞ革命が起きなかったと思いますね。(中略)なぜ起こらなかったかというと、日本をソ連側に追いやるわけにはいかんという国際政治の力学が働いて、アメリカが革命を防止したと思います。最初は革命をやらせようと思って、刑務所の中から徳球(徳田球一)を以下を引っ張り出してきたんですからね。昭和三十年代の岸内閣の当時も、革命が起きても不思議ではないと思った。(中略)あの時の(60年)安保闘争は過激派の跳ね上がりじゃないんですから。日本の左翼勢力がほとんど一緒になってやっていたんです。なぜ革命が起きなかったのか振り返ってみると、日本の国の生活の向上安定ですね。それは岸内閣に続く池田内閣の『寛容と忍耐』、そして所得倍増計画です。これが成功を収めたということです。そしてだんだん、中間層意識が国民の中に生まれてきた。だからこの生活をこわしたくない。(中略)そのかわり何が起きたかというと、町人国家になっちゃったんだな[178]
  • 「昭和三十年代までの日本を見ると、『自主、自治、自由、独立』と、こういう擁護で表現される国の機関と言うか、これがいちばんあかん。それは乱れてしまってどうにもならない。『大学の自治』、これはあかん。教授がコントロールできない。東大騒動がまさにそうだった。それから『地方自治』、これは勝手なことをやっていた。それから『言論の自由』、これがまたあかん。だいたい戦後、昭和二十年代は、いま言ったような用語で象徴される社会集団にあまりいいものはなかったな。それから『裁判の独立』だな。これが青法協にとことんやられた[179]
  • 「いちばんずるく立ち回っているのはドイツなんですよ。ワイゼッカーなんです。一九三三年から十年余りナチスが政権を握っていた時のドイツはドイツじゃないのかというんだ。ドイツそのものではないか、というんだ。ところがあれはナチスの責任であって、俺たちドイツじゃないよと、ワイゼッカーはいうわけでしょう。そのかわり外国人特有のしつこさで、今でも戦犯を捕まえるな。それで全部ナチスにかぶせて涼しい顔をしている。日本はそれができないわけだよ。だから、いまだに日本は謝っている。ドイツは謝りゃせんがな。やっぱり国柄の問題で、責任の追求ができなかったということだと思うね[180]
  • 「(警察庁)長官までやり、官房副長官までやって、こんなに(国政で)トットといったのは僕一人しかおらん。後はみんな何回も当選しないと駄目だから、年取って駄目になっちゃう。僕は六十二で出たんだから。みなが辞めるころに出た。それでずっと上まで行っちゃった。それを(警察官僚は)見習おうとする。だから僕は役人から聞かれたら、絶対代議士なんていう商売はよせ、つまらん、と言うんだ。でも、みんな僕みたいになれると思っているんだ。行けると思ってる。行けるわけがない。僕は運が良かったんですよ。人の巡り合わせが[37]

引退後編集

  • 「実際に国民の安全を守る責任を負う側としては可能な限り幅広く、強力、かつテロリスト側の様々な手法に弾力的に対処・運用できる法律が望ましいだろうが、それは同時に社会を暗くしやせんか。(中略)アメリカ同時多発テロのような大きな事件があった直後は国民は怒りと恐怖から強いリーダーシップを求め、何でもありの強権的措置を容認し、不自由さをも甘受する。しかしこれは長続きしない。事態が膠着し思うような結果が出ないとき、国民がどこまで我慢するか。リーダーは国民のテンションが高いときには逆に冷静に、抑制的になるように努めることだ。日本のような国でも権力がその気になって突っ走ると、これを止めるのは容易なことではない。権力が暴走するとき、法は権力に都合よく運用される。なればこそ、今ある法律や仕組みの中に権力を抑制するための先人の工夫が入っている。世の中の動きにつれ、方や制度が変わるのは当然だが、時として十分な議論もなく安易に方が改変され運用解釈が変えられていくのをみると、心配だ[181]
  • 「菅だけは絶対に総理にしてはいかん。」「あれは運動家だから統治ということはわからない。あれを総理にしたら日本は滅びるで」 - 厚生大臣としてマスコミで持ち上げられていた菅直人について。しかし、自社さ政権時の発言として連立政権への影響を考えて、御厨貴がオーラルヒストリーした際にオフレコだとして当時は削除させた[182]
    • なお、当の菅は後に総理大臣となって官房長官に仙谷由人(菅同様に全共闘運動に参加し、ピース缶爆弾事件の弁護人を務めた過去があり、後藤田と同じ徳島県出身でもある)を起用した際、「よく中曽根政権の後藤田先生の名前が出るが、そうした力を持つ方でなければならない」と後藤田を引き合いに出し、仙谷も「官房長官の中では戦後最も実績を挙げた」と後藤田について言及している[183]
  • 「『行政改革』『構造改革』等と言葉が大きくなりすぎて、国家すなわち中央省庁に有為な人材が集まらなくなった時、将来どうなるかが心配だ」 - 晩年、「今は役人暗黒時代で、役人イジメがひどすぎる」と嘆いた渡辺秀央に対して[184]

評価編集

  • 中曽根康弘「官僚出身でありながら、頑なに硬直せず、酸いも甘いも噛み分け、平生は温顔の政治家だった。然し、万般に亘り自己の定見を堅持し、時期を選んで国民に訴えておられた。その中身は公式や既成の所論に惑わされず、庶民、謂わば日本国民全般の世論を洞察し、また、日本のアジア諸国に対する、長期的将来的立場も洞察した上での緻密な思想の上での柔軟的発言であった。前歴が警察からの出身であるので、日本の一般大衆の心理への洞察と同時に、戦争の経験を経て日本の平和国家としての立場を些かも崩さずに、ややもすれば左右に傾こうとする日本の政治軌道を中央ラインに維持させることに懸命の努力を払っていたと思う[185]
  • 筑紫哲也「あくまでも大変なエリートでありますから、国家ということを軸に考えました。しかし、その国家の中身がかなり後藤田さん的であった。つまり、国家のために国民が犠牲になるとか、そういう形の国家の捉え方を非常に嫌った、国民があっての国なんだということをたえず考えた。旧内務官僚というのは大変戦前いろいろ悪評が高いわけですけれども、一方で主体的には自分たちが民を護るんだという『護民官』の意識が非常に強かったのだろうとわたしは思っております[186]
  • ジェラルド・カーティス「私の後藤田氏のイメージを一つの言葉で言うならば、その言葉は『権力者』である。優れた政治家の特徴は、目的を実現するために権力を使いこなすだけではない。同時に重要なのは国家権力の怖さを知り、権力を慎重に扱うことである。彼は、公人としての長い人生経験から、政治指導者が自分の力を買いかぶって権力を乱用したり、間違った目的のために権力を使用することがどれほど危険であるかということを身にしみるほどわかっていたと思う。また、後藤田氏のいろんな発言を振り返ってみると、民主主義国においては国民の支持を得たうえではじめて正当な権力を発揮できるということを固く信じていたとわかる[187]

栄典編集

親族編集

著作編集

  • 『政治とは何か』 講談社、1988年。ISBN 4062026511 
  • 『内閣官房長官』 講談社、1989年。ISBN 4062047276 
  • 『支える動かす 私の履歴書日本経済新聞社、1991年。ISBN 978-4532160159 
  • 『政と官』 講談社、1994年。ISBN 4062072262 
  • 『情と理 後藤田正晴回顧録 上』 講談社、1998上。ISBN 4062091135 
    • 文庫版 『情と理 カミソリ参謀回顧録 上』 講談社、2006上。ISBN 406281028X 
  • 『情と理 後藤田正晴回顧録 下』 講談社、1998下。ISBN 4062091143 
    • 文庫版 『情と理 カミソリ参謀回顧録 下』 講談社、2006下。ISBN 4062810298 
  • 『後藤田正晴二十世紀の総括』 生産性出版、1999年。ISBN 4820116614 
内田健三佐々木毅早野透による全7回のインタビュー集
時事放談での発言録集
加藤周一と対談。国正武重によるインタビュー・解説。

関連書籍編集

演じた俳優編集

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 徳島では海浜の住民を海部族と呼び、山地の住民を忌部族と呼ぶ[2]
  2. ^ そこで教えられたのは、「糧は敵に依る」という言葉や物資は戦地で調達するという軍の方針であり、後に後藤田は現地での軍票の乱発などを踏まえて「中国が怒るのは無理ない」と振り返っている[13]
  3. ^ 後藤田は最後となった訪中で清華大学で講演した際にこのエピソードに触れ、「部下の中には台湾人がたくさんいて、とても仲が良く、私は日本人と台湾人ということで何の隔たりも感じていなかった。日本人は、台湾の統治は朝鮮とは違うと思っていた。温和な統治であったし、台湾人も十分協力的であった。しかし一九四五年八月十五日、日本が敗戦した日のことである。日本人が運命に困惑し、悲しみの淵に落とされたその晩、台北の町には爆竹が鳴り響き、人々は手に手を取って踊り、勝った!勝った!と喜びの声を上げていた。これで私は夢から覚めた。武力で異民族を統治するのは所詮無理な話であると完全に悟った。なぜなら彼らの心までは征服できないからだ。これは私のような、台湾人に対して差別的感情がない者で、台湾人のことを信じきっていた日本人を震撼させる現実だった」と語っている[18]
  4. ^ 一方で、日本軍から引き渡しを受けた糧秣を強奪しに来た現地人に対し国民政府軍が発砲する事件が頻発しており、後藤田は後の二・二八事件の遠因ともなっているとの見解を示しながらも、「盗りに来るのが悪い」「中国の軍隊が日本軍から接収したんだから、台湾住民のものではない」と述べている[22]
  5. ^ 台湾に配属されて間もなくチフス罹患の疑いで「あの病棟から生きて出てくるやつはいない」といわれた台南陸軍病院の病棟にチフス患者と一緒に隔離されたが、たまたま後藤田がチフスの熱型を知っていたことや院長とのコネもあって誤診とわかり、中隊に復帰することができた。台湾とフィリピンを船で往復した際には行きも帰りも魚雷攻撃を受け、汽車での移動中に米軍機から機銃掃射を受けたこともある。戦争末期に陸軍省の会議に出席するために東京に行くことになり当初のルートは沖縄経由であったが、敵機の行動半径や行動傾向を踏まえてより危険度が低いとおぼしき大陸経由のルートの便への搭乗を願い出た。果たして当初搭乗する予定であった沖縄経由の連絡便は撃墜され、陸軍に出頭した後藤田は「お前ら生きておったのか」と驚かれた。空襲の際に防空壕に入るのが面倒になり同宿の中佐の誘いを受けて避難をしないでいたところ、避難するはずであった防空壕が直撃弾を受けて中にいた者が死に、結果として生き残ったこともある[25]
  6. ^ 鈴木俊一が後藤田について「軍務勤務はあるが、主計の将校として通常の業務をこなしていただけで、諜報謀略とは無縁だ。六年間、兵役に行っているため、内務省の色もついていない」とGHQに報告したこともあって、公職追放は免れた[27]
  7. ^ 自分は戦争に協力していないとして、別の者に責任を押し付けて逃れようとする者が跡を絶たなかった[31]
  8. ^ これは国家公安委員長であった正力松太郎の指示によるものであった[39]
  9. ^ 後に後藤田は収益還元の評価額のほうが公正で、売買時価にしたのは失敗であったと述べている[43]
  10. ^ 一方、佐々は別の著書[要文献特定詳細情報]ではその際に「いらんッ、君はまちがってるよ。警官が警官守ってどうする、駆逐艦が駆逐艦守ってどうする?警察は国民を守り、駆逐艦は商船守るんだ。ワシを守る余裕があったら犯人をつかまえろ!!」と激しく叱咤されたとも語っている。
  11. ^ 当時の慣例では、後藤田の前職であった警察庁長官の方が格が上であった[48]
  12. ^ 後藤田と久次米は姻戚関係にあたる。ただし血縁関係はない[52]
  13. ^ 後藤田は徳島の選挙区からあえて立候補した理由について、当時の慣習として警察幹部は自分の出身県以外からの立候補をしないこととされていたことや、記名式である全国区で出れば全国の警察官に迷惑を掛けることへの配慮があったことを上げている[49]
  14. ^ 第4次防衛力整備計画策定の際、田中首相・後藤田官房副長官・相沢英之大蔵省主計局長の三者が防衛庁不在で次期対潜哨戒機(PX-L)の国産化を白紙にして輸入に決定したと久保卓也防衛次官が発言。対立候補や警察官僚時代の後藤田に取り締まりを受けていた共産党は、これを利用して選挙区で後藤田の「ロッキード疑惑」を喧伝した。これについて後藤田は防衛庁の業務日誌や自身が保管していた記録から事実無根であると抗弁し、防衛庁は久保を訓戒処分にしてPX-Lの国産化という前提はなかったと調査結果を発表した[57][58]
  15. ^ 前回の参院選での「金権」のイメージを気にしていた後藤田が選挙資金を扱う役目以外にして欲しいと西村英一に申し入れたことから、東京都での票集めを担当した[61]
  16. ^ 第1次大平内閣の時点で入閣の打診があったが、田中派の有力議員から後藤田が初当選であることを理由に辞退を求められて応じたところ、その議員に閣僚ポストを取られている[64]
  17. ^ 中曽根は平沢勝栄に「なぜ後藤田さんのような一言居士で口うるさく、使いにくい、煙たい人物を官房長官に起用したのか」と問われた時、「理由は二つ。一つは行政改革を断行するには、てきぱきと判断できて官僚を抑えられる人物が必要なこと。もう一つは、関東大震災級の震災が起きた場合の危機管理ができる政治は後藤田さん以外にいないと考えたからだ」と答えている[66]
  18. ^ アメリカに亡命したスタニスラフ・レフチェンコが日本国内での工作活動を暴露した事件。事態の重大性を認識した後藤田は日本独自の検証を指示する一方で、無自覚にソ連への情報提供者となった人物に配慮するとともに機密保護法の制定については慎重な立場を示した[67]
  19. ^ この事件への対応で後藤田は自衛隊の機密情報であったソ連軍通信の傍受記録を公表する決断を下すとともに、航路を逸脱して事件を誘発し日本人の犠牲者を出した大韓航空の責任を追及している[68]
  20. ^ 政界進出後の後藤田は「そんなことしたら、票が減る」と"カミソリ"と呼ばれるのを嫌い、「ワシは女性票が取れなくてね」とかつての峻厳なイメージが残っていることを気にかけていた[72]
  21. ^ 後藤田の死後、当時民主党代表前原誠司は国会質問でこの発言を引用した[74]
  22. ^ 災害派遣については、後藤田は国民の理解を得ることを企図して警察予備隊発足当初から構想していた。自衛隊による積極的な奉仕活動についても、民間の職場を奪わないことと市町村の負担軽減及び部隊の練度向上のバランスを図りながら推進した[100]
  23. ^ 清華大学での講演で「台湾人は台湾人であっても、心はそれぞれ福建人、広東人、客家人、であり、それはつまり中国人だということである。台湾人の心は、自分は中国人であり、自分の祖国は中国であり、中国はひとつの国家だということである」と述べている[18]
  24. ^ 後藤田自身は自分のことを「両生動物」と呼んでいた[157]岡崎英城丹羽喬四郎との繋がりがあったことから、「特高系統」と目されることも多かった[158]

出典編集

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関連項目編集


公職
先代:
渡辺美智雄
  国務大臣副総理
1993年
次代:
羽田孜
先代:
田原隆
  法務大臣
第55代:1992年 - 1993年
次代:
三ヶ月章
先代:
宮澤喜一
藤波孝生
  内閣官房長官
第45代:1982年 - 1983年
第47・48代:1985年 - 1987年
次代:
藤波孝生
小渕恵三
先代:
創設
  総務庁長官
初代:1984年 - 1985年
次代:
江崎真澄
先代:
斎藤邦吉
  行政管理庁長官
第43代:1983年 - 1984年
次代:
廃止
先代:
渋谷直蔵
  自治大臣
第27代:1979年 - 1980年
次代:
石破二朗
先代:
渋谷直蔵
  国家公安委員会委員長
第37代:1979年 - 1980年
次代:
石破二朗
先代:
渋谷直蔵
  北海道開発庁長官
第42代:1979年 - 1980年
次代:
原健三郎
官職
先代:
小池欣一
  内閣官房副長官(事務担当)
1972年 - 1973年
次代:
川島廣守
先代:
新井裕
  警察庁長官
第6代:1969年 - 1972年
次代:
高橋幹夫