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| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 = 豊橋鬼祭の赤鬼
| 種類 = [[祭り]]<br/>国の[[重要無形民俗文化財]]{{Sfn|豊橋美術博物館2006|2006|p=3}}<br/>愛知県無形民俗文化財
| 通称 = 鬼祭<br/>(別称)からかい祭{{Sfn|豊橋市史編集委員会伊藤|19751986|p=969162}}
| 正式名称 = 豊橋神明社の鬼祭{{Sfn|豊橋百科事典編集委員会|2006|p=510}}
| 旧名称 =
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| 特記事項 =
}}
'''豊橋鬼祭'''(とよはしおにまつり)は、毎年2月10日から11日にかけて[[愛知県]][[豊橋市]]で開催される祭礼行事。1000年以上の歴史を有する伝統行事であり、1954年3月12日に愛知県指定無形民俗文化財、1980年1月28日に国指定[[重要無形民俗文化財]]に指定{{Sfn|豊橋百科事典編集委員会|2006|p=510}}。国指定重要無形民俗文化財としての登録名称は'''豊橋神明社の鬼祭 '''(とよはししんめいしゃのおにまつり)<ref name="国指定文化財等データベース">{{Cite web |url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/302/87 |title=豊橋神明社の鬼祭 |publisher =国指定文化財等データベース |accessdate=2019-12-14}}</ref>。
 
[[安久美神戸神明社]]の春の例祭で行われる数々の神事の総称である{{Sfn|豊橋百科事典編集委員会|2006|p=510}}{{R|国指定文化財等データベース}}。神事のひとつ、荒神である赤鬼を天狗が退散させ天下を清める様子を具現化した「赤鬼と天狗のからかい」がとくに知られ{{Sfn|豊橋百科事典編集委員会|2006|p=510}}、この一幕をもって「鬼祭」と称する場合もある{{Sfn|豊橋百科事典編集委員会|2006|p=127}}。赤鬼が浄罪として撒き散らすタンキリ飴の飴粉で見物客は全身を真っ白に染められることから、'''天下の奇祭'''と称する{{Sfn|豊橋商工会議所|1940|p=44}}<ref name="豊橋観光コンベンション協会">{{Cite web |url=http://www.honokuni.or.jp/toyohashi/topics/?Mode=detail&code=463 |title=~天下の奇祭「豊橋鬼祭」~ |publisher =豊橋観光コンベンション協会 |accessdate=2019-12-16}}</ref>。
 
2018年(平成30年)、この町内を走り回る赤鬼や天狗の現在位置をスマートフォンで把握できるアプリ「おにどこ」を、[[豊橋技術科学大学]]の2研究室と民間企業が共同開発し、以降毎年の本祭(2月11日)当日のみ運用されている{{R|中日新聞20180210}}。
 
== 概要 ==
[[File:Toyohashi Oni Festival子鬼の門寄り.jpg|thumb|left|門寄りの道中でタンキリ飴と飴粉が撒かれた様子]]
毎年2月10日から11日にかけて奉納される[[安久美神戸神明社]]の春の例祭であり{{R|国指定文化財等データベース}}、少なくとも1,000年以上の歴史を有すると考えられている{{R|中日新聞20181121}}。神事は多岐にわ飽海郷を中心とし周辺地域の五穀豊穣を祈が、主なものに'''神楽'''、'''田楽'''、'''歩射神を主とした祭礼行'''、'''御玉引の占い'''、'''神輿渡御'''の5点があり、田楽の一部である「'''赤鬼を発祥天狗のからかい'''」がとくに知られている{{Sfn|豊橋百科事典編集委員会近藤|20061989|p=12750}}江戸時代初期に田楽を主とする祭礼行事から、賑やかな都市的な祭礼行事へと変化しつつ、古式を崩さず継承されながら神楽と田楽の融合著しい点が特徴とされ{{Sfn|豊橋美術博物館|2013|p=37}}、一連の神事は日本全国でも類例きわめて少なく、「天下の奇祭」と称される{{Sfn|豊橋商工会議所|1940|p=44}}。安久美神戸神明社の氏子各町が専任で祭礼の各役を担い、代々、継承されている{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=8}}。
 
豊橋では「鬼祭が終わるとあたたかくなる」といわれ、春を告げる祭とみなされる{{Sfn|豊橋美術博物館|2013|p=37}}。神事は多岐にわたるが、主なものに'''神楽'''、'''田楽'''、'''歩射神事'''、'''御玉引の占い'''、'''神輿渡御'''の5点があり{{Sfn|豊橋美術博物館|2013|p=37}}、田楽の一部である「赤鬼と天狗のからかい」がとくに知られている{{Sfn|野村|2011|p=154}}{{Sfn|豊橋百科事典編集委員会|2006|p=127}}。祭りのクライマックスで鬼たちが撒くタンキリ飴の粉を浴びると、福がもたらされるとされる<ref name="民俗芸術1"/>。2018年(平成30年)、この町内を走り回る赤鬼や天狗の現在位置をスマートフォンで把握できるアプリ「おにどこ」を、[[豊橋技術科学大学]]の2研究室と民間企業が共同開発し、以降毎年の本祭(2月11日)当日のみ運用されている{{R|中日新聞20180210}}。
 
東三河地方でもっとも賑やかな祭としてしられ{{Sfn|伊藤|1986|p=162}}、吉田神社の祇園祭とともに、三河地方を代表する祭のひとつに数えられる{{Sfn|近藤|1989|p=50}}。[[羽田八幡宮]]の花火、吉田神社の祇園祭とあわせて、「豊橋三大祭」とも位置付けられる{{Sfn|山本|2017|p=4}}。
 
== 歴史 ==
[[File:Akumi Kanbe Shinmeisha Haiden ac (2).jpg|thumb|安久美神戸神明社]]
[[File:Akumi Kanbe Shinmeisha Ise Jingu Yohaijo ac.jpg|thumb|祭の神事の多くが執り行われる儀調場]]
[[File:Toyohashi Oni Festival宵宮,天狗の舞.jpg|thumb|祭礼当日(宵宮)の儀調場。底上げされ、舞台がつくられている。]]
 
[[940年]]([[天慶]]3年)に創建された[[安久美神戸神明社]]の正月行事である{{Sfn|豊橋市史編集委員会|1975|p=969}}。[[平将門の乱]]の鎮圧を祈願した[[伊勢神宮]]への報賽として、朝廷から献上された神領地の安泰と繁栄、厄除けや五穀豊穣を願った神事が起源とされる{{Sfn|豊橋市史編集委員会|1975|p=969}}<ref name="中日新聞20181121">{{Cite news |title=豊橋鬼祭を県外初披露へ |newspaper=中日新聞 |date=2018-11-21 |author= |page=}}</ref>{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=4}}。鬼祭そのものは神社の創建以前に存在したとみられているが、確かな記録は残されておらず、この神事が追儺であるとする伝承は伝わっていない{{Sfn|豊橋美術博物館|2013|p=37}}一方で、正月行事として厄払いのような神事があるため、これが「鬼追い」ではないかとみなされている{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=4}}{{Sfn|豊橋美術博物館|2013|p=37}}。もともとは平安時代後期から鎌倉時代にかけて流行した獅子頭を掲げる「御頭様」を中心に行われた獅子田楽とみられるが{{Sfn|豊橋美術博物館|2013|p=37}}、21世紀初頭には獅子頭は神に昇格し、御船代に納めて安久美神戸神明社の南に面して祀られている<ref>{{Cite book|和書|author=豊橋鬼祭保存会、豊橋鬼祭奉賛会 |title=豊橋鬼祭 |publisher=豊橋商工会議所、豊橋観光コンベンション協会 |date=2019 |page=3 |isbn=}}</ref>。
 
21世紀初頭に引き継がれている鬼と天狗面のような具体的な形は、少なくとも戦国時代には形作られたものとみられ、当時この地域を治めていた[[今川義元]]が寄進したとされる赤鬼と天狗の神面がある<ref name="中日新聞20190521a">「『今川義元寄進の面』 初公開 『豊橋鬼祭』神面新調控え」『中日新聞』2019年5月21日</ref>。[[1590年]](天文19年)の宝殿造営の頃とみられる{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=4}}。1940年(昭和15年)には、安久美神戸神明社の鎮座千年などを祝して、豊橋市出身の実業家であり、旧宮司家の[[司忠]]によって赤鬼と天狗の神面が寄進された<ref name="中日新聞20190521b">「祝改元 鬼祭の面新調へ 豊橋で奉告祭 赤鬼と天狗、80年ぶり」『中日新聞』2019年5月21日</ref>。2019年(令和元年)から2023年(令和5年)には、平成から令和への[[改元]]を祝して、約80年ぶりに神面が新調される{{R|中日新聞20190521b}}。
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'''豊橋鬼祭'''は、町が急速に整備された江戸時代初期に、従来の農村らしい田楽中心の神事が、次第に華やかな「からかい」中心の都市的行事に発展したと推定されている{{Sfn|豊橋市史編集委員会|1975|p=971}}。その一方で、豊作年を祈る特殊神事としての田楽の一部は、奉納舞などに古式を崩さずに継承され、[[平安時代]]から[[鎌倉時代]]にかけて流行した農村田楽と、神楽に表現される日本の建国神話の要素が混在する祭礼として、引き継がれた{{R|中日新聞20181121}}。神事であるため戦時中も途切れることなく催行され{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=7}}、20世紀半ばの時点で、最も盛大な都市型祭礼のひとつとみなされている{{Sfn|松平|1943|p=244}}。1954年3月12日に愛知県指定無形民俗文化財、1980年1月28日に国指定重要無形民俗文化財に指定された{{Sfn|豊橋百科事典編集委員会|2006|p=510}}。
 
'''豊橋鬼祭の日程'''は、古くは旧暦正月14日あるいは15日に行われたが、19世紀中頃には2月15日に移行しており{{Sfn|豊橋商工会議所|1940|p=44}}、1928年(昭和3年)の記録では2月節分の夜に行われている<ref name="民俗芸術1">{{Cite book|和書|author=民俗芸術の会 |title=民俗芸術 第1巻 自昭和三年一月至昭和三年六月 |publisher=国書刊行会 |date=1973 |page=93 |isbn=}}</ref>。1968年(昭和43年)に新たな祝日として[[建国記念の日]]が制定されるに伴い、2月11日を本祭とする{{Sfn|豊橋市史編集委員会|1975|p=969}}{{Sfn|豊橋百科事典編集委員会|2006|p=127}}{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=7}}。江戸時代には、正月15日に管粥神事を、正月21日に湯立神事を行ったとする記録もあるが、仔細は不明である{{Sfn|豊橋市史編集委員会|1975|p=972}}。
 
2月10日・11日に行われる安久美神戸神明社の例祭以外では、愛知県内における公的機関の開催行事などで披露されたことがあった{{R|中日新聞20181121}}。2018年(平成30年)11月24日には、東京都の[[六本木ヒルズ]]で開催された[[豊川用水]]の通水50周年記念イベント「エロティック東三河」の中の一行事として、歴史上初めて愛知県外で「赤鬼と天狗のからかい」が披露された{{R|中日新聞20181121}}。
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}}
氏子各町が専任で祭礼の各役を担うことで、代々、古式を崩さず継承されている。戦火により役が他町に移行した後には、新たに役を設けてそれを継承するなど、古式を尊重しつつ時代による変遷もみられる。氏子の区域は飽海、吉田、中世古、呉服町、曲尺牛町、札木町、鍛冶町、今新町、八町通り<ref group="注">旧くは中八町とされた。</ref>である{{Sfn|西川|1981|p=43}}。
[[File:Toyohashi Onimatsuri Isuzu Kagura in 1953.jpg|thumb|五十鈴神楽(1953年)]]
氏子各町が専任で祭礼の各役を担うことで、代々、古式を崩さず継承されている。戦火により役が他町に移行した後には、新たに役を設けてそれを継承するなど、古式を尊重しつつ時代による変遷もみられる。1963年(昭和38年)に結成された'''豊橋鬼祭奉賛会'''<ref group="注">鬼祭が神事であることを一般に広く知らせるべく結成された。祭当日に厄除飴まき行事を行うほか、伝承の援助など多岐に活動する。</ref>や、1978年(昭和53年)に結成された'''豊橋鬼祭保存会'''<ref group="注">国指定文化財としての古典神事を正確に後世に伝えるための後継者育成や祭礼道具等の整備援助を行う。</ref>を中心に、2019年は豊橋市内の9町が役を担った<ref>{{Cite book|和書|author=豊橋鬼祭保存会、豊橋鬼祭奉賛会 |title=豊橋鬼祭 |publisher=豊橋商工会議所、豊橋観光コンベンション協会 |date=2019 |page=170-175 |isbn=}}</ref>{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=8}}。氏子各町にもそれぞれ神事の保存会があり、所作や装束の継承に努めている{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=8}}。
 
氏子各町が専任で祭礼の各役を担うことで、代々、古式を崩さず継承されている。戦火により役が他町に移行した後には、新たに役を設けてそれを継承するなど、古式を尊重しつつ時代による変遷もみられる。1963年(昭和38年)に結成された'''豊橋鬼祭奉賛会'''<ref group="注">鬼祭が神事であることを一般に広く知らせるべく結成された。祭当日に厄除飴まき行事を行うほか、伝承の援助など多岐に活動する。</ref>や、1978年(昭和53年)に結成された'''豊橋鬼祭保存会'''<ref group="注">国指定文化財としての古典神事を正確に後世に伝えるための後継者育成や祭礼道具等の整備援助を行う。</ref>を中心に、2019年は豊橋市内の9町が役を担った<ref>{{Cite book|和書|author=豊橋鬼祭保存会、豊橋鬼祭奉賛会 |title=豊橋鬼祭 |publisher=豊橋商工会議所、豊橋観光コンベンション協会 |date=2019 |page=170-175 |isbn=}}</ref>{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=8}}。氏子各町にもそれぞれ神事の保存会があり、所作や装束の継承に努めている{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=8}}。
[[安久美神戸神明社]]で奉じられる神事のほとんどは、社殿の前に設けられた'''儀調場'''で行われる{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=8}}{{Sfn|松平|1943|p=246}}。'''儀調場'''は、八角形をした石造りの小上がりの場所でたんに「八角台」とも称するが、かつて[[左義長]](さぎちょう)が行われたとも、[[毬打]]場(ぎっちょうば)であったともいわれ、名の由来は諸説ある{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=8}}。このような儀調場は全国的にみても珍しく、安久美神戸神明社の他数か所のみとされる{{Sfn|松平|1943|p=246}}。
 
[[安久美神戸神明社]]で奉じられる神事のほとんどは、社殿の前に設けられた'''儀調場'''で行われる{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=8}}{{Sfn|松平|1943|p=246}}。'''儀調場'''は、八角形をした石造りの小上がりの場所でたんに「八角台」とも称するが、かつて[[左義長]](さぎちょう)が行われたとも、[[毬打]]場(ぎっちょうば)であったともいわれ、名の由来は諸説ある{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=8}}。このような儀調場は全国的にみても珍しく、安久美神戸神明社の他数か所のみとされる{{Sfn|松平|1943|p=246}}。安久美神戸神明社の神職は、代々、伊勢神宮から下向した際の神宮祭主の裔である司家が世襲する{{Sfn|西川|1981|p=43}}。司家は、磯部、清水、川野の諸家に伴われて飽海に来て、司氏と共に祭に携わった{{Sfn|西川|1981|p=43}}。
 
=== 宵祭(10日)===
[[File:Toyohashi Oni Festival宵宮,赤鬼と天狗のからかい.jpg|thumb|left|宵宮における「赤鬼と天狗のからかい」]]
[[1955年]]([[昭和]]30年)に八町通三丁目に地元住民の要望から'''青鬼'''が生まれ、以降、宵祭において'''岩戸開きの神事'''などを奉納する{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=22}}。
 
午後7時からは'''夜宮祭'''といい、本祭の神役らが各々の神事のリハーサルを、面や饅頭笠をつけずに披露する{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=24}}。
; '''青鬼'''と'''岩戸舞'''
: 八町通三丁目が役を担う{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=22}}。'''青鬼'''は日本神話の[[手力雄命]]をモデルとする鬼で、修祓のため神社に参詣し儀調場で撞木を投げるほか、おかめの面をつけた舞手を[[天宇受賣命]]にみたて、[[日本神話]]の天岩戸開きの神楽舞を奉じる{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|loc=p. 14, p. 22}}。
[[File:Toyohashi Onimatsuri Isuzu Kagura in 1953.jpg|thumb|五十鈴神楽(1953年)]]
; '''五十鈴神楽'''
: 呉服町が役を担う{{Sfn|西川|1981|p=55}}。呉服町は、[[1945年]](昭和20年)頃までは日の出神楽と神楽児神楽を奉納したが、空襲により祭具を焼失したため、[[1951年]](昭和26年)頃まで無役となった{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=23}}。神楽はその間、西新町が継承したが、呉服町においても神楽を望む声があり、[[1952年]](昭和27年)に五十鈴神楽として復興した{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=23}}。翌日の本祭でも奉じられる。
; '''子鬼予習'''
: 札木町が役を担う{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=23}}。[[相撲]]の四股に通じる所作で、国を覆う罪や穢れや災いを大地に封じ、福をもたらす「地踏行事」の予習が演じられる{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=23}}。
 
=== 本祭(11日)===
神役をはじめ諸々の役を担う者は、早朝に安久美神戸神明社に参詣後、'''潔斎食'''とされる[[アサリ]]のむき身ご飯と豆腐の澄まし汁の朝食を摂る{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=28}}。早朝に奉じられる本祭の始まりを告げる神事は、'''日の出神楽'''である{{Sfn|豊橋市史編集委員会|1975|p=969}}。なお、神楽殿は1885年(明治18年)に現在地に遷座した際からの建物で、2010年(平成22年)に国登録[[有形文化財]]となっている。
 
大祭のおもな神事は、神主や祭礼役員らが安久美神戸神明社の神前に控える場に'''黒鬼'''と'''天狗'''が現れ、'''黒鬼'''は拝殿と鳥居の間の東寄りに控える{{Sfn|豊橋市史編集委員会|1975|p=970}}。'''天狗'''の神楽、続いて'''司天師'''<ref group="注">1975年刊行の『豊橋市史』では「四天子」と表記する。</ref>が舞う「チンバ踊り」や'''笹良児'''の「ポンテンザラ」など、中世[[田楽]]の風習を現代に伝える舞が奉じられ、この際に神職は'''神楽歌'''を詠唱する。'''神楽歌'''の節は20世紀初頭には継承が途絶えており{{Sfn|松平|1943|p=252}}、歌詞を口ずさむのみである。歌詞には「春くれば まず花米を ヤウヤア 打ちまきて みな人よしと」や「桑園に蚕種をひろめ ヤウヤンヤア 繭も繭も ヤンヤア」等、鬼祭が農耕や養蚕を祈願する神事であることを物語るくだりがある{{Sfn|豊橋市史編集委員会|1975|p=970}}。
 
カン地とフク地による'''御玉引の年占的神事'''、'''御的神事玉引の年占'''と続きが行われ、'''赤鬼'''が登場して「赤鬼と天狗のからかい」が行われ、に続いて赤鬼や天狗が氏子町内を巡行する'''門寄り'''(かどより)と、'''神輿'''の渡御で締めくくりとなる{{Sfn|豊橋市史編集委員会|1975|p=971}}。
 
祭の主役である赤鬼と天狗をはじめ、諸々の役が氏子町内を駆け巡り、人々に幸を分け与える'''門寄り'''は、深夜に及ぶこともある{{R|豊橋観光コンベンション協会}}。
 
祭の主役である赤鬼と天狗をはじめ、諸々の役が氏子町内を駆け巡り、人々に幸を分け与える'''門寄り'''は、深夜に及ぶこともある{{R|豊橋観光コンベンション協会}}。
[[File:Toyohashi Oni Festival日の出神楽.jpg|thumb|日の出神楽]]
; '''日の出神楽'''
: 本祭行事の最初に男児2名が舞う神楽である{{Sfn|西川|1981|p=55}}。1946年(昭和21年)から'''西新町'''が役を担う{{Sfn|豊橋市広報広聴課西川|20141981|p=2855}}。西新町はこのほか'''御幸神楽'''を担い、小学1年生くらいの男児2名が舞う{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=28}}。御幸神楽は、[[1952年]](昭和27年)に神楽児神楽から改められたものである{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=28}}。
; '''五十鈴神楽'''
: 宵祭と同様に奉じられる。本祭では、午後の諸神事の前に奉じられ、神幸から還幸まで神楽殿で奉奏される神楽である{{Sfn|西川|1981|p=55}}
; '''浦安の舞'''
: 1940年(昭和15年)頃にはじまり、'''曲尺手町'''が役を担う{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=42}}。
; '''子鬼'''
: '''札木町'''が担う{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=30}}。赤鬼と同じ所作で境内を飛び跳ね、地踏み行事を行い、タンキリ飴を撒く{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=30}}。
; '''御的神事'''
[[File:Toyohashi Oni Festival御的神事2.jpg|thumb|御的神事]]
: '''飽海町'''が担う{{Sfn|西川|1981|p=55}}。表に3重の丸、裏に鬼を表す「甲乙ム<ref group="注">「鬼」の字から点(角)を省いた文字。</ref>」と記された的を歩射し、邪気を祓い、神領地の安寧と五穀豊穣を祈願する{{Sfn|豊橋市史編集委員会|1975|p=971}}。古くは正月行事で行われた神事で、カン地とフク地の2人の射手が20歩の距離から的に向かって12本の矢を放つ{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=31}}。[[明治時代]]に[[太陽暦]]に改暦される前の[[太陰暦]]では、3年に1度は閏月があり、1年が13ヶ月だったため、その年は13本の矢を射た{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=31}}。射手はいずれも25歳前後の男子が務め、カン地は黒の染矢を、フク地は白羽の矢を用いる{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=31}}。
; '''御玉引の年占'''
[[File:Toyohashi Onimatsuri 豊橋鬼祭 榎玉.jpg|thumb|年占に用いる榎玉]]
: かつては飽海町が担ったが、1975年(昭和50年)から'''鍛冶町'''が役を担う{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=43}}。榎玉争(ねぎめまあらそい)とも称する[[卜占]]行事である{{Sfn|豊橋市史編集委員会|1975|p=971}}。山地を象徴する「カン地(乾地・高地)」と川辺を象徴する「フク地(福地・低地)」が榎玉を奪い合い、農作業の吉凶を占う神事で、カン地が勝利すれば降雨が多く乾燥地帯が農作に恵まれ、フク地が勝てば降雨は少なく川辺の田が豊作となる{{Sfn|豊橋市史編集委員会|1975|p=971}}。榎玉を漁場に投じれば必ず豊漁になるとの言い伝えがあり、かつては[[渥美半島]]の漁村から競って申し入れがあったが、現在は談合神社に奉納されるようになっている{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=43}}。
: '''榎玉'''は直径約35センチメートルくらいのいびつな球状で、藁のしめ縄を結んでとぐろを巻いた龍のような形を作り、そこに榎木を刺している{{Sfn|松平|1943|p=253}}。毬打<ref group="注">馬上から棒で玉を打ちあうポロに似た競技。</ref>に使われた毬が変化したものという説がある{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=8}}。これを、天狗が払い{{Sfn|伊藤|1986|p=162}}、カン地・フク地の両者が榎の枝で作られた鈎で引き合う{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=43}}。
; '''御的神事'''
: 表に3重の丸、裏に鬼を表す「甲乙ム<ref group="注">「鬼」の字から点(角)を省いた文字。</ref>」と記された的を歩射し、邪気を祓い、神領地の安寧と五穀豊穣を祈願する{{Sfn|豊橋市史編集委員会|1975|p=971}}。古くは正月行事で行われた神事で、カン地とフク地の2人の射手が20歩の距離から的に向かって12本の矢を放つ{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=31}}。[[明治時代]]に[[太陽暦]]に改暦される前の[[太陰暦]]では、3年に1度は閏月があり、1年が13ヶ月だったため、その年は13本の矢を射た{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=31}}。射手はいずれも25歳前後の男子が務め、カン地は黒の染矢を、フク地は白羽の矢を用いる{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=31}}。
; '''赤鬼'''
: '''中世古町'''が役を担う{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=52}}。一説によれば[[素戔嗚尊]]に例えられる荒ぶる神{{Efn2|古くは「山人」の邪気とみなした{{Sfn|豊橋市史編集委員会|1975|p=269}}。}}を象徴する役であり、祭の主役である{{Sfn|豊橋市史編集委員会|1975|p=969}}{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=10}}。神社境内で天狗と3度の立ち立ち合いを奉じ、敗れて境内を出た後は、タンキリ飴を振り撒きながら氏子町内を巡回し{{Sfn|豊橋美術博物館|2013|p=37}}'''御旅所'''である'''談合神社'''に橙を献上する{{Sfn|豊橋市史編集委員会|1975|p=972}}。
; '''黒鬼'''
: '''飽海町'''が役を担う{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=53}}。黒鬼の原形は国津神(国の守り神)ともいわれるが諸説あり、定かではない{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=12}}。1975年刊行の『豊橋市史』では、帰順した山人を象徴し、警護役であると記す{{Sfn|豊橋市史編集委員会|1975|p=969}}。祭では、神霊の依り代とされる大榊をもつ「太玉串」をつねに従えている{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=12}}。この榊は東田神明社の大榊を使用し、祭礼終了後は小坂井の菟足神社に納める風習があった{{Sfn|豊橋市史編集委員会|1975|p=969}}。
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; '''天狗'''
: '''飽海町'''が役を担う{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=53}}。[[猿田彦]]の化身とされ、猿田彦は長身で鼻高の武神であるという伝承から昭和初期までの資料では単に「鼻高」と称された。その姿が天狗を連想させることから、後年「天狗」に転じたものと思われる{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=11}}。祭の最大の見どころである「赤鬼と天狗のからかい」を演じる{{Sfn|豊橋市史編集委員会|1975|p=971}}。ほか、神楽など、天狗の関わる神事は多く、本祭だけでも出番は12時間以上に及ぶ{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=51}}。
[[File:Toyohashi Oni Festivalポンテンザラ.jpg|thumb|司天師と笹良児による「ポンテンザラ」]]
; '''司天師田楽'''
: '''旭町'''および'''旭本町'''が役を担う{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=24}}。古くは馬見塚の人、天保年間の記録では牛川若宮が務め、その後に飽海町、西旭町を経て、旭町・旭本町へ受け継がれた{{Sfn|西川|1981|p=55}}。司天は天文博士を意味し、「日(太陽)」と「月」の2人が担うが、同時に舞うことはない。田楽の古式を伝承する「チンバ踊り」を奉じる。この田楽舞は、片足を高く上げて八方を跳ねるもので、見た目には相撲の四股に似る{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=13}}。赤鬼が退散して、四方八方に平穏が訪れたことを示す{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=13}}。
; '''笹良児'''
: 笹良児(ささらご)は稚児であり、'''曲尺手町'''が役を担う{{Sfn|豊橋市広報広聴課西川|20141981|p=4255}}。鼓と小太鼓、笹良の音色「ポン」「テン」「ザラ」から名付けられた田楽神事「ポンテンザラ」を、司天師の2人とともに4~5歳の男児6人が奉じる{{Sfn|豊橋商工会議所|1940|p=44}}{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=42}}。
[[File:豊橋鬼祭 御頭様 Toyohashi Onimaturi.jpg|thumb|御頭様]]
; '''御神幸'''・'''還幸'''
: 「御頭様」とよばれる獅子頭を御神体とし、談合神社への神輿渡御を行う。'''八町通五丁目'''が担当し、4人で神輿を担ぐ{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|pp=44-45}}。巡行の際、道行きのすべてで御頭様は必ず南を向くように調整しなければならない{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|pp=44-45}}。安久美神戸神明社から談合神社に巡行する往路を「御神幸(ごしんこう)」、帰路を「還幸(かんこう)」という{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|pp=44-45}}。大鉾は鍛冶町が担う{{Sfn|西川|1981|p=55}}。
: 渡御の形は時代により変容しているが、天狗ではなく黒鬼が先導するところに、豊橋鬼祭の特徴がある{{Sfn|松平|1943|p=256}}。御神幸には、赤鬼以外のすべての神役・諸役が同行し、御旅所で神楽を奉じる{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|pp=44-45}}。その後、天狗は別行動となり、氏子町内を巡る{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|pp=44-45}}。還幸を終えて御頭様が神社に戻った後、司天師も氏子町内を巡る{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=46}}。
; '''奉納太鼓'''
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=== 赤鬼と天狗のからかい ===
[[File:Toyohashi Onimatsuri 豊橋鬼祭 赤鬼と天狗のからかい.jpg|thumb|赤鬼と天狗のからかい]]
祭の最大の見せ場である「'''赤鬼と天狗のからかい'''」は、田楽行事の一部に該当する{{Sfn|豊橋市史編集委員会野村|19752011|p=969154}}。'''赤鬼'''の撞木と'''天狗'''の薙刀による立ち合いが3度あり、敗れた'''赤鬼'''はタンキリ飴を撒き散らしながら氏子町内を駆け回る{{Sfn|豊橋百科事典編集委員会|2006|p=127}}。
 
'''赤鬼'''は、'''鬼附'''と呼ばれる付き人を10名ほど引き連れ、鳥居から神社に攻め入り、竹の手すりの手前の「一ノしめ」で待ち受ける'''天狗'''と対峙する{{Sfn|豊橋市史編集委員会|1975|p=971}}。'''天狗'''は、「一ノしめ」の場所で鳥居の方を向いて座し、薙刀の鞘を外してこれを待つが、'''赤鬼'''が来ると薙ぎ払う体をとる。'''赤鬼'''は手にした撞木で'''天狗'''の攻撃をあしらったり{{Sfn|豊橋市史編集委員会|1975|p=971}}、鼻をほじって鼻くそを投げつける{{Sfn|松平|1943|p=250}}、睾丸の毛を投げつけるなどの所作で'''天狗'''を怒らせるなど{{Sfn|松平|1943|p=250}}、作法に則って3度の立ち合いを演じた後、敗北を認め、改心すると、社務所にタンキリ飴を置いて{{Sfn|松平|1943|p=251}}境内から走り去る{{Sfn|豊橋市史編集委員会|1975|p=971}}。赤鬼が二ノ鳥居から出た直後、背後で大量の'''タンキリ飴'''と'''飴粉'''が撒かれる。これは、改心した'''赤鬼の詫び土産'''であるとされる{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=39}}。
 
一方、赤鬼が逃げ去った後の境内では、勝者の'''天狗'''が揚々と薙刀を振り、清めの神事である切り祓いを3度行っている{{Sfn|豊橋百科事典編集委員会|2006|p=127}}。作法は、薙刀を水平に構えて、跳ね上がりながら左・右・左に3回回り、続いて薙刀を左肩に担ぎ、その柄を扇子で叩きながら跳んで左・右・左と3度切り払うものである{{Sfn|豊橋市史編集委員会|1975|p=972}}。その後、司天師と笹良児による「ポンテンザラ」や天狗神楽、御幸神楽など、悪鬼が去って世に平穏が訪れたことを告げる田楽や神楽が奉納される{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=42}}。
 
=== 門寄り ===
[[File:Toyohashi Oni Festival赤鬼の門寄り.jpg|thumb|赤鬼の門寄り道中]]
境内を走り出た赤鬼は、御旅所の談合神社に詣でて戻る道中、氏子各町およそ9キロメートルの道のりを、約9時間で駆け巡る{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=41}}。この道中でも白い粉をたっぷりとつけた'''タンキリ飴'''を通行人に投げつけ、振り撒いていく{{Sfn|豊橋市史編集委員会|1975|p=972}}{{Sfn|松平|1943|p=251}}。なかでも、若い娘や着飾った女性は必ずタンキリ飴の洗礼を受けるという{{Sfn|松平|1943|p=251}}。
 
赤鬼を先頭とする行列は数十人、数十メートルの長さに及び、最後尾を守る役は「後刈(あとがり)」とよばれる{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=40}}。途中に立ち寄る氏子各町に縁の家は150とも200軒以上ともいわれ、赤鬼はタンキリ飴を差し出し、家の主人が丁重に受け取る「御手自(おてずか)」の儀式が行われる。これを、'''門寄り'''という。この際、赤鬼が頭を撫でると厄が落ちるといわれる{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=41}}。
 
'''門寄り'''で立ち寄る先は毎年固定ではないため、順路も毎年異なる{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=41}}。
 
道中、神役の実家の前など、数カ所で'''撞木投げ'''を行う。1度に3回撞木を投げ、武器を投げ捨てる所作で平和が訪れたことを表す{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=48}}。
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'''御旅所'''の'''談合神社'''では、[[橙]]を献上する神事を行い{{Sfn|豊橋市史編集委員会|1975|p=972}}、さらに町内をまわった後、安久美神戸神明社に戻り、鬼面を社に献上する{{Sfn|松平|1943|p=251}}。最後に議長場で、撞木を3度高く投げ上げて神事を終える{{Sfn|松平|1943|p=251}}。
 
赤鬼が去ったあと、'''天狗'''も同様に氏子町内を巡回するが、両者が町内で遭遇することは絶対にない{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=48}}。また、'''子鬼'''も赤鬼とほぼ同じ距離、8キロメートルを約8時間で駆け巡る{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=47}}。'''門寄り'''は深夜まで及び、すべての祭礼行事が終わるのは、日付が変わることもある{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=46}}。
 
このほか、前田町一丁目による「巨木撞木」の練り歩きなどが行われる。前田町一丁目は、豊橋市の区画整理により分かたれるまで、中世古町に属していた{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=49}}。
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== おもな祭礼道具・役 ==
[[File:Toyohashi Oni Festival黒鬼.jpg|thumb|left|黒鬼]]
中世古町の'''赤鬼'''と、飽海町の'''天狗'''と'''黒鬼'''の3役が、祭のなかで「神役」と称され、とくに重要な役割を担う{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=8}}。この鬼と天狗は厄年の男が担うと定められている{{Sfn|伊藤|1986|p=161}}。
 
かつて、豊橋鬼祭の役はすべて飽海町が担った{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=12}}。飽海町は[[安久美神戸神明社]]が現在地に遷座する前の[[吉田城]]内東側に在った時の神領地で、歴史ある地域である。赤鬼役が中世古町に移ったのは、[[1855年]]([[安政]]2年)以前であることはたしかだが、その理由や正確な時期は不詳とされる{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=12}}。
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=== 赤鬼 ===
[[File:Toyohashi Oni Festival赤鬼.jpg|thumb|赤鬼と鬼附(中世古町)]]
赤鬼役は、毎年1月末に'''中世古町'''の町内氏子の中から籤で選ばれる{{R|中日新聞20160626}}。かつては厄年の者が志願して役を担った{{Sfn|松平|1943|p=245}}。赤鬼役に決まった者は、心身を清めるために行動に一定の制限が加えられる<ref name="中日新聞20160626">「わたしが編集長(26)相沢紀衣 鬼祭と『女性のけがれ』」『中日新聞』2016年6月26日</ref>。食事は家族と別々に取り、その食事を作るのも男性か年配の女性に限られ、牛乳をはじめ四本足の獣を食べることを禁じられる{{R|中日新聞20160626}}{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=25}}。閉経前の女性との接触は禁じられ{{R|中日新聞20160626}}、言葉を交わしたり目を合わせるのも禁じられる{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=25}}。宵祭の夜には神社に籠もり、本祭の朝、修祓の後にバケツ3杯の水を頭から被り身を清める。水は、神明社社殿御垣内にある井戸の水を汲み置いたものである{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=12}}。
 
赤鬼の世話役を、'''鬼附'''という。鬼附は、過去に赤鬼を担ったことのある人のみで構成され、鬼附以外の者が鬼にふれることは許されていない{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=12}}。
 
中世古町では、赤鬼に選ばれた者の家は祭当日の接待も請け負い、会所での助っ人集めをはじめ、各町の鬼祭関係者のための軽食や酒約300人分を自己負担で用意する{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=25}}。
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総重量20キログラムにも及ぶ装束は、全身'''赤を基調'''とし、腰に'''虎柄のふんどし'''と、「からかい」で重要な役割をもつ'''白い陰嚢'''、上半身には'''毛鬘'''(けまん)と称する前後2本で24メートルの長さのある細い紐状の袋にサラシを詰めたものを組紐のようにして巻いて身につける{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=10}}。総重量4~5キログラムとみられる長髪は麻でできている{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=10}}。背に、豊穣と子孫繁栄の象徴とされる'''橙の実'''を、'''御幣'''に刺して背負い、手に撞木を持つ。
 
'''撞木'''は、赤鬼の武器であり、縦の長いT字にヘソがついた形の棒状の赤い絹地の上に銀の帯を螺旋巻き付けたもので、この巻きを「だんだら巻き」というが、だんだらの数や巻き方にもきまりがある{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=10}}。古い絵図によると、もともとは先端が二股にわかれた木の枝を用いたと思われるが、1940年(昭和15年)の記録『中世古神事係行事』ではすでに現在の形状のものとなっている{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=9}}。
 
この赤鬼をモデルに、[[豊橋市役所]]が豊橋市製100周年事業「とよはし100祭」(ひゃくさい)のために製作した[[マスコット]]が'''[[トヨッキー]]'''である<ref>{{Cite web |url=http://www.city.toyohashi.lg.jp/6554.htm |title=豊橋市のマスコット「トヨッキー」 |publisher =豊橋市 |accessdate=2019-12-18}}</ref>。トヨッキーは後に豊橋市の公式マスコットとなった。
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=== 黒鬼 ===
天狗と同じく、'''飽海町'''氏子が役を担う。祭礼前の精進潔斎は前日から行い、家族とも食事を別にする{{Sfn|松平|1943|p=246}}。
 
2019年時点で用いられていた黒鬼面の作者は、不明である{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=12}}。材質は張り子(紙)で、他の面と比べると相当古い時代のものとみられる{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=12}}。
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=== 司天師 ===
[[File:Toyohashi Oni Festivalチンバ踊り.jpg|thumb|司天師田楽「チンバ踊り」]]
司天師は[[1946年]](昭和21年)に飽海町から'''旭町'''・'''旭本町'''に引き継がれた芸能で、2人の舞手は毎年1人ずつ交代する{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=13}}。新人が「月」役を担い、翌年に「日(太陽)」の役を担う{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=23}}。司天師の田楽や神楽は、3[[尺]]四方の菰の上で舞うため、祭準備は'''菰'''を編むことから始まるという{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=13}}。田楽「チンバ踊り」では、日役は[[鼓]]を、月役は[[小太鼓]]を打つ。神楽舞では、右手に鈴、左手に御幣の一種である手麻(たぬき)を持つ{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=13}}。
 
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=== 獅子頭 ===
{{Double image aside|right|豊橋鬼祭 御頭様 Toyohashi Onimaturi.jpg|146|Toyohashi Oni Festival御頭様.jpg|170|獅子頭「御頭様」}}
現在の獅子頭は、[[1963年]](昭和38年)に寄進されたものである{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=7}}。製作者は、竹本禹門{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=7}}。獅子田楽が盛んに行われた時代の遺物が神格化されたもので、'''御舟代'''に収まって運ばれる{{Sfn|豊橋市史編集委員会|1975|p=972}}。古くは「御髭迎え」と称し、獅子頭に用いる髭には、毎年新調した{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=9}}。祭礼当日の朝に、朝倉川の橋の畔で馬が通りかかるのを待ち伏せ、3頭目の馬の尾を切って使用した。馬の主には対価として供餅1膳と銭12文が支払われたが、尾を切られた馬の寿命が短くなることを嫌い、この風習を知る農民はこの日は馬を出さないようにした{{Sfn|豊橋市史編集委員会|1975|p=972}}。
 
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=== タンキリ飴 ===
{{Double image aside|right|Toyohashi Oni Festivalタンキリ飴,中世古町2.jpg|150|Toyohashi Oni Festivalタンキリ飴,中世古町.jpg|150|タンキリ飴(中世古町)}}
赤鬼が天狗にはかなわず、自らの罪の償いに穀物で作った白子餅を里人に配ったのがはじまり。また、痰を切る時になめる飴、短く切った飴といういわれがある。豊橋鬼祭では、門寄の先々で配るほか、白粉(うどん粉)と一緒に見物客に振り撒かれる。この飴を食べたり、白粉を浴びると厄除けになり夏病みしないといわれる{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=9}}{{Sfn|平石|1974|p=251}}。
[[File:Toyohashi Oni Festivalタンキリ飴,札木町.jpg|thumb|タンキリ飴(札木町)]]
赤鬼が天狗にはかなわず、自らの罪の償いに穀物で作った白子餅を里人に配ったのがはじまり。また、痰を切る時になめる飴、短く切った飴といういわれがある。豊橋鬼祭では、門寄の先々で配るほか、白粉(うどん粉)と一緒に見物客に振り撒かれる。この飴を食べたり、白粉を浴びると厄除けになり夏病みしないといわれる{{Sfn|豊橋市広報広聴課野村|20142011|p=9154}}{{Sfn|平石|1974|p=251}}。
 
古くは米を練って作る白粉餅が用いられたが、江戸時代には「'''海苔売も 飴拾いけり 鬼祭'''」と詠まれた句があるように、現代の飴撒きの形に変化していたとみられる{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=9}}。[[サツマイモ]]を原料とする飴であったと伝わる。[[太平洋戦争]]中の物資不足の折には、飴無しで、牡蠣殻をすりつぶした粉を撒いた時期もあった{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=9}}。
 
祭で撒かれるタンキリ飴は、各町により飴色や袋の色にちがいがある。中世古町(赤鬼)では飴430キログラムに飴粉1.1トン(約3万6千袋)、札木町(子鬼)では飴360キログラムに飴粉500キログラム(約3万袋)、八町通三丁目(青鬼)では飴250キログラムに飴粉700キログラム(約4万袋)の飴が使用される{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=18}}。また、飽海町(天狗)ではあられが、曲尺手町(笹良児)ではクッキーが、旭町・旭本町(司天師)では落花生が、他町のタンキリ飴同様に撒かれている{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=18}}。
 
=== 御旅所「談合神社」===
[[File:豊橋市 談合神社 Toyohashi-shi Dongou Jinjya.jpg|thumb|left|御旅所となる'''談合神社''']]
御旅所は神輿巡行において神が立ち寄り、休息を取る中継地点である。安久美神戸神明社から約1キロメートル離れた'''談合町'''の'''談合神社'''がこれにあたる{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=44}}。行列を先導する'''黒鬼'''は、道中の所々で立ち止まり、人々の頭をなでてゆく{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=44}}。行列が御旅所に到着すると、小一時間ほど囃子や神楽の奉納が行われる{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=44}}。
 
'''談合神社'''の創建は永正年間(1500年頃)と伝えられるが、定かではない。[[吉田城]]の前身となる今橋城築城の際に、牛久保村から招聘した人々の拠り所、寄り合い所として建てられたのが始まりともされるが、この由来については諸説ある{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=44}}。すくなくとも1646年(正保3年)には、豊橋鬼祭の御旅所として使われており、祭礼当日は、時間をずらしつつ、すべての神役・諸々の役が立ち寄り、神事を行う{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=9}}。
 
氏子は、明治期までは鍛冶町も含めたが、20世紀以降は神社周辺の談合町だけが氏子となった。鬼祭の日を談合神社の大祭日として、祭礼行事に携わる人々の接待を担う{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=44}}。
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== 祭玩具 ==
[[File:Toyohashi Oni Festival破魔矢.jpg|thumb|鬼祭の縁起物のひとつ・破魔矢]]
お面、木製の薙刀、撞木などがなどが売られ、縁起物として購入する人が多く、赤鬼の面が人気がある{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=20}}。
*; '''豊橋張子'''
: 江戸時代の末期に[[吉田藩]]の下級武士が内職で制作していた張子面を発祥とし、[[1937年]](昭和12年)頃に天狗や鬼の面が提供されことをきっかけに、豊橋張子として確立した{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=20}}。瓦粘土で作った型に和紙を張り、[[胡粉]]で下塗りしたうえに絵付けした面で、すべて手作業のためひとつひとつ表情が異なる{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=20}}{{R|中日新聞20170506}}。かつては4~5軒の屋台があり、数人の職人が制作したが、[[2005年]]頃には職人は1人となっていた{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=20}}{{R|中日新聞20170506}}。その最後の職人も[[2015年]]には高齢により引退し、後継者不在のため一時断絶したが、[[2017年]]から市内の郷土玩具愛好家らでつくる「豊橋竹とんぼ会」が技術継承に努めている<ref name="中日新聞20170506">{{Cite news |title=「豊橋張子」最後の職人2年前引退 |newspaper=中日新聞 |date=2017-05-06 |author= |page=11}}</ref>。
*; '''薙刀'''
: 木製の薙刀は、図面は一切残されておらず、各部の寸法のみが引き継がれている{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=20}}。古くは男児に人気の土産物とされた{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|p=20}}。
 
== スマホアプリ「おにどこ」 ==
[[ファイル:おにどこの画面(2019).png|150px|サムネイル|右|鬼や天狗の「門寄り(かどより)」の時間と場所が表示されている様子]]
{{参照方法|section=1|date=2020年1月13日 (月) 09:03 (UTC)}}
「おにどこ」は、毎年2月11日に執り行われる豊橋鬼祭の神事のうち、「赤鬼と天狗のからかい」後、[[タンキリ飴]]を町中に撒き散らしながら、深夜まで練り歩く鬼とそれを追いかける天狗が今どこにいるのか分かる[[モバイルアプリケーション|スマートフォンアプリケーション]]サービスである<ref name="おにどこ">{{Cite web |url=https://o2doko.com |title=おにどこ |publisher =おにどこ実行委員会 |accessdate=2019-12-14}}</ref>{{R|うずらインキュベータ|朝日新聞20190129}}。[[豊橋技術科学大学]]の教員らと地元のIT従事者からなる「おにどこ実行委員」により開発され、2018年2月11日から年に1日間だけのサービスが行われている<ref name="おにどこ"/><ref name="うずらインキュベータ">{{Cite web |url=https://opendatatoyohashi.jp/node/1631 |title=豊橋鬼祭 赤鬼・天狗の移動ルート |publisher =Code for MIKAWA(うずらインキュベータ) |accessdate=2019-12-14}}</ref>{{R|朝日新聞20190129}}。
 
「おにどこ」は、毎年2月11日に執り行われる豊橋鬼祭の神事のうち、「赤鬼と天狗のからかい」後、[[タンキリ飴]]を町中に撒き散らしながら、深夜まで練り歩く鬼とそれを追いかける天狗が今どこにいるのか分かる[[モバイルアプリケーション|スマートフォンアプリケーション]]と[[ウェブアプリケーション]]からなるサービスの総称である<ref name="おにどこ">{{Cite web |url=https://o2doko.com |title=おにどこ |publisher =おにどこ実行委員会 |accessdate=2019-12-14}}</ref>{{R|うずらインキュベータ|朝日新聞20190129}}。[[豊橋技術科学大学]]の教員らと地元のITなどからなる「おにどこ実行委員」により開発され、2018年2月11日から年に1日間だけのサービスが行われている<ref name="おにどこ"/><ref name="うずらインキュベータ">{{Cite web |url=https://opendatatoyohashi.jp/node/1631 |title=豊橋鬼祭 赤鬼・天狗の移動ルート |publisher =Code for MIKAWA(うずらインキュベータ) |accessdate=2019-12-14}}</ref>{{R|朝日新聞20190129}}。
鬼や天狗の介添役が持つGPS端末の情報をもとに、利用者のスマートフォン上の地図の上に鬼と天狗の現在位置を表示する機能に加えて、門寄りと呼ばれる立ち寄り所や経路などの表示にも対応している{{R|おにどこ}}<ref name="朝日新聞20190129">{{Cite news |title=鬼どこ?アプリで見つかる |newspaper=朝日新聞 |date=2019-01-29 |author= |page=25}}</ref>。長時間に渡る催事の進行を把握できることから、2018年2月11日の催事では約2,000人に利用された{{R|朝日新聞20190129}}。
 
鬼や天狗の介添役が持つGPS端末の情報をもとに、利用者のスマートフォン上の地図の上に鬼と天狗の現在位置を表示する機能に加えて、門寄りと呼ばれる立ち寄り所や経路などの表示にも対応している{{R|おにどこ}}<ref name="朝日新聞20190129">{{Cite news |title=鬼どこ?アプリで見つかる |newspaper=朝日新聞 |date=2019-01-29 |author= |page=25}}</ref>。長時間に渡る催事の進行を把握できることから、2018年2月11日の催事では約2,000人に利用された{{R|朝日新聞20190129}}。
<ref name="中日新聞20180210">「赤鬼や天狗の居場所発信 豊橋鬼祭向け専用サイト」『中日新聞』2018年2月10日</ref>
<ref>{{Cite news |title=決戦!赤鬼VS天狗 |newspaper=朝日新聞 |date=2019-02-13 |author= |page=29}}</ref>
 
== 現地情報 ==
祭りのクライマックスとなる「赤鬼と天狗のからかい」は安久美神戸神明社で行われる。また、赤鬼・天狗をはじめとする諸役が氏子町内('''(2019年時点で飽海町''''''旭町''''''旭本町''''''西新町''''''八町通三丁目''''''八町通四丁目''''''八町通五丁目''''''札木町''''''呉服町''''''曲尺手町''''''鍛冶町''''''中世古町''''''談合町''''''前田町一丁目''')を巡り、幸を分け与えて廻る「門寄り(かどより)」なども行われる{{Sfn|豊橋市広報広聴課|2014|loc=p. 8, p. 36, p. 41}}。
* ''';安久美神戸神明社 所在地'''
:  [[愛知県]][[豊橋市]]八町通3-17<ref name="公式豊橋鬼祭">[https://onimatsuri.jimdo.com/%E6%9D%A5%E7%A4%BE%E6%96%B9%E6%B3%95/ 豊橋鬼祭] 安久美神戸神明社</ref>
* ''';安久美神戸神明社へのアクセス'''
:  [[豊橋鉄道]][[豊橋鉄道東田本線|東田本線]]「市役所前」停留所または「[[豊橋公園]]前」停留所下車後徒歩3分<ref name="公式豊橋鬼祭"/>
 
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* 民俗芸術の会『民俗芸術 第1巻 自昭和三年一月至昭和三年六月』国書刊行会、1973年
* {{Cite book |和書 |author=豊橋商工会議所 |title=豊橋商工案内 昭和15年度版 |year=1940 |publisher=豊橋商工会議所 |ref={{SfnRef|豊橋商工会議所|1940}}}}
* {{Cite book |和書 |author=[[松平斉光]] |title=祭 |year=1943 |publisher=日光書院 |ncid=BN09711171 |ref={{SfnRef|松平|1943}}}}
* {{Cite book |和書 |author=平石基次 編伊藤利孝 |title=安久美神戸神明社千年誌三河民俗芸能と祭り |dateyear=1974-101986 |publisher=神明社 |ncid=BN11492412伊藤利孝 |ref={{SfnRef|平石伊藤|19741986}}}}
* {{Cite book |和書 |author=野村明紘 |title=写真アルバム 豊橋・田原の昭和 |year=2011 |publisher=樹林舎 |ref={{SfnRef|野村|2011}}}}
* {{Cite book |和書 |author=近藤正典 |title=写真集豊橋いまむかし |year=1989 |publisher=名古屋郷土出版社 |ref={{SfnRef|近藤|1989}}}}
* {{Cite book |和書 |author=豊橋商工会議所 |title=豊橋商工案内 昭和15年度版 |year=1940 |publisher=豊橋商工会議所 |ref={{SfnRef|豊橋商工会議所|1940}}}}
* {{Cite book |和書 |author=豊橋市美術博物館 |title=市制施行100周年記念 豊橋の風景~歴史を語るものたち~ |year=2006 |publisher=豊橋市美術博物館 |ref={{SfnRef|豊橋美術博物館2006|2006}}}}
* {{Cite book |和書 |author=[[豊橋市美術博物館]] |title=鬼・オニ・ONI展 |year=2013 |publisher=豊橋市美術博物館 |ref={{SfnRef|豊橋美術博物館2013|2013}}}}
* {{Cite book |和書 |author=山本健貴 |title=豊橋三大祭の深層 |year=2017 |publisher=山本健貴 |ref={{SfnRef|山本|2017}}}}
* {{Cite book |和書 |author=豊橋市史編集委員会 編 |title=豊橋市史 |year=1975 |publisher=[[豊橋市]] |id={{NDLJP|9537313}} |volume=第2巻(近世編) |ref={{SfnRef|豊橋市史編集委員会|1975}}}}
* {{Cite book |和書 |author=豊橋市広報広聴課 |title=春を呼ぶ、鬼と天狗とタンキリ飴 豊橋鬼祭。 |url=https://cccc.backshelf.jp/bookview/?filseq=2684 |date=2014-02 |publisher=[[豊橋市]] |series=ふるさと再発見ガイドブック 知るほど豊橋 その10 |ref={{SfnRef|豊橋市広報広聴課|2014}}}}
* {{Cite book |和書 |author=豊橋百科事典編集委員会 編 |title=豊橋百科事典 |date=2006-12 |publisher=豊橋市文化市民部文化課 |ref={{SfnRef|豊橋百科事典編集委員会|2006}}}}
* {{Cite book |和書 |author=平石基次 編 |title=安久美神戸神明社千年誌 |date=1974-10 |publisher=神明社 |ncid=BN11492412 |ref={{SfnRef|平石|1974}}}}
* {{Cite book |和書 |title=安久美神戸神明社千年のあゆみ |year=2012 |publisher=[[安久美神戸神明社]] |ref={{SfnRef|安久美神戸神明社|2012}}}}
* {{Cite book |和書 |author=西川順土 |title=安久美神戸神明社と司家 |year=1981 |publisher=司忠 |ref={{SfnRef|西川|1981}}}}
* 豊橋鬼祭保存会、豊橋鬼祭奉賛会『豊橋鬼祭』豊橋商工会議所、豊橋観光コンベンション協会、2019年
* 中日新聞記事多数{{Full citation needed|date=2020年1月}}(脚注節を参照)
 
== 関連項目 ==
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== 外部リンク ==
{{Commonscat-inline|Toyohashi Oni Festival|豊橋鬼祭}}
* [https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/302/87 豊橋神明社の鬼祭] - 国指定文化財等データベース
* [https://onimatsuri.jimdo.com/ 豊橋鬼祭 安久美神戸神明社公式サイト]