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{{Infobox military conflict
| conflict = 第一次シュレージエン戦争
| partof = [[シュレージエン戦争]]、および[[オーストリア継承戦争]]
| image = WilhelmSilesia Camphausen-Die Huldigung(Now).jpgpng
| caption = [[1471年]]、[[現在の国境図とシュレージエン]]で[[臣従儀礼]]を行う[[フリ。青枠がオストヒ2世 (ア領シュレージエン、黄枠がプロイセン王)|フリ領シュレドリヒ二世]]([[1882年]]、[[ヴィルヘルム・カンプハウゼジエ]]作)
| date = 1740年12月16日 - 1742年6月11日
| place = [[シレジア|シュレージエン]], [[モラヴィア]], [[ボヘミア]]
| result = プロイセン王国の勝利
| territory = オーストリア領シュレージエンの大部分をプロイセン王国へ割譲
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* [[カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン|ロートリンゲン侯チャールズ]]
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* [[ヴィルヘルム・ラインハルト・フォン・ナイペルク|ヴィルヘルム・ラインハルト・フォン・ナイペルク伯爵]]
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}}'''第一次シュレージエン戦争'''([[ドイツ語|独]]:'''Erster Schlesischer Krieg''')は、[[1740年]]から[[1742年]]にかけて[[シレジア|シュレージエン]]の帰属を巡って行われた[[プロイセン王国|プロイセン]]と[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]の[[戦争]]。[[オーストリア継承戦争]]を構成する[[戦役]]の一つで、一連の[[シュレージエン戦争]]の始まりである。訳の違いから'''シレジア戦争'''とも呼ばれる。本項では「シレジア」は「シュレージエン」に統一している。[[ファイル:Silesia (Now).png|thumb|300px|現在の国境図とシュレージエン。青枠がオーストリア領シュレージエン、黄枠がプロイセン領シュレージエン]]
'''第一次シュレージエン戦争'''(だいいちじシュレージエンせんそう、{{lang-de|Erster Schlesischer Krieg}})は、[[1740年]]から[[1742年]]にかけて[[シレジア|シュレージエン]]の帰属を巡って行われた[[プロイセン王国|プロイセン]]と[[ハプスブルク帝国|オーストリア]]の[[戦争]]。[[オーストリア継承戦争]]を構成する[[戦役]]の一つで、18世紀中期に戦われた一連の[[シュレージエン戦争]]の始まりである。訳の違いから'''シレジア戦争'''とも呼ばれるが、本項では「シレジア」は「シュレージエン」に統一している。
 
主戦場はシュレージエンのほか、[[モラヴィア]]と[[ボヘミア]]([[ボヘミア王冠領]])も含まれる。プロイセンは[[開戦事由]]に数世紀前からのシュレージエンの一部への領土主張を挙げたが、戦争勃発には[[レアルポリティーク]]と{{仮リンク|地政戦略学|en|Geostrategy|label=地政戦略}}上の影響もみられる。女性である[[マリア・テレジア]]が[[ハプスブルク帝国]](オーストリア)を継承することに異議を唱えられたため、プロイセンが[[ザクセン選帝侯領]]や[[バイエルン選帝侯領]]を出し抜いて勢力を増す機会となった。
== 発端 ==
[[ファイル:MariaTheresia Maske.jpg|175px|thumb|[[マルティン・ファン・マイテンス]]《マスクを手にしたマリア・テレジア》1744年頃、油彩、シェーンブルン宮殿]]
[[ファイル:FriedrichIIvonPreussenPesne1736.jpg|175px|thumb|アントワーヌ・ペスネ《青年時代のプロイセン王フリードリッヒ2世(大王)》1736年]]
1740年[[10月20日]]、[[神聖ローマ皇帝]][[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]が死去した。[[国事詔書]]の定めるところによりハプスブルク家の領土はその娘[[マリア・テレジア]]が相続することになったが、かねてから[[バイエルン大公|バイエルン選帝侯]][[カール7世 (神聖ローマ皇帝)|カール・アルブレヒト]]はこの相続順位に異議を唱え、[[フランス王国|フランス]]がそれを支援していた。[[10月26日]]、同年5月に王位を継いだばかりのプロイセン王[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世(大王)]] は皇帝の死を知るとシュレージエンを得る千賽一遇の好機とみなし、すぐに出兵を決意した。急遽[[ラインスベルク宮殿]]に外務大臣[[ハインリヒ・フォン・ポデヴィルス|ポデヴィルス]]と元帥[[クルト・クリストフ・フォン・シュヴェリーン|シュヴェリーン]]を呼び寄せ準備を命じるが、彼らが宮殿に到着するのを待つ間に、大王は[[ヴォルテール]]に次のように書き送った。「ヨーロッパの古い政治体制を一新する時が来ました」<ref>Giles Macdonogh『Frederick the Great <small>A LIFE IN DEED AND LETTERS</small>』 147頁。</ref>
 
戦争は1740年末にプロイセンがオーストリア領シュレージエンに侵攻したことで始まり、1742年の{{仮リンク|ベルリン条約 (1742年)|en|Treaty of Berlin (1742)|label=ベルリン条約}}で終結を告げた。ベルリン条約により、プロイセンはシュレージエンの大半とボヘミアの一部を奪取したが、一方でオーストリア継承戦争は終結せず、わずか2年後にはプロイセン・オーストリア間の紛争が再発し[[第二次シュレージエン戦争]]が勃発した。大国オーストリアと比べて小国であるプロイセンがオーストリアに打ち勝ったことにより{{仮リンク|普墺角逐|en|Austria–Prussia rivalry}}が始まり、以降1世紀以上の[[ドイツの歴史|ドイツ史]]に大きな影響を与えることとなった。
プロイセン軍は当時[[ヨーロッパ]]で最も良い状態に保たれていた軍隊で、他国に比較してずっと短い時間で出撃することができた。シュレージエン侵攻の意図もよく秘匿され、オーストリアがこれを知るのは侵攻の直前になってからだった。[[ベルリン]]の大使[[アントニオット・ボッタ・アドルノ|ボッタ・アドルノ]]からプロイセン軍に出撃準備の様子が見られるという報告を受けてからもなお、オーストリア宮廷はプロイセンを軽視していた。それはオーストリアがプロイセンを長い間格下の同盟国として扱ってきたためであり、また大王の父[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]]もよく兵を動かしていたが、彼は結局オーストリアに利用されるだけだったからである。
 
== 1740年の戦役背景 ==
[[ブランデンブルク辺境伯領]]に隣接する[[ハプスブルク帝国]](オーストリア)領[[シレジア|シュレージエン]]は18世紀初頭には人口の多く、経済も繁栄した地域になっていたが、ブランデンブルク辺境伯領と[[プロイセン王国]]([[ブランデンブルク=プロイセン]])を統治する[[ホーエンツォレルン家]]はシュレージエン領内にある[[シロンスク公国群|諸公国]]への領有権を主張していた{{Sfn|Fraser|2000|pp=70–71}}。シュレージエンには税収、工業生産、兵士といった資源の価値のほか、{{仮リンク|地政戦略学|en|Geostrategy|label=地政戦略}}的にも重要性を有した。すなわち、[[オーデル川]]上流の渓谷はブランデンブルク、[[ボヘミア]]、[[モラヴィア]]間の進軍を容易にしているため、それらの地域を領有する国は隣国への脅威になる。また、シュレージエンが[[神聖ローマ帝国]]の北東部辺境にあたるため、シュレージエンを領有する国は[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド]]と[[ロシア帝国|ロシア]]のドイツに対する影響力を制限する力をも有することになる{{Sfn|Browning|2005|p=527}}。
=== シュレージエン侵攻 ===
[[ファイル:Silesia topo.JPG|thumb|300px|現在の国境線で描かれたシュレージエン地形図。南とは山地で隔てられている一方で北には障害がなく、プロイセンにとって攻めやすくかつ守りやすい地形であることがわかる]]
[[1740年]][[12月16日]]、シュレージエン国境[[オーデル川|オーデル河畔]]の街[[クロッセン]]に集結した2万7千のプロイセン軍は、大王に率いられてシュレージエンに侵入した。プロイセン軍は大王とシュヴェリーンにそれぞれ率いられて二手に分かれ、大王軍はオーデル川沿いに進軍し、[[グウォグフ|グローガウ]]を超えてシュレージエンの首都[[ヴロツワフ|ブレスラウ]]を目指し、シュヴェリーン軍は、予想されうる[[ボヘミア|ベーメン]]、[[モラヴィア|メーレン]]からの反撃から大王軍を援護し、同時にシュレージエンとの連絡を絶つ目的で、オーデル川から西に離れ、国境に走る[[ズデーテン山地]]の麓を大王軍と並行して進軍した。
 
=== ブランデンブルク=プロイセンの領有権主張 ===
対して[[マクシミリアン・ユリシーズ・フォン・ブラウン|ブラウン]]の指揮するオーストリア軍は、12月までその兵力は3千未満、侵攻直前の増援を含めても8千を割るというもので、各[[要塞]]の守備に兵を割り振った後は事実上野戦による抵抗は不可能だった。またプロイセン軍が当時の戦争では異例の真冬の作戦を敢行したことで、オーストリア軍は抗戦準備の時間を与えられないままプロイセン軍の侵攻に直面することになった。
[[ファイル:Crown of Bohemia 1648.png|thumb|alt=18世紀初の中央ヨーロッパの国境|1742年に[[シレジア|シュレージエン]]が[[ブランデンブルク=プロイセン]]に割譲されるまで、[[ハプスブルク家]]が統治した[[ボヘミア王冠領]]の地図。]]
[[シロンスク・ピャスト家]]の[[レグニツァ公国|レグニツァ公]][[フリデリク2世 (レグニツァ公)|フリデリク2世]]と[[ホーエンツォレルン家]]の[[ブランデンブルク選帝侯]][[ヨアヒム2世 (ブランデンブルク選帝侯)|ヨアヒム2世ヘクトル]]は1537年に継承条約を締結し、シロンスク・ピャスト家が断絶した場合にはホーエンツォレルン家がレグニツァ公国、[[ブジェク公国]]、{{仮リンク|ヴォウフ|en|Wołów}}を継承することを定めた。しかし、シロンスク諸公国の宗主である[[ボヘミア王]]は[[ハプスブルク家]]の[[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナンド1世]]であり、彼は条約を拒絶し、ホーエンツォレルン家に圧力をかけて条約を拒否させた{{Sfn|Carlyle|1858|pp=282–286}}。1603年、ブランデンブルク選帝侯[[ヨアヒム・フリードリヒ (ブランデンブルク選帝侯)|ヨアヒム・フリードリヒ]]は親族の[[アンスバッハ侯領|ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯]][[ゲオルク・フリードリヒ (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)|ゲオルク・フリードリヒ]]から[[クルノフ公国]](ドイツ語でイェーゲルンドルフ公国。シロンスク諸公国の1つ)を継承し、次男{{仮リンク|ヨハン・ゲオルク・フォン・ブランデンブルク|en|Johann Georg von Brandenburg|label=ヨハン・ゲオルク}}に公位を譲った{{Sfn|Hirsch|1881|p=175}}。
 
1618年に{{仮リンク|ボヘミア反乱|en|Bohemian Revolt}}が勃発したことで[[三十年戦争]]が始まると、ヨハン・ゲオルクはほかのシロンスク諸公国とともに反乱に加担し、カトリックの[[神聖ローマ皇帝]][[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]に反旗を翻した{{Sfn|Hirsch|1881|p=176}}。反乱は1621年にカトリック側が[[白山の戦い]]で勝利したことで鎮圧され、フェルディナント2世はヨハン・ゲオルクの領国を没収し、ヨハン・ゲオルクの死後もその後継者への返還を拒否したが、歴代ブランデンブルク選帝侯は自身こそがクルノフ公国の正当な統治者であると主張し続けた{{Sfn|Carlyle|1858|pp=339–342}}。1675年にシロンスク・ピャスト家最後の君主であるレグニツァ公[[イェジ・ヴィルヘルム (レグニツァ公)|イェジ・ヴィルヘルム]]が死去すると、ブランデンブルクの「大選帝侯」[[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]はレグニツァ、ブジェク、ヴォウフの継承を主張したが、時の皇帝[[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]はフリードリヒ・ヴィルヘルムの主張を無視し、イェジ・ヴィルヘルムの領地を帝国領に併合した{{Sfn|Carlyle|1858|pp=357–358}}。
軍事行動に並行してプロイセンは、[[ウィーン]]において駐在大使[[フォン・ボルケ|ボルケ]]と特命全権大使[[グスタフ・アドルフ (ゴッター伯)|ゴッター]]をマリア・テレジアの夫[[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ・シュテファン]]の元に派遣し、他国に攻撃されようとしているオーストリアを救援すると称し、兵力と軍資金を提供するが、その代償としてプロイセンがその本来の所有者であるシュレージエンを貰い受けると宣言した。もとよりすんなりと割譲要求が受け入れられるとは思っておらず、ゆえにシュレージエン占領の既成事実化を図ったのである。
 
1685年、オーストリアが[[大トルコ戦争]]で戦っている中、レオポルト1世はフリードリヒ・ヴィルヘルムにシュレージエンへの領土主張を取り下げさせ、大トルコ戦争でオーストリアに軍事援助を与える代償として、シュレージエンの[[飛地]]である{{仮リンク|シュフィエボジン|en|Świebodzin|label=シュヴィーブス}}をブランデンブルクに割譲した。しかし、フリードリヒ・ヴィルヘルムの息子[[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|フリードリヒ3世]](後のプロイセン王フリードリヒ1世。1688年に選帝侯に即位)が父の後を継いで選帝侯になると、レオポルト1世はフリードリヒ・ヴィルヘルム一代限りでシュヴィーブスを割譲したとして、シュヴィーブスの支配権を取り戻した{{Sfn|Carlyle|1858|pp=364–367}}。フリードリヒ3世は負債の一部をレオポルト1世に肩代わりさせることで、この再占領を秘密裏に承認したが{{Sfn|Anderson|1995|p=59}}、後に合意を反故にし、クルノフ公国と元シロンスク・ピャスト家領への請求を再開した{{Sfn|Carlyle|1858|pp=364–367}}。
プロイセン使節はフランツに対し、シュレージエンの全てを要求するつもりはない、プロイセンはオーストリアのために戦い、軍資金も融通し、神聖ローマ皇帝の選挙に当たっては自国の票を保証するのみならず、[[ザクセン公国|ザクセン選帝侯]][[アウグスト3世 (ポーランド王)|フリードリヒ・アウグスト2世]]やバイエルンの票が手に入るまで戦うと言って割譲承認を働きかけた。さもなくばプロイセンは同じ兵、同じ資金をバイエルンに対して提供するだろうとも言った。しかしフランツが少しでも心を動かされそうになると、すかさず影から[[マリア・テレジア]]が現れてこれを制するので、交渉は失敗した。大王が本心でオーストリアと同盟を結ぶ気があったのかどうかは定かでない。
 
=== オーストリアの継承問題 ===
[[ファイル:Breslau c1736.jpg|thumb|300px|1736年のブレスラウ]]
[[ファイル:MariaTheresia Maske.jpg|175px|thumb|[[マリア・テレジア]]、[[マルティン・ファン・マイテンス]]作、1744年頃。[[シェーンブルン宮殿]]所蔵。]]
時代を下って1740年5月、即位したばかりのプロイセン王[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]は再びシュレージエンの領有を目指した{{Sfn|Fraser|2000|p=69}}。彼はシュレージエンへの請求が正当であると考え{{Sfn|Fraser|2000|pp=70–71}}、また父[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]]からよく訓練された大軍である{{仮リンク|プロイセン陸軍|en|Prussian Army}}を継承し、国庫の状態も健全だった{{Sfn|Clark|2006|p=190}}。一方、オーストリアは財政状況が悪く、軍も直近の[[オーストリア・ロシア・トルコ戦争 (1735年-1739年)|オーストリア・ロシア・トルコ戦争]]で不名誉な敗北を喫したにもかかわらず増強も改革もなされなかった{{Sfn|Anderson|1995|pp=61–62}}。ヨーロッパの情勢もプロイセンの先制攻撃に有利だった。[[グレートブリテン王国]]と[[フランス王国]]はお互いに注目していてヨーロッパ全体を見ておらず、[[ロシア帝国]]と[[スウェーデン|スウェーデン王国]]は[[ロシア・スウェーデン戦争 (1741年-1743年)|ハット党戦争]]で戦っており{{Sfn|Anderson|1995|p=80}}、[[バイエルン選帝侯領]]と[[ザクセン選帝侯領]]はオーストリアへの継承権を主張できる立場にあるため攻撃に参加する可能性があった{{Sfn|Fraser|2000|pp=70–71}}。ホーエンツォレルン家による請求権は法律上の[[開戦事由]]になったが、実際には[[レアルポリティーク]]と{{仮リンク|地政戦略学|en|Geostrategy|label=地政戦略}}上の理由が戦争勃発の主因である{{Sfn|Clark|2006|pp=192–193}}。
 
フリードリヒ2世にとって機会となったのは、1740年10月に神聖ローマ皇帝[[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]が男子継承者を残さずに死去したときだった。1713年の[[国事詔書]]により、カール6世は長女[[マリア・テレジア]]を継承者に定め、マリア・テレジアはカール6世に伴いオーストリアの統治者になり、[[ハプスブルク帝国]]のうち[[ボヘミア王冠領|ボヘミア]]と[[ハンガリー王国|ハンガリー]]の領地も継承した{{Sfn|Asprey|1986|p=24}}。国事詔書はカール6世の存命中にはほとんどの[[帝国諸侯]]からの承認を受けたが、多くの諸侯はカール6世の死後すぐに承認を拒否した{{Sfn|Clifford|1914|p=3100}}。フリードリヒ2世はこれを好機とみて、[[ヴォルテール]]に「ヨーロッパの古い政治体制を一新する時が来ました」と書き送った{{Sfn|Fraser|2000|p=69}}{{Sfn|Macdonogh|2001|p=147}}。
[[12月22日]]、大王軍は抵抗を受けることなくグローガウ近郊[[ヘレンドルフ]]に到着した。ここで大王は一時進軍を停止して、住民に対する布告を発布したり地域の貴族を出頭させたりしながら要塞を偵察したが、グローガウは[[フランツ・ヴェンツェル・フォン・ヴァリス|ヴァリス]]がすでに守備を固めており、一方でプロイセン軍の重砲はまだ後方にあった。大王は後続部隊に要塞の包囲をまかせてブレスラウに進軍し、年明け[[1月3日]]、大王は無血開城したブレスラウに入城して歓迎する[[プロテスタント]]貴族とともに祝宴を開いた。
 
フリードリヒ2世はシュレージエンが世襲領地ではなく、帝国の王冠領の一部としてハプスブルク家が所有するにすぎないので、国事詔書はシュレージエンには適用されないとした。さらに、父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が国事詔書の承認に同意したとき、その見返りとして[[ラインラント]]の[[ユーリヒ公国]]と[[ベルク公国]]への請求の支持をとりつけたが、オーストリアがその義務を果たさなかったとした{{Sfn|Fraser|2000|p=70}}{{Sfn|Clark|2006|p=191}}。
シュレージエンはプロテスタントの多い土地で、とくに[[下シュレージエン]]はプロテスタントが大多数であり、彼らは不寛容なオーストリア支配の下で圧迫されていた。そのため彼らはオーストリアからの解放を喜び、プロイセン軍は地元住民の歓迎と支援を受けることができた。対してオーストリア軍は地元住民に信が置けず、要塞の司令官たちは疑心暗鬼となってしばしば地域の住民をプロイセンの協力者と見なして拘束、追放した。
 
一方、バイエルン選帝侯[[カール7世 (神聖ローマ皇帝)|カール・アルブレヒト]]とザクセン選帝侯[[アウグスト3世 (ポーランド王)|フリードリヒ・アウグスト2世]]はそれぞれカール6世の兄[[ヨーゼフ1世]]の娘と結婚しており、この結婚をハプスブルク家領への請求の根拠とした{{Sfn|Clark|2006|p=190}}。中でもフリードリヒ・アウグスト2世はアウグスト3世として[[ポーランド・リトアニア共和国]]の国王にも就任しており、シュレージエンを領有することで自領であるザクセンとポーランドが一続きになる(同時にブランデンブルクをほぼ包囲する形になる)。この最悪の結果を防ぐためにも、プロイセンは急いで行動を起こさなければならなかった{{Sfn|Fraser|2000|pp=70–71}}。
大王軍はブレスラウからオーデル川に沿ってさらに進軍、[[1月8日]]には[[オワヴァ|オーラウ]]を占領、[[ブジェク|ブリーク]]要塞はやはり後回しにして先を進むと、[[グラッツァー・ナイセ川|ナイセ川]]で西南に転じ、[[ニサ (ポーランド)|ナイセ]]でシュヴェリーン軍との合流を目指した。シュヴェリーン軍も大王軍と同様、順調に進軍していたが、[[1月9日]]、ナイセ近郊[[オトマハウ]]でオーストリア軍の抵抗を受けた。ブラウンはナイセ要塞の防戦準備の時間を稼ぐため、一部の部隊にオトマハウで抵抗するよう命じており、これが両軍間における初の本格的な交戦となった。オトマハウの守備隊は抗戦3日ののち降伏し、プロイセン両軍はナイセ前面で無事会同した。
 
=== 開戦まで ===
[[ファイル:Festung Neisse plan 1741.jpg|thumb|300px|ナイセ要塞図]]
{{Further|オーストリア継承戦争}}
[[ファイル:Europe 1740 en.png|thumb|alt=1740年時点のヨーロッパ諸国の国境を示す地図|1738年の[[ウィーン条約 (1738年)|ウィーン条約]]以降のヨーロッパ。]]
プロイセンがシュレージエンへの領土請求を再開し、対オーストリア戦争を準備している中、ヨーロッパ諸国も似たような行動をおこした。バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトはボヘミア、[[オーバーエスターライヒ州|オーバーエスターライヒ]]、[[チロル]]を請求し、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世は[[モラヴィア]]と{{仮リンク|上シレジア|en|Upper Silesia}}を請求した{{Sfn|Black|2002|pp=102–103}}。[[スペイン・ブルボン朝|スペイン・ブルボン家]]の[[スペイン帝国|スペイン王国]]と[[ナポリ王国]]はイタリア北部のハプスブルク家領を奪取しようとし、ハプスブルク家を{{仮リンク|フランスとハプスブルク家の関係|en|French–Habsburg rivalry|label=伝統的な敵国}}とみなしていた[[フランス王国]]は[[オーストリア領ネーデルラント]]の支配を目指した{{Sfn|Clark|2006|p=194}}。これに[[ケルン選帝侯領]]と[[プファルツ選帝侯領]]も加わって、ハプスブルク帝国の弱体化か滅亡、およびハプスブルク家のドイツ諸国への優位の消滅を目的とする[[ニンフェンブルク条約|ニンフェンブルク同盟]]が結成された{{Sfn|Clifford|1914|p=3100}}。
 
オーストリアは[[グレートブリテン王国]](このときは[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領|ハノーファー選帝侯領]]と同君連合を組んでいた)の支持を受け、後には[[サルデーニャ王国]]と[[ネーデルラント連邦共和国]]もオーストリア支持に回った。[[エリザヴェータ (ロシア皇帝)|エリザヴェータ女帝]]率いる[[ロシア帝国]]も[[ロシア・スウェーデン戦争 (1741年-1743年)|対スウェーデン戦争]]を戦ったという意味で間接的にオーストリアを助けた(スウェーデンはフランスの同盟国)。マリア・テレジアの戦争目的は世襲領地と称号の維持、ならびに夫[[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン]]の神聖ローマ皇帝選出を確保してドイツにおける優位を保つことだった{{Sfn|Clifford|1914|p=3100}}。
[[ヴィルヘルム・フォン・ロート|ロート]]の守るナイセ要塞はシュレージエン三要塞のうちで最も堅固な要塞で、オーストリアが春の反撃に際して拠点として一番当てにできる場所だった。大王もそれを承知しており、グローガウやブリークは後回しにしてナイセに攻城砲を輸送させ、早期に陥落させようと猛砲撃を行った。しかしナイセ要塞はこれに耐え、降服勧告も拒否した。プロイセン軍はすでに冬季行軍によって兵士に負担をかけており、またブラウン軍はメーレン国境の山地に引き下がっていて当面脅威となる敵はいなかったことから、大王は[[1月23日]]をもってナイセ攻撃を中止し、兵士を[[冬営]]に入らせると、自身は一度ベルリンに帰還して外交に当たることにした。
 
1740年10月20日にカール6世が死去すると、フリードリヒ2世はすぐに先制攻撃を決めて11月8日にプロイセン陸軍の動員を命じ、12月11日にマリア・テレジアに[[最後通牒]]を突き付けてシュレージエンの割譲を要求した{{Sfn|Clark|2006|p=183}}。シュレージエン割譲の代償として、フリードリヒ2世はそれ以外のハプスブルク家領への攻撃を防ぐこと、多額の賠償金を支払うこと{{Sfn|Anderson|1995|p=69}}、国事詔書を承認することと、{{仮リンク|神聖ローマ皇帝選挙|en|Imperial election}}でブランデンブルク選帝侯としての票をフランツ・シュテファンに投じることを提案した。しかし、フリードリヒ2世は返事を待たずにシュレージエンへの進軍を開始した{{Sfn|Clark|2006|p=183}}。
大王の機会を逃さない速やかな決断と実行により、プロイセンはわずか1か月、戦死22人の損害<ref>兵士20名、将校2名。またある竜騎兵の妻が渡河の際に溺れて死亡したという。これがプロイセン軍の全損害であった。S.フィッシャー=ファビアン 『人はいかにして王となるか』II 21頁。</ref>でもってシュレージエンの占領に成功した。オーストリアが保持するのはグローガウ、ブリーク、ナイセの三要塞と[[上シュレージエン]]のメーレン沿い地域のみであった。大王は後の著作で、もし春を待っていたら同じ成果を得るのに3、4年の戦役を必要としただろうと書いており<ref>「戦争の一般原理」から。Christopher Duffy『Frederick the Great <small>A Military Life</small>』 27頁。</ref>、1740年のシュレージエン急襲は近代の[[軍事史|戦史研究]]で、非常に成功した戦略的奇襲の例、また予想外の重大な敵の攻撃を受ける例としてしばしば取り上げられている<ref>例えば「またこれより先フリードリヒ大王は、旧套になずんで安逸を貪るオーストリア軍を急襲して、オーストリアの国家を震撼したではないか。中途半端な政治と融通のきかない戦争術とをもって敵に当たろうとする内閣こそ憐れである(後略)」[[カール・フォン・クラウゼヴィッツ|クラウゼヴィッツ]]『[[戦争論]]』上 337頁。</ref>。
 
== 1741年の戦役経過 ==
=== モルヴィッツの戦いシュレージエン侵攻 ===
[[ファイル:Wilhelm Camphausen-Die Huldigung.jpg|thumb|alt=フリードリヒ2世が高座に立ち、周りをシュレージエン貴族が囲む様子の絵画|1741年、[[シレジア|シュレージエン]]で[[臣従儀礼]]を行う[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]。[[ヴィルヘルム・カンプハウゼン]]作、1882年。]]
[[ファイル:Schlacht bei Mollwitz.svg|thumb|300px|モルヴィッツの戦い]]
プロイセン軍は1740年12月初に[[オーデル川]]沿岸で秘密裏に集結した。12月16日、フリードリヒ2世はプロイセン軍を率いて、[[宣戦布告]]せずに国境を越えてシュレージエンに侵入した{{Sfn|Friedrich II, King of Prussia|2009|p=3}}。プロイセン軍の戦力は2個[[軍団]]で計2万7千人であり、一方シュレージエンのオーストリア駐留軍はわずか8千人だった{{Sfn|Clark|2006|pp=183,192}}。そのため、オーストリア軍の抵抗は弱く、わずかに要塞数か所に守備兵を割り振るしかできなかった。これにより、プロイセン軍は1741年1月2日にはシュレージエンの首府[[ヴロツワフ|ブレスラウ]]を戦闘もなしに占領し{{Sfn|Carlyle|1862a|pp=210–213}}{{Sfn|Fraser|2000|p=84}}、9日には{{仮リンク|オワヴァ|en|Oława|label=オーラウ}}要塞も抵抗せずに占領された{{Sfn|Carlyle|1862a|pp=218–219}}。その後、プロイセン軍はオーラウで[[冬営]]に入った{{Sfn|Asprey|1986|p=177}}。このように、シュレージエンのほぼ全域が1741年1月末までにプロイセンの手に落ち、残る[[グウォグフ|グローガウ]]、[[ブジェク|ブリーク]]、[[ニサ (ポーランド)|ナイセ]]の3拠点はいずれも包囲された{{Sfn|Clark|2006|p=183}}。これはわずか1か月、戦死22人の損害{{Refnest|group=注釈|兵士20名、将校2名。またある竜騎兵の妻が渡河の際に溺れて死亡したという。これがプロイセン軍の全損害であった{{Sfn|フィッシャー=ファビアン|1981|p=21}}。}}でもって達成したことだった。大王は後の著作で、もし春を待っていたら同じ成果を得るのに3、4年の戦役を必要としただろうと書いており{{Sfn|Duffy|1985|p=27}}、1740年のシュレージエン急襲は近代の[[軍事史|戦史研究]]で、非常に成功した戦略的奇襲の例、また予想外の重大な敵の攻撃を受ける例としてしばしば取り上げられている{{Refnest|group=注釈|例えば、[[カール・フォン・クラウゼヴィッツ]]の[[戦争論]]では「またこれより先フリードリヒ大王は、旧套になずんで安逸を貪るオーストリア軍を急襲して、オーストリアの国家を震撼したではないか。中途半端な政治と融通のきかない戦争術とをもって敵に当たろうとする内閣こそ憐れである。」と述べられている{{Sfn|クラウゼヴィッツ|1968|p=337}}。}}。
[[1741年]]、春にはバイエルン・フランス連合の進軍が予想される中、オーストリア宮廷ではプロイセンと交渉を継続すべきとの意見もあった。しかしプロイセンのシュレージエン侵攻はマリア・テレジアに彼女の今後の政策一切を左右するほどの大きな衝撃を与え、その怒りはとても深いものがあった。女王は重臣の意見を退けてプロイセンへの断固反撃を命じ、[[オロモウツ|オルミュッツ]]に軍を集結させてその指揮官には[[ヴィルヘルム・ラインハルト・フォン・ナイペルク|ナイペルク]]を任命した。
 
プロイセン軍は1741年初に冬営を切り上げると、春季攻勢を仕掛け、3月9日には[[レオポルト2世 (アンハルト=デッサウ侯)|アンハルト=デッサウ侯レオポルト2世]]がグローガウを襲撃して陥落させた。3月末、[[ヴィルヘルム・ラインハルト・フォン・ナイペルク]]率いるオーストリア軍約2万人はモラヴィアから[[ズデーテン山地]]を越えて、4月5日にナイセの包囲を解いたが{{Sfn|Fraser|2000|p=88}}、その後はプロイセン本軍に阻まれ進軍できなかった{{Sfn|Carlyle|1862a|pp=300–301}}{{Sfn|Fraser|2000|pp=87–88}}。両軍は4月10日に{{仮リンク|マウヨヴィチェ|en|Małujowice|label=モルヴィッツ}}村近くで会戦し([[モルヴィッツの戦い]])、[[クルト・クリストフ・フォン・シュヴェリーン]]伯爵率いるプロイセン軍はオーストリア軍の進軍阻止に成功した。両軍ともに大勝したわけではなく、フリードリヒ2世は一時(シュヴェリーンの助言を容れて)捕虜にならないよう逃亡したが、結局オーストリア軍を撤退させたことでプロイセン軍は会戦を自軍の勝利として宣伝した{{Sfn|Fraser|2000|pp=89–93}}。ブリークは5月4日にプロイセン軍を前に降伏するが{{Sfn|Carlyle|1862a|pp=361–363}}、その後はプロイセン本軍がナイセ近くで数か月間野営し、ナイペルク率いるオーストリア軍と対峙するものの実際の戦闘は少なかった{{Sfn|Carlyle|1862b|pp=411–412}}。
オーストリア軍集結中との報告を受けた大王は[[2月19日]]ベルリンを発ち、シュレージエンに戻ると諸将に冬営を切り上げて要塞攻略を命じ、自身は上シュレージエン西部の[[イェーゲルンドルフ]]、[[オパヴァ|トロッパウ]]の占領に取り掛かった。[[3月9日]]には[[レオポルト2世 (アンハルト=デッサウ侯)|若デッサウ]]の夜襲によりグローガウが陥落し、これによって下シュレージエンは完全にプロイセンの占領下となった。
 
=== 1741年夏から秋にかけての交渉 ===
オーストリアはシュレージエンに、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]に起源を持つ[[軽騎兵]][[ユサール|フザール]]を投入して、プロイセン軍の撹乱を図っていた。プロイセン軍はこのような部隊との戦闘に慣れておらず、大いに悩まされた。前線を移動中の大王の護衛部隊が襲われたこともあったほどで、大王はポデヴィルスに、自分が戦死もしくは捕虜になっても弟[[アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・プロイセン (1722-1758)|アウグスト・ヴィルヘルム]]を立てて戦争を継続し、捕虜になった時は自分の解放のために譲歩するようなことは一切するなと書き送った<ref>Giles Macdonogh『Frederick the Great <small>A LIFE IN DEED AND LETTERS</small>』 157頁。</ref>。
[[ファイル:Mária Terézia koronázása a Szent Márton székesegyházban.jpg|thumb|alt=ハンガリーの聖マルティン大聖堂で戴冠式を行うマリア・テレジアの絵画|[[ブラチスラヴァ|プレスブルク]]の{{仮リンク|聖マルティン大聖堂 (ブラチスラヴァ)|en|St Martin's Cathedral, Bratislava|label=聖マルティン大聖堂}}で[[ハンガリー王国|ハンガリー女王]]として{{仮リンク|ハンガリー王の戴冠式|en|Coronation of the Hungarian monarch|label=戴冠}}するマリア・テレジア。]]
ヨーロッパ諸国はオーストリアがモルヴィッツの戦いで敗れ、プロイセン軍の侵攻を阻止できなかったことに勇気づけられ、オーストリアへの攻撃に踏み切った。これにより戦争は単なるシュレージエンをめぐる紛争にとどまらず[[オーストリア継承戦争]]に発展した{{Sfn|Clark|2006|pp=193–194}}。フランスは1741年6月5日のブレスラウ条約でプロイセンによるシュレージエン奪取を支持{{Sfn|Shennan|2005|p=43}}{{Sfn|Asprey|1986|p=181}}、7月にはニンフェンブルク同盟に加入して、スペインとともにバイエルンによるオーストリアへの領土主張を支持した。8月15日、フランス軍は[[ライン川]]を渡り{{Sfn|Black|2002|pp=102–103}}、[[ドナウ川]]でバイエルン軍と合流した後[[ウィーン]]への進軍を開始{{Sfn|Asprey|1986|p=223}}、スペインとナポリの連合軍はイタリア北部のオーストリア領に攻撃を仕掛けた{{Sfn|Browning|1993|p=80}}。オーストリアの同盟国だったザクセンもフランスとの同盟に鞍替えし{{Sfn|Crankshaw|1970|p=75}}、イギリスはハノーファーがフランス軍とプロイセン軍に攻撃されないよう中立を宣言した{{Sfn|Crankshaw|1970|p=77}}。
 
マリア・テレジアは自領の諸国に分割されることを防ぐべく、数か月かけて反撃を準備した。まず6月25日に[[ブラチスラヴァ|プレスブルク]]でハンガリー女王として{{仮リンク|ハンガリー王の戴冠式|en|Coronation of the Hungarian monarch|label=戴冠}}した後、ハンガリーからの徴兵を試みた{{Sfn|Browning|1993|p=66}}。8月にはプロイセンに対し、シュレージエンから撤退する代償として賠償金と[[ネーデルラント]]における領土割譲を提案したが、すぐに拒否された{{Sfn|Anderson|1995|p=81}}。その間にも諸国はオーストリアへの侵攻を進め、ザクセン軍はボヘミアに侵攻、フランス=バイエルン連合軍は9月14日に[[リンツ]]を占領した後、[[オーバーエスターライヒ州|オーバーエスターライヒ]]経由で進軍、10月にはウィーン近郊まで到着した{{Sfn|Black|2002|pp=102–103}}。フリードリヒ2世はオーストリアの情勢不利に乗じて、ブレスラウでナイペルクとの秘密講和交渉を始めたが、公的にはニンフェンブルク同盟への支持を続けた{{Sfn|Fraser|2000|p=97}}。
大王はオーストリア軍がシュレージエンに進軍を開始するのは春になってからと見ていたが、ナイペルク軍は女王の命令もあって、3月末から4月にかけて吹雪の[[ツックマンテル峠]]を越えてシュレージエンに入った。併せて[[ツェーザル・ヨーゼフ・フォン・レントゥルス|レントゥルス]]の支隊も[[クウォツコ|グラッツ]]からシュレージエン入りした。ナイペルクの目的は、ナイセ、ブリークを救出すると同時に、上シュレージエンのプロイセン軍をその策源であるブレスラウから切断し、さらにブリークからブレスラウに進軍してプロイセン軍を本国から完全に孤立させるというものであった。
 
プロイセンはフランスと同盟していたが、オーストリアの破滅によりフランスやバイエルンがドイツの覇権を握ることはフリードリヒ2世も望まなかった{{Sfn|Fraser|2000|p=97}}。イギリスの催促と仲介により{{Sfn|Black|2002|pp=102–103}}、オーストリアとプロイセンは10月9日に[[クラインシュネレンドルフの密約]]と呼ばれる秘密[[停戦協定]]を締結した。この密約により、オーストリアとプロイセンはシュレージエンにおける戦闘の継続を装いながら実際には停戦し、オーストリアは年末までに交渉される講和条約で{{仮リンク|下シュレージエン|en|Lower Silesia}}を割譲することに同意した{{Sfn|Holborn|1982|p=213}}。その後、ナイペルク率いるオーストリア軍はシュレージエンからオーストリアに呼び戻され、11月初に[[ニサ (ポーランド)|ナイセ]]で見せかけの包囲戦を戦ったのちにナイセを放棄したことで、シュレージエン全体がプロイセンの手に落ちた{{Sfn|Carlyle|1862b|pp=483–487}}{{Sfn|Asprey|1986|pp=223–224}}{{Sfn|Fraser|2000|p=103}}。
プロイセンの偵察部隊はオーストリアの騎兵に妨害されて活動を大幅に制限されており、オーストリア軍のシュレージエン入りを峠を越えられた後に知った大王は、急いで軍を反転させ、占領のために散らばった部隊を集めながらナイセ目指して行軍した。[[4月5日]]、オーストリア軍はナイセに到着してその囲みを解くと、すぐ北上してブリークに向かい、大王もこれを知るとブリークに転進してナイペルク軍を補足し会戦に持ち込もうとした。4月上旬のシュレージエンは深く積もった雪が解け始める頃で、両者ともに道路状態に悩まされ、その動きは緩慢であった。
 
=== ボヘミア=モラヴィア戦役 ===
[[4月10日]]、プロイセン軍は[[モルヴィッツの戦い]]に勝利した。5月には[[オクタヴィオ・フォン・ピッコロミーニ|ピッコロミーニ]]の守るブリーク要塞を陥落させるが、オーストリア軍はメーレンからの支援も受けてナイセ要塞と上シュレージエン西部を保持しており、プロイセン軍はナイセへの圧迫を強めたものの、ここで両者の動きは一時停滞した。
[[ファイル:Antoine Pesne - Friedrich der Große als Kronprinz (1739).jpg|thumb|alt=プロイセン王太子時代のフリードリヒ2世の肖像画|プロイセン王太子時代の[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]、[[アントワーヌ・ペーヌ]]作、1739年。]]
10月中旬、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトはフランスからの援軍とともに[[ウィーン]]近くで野営していて、ウィーンを包囲する用意もできていたが、自身が請求していたボヘミアが一部ザクセンとプロイセンに奪われることを憂慮した{{Sfn|Black|2002|pp=102–103}}。また、フランスはオーストリアを弱体化したかったが滅亡は望まなかったため、ウィーンへの総攻撃に反対した{{Sfn|Holborn|1982|p=211}}。そのため、バイエルン=フランス連合軍は10月24日に北へ転進し、[[プラハ]]に向けて進軍した。これにより、バイエルン、フランス、ザクセン軍は11月にプラハ周辺に集結し、包囲の末11月26日にプラハ城を陥落させた。12月7日にはカール・アルブレヒトがボヘミア王として戴冠した{{Sfn|Black|2002|pp=102–103}}。一方、フリードリヒ2世は11月初にプロイセン領シュレージエンとザクセン領モラヴィアの国境線について交渉し{{Sfn|Anderson|1995|p=90}}、同時にフランスとバイエルンからプロイセンによるシュレージエン全体とボヘミアの{{仮リンク|グラーツ伯領|en|County of Kladsko}}の奪取への支持を引き出した{{Sfn|Carlyle|1862b|pages=513–519}}。
 
フランス=バイエルン連合軍が占領地を拡大する中、フリードリヒ2世は講和交渉で相対的に不利になることを恐れ、オーストリアがクラインシュネレンドルフの密約を公開したと称して協定の無効を宣言した上で南方のボヘミアとモラヴィアに向けて進軍した{{Sfn|Fraser|2000|pp=105–106}}。12月、シュヴェリーン軍は[[ズデーテン地方]]を経由してモラヴィアに進軍、27日には首府[[オロモウツ|オルミュッツ]]を占領、レオポルト軍はボヘミア辺境の{{仮リンク|クウォツコ|en|Kłodzko|label=グラーツ}}要塞を包囲した{{Sfn|Carlyle|1862b|pp=513–519}}。1742年1月、{{仮リンク|1742年神聖ローマ皇帝選挙|en|1742 Imperial election|label=皇帝選挙}}が[[フランクフルト・アム・マイン]]で行われ、カール・アルブレヒトは神聖ローマ皇帝に当選した{{Sfn|Fraser|2000|p=106}}。
=== クラインシュネレンドルフの密約 ===
モルヴィッツの戦いの後、オーストリアに勝利したことでプロイセンは俄かにヨーロッパ諸国の注目を受け、その陣営には多数の外交官が詰めかけた。その中で大王はフランスの将軍であり外交官である[[シャルル・ルイ・オーギュスト・フーケ・ド・ベル=イル|ベル=イル]]の訪問を受け、同盟を打診されていた。オーストリアがシュレージエン割譲の意思を見せない以上フランスとの同盟は必然であったが、実は同時に[[イギリス]]からオーストリアとの和平を仲介したいとの提案を受けていた。イギリスが戦争に介入するに当たって[[ハノーファー王国|ハノーファー]]が東から攻められないようにするためである。大王はこの時点でもまだシュレージエンと引き換えにオーストリアに協力する意思があったが、マリア・テレジアは拒否した。このためプロイセンは[[6月5日]]、フランスと15年間の同盟に踏み切った。
 
1742年2月5日に{{仮リンク|ヴィシュコフ|en|Vyškov|label=ヴィシャウ}}でザクセン=フランス連合軍と合流したフリードリヒ2世はモラヴィアを経由してウィーンへの進軍をはじめた。しかし、フランス軍は非協力的な態度をとり、2月15日に[[イフラヴァ|イグラウ]]を占領した後ボヘミアへ撤退してしまった{{Sfn|Carlyle|1862b|pp=538–544}}。プロイセン軍とザクセン軍はモラヴィアにおけるオーストリア軍の拠点である[[ブルノ|ブリュン]]に進軍したが、補給が不足し、オーストリアがブリュンに相当な実力を有する駐留軍を残したため、包囲は進まなかった{{Sfn|Holborn|1982|p=213}}。ザクセン軍は3月30日に包囲を放棄してボヘミアに撤退{{Sfn|Carlyle|1862b|pp=547–549}}、以降7月に戦争から脱落するまでボヘミアに居座った{{Sfn|Hochedlinger|2003|p=252}}。結局、連合軍がモラヴィア戦役で大した成果を上げられないまま{{Sfn|Friedrich II, King of Prussia|2009|p=4}}、4月5日にはプロイセン軍もボヘミアと上シュレージエンへ撤退した{{Sfn|Carlyle|1862b|pp=547–549}}。
これに先立ち、5月28日、[[バイエルン大公|バイエルン]]、[[フランス王国|フランス]]、[[スペイン]]により[[ニンフェンブルク条約]]が締結されており、プロイセンもこの同盟国側に加わったこととなる。さらにザクセンも同盟を結び、ここにオーストリアの西方包囲網が構築されることとなった。
 
連合軍のモラヴィアへの進軍が失敗すると、[[カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン]](フランツ・シュテファンの弟にあたる)はオーストリア・ハンガリー兵3万を率いて、モラヴィア経由でボヘミアへ進軍、プロイセン軍を追い払ってプラハを奪回しようとした。5月初、フリードリヒ2世とレオポルト率いるプロイセン軍2万8千はプラハの南東にある[[エルベ川]]の平原に行軍し、オーストリア軍の進軍を阻止した{{Sfn|Carlyle|1862b|pp=560–563}}{{Sfn|Browning|1993|p=103}}。5月17日、オーストリア軍が{{仮リンク|ホトゥジツェ|en|Chotusice|label=コトゥジッツ}}近くでレオポルトの軍営に攻撃を仕掛けると戦闘が始まり([[コトゥジッツの戦い]])、プロイセン軍は勝利したが両軍とも多くの損害を出した。24日には[[ヨハン・ゲオルク・クリスティアン・フォン・ロプコヴィッツ]]率いるオーストリア軍が[[ザハーイの戦い]]でフランス軍に敗れており、これにより連合軍はプラハを完全に確保、オーストリアは連合軍をボヘミアから追い出す手段を持たない状況になった{{Sfn|Carlyle|1862b|pp=574–575, 578}}。
[[6月25日]]、マリア・テレジアはハンガリーへ赴き、[[ブラチスラヴァ|プレスブルク]]で戴冠した上で[[身分制議会|等族議会]]と交渉して、特権遵守と引き換えに軍の動員を引き受けさせた。しかしこの間にバイエルン・フランス連合は[[上オーストリア]]の[[リンツ]]を占領、新たに加わってきたザクセンとともにベーメンに侵入した。オーストリア軍はシュレージエンで拘束されているナイペルク軍とウィーン守備の[[ルートヴィヒ・アンドレーアス・フォン・ケーフェンヒュラー|ケーフェンヒュラー]]軍以外に有力な戦力がなく、ハンガリー軍が集結を完了するまでにはまだ時間がかかった。女王も、イギリスが忠告していた通りプロイセンと妥協しなければならないことを認めざるを得なかった。
 
=== ブレスラウ条約とベルリン条約 ===
大王は、フランスと同盟を結んだものの、彼らを支援しようという気は毛頭なかった。そのためイギリスの斡旋したオーストリアとの停戦協議に速やかに応じ、[[10月9日]][[クラインシュネレンドルフの密約]]が結ばれた。この密約によってプロイセンは下シュレージエンの全てとナイセを獲得し、今年は軍の一部を上シュレージエンで越冬させることも認めさせた。ナイペルク軍は妨害を受けることなくシュレージエンからベーメンへ転進し、代わりにナイペルクの指示を受けてナイセの守備隊は要塞を明け渡した。この時にはしばらく見せかけの攻城戦をやってみせるなどして、両国は停戦をフランスに気づかれないように振舞った。
[[ファイル:Österreichisch-Schlesien 1746 en.svg|thumb|alt=プロイセンへの割譲後のオーストリア領シュレージエン|1742年の{{仮リンク|ベルリン条約 (1742年)|en|Treaty of Berlin (1742)|label=ベルリン条約}}以降の{{仮リンク|オーストリア領シュレージエン|en|Austrian Silesia}}。]]
コトゥジッツの戦いが終結した後、プロイセンはオーストリアとの[[単独講和]]交渉への努力を強め、普墺2国の代表は5月末に再びブレスラウで交渉した{{Sfn|Fraser|2000|p=120}}。フリードリヒ2世は今度はシュレージエンのほぼ全域とグラーツ伯領を要求し、マリア・テレジアは譲歩したくなかったものの、イギリス公使の[[ジョン・カーマイケル (第3代ハインドフォード伯爵)|第3代ハインドフォード伯爵ジョン・カーマイケル]]はプロイセンと講和し、対仏戦争に集中するようマリア・テレジアに圧力をかけた{{Sfn|Holborn|1982|p=213}}。イギリスはオーストリアに{{仮リンク|聖ジョージの金騎兵|en|Golden Cavalry of St George|label=多額の資金援助}}を提供しており、ハインドフォード伯爵はマリア・テレジアがシュレージエンの割譲に同意しなければイギリスの援助を取り上げると脅した。結局マリア・テレジアは折れ、6月11日にプロイセンと[[ブレスラウ条約]]を締結して第一次シュレージエン戦争を終結させた{{Sfn|Carlyle|1862b|pages=581–586}}。
 
ブレスラウ条約により、オーストリアはプロイセンにシュレージエンの大半とボヘミアのグラーツ伯領を割譲し、これらの領土は19世紀にプロイセンの{{仮リンク|シュレージエン州|en|Province of Silesia}}として統合された{{Sfn|Fraser|2000|p=121}}。オーストリアはグラーツ伯領以外のボヘミアを維持、シュレージエンについては南端にあるわずかな領土([[クルノフ公国|クルノフ]]、{{仮リンク|オパヴァ公国|en|Duchy of Troppau|label=オパヴァ}}、{{仮リンク|ヌィサ公国|en|Duchy of Nysa|label=ヌィサ}}三公国の一部、および[[チェシン公国]]。後の{{仮リンク|オーストリア領シュレージエン|en|Austrian Silesia}})を維持した。また、プロイセンはシュレージエンの資産を担保にしたオーストリアの負債の一部を肩代わりすることに同意し、オーストリア継承戦争における中立維持にも同意した。これらの合意は1742年7月28日の{{仮リンク|ベルリン条約 (1742年)|en|Treaty of Berlin (1742)|label=ベルリン条約}}で正式に確認された{{Sfn|Carlyle|1862b|pages=581–586}}。
プロイセンは停戦前からシュレージエンで早くも募兵事務を開始、8月にはブレスラウで行政のプロイセン方式への改編にも着手しており、とくに下シュレージエンではプロイセン領への移行が着々と進みつつあった。停戦の成った10月末をもってプロイセンはシュレージエンの旧行政組織と貴族議会の解散、新統治体制への移行を宣言、[[11月7日]]、ブレスラウで下シュレージエン貴族による忠誠宣誓式典が行われた。並行して、モルヴィッツの戦いで劣勢が明らかになった自軍騎兵の改善にも努めていた。
 
== 結果 ==
一方のオーストリアは、シュレージエンと引き換えに得た戦力でベーメンを守ろうと考えていたが、実際には援軍の到着前に[[プラハ]]が陥落、オーストリア軍はベーメン南東部に後退した。一方で連合軍の主力がベーメンに移動したこととハンガリー軍が徐々に集結してきたことから、ウィーンからケーフェンヒュラー軍が出撃してリンツを攻撃した。オーストリアは連合軍の動揺を誘うために密約の存在を暴露したが、大王はかえってそれを口実にして密約を破り、若デッサウにグラッツを包囲させ、さらにシュヴェリーン率いるプロイセン軍はメーレンに進出、[[11月27日]]にはオルミュッツを占領した。また大王はザクセンにメーレン獲得の保証を与えてその軍をメーレンに進出させた。これは、リンツを攻められているバイエルン・フランスからオーストリアを牽制することを求められたからでもあったが、ベーメンにおける連合軍の戦況がすこぶる有利と見てベーメン王国分割に加わり、さらにザクセンに領土を与えることでオーストリアと自領となったシュレージエンの間に緩衝地帯を作る目的があった。また、豊かな冬営地を得て物資を獲得したいという思惑もあった。
プロイセンは第一次シュレージエン戦争で勝利を収め、約35,000kmの土地と約100万の人口を獲得した{{Sfn|Hochedlinger|2003|p=252}}。これによりプロイセンは多くの資源と多大な名声を得たが、オーストリア継承戦争の最中に2度も単独講和したことはニンフェンブルク同盟を見捨てたに等しく、外交においては当てにならない二枚舌であるという悪名もついてまわった{{Sfn|Shennan|2005|p=43}}{{Sfn|Holborn|1982|p=213}}。プロイセンが一時的に脱落したことで、オーストリアは大規模な反撃に打って出ることができ、シュレージエン以外の戦線での失地を回復し始めた外結果外交における情勢も改善した{{Sfn|Fraser|2000|pp=135–136}}。
 
一方、プロイセンがシュレージエンを奪取したことで、将来的にはオーストリアとザクセンとの紛争が絶えないという状況を作り出した{{Sfn|Fraser|2000|pp=134–135}}{{Sfn|Holborn|1982|pp=214–215}}。マリア・テレジアがシュレージエンを奪回すると決心したことによりわずか2年後には[[第二次シュレージエン戦争]]が勃発、さらに10年後には[[第三次シュレージエン戦争]]が勃発した<ref name="Britannica">{{Cite encyclopedia2|language=en|title=Silesian Wars|encyclopedia=[[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]|url=https://www.britannica.com/event/Silesian-Wars}}</ref>。第二次と第三次シュレージエン戦争ではザクセンがオーストリアに味方することとなる{{Sfn|Browning|1993|p=181}}{{Sfn|Fraser|2000|p=310}}。
== 1742年の戦役 ==
=== メーレン侵攻 ===
[[ファイル:Panduren 1742.jpg|thumb|300px|クロアチア・パンドゥール。遊撃戦を得意とし、一連の戦争でプロイセン軍を苦しめた]]
[[1742年]][[1月28日]]、大王はオルミュッツに到着し、2月には冬営を畳んでベーメン・メーレンにおける行動に着手した。オーストリアからは大王の違約を責めるフランツの使者[[カール・フォン・ピュッチュナー|ピュッチュナー]]が派遣されてきたが、大王はオーストリアの暴露が原因だと言って追い返した。
 
=== プロイセン ===
メーレン入りした直後から、プロイセン・ザクセン連合は物資不足に悩むことになった。それはメーレンがもともと豊かでない上にオーストリアが先に物資を調達した後で、しかも冬に進軍してきたからであったが、シュレージエンと違って住民が非協力的であったことも大きかった。プロイセン軍とザクセン軍、ベーメンから分派されてきたフランス軍からなる3カ国連合は、ベーメンとメーレンの境に位置し、オーストリアの物資集積拠点となっていた[[イフラヴァ|イグラウ]]の攻略を目指したが、調整に手間取っているうちにオーストリアの指揮官[[ヨハン・ゲオルク・クリスティアン・フォン・ロプコヴィッツ|ロプコヴィッツ]]は物資を後送した上で[[2月15日]]に当市を放棄し、占領はできたものの連合軍は当てが外れた。
オーストリアからの領土割譲により、プロイセンはシュレージエンとグラーツにおける広大な土地を獲得した{{Sfn|Fraser|2000|p=121}}。人口が多く、工業化の進んだ地域であるため、プロイセンに多くの労働力と税金を貢献することとなる{{Sfn|Clark|2006|p=192}}{{Sfn|Fraser|2000|pp=130–131}}。プロイセンという小国が予想外にハプスブルク帝国を打ち勝ったことにより、プロイセンはバイエルンやザクセンといったドイツ諸侯との競争から脱し、ヨーロッパ[[列強]]入りへ一歩進めることとなった{{Sfn|Clark|2006|p=196}}{{Sfn|Schweizer|1989|p=250}}。
 
シュレージエンを奪取したことでプロイセンとオーストリアはお互いに敵愾心を持つことになり、この{{仮リンク|普墺角逐|en|Austria–Prussia rivalry}}が1世紀もの間ドイツの政治に大きな影響を及ぼすことになる{{Sfn|Clark|2006|p=216}}。ザクセンもプロイセン領シュレージエンの戦略における価値に脅かされ、またプロイセンの強大化を恐れて外交政策を反プロイセンに方向転換した{{Sfn|Holborn|1982|pp=214–215}}。フリードリヒ2世が単独でニンフェンブルク同盟から脱退し、第二次シュレージエン戦争の終戦においても同様の行動をしたことはフランス宮廷を激怒させ{{Sfn|Fraser|2000|pp=122, 135, 151}}、さらに1756年のウェストミンスター協定でイギリスと[[英普同盟 (1756年-1762年)|英普同盟]]を締結したことも「裏切り」とされたことにより、フランスは1750年代の[[外交革命]]でオーストリアで味方することになった{{Sfn|Fraser|2000|pp=297–301}}。
この間、プロイセン軍はザクセン軍とともに[[ブルノ|ブリュン]]を包囲し、プロイセン軍はそのまま南下して[[2月19日]]には[[ズノイモ|ツナイム]]を占領、先鋒はさらに[[ターヤ川]]を渡って[[下オーストリア]]に侵入、[[ハンス・ヨアヒム・フォン・ツィーテン|ツィーテン]]率いるフザール部隊は長駆偵察を行い、ウィーン北方30kmの[[シュトッケラウ]]にまで現れた。しかしこれはあまりに兵を広げすぎで、ブリュンの占領に失敗したことから下オーストリアへ侵入した部隊はすぐに引き返した。
 
=== オーストリア ===
一方でオーストリアもバイエルンに対し冬季の作戦を実行、リンツを陥落させると、さらにはケーフェンヒュラーがバイエルンに攻め込んで[[ミュンヘン]]をも占領したが、ベーメンが危機的状況にあるためその戦力を大幅に転進させた。さらに、オーストリアはフザールに加えて[[バルカン半島]]で編成された[[軽歩兵]]部隊[[パンドゥール]]をも戦場に投入してきた。このため連合軍は行軍にも補給にも常に警戒を強いられることになった。また一部のハンガリー勢は[[ヤブルンカ峠]]を越えるルートで上シュレージエンに侵入し、プロイセンは[[レオポルト1世 (アンハルト=デッサウ侯)|老デッサウ]]を置いてこれに対処した。
ブレスラウ条約とベルリン条約により、ハプスブルク帝国は最も富裕な地域を失い{{Sfn|Clark|2006|p=196}}、地位のより低いドイツ諸侯であるプロイセンに降伏したことはハプスブルク帝国の名声を大きく低下させた{{Sfn|Fraser|2000|pp=134–135}}。ハプスブルク家が皇帝選挙にも敗北したことでドイツにおける優位は疑問視された。オーストリア陸軍は規律厳粛なプロイセン陸軍に敗れ{{Sfn|Fraser|2000|p=133}}、1741年末にはニンフェンブルク同盟がハプスブルク帝国を滅ぼさんとするほどの勢いを示した{{Sfn|Fraser|2000|pp=126–127}}。
 
しかし、シュレージエン戦線で講和に成功したことで、オーストリア軍は前年に多くの領土を占拠したフランスとバイエルンを押し返すことができた。フランス軍とバイエルン軍は1742年初に[[ドナウ川]]上流に押し返され{{Sfn|Fraser|2000|pp=107–109}}、ザクセン軍もベルリン条約が締結された後にボヘミアから撤退、同年末にはオーストリアと講和した{{Sfn|Fraser|2000|p=121}}。[[プラハ]]を占領していたフランス=バイエルン連合軍は孤立し、[[プラハ包囲戦 (1742年)|包囲]]された末12月にプラハを放棄した{{Sfn|Fraser|2000|p=139}}。そして、オーストリアは1743年中までにボヘミアへの支配を回復、フランス軍を[[ライン川]]の向こうにある[[アルザス]]地方に押し返し、さらにバイエルンを占領して皇帝カール・アルブレヒトを[[フランクフルト・アム・マイン]]に追いやった{{Sfn|Clifford|1914|p=3103}}。
大王はフランス軍とザクセン軍に共同してオーストリア軍を南に圧迫しようと働きかけたが、フランスの指揮官[[フランソワ=マリー (初代ブロイ公爵)|ブロイ]]はリンツとミュンヘンの陥落にショックを受け、本国からの増援が到着するまでは守勢に徹する気でいて、プラハ以西の確保のためにベーメン東部の部隊を撤退させ、ザクセン軍もプロイセン軍が安全を確保してからでなければ動こうとしなかった。オーストリアは[[カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン|カール公子]]を新たな軍の指揮官に据え、[[ヨーゼフ・ロタール・ドミニク・フォン・ケーニヒスエッグ=ローテンフェルス|ケーニヒスエッグ]]に後見させて反撃を試み、カール公子軍はブリュンへ進撃した。
 
== 注釈 ==
そのころプロイセン軍では食糧事情の悪さからメーレンに長くはいられないことが判明しており、ここで敵を迎えるのは危険と判断した大王は4月に入ってついにオルミュッツ放棄を決断した。大王はブリュンを解囲するとベーメン北東部へ撤退してグラッツの若デッサウとの合流を図ることにし、オルミュッツの支隊は老デッサウの息子の一人[[ディートリヒ・フォン・アンハルト=デッサウ|ディートリヒ]]に指揮させて上シュレージエンに撤退させ、父の軍と合流させた。食糧不足で損害の大きいザクセン軍はプラハ周辺まで撤退してそこにとどまるという打ち合わせであったが、戦意を失ったザクセン軍はそのまま母国に撤退していった。
{{Reflist|group=注釈}}
 
== 出典 ==
=== コトゥジッツの戦い ===
{{Reflist|25em}}
 
== 参考文献 ==
メーレンを放棄した大王率いるプロイセン軍は[[ツヴィッタウ]]から[[ライトミシュル]]へ行軍し、そこからエルベ周辺に分散宿営して5月まで休養の態勢を取った。プロイセン軍は北東ベーメンを占領することによってシュレージエンともプラハとも連絡をつけることができ、グラッツ攻略を終えた若デッサウ軍および本国からの増援部隊と合流して兵力を回復した。しかし大王はフランスとの連携作戦が困難であることから再び単独講和に前向きになり、イギリスを介してのオーストリアとの交渉を再開した。
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*{{Cite book2|language=en|author=Friedrich II, King of Prussia|author-link=フリードリヒ2世 (プロイセン王)|editor-first=Jay|editor-last=Luvaas|editor-link=ジェイ・ルヴァス|title=Frederick the Great on the Art of War|publisher={{仮リンク|ダ・カポ・プレス|en|Da Capo Press|label=Da Capo Press}}|location=New York|year=2009|url=https://books.google.com/books?id=iS4vE33il3gC|isbn=978-0-7867-4977-5|ref=harv}}
*{{Cite encyclopedia2|language=de|first=Theodor|last=Hirsch|title=Johann Georg|editor-first=Rochus|editor-last=von Liliencron|encyclopedia={{仮リンク|ドイツ一般人名録|en|Allgemeine Deutsche Biographie|label=Allgemeine Deutsche Biographie}}|volume=14|year=1881|publisher=Duncker & Humblot|location=Leipzig|url=https://de.wikisource.org/wiki/ADB:Johann_Georg_(Markgraf_von_Brandenburg)|oclc=309922855|ref=harv}}
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*{{Cite book2|language=en|title=A History of Modern Germany: 1648–1840|first=Hajo|last=Holborn|author-link=ハヨ・ホルボーン|publisher=[[プリンストン大学出版局|Princeton University Press]]|location=Princeton, New Jersey|year=1982|isbn=978-0-691-00796-0|url=https://books.google.com/books?id=yeXYMV3CZ0IC|ref=harv}}
*{{Cite book2|language=en|last=Macdonogh|first=Giles|title=Frederick the Great: A Life in Deed and Letters|location=New York|publisher=St. Martin's Griffin|date=2001|isbn=978-0-312-27266-1|ref=harv}}
*{{Cite book2|language=en|last=Schweizer|first=Karl W.|title=England, Prussia, and the Seven Years War: Studies in Alliance Policies and Diplomacy|url=https://books.google.com/books?id=rfacoIz38n0C|year=1989|publisher={{仮リンク|エドウィン・メレン・プレス|en|Edwin Mellen Press|label=Edwin Mellen Press}}|location=Lewiston, New York|isbn=978-0-88946-465-0|ref=harv}}
*{{Cite book2|language=en|title=International Relations in Europe, 1689–1789|first=J. H.|last=Shennan|publisher=[[テイラーアンドフランシス|Taylor & Francis]]|location=London|year=2005|isbn=978-0-415-07780-4|url=https://books.google.com/books?id=rZAg0-dpTCAC|ref=harv}}
*{{Cite book|language=ja|author=S.フィッシャー=ファビアン|authorlink=ジークフリート・フィッシャー=ファビアン|translator=[[尾崎賢治]]|title=人はいかにして王となるか|volume=II|publisher=日本工業新聞社|date=1981|ref={{SfnRef|フィッシャー=ファビアン|1981}}}}
*{{Cite book|language=ja|author=カール・フォン・クラウゼヴィッツ|authorlink=カール・フォン・クラウゼヴィッツ|translator=[[篠田英雄]]|title=[[戦争論]](上)|date=1968|publisher=岩波文庫|ref={{SfnRef|クラウゼヴィッツ|1968}}}}
 
== 関連図書 ==
一方、カール公子軍はメーレンを回復したが、現地での食糧調達が不可能になっていると知ってそれ以降のプロイセン軍の追撃はすぐにあきらめた。オーストリア軍はザクセン軍撤退によって手薄になっているサザワ‐エルベ間を進撃することによって、プロイセン軍とプラハとの連絡を断ちつつ、東からプラハを攻撃することにした。カール公子軍はサザワ川を越えて西に進軍し、先鋒部隊はエルベ川周辺に出没してプロイセン軍の連絡線を脅かした。
 
大王はプラハとの連絡を断たれることを恐れ、またオーストリアに講和を飲ませるためにも戦闘が必要と考えて、軍を[[クルディム]]に集結させた。このとき大王はカール公子軍の進撃速度を見誤り、エルベ南岸からすみやかに敵兵を排除するつもりで軍を2つに分け、1万の兵を率いて本隊に先行したが、5月16日、後に続く若デッサウ軍は優勢なカール公子軍に直面し、急いで大王の後を追いつつその合流を求めた。
 
カール公子は会戦を求めて積極的にプロイセン軍に接近したが、敵の軍の分散をうまく利用できずみすみす合流を許した。[[5月17日]]の[[コトゥジッツの戦い]]でプロイセン軍は勝利した。
 
=== ブレスラウ条約 ===
同時期にフランス軍もベーメン南西部でオーストリア軍を撃退し、連合軍は小康を保つことになった。しかしもはや両者の間に信頼関係はなく、大王は単独講和に前向きだった。戦闘が行われている間も常にイギリスの外交官はオーストリアとプロイセンの和平周旋に動いており、マリア・テレジアに対してイギリスの大陸への派兵の条件としてプロイセンとの講和を強く求めていた。女王も会戦の敗北で2つの勢力を同時に相手にすることの難しさを再び思い知らされたところで、イギリスの申し出を受けざるを得なかった。
 
プロイセンは交渉で上シュレージエンに加えて北東ベーメンの地域を要求し、とくにグラッツは地形上、ズデーテン山地を切り裂くように存在する盆地にあり、しかもナイセ川の上流であったから、シュレージエンを守るにもベーメン、メーレンを攻めるにも有用な場所ということで強く要求した。結果、上シュレージエンのイェーゲルンドルフ、トロッパウ、[[チェシン公国|テシェン]]を除く全シュレージエンとグラッツをプロイセンに割譲するという条件で[[6月11日]]、[[ブレスラウ条約]]が成立し、第一次シュレージエン戦争は終結した。
 
== 結果 ==
 
[[プロイセン王国|プロイセン]]はわずか1年と半年で戦争の目的を達成し、[[シレジア|シュレージエン]]を得てその国力を倍増させた。大王は戦争で費やした国力の回復に4、5年は必要と考えていたが、その後戦争が予想外に[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]優位に進んだため、2年後には再参戦を決断する。[[第二次シュレージエン戦争]]である。
 
[[三十年戦争]]後の百年間、大陸ヨーロッパではおおむね、拡大を続けるフランスと、これに対抗するオーストリア及び[[神聖ローマ帝国|帝国]]の残滓によって緩い結びつきを持つ帝国諸侯という二つの勢力が競り合いを行うという大きな枠があった。[[フランス王国|フランス]]は帝国内に味方を得て敵の勢力を切り崩そうと、[[バイエルン大公|バイエルン]]を利用すること度々であったが成功しなかった。
 
ところがプロイセンは易々とこの枠組みをひっくり返した。プロイセンのシュレージエン獲得は[[外交革命]]を引き起こし、それは[[七年戦争]]によって明らかとなる。しかし、このときはまだ、将来に続かない特異な状態とも考えられた。というのは、プロイセンが優れた行財政と軍隊という長所を持っていたように、オーストリアもまた豊かな復元力を持ち、他の国もそれぞれの戦争目的を諦めていなかったからである。一度火のついた戦争は、各国が平和のうちに蓄えた力を出し切って納得せざるを得なくなるまで争わせることになり、そのためにはなお5年の歳月を必要として、プロイセンを一抜けた傍観者の地位には置いておかなかった。
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* 村岡晢『フリードリヒ大王 <small>啓蒙専制君主とドイツ</small>』(清水書院、1984年)
* S.フィッシャー=ファビアン 著\尾崎賢治 訳『人はいかにして王となるか』I、II(日本工業新聞社、1981年)
* アン・ティツィア・ライティヒ 著\江村洋 訳『女帝マリア・テレジア』(谷沢書房、1984年)
* ゲオルグ・シュライバー 著\高藤直樹 訳『偉大な妻のかたわらで <small>フランツ1世・シュテファン伝</small>』上下(谷沢書房、2003年)
* ゲオルク・シュタットミュラー 著\丹後杏一 訳『ハプスブルク帝国史 <small>人間科学叢書15</small>』(刀水書房、1989年)
* [[カール・フォン・クラウゼヴィッツ|クラウゼヴィッツ]] 著\[[篠田英雄]]訳『[[戦争論]]』(岩波文庫、1968年)
* 林健太郎、堀米雇三 編『世界の戦史6 <small>ルイ十四世とフリードリヒ大王</small>』(人物往来社、1966年)
* 四手井綱正『戦争史概観』(岩波文庫、1943年)
139 ⟶ 148行目:
* 久保田正志『ハプスブルク家かく戦えり <small>ヨーロッパ軍事史の一断面</small>』(錦正社、2001年)
* 歴史群像グラフィック戦史シリーズ『戦略戦術兵器辞典3 <small>ヨーロッパ近代編</small>』 (学習研究社、1995年)
* Reed Browning『The War of the Austrian Succession』(New York: St Martin's Press、1993年)
* Christopher Duffy『Frederick the Great <small>A Military Life</small>』(New York: Routledge、1985年)
* Giles Macdonogh『Frederick the Great <small>A LIFE IN DEED AND LETTERS</small>』(New York: St.Martin's Griffin、2001年)
* Thomas Carlyle [http://carlyle.classicauthors.net/Friedrich/index.html History of Friedrich II]
 
{{Normdaten}}
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[[Category:オーストリア継承戦争]]
[[Category:シレジアの歴史]]
[[Category:フリードリヒ2世]]