「国鉄D52形蒸気機関車」の版間の差分

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| 背景色 = #000
| 文字色 = #fff
| 画像 = Japanese-national-railways-D52-235-20110123.jpg
| 画像幅 =
| 画像説明 = 静態保存されるD52 1(2005年10月JR貨物祭りで撮影)2011年
| 運用者 = [[運輸省]]→[[日本国有鉄道]]
| 製造所 = [[東海旅客鉄道浜松工場|浜松工機部]]・[[西日本旅客鉄道鷹取工場|鷹取工機部]]<br/>[[汽車製造]]・[[日本車輌製造]]<br/>[[川崎重工業車両カンパニー|川崎車輛]]・[[日立製作所]]<br/>[[三菱重工業]]
| 製造年 = [[1943年]] - [[1946年]]
| 製造数 = 285両
| 引退 = 1972年
| 愛称 = デゴニ
| 運用範囲 = [[東海道本線]]・[[山陽本線]]<br>[[函館本線]]・[[室蘭本線]]<br>[[東北本線]]
| 軸配置 = 1D1 ([[車輪配置 2-8-2|2-8-2]]、ミカド)
| 軌間 = 1,0671067 [[ミリメートル|mm]]
| 全長 = 21,10521105 mm
| 全幅 =
| 全高 = 3,9823982 mm
| 機関車重量 = 74.42 t(空車)<br>85.13 t(運転整備)
| 動輪上重量 = 66.29 t(運転整備)
| 炭水車重量 = 19.74 t(空車)<br>51.76 t(運転整備)
| 総重量 = 94.16 t(空車)<br>136.89 t(運転整備)
| 固定軸距 =
| 先輪径 =
| 動輪径 = 1,4001400 mm
| 従輪径 =
| 軸重 = 16.63 [[トン|t]](最大・第3動輪上)
| シリンダ数 = 単式2気筒
32行目:
| ボイラ圧力 = 16.0 kg/[[平方センチメートル|cm<sup>2</sup>]]
| ボイラ水容量 = 9.87 m<sup>3</sup>(過熱式)<!-- 過熱器 シュミット式 -->
| 大煙管 = 140 mm×5,500mm mm×35× 5500 mm × 35
| 小煙管 = 57 mm×5,500mm mm×94× 5500 mm × 94
| 火格子面積 = 3.85 m<sup>2</sup>
| 全伝熱面積 = 167.1 m<sup>2</sup>
44行目:
| 水槽容量 = 22.0 [[立方メートル|m<sup>3</sup>]]
| 制動装置 = 自車: [[空気ブレーキ]]<br />編成: [[自動空気ブレーキ]]
| 保安装置 =
| 最高運転速度 = 85 km/h
| 設計最高速度 =
| 最大出力 = 1,9491949 [[馬力|PS]]
| 動輪周出力 = 1,6601660 PS
| 引張力 =
| シリンダ引張力 =
| 粘着引張力 =
| 備考 =
| 備考全幅 =
}}
'''D52形蒸気機関車'''(D52がたじょうききかんしゃ)は、[[日本国有鉄道]](国鉄、製造時は[[鉄道省]]→[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]])の貨物用[[テンダー機関車|テンダー式]][[蒸気機関車]]である。通称デゴニ
 
== 開発導入背景経緯 ==
本形式は[[第二次世界大戦]]に伴う戦時輸送のために導入された大型貨物用蒸気機関車であり、資材不足に対応するための戦時設計となっていることが特徴であった。
[[1930年代]]後半になって[[昭和恐慌]]の影響を脱し、また[[日中戦争]]の影響もあって需要が増大しつつあった日本国内の貨物輸送に対応して、国鉄では[[国鉄D51形蒸気機関車|D51形]]の増備が続けられていたが、D51形は[[国鉄D50形蒸気機関車|D50形]]を元に粘着重量の軽減、全長の短縮など地方路線でも運用しやすくすることを重視した設計であったことから、幹線の貨物列車牽引用としてD51形より出力の高い蒸気機関車が鉄道省内で検討されていた。
=== 戦時輸送 ===
[[1937年]]の[[日中戦争]]開始に伴い、人も物資も動きが活発になり、[[旅客列車]]は毎年10 - 20千 km、貨物列車は20 - 30千 kmの増発が行われ、以後6年間で旅客列車は60千 km、貨物列車は110千 km 増加していた<ref name="tgh51-17">[[#tgh51|『鉄道技術発達史 第5篇』 p.17]]</ref>。
 
その後、[[太平洋戦争]]の進展に伴い、日本国内の貨物輸送は、[[貨物船]]の陸海軍による[[徴発#大日本帝国軍|徴発]]と米軍の攻撃による喪失が増大したこともあって産炭地からの石炭輸送を中心に内航運輸の輸送力が不足した。これに対応するため、[[1942年]][[10月6日]]に[[閣議 (日本)#大日本帝国憲法下|閣議]]決定された「戦時陸運非常体制確立方策要綱」<ref>[{{NDLDC|1712216/86}} 「戦時陸運非常体制確立方策要綱」『経済基本方策要綱』東京商工会議所商工資料 第88号](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref> [https://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00419.php 「戦時陸運ノ非常体制確立ニ関スル件」(国立国会図書館リサーチ・ナビ)]</ref>では戦時陸運の非常体制を確立し、まずは[[石炭]]輸送の確保を主眼とし、逐次[[鋼|鉄鋼]]その他の重要物資の海上輸送を陸上輸送に移して余剰の船舶を[[満州]]・[[中国大陸]]方面や南方方面からの輸送に充てるための5項目からなる要綱が定められ、その要綱の下に9項目からなる措置が定められており、そのうち国内輸送に関する主な事項は以下の通りであった。
その中でも動軸の軸重は16t以上、ボイラーをD51形より大型化させたD形機がKD50形からKD54形として[[1939年]](昭和14年)から[[1940年]](昭和15年)に計画され、特にKD54-B形はD51形と同程度の下回りに燃焼室を備えた大型ボイラーを載せるなど、後年にD52形の設計へ取り入れられた要素も多いものであったが、実際の製造には至らないまま[[太平洋戦争]]の開戦を迎えた<ref>『幻の国鉄車両』 pp.67 - 72</ref>。
* [[関門トンネル (山陽本線)|関門トンネル]]を経由する九州炭の輸送能力を年間750万トン程度を目標として増強する。
* 北海道炭は[[青函連絡船]]の増強により輸送能力の年間250万トン程度を目標として増強する。
* 危険性の高い[[太平洋]]側の海上輸送を[[日本海]]側への陸揚げ・陸上輸送への連携にシフトさせて、月間13万トンから50万トン程度に引上げる。
* 輸送線区・設備の増強工事の施工、車両の増備および改造、荷役力・小運搬力の増強・石炭荷役設備の整備などの緊急措置を行う。
 
この計画を念頭に、[[1943年]]2月の[[ダイヤ改正]]では[[旅客列車]]を21千 km削減して[[貨物列車]]約20千 kmを増発し、その後も約2か月毎程度のダイヤ改正を行って北海道・九州・裏日本揚の石炭輸送増や[[山田線]]の[[鉄鉱石]]輸送開始に対応し、さらに同年10月のダイヤ改正では旅客列車を約46千 km削減して貨物列車約35千 kmを増発して貨物列車の運行は398千 kmの設定となり、旅客列車の削減により余剰となった機関車を貨物列車に回すとともに、列車運行の効率化などを行うなどの施策によりこれに対応している<ref name="tgh51-18">[[#tgh51|『鉄道技術発達史 第5篇』 p.18]]</ref>。[[1944年]]に入ってもダイヤ改正が続き、4月には[[第五青函丸]]の就航に伴う北海道炭輸送増強と[[急行列車]]13.4千 kmの削減、6月には九州炭輸送増強のための貨物列車9.5千 kmの増発などが実施され、10月のダイヤ改正では旅客列車を6千 km削減して貨物列車を17.5千 km増発し、旅客列車350千 km・貨物列車430千 kmの設定となっている<ref name="tgh51-18" />。1937年から1945年の間の輸送量の変化は以下の通り。
そして[[戦中|戦時中]]の[[1943年]](昭和18年)に至り、日本国内の貨物輸送は、前年以来貨物船の軍への供出と米軍の攻撃による喪失が増大したこともあって産炭地からの石炭輸送を中心に内航運輸の輸送力が不足、これを補うため戦時陸運非常体制として京浜・阪神の両工業地帯へ北海道から年間250万t、九州から年間750万tの石炭を陸上輸送することなどを盛り込んだ輸送計画が出されるに至った。そうした情勢において、主に[[東海道本線|東海道]]・[[山陽本線]]で1200[[トン|t]]の[[貨物列車]]を牽引することを目的にして誕生した機関車がD52形蒸気機関車である。
 
{| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center; margin:0em 0em 1em 0em;"
== 設計・性能 ==
!colspan=11|年度別の戦時輸送の状況<ref name="keis46-6">[[#keis46|『日本国鉄の戦時動員と陸運転移の展開』 p.6]]</ref>
D52形は戦前に計画されたKD54形の案を元に、D51形と同一の軸配置で[[ボイラー]]を可能な限り大型化、火室前方に大きな容量の燃焼室を設けて効率を向上、粘着重量の増大や重量配分の変更を図るとともに出力を上げ、ボイラー大型化の効果により最大動輪周出力は1,660[[馬力]]と、日本の蒸気機関車の中では最高の出力を持たせるものとなった。
|-
!種別!!項目!!1937年!!1938年!!1939年!!1940年!!1941年!!1942年!!1943年!!1944年!!1945年
|-
!rowspan=4|貨物列車||トン数
|106百万 t||118百万 t||131百万 t||146百万 t||152百万 t||158百万 t||178百万 t||161百万 t||81百万 t
|-
!トンキロ数
|18.9十億 t・km||21.9十億 t・km||25.3十億 t・km||27.9十億 t・km||29.8十億 t・km||33.9十億 t・km||42.8十億 t・km||41.2十億 t・km||19.0十億 t・km
|-
!1日1キロ平均通貨貨車
|447.4 両||480.5 両||521.4 両||542.3 両||562.1 両||613.6 両||647.0 両||561.9 両||291.9 両
|-
!1列車あたり輸送トン
|221.1 t||237.6 t||243.0 t||256.6 t||263.1 t||278.0 t||306.2 t||297.1 t||229.1 t
|-
!rowspan=2|旅客列車!!人キロ数
|29.1十億 人・km||33.6十億 人・km||42.1十億 人・km||49.3十億 人・km||55.5十億 人・km||60.5十億 人・km||74.1十億 人・km||77.3十億 人・km||76.0十億 人・km
|-
!1日1キロ平均通貨客車
|165 両||167 両||180 両||193 両||199 両||201 両||186 両||167 両||133 両
|-
|- class="sortbottom
|colspan=11 style="text-align:left" |{{Reflist|group="表注"}}
|}
 
=== 戦時の車両増備と戦時設計 ===
しかし、戦時中のため物資が極端に不足した情勢でもあることから、戦争完遂まで数年だけ持てば良い、または走ればよいという[[戦時設計]]が、計画途中から本格的に導入されることとなり<ref>衣笠敦雄「D52とD62」『鉄道ピクトリアル』 1962年10月号 (No.137) pp.4 - 5</ref><ref>「蒸気機関車四方山話 第25回 国鉄唯一のヘビー・ミカドD52形」高木宏之『国鉄時代』2014年5月号 (vol.37) pp.74 - 75</ref>、砂箱と一体化した蒸気ドームカバーの角型化や、台枠・弁装置などに鋳鋼製部品使用といった工作の簡易化、[[銅]]系材料の節約、除煙板や踏板、炭水車の炭庫といった部分に代用材として[[木材]]が多数使われるなど、総体の造りとしては非常に質の悪いものであった。その結果、設計上の効率はD51よりも大幅に改善されているにも関わらず、本来の力を出せない車両が多く、1944年末の大阪鉄道局管内を例にすると配属33両中12両もの本形式が、材質や工作状態の不良による故障を起こしていた<ref>川上幸義『私の蒸気機関車史 下巻』 1981年5月 p.364</ref>。
[[1937年]]の[[日中戦争]]開始に伴い鉄道動員体制となった<ref name="keis46-4">[[#keis46|『日本国鉄の戦時動員と陸運転移の展開』 p.4]]</ref>ことと、開戦に伴う旅客・貨物の輸送量増加に対応するため、[[1938年]]度に「輸送力拡充4 ヵ年計画」(1941年度まで)を策定し、総額96.6百万円の予算のうち、車両増備にその55%に充当して輸送力の増強を図ったが、資材不足により次第に計画達成率が低下していた<ref name="keis46-7">[[#keis46|『日本国鉄の戦時動員と陸運転移の展開』 p.7]]</ref>。その後、1942年度から10か年の「交通施設長期整備計画」を策定し、当初の5年間は毎年220百万円の予算のうち22%を車両増備に充てることとしていた。しかし、1942年の戦時陸運非常体制確立に伴いこちらに経営資源を振り向けることとなり<ref name="keis46-16">[[#keis46|『日本国鉄の戦時動員と陸運転移の展開』 p.16]]</ref>、[[1943年]][[7月20日]]の閣議決定により、「鉄道車輌の計画増産確保に関する件」<ref>[https://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00484.php 「鉄道車輌ノ計画増産確保ニ関スル件」(国立国会図書館リサーチ・ナビ)]</ref>が定められ、車両製造工場を[[国家総動員法]]に基づき鉄道大臣の管理下に入れて官民一体で車両製造・修繕にあたるとともに、車両製造については五大重点産業{{Refnest|group="注釈"|石炭、鉄鋼、[[アルミニウム]]、[[造船]]、[[航空機]]、1942年11月に内閣に設置された臨時生産増強委員会設置要綱<ref>[https://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00432.php 「臨時生産増強委員会設置要綱」(国立国会図書館リサーチ・ナビ) ]</ref>による}}並みの扱いとして車両増備を加速することとなり、各民間工場に監理官が配置されて指揮監督または指導斡旋を行った<ref name="keis46-18">[[#keis46|『日本国鉄の戦時動員と陸運転移の展開』 p.18]]</ref>。1937年から1945年にかけての蒸気機関車の発注状況は以下の通り。
 
{| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center; margin:0em 0em 1em 0em;"
また、ボイラー用材の幅広鋼材が不足したため、各缶胴の長さを変え、用材の寸法取りを合理化した。ボイラーの種類は3種(甲缶、乙缶、丙缶)あり、長さの差は煙室長で調整した。煙管長は5,000mmで統一されていたため、丙缶では燃焼室長が短くなっている。原設計は甲缶で、すべて[[リベット|鋲接]]により組み立てられており、将来の増圧 (18kg/cm<sup>2</sup>) を意図して2列鋲式であったが、乙缶・丙缶では1列鋲とし、長手継手を溶接とするなど、構造の簡略化が図られている。概ね、甲缶が国有鉄道工場、乙・丙缶が民間工場製と分かれている。これ以外にも給水加熱器もボイラー受台の中に排気膨張室兼用のものを設置して配管を簡略化、通常のボイラー外部に備える方式に比べて金属材料の使用量を削減するといったことが行われた。
!colspan=12|年度別の蒸気機関車発注状況<ref name="kjs-86_169">[[#kjs|『国鉄蒸気機関車史』 p.86, 105, 116, 130, 153, 169]]</ref>{{Refn|group="表注"|戦時買収および樺太内地編入による鉄道省編入機を除く。}}
|-
!用途!!形式!!1937年!!1938年!!1939年!!1940年!!1941年!!1942年!!1943年!!1944年!!1945年!!備考
|-
!rowspan=4|支線用||[[国鉄C11形蒸気機関車|C11形]]
|31両|| - ||60両||26両||20両|| - ||19両||59両|| - ||style="text-align:left" |1943年度発注分以降は戦時型
|-
![[国鉄C12形蒸気機関車|C12形]]
|22両||26両||30両||30両||colspan=5| - ||
|-
![[国鉄C56形蒸気機関車|C56形]]
|45両||14両||colspan=7| - ||
|-
![[国鉄C58形蒸気機関車|C58形]]
|10両||135両||71両||73両||40両||20両||19両||colspan=2| - ||
|-
!rowspan=2|旅客用!![[国鉄C57形蒸気機関車|C57形]]
|58両||48両||28両||16両||17両||colspan=4| - ||
|-
![[国鉄C59形蒸気機関車|C59形]]
|colspan=3| - ||15両{{Refnest|group="表注"|別資料では1940年度以降27両、63両、10両<ref name="kjs-169">[[#kjs|『国鉄蒸気機関車史』 p.169]]</ref>}}||50両||35両||colspan=3| - ||
|-
!rowspan=2|貨物用!!D51形
|58両||136両||248両||194両||134両||29両||100両||160両|| - ||style="text-align:left" |1943年度発注分は準戦時型{{Refnest|group="表注"|別資料では1942年度発注分のうち4両も準戦時型<ref name="kjs-116">[[#kjs|『国鉄蒸気機関車史』 p.116]]</ref>}}、1944年度発注分は戦時型
|-
!D52形
|colspan=6| - ||150両||220両|| - ||style="text-align:left" |全機戦時型
|-
!colspan=2|合計
|224両||359両||437両||354両||261両||84両||288両||439両||0両||
|-
|- class="sortbottom
|colspan=12 style="text-align:left" |{{Reflist|group="表注"}}
|}
 
さらに、細部の設計変更は本省の承認を得ることなく、現場の工場長や監督官の一存に任せられた。そのため、ドームカバーの段差やサンドパイプの減少、工作の簡略化や装備の省略化が行われ、形態のバリエーションを生み出している。
 
一方、開戦により車両用の資材が不足する状況となり、1938年製造のC58形以降代用材が使用されるようになり、1939年11月には269項目からなる「蒸気機関車代用材ー覧表<ref name="tgh41-436_440">[[#tgh41|『鉄道技術発達史 第4篇』 p.436-440]]</ref>」を設定して新製・修繕に適用し、一部部品については代用材使用に対応するための設計変更が実施された<ref name="tgh41-435">[[#tgh41|『鉄道技術発達史 第4篇』 p.435]]</ref>。さらにその後、一層の資材の節約を図るため、1943年[[1月4日]]付の「戦時規格委員会規程」で制定された戦時規格委員会において戦時陸運非常体制下における車両の生産増強のため以下の5項目について検討がなされた<ref name="tgh41-435" />。
炭水車は鋳鋼製2軸ボギー台車を装備するが、テンダー下部の水槽部分で牽引・圧縮および垂直強度を保持できる、との発想から、6mm厚の底板を用いた船底型のフレームレス・モノコック構造とし、一般的な台枠を省略した。これは同時期の戦時型D51と同様な省力化・省資材化の手法で、モノコック構造の鉄道車両への本格採用が1950年代中期近くまで立ち遅れた日本における、例外的な採用例である。このタイプの炭水車は、一部の設計を変更した形で終戦後に増備された中・大型の旅客用蒸気機関車にも導入されている。炭庫部分は石炭の質が悪化したことに対応して容量を当初計画の10tから12tに増大、転車台が空襲などで使用できない場合の逆行運転を想定し後方視界を確保するため、水槽部分より幅を狭めた形となった<ref>「蒸気機関車四方山話 第25回 国鉄唯一のヘビー・ミカドD52形」高木宏之『国鉄時代』2014年5月号 (vol.37) p.75</ref>。
* 安全率の低減
* 耐久寿命の短縮
* 規格の変更
* 使用期限および検査期間の延長
* 工程・艤装の簡易化
 
これらの検討の結果、戦争に勝つまでの2-3年を目途として、耐久力は問題外として急速大量生産するための、いわゆる「戦時設計」が策定され、1943年[[5月10日]]にD51形を対象に「戦時設計要網」およびその施行細則が定められ、これに基づいた「D51 形蒸気機関車戦時設計詳表」をもとにD51形戦時型が製造されるとともに、他形式の新製・修繕にもこれが準用されている<ref name="tgh41-435" />。戦時設計は「重要資材の節約」「資材確保の容易化」「製作工数・動力等の節約」の3項目の観点で定められており<ref name="tgh41-441">[[#tgh41|『鉄道技術発達史 第4篇』 p.441]]</ref>、これによるD51形の資材削減状況は下表のとおり。
 
{| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center; margin:0em 0em 1em 0em;"
!colspan=4|(参考)D51形の戦時設計における使用資材削減状況<ref name="tgh41-446">[[#tgh41|『鉄道技術発達史 第4篇』 p.446]]</ref><br/>上段:所要量{{Refn|group="表注"|所要量を示しており、これは設計重量とは異なる}}、下段:削減率
|-
!材料!!原設計!!準戦時設計<br/>1942年!!戦時設計<br/>1943年
|-
!銅
|2400 kg||1080 t<br/>55 %||500 kg<br/>79 %
|-
!鉛
|1200 kg||380 t<br/>68 %||160 kg<br/>89 %
|-
!鋼
|76000 kg||67000 kg<br/>12 %||64000 kg<br/>16 %
|-
|- class="sortbottom
|colspan=4 style="text-align:left" |{{Reflist|group="表注"}}
|}
 
=== D52形の導入 ===
[[1930年代]]後半から[[1940年代]]前半において、鉄道省では[[国鉄D51形蒸気機関車|D51形]]を増備していたが、同形式は[[国鉄D50形蒸気機関車|D50形]]を元に粘着重量の軽減、全長の短縮など地方路線でも運用しやすくすることを重視した設計であったことから、前期のような状況を踏まえ、幹線の貨物列車牽引用としてD51形より出力の高い蒸気機関車が鉄道省内で検討されていた。
 
そのような中で、動軸の軸重を16 t以上、ボイラーをD51形より大型化させたD形機で、3種類のボイラー容量毎にKD50形、KD51形、KD52形としたものが[[1939年]]に、車軸配置を1D2としてさらに大容量のボイラーを採用したKD53形および、ボイラーに燃焼室を採用したKD54-A形、KD-54B形が[[1940年]]にそれぞれ計画され、このうち、KD54-B形はD51形と同程度の下回りに燃焼室を備えた大型ボイラーを載せたもので、後にD52形となったものである<ref name="kjs-146_189">[[#kjs|『国鉄蒸気機関車史』 p.146, 189]]</ref>。これらの計画機とD51形、D52形、1943年に計画された[[国鉄KE50形蒸気機関車|KE50形]]の比較は以下の通り。
 
{| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center; margin:0em 0em 1em 0em;"
!colspan=15|KD51 - KD54形、KE50形、D51 - D52形主要諸元比較表<ref name="kjs-146_189" /><ref name="kjs-159_161">[[#kjs|『国鉄蒸気機関車史』 p.159, 161]]</ref>
|-
!rowspan=2|形式!!rowspan=2|車軸配置!!rowspan=2|動輪径!!colspan=5|ボイラー!!colspan=2|シリンダー!!rowspan=2|動輪上重量!!rowspan=2|シリンダー<br/>牽引力!!rowspan=2|備考
|-
!火格子面積!!内径 {{Refn|group="表注"|最大部の数値}} !!煙管長!!燃焼室長!!圧力!!直径!!行程
|-
!D51形{{Refn|group="表注"|D51 1 - 85, 91-100号機}}
|rowspan=4|1D1||rowspan=4|1400 mm||3.27 m<sup>2</sup>||1632 mm||rowspan=6|5500 mm||rowspan=5| - ||1.37 MPa||550 mm||rowspan=4|660 mm||56.00 t||166.4 kN||1936年製
|-
!KD52形
|3.60 m<sup>2</sup>||1700 mm||rowspan=8|1.57 MPa||530 mm||62.00 t||176.6 kN||rowspan=3|1939年計画
|-
!KD50形
|4.10 m<sup>2</sup>||1800 mm||560 mm||66.00 t||197.2 kN
|-
!KD51形
|4.50 m<sup>2</sup>||1900 mm||580 mm||70.00 t||211.5 kN
|-
!KD53形
|1D2||1520 mm||5.02 m<sup>2</sup>||1850 mm||570 mm||710 mm||68.00 t||202.4 kN||rowspan=3|1940年計画
|-
!KD54-A形
|rowspan=3|1D1||rowspan=3|1400 mm||3.80 m<sup>2</sup>||1700 mm||500 mm||rowspan=4|550 mm||rowspan=4|660 mm||64.40 t||rowspan=3|190.2 kN
|-
!KD54-B形
|rowspan=3|3.85 m<sup>2</sup>||rowspan=3|1846 mm||rowspan=2|5000 mm||rowspan=3|1000 mm||65.00 t
|-
!D52形
|64.79 t{{Refn|group="表注"|原形、甲缶・乙缶}}||1943年製
|-
!KE50形
|1E1||1250 mm||5500 mm||70.00 t||212.9 kN||1943年計画
|-
|- class="sortbottom
|colspan=15 style="text-align:left" |{{Reflist|group="表注"}}
|}
 
当時は蒸気機関車の設計は主要部の鉄道省が、詳細設計は鉄道省と民間会社が分担しており、D52形も同様の体制で進められており<ref name="locokei4-597">[[#locokei4|『機関車の系譜図 4』 p.597]]</ref>、1943年春時点では設計がある程度進んでいる状況であったが、その後「戦時設計要網」の適用や設計の見直しを行い<ref name="kjs-150">[[#kjs|『国鉄蒸気機関車史』 p.150]]</ref>、鉄道省が詳細設計を担当して<ref name="tgh41-166">[[#tgh41|『鉄道技術発達史 第4篇』 p.166]]</ref>急遽設計の手直しが行われた。製造に当たっては、変更点が多岐にわたる戦時設計のD51形とD52形は民間工場の混乱を防ぐために鉄道省の浜松工機部と鷹取工機部で先行製造されることとなり<ref name="kjs-150" />、本形式は1943年9月に製造が開始され、[[12月21日]]に鷹取工機部でD52 21号機が、[[12月28日]]に浜松工機部でD52 1号機が竣工している<ref name="locokei4-599">[[#locokei4|『機関車の系譜図 4』 p.599]]</ref>。その後、鉄道省の工場に引続いて民間の[[汽車製造]]・[[日本車輌製造]]・[[川崎重工業車両カンパニー|川崎車輛]]・[[日立製作所]]・[[三菱重工業]]でも生産が開始され1944年には量産体制となった。
 
D52形はD51形より動輪上重量を増して粘着引張力を増強するとともに、その分の重量とD51形でのデッドウエイトの廃止分の重量を利用したボイラーの大形化と高圧化によりシリンダー引張力および出力の増加を図っている。また、火室に燃焼室を設置することにより、燃焼効率をD51形の70 %から78 %に向上させるとともに煙管の短縮による資材の節約を図り、また、これにより重心を前方に移すことによってD51形では後方に偏っていた軸重バランスを前方に移して均等化を図っている<ref name="tgh41-446_447">[[#tgh41|『鉄道技術発達史 第4篇』 p.446-447]]</ref>。一方、各部の構造については機能の改善を図るとともに、生産性向上や資材入手の容易化を考慮しており、単なる代用材の使用に留まらずに[[銅]]、[[鉛]]などの重要資材の節約を図った本格的な銅鉛節約設計となっており<ref name="tgh41-188_189">[[#tgh41|『鉄道技術発達史 第4篇』 p.188-189]]</ref>、これらの設計により、D52形はD51形との比較において空車重量(≒資材所要量)は5 %、製造時の工数は約6 %それぞれ増加したが、出力は約22 %の増加となり、重量および所要資材量・工数あたりの出力が増強されている<ref name="tgh41-446_447">[[#tgh41|『鉄道技術発達史 第4篇』 p.446-447]]</ref>。
 
== 概要 ==
=== 仕様 ===
D52形は戦前に計画されたKD54形の案を元に、D51形と同一の軸配置で[[ボイラー]]を可能な限り大型化、火室前方に大きな容量の燃焼室を設けて効率を向上、粘着重量の増大や重量配分の変更を図るとともに出力を上げ、ボイラー大型化の効果により最大動輪周出力は1660 PSと、日本の蒸気機関車の中では最高の出力であった。
 
しかし、戦時中のため物資が極端に不足した情勢でもあることから、戦争完遂まで数年だけ持てば良い、または走ればよいという[[戦時設計]]が計画途中から本格的に導入され<ref>衣笠敦雄「D52とD62」『鉄道ピクトリアル』 1962年10月号 (No.137) pp.4 - 5</ref><ref>「蒸気機関車四方山話 第25回 国鉄唯一のヘビー・ミカドD52形」高木宏之『国鉄時代』2014年5月号 (vol.37) pp.74 - 75</ref>、砂箱・蒸気ドームカバーの角型化や、台枠・弁装置などに鋳鋼製部品使用といった工作の簡易化、[[銅]]系材料の節約、除煙板や踏板、炭水車の炭庫といった部分に代用材として[[木材]]が多数使われるなど、総体として非常に質の悪いものであった。その結果、設計上の性能はD51形よりも大幅に改善されているにも関わらず、本来の力を出せない車両が多く、1944年末の大阪鉄道局管内を例にすると配属33両中12両が材質や工作状態の不良による故障を起こしていた<ref>川上幸義『私の蒸気機関車史 下巻』 1981年5月 p.364</ref>。
 
ボイラーの種類は3種(甲缶、乙缶、丙缶)あり、丙缶はボイラー用材の幅広鋼材が不足したため各缶胴の長さを変え、用材の寸法取りを合理化したが、煙管長は5000 mmで統一されていたため、丙缶では燃焼室長が短くなっている。原設計は甲缶で、長手継手は[[リベット|鋲接]]により組立てられており、将来の増圧 (18 kg/cm<sup>2</sup>) を考慮して缶胴の接続部はリベットが2列であったが、乙缶・丙缶ではリベットを1列とし、長手継手を溶接とするなど、構造の簡略化が図られている。概ね、甲缶が国有鉄道工場、乙・丙缶が民間工場製と分かれている。これ以外にも給水加熱器もボイラー受台の中に排気膨張室兼用のものを設置して配管を簡略化と金属材料の使用量削減を図っている。ボイラー種別ごとの要目は以下の通り。
 
{| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center; margin:0em 0em 1em 0em;"
!colspan=23|D52形ボイラー種別一覧表<ref name="kjs-146_189" /><ref name="locokei4-540_541">[[#locokei4|『機関車の系譜図 4』 p.540-541]]</ref>
|-
!rowspan=3|ボイラー種別!!colspan=9|缶胴!!colspan=5|火室・燃焼室!!colspan=3|煙管!!colspan=3|伝熱面積!!rowspan=3|缶水容量!!rowspan=3|重量
|-
!rowspan=2|缶胴<br/>種別!!colspan=3|缶胴長!!colspan=3|缶胴{{Refn|group="表注"|板厚19 mm}}内径!!colspan=2|缶胴工法!!rowspan=2|燃焼室<br/>種別!!rowspan=2|火格子<br/>面積!!rowspan=2|燃焼室長!!rowspan=2|外火室<br/>天板長!!rowspan=2|火室容積!!rowspan=2|煙管長!!rowspan=2|大煙管{{Refn|group="表注"|直径140 mm}}<br/>本数!!rowspan=2|小煙管{{Refn|group="表注"|直径57 mm}}<br/>本数!!rowspan=2|火室!!rowspan=2|煙管!!rowspan=2|過熱
|-
!第1!!第2!!第3!!第1!!第2!!第3!!周方向!!長手方向
|-
!甲缶
|甲||2230 mm||rowspan=2|2470 mm||1501 mm||rowspan=3|1770 mm||rowspan=3|1808 mm||rowspan=3|1846 mm||リベット2列||リベット||rowspan=2|甲||rowspan=3|3.85 m<sup>2</sup>||rowspan=2|1000 mm||2296 mm||rowspan=2|7.0 m<sup>2</sup>||rowspan=3|5000 mm||rowspan=3|35本||rowspan=3|94本||rowspan=2|20.1 m<sup>2</sup>||rowspan=3|147.7 m<sup>2</sup>||rowspan=3|77.4 m<sup>2</sup>||rowspan=2|9.6 m<sup>3</sup>||18.37 t
|-
!乙缶
|乙||2100 mm||1450 mm||rowspan=2|リベット1列||rowspan=2|溶接||2276 mm||17.65 t
|-
!丙缶
|丙||colspan=3|各1980 mm||乙||920 mm||2275 mm||6.88m<sup>3</sup>||19.7 m<sup>2</sup>||9.5 m<sup>3</sup>||17.53 t
|-
|- class="sortbottom
|colspan=23 style="text-align:left" |{{Reflist|group="表注"}}
|}
 
さらに、細部の設計変更は本省の承認を得ることなく、現場の工場長や監督官の一存に任せられた。そのため、ドームカバーの段差やサンドパイプの減少、工作の簡略化や装備の省略化が行われ、形態が多様化しているほか、汽車製造製のD52 380 - 384号機の5両は制式のボックス輪心に代えて円板を湾曲させて一枚板構造としたディスク輪心を使用した。
 
炭水車は鋳鋼製2軸ボギー台車を装備するが、テンダー下部の水槽部分で牽引・圧縮および垂直強度を保持することとして、6 mm厚の底板を用いた船底型のフレームレス構造とし、一般的な台枠は前後の連結器部から台車中心部のみとした<ref group="注釈">同時期の戦時型D51と同様な省力化・省資材化の手法で、モノコック構造の鉄道車両への本格採用が1950年代中期近くまで立ち遅れた日本における、例外的な採用例であり、一部の設計を変更した形で終戦後に増備された中・大型の旅客用蒸気機関車にも導入されている。</ref>。炭庫部分は石炭の質が悪化したことに対応して容量を当初計画の10 tから12 tに増大、転車台が空襲などで使用できない場合の逆行運転を想定し後方視界を確保するため、水槽部分より幅を狭めた形となった<ref>「蒸気機関車四方山話 第25回 国鉄唯一のヘビー・ミカドD52形」高木宏之『国鉄時代』2014年5月号 (vol.37) p.75</ref>。
 
=== 戦後の改造 ===
==== 運用状況 ====
戦時設計であった本形式は、運用上の酷使、工作や整備の不良のため、1945年中に死傷者を伴うボイラー破裂・爆発事故を続けて3件も起こしたことから、一旦全機の使用が停止され、X線によるボイラーの検査等を実施する一方、応急的な対策としてボイラー水位を高めたり火室控の交換、蒸気圧の減圧といった処置を施して対応した{{Refnest|group="注釈"|1945年8月11日に山陽本線万富駅でD52 82のボイラーが破裂する事故が発生。乗務員は50 mも吹き飛ばされた。1945年12月7日には、三石・吉永間でD52 371の焚き口から蒸気が噴き出す事故が発生し、乗務員が飛ばされた。これは、火室の中の天井板の破裂が原因である<ref>おのつよし 『日本の鉄道100ものがたり』[[文藝春秋]]文春文庫 1991年5月10日 pp.318 - 321 「爆発する機関車」</ref>。}}が、事故および状態不良で1946年 - 1950年に以下の55両が[[廃車 (鉄道)|廃車]]となった。
: D52 5, 7, 8, 9, 27, 30, 47, 51, 59, 73, 78, 80, 83(事故), 84, 87, 88(戦災), 90(戦災), 91(戦災), 95, 97, 103, 107, 110, 111, 113, 114, 116, 120, 205, 206, 207, 208, 209(事故), 212, 215, 220, 221, 238, 346, 347, 350, 351, 359, 364, 371, 381, 394, 395, 409, 410, 411, 412, 413, 443, 465
 
==== 他形式への改造 ====
{{Main|国鉄C62形蒸気機関車|国鉄D62形蒸気機関車}}
戦時輸送の終了による貨物用機関車の余剰化と、旅行の制限がなくなったことによる旅客輸送量の増加にともなう旅客用機関車不足のため、[[1948年]]から[[1949年]]にかけて本形式のボイラーを流用し、[[国鉄C59形蒸気機関車|C59形]]相当で従軸を2軸とした走行装置と組合わせた旅客用機関車[[国鉄C62形蒸気機関車|C62形]]が49両(うち1両は2両分のボイラーを組合わせて1両分としたため、種車となったD52形は50両。)製造された。前後の機番対称は以下の通り。
 
{| class="wikitable collapsible collapsed" style="font-size:80%; text-align:center; margin:0em 0em 1em 0em;"
!colspan=7|D52形→C62形改造一覧<ref name="locolist-1886_1893">[[#locolist|『機関車表』 p.1886-1893]]</ref>
|-
!形式!!改造後番号!!改造前番号!!製造所!![[製造番号]]!!colspan=2|竣工日
|-
!rowspan="49"|C62形
|C62 1||D52 74||rowspan="21"|[[日立製作所]]||1921||rowspan=17|1948年||1月17日
|-
|C62 2||D52 455||1930||5月20日
|-
|C62 3||D52 458||1931||6月18日
|-
|C62 4||D52 399||1932||6月30日
|-
|C62 5||D52 349||1933||7月20日
|-
|C62 6||D52 461||1934||7月31日
|-
|C62 7||D52 464||1955||8月26日
|-
|C62 8||D52 446||1956||8月19日
|-
|C62 9||D52 121||1957||9月6日
|-
|C62 10||D52 119||1958||9月23日
|-
|C62 11||D52 150||1959||10月6日
|-
|C62 12||D52 445||1796||10月23日
|-
|C62 13||D52 447||1797||11月10日
|-
|C62 14||D52 145||1798||11月30日
|-
|C62 15||D52 112||1799||12月15日
|-
|C62 16||D52 127||1800||12月22日
|-
|C62 17||D52 269||1801||12月30日
|-
|C62 18||D52 375||1802||rowspan=4|1949年||1月26日
|-
|C62 19||D52 407||1803||3月6日
|-
|C62 20||D52 225||1804||3月14日
|-
|C62 21||D52 277||1805||3月20日
|-
|C62 22||D52 222||rowspan="15"|[[川崎重工業車両カンパニー|川崎車輛]]||3155||rowspan=23|1948年||8月20日
|-
|C62 23||D52 23||3156||8月31日
|-
|C62 24||D52 233<br />(D52 106)<ref group="表注">公式にはD52 233号機の乙缶を使用、実際にはD52 106号機の丙缶を組合わせて1両分とし、丙缶扱い。</ref>||3157||9月24日
|-
|C62 25||D52 226||3158||9月30日
|-
|C62 26||D52 46||3159||10月8日
|-
|C62 27||D52 49||3160||10月16日
|-
|C62 28||D52 151||3161||10月21日
|-
|C62 29||D52 85||3162||10月28日
|-
|C62 30||D52 152||3163||11月11日
|-
|C62 31||D52 227||3164||11月18日
|-
|C62 32||D52 147||3165||11月24日
|-
|C62 33||D52 82||3166||11月30日
|-
|C62 34||D52 230||3167||12月18日
|-
|C62 35||D52 93||3168||12月26日
|-
|C62 36||D52 231||3169||12月12日
|-
|C62 37||D52 358||rowspan="13"|[[汽車製造]]||2450||9月18日
|-
|C62 38||D52 374||2564||9月29日
|-
|C62 39||D52 141||2565||10月6日
|-
|C62 40||D52 367||2566||10月15日
|-
|C62 41||D52 352||2567||10月23日
|-
|C62 42||D52 357||2568||11月12日
|-
|C62 43||D52 345||2569||11月30日
|-
|C62 44||D52 356||2570||12月26日
|-
|C62 45||D52 353||2571||rowspan=5|1949年||3月8日
|-
|C62 46||D52 226||2572||3月21日
|-
|C62 47||D52 366||2573||3月31日
|-
|C62 48||D52 380||2574||4月8日
|-
|C62 49||D52 104||2575||4月20日
|-
|- class="sortbottom
|colspan=7 style="text-align:left" |{{Reflist|group="表注"}}
|}
 
また、第二次大戦後に主要幹線の急速な電化が計画されたことに伴い、1950年から1951年にかけて戦時設計から標準設計への復元に併せて従軸を1軸から2軸として、軸重を線路規格の低い「[[線路等級|乙線]]」への入線可能な値に調整することが可能な[[国鉄D62形蒸気機関車|D62形]]に20両が改造された<ref name="tgh41-190_191">[[#tgh41|『鉄道技術発達史 第4篇』 p.190-191]]</ref>。当時の線路等級ごとの軌道延長は以下の通り。
 
{| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center; margin:0em 0em 1em 0em;"
!colspan=7|線路種別・本線軌道延長の構成(1945年度末)<ref name="locokei4-627">[[#locokei4|『機関車の系譜図 4』 p.627]]</ref><br/>上段:延長、下段:構成率
|-
!種別!!特甲線{{Refn|group="表注"|甲線のうち、特に主要な線区<ref name="tgh51-62">[[#tgh51|『鉄道技術発達史 第5篇』 p.62]]</ref>}}!!甲線!!乙線!!丙線!!簡易線{{Refn|group="表注"|丙線のうち、特に簡易な構造の鉄道<ref name="tgh11-65">[[#tgh11|『鉄道技術発達史 第1篇』 p.65]]</ref>}}!!計
|-
!構成
|1267 km<br/>5.7 %||3710 km<br/>16.6 %||6788 km<br/>30.4 %||8518 km<br/>38.2 %||2041 km<br/>9.1 %||22326 km<br/>100.0 %
|-
|- class="sortbottom
|colspan=7 style="text-align:left" |{{Reflist|group="表注"}}
|}
 
改造後しばらくは動輪上重量をほとんど軽減せずにD52形と共通運用されていたが、1958年から1959年にかけて動輪の軸重を軽減して乙線に入線可能にするとともに、シリンダー直径を550 mmから530 mmに縮小してシリンダー牽引力をD51形とほぼ同じに変更しており、低速域ではD51形と、高速域ではD52形と同等の性能となった<ref name="tgh41-190_191" />。しかし、幹線の電化が当初の計画通りには進展せず、輸送情況も変化したため、当分の間はD52形が必要とされることとなり、D62形への改造は20両で終了して<ref name="tgh41-190_191" />D52形のまま標準設計に復元する装備改造の実施に移行することとなった<ref name="tgh41-188_189">[[#tgh41|『鉄道技術発達史 第4篇』 p.188-189]]</ref>。
 
改造前後の機番対称は以下の通り。
{| class="wikitable collapsible collapsed" style="font-size:80%; text-align:center; margin:0em 0em 1em 0em;"
!colspan=9|D52形→D62形改造およびD62形軸重軽減改造一覧<ref name="locolist-2148_2180">[[#locolist|『機関車表』 p.2148-2180]]</ref>
|-
!rowspan=2|形式!!colspan=5|車軸配置変更改造!!colspan=3|軸重軽減改造
|-
!改造後番号!!改造前番号!!改造所!!colspan=2|竣工日!!改造所!!colspan=2|出場日
|-
!rowspan="20"|D62形
|D62 1||D52 368||rowspan="20"|[[東海旅客鉄道浜松工場|浜松工場]]||rowspan=14|1950年||3月1日||rowspan=7|郡山工場||rowspan=7|1959年||11月6日
|-
|D62 2||D52 448||3月7日||10月27日
|-
|D62 3||D52 401||3月13日||9月15日
|-
|D62 4||D52 450||3月22日||11月23日
|-
|D62 5||D52 449||3月30日||9月2日
|-
|D62 6||D52 42||8月24日||11月26日
|-
|D62 7||D52 344||9月1日||10月1日
|-
|D62 8||D52 336||9月18日||鷹取工場||1958年||12月13日
|-
|D62 9||D52 94||10月5日||rowspan=12|郡山工場||rowspan=12|1959年||9月3日
|-
|D62 10||D52 132||10月24日||12月2日
|-
|D62 11||D52 337||11月6日||11月8日
|-
|D62 12||D52 397||11月20日||11月26日
|-
|D62 13||D52 211||12月7日||10月31日
|-
|D62 14||D52 334||12月19日||9月27日
|-
|D62 15||D52 377||rowspan=6|1951年||1月9日||9月15日
|-
|D62 16||D52 338||1月19日||10月21日
|-
|D62 17||D52 343||2月5日||11月29日
|-
|D62 18||D52 360||2月15日||10月5日
|-
|D62 19||D52 339||3月5日||12月25日
|-
|D62 20||D52 462||3月19日||9月9日
|-
|}
 
==== 装備改造 ====
その後、D62形・C62形へ改造した70両と、廃車となった55両を除いた160両のうち148両に対し、1951年以降、D62形の整備内容に準じた装備改造を浜松工場、鷹取工場ならびに[[広島車両所|広島工場]]において実施した。装備改造は[[自動給炭機]]の設置、給水加熱器もボイラー受台内部のものを撤去して煙突前方の煙室上に新設、戦時設計で代用材を使用していた部位を正規のものに交換、炭水車の中梁追加や炭庫の改造といった内容で、外見上は角型・カマボコ型ドームの丸型化、木製除煙板や炭水車炭庫側面の鋼板化などにより、形態的にも戦前製作機と比べて遜色のないレベルとなった。一方、装備改造から外れた12両 (D52 12, 96, 126, 131, 146, 216, 222, 340, 417, 419, 456, 460号機) は、除煙板や歩み板、石炭庫側板などの木製部を鋼板製に取り換えた程度で、自動給炭機も装備されず、角型のドームを残すなど戦時型の面影を強く残したまま、[[瀬野八]]の後部補機運用を受け持つ瀬野機関区に配置された。
 
==== その他 ====
本形式における特殊な装備の例としては、ディスク輪心がある。本形式では、二重壁の箱型としたボックス輪心が制式の設計であったが、円板を湾曲させて一枚板構造としたものである。終戦後に汽車製造で落成したD52 380 - 384の5両がこれに該当する。
装備改造機は当初の設計どおりの性能を発揮できるようになったが、ボイラーは戦時中製造のものが検査、補修を受けながら引続き使用されており、[[1954年]]にはボイラー破裂事故を再発したことから、本形式やD62形・C62形を中心に、戦中戦後に製造された蒸気機関車のボイラー再検査を実施、翌1955年から新造ボイラーへの交換が行われた<ref>川上幸義『私の蒸気機関車史 下巻』 pp.365 - 366</ref>。
 
== 製造 ==
本形式は設計に並行して1943年6月から2か所の国鉄工場(工機部)で先行的に部品や機関車本体の製造を開始し{{Refnest|group="注釈"|機関車番号「1」は、最も早く完成させた工場に当時の[[東條英機|東條総理大臣]]を迎えて渡されるとされていたため、1943年9月から製造を開始し浜松・鷹取の両工場が早期竣工を競った。当初鷹取工場は浜松工場より5 - 10日程度製造工程が遅れていたが、浜松を追い抜こうという合言葉のもとにいろいろな悪条件を克服し、徹夜作業で数日は家に帰らぬ者も多く、1943年12月17日23時、初号機の構内試運転を実施して浜松工場より1日早く竣工させた。しかし、機関車の竣工直前になって東京側に近い工場から順次機関車番号が割当てられることになり、初号機は「D52 21」となった<ref>{{Cite book|title=蒸機とともに一世紀|date=1970年9月30日|year=|publisher=高輪印刷株式会社 日本国有鉄道鷹取工場編集|page=100}}</ref>。}}、その後に製造計画を割り当てられた民間メーカー5社による本格的な製造に移行した。当初は全部で492両が製造される計画であったが、1945年(昭和20年)の[[日本の降伏|終戦]]により計画は中止、終戦時点で未完成だった28両同年度中に落成・国鉄へ納入されたものの、最終的に285両で製造は打ち切られ竣工し時点(最終出場は、1946年3月31日付、日本車輌製のD52 62号機。実際の落成日は4月16日)。そ285両で製造は打ち切られたため欠番が多数あり、最終番号はD52 468である。
 
製造の状況は、以下のとおりである。なお、D52 151, 152は三菱重工業で製造予定であったが、川崎車輛に製造が代行された
* 1943年度(19両)
** [[東海旅客鉄道浜松工場|浜松工機部]](5両):'''D52 1 - 5'''(製造番号89 - 93)
89 ⟶ 447行目:
** 鷹取工機部(9両):'''D52 25 - 33'''(製造番号63 - 71)
** [[日本車輌製造]](18両):'''D52 41 - 58'''(製造番号1319 - 1330, 1374 - 1379)
** [[川崎重工業車両カンパニー|川崎車輛]](62両):'''D52 68 - 97, 151, 152{{Refnest|group="注釈"|D52 151 - 152号機は三菱重工業で製造予定であったが、川崎車輛に製造が代行された。}}, 198 - 227'''(製造番号2972 - 2978, 2986 - 2990, 2994, 2998, 2995, 2996, 2997, 2999, 3047 - 3058, 3060, 3061, 3064 - 3071, 3073 - 3075, 3077 ,3078, 3080 - 3086, 3088, 3089, 3092 - 3100)
** [[日立製作所]](41両):'''D52 98 - 122, 393 - 408'''(製造番号1734 - 1736, 1838 - 1847, 1894 - 1905, 1960 - 1975)
** 汽車製造(46両):'''D52 133 - 142, 333 - 368'''(製造番号2433 - 2442, 2458, 2459, 2467 - 2494, 2497 - 2502)
** [[三菱重工業]](18両):'''D52 143 - 150, 443 - 451, 453'''(製造番号469 - 476, 477 - 485, 487)
100 ⟶ 458行目:
** 三菱重工業(16両):'''D52 452, 454 - 468'''(製造番号486, 488 - 502)
 
計画されたものの未成となった番号(総数は207両)は以下の通り{{Refnest|group="注釈"|D52 153 - 197, (D52 239 - 332のうち、D52 239 - 287を除外した)288 - 332号機の90両が、それぞれ三菱重工業、川崎車輛に割当てられたとは考えにくく、蒸気機関車研究家の金田茂裕は「何の確証もないが、これらの合計90両は故意に空番を作って各工場の生産能力を外部から知られ難くするための工作であったと考えられるのではないか」と推測している<ref name="kkj4-502_503">[[#kkj4|『形式別 国鉄の蒸気機関車IV』 p.502-503]]</ref>。}}。
計画されたものの未成となった番号を、予定された製造所ごとに掲げる(総数は207両)。
* 浜松工機部(5両):D52 16 - 20
* 鷹取工機部(7両):D52 34 - 40
108 ⟶ 466行目:
* 日立製作所(19両):D52 424 - 442
* 三菱重工業(69両):D52 153 - 197, 469 - 492
 
しかしながら、D52 153 - 197, (D52 239 - 332のうち、D52 239 - 287を除外した)288 - 332の90両のすべてが、それぞれ三菱重工業、川崎車輛に割り当てられたとは考えにくく、蒸気機関車研究家の金田茂裕は自著の中で、「これらの合計90両は故意に空番を作って各工場の生産能力を外部から知られ難くするための工作であったのではないか」とも指摘している。
 
機関車番号「1」は、早く完成した工場に当時の[[東條英機|東條総理大臣]]を迎えて渡されることが伝えられていた。このため、浜松・鷹取の両工場が1943年9月から製造を開始し、番号をめぐり火花を散らす競争を行った。
 
当初鷹取工場は浜松工場より5日~10日程度製造工程が遅れていたが、浜松を追い抜こうという合言葉のもとにいろいろな悪条件を克服し、徹夜につぐ徹夜作業で数日は家に帰らぬ者も多く、1943年12月17日23時、第1号機関車の構内試運転に成功し、最初のD52形式機関車が完成した。しかし、機関車の落成直前になって本社では東京側に近い工場から順次機関車番号が割り当てられることになったため、浜松工場より1日早く落成したものの、これには関係職員一同が切歯やく腕涙をのむうちに「D52 21」の機関車番号が与えられることになった<ref>{{Cite book|title=蒸機とともに一世紀|date=1970年9月30日|year=|publisher=高輪印刷株式会社 日本国有鉄道鷹取工場編集|page=100}}</ref>。
 
== 運用 ==
竣工した本形式はまず[[東海道本線|東海道]]・[[山陽本線]](沼津 - 下関間)の沿線機関区へ重点的に配置され、続いて[[函館本線|函館]]・[[室蘭本線]](函館 - 倶知安間および長万部 - 岩見沢間)での運用目的から北海道に配置されたほか、[[品鶴線]]・[[山手線|山手貨物線]]・[[東北貨物線]](新鶴見操車場 - 大宮操車場間)用として関東地方にも投入された<ref>今村潔「D52・D62形機関車の車歴しらべ」『鉄道ピクトリアル』 1962年10月号 (No.137) pp.27 - 29</ref>。本形式が全機出揃った19461944(昭和21年)3月末時点に行われたD52 1号機性能試験では10‰の上り勾で1200 tを牽引、この結果に基づいて大戦中一般貨物列車1100 t、石炭集結列車1200 t運転を実施することなるが、途中停車・遅運転事故続発ため定数低下、この時期1200 t列車を牽引していたのは結局[[国鉄EF12形電気機関車|EF12形電気機関車]]のみであった
 
本形式が全機出揃った1946年3月末時点の配置は以下のとおり。
 
* 札幌鉄道局(29両)
143 ⟶ 497行目:
** [[下関総合車両所|下関機関区]](21両):D52 2 - 8, 25 - 28, 68 - 72, 88, 125 - 128
 
戦後は函館・室蘭本線用として長万部機関区に配属されていた全車が1948年までに本州へ転属ないし廃車、東海道・山陽本線でも状態不良からD51形とほぼ同一性能として運用されていた本形式であったが、[[1949年]]5月に東海道本線の電化区間が浜松まで延長、続いて1951年から実施された装備改造の実施後は、D51形が950 tを牽引する区間で本形式が1100 tを牽引、さらに夏季牽引定数が設定されて東海道区間での1200 t列車牽引となり、EF12形・[[国鉄EF13形電気機関車|EF13形]]・[[国鉄EF15形電気機関車|EF15形]]の牽引定数1200 tと同一となって、新鶴見操車場 - 稲沢操車場間で1200 t列車を運転した。本形式の牽引トン数の推移は以下の通り。
1944年に行われたD52 1の性能試験においては10‰の上り勾配で1200tを牽引、この結果に基づいて大戦中は一般貨物列車1100t、石炭集結列車1200t運転を実施することなるが、途中停車・遅運転事故続発のため定数低下となり、この時期1200t列車を牽引していたのは結局[[国鉄EF12形電気機関車|EF12形電気機関車]]のみであった。
 
{| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center; margin:0em 0em 1em 0em;"
戦時設計車であった本形式は、運用上の酷使、工作や整備の不良もあって、1945年中に死傷者を伴うボイラー破裂・爆発事故を続けて3件も起こしたことから、一旦全車の使用が停止され、X線によるボイラーの検査等を実施する一方、応急的な対策としてボイラー水位を高めたり火室控の交換、蒸気圧の減圧といった処置を施して対応した{{Refnest|group="注"|1945年8月11日に山陽本線万富駅でD52 82のボイラーが破裂する事故が発生。乗務員は50メートルも吹き飛ばされた。1945年12月7日には、三石・吉永間でD52 371の焚き口から蒸気が噴き出す事故が発生し、乗務員が飛ばされた。これは、火室の中の天井板の破裂が原因である<ref>おのつよし 『日本の鉄道100ものがたり』[[文藝春秋]]文春文庫 1991年5月10日 pp.318 - 321 「爆発する機関車」</ref>。}}。
!colspan=9|D52形牽引トン数推移<ref name="tgh51-115">[[#tgh51|『鉄道技術発達史 第5篇』 p.115]]</ref><br/>上段:牽引トン数、下段:均衡速度
|-
!rowspan=2|年!!colspan=2|通貨{{Refn|group="表注"|貨車とその他車両で組成された通過列車}}甲A{{Refn|group="表注"|[[速度種別#鉄道|速度種別]]:勾配10パーミルで均衡速度28 km/h、25パーミルで25 km/h}}!!colspan=2|通貨丙C{{Refn|group="表注"|速度種別:勾配10パーミルで均衡速度18 km/h、25パーミルで18 km/h}}!!通貨戌A{{Refn|group="表注"|速度種別:勾配5パーミルで均衡速度22 km/h}}!!colspan=2|通炭{{Refn|group="表注"|石炭だけを積載した列車で組成された通過列車}}丙C!!rowspan=2|備考
|-
!10パーミル!!25パーミル!!10パーミル!!25パーミル!!25パーミル!!10パーミル!!25パーミル
|-
!1943年
|750 t<br/>31 km/h||330 t<br/>25 km/h||1100 t<br/>19 km/h||450 t<br/>19 km/h||rowspan=3| - ||1200 t<br/>17 km/h|| - ||
|-
!1945年
|rowspan=3 colspan=2| - ||900 t<br/>25 km/h||rowspan=2|350 t<br/>24 km/h||rowspan=3 colspan=2| - ||style="text-align:left" |炭質低下のため牽引トン数削減
|-
!1946年
|950 t<br/>25 km/h||
|-
!1950年
|1200 t<br/>17 km/h|| - ||400 t<br/>20 km/h||style="text-align:left" |D52形、D62形(軸重軽減改造未実施)共通
|-
|- class="sortbottom
|colspan=9 style="text-align:left" |{{Reflist|group="表注"}}
|}
 
その後、関ヶ原や船坂峠といった10‰勾配の連続する区間も含む東海道・山陽本線全線での1200 t貨物列車運転に使用された一方で、[[国鉄ワキ1形貨車|ワキ1形]]や[[国鉄ワキ1000形貨車|ワキ1000形]]などで編成された急行貨物列車も牽引している<ref>今村潔「マンモス機D52・D62」『蒸気機関車』 1978年3月号 (No.54) pp.75 - 76</ref><ref>西村勇夫「名古屋を中心とする戦後蒸機ものがたり その2」交友社『鉄道ファン』 1990年3月号 (No.347) pp.84 - 87</ref>。山陽本線の難所である瀬野 - 八本松間(瀬野八)の補助機関車として、同区間を通る上り旅客列車と軽量の貨物列車には単機、重量貨物列車には重連で使用された。
その後、後述の他形式への改造種車として70両が転用、さらに事故車および状態不良の55両は[[1950年]](昭和25年)までに[[廃車 (鉄道)|廃車]]され、残る160両のうち148両は、翌1951年以降、先行して改造を行ったD62形の整備内容に準じた形の装備改造を浜松工場、鷹取工場ならびに[[広島車両所|広島工場]]において実施した。装備改造は[[自動給炭機]](メカニカルストーカー)を設置、給水加熱器もボイラー受台内部のものを撤去して煙突前方の煙室上に新設、戦時設計で代用材を使用していた部位を正規のものに交換、炭水車の中梁追加や炭庫の改造といった内容で、外見上は角型・カマボコ型ドームの丸型化、木製除煙板や炭水車炭庫側面の鋼板化などにより、形態的にも戦前製作機と比べて遜色のないレベルとなった。
 
また、[[御殿場線]]、[[岩徳線]]で旅客列車や貨物列車を牽引したほか、[[梅田貨物線]]や[[おおさか東線|城東貨物線]]でも少数が運用されていた<ref>今村潔「D52・D62形機関車の車歴しらべ」『鉄道ピクトリアル』 1962年10月号 (No.137) p.28</ref>。1955年末以降は東海道本線の電化により余剰機が延べ9両[[鹿児島本線]](門司 - 鳥栖間)用として門司機関区に転属、同線で貨物列車を牽引したが、1961年の門司 - 久留米間電化により全車が休車となり、廃車となった1両を除き翌年までに本州へ転属した<ref>谷口良忠・奈良先博保「九州線のD52」『蒸気機関車』 1978年3月号 (No.54) pp.16 - 17</ref>。さらに、[[1964年]]の山陽本線全線電化や[[1968年]]の御殿場線電化により、これらの路線で使用されていた本形式は後述する北海道地区へ転属した機体以外は廃車となった。
一方、装備改造から漏れた12両 (D52 12, 96, 126, 131, 146, 216, 222, 340, 417, 419, 456, 460) は、除煙板や歩み板、石炭庫側板などの木製部を鋼板製に取り換えた程度で、自動給炭機も装備されず、角型のドームを残すなど戦時型の面影を強く残したまま、[[瀬野八]]の後部補機運用を受け持つ瀬野機関区に配置されていた。
 
最終的には北海道地区の[[函館本線|函館]]・[[室蘭本線]](函館 - 東室蘭間)での再度の運用のため、山陽本線の電化に伴い余剰となった姫路第一機関区所属の8両 (D52 56, 136, 138, 202, 204, 235, 404, 468号機)と岡山機関区所属の5両 (D52 140, 201, 217, 400, 414号機)の計13両が1960年度に、吹田第一機関区のD52 142号機、糸崎機関区のD52 28号機の2両が1968年度に五稜郭機関区に転属となり<ref>[http://photodb.hokkaido-np.co.jp/detail/0090267491 フォト海道(道新写真データベース)] 【写真説明】鷲別機関区に着いた D52型機関車 掲載 1960/11/02</ref>、[[1972年]]12月まで使用され、稼動状態で最後まで残ったのはD52 202号機であった。
装備改造車はようやく当初の設計どおりの性能を発揮できるようになったが、かつて事故を起こしたボイラーは未だ戦時中製造のものが検査、補修を受けながらも引き続き使用されており、[[1954年]](昭和29年)にはボイラー破裂事故を再発したことから、本形式やD62形・C62形を中心に、戦中戦後に製造された蒸気機関車のボイラー再検査を実施、翌1955年(昭和30年)から新造ボイラーへの交換が行われることになった<ref>川上幸義『私の蒸気機関車史 下巻』 pp.365 - 366</ref>。
 
参考として、1962年6月1日時点の配置表は以下の通り(総数154両)。
この時期(1946年 - 1950年)に廃車となったものは、次のとおりである。
: D52 5, 7, 8, 9, 27, 30, 47, 51, 59, 73, 78, 80, 83(事故), 84, 87, 88(戦災), 90(戦災), 91(戦災), 95, 97, 103, 107, 110, 111, 113, 114, 116, 120, 205, 206, 207, 208, 209(事故), 212, 215, 220, 221, 238, 346, 347, 350, 351, 359, 364, 371, 381, 394, 395, 409, 410, 411, 412, 413, 443, 465
 
軍事輸送の終了による貨物用機関車の余剰化と、旅行の制限がなくなったことによる旅客輸送量の激増にともなう旅客用機関車の不足のため、[[1948年]]から[[1949年]]にかけて本形式のボイラーを流用し、[[国鉄C59形蒸気機関車|C59形]]相当で従軸を2軸とした足回りと組み合わせた旅客用機関車[[国鉄C62形蒸気機関車|C62形]]が49両(うち1両は2両分のボイラーを組み合わせて1両分の良品を捻出したため、種車となったD52形は50両である。)製造された。
 
また、1950年から1951年にかけて従軸を2軸として軸重を軽くし、線路規格の低い線区([[線路等級|乙線]])への入線にも対応した[[国鉄D62形蒸気機関車|D62形]]に20両が改造されている。
 
戦後は函館・室蘭本線用として長万部機関区に配属されていた全車が1948年までに本州へ転属ないし廃車、東海道・山陽本線でも状態不良からD51形とほぼ同一性能として運用されていた本形式であったが、[[1949年]](昭和24年)5月に東海道本線の電化区間が浜松まで延長、続いて1951年から実施された装備改造の実施後は、D51形が950tを牽引する区間で本形式が1100tを牽引、さらに夏季牽引定数が設定され、ここで蒸気機関車による東海道区間での1200t列車牽引が実現し、EF12形・[[国鉄EF13形電気機関車|EF13形]]・[[国鉄EF15形電気機関車|EF15形]]の牽引定数1200tに追いついて、新鶴見操車場 - 稲沢操車場間で1200t列車を通し運転することが実現した。
 
その後も本形式は、関ヶ原や船坂峠といった10‰勾配の連続する区間で牽引性能を最大限に発揮し、東海道・山陽本線全線での1200t貨物列車運転を実現させただけでなく、[[国鉄ワキ1形貨車|ワキ1形]]や[[国鉄ワキ1000形貨車|ワキ1000形]]などで編成された急行貨物列車も牽引している<ref>今村潔「マンモス機D52・D62」『蒸気機関車』 1978年3月号 (No.54) pp.75 - 76</ref><ref>西村勇夫「名古屋を中心とする戦後蒸機ものがたり その2」交友社『鉄道ファン』 1990年3月号 (No.347) pp.84 - 87</ref>。山陽本線の難所である瀬野 - 八本松間(瀬野八)の補助機関車としても使用され、同区間を通る上り旅客列車と軽量の貨物列車には単機、重量貨物列車には重連で充当された。
 
本形式は東海道・山陽本線以外に[[御殿場線]]、[[岩徳線]]で旅客列車や貨物列車を牽引したほか、[[梅田貨物線]]や[[おおさか東線|城東貨物線]]でも少数が運用されていた<ref>今村潔「D52・D62形機関車の車歴しらべ」『鉄道ピクトリアル』 1962年10月号 (No.137) p.28</ref>。また1955年(昭和30年)末以降は東海道本線の電化により余剰車が延べ9両[[鹿児島本線]](門司 - 鳥栖間)用として門司機関区に転属、同線で貨物列車を牽引したが、1961年(昭和36年)の門司 - 久留米間電化により全車が休車、現地で廃車となった1両を除き翌年までに本州へ転属している<ref>谷口良忠・奈良先博保「九州線のD52」『蒸気機関車』 1978年3月号 (No.54) pp.16 - 17</ref>。その後[[1964年]](昭和39年)に山陽本線が全線電化、御殿場線も[[1968年]](昭和43年)に電化が完了したことによりそれらの路線で運用されていた本形式も全車運用を離脱、後述する北海道地区へ転属した一部を残して廃車となった。
 
最終的には再度北海道地区の[[函館本線|函館]]・[[室蘭本線]](函館 - 東室蘭間)への充当を目的として、山陽本線の電化に伴い余剰機となった姫路第一機関区所属の8両 (D52 56, 136, 138, 202, 204, 235, 404, 468)と岡山機関区所属の5両 (D52 140, 201, 217, 400, 414) 計13両が1960年(昭和35年)度に、1968年(昭和43年)度には吹田第一機関区の142、糸崎機関区の28を合わせて延べ15両が五稜郭機関区に転属し<ref>[http://photodb.hokkaido-np.co.jp/detail/0090267491 フォト海道(道新写真データベース)] 【写真説明】鷲別機関区に着いた D52型機関車 掲載 1960/11/02</ref>、函館・室蘭本線で[[1972年]](昭和47年)まで使われた。本機の最終使用は1972年12月で、稼動状態で最後まで残ったのはD52 202である。
 
国鉄最強の称号で名高い本形式であり、[[SLブーム]]の中での引退であったものの、軸重の重さゆえ運行できる路線が限定されたこと、貨物機であったことから一般のなじみが薄かったため、その引退はひっそりとしたものであった。
 
参考として、1962年6月1日時点の配置表を記す(総数154両)。
 
* 青函船舶鉄道管理局(13両)
191 ⟶ 549行目:
 
== 保存機 ==
京都市の[[京都鉄道博物館]](旧[[梅小路蒸気機関車館]])をはじめとして、7両が[[静態保存]]されている。同機の活躍舞台として知られた[[御殿場線]]の縁から、神奈川・静岡両県での保存が極めて多い。
{| class="wikitable collapsible collapsed" style="font-size:80%; margin:0em 0em 1em 0em;"
 
!colspan=4|D52形静態保存機一覧
{| class="wikitable"
|+ D52形保存機一覧
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!画像
202 ⟶ 559行目:
|-
|[[ファイル:Japanese-national-railways-SL-D52-235-20110123.jpg|150px]]
|style="width:10%" |D52 235
|style="width:30%" |[[神奈川県]][[相模原市]][[中央区 (相模原市)|中央区]]鹿沼台2丁目15-1<br />[[鹿沼公園]]
|北海道([[函館本線]])で使われていたもので、運転室の前面窓が[[旋回窓]]となっている。「相模原D52保存会」という団体が整備・維持活動を行っている。同団体のブログによるとなお、一部の部品からD52 138の刻印が発見されているという<ref>[http://d52project.blog.jp/archives/374752.html 138号機の証] - 相模原D52保存会、2010年4月2日</ref>。1945年度、川崎車両製
|-
|[[ファイル:Japanese-national-railways-D52-403-20110123.jpg|150px]]
|D52 403
|神奈川県[[平塚市]]浅間町10-22<br />平塚市文化公園<ref>[http://www.hirahaku.jp/riyou_annai/d52/d52.html D52 403号機関車] - 平塚市博物館</ref>
|御殿場線で使用されていたもので、同線電化に伴い廃車となり保存された。屋根付きで保存されているが、離れた場所からのみ見学可能。隣接する平塚市博物館の受付で申出ればより近い場所からの見学も可能<ref>[http://www.hirahaku.jp/riyou_annai/kikansya.html D52型機関車の見学について] - 平塚市博物館</ref>。1945年度、日立製作所製
|-
|[[ファイル:Japanese-national-railways-D52-70-20110404.jpg|150px]]
|D52 70
|神奈川県[[足柄上郡]][[山北町]]山北1981<br />[[山北鉄道公園]]
|D52 403と同じく御殿場線の電化まで使用されたもの。2016年3月、[[圧縮空気]]による動態運行が可能な状態に整備され<ref>{{Cite news |url=http://www.kanaloco.jp/article/160258 |title=半世紀ぶりSL奇跡の復活 山北町でD52試運転 |newspaper=[[神奈川新聞]] |date=2016-03-19 |accessdate=2016-03-19}}</ref>、同年10月14日の「D52 奇跡の復活祭」にて十数メートル自走した<ref>{{Cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/national/20161015-OYT1T50011.html |title=「D52」48年ぶり自走、ファンからどよめき |newspaper=YOMIURI ONLINE |publisher=[[読売新聞社]] |date=2016-10-15 |accessdate=2016-10-15 |archiveurl=https://archive.is/20161015034055/http://www.yomiuri.co.jp/national/20161015-OYT1T50011.html |archivedate=2016年10月15日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。動態運行は後、定期的な走行運行が予定されている{{Refnest|group="注釈"|復元と稼動際し中心的な役割を担っていた国鉄OBが直後に急逝し、次回の運行を中止すると報じられた<ref>{{Cite news |url=http://www.kanaloco.jp/article/208231 |title=SL復活の立役者・恒松さんの死悼む |newspaper=[[神奈川新聞]] |date=2016-10-26 |accessdate=2016-11-05}}</ref>が、役割については国鉄OBと交流があった男性人物に引継がれている<ref>{{Citenews|url=http://www.townnews.co.jp/0608/2017/01/14/365801.html|title=山北町 駅前に鉄道資料館|newspaper=[[タウンニュース]]|date=2017-01-14|accessdate=2017-01-21}}</ref>}}<ref>この保存機は、「BSジャパン 空から日本をみてみようplus」でも取り上げられた。[http://www.bs-j.co.jp/sorakara/ BSジャパン 空から日本をみてみようplus] 2017年6月1日放送 湧水豊かな足柄平野から富士山の麓へ 小田原〜御殿場。</ref>。有火ではないものの、自走可能な唯一のD52である。1944年度、川崎車両製
|-
|[[ファイル:Japanese-national-railways-D52-72-20110330.jpg|150px]]
|D52 72
|[[静岡県]][[御殿場市]]新橋1898-3<br />[[御殿場駅]]前ポッポ広場
|保存当初は同市内の湯沢平公園で展示されていた。2010年9月28日に公園での展示を終了し、同年11月28日から現在地で展示されている<ref>[http://rail.hobidas.com/news/info/article/121150.html 御殿場駅前にD52がやってくる! SL解体見学会開催] 鉄道ホビダス最新鉄道情報(2010年8月20日)</ref>。1944年度、川崎車両製
|-
|[[ファイル:Japanese-national-railways-D52-136-20110330.jpg|150px]]
|D52 136
|静岡県[[沼津市]]高沢町8-1内<br />高沢公園
|御殿場線沿線地域であるが御殿場線ではなく北海道で使用されていたもの[[スノープラウ]]付き。1944年度、汽車製造製
|-
|[[ファイル:JNR-D52-468.jpg|100px]]
|D52 468
|[[京都府]][[京都市]][[下京区]]観喜寺町<br />[[京都鉄道博物館]]
|1972年に[[梅小路蒸気機関車館]](京都鉄道博物館の前身)の開館に伴い保存され、2006年に「梅小路の蒸気機関車群と関連施設」として[[鉄道記念物#準鉄道記念物|準鉄道記念物]]に指定された。1945年度、三菱重工業でD52形のラストナンバー
|-
|[[ファイル:D52.jpg|150px]]
|
|D52 1
|[[広島県]][[広島市]][[東区 (広島市)|東区]]<br />[[日本貨物鉄道]](JR貨物)[[広島車両所]]
|準鉄道記念物。1943年度、国鉄浜松工機部製
|}
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|35em|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
 
== 参考文献 ==
書籍
* 臼井茂信「日本蒸気機関車形式図集成 2」1969年 [[誠文堂新光社]]刊
*{{Cite book|和書|author =日本国有鉄道 |authorlink = |year =1958 |month = |title =鉄道技術発達史 第1篇|journal =|volume = |issue = |page = |pages =|publisher =日本国有鉄道|location = |issn = |doi = |naid = |pmid = |id = |url = |format = |accessdate = |quote = | ref = tgh11 |isbn= }}
* 臼井茂信「機関車の系譜図 4」1978年 [[交友社]]刊
*{{Cite book|和書|author =日本国有鉄道 |authorlink = |year =1958 |month = |title =鉄道技術発達史 第4篇|journal =|volume = |issue = |page = |pages =|publisher =日本国有鉄道|location = |issn = |doi = |naid = |pmid = |id = |url = |format = |accessdate = |quote = | ref = tgh41 |isbn= }}
* 高田隆雄 監修「万有ガイドシリーズ12 蒸気機関車 日本編」1981年 [[小学館]]刊
*{{Cite book|和書|author =日本国有鉄道 |authorlink = |year =1958 |month = |title =鉄道技術発達史 第5篇|journal =|volume = |issue = |page = |pages =|publisher =日本国有鉄道|location = |issn = |doi = |naid = |pmid = |id = |url = |format = |accessdate = |quote = | ref = tgh51 |isbn= }}
* 川上幸義『私の蒸気機関車史 下巻』 1981年 交友社刊
*{{Cite book|和書|author =臼井茂信 |authorlink = |year =1978 |month = |title =機関車の系譜図 4|journal =|volume = |issue = |page = |pages =|publisher =交友社|location = |issn = |doi = |naid = |pmid = |id = |url = |format = |accessdate = |quote = | ref =locokei4|isbn=}}
* 金田茂裕「形式別 国鉄の蒸気機関車 IV」1986年 [[エリエイ]]出版部 プレス・アイゼンバーン刊
*{{Cite book|和書|author =臼井茂信 |authorlink = |year =1969 |month = |title =日本蒸気機関車形式図集成 2|journal =|volume = |issue = |page = |pages =|publisher =[[誠文堂新光社]]|location = |issn = |doi = |naid = |pmid = |id = |url = |format = |accessdate = |quote = | ref =njk2|isbn= }}
*{{Cite book|和書|author =川上幸義 |authorlink = |year =1981 |month = |title =私の蒸気機関車史 下|journal =|volume = |issue = |page = |pages =|publisher =交友社|location = |issn = |doi = |naid = |pmid = |id = |url = |format = |accessdate = |quote = | ref =wjs2|isbn= }}
*{{Cite book|和書|author =高田隆雄 |authorlink = |year =1981 |month = |title =万有ガイドシリーズ12 蒸気機関車 日本編|journal =|volume = |issue = |page = |pages =|publisher =[[小学館]]|location = |issn = |doi = |naid = |pmid = |id = |url = |format = |accessdate = |quote = | ref =bgs12 |isbn= }}
*{{Cite book|和書|author =高木宏之 |authorlink = |year =2015 |month = |title =国鉄蒸気機関車史|journal =|volume = |issue = |page = |pages =|publisher =ネコ・パブリッシング|location = |issn = |doi = |naid = |pmid = |id = |url = |format = |accessdate = |quote = | ref =kjs |isbn=9784777053797}}
*{{Cite book|和書|author =沖田祐作 |authorlink = |year =2014 |month = |title =機関車表|journal =|volume = |issue = |page = |pages =|publisher =ネコ・パブリッシング|location = |issn = |doi = |naid = |pmid = |id = |url = |format = |accessdate = |quote = | ref =locolist |isbn=9784777053629}}
*{{Cite book|和書|author =金田茂裕 |authorlink = |year =1985 |month = |title =形式別 国鉄の蒸気機関車IV|journal =|volume = |issue = |page = |pages =|publisher =機関車研究会|location = |issn = |doi = |naid = |pmid = |id = |url = |format = |accessdate = |quote = | ref =kkj4 |isbn= }}
* 高砂雍郎「鉄道広報による国鉄車両台帳〔機関車編〕」1991年 [[鉄道史資料保存会]] ISBN 4-88540-073-2
* 電気車研究会『[[鉄道ピクトリアル]]』 1962年10月号 (No.137) D52・D62機関車特集
* キネマ旬報社『蒸気機関車』 1978年3月号 (No.54) D52・D62特集
* ネコ・パブリッシング『国鉄時代』2014年5月号 (vol.37) 特集:貨物列車
* JTBキャンブックス『幻の国鉄車両』2007年11月、[[JTBパブリッシング]]刊
 
雑誌
== 脚注 ==
* ネコ・パブリッシング『国鉄時代』2014年5月号 (vol.37) 特集:貨物列車
=== 注釈 ===
* 電気車研究会『[[鉄道ピクトリアル]]』 1962年10月号 (No.137) D52・D62機関車特集
{{Reflist|group="注"}}
* キネマ旬報社『蒸気機関車』 1978年3月号 (No.54) D52・D62特集
=== 出典 ===
* {{Cite journal|和書|author =林采成|title = 日本国鉄の戦時動員と陸運転移の展開|journal=経営史学|volume=46|issue = 4 |year=2011|month = 6|pages=3-28|ref =keis46|publisher = 経営史学会}}
{{Reflist}}
 
== 関連項目 ==