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小ピットは、アイルランドとの国家統合([[グレートブリテン及びアイルランド連合王国]])にあたって[[カトリック解放]]を支持していたが、それが原因で1801年1月に閣内分裂を起こし、また国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]とも対立を深め、2月に[[内閣総辞職|総辞職]]を余儀なくされた<ref name="坂井(1982)247-249">[[#坂井(1982)|坂井(1982)]] p.247-249</ref>。カニングも小ピットに従って下野した<ref name="世界(1980,3)305" />。その後、カニングはカトリック解放と戦争継続を支持し<ref name="DNB" />、庶民院において小ピットの後任の首相[[ヘンリー・アディントン (初代シドマス子爵)|ヘンリー・アディントン]]内閣に対して激しい批判を行うようになった<ref name="坂井(1982)262">[[#坂井(1982)|坂井(1982)]] p.262</ref>。小ピットははじめカニングを抑えようとしたが、結局失敗に終わり、カニングは以降死去するまでアディントン派に憎悪を向けられるようになった<ref name="DNB" />。
 
1804年5月に小ピットが再度首相となり<ref name="坂井(1982)265">[[#坂井(1982)|坂井(1982)]] p.265</ref>、カニングは同内閣で{{仮リンク|海軍会計長官 (イギリス)|label=海軍会計長官|en|Treasurer of the Navy}}に任じられた<ref name="Cracroft" />。野党期に小ピットの抑えが効かなくなったこともあり、カニングと小ピットの関係は悪化したが、カニングは1806年に小ピットが死去するまで海軍会計長官を務めた<ref name="EB1911" />。[[ウィリアム・グレンヴィル (初代グレンヴィル男爵)|初代グレンヴィル男爵ウィリアム・グレンヴィル]]の{{仮リンク|総人材内閣|en|Ministry of All the Talents}}の組閣にあたって入閣を打診されたが拒否し、1807年には[[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (第3代ポートランド公爵)|ポートランド公爵]]内閣の[[外務・英連邦大臣|外務大臣]]に就任した<ref name="DNB" />。ポートランド公爵内閣への入閣にあたって、カニングは政敵アディントンを入閣させないようポートランド公爵に念を押したという<ref name="HOP" />。
 
=== ポートランド公爵内閣の外務大臣として ===
外務大臣への就任直後に[[1807年イギリス総選挙|総選挙]]が行われ、カニングは{{仮リンク|ヘイスティングス選挙区|en|Hastings (UK Parliament constituency)}}から出馬して当選した<ref name="HOP" />。議会の開会直後から総人材内閣の罷免を擁護するなど精力的に演説し、7月には{{仮リンク|ジョン・パーカー (初代モーリー伯爵)|en|John Parker, 1st Earl of Morley|label=第2代ボリンドン男爵ジョン・パーカー}}から「[[スペンサー・パーシヴァル]]を超えた」との評価を受けた<ref name="HOP" />。
[[デンマーク]]の艦隊が[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の支配下に収まるのを阻止すべく、デンマーク艦隊を拿捕するうえで中心的役割を果たし<ref name="世界(1980,3)305" />({{仮リンク|コペンハーゲンの海戦 (1807年)|en|Battle of Copenhagen (1807)}})、ナポレオンによる反英連合を完全に打ち砕いた<ref name="DNB" />。しかしカニングは[[半島戦争]]の熱心な支持者として、当時の陸軍大臣[[ロバート・ステュアート (カースルレー子爵)|カースルレー子爵]]と管轄権をめぐって対立を深めた。カニングによる半島戦争への支援を受けて、スペイン駐在大使の[[リチャード・ウェルズリー (初代ウェルズリー侯爵)|第2代モーニントン伯爵リチャード・ウェルズリー]](後の初代ウェルズリー侯爵)は本国が弟[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|アーサー・ウェルズリー]](後の初代ウェリントン公爵)率いるイギリス軍を手厚く支援すると約束したが、ポルトガルに向かうはずだったの増援はカースルレー子爵に命じられ[[ホラント王国]]の[[フリシンゲン]]への遠征に出発してしまう<ref name="DNB" />。カニングは不満がたまり、ついに1809年4月にポートランド公爵に対し、カースルレー子爵をほかの官職に転任させなければ自身が辞任すると訴えるに至った<ref name="DNB" />。カニングに辞任されると内閣の瓦解は必至であり、かといってカースルレー子爵に戦争に関わらないよう説得することにも大きな勇気が必要であり、すでに70代のポートランド公爵にはそれがなかった<ref name="DNB" />。結局ポートランド公爵はカースルレー子爵の閣内における友人である[[大法官]]{{仮リンク|ジョン・スコット (初代エルドン伯爵)|en|John Scott, 1st Earl of Eldon|label=エルドン男爵}}、[[枢密院議長 (イギリス)|枢密院議長]]{{仮リンク|ジョン・プラット (初代カムデン侯爵)|en|John Pratt, 1st Marquess Camden|label=カムデン伯爵}}、[[商務庁長官]][[ヘンリー・バサースト (第3代バサースト伯爵)|バサースト伯爵]]に相談したが、5か月間議論を重ねても結果が出なかった<ref name="DNB" />。カニングは結果を待っている間にもカースルレー子爵と通常通りに接し、カースルレー子爵も自身の置かれた状況を知らなかったが、カムデン伯爵は後にカースルレー子爵に状況を教えることを「請け合った」ことはないと弁解した(ただし、カムデン伯爵は拒否もしなかった<ref name="DNB" />)。カニングもいつになったらカースルレー子爵を解任するかを度々質問したものの、そのたびに「議会の閉会の後」「フリシンゲン遠征隊が出発した後」「フリシンゲン遠征の結果がわかってから」と先延ばしにされたため<ref name="DNB" />、ついにしびれを切らして9月7日に辞任した<ref name="EB1911" />。そして、同9月にカースルレー子爵が閣議の後カムデン伯爵と食事をしたとき、カースルレー子爵がカニングの閣議欠席について話すと、カムデン伯爵はようやく事の始末を教えた<ref name="DNB" />。激怒したカースルレー子爵は9月19日にカニングに挑戦状を送り<ref name="EB1911" />、2人は9月21日に決闘をして軽傷に終わった<ref name="DNB" />。カニングがポートランド公爵への訴えをカースルレー子爵から隠し通したことでカースルレー子爵の怒りが正当とみなされ<ref name="EB1911" />、さらに同時期に決闘についての証人だった首相ポートランド公爵が死去したため、この事件でカニングの評判は悪くなり<ref name="世界(1980,3)305" /><ref name="君塚(2006)21">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.21</ref>、[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]でも信用されなかったため、以降12年間高位の官職に就けなかった<ref name="EB1911" />。
 
イギリスが[[ナポレオン戦争]]で孤立する中、[[デンマーク=ノルウェー]]の艦隊が[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の支配下に収まるのを阻止すべく、デンマーク艦隊を拿捕するうえで中心的役割を果たし<ref name="世界(1980,3)305" />({{仮リンク|コペンハーゲンの海戦 (1807年)|en|Battle of Copenhagen (1807)}})、ナポレオンによる反英連合を完全に打ち砕いた<ref name="DNB" />。また、フランスとスペインによる{{仮リンク|ポルトガル侵攻 (1807年)|en|Invasion of Portugal (1807)|label=ポルトガル侵攻}}にあたってはポルトガル艦隊を救い、ポルトガル王室がブラジルに逃亡できるよう手引きした<ref name="HOP" />。続いて東方で[[ロシア帝国]]との同盟を目指し、西方で[[半島戦争]]をヨーロッパ解放の第一歩とするという政策をとり、議会では政策を推進すべく{{仮リンク|サミュエル・ウィットブレッド (1764-1815)|en|Samuel Whitbread (1764–1815)|label=サミュエル・ウィットブレッド}}や[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|ホーウィック子爵チャールズ・グレイ]]らと論戦を繰り広げた<ref name="HOP" />。
 
==== 決闘事件と外務大臣辞任 ====
[[カトリック解放]]問題など外交関連以外では閣僚との衝突を避けたが、半島戦争を熱烈に支持したため当時の陸軍大臣[[ロバート・ステュアート (カースルレー子爵)|カースルレー子爵]]と管轄権をめぐって対立を深めた<ref name="HOP" />。最初は{{仮リンク|シントラ協定|en|Convention of Cintra}}(フランス軍が無条件でポルトガルから撤退することを約束した協定)への賛否をめぐって論争を繰り広げる(カニングが反対、カースルレーが支持)程度だったが<ref name="HOP" />、後に外交問題に発展することになる。
 
[[デンマーク]]の艦隊が[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の支配下に収まるのを阻止すべく、デンマーク艦隊を拿捕するうえで中心的役割を果たし<ref name="世界(1980,3)305" />({{仮リンク|コペンハーゲンの海戦 (1807年)|en|Battle of Copenhagen (1807)}})、ナポレオンによる反英連合を完全に打ち砕いた<ref name="DNB" />。しかしカニングは[[半島戦争]]の熱心な支持者として、当時の陸軍大臣[[ロバート・ステュアート (カースルレー子爵)|カースルレー子爵]]と管轄権をめぐって対立を深めた。カニングによる半島戦争への支援を受けて、スペイン駐在大使の[[リチャード・ウェルズリー (初代ウェルズリー侯爵)|第2代モーニントン伯爵リチャード・ウェルズリー]](後の初代ウェルズリー侯爵)は本国が弟[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|アーサー・ウェルズリー]](後の初代ウェリントン公爵)率いるイギリス軍を手厚く支援すると約束したが、ポルトガルに向かうはずだったの増援はカースルレー子爵に命じられ[[ホラント王国]]の[[フリシンゲン]]への遠征に出発してしまう<ref name="DNB" />。カニングは不満がたまり、ついに1809年4月にポートランド公爵に対し、カースルレー子爵をほかの官職に転任させなければ自身が辞任すると訴えるに至った<ref name="DNB" />。カニングに辞任されると内閣の瓦解は必至であり、かといってカースルレー子爵に戦争に関わらないよう説得することにも大きな勇気が必要であり、すでに70代のポートランド公爵にはそれがなかった<ref name="DNB" />。結局ポートランド公爵はカースルレー子爵の閣内における友人である[[大法官]]{{仮リンク|ジョン・スコット (初代エルドン伯爵)|en|John Scott, 1st Earl of Eldon|label=エルドン男爵}}、[[枢密院議長 (イギリス)|枢密院議長]]{{仮リンク|ジョン・プラット (初代カムデン侯爵)|en|John Pratt, 1st Marquess Camden|label=カムデン伯爵}}、[[商務庁長官]][[ヘンリー・バサースト (第3代バサースト伯爵)|バサースト伯爵]]に相談したが、5か月間議論を重ねても結果が出なかった<ref name="DNB" />。カニングは結果を待っている間にもカースルレー子爵と通常通りに接し、カースルレー子爵も自身の置かれた状況を知らなかったが、カムデン伯爵は後にカースルレー子爵に状況を教えることを「請け合った」ことはないと弁解した(ただし、カムデン伯爵は拒否もしなかった<ref name="DNB" />)。カニングもいつになったらカースルレー子爵を解任するかを度々質問したものの、そのたびに「議会の閉会の後」「フリシンゲン遠征隊が出発した後」「フリシンゲン遠征の結果がわかってから」と先延ばしにされたため<ref name="DNB" />、ついにしびれを切らして9月7日に辞任した<ref name="EB1911" />。そして、同9月にカースルレー子爵が閣議の後カムデン伯爵と食事をしたとき、カースルレー子爵がカニングの閣議欠席について話すと、カムデン伯爵はようやく事の始末を教えた<ref name="DNB" />。激怒したカースルレー子爵は9月19日にカニングに挑戦状を送り<ref name="EB1911" />、2人は9月21日に決闘をして軽傷に終わった<ref name="DNB" />。カニングがポートランド公爵への訴えをカースルレー子爵から隠し通したことでカースルレー子爵の怒りが正当とみなされ<ref name="EB1911" />、さらに同時期に決闘についての証人だった首相ポートランド公爵が死去したため、この事件でカニングの評判は悪くなり<ref name="世界(1980,3)305" /><ref name="君塚(2006)21">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.21</ref>、[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]でも信用されなかったため、以降12年間高位の官職に就けなかった<ref name="EB1911" />。
 
決闘事件によりカースルレー子爵とカニングは辞任を余儀なくされ、ポートランド公爵も直後に首相を辞任した<ref name="DNB" />。カニングがポートランド公爵への訴えをカースルレー子爵から隠し通したことでカースルレー子爵の怒りが正当とみなされ<ref name="EB1911" />、さらに同時期に決闘についての証人だった首相ポートランド公爵が死去したため、この事件でカニングの評判は悪くなり<ref name="世界(1980,3)305" /><ref name="君塚(2006)21">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.21</ref>、[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]でも信用されなかったため、以降12年間高位の官職に就けなかった<ref name="EB1911" />。
 
=== 外務大臣再任まで ===
決闘事件によりカースルレー子爵とカニングは辞任を余儀なくされ、ポートランド公爵も直後に首相を辞任した<ref name="DNB" />。ポートランド公爵の後任[[スペンサー・パーシヴァル]]率いる内閣には支持し、議会でもたびたび戦争遂行を支持する演説をしたが、入閣は辞退した<ref name="DNB" />。
 
1812年に[[ロバート・ジェンキンソン (第2代リヴァプール伯爵)|リヴァプール伯爵]]内閣が成立するとその外務大臣に誘われたが、カニングは[[庶民院院内総務]]の地位も要求し、これが認められなかったため、入閣しなかった<ref name="世界(1980,3)306">[[#世界(1980,3)|世界伝記大事典(1980)世界編3巻]] p.306</ref>。[[1812年イギリス総選挙|同年の総選挙]]で{{仮リンク|リヴァプール選挙区|en|Liverpool (UK Parliament constituency)}}に鞍替えして再選したが、しばらく再入閣できそうもないと考えて1813年にカニング派をいったん解散し、1814年にイギリスを離れて[[リスボン]]に向かった<ref name="DNB" />。リスボンに9か月間滞在した後、家族とともに南仏に移り、1816年夏に帰国した<ref name="DNB" />。
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=== リヴァプール伯爵内閣の外務大臣として ===
ロンドンデリー侯爵の自殺を受けて、首相リヴァプール伯爵の求めにより{{Refnest|group=注釈|カニングと対立関係にあった国王ジョージ4世は当然反対したが、首相リヴァプール伯爵が説得した<ref name="君塚(1999)49">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.49</ref>。このとき、リヴァプール伯爵とウェリントン公爵の両方がカニング以外の選択肢はないとジョージ4世に述べたという<ref name="DNB" />。}}、外務大臣兼庶民院院内総務に就任することになった(在任:1822年9月 - 1827年4月)<ref name="君塚(1999)49">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.49</ref>。在イギリスロシア大使の夫人でカニングと敵対していた[[ダリヤ・リーヴェン]]は1822年秋に「野党は彼を嫌い、国王は彼を嫌がり、大臣たちは彼を信用しなかった。彼の追従者は海洋の一滴にすぎず、それを除けば彼を尊敬するイギリス人は存在しない。これらの多くの理由にもかかわらず、世論は彼の就任を要求した。」と評したという<ref name="HOP2" />。
 
カニングの前任者たちは[[ウィーン体制]]を支持したが<ref name="HOP2" />、カニングはウィーン体制を支えた盟約である[[神聖同盟]]([[ロシア帝国]]、[[オーストリア帝国]]、[[プロイセン王国]])とは一線を画した外交政策を行った<ref name="村岡(1991)55">[[#村岡(1991)|村岡・木畑(1991)]] p.55</ref>。例えば、就任直後に[[五国同盟]]の間で行われた{{仮リンク|ヴェローナ会議|en|Congress of Verona}}では[[スペイン立憲革命]]への介入が討議され、フランスなど諸国が介入に賛成したが、カニングはイギリス代表の[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公爵]]にイギリスの不干渉を宣言するよう命じた<ref name="HOP2" />。ほかにもロシアの[[レヴァント]]進出を阻止する意図で[[ギリシャ王国|ギリシャ]]独立を支援し<ref name="トレ(1975)125">[[#トレ(1975)|トレヴェリアン(1975)]] p.125</ref>(具体的な施策としてはギリシャを[[国際法]]における[[交戦国]]({{lang|en|belligerent}})として承認した<ref name="HOP2" />)、また[[ラテンアメリカ]]で起こっていた[[スペイン]]からの[[イスパノアメリカ独立戦争|独立運動]]を、自国の市場拡大をもくろんで支持する立場をとったことでも知られ、1823年10月には在イギリスフランス大使[[ジュール・ド・ポリニャック]]にスペイン政府によ米州植民地奪回への(フランスからの)援助を禁じる覚書を署名させた<ref name="HOP2" />。同年12月の[[モンロー主義|モンロー教書]]で米国に先手を打たれたが、カニングはこれを利用した上でポリニャックとの覚書を公開して、ラテンアメリカの独立運動に関するヨーロッパでの外交会議の開催を阻止した<ref name="HOP2" />。そして、1824年12月31日には{{仮リンク|リオ・デ・ラ・プラタ連合州|en|United Provinces of the Rio de la Plata}}(現[[アルゼンチン]])、[[メキシコ合衆国 (19世紀)|第1次メキシコ合衆国]]、[[大コロンビア|グラン・コロンビア]]の独立承認をジョージ4世から引き出した<ref name="HOP2" />。これらは以降の[[イギリス政府]]の「[[自由貿易帝国主義]]」の基礎となった<ref name="村岡(1991)56">[[#村岡(1991)|村岡・木畑(1991)]] p.56</ref>。ただし、同盟国との政策の違いにより同盟国の在イギリス大使と敵対するようになり、またオーストリアの[[クレメンス・フォン・メッテルニヒ]]はカニングの追い落としに動いたとされる<ref name="HOP2" />。
 
国内では、蔵相[[フレデリック・ロビンソン (初代ゴドリッチ子爵)|フレデリック・ロビンソン]]、商務庁長官[[ウィリアム・ハスキソン]]、内相[[ロバート・ピール]]らとともにリベラル派として行動した。彼らの活動と「反動派」シドマス子爵(アディントンが1805年に叙爵)の引退が重なって、リヴァプール伯爵内閣は反動的性質を改めて「[[自由]]トーリー時代」と呼ばれる改革路線に舵を切るようになった<ref name="君塚(1999)49">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.49</ref><ref name="君塚(2006)25">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.25</ref>。
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{{イギリスの外務大臣}}
{{Normdaten}}
 
{{デフォルトソート:かにんく しよおし}}
[[Category:イギリスの首相]]
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[[Category:シティ・オブ・ウェストミンスター出身の人物]]
[[Category:アイルランド系イギリス人]]
[[Category:王立協会フェロー]]
[[Category:フリーメイソン]]
[[Category:1770年生]]
[[Category:1827年没]]
[[Category:王立協会フェロー]]