「黄金の夜明け団」の版間の差分

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==誕生までの経緯==
{{See also|暗号文書 (黄金の夜明け団)}}
黄金の夜明け団の創設は、[[フリーメイソン]]系の[[サロン|神秘主義サロン]]である{{仮リンク|英国薔薇十字協会|en|Societas Rosicruciana in Anglia}}{{efn2|英国薔薇十字協会は、[[秘教]]的な事柄に関心をもつ少数のフリーメイソン(フリーメイソンリーの会員)によって1866年に結成された{{sfn|Goodrick-Clarke|2008|p=196}}。メイソンのみで構成された団体ではあるが、フリーメイソン組織ではなく{{sfn|吉村|2013|pp=52}}、メイソンリーに付属する秘教研究会のような存在であった(黄金の夜明け団とは異なり、魔術は研究対象ではなかった){{sfn|吉村|2013|pp=62-63}}。1870年代から1880年代にかけて、同協会ではいくつかの儀式や、カバラやフリーメイソンの象徴性についての講義などが行われていた{{sfn|Goodrick-Clarke|2008|p=197}}。}}の会員{{仮リンク|ウィリアム・ウィン・ウェストコット|en|William Wynn Westcott}}が、1887年8月に[[隠秘学]]分野の知人からを通して譲り受けた古書類の中から60枚の[[暗号文書 (黄金の夜明け団)|暗号文書]]を発見し、これに興味を覚えたことから始まる。それは者不明の魔術結社設立に向けた原案メモであり『{{仮リンク|ポリグラフィア|en|Polygraphia (book)}}』に由来する[[換字式暗号]]で綴られていた{{sfn|吉村|2013|p=64}}。
[[File:Polygraphiae.jpg|thumb|160x160px|ポリグラフィア|代替文=]]
 
[[ファイル:Golden Dawns charter.jpg|サムネイル|200x200ピクセル|設立許可証]]
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黄金の夜明け団の創設は、[[フリーメイソン]]系の[[サロン|神秘主義サロン]]である{{仮リンク|英国薔薇十字協会|en|Societas Rosicruciana in Anglia}}{{efn2|英国薔薇十字協会は、[[秘教]]的な事柄に関心をもつ少数のフリーメイソン(フリーメイソンリーの会員)によって1866年に結成された{{sfn|Goodrick-Clarke|2008|p=196}}。メイソンのみで構成された団体ではあるが、フリーメイソン組織ではなく{{sfn|吉村|2013|pp=52}}、メイソンリーに付属する秘教研究会のような存在であった(黄金の夜明け団とは異なり、魔術は研究対象ではなかった){{sfn|吉村|2013|pp=62-63}}。1870年代から1880年代にかけて、同協会ではいくつかの儀式や、カバラやフリーメイソンの象徴性についての講義などが行われていた{{sfn|Goodrick-Clarke|2008|p=197}}。}}の会員{{仮リンク|ウィリアム・ウィン・ウェストコット|en|William Wynn Westcott}}が、1887年8月に[[隠秘学]]分野の知人から譲り受けた古書類の中から60枚の[[暗号文書 (黄金の夜明け団)|暗号文書]]を発見し、これに興味を覚えたことから始まる。それは著者不明の魔術結社設立に向けた原案メモであり『{{仮リンク|ポリグラフィア|en|Polygraphia (book)}}』に由来する[[換字式暗号]]で綴られていた{{sfn|吉村|2013|p=64}}。
ファイル:Cipher Manuscripts Folio 13.gif|暗号文書
ファイル:Polygraphiae by Johannes Trithemius, 1518, stated to be the first published book on cryptology - National Cryptologic Museum - DSC07742.JPG|ポリグラフィア
[[ファイル:Golden Dawns charter.jpg|サムネイル|200x200ピクセル|設立許可証]]
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ウェストコットが主張するところによると、同年9月に全文の復号化に成功した彼は、文書の中にドイツ在住の{{仮リンク|アンナ・シュプレンゲル|en|Anna Sprengel}}という人物の住所を見つけ、同時に返信を望んでいる一文も確認したという。シュプレンゲルと書簡連絡を取るようになったウェストコットは、彼女を伝説の[[薔薇十字団]]の教義を継承する偉大な魔術師であると認め、[[秘密の首領]]と仰ぐようになった。かねてより独自のオカルト団体を作りたいと考えていたウェストコットは、シュプレンゲルとの手紙のやり取りの中でその意志を伝えると、彼女が所属するというドイツの[[薔薇十字団|薔薇十字]]系魔術結社 ''Die goldene Dämmerung'' (黄金の夜明け)が公認する支部設立の許可を受け取ることになり、同時にその教義は暗号文書の記載内容に則ったものと定められた。ウェストコットはこの秘密の首領のお墨付きを元に、友人[[マグレガー・メイザース]]と年長の{{仮リンク|ウィリアム・ロバート・ウッドマン|en|William Robert Woodman}}を共同創立者にして、1888年3月1日に[[神殿|神殿(テンプル)]]{{efn2|黄金の夜明け団の「神殿({{lang-en-short|temple}})」は一般に'''テンプル'''と和訳される。フリーメイソンリーなどでいう[[ロッジ]]の代替名である{{sfn|有澤|1998|p=37}}。ロッジはメイソンリーを構成する組織的ユニットであり、第1に「特定の集会所に属する会員で構成される組織」、第2に「その構成員が集会を催す会場(建物)」という2つの意味を併せもつ{{sfn|有澤|1998|pp=276-277}}。元来は建築に従事する石工の設営する仮小屋を指したが、メイソンリーにおいては組織や会合を指す抽象的概念となり、また、その集会所はメイソンリーにとって重要な[[ソロモン神殿]]の象徴ともみなされた{{sfn|有澤|1998|pp=277-278}}。}}と称する魔術結社の運営施設をロンドンに開いた。
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[[ファイル:Constance Lloyd 1882.jpg|代替文=|サムネイル|220x220ピクセル|コンスタンス・メアリー・ロイド]]
 
1888年3月1日に最初の運営施設となる「{{仮リンク|イシス・ウラニア神殿|en|Isis-Urania Temple}}」が英国ロンドンに開かれた。続けて年内に[[サマセット州]]の[[ウェストン・スーパー・メア|ウェストン・スーパーメア区]]に「[[オシリス]]神殿」が、[[ウェスト・ヨークシャー州|ウェストヨークシャー州]]の[[ブラッドフォード (イングランド)|ブラッドフォード市]]にも「[[ホルス]]神殿」が開設された。さらに主要団員の{{仮リンク|ジョン・ウィリアム・ブロディ=イネス|labe=ブロディ=イネス|en|John William Brodie-Innes}}が[[エディンバラ]]の地に「[[アメン]]・[[ラー]]神殿」を設立した。1892年にメイザースはロンドンを離れて仏国[[パリ]]に移住し、そこで「[[ハトホル|アハトル]]神殿」を立ち上げた。また{{要出典範囲|アメリカからの参入者も増えたので|title=支部設立の可否は参入者の多寡によるのでしょうか?出典にはそのようなことは書かれていません。別の出典が必要です。|date=2019-05-31}}1900年までに「[[トート]]・[[ヘルメース|ヘルメス]]神殿」を含むなど複数の支部がアメリカに設置された{{sfn|江口|亀井|1983|pp=65-66}}。こちらでは物好きな米国人のための{{sfn|江口|亀井|1983|p=65}}位階売買が行なわれてメイザースの収入源になっていたという{{sfn|キング|江口訳|1994|pp=134-135}}。
 
[[フリーメイソン]]限定であった英国薔薇十字協会と異なり、ウェストコットの意向で黄金の夜明け団は一般人にも門戸が開かれていた。またメイソン系とは一線を画して団内を男女平等にし、補職と待遇に性差での区別を付けなかった。団員は主に紹介と推薦やメイソン系機関紙上の広告によって集められ、また[[大英博物館]]周辺などでこれはと思った人物を勧誘することもあった。その際はフリーメイソンと英国薔薇十字協会のブランドが利用され、さらに興味を引いた人間には[[薔薇十字団]]の名も持ち出された。こうして設立から2年の間に文化人、知識人、中産階級を中心にして100名以上が加入した。
 
==隆盛そして軋轢==
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1891年、ウェストコットは秘密の首領であるシュプレンゲルからの連絡が途絶えたと公表し、団体運営は新たな節目を迎えた。これはより自由なスタイルで今後の教義と活動の幅を広げようとする意思表示でもあった。同年末に高齢の首領ウッドマンが死去した。1892年にメイザースは妻の{{仮リンク|モイナ・メイザース|label=モイナ|en|Moina Mathers}}とともにパリへ移住し、そこで新たな秘密の首領との接触に成功したと発表した。ウェストコットはやや驚いたようで、この辺から団内のぎくしゃくが始まったと見られている。ウェストコットは対立を避けてこれに同調し、以後の教義はメイザースが全面的に作成することになった。1897年頃にウェストコットは突然首領職を辞して団体運営から手を引いた。これには諸説あるが、ロンドン警察の検死官が本職であるウェストコットは、団員の誰かが[[ハンサムキャブ|辻馬車]]内に置き忘れた団内文書から勤務先の当局に魔術結社との繋がりを知られてしまい、職業倫理上の規定に従わざるを得なかったためという話が有力視されている。こうしてパリ在住のメイザースが唯一の首領になった。メイザースはロンドンのイシス・ウラニア神殿の運営をフロレンス・ファーにまかせてイギリス側の代表とする新体制を発足させたが、ファーをはじめとするロンドンの団員たちは、メイザースの日頃の言動と頻繁な会議欠席に不満を募らせて、彼のリーダーシップに疑問を抱くようになっていった。
 
1899年、イシス・ウラニア神殿は団内の問題児であ不評を買てい若き[[アレイスター・クロウリー]]の[[アデプト]]昇格を拒否し、これに反発したクロウリーがパリにいる首領メイザースを頼ったことで新たな波乱が巻き起こった。1900年1月16日にメイザースは自身に反抗的なロンドン側への当てつけも兼ねて、パリのアハトル神殿でクロウリーをアデプトに昇格させた。ロンドンに帰還したクロウリーは、ファーたちにメイザースの昇格決定に従うよう要求したが、ファーは断固拒絶し問題が収束するまでのイシス・ウラニア神殿の閉鎖とイギリス代表辞任の意思を表明した。対立が続く中でパリのメイザースは、ファーたちの背後でウェストコットが糸を引いていると疑心暗鬼に駆られるようになり、彼の信用を落とせばロンドン側を切り崩せると考えて、2月16日付けの返信内で秘密の首領シュプレンゲルの書簡はウェストコットの捏造であったと唐突に暴露した。これによって団内全体が紛糾することになった。ファーたちはウェストコットの回答も得た上で事態収拾の会合を繰り返し開き、3月3日にメイザースに対して捏造とする証拠の提示を求めた。この予想外の反応に困惑したメイザースは拒否という態度を取った。調停は決裂し、3月23日にパリのメイザースはファーの解任指示を出したが、逆に29日のロンドンの会議で首領メイザースの追放が決定された。憤激したメイザースは翌4月に愛弟子であるクロウリーをロンドンへ派遣し、イシス・ウラニア神殿の保管庫にある重要文書と儀式道具を押収させて運営不能にするという型破りの作戦に出た。これは保管庫の所在地からブライスロードの戦いと呼ばれたが、建物に押し入ったところで当然のごとく警察に通報されて失敗した。
 
==分裂==
ブライスロードの事件で黄金の夜明け団の確執と亀裂は修復不可能になった。ファーたちはメイザースを支持する{{仮リンク|エドワード・ウィリアム・ベリッジ|en|Edmund William Berridge}}<!--なぜか英語版の記事名は Edmund William Berridge になっているが、Edward が正しい。-->一派の除名も決定し、追い出されたベリッジらはロンドンの別住所に同名の神殿を開設したのでイシス・ウラニア神殿は二つに分裂した。この内紛を傍観していたホルス神殿とオシリス神殿はそのままメイザースの下に残ったが、双方ともメンバーは少数であった。{{仮リンク|ジョン・ウィリアム・ブロディ=イネス|labe=ブロディ=イネス|en|John William Brodie-Innes}}運営のアメン・ラー神殿はファーたちに合流した。アメリカにある複数の神殿はメイザースとのコネクションを維持した。こうして1900年4月の時点で黄金の夜明け団は、メイザース派とファー派に二分されることになった。
 
その後のファー派では[[ウィリアム・バトラー・イェイツ]]が代表に就任したが、ファーと{{仮リンク|アニー・ホーニマン|en|Annie Horniman}}の貴婦人同士の対立劇に手を焼いたイェイツは匙を投げる形で1901年に退団した。同年に{{仮リンク|ホロス夫妻|en|Ann O'Delia Diss Debar}}の詐欺事件にメイザースが巻き込まれて黄金の夜明け団の名称がスキャンダラスに報道されてしまったために、社会的体面を重んじるファー派は「{{仮リンク|暁の星|en|Stella Matutina}}」と改称した。その前後にファーは退団し「暁の星」はブロディ=イネスと{{仮リンク|ロバート・ウィリアム・フェルキン|en|Robert William Felkin}}が代表になった。ブロディ=イネスは[[エディンバラ]]のアメン・ラー神殿を運営し、フェルキンは[[ロンドン]]のイシス・ウラニア神殿を運営した。ホーニマンもこの頃に退団した。1903年になると儀式魔術の実践に否定異教であっ様式を嫌悪していた[[アーサー・エドワード・ウェイト]]がイシス・ウラニア神殿内で派閥工作を始め、同神殿施設の所有権をも掌握したウェイトは自分たちを独立修正儀礼派と称してフェルキンらを圧迫し、従来の儀式魔術を指向する「暁の星」派を退場へと追いやった。ウェイトは自身の乗っ取り色を薄めるために、パリのメイザースと連絡を取った上で表向き彼への忠誠を誓い、その公認団体とする同意を取り付けて「聖黄金の夜明け」と名乗るようになった。メイザースは公認のみで教義上の関与はしなかった。ウェイトたちに離反されたフェルキンはロンドン市内に新しくアマウン神殿を立ち上げて「暁の星」の運営施設とした。{{要出典範囲|1906年にメイザースは黄金の夜明け団そのものの幕引きを決めて、パリのアハトル神殿を本部とする魔術結社「{{仮リンク|A∴O∴|en|Alpha et Omega}}」に組織再編した|date=2019-05-27}}。同じ頃、フェルキンの方針に不満を覚えるようになったブロディ=イネスは「暁の星」を離れてメイザースと和解し、1907年にアメン・ラー神殿とともに「A∴O∴」へ合流した。残された「暁の星」はフェルキンの下で数々の混乱を経ながら続いた。
 
以上の経緯により、黄金の夜明け団は「{{仮リンク|A∴O∴|en|Alpha et Omega}}」「{{仮リンク|暁の星|en|Stella Matutina}}」「[[聖黄金の夜明け団|聖黄金の夜明け]]」といった三つの団体に分裂して{{sfn|江口|亀井|1983|pp=93-94}}、その教義は様々な形で受け継がれながらも歴史の中に姿を消したのである。一方で分裂の原因となった[[アレイスター・クロウリー]]は結局、メイザースとも仲違いした末に飄然と世界放浪へ旅立って帰還後の1907年に「[[銀の星]]」を結成した。
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==分派団体のその後==
;暁の星
 
:メイザースに反旗を翻したロンドン・グループの多数派が1902年に組織した「黄金の夜明け」の後継団体{{sfn|Goodrick-Clarke|2008|p=203}}。
1903年からアマウン神殿を率いる立場になったフェルキンは、その活動方針を黄金の夜明け団の源流であるドイツの薔薇十字系魔術結社に求めるべきと考えて自分たちを導いてくれる「[[秘密の首領]]」探しに没頭した。しかしこれは完全な迷走につながり、[[アストラル投射|星幽体投射]]で探し当てた霊的首領の教えは団内を却って混乱させ、また直接のドイツ探訪時に[[ルドルフ・シュタイナー]]を秘密の首領と誤認して持ち込まれた[[人智学]]は団内を更に紛糾させた。1912年にフェルキンはニュージーランドへ移住し現地で「エメラルドの海」神殿を開設すると、混迷するアマウン神殿を残したままイギリスを離れた。1916年に第一次世界大戦下のロンドンに一時帰還してアマウン神殿の惨状を確認したフェルキンは、[[ブリストル|ブリストル市]]に「ヘルメス・ロッジ」を設立した。過去の反省からフェルキンはアマウン神殿と同じ轍を踏むのを避けるべく、ロンドンから離れた地に黄金の夜明け団の遺産を残すための組織(ロッジ)を置いた。フェルキンの願い通り、ヘルメス・ロッジのメンバーは1930年代半ばまで安定した運営を続け、かの[[イスラエル・リガルディー]]に参入の機会を与えた。エメラルドの海神殿は現地に永住したフェルキン家族らによって、こちらでも黄金の夜明け団の遺産を守りつつ1970年代まで存続していた。アマウン神殿は1919年に一時休眠状態に陥り、1939年の[[第二次世界大戦]]勃発前後に自然消滅した。[[第一次世界大戦]]後の社会混乱と[[大恐慌|世界恐慌]]に見舞われた[[戦間期|大戦間期]]を通して黄金の夜明け魔術は廃れつつあり、1934年に[[イスラエル・リガルディー|リガルディー]]が参入したヘルメス・ロッジでもすでに熱心さは失われていた。ロッジ消滅と共に貴重な知識までもが失われるのを危惧したリガルディーは、黄金の夜明け団の遺産を後世に残すべく独断で持ち出した全ての団内文書を、1938年から書籍にまとめて公開出版するという手段に踏み切った。これは秘匿を旨とする魔術界には激震をもたらしたが、第二次世界大戦の暗雲が迫る社会情勢下ではさほど興味を惹かれる事もなく緩慢に取引される程度に留まっている。黄金の夜明け魔術が復興するにはそれから三十年以上の時を必要とした。
:1902年の総会でブロディ=イネス、パーシー・ブロック、R・W・フェルキンを三首領に選出したこのグループは、第一団の「黄金の夜明け」という名称を放棄することに決し、「暁の星 (Stella Matutina)」に名称変更することが内定した{{sfn|江口|亀井|1983|pp=88-89}}。翌1903年、団の方針転換を画策したA・E・ウェイトは、支持者とともに分離独立に至った{{sfn|キング|江口訳|1994|p=113-114}}。残されたロンドンの団員たちは正式に第一団を「暁の星」に改称し、フェルキンを指導者として新たにアマウン神殿を立ち上げた{{sfn|キング|江口訳|1994|p=115}}。ブロディ=イネスは引き続きエジンバラのアメン・ラー神殿を運営した{{sfn|キング|江口訳|1994|p=115}}。1916年にはフェルキンの指導下でマーリン・ロッジ、後に[[イスラエル・リガルディー]]が参入することになるヘルメス・ロッジなど4つの支部が設立された{{sfn|江口|亀井|1983|pp=112-113}}。フェルキンがニュージーランドに設立した支部「エメラルドの海」は、1916年に当地に永住したフェルキンとその家族によって、半世紀もの間、存続した{{sfn|江口|亀井|1983|pp=110, 113, 119}}。現代の黄金の夜明けの権威の一人であるパット・ザレウスキは、このニュージーランド支部の団員ジャック・テイラーの弟子であった。
 
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ファイル:Sara Allgood - Project Gutenberg eText 19028.jpg|サラ・オールグッド
ファイル:Nesbit.jpg|エディス・ネスビット
ファイル:Elsa Barker novelist.png|エルザ・バーカー
ファイル:Photoevelyn3.jpg|イヴリン・アンダーヒル
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;A∴O∴
:メイザースの支持者らによって1910年に{{efn2|設立年については諸説あるが、ここでは Goodrick-Clarke (2008) に拠った。}}再建された黄金の夜明け団{{sfn|Goodrick-Clarke|2008|p=206}}。
:ロンドン・グループの多数派によって追放されたメイザースは、E・W・ベリッジをロンドンの代表に指名した{{sfn|キング|江口訳|1994|p=133}}。ベリッジが独自にロンドンに設立したイシス神殿は、後に「A∴O∴(Alpha et Omega, [[ΑΩ|アルファにしてオメガ]])」と呼ばれるようになった{{sfn|Goodrick-Clarke|2008|p=203}}{{efn2|この改名時期についてフランシス・キングは、ブロディ=イネスとメイザースの和解が成立した頃、第一団の名称が「黄金の夜明け」から「A∴O∴」に変更されたとしている{{sfn|キング|江口訳|1994|p=134}}。}}。ベリッジの運営するロンドン支部は1903年から少なくとも1913までは活動していたようである{{sfn|キング|江口訳|1994|p=133}}。当初メイザースに反乱したグループに属していたブロディ=イネスは、1908年頃メイザースとの和解を果たした後、1913年にロンドンのA∴O∴幹部に就任、自身の主宰するエジンバラのアメン・ラー神殿もA∴O∴派となった{{sfn|江口|亀井|1983|pp=110-111}}。以後、ブロディ=イネスがイングランドとスコットランドのA∴O∴派を監督するようになり、一方、メイザースは傘下のアメリカ支部とのコネクションを保持しながらパリのアハトル神殿の運営に専念した{{sfn|キング|江口訳|1994|pp=133-134}}。[[ダイアン・フォーチュン]]は黄金の夜明け団の出身と言われることがあるが、正確には狭義の黄金の夜明け団ではなく、その後継結社であるA∴O∴の参入者である。北米支部のトート・ヘルメス神殿はタロット研究で著名なオカルティスト、{{仮リンク|ポール・フォスター・ケース|label=P・F・ケース|en|Paul Foster Case}}を輩出している。
 
A∴O∴はパリに在る[[マグレガー・メイザース|メイザース]]の指導下で安定した運営が行われていた。英国薔薇十字協会員が構成していたホルスとオシリス両神殿は古巣の方に移行したので、1911年時にはパリ、ロンドン、エディンバラと在アメリカ三神殿を合わせた計六神殿を束ねていた。第一世界大戦が始まった1914年からロンドンの活動が確認されなくなり、ベリッジに代わってブロディ=イネスがイギリス側代表になった。1918年にメイザースは逝去し、妻モイナが彼の遺産であるA∴O∴を受け継いだ。翌1919年にロンドンに移ったモイナはそこで本部神殿を改めて開設し、エディンバラのブロディ=イネスの協力を得てA∴O∴の運営に従事した。同年頃にアメリカで更に三神殿が設立された。1928年にモイナは逝去し、女性の[[アデプト]]に後事が託されている。A∴O∴では徹底した秘密主義が取られていたので、1900年春の分裂後も変わらずメイザースが編み出し続けていた魔術教義はほとんど後世に伝えられていない。1919年頃に参入し短期間で独立した[[ダイアン・フォーチュン]]と在米神殿の{{仮リンク|P・F・ケース|en|Paul Foster Case}}の双方を通して伺えるものだけである。第二次世界大戦勃発後、A∴O∴はその役目を終えるようにして閉鎖され、無数の教義が記された団内文書も「[[秘密の首領]]」に捧げる形で全て焼却された。
;独立修正儀礼
 
:A・E・ウェイトとM・W・ブラックデンによって結成された組織{{sfn|吉村|2013|p=112}}。'''聖黄金の夜明け団'''とも。
;聖黄金の夜明け
:1899年に第二団に昇進したA・E・ウェイトは儀式魔術よりもキリスト教神秘主義を志向していた。元祖イシス・ウラニア神殿を掌握した{{efn2|フランシス・キングは、イシス・ウラニアの名を冠した独自の神殿としている{{sfn|キング|江口訳|1994|p=114}}。}}ウェイトは、異教的要素を排した修正版の儀礼体系を作り上げた{{sfn|Goodrick-Clarke|2008|pp=203-204}}。その「黄金の夜明けの独立修正儀礼 (Independent and Rectified Rite of the Golden Dawn)」{{efn2|Independent and Rectified Order R. R. et A. C. とも。}}は1903年から1914年まで活動した{{sfn|Goodrick-Clarke|2008|p=204}}。この結社では第三団や秘密の首領の存在は否定され{{sfn|Goodrick-Clarke|2008|p=204}}、魔術作業は廃止された{{sfn|キング|江口訳|1994|p=115}}。会員には、キリスト教神秘主義の著作で知られる{{仮リンク|イーヴリン・アンダーヒル|en|Evelyn Underhill}}がいた{{sfn|Goodrick-Clarke|2008|p=204}}。その後、ウェイトは1915年に「薔薇十字同志会」という新たな神秘主義団体を作った。後者の団体には『万聖節の夜』などの幻想小説を著した文学者{{仮リンク|チャールズ・ウィリアムズ (文学者)|label=チャールズ・ウィリアムズ|en|Charles Williams (British writer)}}が所属していた{{sfn|Goodrick-Clarke|2008|p=204}}。
 
[[アーサー・エドワード・ウェイト|ウェイト]]は知識の宝庫としての黄金の夜明け団は評価しながらも儀式魔術の異教的様式を嫌悪しており、英国淑女紳士に適したキリスト教神秘主義様式に修正するべきだと考えていた。しかし同団は元々英国薔薇十字協会の方でキリスト教神秘主義を手掛けていたメイソンたちが、異教的活動も嗜みたいと開いた魔術結社だったのでそれは本末転倒であった。1903年時のイシス・ウラニア神殿はフェルキンとM・W・ブラックデンの共同運営で、前者は教義面を担当し後者は神殿施設の所有権を含む事務面を担当していた。ウェイトの支持者は少数派だったが、肝心のブラックデンがウェイト側に回ったので形勢逆転し、同神殿はウェイトが望む常識的な神秘主義研鑽団体になった。しかしウェイトが考案した神秘主義儀礼はやがて不評を買い始め、1914年になると元の儀式魔術を懐かしむ者たちとの間で団内は分裂した。ウェイトは自身の支持者を連れて「薔薇十字友愛会」という新たな団体を立ち上げた。残された者たちは「暁の星」に戻り、その事情を知ったフェルキンの計らいで1916年に設立された「マーリン・ロッジ」に所属して1920年代まで存続した。薔薇十字友愛会はウェイトの下で安定運営され数々の知識人文化人が参入している。1942年のウェイト逝去と共に解散した。
 
==教義概要==
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上述の知識群は、創設者をはじめとするアデプトたちが言わば自由研究的に持ち寄って考察を加えた後に、団体の方向性に沿う形で再解釈され、必要に応じて団内のカリキュラムに組み込まれた。魔術の研鑽に必要とされる様々な知識は、アデプトによってテキスト化されて秘儀参入者たちに学ばれた。団内ではアデプト一人一人の独自研究が奨励されており、それぞれの研究成果は「飛翔する巻物」と題された団内文書の各巻に編集されてアデプトたちの間で相互に閲覧された。この自由な知識探究の気風は団内の教義を発展させる原動力となったが、他方で迷走の一因にもなった。団内ではマグレガー・メイザース考案の教義が最も大きな影響力を持っており、極端に言えば黄金の夜明け魔術とはメイザース思想の体現物と言えた。中でも[[エノク語]]を土台にした{{仮リンク|エノキアン魔術|en|Enochian magic}}は彼の奥義と言えるものであり、5枚のタブレットに記された合計644の区画からなるエノク文字図表は、前述の[[生命の樹 (旧約聖書)|生命の樹]]をも包括した更に高度な万物照応による知識の体系化を実現していた。後にメイザースから離反した団体の者でさえ彼の考案物には一目置き、またある者は彼のブランドを積極的に利用した。
 
団員たちは秘儀参入時に者たちは団内で得た知識を口外しないことをせぬよう誓約していたのでその教義内容が公にされることはなかった。しかし[[第一次世界大戦]]継団体度重なる分裂混乱内輪揉め[[世界恐慌]]見舞われた[[戦間期|大戦間期]]の社会情勢の中で魔術結社の活動も下火になり、それらの解散に伴う知識そのものの喪失を危惧した[[イスラエル・リガルディー]]が関係団内文書を書籍にまとめて公開出版するという手段に踏み切ったことで、それまで謎に包まれていた黄金の夜明け団教義の大部分が一般に入手できるようになった。この英断または独断は魔術関係者の間で大きな賛否を巻き起こしている。なお、リガルディーは1969年に自宅を魔術マニアに荒らされ数々の貴重なコレクションを盗まれるという憂き目に合っている。魔術関係者の中にはこれを天罰と見る者{{誰|title=この記述およびその情報源(註参照)は、「これは天罰だろう」と述べた人物の名を明示していません。|date=2014年2月}}もいた{{sfn|リガルディー編|江口訳|1993b|loc=訳者解説}}。
 
{| class="wikitable" style="white-space:nowrap;font-size:80%; text-align:center"