「タムルアン洞窟の遭難事故」の版間の差分

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最終的にはダイバーによる救出となったが、遭難者の生存や救出作業を支援するため、大量の水が洞窟内から汲み出された。洞窟周辺に滞留した水により樹木が根腐れする被害を受けたため、救出から1年後の2019年7月8日、遭難者やその家族らによる[[植樹]]が行われた<ref name="読売20190803"/>。
 
=== 行方不明 ===
タム・ルアン・ナン・ノンは、タイとミャンマー間の国境の山岳地域の山ドイ・ナン・ノンの下のカルスト洞窟コンプレックスである。この系は、長さが10 km(6.2マイル)であり、数百メートルの石灰岩層の下に、多数の深い窪み、狭い通路、および曲がりくねったトンネルがある。洞窟系の一部は季節的に浸水するため、入口には、雨季(7月〜11月)の洞窟への立ち入りを禁止する標識が掲示されている。
 
2018年6月23日土曜日、地元のジュニアサッカーチームである『Wild Boars』という11歳から16歳までの少年12人のグループと、25歳のアシスタントコーチ エカフォル・シャンタウォンが、洞窟探検に出発した後、行方不明になった。初期報道によると、彼らはサッカーの練習後に洞窟で誕生日パーティーを開くことを計画し、かなりの金額を食べ物に費やしたが、救助後の記者会見ではこれを否定した。彼らが洞窟に入った後、チームは突然の継続的な降雨によってトンネル内で立ち往生した。上昇する水から逃げるとき、彼らはいくつかの食料を残さなければならなかった。
 
午後7時ごろ、ヘッドコーチ Nopparat Khanthawong ({{lang-th|นพรัตน์ กัณฑะวงษ์}}) は、電話をチェックして、子供たちが帰宅していないことを心配する親からの約20の不在着信がわかった。Nopparatはアシスタントコーチ Chanthawongに、それからやつぎばやに多数の少年に電話した。結局のところ彼は、チームの13歳のメンバー Songpon Kanthawongに着いたが、彼は、自分は練習後に車に拾われた、残りの少年たちはタムルアン洞窟を探検していた、と言った。コーチは、大急ぎでそれら洞窟に行くと、入口近くには捨てられた自転車複数とバッグ複数があり、ぬかるみの通路からは水がしみ出していた。彼は、彼らの未請求の所持品を見た後、この行方不明のグループに対して当局に警告を発した。
 
アシスタントコーチと少年3人は無国籍であった。''Wild Boars''の創設者 Nopparat Khanthavongは、彼らが、タイ、ミャンマー、ラオス、中国を横切って延びる地域ゴールデン・トライアングルの部族出身であると説明したし、この地域には明確な国境がなく、人々にはパスポートが割り当てられていない。彼らの無国籍は、チェンライ県を離れる可能性を含む基本的な利益と権利を彼らから奪った。「国籍を取得することは、少年たちにとって最大の希望である」とKhanthavongは言った。「過去には、これら少年たちは国がない状態のため、Chiang Rai の外で試合をするために旅行するのに問題があった」。チームの救出に続いて、タイ当局は、タイ市民権を取得する法的支援を少年3人とコーチに提供することを約束した。このプロセスには最大6か月かかることがある。9月26日に、少年らとコーチはタイの市民権を与えられた。
 
===捜索とコンタクト===
Chiang Raiに住み、洞窟コンプレックスの詳しい知識のあるイギリスの洞窟探検家Vern Unsworthは、行方不明の少年らについての電話を受けた6月24日に、洞窟にソロベンチャーをする予定があった。アンズワースはタイ政府に、イギリスの洞窟救助評議会(BCRC。British Cave Rescue Council)に援助を要請するよう助言した。6月25日に、タイ海軍のSEALダイバーらが到着し、洞窟の捜索を開始した。タイ海軍SEALは、水が非常に濁っているため、ライトがあってさえ自分らは水中のどこに向かっているのかわからない、と述べた。継続的な雨が入口をさらに浸水させた後、捜索は定期的に中断されねばならなかった。6月27日に、BCRC洞窟ダイバー3人が、Heyphone LFラジオを含む専門機器を持って到着し、続いてオープンウォーターダイバーの別のチーム複数が到着した。6月28日に、第320特殊戦航空群、第31救助隊、および第353特殊作戦グループからの米国空軍チームが加わった。6月29日までに、スペシャリスト・レスポンス・グループ・ダイバーのオーストラリア連邦警察チームが到着し、日曜日には北京平和地財団からのダイバーの中国チームが到着した。
 
一方で、探知犬を飼っている警官らは、下の洞窟システムへの代替の入り口複数を提供できるシャフトの開口部を上から探した。ドローンやロボットも検索に使用されたが、地下深くの人々をスキャンする技術はなかった。
 
BCRCダイバー リチャード・スタントンとジョン・ヴォランセンは、ダイビング・ガイドラインを置きながら洞窟コンプレックスを前進したが、これはタイを本拠とするベルギーの洞窟ダイバー Ben Reymenants とフランスのダイバーMaksym Polejaka に支えられていた。
 
降雨がダイバーが強い流れと視界の悪さと戦っている洞窟内の水流を強めるために、降雨のような天候のために、捜索を中断せねばならなかった。天候が回復した後、7月2日に捜索が再開された。少年12人とコーチは22:00ころに発見された、これはStanton と Volanthenによるもので、彼らの努力はBCRCダイバーのロバート・ハーパーによって外部から監督された。少年らとコーチは、「パタヤビーチ」室の、約400メートル(1300フィート)むこうの、狭い岩棚にいた、これはタイにおける地上ビーチににちなんで名付けられた。Volanthenは、ラインが足りなくなったとき他の人のナビゲーションを支援するために洞窟内にガイドラインを置いていた。それから彼は水面に泳ぎ、すぐに行方不明のグループを見つけ、彼らの声が聞こえたり姿が見えたりする前に彼らの匂いを嗅いだ。彼らが発見された棚は、洞窟口から約4 km(2.5マイル)のところにある。少年らとダイバーらとの邂逅を示す出会いのビデオが、タイ海軍SEALsによってFacebookに投稿された。ビデオでは、放心状態の少年らは、ダイバーらに今日が何日かを尋ねているので、どれくらいの期間閉じ込められているのかわからない。救出作業を担当した元チェンライ州知事{{Interlanguage link|Narongsak Osatanakorn|th|ณรงค์ศักดิ์ โอสถธนากร|WD=}}は、「彼らは無事だとわかった。しかし作戦行動は終わっていない」と述べた。タイ、米国、オーストラリア、および中国のダイビングチームは、BCRCダイバーらがダイビングボトルを洞窟系内に輸送し始め、第3室に給気貯蔵エリアを確立することを支援した。
 
7月3日に、わなにかかったグループには、救出まで支援するタイ海軍SEALs 3人が加わった。SEALSには、海軍SEALsコースを修了した第3衛生大隊のタイ陸軍医師中佐Pak Loharachunが含まれていた。タイ当局は記者らに、救出者らは健康診断と治療を提供しており、少年らを楽しませつづけており、閉じ込められた者は誰も重篤な状態にない、と語った。タイ海軍少将のApagorn Youkonggaew少将の特殊部隊は記者らに、「彼らは、医師の監督の下で、ビタミンとミネラルを含む、消化しやすい高エネルギーの食物を与えられている」と語った。救出隊が作成し、数時間後にタイ海軍特殊部隊が共有したビデオでは、少年12人全員とそのコーチが自己紹介し自分の年齢を述べた。緊急用の毛布に包まれて虚弱に見えた彼らは皆、外界にハローと言った。「Sawatdi khrap」と、各少年は伝統的なタイの挨拶''wai''で手のひらといっしょに言った。2本目のビデオは、彼らを治療する医者を示している。一部のグループは泳げないと信じられていたし、すでに困難な救出となるだろうものを複雑にした。ある陸軍医師は、彼らが洞窟から自分たちの道を掘ろうとしていたことを発見した。チームメンバーらは毎日岩片を使って掘り、深さ5メートルの穴を開けていた。
 
BCRCダイバー Jason Mallinsonは、少年らとコーチに、耐水紙のメモ帳を使って親戚にメッセージを送る機会を提供した。メモの多くは、自分らは安全で安心した家族であり、すべてが順調であり、愛、安心、励ましの言葉が含まれている、と述べた。
 
===計画と準備===
洞窟入り口には兵站キャンプが設立され、救出作業者らに加えて何百人ものボランティアやジャーナリストが収容された。敷地はいくつかのゾーンに分割された――タイ海軍SEAL、他の軍人、および民間救出者のための制限された区域、彼らにプライバシーを与えるための親戚のための区域、および報道機関と一般市民のための区域。
 
ダイバー100人超、政府機関約100の代表、警察官900人、兵士2000人、およびボランティア多数を含む、推定10,000人が救助活動に貢献した。装備には、警察ヘリコプター10機、警察救急車7台、ダイビングボンベ700個超が含まれ、うち500個以上がつねに洞窟内にあり、さらに200個が補充のために列に並んでいた。水10億リットル超(オリンピックサイズのプール400個分に相当)が除去された。
 
==== 難題 ====
少年らが立ち往生した地点は、入り口から約4 km(2.5マイル)で、山頂から{{convert|800|–|1000|m}}下方であった。それらへのルートには、いくつかの浸水セクションがあり、いくつかは強い流れと視程ゼロであり、いくつかの非常に狭い部分があり、最小はわずか{{convert|38| x |72| cm}}であった。
 
洞窟を通ってチームに到達するまでの道のりは、流れにさからって6時間、流れとともに5時間かかった。
 
当初から、救出隊員は上昇する水位と戦った。洞窟の水を抜くために、上流に石の分水堰が1つ建設され、洞窟から水を汲み出し、そこに流入する流れを迂回させる系が設置された。7月4日に、ポンプが洞窟から{{convert|1,600,000|l/hour|gal/hour|abbr=on}}を除去しつつあり、その過程で近くの農地を破壊したと推定された。しばらくの間、善意のボランティアらがうっかりして水を地下水供給に戻した。季節外れに乾燥した天候の連続に助けられて、これらの努力により、7月5日に水位が1時間あたり{{convert|1.5|cm|1}}下降し、救出隊は洞窟内に{{convert|1.5|km}}歩くことができた。しかしながら、7月8日に予想される大雨は、このプロセスを停止または逆転させると予想され、チームが閉じ込められた位置に洪水をもたらす可能性さえあった。
 
7月6日に、洞窟内の酸素レベルが低下したことが検出され、もし少年らが長期間留まれば低酸素症を発病させるのではないかとの懸念が高まった。7月8日までに、酸素レベルは15%と測定された。人間の正常な機能を維持するのに必要なレベルは19.5%から23.5%の間である。タイの軍事工兵らは少年らまで空気供給ラインを設置しようとしたが、その努力は非実際的であるとして放棄された。
 
====選択肢====
危機が進展するにつれて、救助隊はチームとコーチを救うためにいくつかの異なる方法を計画した。主な選択肢は次のとおり。
*モンスーン季が終わるまで待つ、ダイバーらが食料と水を提供する。
*グループに基本的なダイビングスキルを教える。
*より簡単に脱出できる洞窟への別の入り口を見つける。900メートル降下するシャフト1本が発見された。
*救出シャフトをドリルであける。柔らかい石灰岩にシャフトが100本以上掘られたが、適切な場所が見つからなかった。
*酸素ラインを構築する。
*通信する電話線を敷設する。
 
==== ダイビングの選択肢 ====
大雨の増加、酸素レベルの低下、脱出通路の発見や掘削の困難さや不可能性など、複数の危険があり、救出者らはチームとコーチを経験豊富なダイバーらと一緒に連れ出すという決断を迫られた。タイ海軍SEALsと米空軍の救出専門家らは、計画を承認したタイ内務大臣と会談した。ダイバー90人が洞窟系で働き、40人がタイから、50人が他国から来た。救出者らは最初、少年らが旅をすることができるように、基本的なダイビングスキルを教えることを検討した。主催者らは椅子複数のある狭い通路のモックアップを作成し、ダイバーらは学校プールで地元の少年らと練習した。その後、タイSEALsと米空軍の専門家らは、衰弱している少年らを引き出すためにダイバーらのチーム複数を使用する計画をねった。
 
==== 救出ダイバーの死 ====
7月5日午後8時37分に、37歳の元タイ海軍SEALサマンクナン(タイ語:สมานกุนัน)は、3つの空気を届けるために第3室からパタヤビーチ近くのTジャンクションに飛び込んだ。帰還中、彼は水中で意識を失った。彼のダイビングバディはCPRを試みたが、成功しなかった。クナンは第3室に運ばれ、そこでCPRが再度試みられたが、蘇生することができず、7月6日の午前1時頃に死亡したと宣告された。
 
タイ海軍SEALクラス30のメンバーであるクナンは、2006年に一等兵曹のランクでSEALを去り、洞窟の救助を支援するために志願したとき、スワンナプーム空港で警備に従事していた。彼は死後、タイ王国海軍の最高司令官によって少佐に昇進し、前例のない7ランクの昇進を遂げた。タイ王室が後援し、出席した葬式が7月14日にいとなまれた。同日、ヴァジラロンコン王から白象勲章の騎士グランドクロス(ファーストクラス)を授与された。彼の記念像は、その場所で提案されている観光名所の一部となっているかもしれない。
 
2019年12月に別のダイバーも洞窟の救出で細菌から感染したために命を落とした。
 
===救出===
7月8日午前に、当局は、週後半にモンスーンの雨が降り、10月まで洞窟を洪水すると予想されるために、救出活動が差し迫っていたために、洞窟入り口周辺のメディアと重要でない職員全員に、地域をきれいにするように指示した。
 
採掘の序盤で、国際洞窟ダイバー13人とタイ海軍SEAL5人からなる救出ダイバー18人が、少年らを捜して連れてくるよう洞窟に送られた。ダイバー1人がダイブアウトで少年それぞれに付き添った。少年らが最初に最も弱い者、または最も強い者から救出されたという相反する報告があった。実際は、その順番は、少年が最初に志願したものであった。25歳のコーチ、Ekapol Chanthawongは、言った「私はハリス博士と話をした。「誰もが強く、誰も病気ではなかった」。「誰もが強い精神状態を持っていた。ハリス博士は言った...より好みなどない。」チームはグループとして、最も遠くに生きていた少年が最初に去るべきであると決定した。Ekapol Chanthaongは、7月18日の記者会見で、「洞窟から出るときは、自転車で家に帰らなければならないと思っていた」と述べ、彼らの話が世界的なメディアの注目を集めていたことに気づかなかった。「それで、最も遠くに生きている人々が最初に外に出ることが許されるでしょう…彼らが外に出て、わたしたちが中にいることをみんなに言うことができるように、わたしたちはオウケイでした」
 
国際洞窟ダイビング・チームは、ジョン・ボランセン、リチャード・スタントン、ジェイソン・マリンソン、クリス・ジュエル(それぞれ少年を割り当て)のイギリス人ダイバー4人と、麻酔専門医師のリチャード・ハリスとクレイグ・チャレンのオーストラリア人2人によって率いられた。旅の彼らの部分は、水没したルートを通過して1kmを超え、一方でさまざまな場所で健康診断を行い、メインダイバーらその他の緊急の役割にエアタンクを補給する、90人のタイ人および外国人のダイバーらに支えられた。
 
少年らはウェットスーツ、浮力ジャケット、ハーネス、陽圧フルフェイス・マスクを着けられた。酸素80%のボンベを前面にクリップし、ハンドルを背面に取り付け、視界不良で迷った場合に備えてダイバーにつながれた。救出ダイバーらはそれらを「パッケージ」と表現した。ハリスは旅の前に少年らに麻酔薬ケタミンを投与し、少年らが旅の途中でパニックに陥り救出者らの生命を危険にさらすのを防ぐために意識を失わせた。彼らはまた、心拍数を安定させるために、抗不安薬Xanaxと薬アトロピンを与えられた。タイ政府は、何か問題が発生した場合に備えて、ハリス医師と医療助手2人に外交特権を与えた。麻酔薬は45分ないし1時間続き、ハリスが訓練したダイバーらは3時間の旅の間少年らを鎮静させる必要があった。少年らは、ガイドラインを頼りにしながら、各少年がダイバーの右側または左側にいる状態で、背中または胸をつかんだ水泳ダイバーらによって巧みに外に出された。ダイバーらは、フルフェイス・マスクが岩にぶつからないように注意深く操縦して狭い通路を通りぬけた。視界が悪ければダイバーが最初に頭を岩にぶつけるように、ダイバーらは少年らよりも頭部を高く保った。乾いたセクションへの短いダイビングの後、ダイバーらと少年らはダイバー3人に会い、少年らのダイビングギアは取り外された。その後、少年らはドラッグ・ストレッチャーで200mの岩と砂丘を越えて運ばれた。Craig Challenは彼らを評価し、彼らが次のセクションのために再び水没させられる前に、ダイビング・ギアは元に戻された。少年らは45分間隔で到着した。ダイバーらは、少年らが排気泡から呼吸していることを知っていた。そして、泡は彼らが見て、感じることができた。
 
ダイバーらによって第3室のステージング基地に運ばれた後、少年らは洞窟からの危険な道ぞいに配置された何百人もの救助者によって「デイジー・チェーン」に沿って渡された。「スケッド」('sked')ストレッチャーに包まれた少年らは交替で、ロッククライマーによって設置された滑車の複雑なネットワーク上を運ばれ、滑らされ、ジップライン〔高低差のある2か所間に張り渡されたワイヤーロープと滑車を使用して空中を滑走させる〕で扱われた。第3室から洞窟入口までの多くの地域はまだ一部水没しており、救出者らは少年らを滑りやすい岩の上や泥水の中を何時間も輸送しなければならないと述べた。第3室から洞窟入口までの旅は、最初は約4、5時間かかったが、シャベルを使って泥道の排水をし、きれいにした後、1時間未満に短縮された。
 
当局は、クルーが空気タンク、ギア、およびその他の備品を交換する必要があり、各ランのの間に10ないし20時間かかるため、もし全員を抽出するならば数日間かかるだろう、と警告した。19:00直後に、地元当局は少年2人が救助され、Chiangrai Prachanukroh 病院に運ばれた、と言った。その直後に、さらに少年2人が洞窟を出て、医療関係者によって評価された。低水位がすでに、救助に必要な時間を短縮していた。低い水位は、天候が改善され、水を制御するために洞窟の外に堰が建設されたためである。
 
7月9日に、さらに少年4人が洞窟から救出された。7月10日に、最後の少年4人とそのコーチが洞窟から救出された。経験が救助手順の合理化に役立ったため、少年を引き抜くための合計時間は、初日の3時間から、少年4人とコーチが救助される最終日の2時間強に短縮された。タイ海軍SEALs3人と始めからずっと少年らと一緒にいた陸軍医師1人が最後に潜り出た。これらダイバーのうち3人は、おそらく水道管の破裂が原因で、不確かな理由でポンプが停止したときに待機中の救助者に加わって、第3室に到着した。第3室の水位が上昇し始めたし、もしそうなら救出者らは第2室、第1室および洞窟入口にアクセスできなくなったろう。「突然水パイプが破裂し、メインポンプが機能しなくなった」とあるダイバーは述べた。「水位が10分ごとに50cmのように非常に急速に上昇したため、私たちは本当に第3室から入口まで走らねばならなかった」これにより、洞窟内に{{convert|1.5|km}}以上離れた場所にいる最大100人の救助者が急いで避難し、洞窟内の救助装置を放棄した。全員が出発準備をしていたので、最後のダイバーは第3室に戻った。救助隊は、なんとか1時間以内に洞窟出口に急いだ。
 
救助中のコーチ Ekkaphonの役割について多くの報道機関が報じた。コーチは以前は僧侶であり、試練の間に子供らのために瞑想を指導していた。彼はまた、子供らを危険にさらしたことを謝罪するメッセージを伝えた。
 
====回復====
タイ当局は、救助された少年らはライス・ポリッジを食べることができるが、より複雑な食べ物は10日間差し控えられるだろう、と述べた。タイ保健省は、少年らはそれぞれ平均{{convert|2|kg}}失ったが、「良好な状態」にある、と述べた。医療従事者が感染症にかかったかどうかを判断している間、少年らは隔離され、少なくとも1週間入院し続けることが期待されていた。湿った洞窟環境に長期滞在したために、当局はヒストプラズマ症やレプトスピラ症などの潜在的な感染症について懸念した。チームメンバーの両親らは、最初は窓越しに訪問したが、検査結果が否定的であることが判明すれば、医療用ガウン、フェイスマスク、ヘアキャップを着用して直接訪問することが許可されるだろう。
 
少年らは、眼が日光に順応している間、予防策としてサングラスをかけていた。眼、栄養、メンタルヘルス、および血液の詳細な検査が行われた。ある保健省の医師は、少年全員が白血球の増加を示し、そのために予防的な抗生物質の投与がチーム全体に与えられた、と言った。
== 遭難者リスト ==
かつて[[仏教]][[僧侶]]としての修行を積んだ経験もあるエーカポン・ジャンタウォンとチームに所属する少年3人は[[国籍]]を有しておらず、彼らを市民として認めていない<ref>{{Cite news|title=タイ洞窟 「英雄」と称賛のコーチと少年3人、実は無国籍の境遇|newspaper=AFPBB News|date=2018-07-11|url=http://www.afpbb.com/articles/-/3182094|accessdate=2018-07-14}}</ref>。その後、2018年8月8日に4人に対してタイ国籍が付与されたと報じられた<ref>{{Cite news|title=洞窟から救出の少年らに国籍付与 タイ政府が発表|newspaper=朝日新聞デジタル|date=2018-08-08|url=https://www.asahi.com/articles/ASL886WSNL88UHBI01P.html|accessdate=2018-08-12}}</ref>。