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{{Otheruses|||チャールズ・チャップリン (曖昧さ回避)||
{{ActorActress
| 芸名 = Charles Chaplin
| ふりがな = チャールズ・チャップリン
| 画像ファイル = Charlie Chaplin portrait.jpg
| 画像サイズ =
| 画像コメント =
| 本名 = チャールズ・スペンサー・チャップリン
| 別名義 = チャーリー・チャップリン
| 出生地 = {{GBR}} [[ロンドン]]
| 死没地 = {{SUI}} {{仮リンク|コル
| 民族 =
| 身長 =
| 生年 = 1889
| 生月 = 4
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| 職業 = [[俳優]]、[[映画監督]]、[[映画プロデューサー]]、[[脚本家]]、[[作曲家]]
| ジャンル = [[映画]]、[[舞台]]
| 活動期間 = [[
| 活動内容 =
| 配偶者 = [[ミルドレッド・ハリス]](1918年 - 1920年)<br/>[[リタ・グレイ]](1924年 - 1928年)<br/>[[ポーレット・ゴダード]]
| 著名な家族 =
| 事務所 =
| 公式サイト = {{url|https://www.charliechaplin.com/|charliechaplin.com}}
| 主な作品 = 『[[キッド (1921年の映画)|キッド]]』(1921年)<br />『[[巴里の女性]]』(1923年)<br/>『[[黄金狂時代]]』(1925年)<br />『[[街の灯]]』(1931年)<br />『[[モダン・タイムス]]』(1936年)<br />『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』(1940年)<br />『[[殺人狂時代 (1947年の映画)|殺人狂時代]]』(1947年)<br/>『[[ライムライト (映画)|ライムライト]]』(1952年)
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー作曲賞|作曲賞]]'''<br />[[第45回アカデミー賞|
| AFI賞 = '''[[AFIアメリカ映画
| 英国アカデミー賞 = '''アカデミー友愛賞'''<br/>[[1976年]]
| セザール賞 =
| エミー賞 =
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| ゴヤ賞 =
| グラミー賞 =
| ブルーリボン賞 = '''外国
| ローレンス・オリヴィエ賞 =
| 全米映画俳優組合賞 =
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| 備考 =
}}
[[ファイル:Firma de Charles Chaplin.svg|thumb|260px|チャールズ・チャップリンのサイン。]]
'''サー・チャールズ・スペンサー・チャップリン'''({{Lang-en-short|Sir Charles Spencer Chaplin}}, [[KBE]]、[[1889年]][[4月16日]] - [[1977年]][[12月25日]])は、[[イギリス]]出身の[[映画]][[俳優]]、[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[映画プロデューサー]]、[[作曲家]]である。[[サイレント映画]]時代に名声を博した[[コメディアン]]で、[[山高帽]]に大きなドタ靴、ちょび髭にステッキという扮装のキャラクター「{{仮リンク|小さな放浪者|en|The Little Tramp}}」を通じて世界的な人気者になり、[[映画史]]の中で最も重要な人物のひとりと考えられている。[[スラップスティック・コメディ|ドタバタ]]に[[ペーソス]]を組み合わせた作風が特徴的で、作品の多くには自伝的要素や社会的及び政治的テーマが取り入れられている。チャップリンのキャリアは70年以上にわたるが、その間にさまざまな称賛と論争の対象となった。
チャップリンの子供時代は貧困と苦難に満ちており、貧民院に何度も収容される生活を送った。やがて舞台俳優や芸人として[[ミュージック・ホール]]などの舞台に立ち、19歳で名門の{{仮リンク|フレッド・カーノー|en|Fred Karno}}劇団と契約した。そのアメリカ巡業中に映画業界からスカウトされ、[[1914年]]に[[キーストン・スタジオ|キーストン社]]で映画デビューした。チャップリンはすぐに小さな放浪者を演じ始め、自分の映画を監督した。その後は[[エッサネイ・スタジオ|エッサネイ社]]、{{仮リンク|ミューチュアル社|en|Mutual Film}}、{{仮リンク|ファースト・ナショナル社|en|First National}}と移籍を重ね、[[1919年]]には配給会社[[ユナイテッド・アーティスツ]]を共同設立し、自分の映画を完全に管理できるようにした。1920年代に長編映画を作り始め、『[[キッド (1921年の映画)|キッド]]』(1921年)、『[[黄金狂時代]]』(1925年)、『[[街の灯]]』(1931年)、『[[モダン・タイムス]]』(1936年)などを発表した。『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』(1940年)からは[[トーキー]]に完全移行したが、1940年代に私生活のスキャンダルと[[共産主義]]的傾向の疑いで非難され、人気は急速に低下した。[[1952年]]に『[[ライムライト (映画)|ライムライト]]』のプレミア上映のためロンドンへ渡航中、アメリカへの再入国許可を取り消され、それ以後は亡くなるまで[[スイス]]に定住した。[[1972年]]に[[第44回アカデミー賞]]で「今世紀が生んだ芸術である映画の製作における計り知れない功績」により[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]を受賞した。
== 生涯 ==
===
==== 出生と子供時代 ====
[[File:Chaplin at Hanwell.jpg|thumb|180px|ハンウェルの学校における7歳のチャップリン(上から3列目の中央)。]]
{{Quote box|width=30%|align=right|quote=毎日毎日が窮乏の連続だったので、私自身としては、別に一家の危機といった感じはほとんどなかった。それに、まだ子供のことではあり、そんな不幸は簡単に忘れてしまっていた。|source=チャールズ・チャップリン、幼少期の回想{{Sfn|チャップリン|1966|pp=4-5}}}}
[[1889年]]4月16日、チャールズ・スペンサー・チャップリン(以下チャップリン)は父の[[チャールズ・チャップリン・シニア]](以下チャールズ)と母の[[ハンナ・チャップリン]]との間に生まれた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=32}}。チャップリンは自伝で、[[ロンドン]]南部の[[ウォルワース]]の{{仮リンク|イースト・ストリート|en|East Street Market}}で生まれたとしているが{{Sfn|チャップリン|1966|p=7}}、公式の出生記録は存在していない{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=32}}。両親は4年前に結婚したが、ハンナはその時までに非嫡出子の[[シドニー・チャップリン (1885年生)|シドニー]]を出産していた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=26}}{{Refnest|group="注"|シドニーの父親の身元は確かではないが、ホークスという金持ちの出版業者であるとされている{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=26}}。}}。両親は共に[[ミュージック・ホール]]の芸人で、チャールズは人気歌手だったが、ハンナは芽の出ない女優だった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=28-30}}。[[1891年]]までに両親は別居し、翌[[1892年]]にハンナは夫の芸人仲間の{{仮リンク|レオ・ドライデン|en|Leo Dryden}}との間に[[ウィーラー・ドライデン|ジョージ・ウィーラー・ドライデン]]を出産したが、ジョージは生後6ヶ月でレオに強引に連れ去られ、それから30年近くもチャップリンの前に姿を見せることはなかった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=36, 38-39}}。
幼少期のチャップリンは、[[ロンドン特別区]]の{{仮リンク|ケニントン|en|Kennington}}でハンナとシドニーと生活していたが、ハンナには時折の洋裁や看護で小銭を稼ぐ以外に収入がなく、チャールズは養育費さえも支払わなかった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=40-41}}。貧困とハンナの病気入院により、チャップリンは7歳の時にシドニーと{{仮リンク|ランベス貧民院|en|Lambeth Workhouse}}に収容され、すぐに{{仮リンク|ハンウェル|en|Hanwell}}にある孤児や貧困児のための学校に移された{{Sfn|チャップリン|1966|pp=20-22}}{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=43-44}}。[[1898年]]1月にチャップリンは同校を退校し、ハンナとシドニーと屋根裏部屋を転々とする生活を送ったが、やがてそれも打つ手がなくなり、7月に三人ともランベス貧民院に収容された{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=48-49, 426}}。貧民院では親子兄弟といえどもばらばらに収容されたが、8月12日に三人で申し合わせて退院手続きをとり、ケニントン・パークで久しぶりに一緒に一日を過ごした。三人はシドニーが手に入れた9[[ペニー|ペンス]]で昼食をとり、新聞紙を丸めたボールでキャッチボールをしたりして、親子水入らずの時間を楽しんだあと、夕方に貧民院に再収容された{{Sfn|大野|2017|pp=16-18}}。チャップリンは収容後すぐに{{仮リンク|ノーウッド|en|West Norwood}}にある貧困児のための学校に移された{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=426}}。
1898年9月、ハンナは[[栄養失調]]と[[梅毒]]を原因とする精神病を発症したため、{{仮リンク|ケイン・ヒル精神病院|en|Cane Hill Hospital}}に収容された{{Sfn|Weissman|2009|pp=49-50}}。それに伴いチャップリンとシドニーはノーウッドの学校を退校し、ケニントンに住んでいた父のチャールズに引き取られた。チャップリンはそれまでに父の姿を2回しか見ていなかった{{Sfn|チャップリン|1966|pp=28-29}}。チャールズは重度の[[アルコール依存症]]に陥っており、そこでの生活は児童虐待防止協会が訪問するほど悪いものだった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=51-52}}。11月にハンナは病状が落ち着いたため退院し、チャップリンとシドニーは父のもとを離れ、再び三人で生活を始めた{{Sfn|チャップリン|1966|pp=36-38}}。チャールズは[[1901年]]に[[肝硬変]]のため38歳で亡くなった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=62}}。
==== 舞台デビュー ====
[[File:Chaplin in Sherlock Holmes.jpg|thumb|left|160px|舞台『{{仮リンク|シャーロック・ホームズ (舞台)|label=シャーロック・ホームズ|en|Sherlock Holmes (play)}}』でビリー役を演じた10代のチャップリン。]]
チャップリンの初舞台は5歳の時だった。[[オールダーショット]]の劇場で舞台に立っていたハンナが出演中に喉をつぶして野次を浴びてしまい、支配人はチャップリンが舞台袖でさまざまな芸でハンナの友人たちを笑わせているのを見て、急遽代役として舞台に立たせることにした。チャップリンは舞台で歌を歌って大喝采を浴びた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=40-41}}{{Sfn|チャップリン|1966|pp=12-13}}。この舞台出演は一時的なものだったが、チャップリンは9歳までにハンナの教えで舞台に興味を持つようになった。自伝では「母はわたしに舞台に対する興味を植え付けだした。自分には才能があると、わたしが思い込むように仕向けた」と述べている{{Sfn|チャップリン|1966|pp=36-38}}。1898年末、チャップリンは父親とのつながりを通じて{{Sfn|Marriot|2005|p=4}}、木靴ダンスの{{仮リンク|エイト・ランカシア・ラッズ|en|The Eight Lancashire Lads}}の座員となり、[[1899年]]から[[1900年]]にかけてイギリス中のミュージック・ホールを巡業した{{Refnest|group="注"|チャップリンがエイト・ランカシア・ラッズを退団した正確な時期ははっきりとしていないが、映画史家のA.J.マリオットは調査に基づいて、その時期を1900年12月としている{{Sfn|Marriot|2005|p=213}}。}}。チャップリンは懸命に働き、舞台も人気を得ていたが、ダンスだけでは満足せず、コメディアンになることを夢見るようになった{{Sfn|チャップリン|1966|pp=40-41}}。
チャップリンはエイト・ランカシア・ラッズと行動を共にした数年間、巡業先の学校を転々として通っていたが、13歳までに学業を断念した{{Sfn|チャップリン|1966|pp=40-41}}{{Sfn|Louvish|2010|p=19}}{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=66-69}}。チャップリンは俳優になるという目標を持ちながら、生活のために食品雑貨店の使いの小僧、診療所の受付、豪邸のボーイ、ガラス工場や印刷所の工員など、さまざまな仕事を経験した{{Sfn|チャップリン|1966|pp=58-59, 79}}。[[1903年]]5月にハンナは病気が再発し、再びケイン・ヒル精神病院に送られた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=66-69}}。8ヶ月後にハンナは退院したが、[[1905年]]3月に再び病状が悪化したため入院し、それ以降は病状が完全に回復することはなかった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=81-82, 84-85, 428-429}}。自伝では「もはや諦めて母の運命を受け容れるしかなかった」と述べている{{Sfn|チャップリン|1966|p=92}}。ハンナは[[1928年]]8月に亡くなり、チャップリンはその後数週間もショックで立ち直れなかったという{{Sfn|大野|2005|p=87}}。
1903年にハンナが入院した直後、チャップリンは[[ウエスト・エンド (ロンドン)|ウエスト・エンド]]にある俳優周旋所に名前を登録した。まもなく興行主[[チャールズ・フローマン]]の事務所の紹介で、俳優{{仮リンク|H・A・セインツベリー|en|Harry Arthur Saintsbury}}の舞台『ロンドン子ジムのロマンス』の少年サム役を与えられた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=72-75, 428}}。舞台は1903年7月に開幕し、チャップリンのコミカルで快活な演技は批評家の賞賛を受けたが、舞台自体は成功せず2週間で打ち切られた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=72-75, 428}}{{Sfn|Marriot|2005|pp=42-44}}。続いてフローマンが興行する『{{仮リンク|シャーロック・ホームズ (舞台)|label=シャーロック・ホームズ|en|Sherlock Holmes (play)}}』でビリー役を演じ、3度の全国巡業に参加した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=81-82, 84-85, 428-429}}。1905年9月の3度目の巡業中には、[[シャーロック・ホームズ|ホームズ]]役者で有名な[[ウィリアム・ジレット]]の舞台に出演するためロンドンに呼ばれ、10月から12月にかけてジレット主演の『シャーロック・ホームズ』でビリー役を演じた{{Sfn|Marriot|2005|p=217}}{{Refnest|group="注"|ウィリアム・ジレットは、シャーロック・ホームズの舞台を[[アーサー・コナン・ドイル]]と共作し、1899年の初演以来ホームズを演じていた。1905年にジレットは新作喜劇『クラリス』をデューク・オブ・ヨーク劇場で上演したが不評で、急遽『苦境に立つシャーロック・ホームズ』を公演に追加し、チャップリンはこの作品でビリー役に抜擢された。公演は失敗したため数日で終了し、『シャーロック・ホームズ』の再演に引き継がれると、チャップリンも引き続きビリー役を演じた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=86-88}}。}}。[[1906年]]初頭に4度目の『シャーロック・ホームズ』の全国巡業に参加し、これを最後に2年半以上演じてきたビリー役と別れを告げた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=92}}。
==== フレッド・カーノー劇団 ====
[[
チャップリンはすぐに新しい劇団で仕事を見つけ、1906年3月に[[スケッチ・コメディー]]『修繕』の巡業にシドニーとともに参加した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=94-100}}。同年5月にはケイシーズ・コート・サーカスの子供グループに参加し{{Sfn|Marriot|2005|p=71}}、[[1907年]]7月に退団するまで花形コメディアンとして活躍した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=94-100}}{{Sfn|チャップリン|1966|pp=99}}。しかし、チャップリンは次の仕事先を見つけるのに苦労し、しばらく失業状態となった。この頃に[[ユダヤ人]]のコメディアンとして一人で舞台に立とうと試みたが、テスト公演をしたのがユダヤ人地区の劇場にもかかわらず、反ユダヤ的なギャグを含む出し物をしたため、観客の野次を浴びて大失敗した{{Sfn|チャップリン|1966|pp=101-102}}。
一方、シドニーは1906年にコメディの名門{{仮リンク|フレッド・カーノー|en|Fred Karno}}劇団に入り、その花形コメディアンになっていた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=108-109}}{{Sfn|Kamin|2011|p=12}}{{Sfn|Marriot|2005|p=85}}。[[1908年]]2月、シドニーは失業中のチャップリンに仕事を与えるようカーノーに頼み、チャップリンは2週間のテスト出演のチャンスを貰った。カーノーは当初、チャップリンを「青白くて発育の悪い、無愛想な若者」「舞台もろくにできないぐらいの恥ずかしがり屋」と見なしていた。しかし、チャップリンはロンドンの{{仮リンク|コロシアム劇場|en|London Coliseum}}で行われたテスト出演で、アドリブのギャグで笑いを取ったことが認められ、2月21日にカーノーと契約を交わした{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=108-109}}。
カーノー劇団でのチャップリンは脇役を演じることから始まり、[[1909年]]に主役級を演じるようになった{{Sfn|Marriot|2005|pp=103, 109}}。なかでも酔っ払いがドタバタを巻き起こす『啞鳥』が当たり役だった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=115-116}}。[[1910年]]4月には新作寸劇『恐れ知らずのジミー』の主役で成功を収め、批評家の注目を集めた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=118-120}}{{Sfn|Marriot|2005|pp=126-128}}。同年10月、チャップリンはカーノー劇団のアメリカ巡業に参加し{{Refnest|group="注"|このアメリカ巡業には、のちに[[ローレル&ハーディ]]で知られる[[スタン・ローレル]]が「スタン・ジェファソン」の芸名で参加していた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=110, 123}}。}}、批評家から「これまでに見た中で最高のパントマイム芸人の一人」と評された。最も成功した演目は『イギリス・ミュージックホールの一夜』(『啞鳥』の改題)で、その演技でアメリカでの名声を獲得した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=131}}。アメリカ巡業は21ヶ月も続き、[[1912年]]6月にイギリスに帰国したが、10月には再びアメリカ巡業に参加した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=132, 431-432}}。
=== 映画スターに:1914年~1922年 ===
==== キーストン社時代 ====
{{multiple image |align=left |direction=vertical |width=200 |image1=ChaplinMakinALiving.jpg |caption1=『[[成功争ひ]]』(1914年)のチャップリン(右側)。|image2=Chaplin Kid Auto Races.jpg |caption2=『[[ヴェニスの子供自動車競走]]』(1914年)で初めて「小さな放浪者」の扮装を披露したチャップリン。}}
[[1913年]]、チャップリンは2度目のアメリカ巡業中に{{仮リンク|ニューヨーク映画会社|en|New York Motion Picture Company}}の支配人{{仮リンク|アダム・ケッセル|en|Adam Kessel}}から、傘下の[[キーストン・スタジオ|キーストン社]]と契約する話を受けた{{Refnest|group="注"|キーストン社がチャップリンを見出した経緯は諸説ある。[[マック・セネット]]によると、ニューヨークの劇場で『イギリス・ミュージックホールの一夜』に出演したチャップリンを見て、彼を引き入れるようケッセルに頼んだという{{Sfn|セネット|2014|pp=195-196}}。チャップリンも自伝でこの話を採用している{{Sfn|チャップリン|1966|pp=153-154}}。これ以外の説では、ケッセルがニューヨークの劇場で発見したという説や、ニューヨーク映画会社重役の{{仮リンク|ハリー・エイトキン|en|Harry Aitken}}が発見したという説がある{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=138-139}}。}}。キーストン社はテンポの早いドタバタの短編喜劇を量産していた会社で{{Sfn|大野|2005|p=21}}、すでに退社した人気スターの{{仮リンク|フレッド・メイス|en|Fred Mace}}の穴を埋める俳優を探していた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=140-141}}。チャップリンはキーストン社の作風をあまり好まなかったが、舞台の仕事に変わるものを求めていたこともあり、9月25日に週給150ドルで契約を交わした{{Sfn|チャップリン|1966|pp=153-154}}{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=140-141}}。12月初旬にチャップリンはスタジオがある[[ロサンゼルス]]に到着し、撮影所長の[[マック・セネット]]と対面した。セネットはチャップリンの容貌が若すぎることに不安を感じたが、チャップリンは「老けづくりなら簡単にできる」と返事した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=145-147}}{{Sfn|チャップリン|1966|p=156}}。
[[1914年]]1月末までチャップリンは映画に使われず、その間は映画製作の技術を学ぶための見学に充てられた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=145-147}}。チャップリンの映画デビュー作は、2月2日公開の『[[成功争ひ]]』である。この作品でチャップリンが演じたのは、洒落た[[フロックコート]]に[[シルクハット]]、[[モノクル]]を付け、八の字髭を生やした扮装の、女たらしの詐欺師である{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=145-147}}{{Sfn|チャップリン|1966|pp=160-161}}。チャップリンはこの作品を嫌ったが、マスコミはその演技に早くも注目し、「第一級のコメディアン」と賞賛する業界紙もあった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=148}}。チャップリンは2本目の出演作のために、セネットの指示で喜劇の扮装を決めることになり、トレードマークとなる「{{仮リンク|小さな放浪者|en|The Little Tramp}}」の扮装を作り上げた。チャップリンの自伝によると、衣裳部屋に行く途中でふとだぶだぶのズボン、大きなドタ靴、ステッキ{{Refnest|group="注"|チャップリンが持っている[[竹]]のステッキは、当時の特徴的な紳士用品だった。19世紀半ばから20世紀初頭のイギリス紳士の間では、ステッキの材質に竹や籐を使うのがポピュラーで、特にしなやかで丈夫な日本製の竹が流行した{{Sfn|セネット|2014|p=214}}。チャップリンが使用したステッキは、[[滋賀県]][[草津市]]産の竹根鞭細工で、これはイギリスでも広く普及したものだった<ref>{{Cite web |url=https://www.city.kusatsu.shiga.jp/citysales/miryoku/column/h30/chaplin20180720.html |date=2018/8/6 |title=チャップリンのトレードマーク!そのステッキはなんと草津市産 |website=[[草津市]]ホームページ |accessdate=2020年12月13日}}</ref>。}}と山高帽という組み合わせを思いついたという{{Sfn|チャップリン|1966|pp=160-161}}。自伝では扮装の狙いについて、以下のように述べている。
{{Quote|だぶだぶのズボンにきつすぎるほどの上着、小さな帽子に大きすぎる靴という、とにかくすべてにチグハグな対照というのが狙いだった。年恰好のほうは若くつくるか年寄りにするか、そこまではまだよく分からなかったが…とりあえず小さな口髭をつけることにした。こうすれば無理に表情を隠す世話もなく、老けて見えるにちがいない、と考えたからである{{Sfn|チャップリン|1966|pp=160-161}}。}}
その2本目の作品は『[[メーベルの窮境]]』(1914年2月9日公開)であるが、それよりも後に撮影された『[[ヴェニスの子供自動車競走]]』の方が2日早く公開されたため、『ヴェニスの~』が小さな放浪者の扮装を初めて観客に披露した作品となった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=151-152}}。チャップリンはこれを自身の映画のキャラクターに採用し、自分からギャグを提案したりもしたが、監督の[[ヘンリー・レアマン]]や{{仮リンク|ジョージ・ニコルズ|en|George Nichols (actor and director)}}とは意見が合わず、対立を繰り返した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=148, 158, 160}}。11本目の出演作『[[メーベルの身替り運転]]』では、監督兼主演の[[メイベル・ノーマンド]]と衝突したことで解雇寸前にまで至ったが、[[ニューヨーク]]から「チャップリン映画が大当たりしているから、至急もっと彼の作品をよこせ」との電報が届いたため、チャップリンの解雇は回避され、彼に対するセネットたち周囲の態度も軟化した{{Sfn|チャップリン|1966|pp=166-171}}。チャップリンはそれに乗じて、作品が失敗したら1500ドルを支払うという条件で、自分で映画を監督することをセネットに認めさせた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=161}}。
チャップリンの監督デビュー作は、1914年4月20日公開の『[[恋の二十分]]』である{{Sfn|大野|2017|p=53}}。監督2作目の『[[とんだ災難 (1914年の映画)|とんだ災難]]』はその時点までで最も成功したキーストン社作品の1本となった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=162}}。その後、チャップリンは1週間に1本のペースで新作の短編映画を監督・主演し{{Sfn|Kamin|2011|p=xi}}{{Sfn|Maland|1989|p=5}}、ショットの組み立てやストーリー構成などの映画技術を貪欲に身に付けていった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=162}}{{Sfn|大野|2005|p=26}}。自伝ではこの時期を「いちばん張りのあったすばらしい時期」としている{{Sfn|チャップリン|1966|pp=166-171}}。チャップリンの人気も高まり、その名前が出ただけで大ヒットが約束されるようになると、キーストン社内でのチャップリンの発言力も高まった{{Sfn|大野|2017|p=56}}。同年11月、セネットが監督した長編コメディ『[[醜女の深情け]]』で主演の[[マリー・ドレスラー]]の相手役を演じたが、これが他監督のもとで出演した最後の公式映画となった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=168}}。同年末、チャップリンはセネットと契約更新の話をし、週給1000ドルを要求するが拒否され、契約更新の話もそれで打ち切られた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=172}}。
==== エッサネイ社時代 ====
[[ファイル:Charlie Chaplin.jpg|thumb|right|180px|『[[チャップリンの失恋]]』(1915年)で小さな放浪者を演じたチャップリン。]]
キーストン社と契約満了をもって退社が確定したチャップリンは、週給1250ドルのギャラと1万ドルのボーナスを提示してきた[[シカゴ]]の[[エッサネイ・スタジオ|エッサネイ社]]に移籍し、1914年12月下旬にスタジオに参加した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=175-176}}。チャップリンは[[レオ・ホワイト]]や[[ベン・ターピン]]などの俳優を集めてグループを作り、同社2作目の『[[アルコール夜通し転宅]]』ではサンフランシスコのカフェで見つけた[[エドナ・パーヴァイアンス]]を相手役に採用した。パーヴァイアンスとは8年間に35本の映画で共演し、[[1917年]]までプライベートでも親密な関係を築いた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=180, 183, 277-278}}。チャップリンはそれまで会社の製作慣習に従い、流れ作業のように映画を作り続けてきたが、この頃から慣習には従わない姿勢を打ち出し、より時間をかけて映画を作るようになった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=184-186}}。『アルコール夜通し転宅』と次作の『[[チャップリンの拳闘]]』とでは封切り日に27日の間があり、それ以後の作品はさらに封切りの間隔が広がった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=184-186}}{{Sfn|Maland|1989|p=20}}。
この時期にチャップリンは小さな放浪者のキャラクターを変え始めた。キーストン社時代のキャラクターは、女性や子供をいじめたりする卑劣で残酷な役柄や、性的にいやらしい性格であるものが多かった{{Sfn|大野|2005|p=26}}{{Sfn|Maland|1989|pp=6, 14-18}}。しかし、エッサネイ社時代になると、より穏やかでロマンティックな性格に変化した{{Sfn|Maland|1989|pp=21-24}}。1915年4月公開の『[[チャップリンの失恋]]』はキャラクターの変化のターニングポイントとなる作品と考えられている。この作品では放浪者がヒロインに失恋し、ラストシーンで一本道をとぼとぼと歩き去る姿が描かれている{{Sfn|大野|2005|pp=27-29}}。このシーンはその後の作品でも数通りに変化させて使用された<ref>{{Cite book|和書 |author=ジョルジュ・サドゥール |date=1997-7 |title=世界映画全史7:無声映画芸術の開花 アメリカ映画の世界制覇〈1〉 1914-1920 |translator=丸尾定、村山匡一郎、出口丈人、小松弘 |publisher=[[国書刊行会]] |page=97}}</ref>。チャップリン研究家の[[大野裕之]]は、この作品を「孤独な放浪者のロマンスというチャップリン・スタイルの芽生え」であるとしている{{Sfn|大野|2005|pp=27-29}}。同年8月公開の『[[チャップリンの掃除番]]』には悲しげな結末にペーソスが加えられたが、映画史家の{{仮リンク|デイヴィッド・ロビンソン (映画史家)|en|David Robinson (film critic)|label=デイヴィッド・ロビンソン}}はそれがコメディ映画の革新であるとしている{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=189-190}}。映画学者のサイモン・ルービッシュは、エッサネイ社時代のチャップリンは「小さな放浪者を定義するテーマとスタイルを見つけた」と述べている{{Sfn|Louvish|2010|p=87}}。
1915年にチャップリンの人気は爆発的に上昇し、その人気にあやかって人形や玩具などの関連商品が売られたり、新聞に漫画や詩が掲載されたり、チャップリンについての曲が作られたりした{{Sfn|Kamin|2011|p=xi}}{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=196}}{{Sfn|Maland|1989|p=10}}。同年7月に{{仮リンク|モーション・ピクチャー・マガジン|en|Motion Picture Magazine}}のジャーナリストは、チャップリンの真似をする「チャップリニティス」がアメリカ全土で広まったと書いた{{Sfn|Maland|1989|p=8}}。チャップリンの人気は世界的に高まり、映画業界で最初の国際的なスターとなった{{Sfn|Louvish|2010|p=74}}。12月にエッサネイ社との契約が切れ、自分の価値を認識していたチャップリンは次の契約先に15万ドルのボーナスを要求した。[[ユニバーサル・スタジオ|ユニバーサル]]、{{仮リンク|フォックス・フィルム|label=フォックス|en|Fox Film}}、{{仮リンク|ヴァイタグラフ|en|Vitagraph Studios}}などの映画会社からオファーを受けたが、最終的にチャップリンが選んだのは、最も高額な条件を提示してきた{{仮リンク|ミューチュアル社|en|Mutual Film}}だった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=201-202}}。
==== ミューチュアル社時代 ====
[[File:Charlie Chaplin with doll.jpg|thumb|left|180px|1916年までにチャップリンは世界的人気を得た。写真は自身の人形を持つチャップリン(1918年頃)。]]
[[1916年]]2月、チャップリンは年収67万ドルでミューチュアル社と契約を結び、世界で最も給料が高い人物のひとりとなった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=201-206}}。その高額な給料は大衆に衝撃を与え、マスコミで広く報道された{{Sfn|Larcher|2011|p=29}}。社長のジョーン・R・フロイラーは「私たちがチャップリンにこれだけ巨額の金が払えるのは、大衆がチャップリンを求めており、そのために金を払うからである」と説明した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=201-206}}。チャップリンはロサンゼルスに自分専用のスタジオを与えられ、3月にローン・スター・スタジオとして開設した{{Sfn|大野|2017|pp=73-74}}。自身の俳優集団には、エッサネイ社からパーヴァイアンスやホワイトを引き連れ、その後の作品で大きな役割を占めることになる[[アルバート・オースチン]]と[[エリック・キャンベル]]、そして腹心の友となる[[ヘンリー・バーグマン]]を新たに加えた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=212-213, 224-225}}。
チャップリンはミューチュアル社と、4週間に1本のペースで2巻物の映画を作ることを約束し、1916年中に公開した8本はすべてこの約束に従っていた。しかし、[[1917年]]に入るとこれまで以上に時間をかけて映画を作るようになり、同年に公開した『[[チャップリンの勇敢]]』『[[チャップリンの霊泉]]』『[[チャップリンの移民]]』『[[チャップリンの冒険]]』の4本を作るのに10ヶ月を要した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=229-230, 437}}。これらの作品は多くの専門家により、チャップリンの最良の作品のひとつと見なされている{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=243}}{{Sfn|Vance|2003|p=203}}{{Sfn|Brownlow|2010|p=45}}{{Sfn|Louvish|2010|p=104}}<ref>{{cite web|url=http://chaplin.bfi.org.uk/resources/bfi/biog/biog.php?fid=biog6 |title="The Happiest Days of My Life": Mutual |work=Charlie Chaplin |publisher=British Film Institute |accessdate=28 April 2012 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121122054424/http://chaplin.bfi.org.uk/resources/bfi/biog/biog.php?fid=biog6 |archivedate=22 November 2012}}</ref>。チャップリンは自伝で、ミューチュアル社時代がキャリアの中で最も幸福な時期だったとしている{{Sfn|チャップリン|1966|p=211}}。
チャップリンは[[第一次世界大戦]]で戦わなかったとして、イギリスのメディアに攻撃された{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=236-239}}。チャップリンはアメリカで徴兵登録を行い、「祖国の命令には進んで従うつもりである」と声明を出したが、結局どちらの国からも召喚されなかった{{Refnest|group="注"|イギリス大使館はチャップリンの主張を裏書きするように、「チャップリンはその気になりさえすればいつでも志願兵になることはできる。しかし、彼は現在、大金を稼いで戦時公債に出資することで前線で戦うのと同じほど国家のために尽くしている」と述べている{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=236-239}}。}}。こうした批判にもかかわらず、チャップリンは前線の兵士にも人気があった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=236-239}}。チャップリンの人気は世界的に高まり続け、{{仮リンク|ハーパーズ・ウィークリー|en|Harper's Weekly}}誌は、チャップリンの名前が「世界のほぼあらゆる国に深く浸透している」と報告した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=265}}。その人気ぶりは、1917年に[[仮面舞踏会]]に参加した男性の10人のうち9人までがチャップリンの扮装をしたと報告されるほどだった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=270}}。舞台女優の{{仮リンク|ミニー・マダン・フィスク|en|Minnie Maddern Fiske}}は「多くの教養ある芸術愛好家たちが、イギリス出身の若き道化師チャールズ・チャップリンを、天才コメディアンとしてだけでなく、世にも稀な芸術家であると考えるようになってきている」と述べている{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=265}}。こうした人気ぶりの一方で、チャップリンは数多くの模倣者の出現に悩まされ、彼らに対して法的措置を講じることになった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=272-273}}{{Refnest|group="注"|主なチャップリンの模倣者には、[[ビリー・ウェスト (俳優)|ビリー・ウェスト]]やビリー・リッチーがいる。リッチーは自分が放浪者の扮装の考案者だと主張し、チャップリンに対して訴訟を起こしたことで知られる{{Sfn|セネット|2014|p=213}}。[[ハロルド・ロイド]]もチャップリンを模倣したロンサム・リュークなる人物を演じていた<ref>{{Cite book|和書 |author=スティーブン・ジェイ・シュナイダー編 |date=2009-3 |title=501映画スター |publisher=講談社 |page=52}}</ref>。}}。
==== ファースト・ナショナル社 ====
[[File:Poster - A Dog's Life 01.jpg|thumb|right|180px|『[[犬の生活]]』(1918年)のポスター。]]
ミューチュアル社はチャップリンの生産本数の減少に腹を立てず、契約は友好的な関係のまま終了した。チャップリンは契約スケジュールに縛られた映画作りによる品質低下を懸念し、これまで以上に独立することを望んだ。チャップリンのマネージャーだったシドニーは、「今後どんな契約を結ぶとしても必ず条項にしたいものがひとつある。それはチャップリンには必要なだけの時間と、望み通りの予算が与えられるということである。私たちが目指すのは量ではなくて質なのだ」と表明した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=279-280}}。1917年6月17日、チャップリンは新しく設立された{{仮リンク|ファースト・ナショナル社|en|First National}}と「100万ドル契約」と広く呼ばれた配給契約を結んだ。この契約ではチャップリン自らがプロデューサーとなり、会社のために8本の映画を完成させる代わりに、作品1本あたり12万5000ドルの前金を受け取ることが決定した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=281, 437}}<ref name="BFI first national">{{cite web|url=http://chaplin.bfi.org.uk/resources/bfi/biog/biog.php?fid=biog7 |title=Independence Won: First National |work=Charlie Chaplin |publisher=British Film Institute |accessdate=5 May 2012 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120324095424/http://chaplin.bfi.org.uk/resources/bfi/biog/biog.php?fid=biog7 |archivedate=24 March 2012}}</ref>。
チャップリンは[[ハリウッド]]の{{仮リンク|サンセット・ブールバード|label=サンセット大通り|en|Sunset Boulevard}}と{{仮リンク|ラ・ブレア通り|en|La Brea Avenue}}が交差する角に面した5エーカーの土地に、自前のスタジオである{{仮リンク|チャップリン・スタジオ|en|Jim Henson Company Lot }}を建設し、[[1918年]]1月に完成した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=284-285, 438}}{{Sfn|チャップリン|1966|p=235}}。このスタジオは地域の外観にうるさい近隣住民を安心させるため、イギリスの田舎のコテージが並んだような外見をもつように設計された{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=284-285, 438}}。こうしてチャップリンは自由な映画製作環境を手に入れ、以前よりも膨大な時間と労力をかけて映画を作るようになった。また、それまでは1巻物や2巻物の短編映画を主に作っていたが、この頃からは3巻物の中編映画を作るようになった{{Sfn|大野|2005|p=58}}。新しい契約先での最初の作品は、同年4月公開の『[[犬の生活]]』である。この作品でチャップリンは小さな放浪者を一種の[[道化師|ピエロ]]として扱い、コメディ映画に複雑な人間的感情を与えた{{Sfn|チャップリン|1966|p=241}}。大野は、この作品で心優しい小さな放浪者のキャラクターが完成したとしている{{Sfn|大野|2017|p=118}}。この作品でチャップリンの芸術的評価は決定的なものとなり{{Sfn|大野|2005|p=58}}、フランスの映画批評家[[ルイ・デリュック]]は「映画史上初のトータルな芸術作」と呼んだ{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=288}}。
1918年4月、チャップリンは[[ダグラス・フェアバンクス]]や[[メアリー・ピックフォード]]とともに、第一次世界大戦のための{{仮リンク|自由公債|en|Liberty Bond}}募集ツアーに駆り出され、約1ヶ月間アメリカ国内を遊説した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=297, 300, 438}}。[[ワシントンD.C.]]で演説した時には、興奮の余り演壇から足を滑らし、当時海軍次官補をしていた[[フランクリン・ルーズベルト]]の頭上に転げ落ちたという{{Sfn|チャップリン|1966|pp=245-246}}。さらにチャップリンは[[アメリカ合衆国連邦政府|アメリカ政府]]のために、公債購入促進を訴える短編[[プロパガンダ映画]]『[[公債 (映画)|公債]]』を自費で製作した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=305}}。次作の『[[担へ銃]]』では戦争をコメディ化し、小さな放浪者を[[塹壕]]の兵士に変えた。周囲は悲惨な戦争からコメディを作ることに反対したが、喜劇と悲劇の近似性を意識していたチャップリンの考えは揺るがなかった{{Sfn|チャップリン|1966|pp=250-251}}{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=302-303}}。この作品は大戦の[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]の締結直前に公開され、チャップリン映画として当時最高の興行記録を打ち立てた{{Sfn|大野|2005|p=61}}。
====
[[File:Fairbanks - Pickford - Chaplin - Griffith.jpg|thumb|left|200px|[[ユナイテッド・アーティスツ]]の創立メンバー(1919年)。左から[[ダグラス・フェアバンクス]]、[[メアリー・ピックフォード]]、チャップリン、[[D・W・グリフィス]]。]]
『担へ銃』の公開後、チャップリンはより高品質な映画を作るため、ファースト・ナショナル社に製作費の増額を要求したが拒否された{{Sfn|チャップリン|1966|pp=252-254}}。作品の品質低下の懸念に加え、映画会社が結託してスターのギャラを下げようとしているという噂話を心配したチャップリンは、 [[1919年]]2月5日にフェアバンクス、ピックフォード、[[D・W・グリフィス]]とともに、新しい配給会社[[ユナイテッド・アーティスツ]]を設立した{{Sfn|チャップリン|1966|pp=252-254}}{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=334}}。同社は共同設立者の4人がそれぞれ独立製作した映画を配給する会社で、雇用主の束縛なしに自由に映画を作ることができるうえに、これまで雇用主に吸い上げられていた利益も手にすることができた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=334}}。チャップリンはこの新会社での映画作りを望み、ファースト・ナショナル社に契約解除を求めたが拒否され、残る6本の契約を消化しなければならなくなった{{Sfn|チャップリン|1966|p=256}}。
ユナイテッド・アーティスツの設立前、チャップリンは最初の結婚をした。17歳の女優[[ミルドレッド・ハリス]]はチャップリンとの間の子を妊娠したことを明らかにし、チャップリンはスキャンダルを回避するため、1918年10月にロサンゼルスで秘密裏に結婚したが、すぐに妊娠は嘘であることが判明した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=307-309, 439}}。チャップリンは結婚生活に気分が乗らず、結婚が創作力に悪影響を及ぼすと考えていた{{Sfn|チャップリン|1966|pp=263-264}}。事実、11月に次回作『[[サニーサイド]]』の撮影を始めたが、アイデアが湧かなくてスランプに陥り、自伝では「虫歯を抜くような苦労をして作り上げた」と述べている{{Sfn|チャップリン|1966|pp=263-264}}{{Sfn|大野|2009|pp=80-81}}。1919年にミルドレッドは本当に妊娠し、7月7日に[[奇形]]児の息子ノーマン・スペンサー・チャップリンを出産したが、わずか3日後に死亡した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=315-316}}。
チャップリンの幼少時代の貧困経験は、次の映画『[[キッド (1921年の映画)|キッド]]』に影響を与えたと考えられており、それは小さな放浪者を捨て子の保護者に変えた<ref name="BFI first national"/>{{Sfn|Louvish|2010|p=148}}。チャップリンは劇場で見つけた4歳の子役俳優[[ジャッキー・クーガン]]と契約し、1919年7月に撮影を始めた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=315-316}}。撮影は順調に進んだが、これまで以上の大作になることが分かり、早く新作を求めるファースト・ナショナル社をなだめるため、数週間撮影を中断して急拵えで『[[一日の行楽]]』を製作した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=319-320}}。『キッド』の製作は約1年かかったが{{Sfn|大野|2005|pp=61-62}}、その間にミルドレッドとの結婚生活は破綻した。[[1920年]]8月に彼女は離婚訴訟を起こし、『キッド』の撮影済みフィルムを差し押さえようとした{{Sfn|大野|2009|pp=89-91}}。チャップリンはそれから逃れるため、州を越えて[[ソルトレイクシティ]]に避難して編集作業を行い、完成後の11月に離婚が成立した{{Sfn|大野|2009|pp=89-91}}{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=330}}。『キッド』はチャップリンの最初の長編映画で、「笑い」に「涙」を組み合わせたチャップリン特有のスタイルを完成させた{{Sfn|大野|2005|pp=61-62}}。[[1921年]]2月に公開されると大ヒットし、3年以内に50ヶ国以上で配給された{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=330}}。
チャップリンは次回作『[[のらくら]]』の製作に5ヶ月を費やしたあと{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=335}}、突如としてヨーロッパ旅行を決断し、1921年9月にロンドン、[[パリ]]、[[ベルリン]]を訪問した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=340-341, 442}}。ロンドンとパリでは大群衆の熱狂的な歓迎を受け、著名人との社交生活を送ったが、ロンドン訪問中は少年時代を過ごしたケニントンを訪れたり、[[H・G・ウェルズ]]家に滞在したりもした{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=350-357}}<ref name="famous">{{Cite web |url=http://chaplin.bfi.org.uk/resources/bfi/biog/biog.php?fid=biog8 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120802215604/http://chaplin.bfi.org.uk/resources/bfi/biog/biog.php?fid=biog8 |archivedate=2012-8-2 |title=The Most Famous Man in the World |website=Charlie Chaplin |work=BFI |accessdate=2021年1月26日}}</ref>。ベルリンでは大戦でチャップリン映画の配給が遅れたため知名度が低く、熱狂的な歓迎を受けなかった<ref name="famous"/>{{Sfn|チャップリン|1966|pp=322-323}}。帰国後、チャップリンは旅行記『''My Wonderful Visit''』を執筆し、残る2本のファースト・ナショナル社との契約を、[[1922年]]公開の『[[給料日 (映画)|給料日]]』と[[1923年]]公開の『[[偽牧師]]』で完了させた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=361, 366, 443}}。
=== 長編映画時代:1923年~1938年 ===
==== 『巴里の女性』と『黄金狂時代』 ====
[[ファイル:Chaplin the gold rush boot.jpg|thumb|right|200px|『[[黄金狂時代]]』(1925年)で靴を食べる小さな放浪者(チャップリン)。]]
ファースト・ナショナル社との契約を終えたチャップリンは、ようやく独立したプロデューサーとして自前のスタジオで映画を作り、自分の会社で配給するというワンマン体制を手に入れ、完全に自由な映画作りを行うことができた{{Sfn|大野|2017|p=158}}。そこでチャップリンはパーヴァイアンスを一本立ちしたスターに仕立てるため、ロマンティックなドラマ映画『[[巴里の女性]]』を製作した{{Sfn|チャップリン|1966|pp=345, 347}}。この作品でチャップリンは監督に徹し、主演はせずにノンクレジットで[[カメオ出演]]するにとどまった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=386-387}}。チャップリンは俳優に抑制のきいた自然な演技を求め、新しいリアルな演技スタイルを取り入れた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=387, 398}}。作品は1923年9月に公開され、その革新的で洗練された表現方法で批評家から高い賞賛を受けた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=395, 397-398}}。しかし、一般観客はチャップリンが出てこないチャップリン映画に興味がなく、興行的に失敗した{{Sfn|Louvish|2010|p=193}}。作品の出来栄えに誇りを持っていたチャップリンはこの結果に失望し、すぐに作品を劇場から撤退させた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=400}}。
チャップリンは次回作でコメディに戻り、『キッド』以上の作品、それも偉大な[[叙事詩]]を作ろうと考えた。そこで[[クロンダイク (ユーコン準州)|クロンダイク]]の[[ゴールドラッシュ]]の写真と[[ドナー隊]]の悲劇に触発されて『[[黄金狂時代]]』を製作した{{Sfn|チャップリン|1966|p=352}}。この作品では小さな放浪者が孤独な金鉱探しになり、逆境に直面しながら黄金と恋を求める姿が描かれている。飢えをしのぐために靴を食べるシーンや、ロールパンのダンス、崖から落ちる山小屋のシーンなど、チャップリン映画で最も有名なシーンのいくつかも含まれている{{Sfn|大野|2005|pp=76-78}}{{Sfn|Kemp|2011|pp=63-64}}{{Sfn|Louvish|2010|p=200}}{{Sfn|Schickel|2006|p=19}}。撮影は[[1924年]]2月に開始したが、600人のエキストラを動員したり、豪華なセットや特殊効果を使用したりするなど、製作はより大規模なものになった{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=10, 18-20}}。撮影日数は約14ヶ月もかかり、製作費は92万ドルを計上した{{Sfn|大野|2005|pp=76-78}}。[[1925年]]8月に公開されると全米で500万ドルの興行収入を記録し、サイレント映画で最も高収入をあげた映画の1本となった{{Sfn|Kemp|2011|pp=63-64}}{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=33}}。ジャーナリストのジェフリー・マクナブは、この作品を「チャップリン映画の典型」と呼んでいる{{Sfn|Kemp|2011|pp=63-64}}。
==== リタ・グレイと『サーカス』 ====
[[ファイル:Lita Grey.jpg|thumb|left|170px|チャップリンの2番目の妻である[[リタ・グレイ]]。]]
『黄金狂時代』の撮影中、チャップリンは16歳の女優[[リタ・グレイ]]と2度目の結婚をした。1924年9月、リタはミルドレッドの時と同じように、チャップリンとの子を妊娠したことを明らかにした。カリフォルニア州法では未成年女性と関係を持つと[[強姦罪]]が適用され、最高30年の刑が科せられたため、リタの両親はそれをタネにチャップリンに結婚を強要した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=21}}。そのためチャップリンは結婚を余儀なくされ、11月26日に[[メキシコ]]で内密に結婚式を挙げた{{Sfn|Vance|2003|p=170}}。リタは『黄金狂時代』のヒロイン役に予定されていたが、結婚により降板し、代わりに[[ジョージア・ヘイル]]が演じることになった{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=26}}。リタとの間には、[[チャールズ・チャップリン・ジュニア]](1925年5月5日生)と[[シドニー・チャップリン (1926年生)|シドニー・アール・チャップリン]](1926年3月30日生)の二人の息子をもうけた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=32, 48}}。
リタとの結婚生活は不幸であり{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=32, 48}}、チャップリンは妻と会うのを避けるためスタジオで仕事に没頭した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=26}}。[[1926年]]11月末、リタは息子を連れて家出し、翌[[1927年]]1月に離婚訴訟を起こした{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=51, 53}}。訴訟書類はチャップリンだけでなくその関係者も相手取り、チャップリンを誹謗中傷する内容が書かれていた{{Sfn|大野|2009|p=108}}。この事件は大見出しのニュースとなり、全米各地でチャップリン映画のボイコットが起きたため、チャップリンは神経衰弱に陥った{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=56}}{{Sfn|Louvish|2010|pp=220-221}}。8月にチャップリンの弁護士は、その種のものではアメリカの裁判史上最高の金額である60万ドルの和解金を支払うことに同意し、リタとの離婚が成立した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=59}}。チャップリンは心労で一夜にして白髪になったが、幸いにも事件はすぐに忘れられ、チャップリンの人気にほとんど影響を与えることはなかった{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=58, 60, 63-64}}{{Sfn|Maland|1989|pp=99-105}}。
離婚訴訟が起きる前に、チャップリンは新作『[[サーカス (映画)|サーカス]]』の撮影を始めていた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=445}}。この作品は猿に囲まれて[[綱渡り]]をするというアイデアから物語が作られ、小さな放浪者をサーカスのスターに変えた{{Sfn|大野|2017|pp=177, 188}}。撮影は離婚訴訟のため8ヶ月間中断され、撮影中もさまざまなトラブルに直面した{{Sfn|大野|2017|pp=180-183}}。この時の大きなストレスは長年にわたり感じ続け、自伝でもこの作品について言及されていない{{Sfn|Brownlow|2010|p=73}}{{Sfn|Louvish|2010|p=224}}。作品は1927年10月に完成し、[[1928年]]1月にプレミア上映が行われて好評を博した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=63-65}}。[[1929年]]、チャップリンは[[第1回アカデミー賞]]で「『サーカス』の脚本・演技・演出・製作で示した優れた才能」に対して[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]を受賞したが、授賞式は欠席した{{Sfn|大野|2017|pp=180-183}}。
====
{{Quote box|width=30%|align=right|quote=私はサイレント映画を作り続ける決心をした…もともと私はパントマイム役者だった。そのかぎりでは誰にもできないものを持っていたつもりだし、心にもない謙遜など抜きにして言えば、名人というくらいの自信はあった。|source=チャールズ・チャップリン、 [[トーキー]]に対する自身の姿勢{{Sfn|チャップリン|1966|p=385}}}}
『サーカス』が公開された頃、ハリウッドでは[[トーキー]]の導入が進んでいた。しかし、チャップリンはトーキーについて否定的な立場をとり、トーキーはサイレント映画の芸術性を損なわせてしまうと考えていた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=72}}。また、チャップリンは小さな放浪者に言葉を入れることで、その国際的魅力と世界共通言語としてのパントマイムの普遍性が失われることを恐れ、自身に成功をもたらしたこの方式を変えることに躊躇した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=72}}{{Sfn|Maland|2007|p=29}}。そのためチャップリンはトーキーの流行に従うのを拒否し、サイレント映画を作り続けることにした。それにもかかわらず、この決断はチャップリンを不安にさせ、次回作である『[[街の灯]]』の製作中もずっと悩み続けた{{Sfn|Maland|2007|p=29}}{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=73}}。
[[File:Chaplin City Lights still.jpg|right|170px|thumb|『街の灯』(1931年)のチャップリンと[[ヴァージニア・チェリル]]。]]
チャップリンは約1年かけて『街の灯』のストーリー作りに取り組み、1928年末に撮影を始めた{{Sfn|ロビンソン(下)| 1993|p=83}}{{Sfn|Maland|2007|pp=33-34, 41}}。この作品は小さな放浪者が[[ヴァージニア・チェリル]]演じる盲目の花売り娘を愛し、彼女の視力を回復させるための手術代を調達しようと奮闘する姿が描かれている。撮影は約21ヶ月間も続けられ{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=447-449}}、チャップリンは自伝で「完璧を望むあまり、神経衰弱気味になっていた」と述べている{{Sfn|チャップリン|1966|p=387}}。チャップリンがサウンド技術で見つけた利点のひとつは、自分で作曲した映画音楽を録音する機会を得たことだった。以前から映画音楽の作曲に関心を抱いていたチャップリンは、この作品のためにオリジナルの伴奏音楽を作曲し、[[サウンド版]]として公開することにした{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=98-100}}{{Sfn|大野|2017|p=202}}。
[[1930年]]12月に『街の灯』の編集作業が終了したが、この頃にはサイレント映画は時代遅れになっていた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=98}}。[[1931年]]1月に行われた一般向け試写は成功しなかったが、その翌日のマスコミ向け試写では好意的な評価を受けた。あるジャーナリストは「それが可能な人物は世界中でチャップリンだけだろう。彼は、『観客へのアピール』と呼ばれる独特のものを、話す映画へとなびく大衆の好みに挑めるくらい十分に備えているただ一人の人物である」と書いた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=101-103}}。同月末に正式公開されると高い人気を集め、最終的に300万ドルを超える収益を上げるほどの興行的成功を収めた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=101-103}}{{Sfn|Maland|2007|pp=108-110}}。[[英国映画協会]]は、批評家の[[ジェームズ・エイジー]]がラストシーンを「映画の中で最高の演技で最高のシーン」と賞賛したことを引用して、チャップリンの最高の作品と評価した<ref name="bfi great features">{{cite web|url=http://chaplin.bfi.org.uk/resources/bfi/biog/biog.php?fid=biog9 |title=United Artists and the Great Features |work=Charlie Chaplin |publisher=British Film Institute |accessdate=21 June 2012 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120406094725/http://chaplin.bfi.org.uk/resources/bfi/biog/biog.php?fid=biog9 |archivedate=6 April 2012}}</ref>。
==== 世界旅行と『モダン・タイムス』 ====
[[1931年]]初めにチャップリンは休暇を取ることを決心し、16ヶ月間に及ぶ世界旅行に出かけた{{Sfn|Louvish|2010|p=243}}。チャップリンはイギリス、フランス、[[スイス]]の[[サン・モリッツ]]での長期滞在を含めて、西ヨーロッパを何ヶ月間も旅行した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=447-449}}。チャップリンは至る所で大歓迎され<ref name="famous"/>、多くの著名人と社交的関係を持った。ロンドンでは[[ジョージ・バーナード・ショー]]、[[ウィンストン・チャーチル]]、[[マハトマ・ガンジー]]、[[ジョン・メイナード・ケインズ]]と会談し、[[ドイツ]]を訪問した時は[[アルベルト・アインシュタイン]]の自宅に招待された{{Sfn|大野|2009|pp=158-163}}{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=112}}。チャップリンはヨーロッパ旅行を終えると、休暇を延ばして[[日本]]へ行くことを決めた。[[シンガポール]]や[[バリ島]]を経由して、[[1932年]]5月に日本を訪れ、6月に帰国した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=130-133}}。
[[File:Modern Times poster.jpg|thumb|left|180px|『[[モダン・タイムス]]』(1936年)のポスター。]]
ロサンゼルスに戻ったチャップリンは、トーキー導入で大きく変化したハリウッドに嫌気がさした{{Sfn|大野|2017|p=236}}。自伝では当時の心境を「まったくの混迷、将来の計画もなんにもない。ただ不安なばかりで、底知れぬ孤独にさいなまれていた」と回想している{{Sfn|チャップリン|1966|p=442}}。チャップリンは引退して[[中国]]に移住することも考えたが、1932年7月に[[ポーレット・ゴダード]]と出会ったことで孤独感が解消され、二人はすぐに親密な関係を築いた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=141}}{{Sfn|Maland|1989|p=147}}。しかし、チャップリンはなかなか次回作に取りかかろうとはせず、旅行記『コメディアンが見た世界』の執筆に集中した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=147-148}}。チャップリンは世界旅行をして以来、[[世界恐慌|恐慌]]後の世界情勢に関心を持つようになった{{Sfn|Louvish|2010|p=256}}。実際にチャップリンは、経済問題に関する論文「経済解決論」を執筆したり、[[ニューディール政策]]の熱熱な支持者として、[[1933年]]に[[全国産業復興法]]を支持するラジオ番組に出演したりしている{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=153-156}}。アメリカの労働状況の悪化はチャップリンを悩ませ、機械化が失業率を高めるのではないかと恐れた。こうした懸念から次回作の『[[モダン・タイムス]]』が構想された{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=153-156}}。
[[1934年]]10月に『モダン・タイムス』の撮影が始まり、約10ヶ月半かけて終了した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=162-163}}。チャップリンはトーキーで作ることを考えていたが、リハーサル中に気が変わり、前作と同様に効果音と伴奏音楽を採用し、会話シーンはほとんど使わなかった{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=164-165}}。しかし、小さな放浪者がデタラメ語で「ティティナ」を歌うシーンで、チャップリンは初めて映画で肉声を披露した{{Sfn|大野|2017|pp=242-243}}。大野は、この作品を「機械文明に抵抗して個人の幸福を求める物語」としており{{Sfn|大野|2017|p=244}}、『キッド』以来の政治的言及と社会的リアリズムが取り入れられた。チャップリンはこの問題を重視しないようにしたにもかかわらず、こうした側面が多くのマスコミの注目を引き付けた{{Sfn|Maland|1989|p=150}}。作品は[[1936年]]2月に公開されたが、一部の大衆観客は政治的要素を嫌ったため、アメリカでの興行収入は前作の半分にも満たない150万ドルにとどまり、評価も賛否両論となった{{Sfn|Maland|1989|p=157}}{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=172}}{{Sfn|大野|2017|pp=242-243}}。それでも現代ではチャップリンの最も優れた長編映画のひとつと見なされている<ref name="bfi great features"/>。
『モダン・タイムス』の公開直後、チャップリンはポーレットとともにアジア旅行に出発し、[[香港]]や日本などを訪問した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=451}}。チャップリンとポーレットはお互いの関係について言及することはなく、正式な夫婦であったかどうかは明らかにしていない{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=167-168}}。その後、チャップリンは旅行中の1936年に[[広東]]で結婚したことを明らかにした{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=184}}。ポーレットは『モダン・タイムス』と次回作の『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』でヒロイン役を演じたが、二人はそれぞれの仕事に重点を置いていたため、お互いの気持ちは離れていった。[[1942年]]にメキシコで二人の離婚が成立したが、その後もお互いの関係は良好だった{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=215-216}}。
=== 論争と人気の低下:1939年~1952年 ===
==== 『独裁者』 ====
[[ファイル:Dictator charlie5.jpg|thumb|right|210px|『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』(1940年)の風船の地球儀を弄ぶシーン。]]
チャップリンは、1930年代の世界の政治的緊張と[[ファシズム]]の台頭に不安を感じ、これらの問題を自分の仕事から遠ざけることはできないと考えていた{{Sfn|Maland|1989|p=159}}{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=185-188}}。この頃、各国のメディアではチャップリンと[[アドルフ・ヒトラー]]との類似点が話題に取り上げられた{{Sfn|大野|2017|p=248}}。二人はわずか4日違いで生まれ、どちらも社会の底辺の出身から世界的な有名人となり、鼻の下に{{仮リンク|トゥースブラッシュ|en|Toothbrush moustache}}形の[[口髭]]を付けていた。こうした類似性は、チャップリンに次の映画『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』のアイデアを提供した。この作品ではヒトラーを直接的に風刺し、ファシズムを攻撃した{{Sfnm|1a1=ロビンソン(下)|1y=1993|1pp=185-188|2a1=Maland|2y=1989|2pp=165, 170|3a1=Schickel|3y=2006|3p=28|4a1=Louvish|4y=2010|4p=271|5a1=Larcher|5y=2011|5p=67|6a1=Kemp|6y=2011|6p=158}}。
チャップリンは『独裁者』の脚本執筆に2年も費やし{{Sfn|チャップリン|1966|p=458}}、イギリスがドイツに宣戦布告した6日後の[[1939年]]9月に撮影を始めた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=198}}。チャップリンは政治的メッセージを伝えるために適した方法であることから、この作品をサイレントではなくオール・トーキーで製作したが、この時にはもはやトーキーを導入する以外に選択肢はなかった{{Sfn|Maland|1989|p=165}}。ヒトラーを主題にしたコメディを作ることは大きな物議を醸すと思われたが、チャップリンの経済的独立はそのリスクを冒すことを可能にした{{Sfn|Maland|1989|p=164}}。チャップリンは自伝で「ヒトラーという男は、笑いものにしてやらなければならないのだ」と述べている{{Sfn|チャップリン|1966|p=459}}。チャップリンは小さな放浪者を、同じ服装のユダヤ人の床屋に置き換えて、[[反ユダヤ主義]]の[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]を攻撃した{{Refnest|group="注"|1910年代に名声を得た頃から、チャップリンはユダヤ人であるという憶測が広まったが、それを示す証拠は存在しない{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=199-200}}。大野によると、公的な記録に基づいて、父母双方の家系を4代遡ってもユダヤ人はいないが、母方の祖母が[[ロマ]]であるという{{Sfn|大野|2017|pp=18-19}}。1915年にチャップリンは、記者の「あなたはユダヤ人か」という質問に対し、「残念ながらそんな幸運には恵まれていない」と答えている。しかし、ナチスはチャップリンがユダヤ人であると思い込んでいたため、『黄金狂時代』の国内上映を禁止し、チャップリンを攻撃した。チャップリンは『独裁者』でユダヤ人を演じることでこれに反撃し、「私は世界中のユダヤ人のためにこの映画を作った」と発言した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=199-200}}。しかし、自伝では「もしあのナチス収容所の実態を知っていたら、『独裁者』はできていなかったかもしれないし、ナチどもの殺人狂を笑いものにする勇気も出なかったかもしれない」と述べている{{Sfn|チャップリン|1966|p=459}}。}}。さらにチャップリンは、ヒトラーをパロディ化した独裁者のアデノイド・ヒンケルも演じた{{Sfn|Maland|1989|pp=172-173}}。
『独裁者』の製作には約1年かかり、[[1940年]]10月に公開された{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=452-453}}。この作品は[[ニューヨーク・タイムズ]]の批評家から「今年最も熱狂的に待望された映画」と呼ばれるなど多くの注目を集め{{Sfn|Maland|1989|pp=169, 178-179}}、それまでのチャップリン映画で最高の興行収入を記録した{{Sfn|大野|2017|p=274}}。しかし、結末のシーンは人気がなく、論争を引き起こした{{Sfn|Maland|1989|p=176}}{{Sfn|Schickel|2006|pp=30-31}}。その結末シーンでは、チャップリンが床屋のキャラクターを捨てて、カメラ目線で戦争とファシズムに反対する5分間の演説をした{{Sfn|Maland|1989|pp=178-181}}{{Sfn|Louvish|2010|p=282}}。映画史家のチャールズ・J・マーランドは、この説教がチャップリンの人気の低下を引き起こしたと考え、「今後、映画ファンはチャップリンから政治的側面を切り離すことができなくなった」と述べている{{Sfn|Maland|1989|pp=178-181}}。『独裁者』は[[第13回アカデミー賞]]で[[アカデミー作品賞|作品賞]]、[[アカデミー主演男優賞|主演男優賞]]、[[アカデミー脚本賞|脚本賞]]など5部門でノミネートされた<ref name="oscar1941">{{Cite web |url=https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/1941 |title=THE 13TH ACADEMY AWARDS | 1941 |website=oscar.org |language=英語 |accessdate=2020年1月23日}}</ref>。
==== ジョーン・バリーとウーナ・オニール ====
1940年代半ば、チャップリンは自身の公的イメージに大きな影響を与えた一連の裁判に関わり、それにほとんどの時間を費やした{{Sfn|Maland|1989|pp=197-198}}。[[1941年]]にチャップリンは{{仮リンク|ポール・ヴィンセント・キャロル|en|Paul Vincent Carroll}}原作の戯曲『{{仮リンク|影と実体|en|Shadow and Substance}}』の映画化を企画し、その主演女優として無名の[[ジョーン・バリー (アメリカの女優)|ジョーン・バリー]]と契約した。しかし、バリーは精神的に不安定で奇行が目立ったため、[[1942年]]5月に契約を解消した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=219}}。その後、バリーは2度もチャップリン家に侵入して逮捕され、[[1943年]]にはチャップリンの子供を妊娠していると発表した。チャップリンはこれを否定したため、バリーはチャップリンに対して子供の父権認知の訴訟を起こした{{Sfn|Maland|1989|pp=198-201}}。
チャップリンの政治的傾向を長年にわたり疑っていた[[連邦捜査局]](FBI)は、チャップリンの評判を傷つけるための[[ネガティブ・キャンペーン]]の一環として{{Sfn|Nowell-Smith|1997|p=85}}、このスキャンダルに関する4件の罪状でチャップリンを訴えた。これらの中で最も問題になったのが、性的目的で州を越えて女性を移動させることを禁じる{{仮リンク|マン法|en| Mann Act}}に違反したという申し立てである{{Refnest|group="注"|検察官は、チャップリンが1942年10月にニューヨークに行った時に、性的目的でバリーをロサンゼルスからニューヨークへ移動させ、彼女にニューヨークまでの旅費を支払ったことが、マン法に違反していると主張した。二人はニューヨークで会ったことは認めたが、バリーはそこで性的関係を結んだと主張した{{Sfn|Maland|1989|pp=204-206}}。チャップリンは1942年5月以降に関係を持ったことはないと主張した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=230-231}}。}}。歴史家の[[オットー・フリードリック]]は、これを「時代遅れの法」による「馬鹿げた訴追」と呼んでいるが{{Sfn|Friedrich|1986|pp=190, 393}}、チャップリンが有罪となった場合は23年の懲役刑になる可能性があった{{Sfn|Maland|1989|pp=214-215}}。他の3件の告発は法廷に持ち込むのに十分な証拠がなかったが、マン法違反の裁判は[[1944年]]3月21日に始まり<ref>{{Cite news |title=Tentative Jury in Chaplin Case – British Nationality Of Actor Made Issue |location=San Bernardino, California |newspaper=The San Bernardino Daily Sun |agency=Associated Press |date=22 March 1944 |volume=50 |page=1}}</ref>、2週間後の4月4日に無罪となった{{Sfn|Maland|1989|pp=204-206}}。この事件はトップ級のニュースとして報道され、[[ニューズウィーク]]は「1921年の[[ロスコー・アーバックル]]事件の裁判以来の最大のスキャンダル」と呼んだ{{Sfn|Maland|1989|pp=214-215}}。
キャロル・アンと名付けられたバリーの子供(1943年10月生)の父権認知の裁判は、1944年12月に開廷した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=230, 233}}。原告側弁護士はチャップリンを不道徳であると強く非難し{{Sfn|Louvish|2010|p=xiii}}、[[1945年]]4月の判決でチャップリンが父親であることが認定された。血液検査では「[[O型]]のチャップリンと[[A型]]のジョーンから、[[B型]]のキャロル・アンが生まれる可能性はない」と結論付けられていたが、裁判が行われたカリフォルニア州では、血液検査は裁判の証拠として認められなかった{{Sfn|Maland|1989|pp=204-206}}。チャップリンは判決に従って、キャロル・アンが21歳になるまで養育費を支払うことになった{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=236}}。この裁判でチャップリンは、FBIの影響を受けたメディアから過度な批判を受けた{{Sfn|Maland|1989|pp=207-213}}{{Sfn|Sbardellati|Shaw|2003|p=508}}{{Sfn|Friedrich|1986|pp=190, 393}}。
この裁判でチャップリンが受けた打撃は大きかったが、そんな傷心の彼を慰めたのは4番目の妻である[[ウーナ・オニール]]だった{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=237}}。1942年10月にチャップリンはタレントエージェントを介してウーナと初めて出会い、1943年6月16日に結婚した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=225-226, 229-230}}。チャップリンは自伝で、ウーナとの出会いは「長きにわたるであろう私の最良の幸福のはじまり」と述べている{{Sfn|チャップリン|1966|p=497}}。しかし、二人が結婚したのはバリーが父権認知訴訟を起こしてから2週間後のことであり、それはチャップリンをめぐる論争を高めることになった{{Sfn|Louvish|2010|p=135}}。チャップリンは亡くなるまでウーナと連れ添い、8人の子供をもうけた。その子供たちは上から[[ジェラルディン・チャップリン|ジェラルディン]](1944年7月生)、{{仮リンク|マイケル・チャップリン|label=マイケル・ジョン|en|Michael Chaplin (actor)}}(1946年3月生)、{{仮リンク|ジョゼフィン・チャップリン|label=ジョゼフィン・ハンナ|en|Josephine Chaplin}}(1949年3月生)、{{仮リンク|ヴィクトリア・チャップリン|label=ヴィクトリア|en|Victoria Chaplin}}(1951年5月生)、{{仮リンク|ユージン・チャップリン|label=ユージン・アンソニー|en|Eugene Chaplin}}(1953年8月生)、ジェーン・セシル(1957年5月生)、アネット・エミリー(1959年12月生)、{{仮リンク|クリストファー・チャップリン|label=クリストファー・ジェイムズ|en|Christopher Chaplin}}(1962年7月生)である{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=454-460}}。
==== 『殺人狂時代』と共産主義の告発 ====
[[File:Monsieur Verdoux poster.jpg|thumb|left|180px|『[[殺人狂時代 (1947年の映画)|殺人狂時代]]』(1947年)のポスター。]]
チャップリンはバリーの裁判で「自分の創作意欲をひどく傷つけられた」と感じ、再び映画製作を始めるまでには時間がかかった{{Sfn|チャップリン|1966|pp=509-510}}。チャップリンの新作は『[[殺人狂時代 (1947年の映画)|殺人狂時代]]』で、フランスの失職した元銀行家ヴェルドゥが家族を養うために裕福な未亡人と結婚して殺害するという内容のブラックコメディである。このアイデアを思いついたきっかけは、1942年秋に[[オーソン・ウェルズ]]がチャップリン主演でフランスの連続殺人犯[[アンリ・デジレ・ランドリュー]]が主人公の映画を作りたいと提案したことだった{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=227}}{{Sfn|大野|2017|pp=290-294}}。チャップリンはこの申し出を断ったが、このアイデアがすばらしい喜劇になると考えた{{Sfn|チャップリン|1966|p=495}}。そこでウェルズに原案料として5000ドルを支払い、当時進めていた『影と実体』の企画を棚上げして、4年がかりで完成させた{{Sfn|大野|2017|pp=290-294}}。
チャップリンは『殺人狂時代』で再び政治的姿勢を主張し、[[資本主義]]や戦争における[[大量破壊兵器]]の使用を批判した{{Sfn|Sbardellati|Shaw|2003|p=501}}{{Sfn|Louvish|2010|p=304}}。そのため[[1947年]]4月に公開されると物議を醸した{{Sfn|Louvish|2010|pp=296-297}}{{Sfn|Larcher|2011|p=77}}。プレミア上映ではブーイングされ、ボイコットの呼びかけもあった{{Sfn|Louvish|2010|pp=296-297}}{{Sfn|Sbardellati|Shaw|2003|p=503}}。この作品はアメリカで批評的にも興行的にも失敗した最初のチャップリン映画だったが、海外では高い成功を収め{{Sfn|Maland|1989|pp=235-245, 250}}、[[第20回アカデミー賞]]では脚本賞にノミネートされた<ref name="oscar1947">{{Cite web |url=https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/1948 |title=THE 20TH ACADEMY AWARDS | 1948 |website=oscar.org |language=英語 |accessdate=2020年1月23日}}</ref>。チャップリンはこの作品に誇りを持っており、自伝では「『殺人狂時代』は自分の作品中でも最高の傑作、実によくできた作品だと信じている」と述べている{{Sfn|チャップリン|1966|p=531}}。
『殺人狂時代』に対する否定的反応は、チャップリンの公のイメージが変化した結果だった{{Sfn|Maland|1989|p=251}}。チャップリンはバリーとのスキャンダルの被害に加えて、政治的姿勢が[[共産主義]]的であると公に非難された{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=248-249}}{{Sfn|Friedrich|1986|p=287}}。チャップリンの政治活動は、[[第二次世界大戦]]中に[[ソビエト連邦]]を支援するために第二戦線を開くことを呼びかける演説を行い、さまざまなアメリカの親ソ組織を支援した時に激化した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=222-224}}。また、[[ハンス・アイスラー]]や[[ベルトルト・ブレヒト]]などの共産主義者とされる著名人と交友があり、ロサンゼルスでソ連外交官が主催したレセプションにも出席した{{Sfn|Maland|1989|pp=221-226, 253-254}}。1940年代のアメリカの政治情勢では、そのような活動は「危険なほど[[進歩主義 (政治)|進歩主義]]的で不道徳」と見なされた{{Sfn|Louvish|2010|p=xiii}}{{Sfn|Larcher|2011|p=75}}{{Sfn|Sbardellati|Shaw|2003|p=506}}。FBIはチャップリンの国外追放を考え、1947年に公式な調査を開始した{{Sfn|Maland|1989|pp=265-266}}{{Refnest|group="注"|チャップリンは1940年代以前からFBIに注目されており、報告書で最初に言及されたのは1922年だった。1946年9月にFBI長官の[[ジョン・エドガー・フーヴァー]]は、チャップリンに関する特別な報告書の作成を要求したが、FBIロサンゼルス支局の反応は遅く、翌年春に活発な調査を始めた{{Sfn|Maland|1989|pp=265-266}}。FBIはチャップリンがイギリス人ではなくフランスまたは東ヨーロッパで生まれ、本名がイズレイル・ゾーンシュタインであるという誤った申し立てを調査するため[[MI5]]に協力を求めたが、MI5はそのような証拠を発見できなかった{{Sfn|大野|2017|pp=288-289}}<ref>{{cite news|last=Norton-Taylor |first=Richard |date=17 February 2012 |title=MI5 Spied on Charlie Chaplin after the FBI Asked for Help to Banish Him from US |url=https://www.theguardian.com/uk/2012/feb/17/mi5-spied-on-charlie-chaplin |newspaper=The Guardian |location=London |accessdate=17 February 2012 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100702232703/http://www.guardian.co.uk/culture/2009/nov/05/charlie-chaplin-ebay-reel-tin |archivedate=2 July 2010 |url-status=live }}</ref>。}}。
チャップリンは共産主義者であることを否定し、代わりに自分を「平和主義者」と呼んだが{{Sfn|チャップリン|1966|p=525}}{{Sfn|Maland|1989|p=238}}{{Sfn|Louvish|2010|p=310}}、イデオロギーを抑圧する政府のやり方は[[自由権]]を侵害していて容認できないと主張した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=256-257}}。チャップリンはこの問題について沈黙を拒否し、[[アメリカ共産党|共産党]]員の裁判と[[下院非米活動委員会]]の活動に公然と抗議した{{Sfn|Maland|1989|pp=255-256}}。チャップリンの活動はマスコミで広く報道され、[[冷戦]]の恐れが高まるにつれて、チャップリンがアメリカ市民権を取らなかったことにも疑問が投げかけられ、国外追放を求める声も上がった{{Sfn|Louvish|2010|p=xiii}}{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=256-257}}{{Sfn|Larcher|2011|p=80}}{{Sfn|Sbardellati|Shaw|2003|p=510}}。例えば、1947年6月に非米活動委員会の委員である{{仮リンク|ジョーン・E・ランキン|en|John E. Rankin}}議員は、「チャップリンがハリウッドにいること自体が、アメリカの体制には有害なのです…今すぐ彼を国外追放処分にして追放すべきであります」と発言した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=256-257}}。同年9月、チャップリンは非米活動委員会から召喚状を受け取ったが、証言するために出頭されることはなかった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=454-460}}{{Sfn|Friedrich|1986|p=286}}{{Sfn|Maland|1989|p=261}}。
==== 『ライムライト』とアメリカ追放 ====
[[File:Limelight promo crop.jpg|thumb|right|200px|『[[ライムライト (映画)|ライムライト]]』(1952年)で人気を失くした舞台芸人のカルヴェロを演じたチャップリン。]]
チャップリンは『殺人狂時代』の失敗後も政治的活動を続けたが{{Refnest|group="注"|1947年11月、チャップリンは[[パブロ・ピカソ]]に、ハンス・アイスラーの国外追放に抗議するためのデモをパリのアメリカ大使館前で行うよう要請し、12月に国外追放手続きの中止を求める請願書に署名した。チャップリンは[[1948年アメリカ合衆国大統領選挙]]で[[ヘンリー・A・ウォレス]]を支持し、[[1949年]]に起きた[[ピークスキル暴動]]に抗議する請願書に署名した{{Sfn|Maland|1989|pp=256-257}}。}}、次回作の『[[ライムライト (映画)|ライムライト]]』は忘れられたミュージック・ホールのコメディアンと若いバレリーナが主人公の作品で、政治的テーマからかけ離れていた。この作品はチャップリンの子供時代と両親の人生だけでなく、アメリカでの人気の喪失をほのめかしており、非常に自伝的なものになった{{Sfn|Maland|1989|pp=288-290}}{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=261-262}}{{Sfn|Louvish|2010|p=312}}。出演者にはチャップリンの5人の子供や異父弟のウィーラー・ドライデンなどの家族が含まれていた{{Sfn|Maland|1989|p=293}}。チャップリンは3年間も脚本に取り組み、[[1951年]]11月に撮影を始めた{{Sfn|Louvish|2010|p=317}}。チャップリンのパントマイムシーンの相手役には[[バスター・キートン]]が出演したが、サイレント映画時代に人気を分けた二人が共演したのはこれ限りだった{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=283}}。
チャップリンは『ライムライト』のワールド・プレミアを、作品の舞台となったロンドンで開催することに決めたが{{Sfn|Louvish|2010|p=326}}、ロサンゼルスを去ればもう戻ってくることはないだろうと予感した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=287}}。[[1952年]]9月17日、チャップリンは家族と[[クイーン・エリザベス (客船)|クイーン・エリザベス]]に乗船し、イギリスへ向けてニューヨークを出航した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=454-460}}。その2日後、アメリカ合衆国司法長官の{{仮リンク|ジェームズ・P・マクグラネリー|en|James P. McGranery}}はチャップリンの再入国許可を取り消し、アメリカに戻るには政治的問題と道徳的行動に関する審問を受けなければならないと述べた{{Sfn|Maland|1989|pp=280-287}}。マクグラネリーは「チャップリンを国外追放した根拠を明らかにすれば、チャップリン側の防御を助けることになる」と述べたが{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=292}}、マーランドは1980年代に開示されたFBIの記録に基づき、アメリカ政府はチャップリンの再入国を阻止するための証拠を持っていなかったと結論付けた{{Sfn|Maland|1989|pp=280-287}}。チャップリンは船上で再入国許可取り消しの知らせを受け取り、アメリカとの関係を断ち切ることに決めた。
{{Quote|あの不幸な国に再入国できるかどうかは、ほとんど問題ではなかった。できることなら答えたやりたかった―あんな憎しみに充ちた雰囲気からは、一刻でも早く解放されればされるほどうれしいことはない。アメリカから受けた侮辱と、もったいぶったその道徳面には飽き飽きだし、もうこの問題にはこりごりだ、と{{Sfn|チャップリン|1966|p=542}}。}}
チャップリンの全財産はアメリカに残っており、合衆国政府に何らかの口実で没収されるのを恐れたため、政府の決定について否定的なコメントをするのは避けた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=289}}。この事件はセンセーショナルに報道されたが{{Sfn|Louvish|2010|p=330}}、チャップリンと『ライムライト』はヨーロッパで温かく受け入れられた{{Sfn|Maland|1989|pp=280-287}}。アメリカではチャップリンに対する敵意が続き、『ライムライト』はいくつかの肯定的なレビューを受けたものの、大規模なボイコットにさらされた{{Sfn|Maland|1989|pp=295-298, 307-311}}。マーランドは、チャップリンの人気の「前例のない」レベルからの低下は、「アメリカのスターダムの歴史の中で最も劇的かもしれない」と述べている{{Sfn|Maland|1989|p=189}}。
=== ヨーロッパ時代:1953年~1977年 ===
==== スイス移住と『ニューヨークの王様』 ====
{{Quote box|width=30%|align=right|quote=私は強力な反動的グループによる虚偽と悪意あるプロパガンダの対象にされてきた。彼らは自らの影響力とアメリカのイエロー・ジャーナリズムの助けで、リベラルな考えの人々を選び出して迫害することを許す不健康な空気を作り出している。このような状況下では、映画製作を続けることは事実上不可能であり、アメリカに居住することを諦めました。|source=チャールズ・チャップリン、アメリカに戻らないという決定に関する声明{{Sfn|Larcher|2011|p=89}}}}
チャップリンは再入国許可が取り消されたあと、アメリカに戻ろうとはせず、代わりにウーナをロサンゼルスに送って、財産をヨーロッパに持ち出すという問題を解決させた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=297}}。チャップリン一家は[[スイス]]に移住することに決め、[[1953年]]1月に[[レマン湖]]近くにある村{{仮リンク|コルシエ=シュル=ヴヴェイ|en|Corsier-sur-Vevey}}にある、広さ14ヘクタールの邸宅{{仮リンク|マノワール・ド・バン|en|Manoir de Ban}}に居を定めた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=298-299}}<ref>{{cite web|url=http://www.swissinfo.ch/eng/film-legend-found-peace-on-lake-geneva/12814 |title=Film Legend Found Peace on Lake Geneva |author=Dale Bechtel |year=2002 |website=swissinfo.ch/eng |publisher=Vevey |accessdate=5 December 2014 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141209213503/http://www.swissinfo.ch/eng/film-legend-found-peace-on-lake-geneva/12814 |archivedate= 9 December 2014}}</ref>。同年3月に[[ビバリーヒルズ]]にある家とスタジオは売りに出され、4月にアメリカへの再入国許可証を放棄した。[[1955年]]にはユナイテッド・アーティスツの残りの株式を売却し、アメリカとの最後の仕事上の関係を断ち切った{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=301-302}}。
1950年代もチャップリンは、[[世界平和評議会]]から{{仮リンク|世界平和評議会賞|label=国際平和賞|en|World Peace Council prizes}}を受賞したり、[[周恩来]]や[[ニキータ・フルシチョフ]]と会談したりするなど、物議を醸す人物であり続けた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=301-302}}。[[1954年]]にはヨーロッパでの最初の作品となる『[[ニューヨークの王様]]』の脚本執筆を始めた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=303-304}}。チャップリンは国を追われてアメリカに亡命した国王を演じ、自身が最近経験したことのいくつかを脚本に取り入れた。チャップリンの息子のマイケルは、両親がFBIの標的にされた少年役にキャスティングされ、チャップリンが演じた国王は共産主義の告発に直面するという設定だった{{Sfn|Louvish|2010|pp=xiv-xv}}。また、チャップリンは非米活動委員会をパロディ化し、アメリカの[[消費主義]]や大画面映画なども攻撃した{{Sfn|Larcher|2011|pp=89-90}}{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=305-308}}{{Sfn|Louvish|2010|p=341}}{{Sfn|Maland|1989|pp=320-322}}。劇作家の{{仮リンク|ジョン・オズボーン (劇作家)|label=ジョン・オズボーン|en|John Osborne}}は、それを「チャップリンの映画の中で最も辛辣」で「公然たる個人的映画」と呼んだ{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=305-308}}。[[1957年]]のインタビューで、チャップリンは自身の政治的姿勢について「政治に関しては、私はアナーキストだよ。政府や規則、束縛は嫌いだ…人間は自由であるべきだ」と発言した<ref>{{Cite book |last1=Chaplin |first1=Charlie |last2=Hayes |first2=Kevin |title=Charlie Chaplin: Interviews |date=2005 |publisher=Univ. Press of Mississippi |page=121}}</ref>。
チャップリンは『ニューヨークの王様』を作るために新しい製作会社アッティカを設立し、ロンドン郊外にある{{仮リンク|シェパートン撮影所|en|Shepperton Studios}}をスタジオに借用した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=303-304}}。チャップリンは今まで自分のスタジオで気心の知れたスタッフと映画を作っていたため、仲間がほとんどおらず、スケジュールにも縛られたイギリスでの撮影は困難な仕事となった。それは映画の完成度に大きな影響を及ぼした{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=305-308}}{{Sfn|Epstein|1988|p=137}}。作品は1957年9月にロンドンで初公開され、さまざまな評価を受けたが、ヨーロッパではヒットした{{Sfn|Maland|1989|pp=320-322}}{{Sfn|大野|2017|p=328}}{{Sfn|Lynn|1997|p=506}}{{Sfn|Louvish|2010|pp=341-342}}。チャップリンはパリでの初公開時にアメリカの記者を追い出し、[[1973年]]までアメリカで上映しなかった{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=310}}{{Sfn|Louvish|2010|p=347}}。
==== 最後の作品と晩年 ====
[[File:Charlie Chaplin and Oona ONeill 1965.jpg|thumb|left|220px|チャップリンと妻の[[ウーナ・オニール]](1965年)。]]
チャップリンはキャリアの最後の20年間で、過去の作品の所有権と配給権を確保し、それらを再公開するために音楽を付けて再編集することに精力を傾けた{{Sfn|Maland|1989|p=326}}。その最初の仕事として、チャップリンは『犬の生活』『担へ銃』『偽牧師』の3本をまとめて、[[1959年]]に『[[チャップリン・レヴュー]]』として再公開した{{Sfn|大野|2017|p=333}}。この頃のアメリカでは政治的な雰囲気が変わり始め、世間の注目はチャップリンの政治的問題ではなく、再びチャップリン映画に向けられた{{Sfn|Maland|1989|p=326}}。[[1962年]]7月にニューヨーク・タイムズは、「いまだ忘れられていない小さな放浪者がアメリカの港に上陸するのを許したところで、この国が危険にさらされるとは思えない」と社説で述べた{{Sfn|Lynn|1997|pp=507-508}}。[[1963年]]11月にはニューヨークのプラザシアターで、『殺人狂時代』『ライムライト』を含むチャップリン映画の回顧上映が1年かけて行われ、アメリカの批評家から高い評価を受けた{{Sfn|Lynn|1997|p=509}}{{Sfn|Maland|1989|p=330}}。[[1964年]]9月、チャップリンは7年前から執筆していた『{{仮リンク|チャップリン自伝|en|My Autobiography}}』を刊行した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=323-327}}。この自伝は初期の人生と私生活に焦点を当てており、映画のキャリアに関する情報が不足していると指摘されたが、世界的なベストセラーとなった{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=327-329}}{{Sfn|Lynn|1997|pp=510-512}}。
チャップリンは自伝の出版直後、1930年代にポーレット・ゴダードのために書いた脚本に基づくロマンティック・コメディ『[[伯爵夫人 (映画)|伯爵夫人]]』の製作を始めた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=329-331}}。物語は豪華客船を舞台とし、[[マーロン・ブランド]]が乗客のアメリカ大使、[[ソフィア・ローレン]]が彼の部屋に隠れる密航者を演じた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=329-331}}。チャップリンが国際的な大スターを起用したのはこれが初めてで、自身は[[端役|ちょい役]]で出演するにとどめ、監督に徹した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=334}}{{Sfn|大野|2017|p=335}}。また、この作品ではチャプリン映画として初めてカラーフィルムとワイドスクリーンを導入した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=334}}。作品は[[1967年]]1月に[[ユニバーサル・スタジオ|ユニバーサル・ピクチャーズ]]の配給で公開されたが、否定的な批評が多く、興行的にも失敗した{{Sfn|Epstein|1988|pp=192-196}}{{Sfn|Lynn|1997|p=518}}{{Sfn|Maland|1989|p=335}}。チャップリンは自身最後の映画となったこの作品の否定的反応に深く傷ついた{{Sfn|Epstein|1988|pp=192-196}}。
1960年代後半、チャップリンは軽微な[[脳卒中]]を起こし、そこからチャップリンの健康状態はゆっくりと低下し始めた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=344}}。それでも創作意欲が衰えることはなく、すぐに新しい映画の脚本『[[フリーク (チャップリンの映画)|フリーク]]』に取りかかった。これは翼が生えた少女が主人公のドラマ仕立てのコメディで、娘のヴィクトリアを主演に想定していた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=344}}。しかし、チャップリンの健康状態の低下は映画化の実現を妨げた{{Sfn|Epstein|1988|pp=203}}。1970年代初頭、チャップリンは『キッド』『サーカス』などの自作を再公開することに専念した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=346-348}}。チャップリン映画を配給するためにブラック社が設立され、「ビバ・チャップリン」と題したリバイバル上映が各国で行われたが、これは日本だけの収益で元が取れた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=346-348}}{{Sfn|大野|2017|p=340}}。
[[ファイル:Chaplin oscar.JPG|thumb|200px|1972年の[[アカデミー賞]]授賞式で[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]を受賞したチャップリン(右)。左はプレゼンターの[[ジャック・レモン]]。]]
1970年代、チャップリンは[[カンヌ国際映画祭]]特別賞や[[レジオンドヌール勲章]]など、その業績に対してさまざまな栄誉を受けるようになった{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=346-348}}。[[1972年]]に[[映画芸術科学アカデミー]]は、チャップリンに[[アカデミー名誉賞]]を授与することに決めた。ロビンソンは、これで「アメリカも償いをする気になった」と述べている。最初チャップリンはこれを受けるのをためらったが、20年ぶりにアメリカに戻ることを決心した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=346-348}}。授賞式では、同賞の歴史の中で最長となる12分間の[[スタンディングオベーション]]を受け、チャップリンは「今世紀が生んだ芸術である映画の製作における計り知れない功績」を理由に名誉賞を受け取った<ref>{{cite web|url=http://www.history.com/this-day-in-history/charlie-chaplin-prepares-for-return-to-united-states-after-two-decades |title=Charlie Chaplin Prepares for Return to United States after Two Decades |publisher=A&E Television Networks |accessdate=7 June 2010 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101205061522/http://www.history.com/this-day-in-history/charlie-chaplin-prepares-for-return-to-united-states-after-two-decades |archivedate=5 December 2010 |url-status=dead }}</ref>{{Sfn|Maland|1989|p=347}}。チャップリンはその2年後に著した『映画のなかのわが人生』の中で、授賞式について「私はその温かな意思表示に感動したが、あの出来事にはなにがしかの[[アイロニー]]があった」と述べている{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=351-352}}。
チャップリンはまだ新しい映画のための企画を考えており、[[1974年]]には「アイデアが次々と頭の中に飛び込んでくるから」引退することはできないと語っていたが、1970年代半ばまでにチャップリンの健康状態はさらに低下した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=353-355}}。チャップリンは数回の脳卒中を起こし、やがて歩くこともできなくなった<ref name="EugeneChaplin">{{cite news|last=Thomas |first=David |title=When Chaplin Played Father |url=https://www.telegraph.co.uk/culture/film/3587749/When-Chaplin-played-father.html |newspaper=The Telegraph |date=26 December 2002 |accessdate=26 June 2012 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120715051303/http://www.telegraph.co.uk/culture/film/3587749/When-Chaplin-played-father.html |archivedate=15 July 2012}}</ref>{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=353-355}}。チャップリンの最後の仕事は、[[1976年]]に『巴里の女性』を再公開するためにスコアを付けて再編集する作業だった{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=353-355}}。[[1975年]]にはチャップリンの人生についてのドキュメンタリー『放浪紳士チャーリー』に出演した{{Sfn|Lynn|1997|pp=534-536}}。同年3月、イギリス女王[[エリザベス2世]]より[[ナイト]]の称号を与えられた<ref name="Gazette19741231">{{Cite web |url=https://www.thegazette.co.uk/London/issue/46444/supplement/8 |title=1975 New Year Honours |accessdate=2020-03-19 |publisher=The London Gazette |language=英語}}</ref>。授与式には車椅子姿で登場し、座ったまま栄誉を受け取った{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=353-355}}<ref>{{Cite news|title=Little Tramp Becomes Sir Charles|date=5 March 1975 |newspaper=Daily News|location=New York |url=http://www.nydailynews.com/entertainment/movies/charlie-chaplin-knighted-queens-elizabeth-1975-article-1.2548959 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160303192525/http://www.nydailynews.com/entertainment/movies/charlie-chaplin-knighted-queens-elizabeth-1975-article-1.2548959 |archivedate=3 March 2016 |url-status=live}}</ref>。
==== 死去 ====
[[File:Charles Chaplin Grave in Corsier-sur-Vevey.jpg|170px|thumb|スイスのコルシエ=シュル=ヴヴェイにあるチャップリンの墓。]]
[[1977年]]10月15日、チャップリンはスイスに居住してからの恒例行事だったヴヴェイの{{仮リンク|ニー・サーカス|en|Circus Knie}}の見物に出かけたが、それがチャップリンの最後の外出となった{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=353-355}}。それ以降は絶えず看護が必要になるまでに健康状態が悪化した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=356}}。12月25日の[[クリスマス]]の早朝、チャップリンは自宅で睡眠中に脳卒中のため88歳で亡くなった<ref name="EugeneChaplin"/>{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=356}}。その2日後にヴヴェイにある[[聖公会|アングリカン・チャーチ]]の教会で、チャップリンの生前の希望による内輪の質素な葬儀が行われ、棺はコルシエ=シュル=ヴヴェイの墓地に埋葬された{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=357-358}}{{Sfn|Vance|2003|p=359}}。チャップリンが亡くなったあと、世界中の映画人が賛辞の言葉を寄せた。フランスの[[ルネ・クレール]]監督は「彼は国と時代を超えた、映画の記念碑的存在だった。彼は文字どおりすべてのフィルムメイカーの励みだった」と述べた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=357-358}}。俳優の[[ボブ・ホープ]]は「私たちは、彼と同じ時代に生きることができて幸運だった」と述べた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=359}}。
[[1978年]]3月1日、チャップリンの棺は移民の失業者であるポーランド人のロマン・ヴォルダスとブルガリア人のガンチョ・ガネフにより掘り起こされ、墓から盗み出された。二人は自動車修理工場の開業資金を手に入れるために棺を盗み、ウーナに60万[[スイス・フラン]]の身代金を要求したが、大規模な警察の作戦により逮捕された。5月、チャップリンの棺は墓地に近いノヴィーユ村の[[麦畑]]に埋められている状態で発見され、再発防止のため[[鉄筋コンクリート]]で周りを固めて同じ墓地に埋め戻された{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=357-358}}<ref>{{cite news|url=https://www.bbc.co.uk/news/magazine-20507503 |title=Yasser Arafat: 10 Other People Who Have Been Exhumed |date=27 November 2012 |accessdate=27 November 2012 |publisher=BBC |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121127151521/http://www.bbc.co.uk/news/magazine-20507503 |archivedate=27 November 2012}}</ref>。
=== 影響 ===
最初にチャップリンに影響を与えたのは、芸人である母のハンナだった。ハンナはよく窓際に座って通行人の真似をして、幼少期のチャップリンを楽しませた。これを通してチャップリンは、手ぶりや表情で自分の感情を表現する方法と、人間を観察して掘り下げる方法を学んだ{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=42}}。チャップリンはミュージック・ホールの舞台で活動し始めた頃、{{仮リンク|ダン・リーノ|en|Dan Leno}}などのコメディアンの芸を間近で見て学んだ{{Sfn|チャップリン|1966|pp=44-45}}{{Sfn|Weissman|2009|pp=82-83, 88}}。フレッド・カーノー劇団で過ごした日々は、俳優及び監督としてのチャップリンのキャリア形成に影響を与えた{{Sfn|Louvish|2010|p=38}}。チャップリンはカーノーからギャグのテンポを変えることや、ドタバタにペーソスを混ぜることを学んだ{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=121}}。映画業界からは、フランスの喜劇俳優[[マックス・ランデー]]の影響を受けており、チャップリンは彼の作品を賞賛した{{Sfn|Lynn|1997|pp=99-100}}{{Sfn|Brownlow|2010|p=22}}{{Sfn|Louvish|2010|p=122}}。小さな放浪者の扮装とキャラクターは、浮浪者のキャラクターがよく演じられていたアメリカの[[ヴォードヴィル]]の舞台に触発されたと考えられている{{Sfn|Louvish|2010|pp=48-49}}。
=== 製作方法 ===
[[File:Chaplin Studios postcard.jpg|thumb|right|220px|チャップリン・スタジオ(1922年)。1918年から1952年までのチャップリン映画はすべてここで作られた。]]
チャップリンは自分の映画の製作方法についてほとんど話そうとはせず、もし作り方がわかってしまえば「魔法はすっかり消し飛んでしまう」と主張した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=323, 327-329}}。また、1918年にチャップリンは業界のスパイが記者に化けて製作会議を盗み聞きしたという事件に遭遇し、それ以来映画製作において秘密主義を貫き、スタジオの訪問も禁じていた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=288}}{{Sfn|大野|2017|p=115}}。そのためチャップリンの生涯を通じて、その製作方法が知られることはほとんどなかったが{{Sfn|Brownlow|2010|p=7}}、没後に映画史家の[[ケヴィン・ブラウンロー]]と{{仮リンク|デイヴィッド・ギル|en|David Gill (film historian)}}により研究が行われ、その調査結果が3部構成のテレビドキュメンタリー『{{仮リンク|知られざるチャップリン|en|Unknown Chaplin}}』(1983年)の中で紹介されて以来、チャップリンのユニークな製作方法が明らかになった{{Sfn|Louvish|2010|p=103}}{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=216-217}}。
チャップリンは『独裁者』で会話付きの映画を作り始めるまで、決定稿の脚本を用意してから撮影を始めることがほとんどなかった{{Sfnm|1a1=ロビンソン(上)|1y=1993|1pp=222, 246, 385|2a1=ロビンソン(下)|2y=1993|2p=192}}。初期作品の多くは「小さな放浪者が保養所に入る」や「小さな放浪者が質屋で働く」などの漠然としたアイデアから出発し、そこからセットを組み立て、俳優と協力してギャグを即興で作りながら、それぞれのシークエンスを順序通りに撮影した{{Sfn|Louvish|2010|p=103}}{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=216-217, 222}}。チャップリンは頭の中にあるアイデアをもとに、何度も撮り直しを行い、アイデアの破棄や変更を繰り返しながらストーリーを構築した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=192}}{{Sfn|大野|2017|pp=93, 203}}。そのためすでに完成したシーンがストーリーと矛盾していれば再撮影する必要が生じた{{Sfn|Louvish|2010|p=168}}{{Sfn|Brownlow|2010|p=187}}。『巴里の女性』以後は、準備された[[プロット]]から撮影を始めたが{{Sfn|Louvish|2010|p=182}}、デイヴィッド・ロビンソンによると、『モダン・タイムス』までの作品は「ストーリーが最終的に出来上がるまでに、アイデアは多くの変更と修正を経た」という{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=157}}。
{{Quote box|width=30%|align=left|quote=チャップリン以外には、製作のすべての面でこれほどまでに完璧に支配し、あらゆる仕事をこなした映画製作者はいない。もしも可能であったなら、チャップリンはすべての役を自分で演じ、(息子のシドニーが冗談半分ながら指摘したように)すべての衣装を自分で縫ったことだろう。|source=チャップリンの伝記作家デイヴィッド・ロビンソン{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=327-329}}}}
この方法で映画を作るということは、チャップリンが当時の他の映画監督よりも、映画を完成させるのにより長い時間を要したということを意味した{{Sfn|Louvish|2010|p=228}}。チャップリンはアイデアが煮詰まると、インスピレーションを取り戻すまでスタジオを離れて撮影を休み、それが何日間も続くこともあった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=295-296}}{{Sfn|Cousins|2004|p=71}}。チャップリンの厳格な[[完璧主義]]は、撮影をさらに遅らせた{{Sfnm|1a1=ロビンソン(上)|1y=1993|1pp=226, 296, 386|2a1=ロビンソン(下)|2y=1993|2pp=63, 84-85}}{{Sfn|Brownlow|2010|pp=59, 75, 82, 92, 147}}。友人の{{仮リンク|アイバー・モンタギュー|en|Ivor Montagu}}によると、チャップリンにとって「完璧以外に正しいものはない」という{{Sfn|Brownlow|2010|p=82}}。チャップリンは完璧な映像を作るため、同じシーンを何十回でも撮り直し、そのために膨大な長さのフィルムを使用したが、どれだけの費用と時間をかけても満足するシーンでなければ、何千フィートもの撮影フィルムをカットした{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=226, 296}}{{Sfn|大野|2017|pp=91-92}}。『キッド』は完成作品が約5300フィートなのに対し、総撮影量は約27万9000フィートに及んだ{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=417}}。
チャップリンは私生活が入り込む余地がないほど映画作りに没頭し{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=167-168}}{{Sfn|Brownlow|2010|p=157}}、晩年でさえも、ほかのすべてのことや人よりも優先して仕事にすべてをささげた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=321}}。そんなチャップリンは製作過程のすべてを自分でコントロールした{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=327-329}}。他の俳優が演じる役も、自分が解釈した通りに演じることを求めた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=334}}{{Sfn|Brownlow|2010|pp=59, 98, 138, 154}}。チャップリンはすべての映画を自分で編集し、数万フィートに及ぶ撮影フィルムを処理して、自分が求める完全な作品を完成させた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=181, 255, 296}}。こうした完全な独立性により、映画批評家の[[アンドリュー・サリス]]は、チャップリンを最初の[[作家主義]]的監督のひとりと見なした{{Sfn|Maland|1989|p=353}}。しかし、チャップリンには長年のカメラマンである{{仮リンク|ドナルド・トザロー|en|Roland Totheroh}}{{Sfn|大野|2017|pp=91-92}}、マネージャーを務めたシドニー・チャップリン、常連俳優で助手のヘンリー・バーグマン、助監督の{{仮リンク|ハリー・クロッカー|en|Harry Crocker}}や{{仮リンク|チャールズ・ライスナー|en|Charles Reisner}}などの協力者がおり、その助けを借りながら映画作りを行った<ref>{{cite web|url=http://chaplin.bfi.org.uk/programme/essays/collaborators.html |title=Chaplin's Writing and Directing Collaborators |publisher=British Film Institute |accessdate=27 June 2012 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120214092650/http://chaplin.bfi.org.uk/programme/essays/collaborators.html |archivedate=14 February 2012}}</ref>。
=== スタイルとテーマ ===
[[ファイル:Chaplin The Kid.jpg|180px|right|thumb|『[[キッド (1921年の映画)|キッド]]』(1921年)には、チャップリン映画の特徴的な作風であるドタバタ、ペーソス、社会批評が含まれている。]]
チャップリンのコメディ・スタイルは、[[スラップスティック・コメディ映画|スラップスティック]](ドタバタ)と広く定義されているが{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=268}}、それは抑制された知的なものと見なされている{{Sfn|Brownlow|2010|p=30}}。映画史家のフィリップ・ケンプは、そのスタイルを「巧みでバレエのようにフィジカルなコメディと、よく考えられたシチュエーション・コメディ」を組み合わせたものと考えている{{Sfn|Kemp|2011|p=63}}。チャップリンはギャグのテンポを遅くし、シーンからシーンへ素早く移動するのではなく、各シーンで可能な限りのギャグを使い尽くしてから次のシーンに移り、感情表現に重きを置く性格喜劇的なタッチにすることで、従来のスラップスティック・コメディとは異なるスタイルを見せた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=151-152}}{{Sfn|Mast|1985|pp=83-92}}。ロビンソンは、チャップリンのギャグは滑稽な出来事自体からではなく、それに対するチャップリンの態度から生み出されていると指摘している。例えば、小さな放浪者が木にぶつかる時、ユーモアは衝突そのものではなく、反射的に帽子をとり木に向かって詫びることから起きている{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=151-152}}。チャップリンの伝記作家ダン・カミンは、チャップリンの他のコメディ・スタイルの重要な特徴として、「風変わりな癖」と「ドタバタの最中での真面目な行動」を指摘している{{Sfn|Kamin|2011|pp=6-7}}。
チャップリンのサイレント映画は通常、小さな放浪者が貧困の中で生活し、しばしば悲惨な目にあうが、必死に努力して[[紳士]]として見られるように振舞う姿が描かれている{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=257}}。小さな放浪者はどんな困難に見舞われても、いつも親切で明るいままである{{Sfn|Kemp|2011|p=63}}{{Sfn|Hansmeyer|1999|p=4}}。大野裕之は、小さな放浪者には「イノセントな性格」があると指摘している{{Sfn|大野|2017|p=120}}。小さな放浪者は権威的な存在に抵抗するが{{Sfn |Dale|2000|p=17}}、大野はこうした特徴から、チャップリンを社会的弱者や大衆を象徴する存在と見なし、そのために大衆観客の共感を得たと指摘している{{Sfn|大野|2017|p=120}}。また、小さな放浪者は冒険や恋を夢見るが、現実で成就することはない{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=189-190}}{{Sfn|大野|2017|pp=205-207}}。いくつかの作品では、小さな放浪者が再び夢を求めて放浪し続けるために、背を向けて一人で去って行く姿がラストシーンで描かれている{{Sfn|大野|2017|pp=205-207}}{{Sfn|Hansmeyer|1999|p=4}}。
{{Quote box|width=30%|align=left|quote=悲劇がかえって笑いの精神を刺激してくれるのである…笑いとは、すなわち反抗精神であるということである。私たちは、自然の威力というものの前に立って、自分の無力ぶりを笑うよりほかにない-笑わなければ気が違ってしまうだろう。|source=チャールズ・チャップリン、悲劇的な題材からコメディを作る理由について{{Sfn|チャップリン|1966|p=352}}}}
[[ペーソス]]の導入は、チャップリン映画のよく知られた特徴である{{Sfn |Dale|2000|pp=9, 19-20}}{{Sfn|Louvish|2010|p=203}}。大野は、チャプリン映画の特色を「笑いだけでなく涙の要素も入れた物語」と指摘している{{Sfn|大野|2005|pp=61-62}}。ルービッシュは、チャップリン映画の感傷性を作る要素として「個人的な失敗、社会の狭窄、経済的損害」を特定している{{Sfn|Louvish|2010|p=204}}。『担へ銃』『黄金狂時代』などでは、悲劇的な状況を題材にコメディを作っている{{Sfnm|1a1=ロビンソン(上)|1y=1993|1p=302|2a1=ロビンソン(下)|2y=1993|2pp=7-8}}。このスタイルの原点となったのは、チャップリンが幼少時代に見た[[屠殺]]場から[[ヒツジ|羊]]が逃げ出したエピソードである。チャップリンは羊が無茶苦茶に走り回り、通りが大騒ぎになる光景を見て笑ってばかりいたが、やがて羊が捕まり屠殺場に連れ戻されると、母に泣きながら「あの羊、みんな殺されるよ!」と訴えた。チャップリンはこのエピソードが喜劇と悲劇を結合する作風の基調になったと述べている{{Sfn|チャップリン|1966|pp=36-38}}。
社会批評は、チャップリン映画の特徴的なテーマである{{Sfn|大野|2017|p=3}}。チャップリンはキャリアの初期から社会的弱者を同情的に描き、貧しい人々の窮状を描いてきた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=319}}。また、『チャップリンの移民』では[[移民]]、『チャップリンの勇敢』では[[麻薬]]中毒、『キッド』では非摘出子を描くなど、社会的に物議を醸す題材を扱うこともあった{{Sfn|Mast|1985|pp=83-92}}。その後、チャップリンは[[経済学]]に強い関心を持ち、その見解を公表する義務を感じるようになると{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=153-156}}、映画に明白な政治的メッセージを取り入れ始めた{{Sfn|Maland|1989|p=159}}。『モダン・タイムス』では過酷な状況にある工場労働者を描き、『独裁者』ではヒトラーと[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]をパロディ化し、[[ナショナリズム]]に反対する演説をラストシーンに挿入した。『殺人狂時代』では戦争と資本主義を批判し、『ニューヨークの王様』では[[マッカーシズム]]を攻撃した{{Sfn|Larcher|2011|pp=62-89}}。
チャップリン映画のいくつかには、自伝的要素が取り入れられている。『キッド』は幼少時代に孤児院に送られた時のトラウマを反映していると考えられている{{Sfn|Weissman|2009|pp=439-445}}。『ライムライト』の主人公は舞台芸人だった両親の人生から多くの要素を取り入れており{{Sfn|Bloom|1982|p=107}}、『ニューヨークの王様』はアメリカを追放された経験が関係している{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=305-308}}。映画に登場するストーリート・シーンは、チャップリンが育ったロンドンのケニントンの街と類似している。チャップリンの伝記作家{{仮リンク|スティーヴン・M・ワイスマン|en|Stephen M. Weissman}}は、チャップリンと精神病を患った母親との関係が、チャップリン映画に登場する[[ヒロイン]]と、彼女たちを救いたいという小さな放浪者の願望に反映されていると指摘している{{Sfn|Weissman|2009|pp=439-445}}。
映画史家の{{仮リンク|ジェラルド・マスト|en|Gerald Mast}}は、チャップリン映画の構造に関して、密接に順序付けられたストーリーではなく、同じテーマと設定で結び付けられたスケッチで構成されていると見なしている{{Sfn|Mast|1985|pp=123-128}}。視覚的にはシンプルで、固定カメラで撮影したシーンが多く、その映像は舞台上で演じているように見えた{{Sfn|Mast|1985|pp=83-92}}{{Sfn|Epstein|1988|pp=84-85}}{{Sfn|Louvish|2010|pp=185, 298}}。『ライムライト』の美術監督{{仮リンク|ウジェーヌ・ルーリエ|en|Eugène Lourié}}によると、チャップリンは撮影時に芸術的な映像を作ることは考えず、カメラに俳優の演技を収めることを第一に考えていたという{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=280}}。チャップリンは自伝で「単純なアプローチ、それが結局いちばんよい…特別な技法はただ演出のスピード感をなくすだけで、退屈で、しかも不愉快である。カメラ操作はもっぱら俳優の動きを楽にするような演出に基づいて決定される…カメラがのさばり出してはいけない」と述べている{{Sfn|チャップリン|1966|p=290}}。こうしたアプローチは、1940年代以降に時代遅れであると批判された{{Sfn|Louvish|2010|pp=185, 298}}{{Sfn|Brownlow|2010|p=91}}{{Sfn|Kamin|2011|p=35}}。映画学者のドナルド・マカフリーは、それはチャップリンが[[メディア (媒体)|メディア]]としての映画を完全に理解していなかったことを示していると考えているが{{Sfn|McCaffrey|1971|pp=82-95}}、カミンはチャップリンが「映画的なシーンを考案し、演出する才能」を持っていたら、スクリーン上で十分に笑わせることはできなかっただろうと述べている{{Sfn|Kamin|2011|p=29}}。
=== 音楽 ===
[[ファイル:Charlie Chaplin playing the cello 1915.jpg|170px|right|thumb|[[チェロ]]を弾くチャップリン(1915年)。]]
チャップリンは子供の頃から音楽を学び、[[チェロ]]や[[バイオリン]]を猛練習したり、[[ピアノ]]で即興演奏をしたりした{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=98-100}}{{Sfn|大野|2005|p=184}}。1916年にはチャップリン音楽会社を設立し、自分で作曲した3つの曲を出版した。1925年にも自作の曲を2つ出版し、{{仮リンク|エイブ・ライマン|en|Abe Lyman}}の[[オーケストラ]]でレコーディングした{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=98-100}}。そんなチャップリンはサイレント期から[[映画音楽]]の重要性を口にし{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=63-65}}、『キッド』以降は伴奏音楽を指示した[[キューシート]]を付けて配給した{{Sfn|大野|2005|p=184}}。トーキーが出現すると、チャップリンは『街の灯』からのすべての作品で、自ら映画音楽を作曲した{{Sfn|大野|2005|p=184}}。1950年代以降にいくつかのサイレント映画を再公開した時も、自分で作曲した伴奏音楽を付けている{{Sfn|Maland|1989|p=326}}。
チャップリンは正式な音楽教育を受けていたわけではないため、楽譜を読むことができず、スコアを作る時は[[デイヴィッド・ラクシン]]、{{仮リンク|レイモンド・ラッシュ|en|Raymond Rasch}}、エリック・ジェイムズなどのプロの作曲家の助けを必要とした。一部の批評家は、チャップリンの映画音楽の功績は一緒に働いた作曲家に与えられるべきだと主張したが、ラクシンはチャップリンの創造的な立場と作曲過程における大きな貢献を強調した{{Sfn|Raksin|Berg|1979|pp=47-50}}。チャップリンの作曲は、思いついたメロディをピアノで弾いたりハミングしたりして、それを作曲家が譜面に書き取るという形で進められ、満足するメロディになるまで何度もやり直しをした{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=169-170, 209}}。チャップリンは作曲家に自分が求めるものを正確に説明したが{{Sfn|Raksin|Berg|1979|pp=47-50}}、その際に「ここは[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]風でいこう」というように、作曲家の名前を挙げて表現することが多かった{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=169-170, 209}}。
チャップリンは自らの作曲作品から、3つの人気曲を生み出した。『モダン・タイムス』のために作曲した「[[スマイル (チャールズ・チャップリンの曲)|スマイル]]」は、[[1954年]]に作詞家の{{仮リンク|ジョン・ターナー (作詞家)|label=ジョン・ターナー|en|John Turner (lyricist)}}と{{仮リンク|ジェフリー・パーソンズ|en|Geoffrey Parsons (lyricist)}}により歌詞が付けられ、[[ナット・キング・コール]]の歌唱でヒットした<ref name="vance">Vance, Jeffrey (4 August 2003). "Chaplin the Composer: An Excerpt from Chaplin: Genius of the Cinema". ''Variety'' Special Advertising Supplement, pp. 20–21.</ref>。『ライムライト』のために作曲した「テリーのテーマ」は、{{仮リンク|ジミー・ヤング|en|Jimmy Young (broadcaster)}}により「[[エターナリー (チャールズ・チャップリンの曲)|エターナリー]]」のタイトルで広まった{{Sfn|Kamin|2011|p=198}}。そして『伯爵夫人』のために作曲し、[[ペトゥラ・クラーク]]が歌った劇中歌「''[[:en: This Is My Song (1967 song)|This Is My Song]]''」は、イギリスのシングルチャートで1位を獲得した{{Sfn|大野|2017|p=336}}。また、チャップリンは[[1973年]]に再公開された『ライムライト』で、[[第45回アカデミー賞]]の[[アカデミー作曲賞|作曲賞]]を受賞した<ref name="vance"/>{{Refnest|group="注"|『ライムライト』は1952年に公開されたが、ロサンゼルスではボイコットのため1週間以上公開されなかったため、1972年に再公開されるまでアカデミー賞のノミネート基準を満たしていなかった<ref>{{cite news|last=Weston |first=Jay |title=Charlie Chaplin's Limelight at the Academy After 60 Years |url=https://www.huffingtonpost.com/jay-weston/charlie-chaplin-limelight_b_1938236.html |work=HuffPost |date=10 April 2012 |accessdate=2 February 2013 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130513093513/http://www.huffingtonpost.com/jay-weston/charlie-chaplin-limelight_b_1938236.html |archivedate=13 May 2013 }}</ref>。}}。
== 評価と影響 ==
[[File:The Tramp Essanay.jpg|thumb|140px|小さな放浪者に扮したチャップリン(1915年)。]]
[[1998年]]にアンドリュー・サリスは、チャップリンを「おそらく映画が生み出した最も重要な芸術家であり、間違いなく優れたパフォーマーであり、そしておそらく最も普遍的なアイコンである」と呼んだ{{Sfn|Sarris|1998|p=139}}。チャップリンは英国映画協会に「世界文化の中でそびえ立つ人物」と評され<ref>{{cite web|url=http://chaplin.bfi.org.uk/ |title=Charlie Chaplin |publisher=British Film Institute |accessdate=7 October 2012 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120622161153/http://chaplin.bfi.org.uk/ |archivedate=22 June 2012}}</ref>、[[タイム (雑誌)|タイム]]誌の「{{仮リンク|20世紀の最も影響力のある100人|en|Time 100: The Most Important People of the Century}}」のリストに「何百万人もの人々に笑いをもたらし」「多かれ少なかれ世界的な名声を作り、映画を芸術に変えるのを助けた」として選出された<ref>{{cite web|title=TIME 100: Charlie Chaplin|url= http://www.time.com/time/time100/artists/profile/chaplin.html|archiveurl= https://web.archive.org/web/20110523194732/http://www.time.com/time/time100/artists/profile/chaplin.html|archivedate=23 May 2011|work=Time Magazine|first=Joshua|last=Quittner|date=8 June 1998|accessdate=11 November 2013}}</ref>。[[1999年]]に[[アメリカン・フィルム・インスティチュート]]が発表した「[[映画スターベスト100]]」では、男優部門の10位に選ばれた<ref>{{Cite web |url=https://www.afi.com/afis-100-years-100-stars/ |title=AFI's 100 YEARS...100 STARS |website=AFI |language=英語 |accessdate=2021年2月3日}}</ref>。
チャップリンが演じた小さな放浪者のイメージは、[[文化史]]の一部となっている{{Sfn|Hansmeyer|1999|p=3}}。サイモン・ルービッシュは、このキャラクターがチャップリンの映画を見たことがない人や、その映画が上映されていない地域でも認知されているとしている{{Sfn|Louvish|2010|p=xvii}}。映画批評家の{{仮リンク|レオナルド・モルティン|en|Leonard Maltin}}は、チャップリンの世界的影響に匹敵するコメディアンはいないと主張した<ref>{{cite news |url=http://blogs.indiewire.com/leonardmaltin/chaplinfirst_last_and_always |title=Chaplin – First, Last, And Always |work=Indiewire |accessdate=7 October 2012 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130525165601/http://blogs.indiewire.com/leonardmaltin/chaplinfirst_last_and_always |archivedate=25 May 2013 }}</ref>。映画批評家の{{仮リンク|リチャード・シッケル|en|Richard Schickel}}は、チャップリンの小さな放浪者の映画には、映画史上最も「説得力のある豊かなコメディ表現」があると述べている{{Sfn|Schickel|2006|p=41}}。キャラクターに関するメモラビリアは、[[オークション]]で高値で落札されている。[[2006年]]にロサンゼルスで行われたオークションでは、衣装のひとつである山高帽と竹のステッキが14万ドルで落札された<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/5116474.stm |title=Record Price for Chaplin Hat Set |publisher=BBC |accessdate=7 October 2012 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120423104143/http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/5116474.stm |archivedate=23 April 2012}}</ref>。
映画監督として、チャップリンはパイオニアと見なされ、20世紀初頭の最も影響力のある監督のひとりと考えられている{{Sfn|Sarris|1998|p=139}}{{Sfn|Hansmeyer|1999|p=3}}{{Sfn|Kemp|2011|pp=8, 22}}{{Sfn|Cousins|2004|p=72}}。また、チャップリンはしばしば最初の映画の芸術家のひとりと認められている{{Sfn|Schickel|2006|pp=3-4}}{{Sfn|Kamin|2011|p=xiv}}{{Sfn|Cousins|2004|p=36}}。映画史家の{{仮リンク|マーク・カズンズ|en|Mark Cousins (filmmaker)}}は、チャップリンが「映画のイメージだけでなく、その社会学と文法も変えた」と指摘し、[[D・W・グリフィス]]がドラマの発展に貢献したのと同じくらいに、チャップリンがコメディの発展に重要な役割を果たしたと主張した{{Sfn|Cousins|2004|p=70}}。チャップリンは長編コメディを普及させ、コメディの動きのペースを遅くし、そこに哀愁と繊細さを加えた最初の人物だった{{Sfn|Schickel|2006|pp=7, 13}}<ref name="silent clowns">{{Cite episode|title=Charlie Chaplin|series=Silent Clowns|credits=Presented by Paul Merton, directed by Tom Cholmondeley|network=British Broadcasting Corporation|station=BBC Four|airdate=1 June 2006}}</ref>。その作品はドタバタ劇に分類されているが、『巴里の女性』は[[エルンスト・ルビッチ]]監督の『[[結婚哲学]]』(1924年)に大きな影響を与え、[[ソフィスティケイテッド・コメディ]]の創始に貢献した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=395, 397-398}}{{Sfn|Thompson|2001|pp=398-399}}。ロビンソンによると、この作品でのチャップリンの革新的スタイルは、すぐに当たり前な映画技法になったという{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=395, 397-398}}。チャップリンはユナイテッド・アーティスツの創設メンバーとして、映画産業の発展にも大きな役割を果たした。ジェラルド・マストは、この会社が[[MGM]]や[[パラマウント映画|パラマウント]]に匹敵する大企業にはならなかったが、監督が独自で映画を作るというアイデアは、時代を何年も先取っていたとしている{{Sfn|Mast|1985|p=100}}。
チャップリンの影響を受けた映画監督には、[[フェデリコ・フェリーニ]](チャップリンを「一種の[[アダム]]、私たちのルーツとなる存在」と呼んだ){{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=359}}、[[ジャック・タチ]](「彼がいなかったら、私は映画を作ってはいなかった」と述べた){{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=359}}、[[ルネ・クレール]]{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=357-358}}、[[マイケル・パウエル (映画監督)|マイケル・パウエル]]{{Sfn|Brownlow|2010|p=77}}、[[ビリー・ワイルダー]]<ref name="story of film">{{Cite episode|title=Episode 2 - The Hollywood Dream |series=[[:en:The Story of Film: An Odyssey|The Story of Film: An Odyssey]] |credits=Mark Cousins |network=[[Channel 4]]|station=More4|airdate=10 September 2011|time=27:51–28:35}}</ref>、[[ヴィットリオ・デ・シーカ]]<ref>{{cite book|last=Cardullo|first=Bert|title=Vittorio De Sica: Actor, Director, Auteur|year=2009|publisher=Cambridge Scholars Publishing|location=Cambridge|pages=16, 212}}</ref>、[[リチャード・アッテンボロー]]<ref>{{cite web|title=Attenborough Introduction |url=http://chaplin.bfi.org.uk/programme/attenborough.html |work=Charlie Chaplin |publisher=British Film Institute |accessdate=11 February 2013 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131105202221/http://chaplin.bfi.org.uk/programme/attenborough.html |archivedate=5 November 2013}}</ref>がいる。ロシアの映画監督[[アンドレイ・タルコフスキー]]は、チャップリンを「疑いの余地なしに映画史を作った唯一の人物で、彼の映画は決して古くなることはない」と賞賛した<ref>{{Cite journal |title=Tarkovsky's Choice |author=Lasica, Tom |journal=Sight & Sound |date=March 1993 |volume=3 |issue=3 |url=http://people.ucalgary.ca/~tstronds/nostalghia.com/TheTopics/Tarkovsky-TopTen.html |accessdate=1 February 2014 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140214101036/http://people.ucalgary.ca/~tstronds/nostalghia.com/TheTopics/Tarkovsky-TopTen.html |archivedate=2014年2月14日}}</ref>。また、チャップリンは後続のコメディアンにも影響を与えた。[[マルセル・マルソー]]はチャップリンを見てパントマイム・アーティストを志し<ref name="silent clowns"/>、[[インド]]の俳優[[ラージ・カプール]]は『{{仮リンク|放浪者 (映画)|label=放浪者|en|Awaara}}』(1951年)などでチャップリンを元にした放浪者のキャラクターを演じた<ref name="story of film"/>。マーク・カズンズは、イタリアの喜劇俳優[[トト (俳優)|トト]]がチャップリンのコメディ・スタイルの影響を受けていると指摘した<ref name="story of film"/>。他の分野では、[[フィリックス・ザ・キャット]]や[[ミッキー・マウス]]などの漫画のキャラクター<ref>{{cite book|last=Canemaker|first=John |title=Felix: The Twisted Tale of the World's Most Famous Cat |year=1996 |publisher=Da Capo Press|location=Cambridge, MA|pages=38, 78}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Jackson|first=Kathy Merlock|title= Mickey and the Tramp: Walt Disney's Debt to Charlie Chaplin |journal=The Journal of American Culture|volume=26|issue=1|pages=439-444|year=2003}}</ref>、芸術運動の[[ダダイスム]]に影響を与えた{{Sfn|Simmons|2001|pp=3-34}}。
== レガシー ==
[[ファイル:Vevey Chaplin.jpg|right|170px|thumb|[[スイス]]の[[ヴェヴェイ]]にあるチャップリンの銅像。]]
チャップリンが晩年の25年間を過ごした、スイスのコルシエ=シュル=ヴヴェイにある邸宅マノワール・ド・バンは、チャップリンの生涯と作品を展示する博物館「{{仮リンク|チャップリン・ワールド|en|Manoir de Ban#Chaplin's World museum}}」に改装され、[[2016年]]4月にオープンした<ref>{{Cite news|last1=Poullain-Majchrzak, Ania|title=Chaplin's World museum opens its doors in Switzerland|url=http://uk.reuters.com/article/us-chaplin-museum-idUKKCN0XF212|work=Reuters|date=18 April 2016}}</ref>。[[ヴヴェイ]]の町はチャップリンに敬意を表して、[[1980年]]にその名前に因んだ庭園を開園し{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=462-463}}、[[2011年]]には二つのビルにチャップリンを描いた大きな壁画を発表した<ref>{{cite web|url=http://www.rts.ch/info/suisse/3490412-vevey-les-tours-chaplin-ont-ete-inaugurees.html |title=Vevey: Les Tours "Chaplin" Ont Été Inaugurées |date=8 October 2011 |publisher=RTS.ch |accessdate=22 July 2012 |urlstatus=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121028101229/http://www.rts.ch/info/suisse/3490412-vevey-les-tours-chaplin-ont-ete-inaugurees.html|archivedate=28 October 2012}}</ref>。ロンドンでは、[[1981年]]に彫刻家{{仮リンク|ジョン・ダブルディ|en|John Doubleday}}作のチャップリンの銅像が[[レスター・スクウェア]]に設置された{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=462-463}}。ロンドンや[[ハンプシャー]]、[[ヨークシャー]]には、チャップリンを記念する9つの[[ブルー・プラーク]]が設置されている<ref>{{Cite web|title=Charlie Chaplin|url=http://www.blueplaqueplaces.co.uk/subject/sir-charlie-chaplin-2190|website=Blue Plaque Places|accessdate=20 July 2017|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180501143558/http://www.blueplaqueplaces.co.uk/subject/sir-charlie-chaplin-2190|archivedate=1 May 2018|url-status=dead}}</ref>。1960年代にチャップリンが家族と夏を過ごした[[アイルランド]]の{{仮リンク|ウォータービル|en|Waterville, County Kerry}}では、[[2011年]]からチャップリンの人生と仕事を称えるために「チャーリー・チャップリン・コメディ映画祭」を開催している<ref>{{Cite web |url=http://chaplinfilmfestival.com/ |title=Chaplin Film Festival |website=ChaplinFilmFestival.Com |language=英語 |accessdate=2021年1月28日}}</ref>。
また、[[1981年]]に[[ソビエト連邦]]の天文学者[[リュドミーラ・カラチキナ]]が発見した[[小惑星]](3623) Chaplinは、チャップリンに因んで命名された<ref>{{Cite book|last=Schmadel |first=Lutz D |year=2003 |title=Dictionary of Minor Planet Names |edition=5 |publisher=Springer Verlag |location=New York |page=305}}</ref>。1980年代に[[IBM]]は、小さな放浪者のキャラクターを[[パーソナルコンピュータ]]の広告で使用した{{Sfn|Maland|1989|pp=362-370}}。2011年4月15日には、[[Google]]がチャップリンの生誕122周年を祝して[[Google Doodle]]を作成し、多くの国のホームページに掲載した<ref>{{Cite web|title=Google Doodles a Video Honouring Charlie Chaplin |url=http://www.news18.com/news/india/google-doodles-a-video-honouring-charlie-chaplin-366297.html |publisher=CNN-News18 |date=15 April 2011 |accessdate=15 April 2011 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160509104424/http://www.news18.com/news/india/google-doodles-a-video-honouring-charlie-chaplin-366297.html |archivedate= 9 May 2016}}</ref>。六大陸にわたる多くの国では、チャップリンを記念した[[郵便切手]]が発行された<ref>{{Cite web|title=Charlie Chaplin Stamps |url=http://chaplinstamps.blogspot.co.uk/ |publisher=Blogger |accessdate=8 February 2013 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131102193256/http://chaplinstamps.blogspot.co.uk/ |archivedate=2 November 2013}}</ref>。
チャップリンが遺した著作物や資料は、彼の子供たちがパリに設立したチャップリン・オフィス/チャップリン協会により管理されている<ref>{{Cite web |url=http://www.charliechaplinarchive.org/en/about/chi-siamo/chaplin-office-association-chaplin |title=Chaplin Office / Association Chaplin |website=Charlie Chaplin Archive |language=英語 |accessdate=2021年1月28日}}</ref><ref name="Archive">{{Cite web |url=http://chaplin.bfi.org.uk/resources/worldwide/chaplin-archive.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120710003742/http://chaplin.bfi.org.uk/resources/worldwide/chaplin-archive.html |archivedate=2012-7-10 |title=Chaplin Archive |website=Charlie Chaplin |work=BFI |language=英語 |accessdate=2021年1月28日}}</ref>。この事務所は、1918年以降のほとんどの映画の[[著作権]]を保有するRoy Export SASと、チャップリンとキャラクターの名前やイメージに対する[[商標権]]を保有するBubbles Incorporated SAを代表している<ref>{{Cite web |url=https://www.charliechaplin.com/en/articles/130-The-Chaplin-Office |title=The Chaplin Office |website=charliechaplin.com |language=英語 |accessdate=2021年1月28日}}</ref>。チャップリンの膨大な文書や写真などのアーカイブは、スイスの[[モントルー]]公文書館に保管されている<ref name="Archive"/>。1990年代後半に[[イタリア]]の[[フィルム・アーカイヴ]]の{{仮リンク|チネテカ・ディ・ボローニャ|it|Cineteca di Bologna}}は「チャップリン・プロジェクト」を立ち上げ、チャップリン映画を復元したり、膨大なアーカイブをスキャンしてオンラインで公開したりした<ref>{{Cite web |url=http://www.charliechaplinarchive.org/en/about/chi-siamo/la-fondazione-cineteca-di-bologna |title=Fondazione Cineteca di Bologna |website=Charlie Chaplin Archive |work=Cineteca di Bologna |language=英語 |accessdate=2021年1月28日}}</ref>。[[2002年]]には英国映画協会が「チャップリン研究財団」を設立し{{Sfn|大野|2005|pp=3-4}}、[[2005年]]7月に最初の「チャールズ・チャップリン国際会議」をロンドンで開催した<ref>{{cite web|title=The BFI Charles Chaplin Conference July 2005 |url=http://chaplin.bfi.org.uk/programme/conference/ |work=Charlie Chaplin |publisher=British Film Institute |accessdate=11 February 2013 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131105205524/http://chaplin.bfi.org.uk/programme/conference/ |archivedate= 5 November 2013}}</ref>。
== チャップリンと日本 ==
=== 受容 ===
[[ファイル:Katsudo-kyo jidai 1926.jpg|thumb|180px|[[曾根純三]]監督の『活動狂時代』(1926年)では、[[柳妻麗三郎]]と[[松尾文人]]がチャップリンを真似る大道芸人を演じた{{Sfn|山本|1983|pp=309-310}}。]]
チャップリンが日本の映画雑誌で初めて紹介されたのは、『キネマ・レコード』の[[1914年]]7月号である。その記事でチャップリンは、特異な扮装と滑稽な歩き方から「変凹君(へんぺこくん)」と名付けられていた{{Sfn|大野|2017|p=226}}。同年から日本でチャップリン映画が公開され、すぐに高い人気を集めるようになり、当時は酔いどれ役のイメージから「アルコール先生」という愛称で呼ばれた{{Sfn|大野|2017|p=226}}{{Sfn|山本|1983|pp=302-303}}。[[1916年]]から出演作は『チャップリンの~』の邦題で封切られ{{Sfn|山本|1983|pp=302-303}}、正月とお盆にはチャップリンを中心に短編喜劇を集めた「[[ニコニコ大会]]」という上映会が日本各地で始まり、人気を不動のものとした{{Sfn|大野|2017|pp=227-228}}<ref name="活弁時代">{{Cite book|和書 |author=御園京平 |date=1990-3 |title=活辨時代 |publisher=岩波書店 |pages=54-58}}</ref>。その人気ぶりに注目した映画会社の[[日活]]は、[[1917年]]に同社としては破格の金額でミューチュアル社と契約を結び、チャップリン映画の日本興行権を獲得した<ref>{{Cite book|和書 |author=[[田中純一郎]] |date=1975-12 |title=[[日本映画発達史|日本映画発達史Ⅰ 活動写真時代]] |publisher=[[中央公論社]] |page=265}}</ref>。チャップリン映画を得意とする[[活動弁士]]も現れ、その中でも[[大蔵貢]]はチャップリンの扮装をして映画説明をしたことから「チャップリン弁士」と呼ばれた<ref name="活弁時代"/>。
笑いと涙を融合したチャップリン映画は、日本の大衆観客から人情喜劇として高い支持を受けた{{Sfn|大野|2009|pp=126-127}}{{Sfn|山本|1983|pp=305-307}}。大野裕之は当時の封切チラシから、日本人がチャップリン映画の中に「情」や「悲しみ」の要素を多く見出していると指摘している{{Sfn|大野|2009|pp=126-127}}。それと同時にチャップリン映画の芸術性の高さも指摘され、インテリ層からも芸術家として支持された{{Sfn|大野|2009|pp=126-127}}。[[キネマ旬報ベスト・テン]]では、[[1924年]]に『巴里の女性』が「芸術的に最も優れた映画」の1位に選ばれ、その後も『黄金狂時代』『殺人狂時代』『独裁者』が「外国映画ベスト・テン」の1位に選ばれた<ref>{{Cite book|和書 |date=2012-5 |title=キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011 |publisher=キネマ旬報社 |page=6, 11, 97, 171頁}}</ref>。しかし、1920年代に[[左翼]]運動が高まる時代に入ると、社会風刺の強いチャップリンのイメージは変化し、危険なコメディアンという扱いを受けるようになった{{Sfn|千葉|2017|pp=33-35}}。[[芥川龍之介]]はチャップリンを[[社会主義者]]と見なし、[[甘粕事件]]を引き合いに出して「もし社会主義者を迫害するとすれば、チャップリンもまた迫害しなければならない」と述べている<ref>{{Cite web |author=[[芥川龍之介]] |url=https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/3745_27318.html |title=澄江堂雑記 |website=[[青空文庫]] |accessdate=2020年12月5日}}</ref>。
戦前に日本公開されたチャップリン映画は『モダン・タイムス』(1938年公開)が最後となり{{Sfn|千葉|2017|p=193}}、『独裁者』は完成当時に[[日独伊三国同盟]]を結んでいたため輸入されず、それから20年後の[[1960年]]に初公開されると大ヒットした{{Sfn|大野|2009|p=315}}。[[1972年]]には[[東宝東和]]が「ビバ! チャップリン」と題したリバイバル上映を行い、若者を中心に高い支持を集めた{{Sfn|大野|2009|p=325}}。没後もリバイバル上映が行われ、[[2003年]]には[[日本ヘラルド映画]]により「Love Chaplin! チャップリン映画祭」と題して代表作12本が上映され{{Sfn|大野|2005|pp=3-4}}、[[2012年]]には「チャップリン・ザ・ルーツ」と題して初期作品63本の[[デジタルリマスター]]版が上映された<ref>{{Cite web |url=http://elevenarts-japan.net/chaplin.html |title=チャップリン・ザ・ルーツ 傑作短編集・完全デジタルリマスター |accessdate=2020年12月5日}}</ref>。[[2006年]]には日本チャップリン協会が設立され、日本国内での上映会やシンポジウムなどの活動が行われている<ref>{{Cite web |url=http://www.chaplinjapan.com/index.html |title=日本チャップリン協会について |website=日本チャップリン協会 |accessdate=2021年1月28日}}</ref>。
チャップリンは日本の作品や人物にも影響を与えている。チャップリンの模倣者や翻案作品は、[[大正時代]]から数多く登場している。その最初は『[[成金 (1921年の映画)|成金]]』(1921年)で、主演の[[中島好洋]]は自らを「日本チャップリン」と称した{{Sfn|山本|1983|p=309}}。日活の俳優の[[御子柴杜雄]]は、『娘やるなら学士様へ』『夢泥棒』(1926年)でチャップリンの扮装を真似した{{Sfn|山本|1983|pp=309-310}}。『キッド』は[[野村芳亭]]監督の『地獄船』(1922年)で翻案されたのをはじめ、『小さき者の楽園』(1924年)や『父』(1929年)など多くの影響作品を生み{{Sfn|山本|1983|pp=241-242}}、『街の灯』は[[木村錦花]]脚色で『蝙蝠の安さん』(1931年)として[[歌舞伎]]化された{{Sfn|大野|2017|p=230}}。喜劇映画監督の[[斎藤寅次郎]]は、チャップリンをパロディ化した『チャップリンよなぜ泣くか』(1932年)を作り、主演の[[小倉繁]]は「和製チャップリン」と呼ばれた<ref>{{Cite book|和書 |author=[[斎藤寅次郎]] |date=2005-7 |title=日本の喜劇王 斎藤寅次郎自伝 |publisher=清流出版 |page=313}}</ref>。漫画家の[[手塚治虫]]とお笑い芸人の[[太田光]]は、チャップリン映画から影響を受けていることを明らかにしている<ref>{{Cite book|和書 |author=[[石子順]] |date=2007 |title=平和の探求・手塚治虫の原点 |publisher=新日本出版社 |page=47}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-24577820070205 |date=2007-4-27 |title=爆笑問題の太田さん「チャップリンのように影響を与えたい」 |website=Reuters |accessdate=2021年2月7日}}</ref>。また、漫才師の[[日本チャップリン・梅廼家ウグイス]]、声優の[[茶風林]]のように、チャップリンに因んだ芸名を付けた芸能人もいる{{Sfn|大野|2017|pp=227-228}}<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E8%8C%B6%E9%A2%A8%E6%9E%97-191818 |title=知恵蔵mini「茶風林」の項目 |website=コトバンク |accessdate=2021年2月7日}}</ref>。
=== 日本人の使用人 ===
チャップリンは自宅の使用人に、何人もの日本人を雇い入れていた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=240}}。とくに知られているのが、1916年に運転手として雇われた[[高野虎市]]である。チャップリンは高野の誠実な仕事ぶりを評価し、やがて運転手だけでなく経理を含めた個人秘書の役割も任せるようになった{{Sfn|大野|2017|pp=222-223}}{{Sfn|大野|2009|p=97}}。高野に厚い信頼を寄せたチャップリンは、彼の仕事ぶりから日本人の使用人を好むようになり、何人もの日本人を次々に雇い入れた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=240}}。例えば、[[ハワイ]]出身の[[二世 (日系人)|日系二世]]のフランク・ヨネモリやヒロサワ、運転手のヤマモトである{{Sfn|大野|2009|pp=132-133}}。1926年頃にはチャップリン家の使用人は全員日本人となり、当時の妻のリタ・グレイは「日本人のなかで暮らしているようだった」と回想している{{Sfn|大野|2017|pp=222-223}}。1934年に高野はポーレット・ゴダードと衝突したため辞任し、フランク・ヨネモリが秘書に昇格した{{Sfn|大野|2009|p=205}}。しかし、1941年12月の[[真珠湾攻撃]]でアメリカが[[第二次世界大戦]]に参戦すると、日本人の使用人は[[日系人の強制収容#強制収容所|強制収容所]]に収容された。そのためチャップリンは新たにイギリス人の使用人を雇い入れたが、日本人の迅速で能率的な仕事ぶりに慣れていたため、イギリス人の仕事ぶりはうんざりするほどのろく感じたという{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=221-222}}。
=== 4度の来日 ===
{{multiple image |align=right |direction=vertical |width=220 |image1=Charles Chaplin and Sumo wrestlers.jpg |caption1=[[1932年]]の初来日時に力士たちと記念写真を撮るチャップリン一行。左から[[清水川元吉|清水川]]、シドニー、[[武藏山武|武蔵山]]、チャップリン、[[高野虎市]]、[[玉錦三右エ門|玉錦]]。 |image2=Visited the family and Ukai sightseeing Chaplin.jpg |caption2=[[1961年]]に家族と鵜飼見物に訪れ、鵜匠と記念写真を撮るチャップリン(右端)。}}
チャップリンは[[小泉八雲]]の書物を読んで以来、日本に興味を持ち、生涯で4回来日した{{Sfn|大野|2005|pp=105-106}}。初来日したのは[[1932年]]5月であるが、この時にチャップリンは[[犬養毅]]首相が暗殺された[[五・一五事件]]に遭遇した{{Sfn|大野|2017|pp=213-215}}。首謀者の[[大日本帝国海軍|海軍]]青年将校は、当初チャップリンの暗殺も計画していた{{Sfn|大野|2017|pp=213-215}}{{Sfn|千葉|2017|pp=73-74}}。来日前の4月に青年将校は、チャップリンの入京翌日に首相官邸で歓迎会が行われることを新聞報道で知り、その歓迎会を襲撃する計画を立てた{{Sfn|大野|2017|pp=213-215}}。首謀者のひとりの[[古賀清志]]は、歓迎会を襲撃すれば「日米関係を困難にして人心の動揺をおこし、その後の革命進展を速やかにすることができる」と裁判で証言している{{Sfn|千葉|2017|pp=73-74}}。彼らは5月15日を決行日にしたが、チャップリンが滞在先のシンガポールで熱病に罹り、少なくとも5月16日以降に日本に到着することが判明したため、チャップリンを襲撃する計画は流れた{{Sfn|大野|2017|pp=213-215}}。ところが、チャップリンは予定よりも早い5月14日に到着することになり、再び暗殺の標的に自ら飛び込む危険が生まれた{{Sfn|千葉|2017|pp=81-82}}。
5月14日、チャップリンはシドニー夫妻と[[神戸港]]に到着し、数万人の人々に出迎えられた{{Sfn|大野|2009|pp=179-180}}。一行は東京に向かったが、[[東京駅]]では4万人もの群衆が押し寄せ、翌日に[[東京日日新聞]]はその混乱ぶりを「[[関東大震災]]当時の避難民の喧騒と怒号」のようだと報じた{{Sfn|大野|2009|pp=183-184}}。チャップリンは宿泊先の[[帝国ホテル]]に向かう途中、同行した高野に頼まれて[[皇居]]に遥拝した。これは[[軍国主義]]が台頭していた日本で、チャップリンの身の安全を守るために高野が考えた演出だった{{Sfn|大野|2009|pp=185-187}}。翌5月15日、チャップリンは当日に行われる[[首相官邸]]での歓迎会に出席することを承諾したが、突然予定を延期して[[両国国技館]]で相撲見物に出かけた。その夕方に犬養は首相官邸で暗殺され、チャップリンは事なきを得た{{Sfn|大野|2017|pp=213-215}}。チャップリンは身の危険を感じて帰国することも考えたが、結局6月2日まで日本に滞在した{{Sfn|千葉|2017|pp=101, 149}}。日本の伝統文化を好んだチャップリンは、[[歌舞伎]]や[[人形浄瑠璃]]などの古典芸能を鑑賞したり、[[上野]]の美術館で[[浮世絵]]を楽しんだりして過ごした{{Sfn|大野|2009|pp=196-197}}。また、チャップリンは滞在中に何度も[[天ぷら]]を食し、一度に海老の天ぷらを30本も平らげたため、新聞では「天ぷら男」とあだ名された{{Sfn|大野|2009|pp=196-197}}{{Sfn|千葉|2017|pp=101-102, 116, 138, 144}}。チャップリンは初来日の感想について、自伝で「もちろん日本の思い出が、すべて怪事件と不安ばかりだったわけではない。むしろ全体としては、非常に楽しかったと言ってよい」と述べている{{Sfn|チャップリン|1966|p=439}}。
[[1936年]]3月6日、チャップリンはゴダードとアジア旅行の途中、乗船したクーリッジ号が[[神戸港]]に停泊した一日半を利用して再来日した{{Sfn|千葉|2017|pp=173-183}}。その後、2ヶ月半ほどアジア諸国を旅行したあと、5月16日に三度目の来日を果たし、[[京都市|京都]]観光や[[岐阜市|岐阜]]の[[鵜飼]]を見物したりして6日間滞在した{{Sfn|千葉|2017|pp=184-192}}。[[1961年]]7月にはウーナと息子のマイケルを連れて、最後の来日を果たした{{Sfn|大野|2009|pp=315-318}}。美しい日本の姿を求めていたチャップリンは、[[高度経済成長]]で近代化された東京の風景に失望し、再び鵜飼を鑑賞した時も、その大きく変化した光景に落胆した{{Sfn|大野|2009|pp=315-318}}{{Sfn|千葉|2017|pp=232-234}}。しかし、京都を訪れると、古き良き日本の風景が残っているのを見て安心し、宿泊先から雨が降る東山の景色を見て「浮世絵のようだ」と感嘆したり、[[龍安寺]]ではお茶を点てる女性の動きを見て「まるでバレエだ」と表現したりして楽しんだ{{Sfn|大野|2009|pp=315-318}}。京都見物の途中に[[銭湯]]に急遽立ち寄った時には、居合わせた人々にビールを振舞った{{Sfn|千葉|2017|p=236}}。
== フィルモグラフィー ==
{{Main|チャールズ・チャップリンの映画作品一覧}}
チャップリンが出演・監督した公式映画は82本存在す
'''監督した長編映画'''
* [[キッド (1921年の映画)|キッド]](1921年)
* [[巴里の女性]](1923年)
* [[黄金狂時代]](1925年)
* [[サーカス (映画)|サーカス]](1928年)
* [[街の灯]](1931年)
* [[モダン・タイムス]](1936年)
* [[独裁者 (映画)|独裁者]](1940年)
* [[殺人狂時代 (1947年の映画)|殺人狂時代]](1947年)
* [[ライムライト (映画)|ライムライト]](1952年)
* [[ニューヨークの王様]](1957年)
* [[伯爵夫人 (映画)|伯爵夫人]](1967年)
== 受賞 ==
[[File:Charlie Chaplin walk of fame.jpg|thumb|180px|[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]にあるチャップリンの星。]]
チャップリンは生涯に多くの賞と栄誉を受けた。[[1962年]]に[[オックスフォード大学]]と[[ダラム大学]]から[[名誉博士号]]を与えられ、[[1965年]]には[[イングマール・ベルイマン]]とともに[[エラスムス賞]]を受賞した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=460-461}}。[[1971年]]にはフランス政府から[[レジオンドヌール勲章]]のコマンドゥールの称号を授けられ{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=346-348}}、[[1975年]]には[[エリザベス2世]]から[[大英帝国勲章]]の{{仮リンク|ナイト・コマンダー|en|Commander (order)#United Kingdom}}(KBE)の称号を与えられた<ref name="Gazette19741231"/>。映画業界からは、1971年の[[第25回カンヌ国際映画祭]]でチャップリンの全作品に対して特別賞が贈られ{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=346-348}}、[[1972年]]の[[ヴェネツィア国際映画祭]]では[[栄誉金獅子賞]]を受賞した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=351-352}}。同年に[[リンカーン・センター映画協会]]から生涯功労賞を受賞し、同賞はそれ以来「チャップリン賞」の名称で毎年映画人に贈られている<ref>{{cite web|url= http://www.filmlinc.com/blog/entry/the-birth-of-the-chaplin-award| title=40 Years Ago – The Birth of the Chaplin Award |publisher=Lincoln Center Film Society |date=30 March 2012 |author=E. Segal, Martin |accessdate=25 June 2012 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120502165257/http://www.filmlinc.com/blog/entry/the-birth-of-the-chaplin-award |archivedate=2 May 2012}}</ref>。また、1972年に[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]で星を獲得したが、それまではチャップリンの政治的問題のために除外されていた{{Sfn|Williams|2006|p=311}}。
以下の表は、チャップリンが受賞した、もしくはノミネートされた映画賞(作品自体に与えられた賞を含む)の一覧である。
{| class="sortable wikitable" style="font-size:small"
|+チャールズ・チャップリンの主な映画賞の受賞とノミネートの一覧
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! 賞 !! 年 !! 部門 !! 作品名 !! 結果 !! 出典
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!rowspan="7" style="text-align:
|[[第1回アカデミー賞|1929年]]||[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]||『[[サーカス (映画)|サーカス]]』||{{won}}||{{Sfn|大野|2017|pp=180-183}}
|-
|rowspan="3"|[[第13回アカデミー賞|
|-
|[[アカデミー主演男優賞|主演男優賞]]||{{nom}}
337 ⟶ 334行目:
|[[アカデミー脚本賞|脚本賞]]||{{nom}}
|-
|[[第20回アカデミー賞|
|-
|[[第44回アカデミー賞|
|-
|[[第45回アカデミー賞|
|-
!rowspan="
|[[第6回ニューヨーク映画批評家協会賞|1940年]]||[[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演男優賞|主演男優賞]]||『独裁者』||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.nyfcc.com/awards/?awardyear=1940 |title=1940 Awards |website=New York Film Critics Circle |language=英語 |accessdate=2020年1月23日}}</ref>
|-
|rowspan="2"|[[第18回ニューヨーク映画批評家協会賞|1952年]]||
|-
|主演男優賞||{{nom}}
|-
|[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 (1940年)|1940年]]||演技賞||『独裁者』||{{won}}||<ref name="imdb"/>
|-
|1947年||[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 作品賞|作品賞]]||『殺人狂時代』||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=https://nationalboardofreview.org/award-years/1947/ |title=1947 Award Winners |website=National Board of Review |language=英語 |accessdate=2021年1月23日}}</ref>
|-
|1949年||{{仮リンク|ボディル賞 アメリカ映画賞|label=アメリカ映画賞|en|Bodil Award for Best American Film }} ||『殺人狂時代』||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=http://www.bodilprisen.dk/priskategorier/amerikanske-film/ |title=amerikanske film |website=Bodilprisen |language=デンマーク語 |accessdate=2021年1月23日}}</ref>
|-
|1959年||{{仮リンク|ボディル賞 名誉賞|label=名誉賞|en|Bodil Honorary Award|}}||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=http://www.bodilprisen.dk/priskategorier/aeres-bodil/ |title=Æres-Bodil |website=Bodilprisen |language=デンマーク語 |accessdate=2021年1月23日}}</ref>
|-
|1952年||外国映画賞||『殺人狂時代』||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1952/ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090207075503/http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1952/ |archivedate=2009/2/7 |title=ブルーリボン賞ヒストリー 第3回 |website=シネマ報知 |accessdate=2021年1月23日}}</ref>
|-
!rowspan="2" style="text-align:
|1953年||[[英国アカデミー賞 作品賞|総合作品賞]]||『ライムライト』||{{nom}}||<ref>{{Cite web |url=http://awards.bafta.org/award/1953/film? |title=Film in 1953 |website=BAFTA Awards |language=英語 |accessdate=2021年1月23日}}</ref>
|-
|1976年||{{仮リンク|アカデミー友愛賞|en|BAFTA Fellowship}}||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=http://awards.bafta.org/award/1976/film/fellowship |title=Film | Fellowship in 1976 |website=BAFTA Awards |language=英語 |accessdate=2021年1月23日}}</ref>
|-
!style="text-align:
|1953年||{{仮リンク|ナストロ・ダルジェント賞 外国監督賞|label=外国監督賞|it|Nastro d'argento al regista del miglior film straniero}}||『ライムライト』||{{won}}||<ref name="imdb"/>
|-
!style="text-align:
|1974年||名誉終身会員賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.dga.org/Awards/History/1970s/1973.aspx?value=1973 |title=26 DGA AWARDS |website=dga.org |language=英語 |accessdate=2021年1月23日}}</ref>
|}
== 家族 ==
[[File:Chaplin family 1961.jpg|thumb|280px|チャップリン(左から4番目)と4番目の妻[[ウーナ・オニール]](チャップリンの右隣り)とその子供たち(左からジェラルディン、ユージン・アンソニー、ヴィクトリア、アネット、ジョゼフィン、マイケル)。]]
{{Main|en:Chaplin family}}
* 父:[[チャールズ・チャップリン・シニア]](1863年 - 1901年、舞台俳優)
* 母:[[ハンナ・チャップリン]](1865年 - 1928年、舞台女優)
* 異父兄:[[シドニー・チャップリン (1885年生)|シドニー・チャップリン]](1885年 - 1965年、俳優)
* 異父弟:[[ウィーラー・ドライデン]](1892年 - 1957年、俳優)
* 最初の妻:[[ミルドレッド・ハリス]](1918年 - 1920年、女優)
** 長男:ノーマン・スペンサー・チャップリン(1919年、生後3日で死去)
* 2番目の妻:[[リタ・グレイ]](1924年 - 1928年、女優)
** 次男:[[チャールズ・チャップリン・ジュニア]](1925年 - 1968年、俳優)
** 三男:[[シドニー・チャップリン (1926年生)|シドニー・アール・チャップリン]](1926年 - 2009年、俳優)
* 3番目の妻:[[ポーレット・ゴダード]](1936年 - 1942年、女優)
* 4番目の妻:[[ウーナ・オニール]](1925年 - 1991年、[[ユージン・オニール]]の娘)
** 長女:[[ジェラルディン・チャップリン]](1944年 - 、女優)
*** 孫:[[ウーナ・チャップリン]](1986年 - 、女優)
** 四男:{{仮リンク|マイケル・チャップリン|en|Michael Chaplin (actor)}}(1946年3月 - 、俳優)
*** 孫:{{仮リンク|ドロレス・チャップリン|fr|Dolores Chaplin}}(1970年 - 、女優)
*** 孫:[[カルメン・チャップリン]](1972年 - 、女優)
** 次女:{{仮リンク|ジョゼフィン・チャップリン|en|Josephine Chaplin}}(1949年 - 、女優)
** 三女:{{仮リンク|ヴィクトリア・チャップリン|en|Victoria Chaplin}}(1951年 - 、女優)
*** 孫:{{仮リンク|ジェームス・ティエレ|en|James Thiérrée}}(1974年 - 、俳優)
** 五男:{{仮リンク|ユージン・アンソニー・チャップリン|en|Eugene Chaplin}}(1953年 - 、[[レコーディング・エンジニア]])
*** 孫:{{仮リンク|キエラ・チャップリン|en|Kiera Chaplin}}(1982年 - 、[[モデル (職業)|モデル]])
** 四女:ジェーン・セシル・チャップリン(1957年 - )
** 五女:アネット・エミリー・チャップリン(1959年 - )
** 六男:{{仮リンク|クリストファー・チャップリン |en|Christopher Chaplin}}(1962年 - 、作曲家・俳優)
== チャップリンを題材にした作品 ==
* 映画『[[チャーリー (映画)|チャーリー]]』(1993年、[[リチャード・アッテンボロー]]監督) - チャップリンの生涯を描いた[[伝記映画]]で、[[ロバート・ダウニー・Jr]]がチャップリンを演じた<ref>{{cite web|title=Robert Downey, Jr. profile, Finding Your Roots |url=https://www.pbs.org/weta/finding-your-roots/profiles/robert-downey-jr/ |publisher=PBS |accessdate=9 February 2013 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151123205555/http://www.pbs.org/weta/finding-your-roots/profiles/robert-downey-jr/ |archivedate=23 November 2015}}</ref>。
* 映画『[[ブロンドと柩の謎]]』(2001年、[[ピーター・ボグダノヴィッチ]]監督) - [[エディー・イザード]]がチャップリンを演じた<ref>{{cite news|title=The Cat's Meow – Cast|url=https://www.nytimes.com/movies/movie/251894/The-Cat-s-Meow/cast|newspaper=The New York Times|accessdate=9 November 2013|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151124051810/http://www.nytimes.com/movies/movie/251894/The-Cat-s-Meow/cast|archivedate=24 November 2015}}</ref>。
* 舞台『''[[:en:Chaplin (2006 musical)|Limelight: The Story of Chaplin]]''』(2006年発表・2010年初演、トーマス・ミーハン、クリストファー・カーティス作) - チャップリンの人生に基づく[[ミュージカル]]<ref>{{cite web|url= http://www.lajollaplayhouse.org/the-season/2010-2011-season/limelight| title=Limelight – The Story of Charlie Chaplin |publisher=La Jolla Playhouse |accessdate=25 June 2012|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130721141919/http://www.lajollaplayhouse.org/the-season/2010-2011-season/limelight|archivedate=21 July 2013}}</ref>。2012年に[[ブロードウェイ]]で『''Chaplin: The Musical''』のタイトルで上演<ref>{{cite web|url=http://chaplinbroadway.com/ |title=Chaplin – A Musical |publisher=Barrymore Theatre |accessdate=25 June 2012 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120615070714/http://www.chaplinbroadway.com/ |archivedate=15 June 2012 }}</ref>。
* テレビアニメ『{{仮リンク|チャップリン&CO|en|Chaplin & Co}}』(2011年、[[フランス3]]) - チャップリンの小さな放浪者が主人公の[[CGアニメーション]]シリーズ<ref>{{Cite web |last=Dickson |first=Jeremy |url=http://kidscreen.com/2012/10/01/new-global-tv-deals-for-chaplin-and-co/ |date=2012-10-1 |title=New global TV deals for Chaplin and Co. |publisher=Kidscreen |accessdate=2020年1月30日}}</ref>。
* 映画『[[ダンシング・チャップリン]]』(2011年、[[周防正行]]監督) - フランスの振付師[[ローラン・プティ]]による、チャップリンを題材にした[[バレエ]]の舞台を映像化した作品<ref>{{Cite web |url=https://eiga.com/movie/55913/ |title=ダンシング・チャップリン |website=映画.com |accessdate=2021年1月30日}}</ref>。
* 映画『[[チャップリンからの贈りもの]]』(2014年、[[グザヴィエ・ボーヴォワ]]監督) - チャップリンの遺体が誘拐された実話をもとに、その犯人を主人公にしたフィクション作品<ref>{{Cite web |url=https://eiga.com/movie/80086/ |title=チャップリンからの贈りもの |website=映画.com |accessdate=2021年1月27日}}</ref>。
== ドキュメンタリー作品 ==
* 『放浪紳士チャーリー』(1975年、リチャード・パターソン監督) - ヴヴェイの自宅で撮影されたシーンを含む{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=418}}。
* 『{{仮リンク|知られざるチャップリン|en|Unknown Chaplin}}』(1982年、ケヴィン・ブラウンロー、デイヴィッド・ギル監督){{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=216-217}}
* 『チャーリー・チャップリン ライフ・アンド・アート』(2003年、リチャード・シッケル監督) - [[ウディ・アレン]]や[[ジョニー・デップ]]などのインタビュー映像を含む<ref>{{Cite web |url=https://www.tcm.com/tcmdb/title/541007/charlie-the-life-and-art-of-charles-chaplin#articles-reviews?articleId=70830 |date=2004-2-27 |title=Charlie: The Life And Art Of Charles Chaplin |website=TCM.com |language=英語 |accessdate=2021年1月27日}}</ref>。
* 『''Charlie Chaplin: The Forgotten Years''』(2003年、フェリス・ゼノーニ監督)<ref>{{Cite web |url=https://variety.com/2003/film/reviews/charlie-chaplin-the-forgotten-years-1200538458/ |title=Charlie Chaplin - The Forgotten Years |website=Variety |language=英語 |accessdate=2021年1月30日}}</ref>
* 『''Chaplin, la légende du siècle''』(2014年、フレデリック・マーティン監督)- フランスのテレビドキュメンタリー<ref>{{Cite web |url=https://www.imdb.com/title/tt4052144/ |title=Chaplin, la légende du siècle |website=IMDb |language=英語 |accessdate=2021年1月30日}}</ref>。
* 『僕の旅』高瀬毅訳、[[中央公論社]]、1930年。
* 『チャップリン自伝』中野好夫訳、[[新潮社]]、1966年。
** 文庫化『チャップリン自伝〈上〉 若き日々』『チャップリン自伝〈下〉 栄光の日々』中野好夫訳、[[新潮文庫]]、1981年(上)・1992年(下)。
** 新訳版『チャップリン自伝 若き日々』『チャップリン自伝 栄光と波瀾の日々』中里京子訳、新潮文庫、2017年。
* チャールズ・チャップリン、デイヴィッド・ロビンソン『小説ライムライト チャップリンの映画世界』上岡伸雄、南條竹則訳、[[集英社]]、2017年。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|
==
* {{Cite book|和書 |author=[[大野裕之]] |date=2005-4 |title=チャップリン再入門 |publisher=[[日本放送出版協会]] |isbn=978-4140881415 |ref={{Harvid|大野|2005}}}}
* {{Cite book|和書 |author=大野裕之 |date=2009-12 |title=チャップリンの影 日本人秘書 高野虎市 |publisher=[[講談社]] |isbn=978-4063397598 |ref={{Harvid|大野|2009}}}}
* {{Cite book|和書 |author=大野裕之 |date=2017-4 |title=チャップリン 作品とその生涯 |series=中公文庫 |publisher=[[中央公論社]] |isbn=978-4122064010 |ref={{Harvid|大野|2017}}}}
* {{Cite book|和書 |author=チャールズ・チャップリン |translator=[[中野好夫]] |date=1966-11 |title=チャップリン自伝 |publisher=[[新潮社]] |isbn=978-4105050016 |ref={{Harvid|チャップリン|1966}}}}
* {{Cite book|和書 |author=[[マック・セネット]] |translator=新野敏也監訳、石野たき子 |date=2014-3 |title=〈喜劇映画〉を発明した男 帝王マック・セネット、自らを語る |publisher=[[作品社]] |isbn=978-4861824722 |ref={{Harvid|セネット|2014}}}}
* {{Cite book|和書 |author=[[千葉伸夫]] |date=2017-5 |title=チャプリンが日本を走った |edition=新装版 |publisher=青蛙房 |isbn=978-4790508908 |ref={{Harvid|千葉|2017}}}}
* {{Cite book|和書 |author=山本喜久男 |date=1983-3 |title=日本映画における外国映画の影響 比較映画史研究 |publisher=早稲田大学出版部 |isbn= |ref={{Harvid|山本|1983}}}}
* {{Cite book|和書 |author=デイヴィッド・ロビンソン |translator=宮本高晴、高田恵子 |date=1993-4 |title=チャップリン |publisher=[[文藝春秋]] |volume=上 |isbn=978-4163474304 |ref={{Harvid|ロビンソン(上)|1993}}}}
* {{Cite book|和書 |author=デイヴィッド・ロビンソン |translator=宮本高晴、高田恵子 |date=1993-4 |title=チャップリン |publisher=文藝春秋 |volume=下 |isbn=978-4163474403 |ref={{Harvid|ロビンソン(下)|1993}}}}
* {{Cite book|last=Bloom |first=Claire |authorlink=クレア・ブルーム |title=Limelight and After |year=1982 |publisher=Weidenfeld & Nicolson |location=London |isbn=978-0-297-78051-9 |ref={{Harvid|Bloom|1982}}}}
* {{Cite book|last=Brownlow |first=Kevin |authorlink=ケヴィン・ブラウンロー |year=2010 |title=The Search for Charlie Chaplin |publisher=UKA Press |location=London |isbn=978-1-905796-24-3 |ref={{Harvid|Brownlow|2010}}}}
* {{Cite book|last=Cousins |first=Mark |year=2004 |title=The Story of Film: An Odyssey |publisher=Pavilion Books |location=London |isbn=978-1-86205-574-2 |ref={{Harvid|Cousins|2004}}}}
* {{Cite book|last=Dale|first=Alan S.|title=Comedy is a Man in Trouble: Slapstick in American Movies|url=https://archive.org/details/comedyismanintro00alan|year=2000|publisher=University of Minnesota Press|location=Minneapolis, MN|isbn=978-0-8166-3658-7|ref={{Harvid|Dale|2000}}}}
* {{Cite book|last=Epstein |first=Jerry |year=1988 |title=Remembering Charlie |publisher=Bloomsbury |location=London |isbn=978-0-7475-0266-1 |ref={{Harvid|Epstein|1988}}}}
* {{Cite book|last=Friedrich |first=Otto |authorlink=オットー・フリードリック |year=1986 |title=City of Nets: A Portrait of Hollywood in the 1940s |publisher=University of California Press |location=Berkeley, CA |isbn=978-0-520-20949-7 |ref={{Harvid|Friedrich|1986}}}}
* {{Cite book|last=Hansmeyer |first=Christian |title=Charlie Chaplin's Techniques for the Creation of Comic Effect in his Films |year=1999 |publisher=University of Portsmouth |location=Portsmouth |isbn=978-3-638-78719-2 |ref={{Harvid|Hansmeyer|1999}}}}
* {{Cite book|last=Kamin |first=Dan |year=2011 |title=The Comedy of Charlie Chaplin: Artistry in Motion |publisher=Scarecrow Press |location=Lanham, MD |isbn=978-0-8108-7780-1 |ref={{Harvid|Kamin|2011}}}}
* {{Cite book|last=Kemp |first=Philip, ed. |year=2011 |title=Cinema: The Whole Story |publisher=Thames & Hudson |location=London |isbn=978-0-500-28947-1 |ref={{Harvid|Kemp|2011}}}}
* {{Cite book|last=Larcher |first=Jérôme |year=2011 |title=Masters of Cinema: Charlie Chaplin |publisher=Cahiers du Cinéma |location=London |isbn=978-2-86642-606-4 |ref={{Harvid|Larcher|2011}}}}
* {{Cite book|last=Louvish |first=Simon |year=2010 |title=Chaplin: The Tramp's Odyssey |publisher=Faber and Faber |location=London |isbn=978-0-571-23769-2 |ref={{Harvid|Louvish|2010}}}}
* {{Cite book|last=Lynn |first=Kenneth S. |year=1997 |title=Charlie Chaplin and His Times |publisher=Simon & Schuster |location=New York |isbn=978-0-684-80851-2 |ref={{Harvid|Lynn|1997}}}}
* {{Cite book|last=Maland |first=Charles J. |year=1989 |title=Chaplin and American Culture |publisher=Princeton University Press |location=Princeton, NJ |isbn=978-0-691-02860-6 |ref={{Harvid|Maland|1989}}}}
* {{Cite book|last=Maland |first=Charles J. |year=2007 |title=City Lights |publisher=British Film Institute |location=London |isbn=978-1-84457-175-8 |ref={{Harvid|Maland|2007}}}}
* {{Cite book|last=Marriot |first=A. J. |year=2005 |title=Chaplin: Stage by Stage |publisher=Marriot Publishing |location=Hitchin, Herts |isbn=978-0-9521308-1-9 |ref={{Harvid|Marriot|2005}}}}
* {{Cite book|last=Mast |first=Gerald |year=1985 |title=A Short History of the Movies: Third Edition |publisher=Oxford University Press |location=Oxford |isbn=978-0-19-281462-3 |ref={{Harvid|Mast|1985}}}}
* {{Cite book|last=McCaffrey |first=Donald W., ed. |title=Focus on Chaplin |year=1971 |publisher=Prentice Hall |location=Englewood Cliffs, NJ |isbn=978-0-13-128207-0 |ref={{Harvid|McCaffrey|1971}}}}
* {{Cite book|editor-last=Nowell-Smith|editor-first=Geoffrey|title=Oxford History of World Cinema|year=1997|publisher=Oxford University Press|location=Oxford|isbn=978-0-19-874242-5 |url=https://archive.org/details/oxfordhistoryofw00geof |ref={{Harvid|Nowell-Smith|1997}}}}
* {{Cite journal|last1=Raksin |first1=David |last2=Berg |first2=Charles M. |title=Music Composed by Charles Chaplin: Auteur or Collaborateur? |journal=Journal of the University Film Association |volume=31|issue=1 |pages=47-50 |year=1979 |ref={{Harvid|Raksin|Berg|1979}}}}
* {{Cite book|last=Sarris|first=Andrew|title=You Ain't Heard Nothin' Yet: The American Talking Film – History and Memory, 1927–1949|year=1998|publisher=Oxford University Press|location=New York|isbn=978-0-19-503883-5|authorlink=アンドリュー・サリス|url=https://archive.org/details/youaintheardnoth00sarr|ref={{Harvid|Sarris|1998}}}}
* {{Cite journal||last1=Sbardellati |first1=John |last2=Shaw |first2=Tony |year=2003 |title=Booting a Tramp: Charlie Chaplin, the FBI, and the Construction of the Subversive Image in Red Scare America |url=https://web.viu.ca/davies/H323Vietnam/CharlieChaplin.McCarthyism.pdf |format=PDF |journal=Pacific Historical Review |volume=72 |issue=4 |pages=495-530 |doi=10.1525/phr.2003.72.4.495 |ref={{Harvid|Sbardellati|Shaw|2003}}}}
* {{Cite book|last=Schickel |first=Richard, ed. |year=2006 |title=The Essential Chaplin – Perspectives on the Life and Art of the Great Comedian |publisher=Ivan R. Dee |location=Chicago, Illinois |isbn=978-1-56663-682-7 |ref={{Harvid|Schickel|2006}}}}
* {{Cite journal|last=Simmons|first=Sherwin|title=Chaplin Smiles on the Wall: Berlin Dada and Wish-Images of Popular Culture|journal=New German Critique|issue=84|pages=3-34|year=2001|doi=10.2307/827796|jstor=827796|ref={{Harvid|Simmons|2001}}}}
* {{Cite journal|last=Thompson|first=Kristin|title= Lubitsch, Acting and the Silent Romantic Comedy |journal=Film History|volume=13|issue=4|pages=390-408|year=2001|doi=10.2979/FIL.2001.13.4.390|ref={{Harvid|Thompson|2001}}}}
* {{Cite book|last1=Vance|first1=Jeffrey|title=Chaplin: Genius of the Cinema|year=2003|publisher=Harry N. Abrams|location=New York|isbn=978-0-8109-4532-6|url=https://archive.org/details/chaplingeniusofc00vanc|ref={{Harvid|Vance|2003}}}}
* {{Cite book|last=Weissman |first=Stephen M. |year=2009 |title=Chaplin: A Life |publisher=JR Books |location=London |isbn=978-1-906779-50-4 |ref={{Harvid|Weissman|2009}}}}
* {{Cite book |last=Williams|first=Gregory Paul|title=The Story of Hollywood: An Illustrated History|publisher=B L Press|location=Los Angeles, CA|year=2006|isbn=978-0-9776299-0-9|ref={{Harvid|Williams|2006}}}}
=== 関連
* [[
*
*
* 大野裕之『チャップリン・未公開NGフィルムの全貌』日本放送出版協会、2007年3月。ISBN 978-4140811832。
* 大野裕之
* 大野裕之
*
*
* チャールズ・チャップリン・ジュニア、N.&M.ロー『わが父チャップリン 息子が見た喜劇王の素顔』木槿三郎訳、[[恒文社]]、1975年1月。
* 林冬子、清水馨編『チャップリン その愛と神話』[[芳賀書店]]〈デラックス・シネアルバム〉、1978年4月。ISBN 978-4826105071。
* ロバート・パリッシュ『わがハリウッド年代記 チャップリン、フォードたちの素顔』[[鈴木圭介 (翻訳家)|鈴木圭介]]訳、[[筑摩書房]]〈リュミエール叢書〉、1995年3月。ISBN 978-4480873002。
* [[淀川長治]]『私のチャップリン』[[筑摩書房]]〈ちくま文庫〉、1995年4月。ISBN 978-4480030207。
* 『世界の映画作家19 チャールズ・チャップリン』[[キネマ旬報社]]、1973年2月。
*『チャップリンのために』とっても便利出版部、2000年11月。ISBN 978-4925095020。
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:Charlie Chaplin}}
{{Wikiquotelang|en|Charlie Chaplin}}
* [https://www.charliechaplin.com/ Association Chaplin]{{en icon}}
* {{IMDb name|0000122|Charles Chaplin}}
* {{AllRovi person|12334|Charlie Chaplin}}
* {{allcinema name|5171|チャールズ・チャップリン}}
* {{Kinejun name|11772|チャールズ・チャップリン}}
{{チャールズ・チャップリン}}
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{{アカデミー賞作曲賞}}
{{アカデミー名誉賞}}
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{{Normdaten}}
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[[Category:チャーリー・チャップリン|*]]
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