チャールズ・チャップリン

イギリスの俳優、映画監督

サー・チャールズ・スペンサー・チャップリン(Sir Charles Spencer "Charlie" Chaplin, KBE1889年4月16日 - 1977年12月25日)は、イギリス出身の映画俳優映画監督脚本家映画プロデューサー作曲家である。 愛称は「チャーリー」。

チャールズ・チャップリン
Charles Chaplin
Charles Chaplin
映画『チャップリンの失恋』のチャップリン
本名 チャールズ・スペンサー・チャップリン
Charles Spencer Chaplin
別名義 チャーリー・チャップリン
Charlie Chaplin
生年月日 (1889-04-16) 1889年4月16日
没年月日 (1977-12-25) 1977年12月25日(88歳没)
出生地 イギリスの旗 イギリス ロンドン
死没地 スイスの旗 スイス コルズィエ=スュール=ヴェヴェイ
国籍 イギリスの旗 イギリス
職業 俳優映画監督映画プロデューサー脚本家作曲家
ジャンル 映画舞台
活動期間 1895年 - 1976年
配偶者 ミルドレッド・ハリス(1918年 - 1920年)
リタ・グレイ(1924年 - 1928年)
ポーレット・ゴダード(事実婚)(1936年 - 1942年)
ウーナ・オニール(1943年 - 1977年)
主な作品
キッド』(1921年)
黄金狂時代』(1925年)
街の灯』(1931年)
モダン・タイムス』(1936年)
独裁者』(1940年)
殺人狂時代』(1947年)
ライムライト』(1952年)
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映画の黎明期において、数々の傑作コメディ映画を作り上げ、「喜劇」の異名をもつ。同年代に活躍したコメディアン、バスター・キートンハロルド・ロイドと並び、「世界の三大喜劇王」と呼ばれる。チャップリンは、ハリウッドにおいて極めてマルチな才能を示した人物であり、徹底した完璧主義で知られていた。その作品は、笑いとユーモアの陰に鋭い社会諷刺、下町に生きる庶民の哀愁や怒り、涙までも描かれている。

生涯編集

前半生編集

1889年4月16日イギリスロンドンのケニントン地区、ランベスのイースト・レーンで生まれた[注釈 1]。 父はチャールズ・チャップリン・シニア、母はハンナ・チャップリンで、ともにミュージック・ホールの俳優である。1歳のときに両親は離婚し、以降は母親のもとで育てられた。

5歳のとき、オールダーショットの劇場での公演で、舞台に立っていた母ハンナが喉をつぶしてしまう。そこで支配人は、チャーリーが舞台裏で様々な芸で母親の友人たちを笑わせているところを見たため、彼を急きょ舞台に立たせることにした。チャーリーはそこで歌を歌って大喝采を浴びた。これがチャーリー・チャップリンの初舞台となった。しかし、これによって母親は二度と舞台に立つことができず、チャップリン家は貧窮生活に陥った。そして1896年頃に母親は精神に異常をきたし施設に収容された。

どん底生活を余儀なくされたチャーリーは、4歳違いの異父兄シドニーといくつかの貧民院や孤児学校を渡り歩き、生きるために床屋、印刷工、ガラス職人、新聞やマーケットの売り子とあらゆる職を転々とし、時にはコソ泥まで働いた。その傍ら俳優斡旋所に通い、1899年に木靴ダンスの一座「エイト・ランカシア・ラッズ」に加わった。1901年、父チャールズ・シニアがアルコール依存症で死去。

1903年、『ロンドン子ジムの物語』のサム役、『シャーロック・ホームズ』のビリー役を演じ、地方巡業にも参加。その後、様々な劇団を転々とし演技のスキルを積んでいった。

1908年、兄の勧めで名門フレッド・カーノー英語版劇団に入り[注釈 2]、寸劇『フットボール試合』のけちんぼ役、『恐れ知らずのジミー』などで成功。一座の若手看板俳優となった。この頃15歳のコーラス・ガールヘティ・ケリーに恋をする。

1909年パリ巡業。1910年、寸劇『スケート』や『ワウワウ』に主演し好評を博す。 アメリカおよびカナダ各地を巡業。ことにボックス席の酔っ払いが騒動を巻きおこす『マミング・バーズ(唖鳥)』は当たり役となり、以後『ロンドン・クラブの一夜』と題されて成功をおさめた。

映画界へ編集

 
デビュー作『成功争ひ』(1914)より、ペテン師役のチャップリン(右側)

1913年、カーノー劇団の2度目のアメリカ巡業の際に、映画プロデューサーマック・セネットの目にとまり、週給150ドルの契約で、「キーストン・コップス」で有名なアメリカカリフォルニアの映画会社キーストン・スタジオに入社する。翌1914年、『成功争ひ』で映画デビュー。セネットに「面白い格好をしろ」と要求され、チャップリンは楽屋にいって山高帽に窮屈な上着、だぶだぶのズボンにドタ靴、ちょび髭にステッキという扮装で、2作目の『ヴェニスの子供自動車競走』に出演。以降『独裁者』(1940年)までこの扮装が彼のトレードマークとなった。

キーストン社のトップスターであるフォード・スターリングメーベル・ノーマンドロスコー・アーバックルらと共演し、たちまち人気者となったチャップリンは、同年に『恋の二十分』で初めて監督・脚本を務めた。この年だけでチャップリンは35本の短編と、『醜女の深情』というマック・セネット監督の長編に出演している。

国際的スター 編集

1915年シカゴエッサネイ・スタジオに週給1,250ドルの契約で移籍。自身で監督・脚本・主演した作品を14本作り、チャップリン演じる浮浪者が繰り広げるドタバタコメディは人気を博した。エッサネイ社第2作の『アルコール夜通し転宅』でエドナ・パーヴァイアンスが起用され、以後8年間、公私ともに良きパートナーとして過ごす。

1916年、週給1万ドルにボーナス15万ドル、年額67万ドル(アメリカ大統領の年俸の7倍)という破格の契約金でミューチュアル・フィルム英語版に迎えられる。ここでは製作の自由を与えられ、よりよい環境とスタッフの下12本の傑作を世に送った。

この年に兄シドニーが弟のマネージャーとなり、運転手として日本人の高野虎市が雇われた。チャップリンは、「ミューチュアルで働いていた頃が、一番幸福な時期だったかもしれない」と語っている。またこれらの作品はアメリカのみならず、イギリスやフランス日本など世界各国に配給され、高い人気を得た[注釈 3]

1918年ハリウッドのラ・ブレア通りに自身の撮影スタジオを設け、ファースト・ナショナル英語版(後にワーナー・ブラザースと合併)と、年間100万ドル超の契約を結び、名実ともに世界的ビッグスターとなる。一作ごとにかける時間と労力を惜しまず、マイペースで作品を作れる環境を整え、多くの名作を生みだした。また同年には、第一次世界大戦にイギリスや日本などとともに参戦した、アメリカ政府の発行する戦時公債促進キャンペーンに尽力し、プロパガンダ映画公債』を製作。16歳の新進女優ミルドレッド・ハリスと初めての結婚も果した。

 
UA創立メンバー(左から)D・W・グリフィスメアリー・ピックフォードチャップリンダグラス・フェアバンクス[2](1919年)

1919年、盟友のダグラス・フェアバンクスメアリー・ピックフォード、監督のD・W・グリフィスとともに配給会社ユナイテッド・アーティスツ(現メトロ・ゴールドウィン・メイヤー傘下)を設立し、俳優がプロデューサーを介さず映画製作が出来る公益な場を提供する。

1921年、全米で大ヒット中の映画『キッド』を携え、故郷ロンドンヘ凱旋帰国。たいへんな歓迎ぶりで、小説家H.G.ウェルズや各界著名人と親交を結んだ。パリ、ベルリンと、戦後のヨーロッパの各都市を一巡したチャップリンは、戦禍の傷跡を人々の間に目の当たりにする[3]。帰国後、口述で『My Trip Abroad』をしたためる[注釈 4]

1923年、初の自身が出演しない監督作品『巴里の女性』をユナイテッド・アーティスツから発表。

1925年、『黄金狂時代』が記録的大ヒット。

1928年、『サーカス』を製作し、同年度の第1回アカデミー賞において、同作で脚本、演技、監督、製作に対して名誉賞を受賞した。だがチャップリンは授賞式には欠席し、後日、賞の授与の際も、「わずかの人間で決めた賞なんて、そうたいした名誉ではない。私の欲しいのは大衆の喝采だ。大衆が私の仕事を賞賛してくれるならば、それで十分だ」と語り、もらったオスカー像はドアのつっかいにされていた、と息子のチャールズJrは回想する[4]。なお、この受賞に伴い、ノミネートされていた喜劇監督賞[注釈 5]主演男優賞が取り消された。同年、母親が死去。

 
マハトマ・ガンディーと会談するチャップリン。機械文明について意見が交わされた。[5]1931年9月、ロンドンにて

1931年トーキー隆盛の中、サイレントの孤塁を守って3年がかりで撮った『街の灯』が興行的な成功をおさめ、人気のピークを迎えていたチャップリンは、一年半に及ぶ世界旅行へと出立。10年ぶりに訪れたロンドンではチャーチルや劇作家のバーナード・ショーと、ベルリンでは『街の灯』のプレミアに招聘したアインシュタインマレーネ・ディートリヒと再会を果たす。

1932年、イギリスの植民地であるシンガポールジャワ島バリ島を経て兄シドニーとともに日本へ。神戸東京を訪問するものの、訪日中にたまたま発生した国粋主義的な士官によるクーデター未遂事件である五・一五事件の巻添えになりかける。「日本に退廃文化を流した元凶」として、首謀者たちの間でチャップリンの暗殺が画策されていた。

1936年、機械文明と資本主義を批判した『モダン・タイムス』と、1940年ナチス政権下のドイツをあからさまに批判した『独裁者』を発表。

1941年12月にはアメリカが第二次世界大戦に参戦したことで戦時体制下に入ったために、戦時中は映画製作の停止を余儀なくされた。

赤狩りとハリウッド追放編集

1945年8月に第二次世界大戦が終結し、まもなくソビエト連邦をはじめとする東側諸国との冷戦が始まったアメリカで、『モダン・タイムス』以降の一連の作風が「容共的である」とされ、非難の的とされた。

特に1947年公開の『殺人狂時代』以降はバッシングも最高潮に達し、1950年代に入り、ジョセフ・マッカーシー上院議員指揮の下、赤狩りを進める下院非米活動委員会から、他の「容共的である」とされた俳優や監督とともに何度も召喚命令を受ける。しかし、1948年にフランス映画批評家協会は彼をノーベル平和賞に推薦した。

1952年、ロンドンで『ライムライト』のプレミアのために向かう船の途中、アメリカのトルーマン政権の司法長官ジェームズ・P・マグラネリー英語版から事実上の国外追放命令を受ける。自身の意にはそぐわなかったが、スイスローザンヌのアメリカ領事館で再入国許可証を返還した。

アメリカの一般国民はこのチャップリンの追放劇に激しく抗議。決定した司法長官のもとに国内だけで数万通に及ぶ抗議の手紙が殺到した。マグラネリーは特別に、「チャップリン氏がアメリカにとって危険な人物である証拠は存在するが、今は明らかにできない」と声明を出した。

これに対して1954年には狂信左派団体の世界平和評議会が「平和国際賞」を贈るなど、この追放劇はチャップリンの名声を利用しようとした世界各国の右派、左派両方から政治的に利用される結果となった。

スイスに編集

 
家族と鵜飼見物に訪れ、鵜匠と記念写真を撮るチャップリン (右端).

アメリカを去ったチャップリンは、映画への出演もめっきり少なくなるが、スイスのブドウ畑を臨む広大な邸宅「マノワール・ド・バン」に移り住み、妻ウーナや8人の子供たちと晩年を送る。世界的な名士として、クララ・ハスキルパブロ・カザルスジャン・コクトー山口淑子周恩来らと交友関係を持った。

1965年エラスムス賞を受賞。その頃に公刊された『私の自叙伝』は空前のベストセラーとなった。1969年、3女ヴィクトリアのために新作を構想。「ザ・フリーク」(The Freak)の台本にとりかかる。また旧作を再公開するため、バックグラウンドミュージックの作曲を続けた。

1971年、フランス政府によりレジオンドヌール勲章、パリ市議会からは名誉市民の称号を与えられる。

再びアメリカへ編集

 
アカデミー名誉賞を受賞するチャップリン(右)。左はプレゼンターのジャック・レモン(1972年)

1972年第44回アカデミー賞名誉賞に選ばれ、授賞式に出席するため、20年ぶりにアメリカの地を踏んだ[6]。授賞式では数分間のスタンディングオベーションで迎えられ、プレゼンターのジャック・レモンからオスカー像を受け取った。自身作曲による“スマイル”(『モダン・タイムス』)も会場のゲスト全員で歌われ、「チャップリンは単なる名前以上のもの。チャップリンは映画用語の一つである」とアカデミーの会長ダニエル・タラダッシュDaniel Taradash)は述べた。また、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームから名前が消されていた事実も、この20年ぶりの帰国によって、ロサンゼルス市議会が11対3で星印を残すことに可決した。これらのことはアメリカとの事実上の和解となった。

同年には『ライムライト』がアメリカで再公開され、翌年の第45回アカデミー賞作曲賞を受賞した。本作は1952年に東海岸で封切られたが、アカデミー賞の選考基準であるロサンゼルスでの公開はされていなかったので、この年度の受賞対象作品となった。

1975年、それまでの活動を評価されエリザベス2世よりナイトに叙され「サー・チャールズ」となった[7]。 しかし、左寄りとされた思想や女性問題で叙勲がかなり遅れたことが分かっている(後述)。

1976年の秋、スイスの「クニー・サーカス英語版」の公演に車椅子姿で目撃される。これはチャップリンがスイスに居住して以来、毎年欠かさない鑑賞行事であった。

死去編集

 
チャップリンの墓

1977年クリスマスの朝、スイス・ヴェヴェイの街を見渡せる村、コルズィエ=スュール=ヴェヴェイの自宅で死去。88歳だった。

生前は隣村に移住していたイギリスの俳優ジェームズ・メイソン(1984年没)と親交を深めていた。両者は死後、村の墓地に3メートルほどの距離で埋葬された。

死後、金銭目的で墓から柩が持ち出される事件があったが、柩は墓地から17キロメートル離れたレマン湖畔のトウモロコシ畑で発見された[8]。後日、主犯のポーランド人ロマン・ワルダス(Roman Wardas)と、ブルガリア人ガンチョ・ガネフ(Gantscho Ganev)の2人が逮捕された[9]

ヴェヴェイのレマン湖畔にはチャップリンの銅像が建立された。なお、ロンドンのレスター・スクウェアにも同型のチャップリン立像がある。

作品の特徴編集

役柄編集

 
初めて「トランプさん」の扮装で登場した『ヴェニスの子供自動車競走』[10]

チャップリンの最もよく知られている役柄は「小さな放浪者=The Little Tramp」である。窮屈な上着に、だぶだぶのズボンと大きすぎる靴(ドタ靴)、山高帽に竹のステッキといったいでたち。パーマ頭にチョビの人物で、アヒルのように足を大きく広げてガニ股で歩く特徴をもつ。ホームレスだが紳士としての威厳をもち、優雅な物腰と持ち前の反骨精神でブルジョワを茶化し、権力を振りかざすものを笑い飛ばした。

この独特の扮装と役柄は、映画出演2作目の『ヴェニスの子供自動車競走』(1914年)で初めて登場している (チャップリン本人も当初、観客に受け入れられるとは思わなかったという)。

「流れ者、紳士、詩人、夢想家、孤独な人、いつも皆ロマンスと冒険に憧れてるんだ。」 -チャップリン自伝

以後、このTrampは年代とともに徐々に変化し、滑稽味の中にもペーソス(悲壮感)を湛えたハートフルなキャラクターに成長。貧しくとも人間としての誇りを失わない永遠の“放浪紳士チャーリー”が誕生する。アメリカの反動的なマスコミから、「危険思想をバラ撒き、健全な市民階級に毒素を注入している」などと揶揄されたが、プロレタリアートの立場から資本主義社会に対する不平等への“怒り”を表現するスタイルは終始一貫している。

作風編集

初期は15~30分前後のショート作品が主体で、放浪者のキャラクターも心優しさよりは寧ろコミカルな動き一辺倒で笑わせる非道なドタバタが主流であった。貧困階層の市民として、当時の世相や政府を風刺したものが多く、また思想的にはアナーキーでドライな作風が多い[注釈 6]

しかし、1917年の『チャップリンの勇敢』・『チャップリンの移民』あたりから、社会的弱者に対する同情が彼独自のヒューマニズムとなり、コメディー路線に新たな境地を切り拓く。

 
『キッド』のワンシーン。ジャッキー・クーガン

1918年の『犬の生活』でよく知られる「心優しき放浪者」が完成された後、『担へ銃』では戦争の愚かさと一兵卒の悲哀をユーモアのなかに描き、『偽牧師』(1923)では、宗教を笠に着る偽善を巧みに暴いてみせた。また『サニーサイド』(1919)では、甘美な夢と痛ましい現実が交錯し、初の長編『キッド』(1921)ではドタバタも控えめに、ドラマ性重視のコメディリリーフを試みた。捨て子と実母との再会までの奇跡を、実の親子以上の絆で結ばれた二人の物語となって、観客の胸を打つ。

さらにリアリズムに徹した意欲作『巴里の女性』(1923)。アラスカクロンダイクの金鉱発掘者たちのドラマ『黄金狂時代』(1925)。曲馬団の少女に恋をして奮闘する『サーカス(1928)』などで、高い芸術性が評価されるようになる。
また、背中を向けてひとり悄然と、しかし朗らかに歩み去っていくラストシーンは、初期の『失恋』(1915)で初めて登場して以来の定石であるが、エドナ・パーヴァイアンスとの出会いから生み出されたと言われる。

以降、美しいものへの憧憬と、放浪者のまなざしが社会の歪みや冷酷さへ向けられると、その作風もまた大きく変わってゆく。

街角で出会った盲目の花売り娘に、無償の愛を注ぐ『街の灯』。大不況のさ中に苦悶する労働者の実態を通し、幸福とはなにかを問い掛ける『モダン・タイムス』。ナチス・ドイツが台頭するヨーロッパで、ヒトラーをこてんぱんにカリカチュアした『独裁者』。“チャーリー”スタイルから脱却し、反戦メッセージを含ます異色のブラック・コメディ『殺人狂時代』。落ちぶれた老芸人が、足の不自由なバレリーナと再起の舞台を賭ける『ライムライト』。現代アメリカの矛盾点を鋭くえぐった『ニューヨークの王様』など。

フランスの映画監督ジャン・ルノワールは 「チャップリンはただ一つの作品をつくったのだ」 と言っている。

専属のキャメラマンに、エッサネイ時代から『殺人狂時代』までの長きにわたりローランド・H・トザロー英語版が務めた。

 
『チャップリンの移民』(1917年)より。ヒロイン役のエドナ・パーヴァイアンスとは30本以上の作品で共演した。エドナ最後のチャップリン映画は『巴里の女性』である。

出演者には同じ俳優を起用することが多く、ヒロイン役にはエドナ・パーヴァイアンス1915年から1923年までの全35本の作品に出演している。そのほかのヒロイン役としてはジョージア・ヘイル(『黄金狂時代』)、ヴァージニア・チェリル(『街の灯』)、ポーレット・ゴダード(『モダン・タイムス』『独裁者』)、クレア・ブルーム(『ライムライト』)などが挙げられる。助演者にはチャップリンの右腕で良き親友でもあったヘンリー・バーグマン(全20本に出演)をはじめ、アルバート・オースチンアラン・ガルシアエリック・キャンベルジョン・ランドレオ・ホワイトなどが常連出演した。またマック・スウェインフィリス・アレンチェスター・コンクリンハンク・マンといったキーストン・スタジオ出身の喜劇俳優たちも長くチャップリン映画で活躍した。

ペーソス編集

チャップリンに関して伝えられる物語の一つに、彼が子供の時に見た食肉処理場から逃げ出したの話がある。周囲の人間は慌てて羊を追いかけるのだが、羊も必死で逃げるから羊も人間も右往左往、あちこちぶつかってはひっくり返った。そのおかしな光景に周りの人間は腹を抱えて笑ったが、やがて羊がつかまえられたとき、「あの羊、殺されるよ…」と泣きながら母のもとに走って行った。喜劇と悲劇が紙一重になっているチャップリンの作風の原点となっている[11]

 
『犬の生活』のセットで (ジョージ・イーストマン・ハウス収蔵)

“永遠の放浪者チャーリー”のモデルとされる人物には、幼少のころに見たルンペンたち、ミュージック・ホール時代のスターたち、草創期の映画スターたち(特にフランスの喜劇王マックス・ランデー)など多くのモデルがいる。
チャップリンの母ハンナは、タウンハウスの地下部屋から通りを往く足だけ見える人々の心情をパントマイムで表現し、幼い彼に人間観察の大切さを教えたという。

映画の中で笑いの起爆剤となるドタ靴について、淀川長治は著書や講演の際に、「寒い雪の中を教会の慈善スープを貰いに、チャップリンの小さな身体には大きすぎる母親の靴を履かされた思い出」などを語ることがあるが、作り話であった。

チャップリンの幼少期の経験は、後に作られる数々の作品の中で断片的に投影されていく。

劇団の巡業で渡米する際、母親の入国許可は下りなかったが、ハリウッドで成功してからは母を呼び寄せることができた。風光明媚な海岸の一軒家に住まわせ、面倒見のいい夫婦と経験豊かな看護婦を雇った。しかしハンナは最後まで息子の成功を理解できぬまま、1928年に亡くなった。もう生活の気苦労はなかったはずなのに、この先何か問題が起こるのではないかと心配していた、と後年チャップリンは回想している。

反ファシズムズム編集

 
ドイツ、ベルリン国会議事堂前のチャップリン(1931年3月)

チャップリンは、ドイツナチ党の指導者で、選挙を経て同国の総統となり、その後独裁体制を敷いたアドルフ・ヒトラーに強い反感を持ち、1940年に発表した『独裁者』ではヒトラーを痛烈に批判している。

ただ、『独裁者』製作時のアメリカはまだ第二次世界大戦に参戦しておらず、国内にはドイツ系市民を中核とする親ナチ派が歴として存在していた。ファシズム色を濃くし、ユダヤ人への弾圧強化、オーストリアチェコスロバキアを併合していった上に、第二次世界大戦を引き起こしたヒトラーに対してさえ、「共産主義の防波堤」と称賛する者もいたほどで、チャップリンの元には連日のように製作中止を求めるクレーム、暗殺を仄めかす脅迫状が届いた。

しかし、そんな陰の圧力にも屈せず公開させると、批評家からは概ね好評で、熱烈な反ファシストを宣言していたF・D・ルーズベルト大統領からホワイトハウスに招かれるなど、それまでのチャップリン映画中、最も興収を上げた作品となった。

 
『独裁者』(1940)より、風船の地球儀を弄ぶ名シーン

なお、この映画に出てくる床屋のイメージからか「チャップリン=ユダヤ人」と捉える人も根強くいるが、チャップリンはユダヤ人ではない[注釈 7]。 チャップリンはカーノー劇団所属時での寸劇や、ごく初期の作品でユダヤ人を小馬鹿にするギャグを使っており(挨拶の際、ユダヤ人特有の長い顎鬚で涙を拭ったり引張ったりする)、ある人には「ユダヤ人と思われて光栄だ」などとも語っており、それが「チャップリン=ユダヤ人」説の原因になった。

完璧主義者編集

監督、主演だけではなく脚本や演出も担当し、『街の灯』以降の全作品、1918年からの『キッド』、『黄金狂時代』、『サーカス』などの一連のサイレント作品をリバイバル上映用に再編集して、自ら劇伴を作曲したこと、わずか数秒のシーンを納得のいくまで何百テイクと撮り直したことなどから、業界随一の完璧主義者と呼ばれた。特に『街の灯』における花売り娘との出会いのシーン(正味3分ほど)では、一年以上にわたって342回ものNGを出した[注釈 8]。この映画は完成までに534日かかっているが、たった一つの場面だけに368日が費やされている。前作の『サーカス』においては、地上数十メートルの高さでスタントなしで綱渡りを披露したことも例に挙げられる。

また、唯一のシリアスメロドラマ『巴里の女性』(1923年)においては、映画作家としての手腕を発揮し、後世の映画人に与えた影響は大きい。最後に撮った『伯爵夫人』(1967年)同様、監督にのみ徹し主演はしていないが、後者はソフィア・ローレンマーロン・ブランドという二大ビッグスターを起用し話題にはなったものの、コメディに不向きなマーロンを抜擢したのが良くなかったのか、「時代おくれ」 「偉大な天才の凡作」という評価が多かった。一方『巴里の女性』は、永年の相手役エドナ・パーヴァイアンスを大女優にすべく製作されたもので、それまでのハリウッド製娯楽映画にはみられなかったソフィスティケートされた演出が話題をさらい、当時の批評家やインテリ層を唸らせた。しかし一般受けせず、興行成績も芳しくなかったため、長らくのお蔵入りとなる。この「幻の名作」がサウンド版として再び世に出たのは1976年、チャップリンの死の前年のことであった。

技術や音楽的な特徴編集

 
チェロを弾くチャップリン

出演した作品はサイレント映画がほとんどで、こういったことから「チャップリンはトーキーを軽蔑し、サイレントに固執していた」という印象が強いが、軽蔑していたのではなく放浪者のイメージが声で崩れることを恐れたとされる。

1929年には、アメリカの大半がトーキー(サウンド)映画に移行する中で、「パントマイム芸こそが世界共通語」だと疑わぬチャップリンには信念があった。実際1931年の『街の灯』では、サイレント形式にこだわりつつも、全編にわたって初めて音響効果を伴うサウンドを付けた[注釈 9]。 続く1936年の『モダン・タイムス』では、ストーリー上必要な部分にだけトーキーを使い[注釈 10]1940年公開の『独裁者』で初めて、完全なトーキーに踏みきった。全編カラーシネマスコープ作品は『伯爵夫人』のみである。

音楽家になる夢を捨てきれず、1916年にチャーリー・チャップリン音楽会社を設立し、自作の曲3曲を出版した(「Peace Patrol」、「Oh!That Cello」、「There's Always One You Can't Forget」)。しかし2000部刷った楽譜は3部しか売れず、すぐに頓挫してしまったらしい。1925年には、エイブ・ライマン・オーケストラ英語版をバックに2曲(「Sing A Song」、「With You Dear In Bombay」[12])をレコーディング。ゲスト・コンダクターとして指揮をとり、ヴァイオリンのソロパートも自ら演奏した。

正式な音楽教育は受けていないため、譜面の読み書きは出来なかったという意見もあるが、サイレント映画における伴奏音楽の重要性を早くから認識し、『キッド』を上映の際には全ての劇場にキューシートを配付するなど、音に対して万全であった。チャップリンの作曲は、思いついたメロディをピアノで弾いたり口ずさんだりしたものを、専属のアレンジャーが写譜する形を取った。撮影の合間を縫っては、かけだしの頃に独学で習得したチェロヴァイオリン[注釈 11]を奏で、アイディアに行き詰まると自宅に備え付けられたハーモニウムを何時間でも鳴らしたという。 そこでチェロ、ヴァイオリン、ピアノ、ハーモニウムを自在に演奏し、音楽会社まで設立した人間が、「譜面の読み書きは出来ない」というのは無理があり、チャップリンが全く出来なかったことはオーケストレーションアレンジであったと考えるのが妥当である。 ただ、多くのチャップリンについての伝記には依然として、「譜面の読み書きは出来ない」と書かれている。

チャップリンは後期ロマン派の爛熟した時代に生まれ、現代音楽の黎明期をリアルタイムで接し「前衛の時代の終焉」の時代に没したため、特に音楽的な語彙の豊富な映画監督になった。ロンドンの街角で辻楽士が弾く「スイカズラと蜂[13]」という流行歌に魅せられた幼少期から、ミュージック・ホールに根ざした大衆音楽に慣れ親しんだ彼だからこそ書けるメロディーラインが、そこにはあった。アメリカの風刺画家ラルフ・バートン英語版を通じて知り合ったタイユフェール、ナチス政権を逃れてハリウッドに定住していたストラヴィンスキーシェーンベルクハンス・アイスラーと分け隔てなく交流したことも、彼にインスピレーションを与えた。またレオポルド・ゴドフスキーとは友人であり、一緒に写った写真が残されている。チャップリンの作曲は「ずぶの素人」にでも分かりやすい同じフレーズの反復を多用したが、これはゴドフスキーが「古きウィーン」でみせた作曲法と全く同一である。この点、プロの作曲や難解な和声イディオムを前面に押し出したヒッチコックとは対照的である。 『独裁者』及び『黄金狂時代』のサウンド版で、ワーグナーブラームスといったクラシックの既成曲を大胆なアレンジで聞かせているのも、センスの良さが窺える。『ニューヨークの王様』の出だしからアメリカ国歌を直裁に引用したのも、最後まで反骨精神を失わなかった証である。

チャップリンの作曲した楽曲としては、“スマイル”(Smile)(『モダン・タイムス』)や“エターナリー”(Eternally)(『ライムライト』)が有名。プッチーニアリアにも似た美しい“スマイル”は、最初歌詞が付けられていなかったが、1954年に歌詞が付けられ、ナット・キング・コールの歌により大ヒットした。その後はマイケル・ジャクソンエルヴィス・コステロらによってカヴァーされ、今日でもスタンダード・ナンバーとして多くのアーティストにより歌い継がれている。
また、『モダン・タイムス』の劇中においてチャップリンが歌ったデタラメ語による“ティティーナ”(Titina)は、ロサンゼルスのラッパーJ-Fiveによってサンプリングされ、ラップでも歌われた。

近年は生のオーケストラをバックに、チャップリンの色褪せぬフィルム・ミュージックスクリーンとともに愉しむ機会が世界的に増えてきた。指揮者カール・デイヴィスCarl Davis)やティモシー・ブロックTimothy Brock)が基あるオリジナル・スコアを忠実に復元したものが、劇場で新たな命を吹き込まれ、「ライブ・シネマ」という形で甦っている。

『ライムライト』で助監督を務めたロバート・アルドリッチは、フランスを訪れた際に映画評論家時代のフランソワ・トリュフォーのインタビューで、チャップリンを「説明不要に偉大な芸術家だ」とチャップリンへの尊敬を語った上で「しかし、彼は少しテクニックを疎かにする面もある」と評している[14]

家族編集

 
素顔のチャップリン(Photo by Homer Peyton, c.1929)

チャップリンは生涯に4度の結婚を行ったとされる。〈〉は妻との間に生まれた子。()内は結婚期間

『キッド』制作中の1920年3月、ミルドレッドは精神上の虐待を理由に離婚申し立ての訴訟を起こし、『キッド』のフィルムを差し押さえようとした。それを逃れるため、チャップリンは州を越えたソルトレイクシティへ逃避し、ホテルの一室を借りて編集作業を行った。同年8月に裁判が開始し、11月にミルドレッドに10万ドルの慰謝料と共有財産折半の条件を飲んで離婚が成立した。
リタとは『キッド』などで共演しており、『黄金狂時代』のヒロインに起用したことで、関係が始まった。1924年にリタの妊娠が発覚し、リタの両親が激怒。カリフォルニア州法では未成年女性と関係を持つと強姦罪に問われ、最高30年の刑になるため、リタの両親はそれをタネにチャップリンに結婚を強要し、11月にメキシコで密かに式を挙げた。これにより、リタは『黄金狂時代』のヒロインを降板し、代わりにジョージア・ヘイルが務めることとなった。
ただし法的な籍はいれておらず、内縁関係であったという[15]

スキャンダル編集

チャップリンの華やかな女性遍歴を指摘する声も多々あるが、映画史家デイヴィッド・ロビンソンによると、チャップリンは女性との関係において、「ハリウッドの標準としては慎ましやかなものだった」という。3度の結婚が未成年者であることから、ロリータ嗜好があったというのは後の人間による憶測に過ぎない。

1922年に婚約説が流れたポーラ・ネグリ。『黄金狂時代』のヒロインジョージア・ヘイル。新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストの妾のマリオン・デイヴィスといった女優との浮名も流している。

『サーカス』制作中の1927年リタ・グレイに離婚訴訟を起こされ、自身の私生活を公表される。示談金62万5000ドルを支払うことで終結し、離婚が成立するが、この騒動は当時38歳のチャップリンを心労で白髪させるほどのものであった。後年に執筆した自伝では彼女についてほとんど触れられていない。後にリタは「じゃあ私が書きます。」と自分で赤裸々な暴露本を書いた。また、撮影スタジオの火災や、1928年には最愛の母の死もあり、チャップリンにとってあまりいい時期ではないようだ。

18年間チャップリンの元で秘書として仕え、身の回りの世話を任されていた日本人高野虎市であったが、3番目の妻(事実婚)とされるポーレット・ゴダードのあまりの浪費癖に辟易し、1934年には彼のもとを去っている。

1943年、女優ジョーン・バリー英語版)には子供の父権認知訴訟を起こされる。血液判定ではチャップリンの子ではないと判定されたが、血液検査を無視した滅茶苦茶な裁判の結果、1対11の陪審員評決で扶養義務を負うことになった。バリーは、これ以前に銃を携行してチャップリン邸に押し入るなど奇行がみられた。

また戦争への出兵拒否、ソ連を助けるための第二戦線開始のアジ演説をしたことでFBIから牽制を受けるなど、チャップリンをめぐるゴシップマスコミの餌食となり、第二次世界大戦から冷戦期のアメリカでは、その平和思想もあいまってネガティブ・キャンペーンの的となった。

チャップリンと日本編集

 
『独裁者』日本公開版での演説シーン。
  • 日本で公開されたチャップリン映画は日中戦争中に公開された『モダン・タイムス』(1938年/昭和13年封切)までで、大東亜戦争による空白期間を経て、戦後初のチャップリン作品は『黄金狂時代』サウンド版だった(1946年/昭和21年)。第二次世界大戦中の1940年製作の『独裁者』は1960年(昭和35年)に封切られた。
  • チャップリンが映画の中で使用したステッキ寒竹製で日本の職人が作ったものである[17]滋賀県草津市特産品でしなりが強い。ただし最初からステッキを使っていたわけではなく、当初は雨傘を用いていた。
  • チャップリンの日本好きは運転手(後に秘書)として採用した高野虎市の影響が大きい[17]。彼の仕事ぶりを高く評価していたため、一時家の使用人がすべて日本人で占められていた。2番目の夫人リタ・グレイは、「まるで日本の中で暮らしているかのよう」と評した。ただ、その次にチャップリンに身を寄せていたポーレット・ゴダードと高野は、ゴダードの浪費癖をめぐり衝突し、高野は辞任した(高野解雇説は『チャップリンの影』のなかで大野裕之が資料を元に否定)。
  • サーカス』の製作中、映画監督の牛原虚彦が高野の紹介で弟子入りしていた。撮影されたシーンの出来をチャップリンが試写室で確認する際、彼も見学することができたという。非常に勉強になったと後に淀川長治との対談などで振り返っている。
  • プロレタリア作家小林多喜二は小樽映画鑑賞会の会員としてその機関誌「シネマ」に次々と映画批評を執筆した。中でもチャップリンが大好きで何度も見ているが、チャップリンのセンチメンタルなヒューマニズムの限界を指摘し、「高収入を上げすぎたゆえ、自らとは全く違う立場の人間である」と頓珍漢な批判をした[要出典]
  • 文豪・芥川龍之介はその随筆で、「あのチャーリー・チャップリンもやはり社会主義者の一人である。もし社会主義者を迫害するとすれば、チャップリンもまた迫害しなければなるまい[要出典]」と述べている。
 
初来日時に撮影されたチャップリン一行と力士たち。右から3人目がチャップリン、同2人目が高野虎市
  • 1932年(昭和7年)5月14日に初来日。アジアで唯一の先進国で、大きな市場であった日本は無視できない市場であった。東京駅には推定4万人の群衆が押し寄せた。当時の新聞記事は「何のことはない、震災当時の避難民の喧騒と怒号が渦巻いていた」と伝えた。翌日には首相官邸で歓迎会に出席する予定であったが、ただならぬ五・一五事件に遭遇して[注釈 13]、多大な衝撃を受けた。歌舞伎座明治座で念願だった伝統芸能を鑑賞。初代中村吉右衛門六代目尾上菊五郎二代目市川左團次の楽屋を訪ね、所感を述べた。また喜劇役者の曾我廼家五郎とは、互いに富士山を色紙に描いて交換しあう。 記者会見で「各国の文化水準は監獄を見れば解る」との持論から、5月20日に小菅刑務所(現・東京拘置所)を視察。「恐らく設備、明るさの点からいって世界一」と絶賛した。またその際、「私はどの国でも猥褻犯の質問をします。この犯のパーセンテージでその国の国民性がわかる」と話したという[18]帝国ホテルに定宿し、和牛ステーキをえらく気に入った。また箱根富士屋ホテル横浜ホテルニューグランドに逗留。日本橋の「花長」では海老天ぷらを36尾も平らげ、その後の来日でも好んでエビ天を食べたことから、「天ぷら男」のあだ名がついた。さらに「花長」で修行した板前が乗船しているということで、帰国時の船を氷川丸に決めたのはこの時だった。なお、花長での記録は現在も破られていないという。
  • 5月19日に五・一五事件で殺害された犬養総理の葬儀が総理官邸の大ホールで執り行われた。その際にチャップリンは「憂国の大宰相・犬養毅閣下の永眠を謹んで哀悼す」との弔電を寄せた。この事に驚く参列者も多かった。
  • その1932年の初来日の際、通訳を務めたのは当時読売新聞文芸部長を務め、後に小説家に転身した小野金次郎で、小野金次郎がチャップリンから戴いたサイン入りポートレートが孫である俳優の小野武彦が自身の自宅に保存していることを明かしている[19]
  • 1936年(昭和11年)3月に再来日。ユナイト映画の大阪支社に勤務していた淀川長治が、神戸港に停泊するクーリッジ号で、45分の単独インタビューに成功。同年5月には、当時の愛人ポーレット・ゴダードとの新婚旅行を兼ねた世界漫遊の途中で3度目の来日。船上でジャン・コクトーと合流する。京都に足を運び、最高級の老舗旅館「柊家」に宿泊。名所旧跡を訪ね、西陣のガウンを購入した。銀ブラ浅草相撲見物と愉しみ、足早に離日。チャップリンは船のタラップを駆け上り、やおら振り向くと、帽子をつぶして、セントヘレナ島へ流されるナポレオンのポーズをとって、見送りの人々をドッと笑わせたという。
 
チャップリンが『義経千本桜』を鑑賞した「東横ホール」があった東急百貨店東横店(1959年の写真)
  • 3度目の来日は戦後で1961年(昭和36年)7月にウーナ夫人、長女のジェラルディン、長男のマイケルを連れて4度目の来日。通訳を務めたのは山口淑子渋谷東横ホールで、五代目中村富十郎の『義経千本桜』を鑑賞。日光東照宮では靴下に草履ばきで、指が入らず突っ掛けて、お参り。藁ぶき屋根の農家や、風情ある銭湯を見つけるとふらり立ち寄り、お茶をご馳走になったり、脱衣場に居合わせた人々にビールやアイスクリームを振る舞ったという。高度成長期で変貌著しい東京の風景には失望するも、チャップリンがもっとも愛したと言われる京都に来て、「古き良き日本の姿」を見て喜んだと伝えられる。
  • この時は岐阜を訪れ、鵜飼を鑑賞した。鵜匠山下幹司の絶妙な手縄さばきに「ワンダフル」を連発。幻想的な篝火にも魅了され、「鵜飼は一遍の詩であり、鵜匠は詩人である」と言い残した。
  • 4度目の来日の際にも再び岐阜を訪れたが、すっかり変わり果てた鵜飼の姿に「戦前はこんなのではなかった……」と落胆した。岐阜市内での鵜飼のポスターには、鵜とチャップリンが共にいるデザインが採用されたりもした。下呂温泉の白鷺橋には記念のブロンズ像2001年に設置された。
  • 第44回アカデミー賞の授賞式に先立って行われたニューヨークでの歓迎会では黒柳徹子と面会している。彼女と対面した時、チャップリンは大変感激して「キョウト、フジヤマ、ウカイ・・」と感涙した。
  • 1970年(昭和45年)の大阪万博の時に、日本側が招聘を試みたが実現しなかった。1972年(昭和47年)のリバイバル上映時も来日が企画されたが実現せず、代わりに次女ジョゼフィンが来日した。
  • 晩年マスコミから遠ざかり、スイスに隠棲していたチャップリンに、幸運にも接する機会を得た著名人としてタレント萩本欽一ヴァイオリニスト前橋汀子がいる。萩本は1971年フジテレビの番組企画でヴヴェイのチャップリン邸にアポなしで訪問。4日粘ってやっと会えたという。この辺りの経緯は、萩本のページに詳しい。前橋汀子は1976年の秋、ヴヴェイのクニーサーカス公演にウーナ夫人ら家族とともに姿を見せたチャップリンに、サインをもらう写真が残されている。
  • 1972年(昭和47年)、世界中でチャップリン回顧ブームとなる中、日本では東宝東和が「ビバ! チャップリン」と銘打ち、『モダン・タイムス』を皮切りに代表作10本(併映小品あり)を順次公開すると、異例の大ヒットを記録した。
  • 1977年の11月、「チャップリンと私」という作文を募った雑誌ロードショーの企画で、優秀賞に選ばれた読者がスイスのチャップリン邸を訪問するツアーが敢行された。喜劇俳優の伴淳三郎も参加し、一行はウーナ夫人に温かく迎えられたものの、チャップリン本人には会えなかった。置土産に持参した市松人形は、永くチャップリンの自室に飾られたという。
  • 1977年(昭和52年)のクリスマス、折しも有楽町で上映されていた、彼の半生を綴るドキュメンタリー放浪紳士チャーリー(The Gentleman Tramp)』(1975)。上映終了後、館内に訃報のアナウンスが流れると、客席からはすすり泣きや感動の拍手が沸き起こった。
  • 1977年12月、月曜ロードショーを急遽変更し、チャップリンの追悼番組「さようなら喜劇の王様」を放送。前橋は解説者の荻昌弘の横でアシスタントを務めていた。また翌、1978年の「欽ドン! 追悼チャップリン特集」で、1971年放送の「拝啓チャップリン様・コント55号只今参上!」のダイジェストを放送している。
  • ロングランは続き、1986年(昭和61年)に国内での上映権が一旦切れた後は、衛星放送や市販ビデオレーザーディスクなどで楽しむ他はなかった。しかし2003年(平成15年)、日本ヘラルド映画が『犬の生活』以降の国内上映権を再購入し、同年5月から朝日新聞と日本ヘラルド映画の主催で「Love Chaplin! チャップリン映画祭」が全国各地の映画館で行われ、後にDVDソフトとしてデジタルリマスターされた版が日本ヘラルド映画(発売元)、ジェネオンエンタテインメント(販売元)からリリースされた[注釈 14]。これらチャップリンの名作は、現在KADOKAWAよりブルーレイディスクが出ており、最良のクオリティーで視聴可能である。
 
『放浪紳士チャーリー』のメイン上映館であったニュー東宝シネマ[20](後のTOHOシネマズ有楽座ニユートーキヨービル内)
  • ビデオテープが普及する前、権利なしのチャップリンの映画は家庭用8mm16mmフィルムでよく見られていた[注釈 15]。アメリカのブラックホーク社が大量のクラシック映画を一般家庭用に分売しており、輸入業者を通じて手軽に入手できた。マツダ映画社公共図書館などの弁士付き上映会でも頻繁にかかっていた。
  • テレビでもチャップリン映画は盛んに放映されており、古くはフランキー堺(「チャップリン小劇場〔NHK〕」)や愛川欽也(『キッド』)によるナレーション入りで、90年代永井一郎小松政夫吹き替えた短編コメディーの放送があった。
  • 生誕100年となる1989年NHKスペシャルで若き日のチャップリンを描いたイギリス発テレビドラマ(吹き替えはハンナ役に木の実ナナ、チャーリー役に浪川大輔)と、チャップリンの未公開NG映像で構成された『知られざるチャップリン』が放送された。それは本編をかなり短縮して2部構成にし、元のジェームズ・メイソンのナレーションをカットして、加賀美幸子アナウンサーと萩本欽一が番組進行に当たっている。淀川長治の解説映像も別録りで付いていたが、大半は萩本欽一のアテレコとトークが占めていた。
  • 郵政民営化以前の1989年、郵便局のMMC貯金POSTのイメージキャラクターに起用され、実写ではないイラストのチャップリンが動くCMが放送されていた。
  • 2006年日本チャップリン協会が設立された。名誉会長は黒柳徹子、最高顧問にジョゼフィン・チャップリン、名誉顧問に山口淑子、会長に大野裕之が就任、本部は京都大学にある。2006年3月25日から4月2日まで、「チャップリンの日本」と題して、高野虎市遺品展と国際シンポジウム京都市で開催され、大きな話題を呼んだ。国際シンポジウムではジョゼフィン・チャップリン、黒柳徹子、チャップリン研究の権威デイヴィッド・ロビンソン、大野裕之、ハリウッド日系人俳優クライド・クサツらが講演した。2007年3月には、京都市で日本チャップリン協会の主催で、「チャップリンと戦争」と題して、第二回チャップリン国際シンポジウムが開催され、チャップリンの孫のチャーリー・シストヴァリス、市川染五郎、大野裕之らが講演した。第三回にあたる2009年3月には、次男のユージーンが招かれ、父親との思い出を語った。
  • 手塚治虫は、生前「どうすれば、人々の記憶に残る漫画が描けるのですか?」という質問に対して「とにかくチャップリンの映画を観ろ。あれにすべての答えがある」と決まって答えている。また「私の漫画の手法はチャップリンなしに考えられない」と語っており、ヒゲオヤジのキャラクターの足の先が太くしゃんと立てないのはチャップリンの真似であったと明かし、さらに画面のコマを斜めにして、それまでの漫画の常識を壊したのも『黄金狂時代』のラストの真似だったと明かした。自著においても、ウォルト・ディズニーと同等チャップリンを敬愛している旨を述べている[要出典]
  • 日本におけるチャップリンの評論家としては長く淀川長治が代表的な存在だったが、淀川の死後は劇団とっても便利大野裕之がチャップリン評論家の第一人者となった。まだ20歳代の大野は「Love Chaplin! チャップリン映画祭」(劇場パンフレット執筆)、「Love Chaplin! DVDコレクターズ・エディション」(ライナーノーツ執筆)の監修を行い、2005年7月にロンドンで行われたチャップリン国際会議にも、日本を代表して出席した。
  • 黒澤明は自身の「映画ベスト100」企画で、『黄金狂時代』と共に北野武HANA-BI』を入れて、同じコメディアンで映画の監督・主演も行うビートたけし(北野武)に「チャップリンと重なることがある」と評している[21]。またチャップリンは日本映画は黒澤の三船敏郎主演・京マチ子出演の『羅生門』しか見ていないが「非常に高い水準の作品」と絶賛[要出典]
  • 三谷幸喜は小学生の頃、「ビバ! チャップリン」シリーズを見てファンになり、自分の描いた似顔絵を持って会いに行ったが会うことはできず、秘書に手渡したら1ヵ月後にサイン付きで送り返してくれたと語っている[注釈 16]
  • 爆笑問題太田光は幼少期からチャップリンの大ファンであることが知られており、著書などでもチャップリンへの尊敬を語ることが多い[22][23]

フィルモグラフィー編集

キーストン時代編集

 
『チャップリンのパン屋』(1914)のポスター

エッサネイ時代編集

 
『チャップリンの拳闘』(1915)のオリジナル・ポスター

ミューチュアル時代編集

 
『午前一時』(1916)のオリジナル・ポスター

この期に製作された短編のアウトテイクスが奇跡的に残されており、『知られざるチャップリン(チャップリン・その素顔と未公開映像)』(Unknown Chaplin)というドキュメンタリーの中で見ることができる。NHKでも一部放映された。

ファースト・ナショナル時代編集

 
『担へ銃』(1918年)
↑ここまでは全作品米国ではパブリックドメイン(音楽を除く、米国以外では許諾が必要)↑

ユナイテッド・アーティスツ時代編集

 
『黄金狂時代』(1925年)の靴を食べる名シーン
 
『モダン・タイムス』(1936年)
※:米国ではパブリックドメイン(米国以外では許諾が必要)

イギリスでの作品他編集

受賞歴編集

部門 作品 結果
キネマ旬報ベスト・テン 1924年 芸術的に最も優れた映画 巴里の女性 1位
1926年 外国映画ベスト・テン 黄金狂時代 1位
1952年 外国映画ベスト・テン 殺人狂時代 1位
1960年 外国映画ベスト・テン 独裁者 1位
アカデミー賞 1929年 名誉賞 サーカス 受賞
1940年 作品賞 『独裁者』 ノミネート
主演男優賞 ノミネート
脚本賞 ノミネート
1947年 脚本賞 『殺人狂時代』 ノミネート
1971年 名誉賞 - 受賞
1972年 作曲賞 ライムライト 受賞
ニューヨーク映画批評家協会賞 1940年 主演男優賞 『独裁者』 受賞
1952年 主演男優賞 『ライムライト』 ノミネート
ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 1940年 演技賞 『独裁者』 受賞
1947年 作品賞 『殺人狂時代』 受賞
ボディル賞 1949年 アメリカ映画賞 『殺人狂時代』 受賞
1959年 名誉賞 - 受賞
英国アカデミー賞 1952年 総合作品賞 『ライムライト』 ノミネート
1976年 アカデミー友愛賞 - 受賞
ブルーリボン賞 1952年 外国作品賞 『殺人狂時代』 受賞
ナストロ・ダルジェント賞 1953年 外国監督賞 『ライムライト』 受賞
ヴェネツィア国際映画祭 1972年 栄誉金獅子賞 - 受賞
リンカーン・センター映画協会 1972年 Chaplin Award Gala - 受賞
全米監督協会賞 1974年 名誉終身会員賞 - 受賞

その他の受賞・勲章・称号編集

その他編集

著作権問題編集

上記の主要な作品の内、1952年までの作品は著作権の保護期間(公開後50年)が終了したと考えられたことから、幾つかの作品が激安DVDで発売された。これに対し、製作者(版権継承者)のリヒテンシュタインの法人は、米国でパブリックドメインとなった作品を含む全作品の著作権が2015年(監督没後38年)まで日本で存続すると主張して発売業者を相手取り、発売差し止めと在庫の廃棄を求める訴えを東京地裁に起こした。2007年8月29日に東京地裁で原告全面勝訴の判決が下った。このうち、『殺人狂時代』は2017年、『ライムライト』は2022年まで保護期間が存続するとされた[注釈 17][24]。発売業者は知財高裁控訴したが、2008年2月28日に控訴棄却の判決を下した。2009年10月8日に最高裁判所第一小法廷は発売業者の上告を棄却、判決が確定した。

トピックス編集

 
スイスヴェヴェイに立つ銅像

脚注編集

[脚注の使い方]

注釈編集

  1. ^ 「近年発見されたチャップリン宛の手紙では、彼がバーミンガム郊外のジプシー集落で生まれたとある[1]」などと報道されたが、チャップリン研究の大野裕之によると[信頼性要検証]、この手紙の存在は以前から研究者の間で知られており、「薄気味悪い話の好きなチャップリンは頭のおかしな人からの手紙をとっておいただけ」とのことである。
  2. ^ この劇団には後にローレル&ハーディとして有名になるスタン・ローレルも在籍していた。
  3. ^ チャップリンはその当時驚異的な人気ゆえに、扮装から軽妙な動作に至る模倣者が多く出現した。ビリー・ウェストハロルド・ロイドもその一人で、1917年に、チャップリン側は物まね芸人を相手取って訴訟を起こした。無論勝訴したのだが、権利概念の乏しかった時代に、後のミッキーマウスなどに代表される「キャラクター商標権」をこのとき初めて導入したのが兄シドニーであった。
  4. ^ この書物は1922年欧米で刊行され、日本では『僕の旅』(高瀬毅訳)として1930年(昭和5年)に中央公論社より出版された。
  5. ^ この賞はこれ以降廃止された。
  6. ^ 女たらしで喧嘩っ早く、周囲との揉め事は始終絶えない。ラストは偽った身分もバレて巡査との追いかけっこ、というパターンがお決まりである。
  7. ^ 兄のシドニーがユダヤ人のクォーターであると主張しており、それが関連している可能性がある。詳しくは英語版Wikipedia ‐ Sydney Chaplinを参照のこと。
  8. ^ チャップリンが主演のヴァージニア・チェリルを根本的に好かなかったという理由がある。
  9. ^ 作品の重要なモチーフとなっている「La Violetera英語版(すみれの花売り娘)」は、スペインの歌手ラケル・メレエによって広く歌われたシャンソンで、チャップリンはこの曲をこよなく愛した。
  10. ^ 当初はトーキー映画として構想されたが、撮影初期段階でできばえに満足せず、サイレントに切り替えられた。
  11. ^ 左利きだったため、弦は通常とは逆の並びに張られている特注品を愛用していた。
  12. ^ また、チャップリンの従兄弟も二人は結婚していなかったと回想している。
  13. ^ チャップリンは犬養毅首相との面会予定をキャンセルし、犬養の息子・国技館相撲を観戦したあと散歩をしていたため、事件そのものには遭わなかった。しかし狙われている可能性があると、高野と親しかった元陸軍少将・櫻井忠温からの情報により助けられた。陸軍青年将校らの不穏な動きを知らされた高野は東京駅から帝国ホテルに向かう車中、チャップリンに車から降りて皇居に遥拝してほしいと頼む。6月2日の帰国当日の朝、斎藤実首相を官邸に訪問した後、犬養毅が暗殺された現場に案内されたチャップリンは、板戸に残る弾痕を見て、思わず「テリブル、テリブル」と呟いたという。
  14. ^ このコレクターズ・ボックスは廃盤となり、現在メモリアル・エディションとして紀伊國屋書店から再リリースされている。特典映像を含め、内容は同一のものである。しかしPALマスター(ヨーロッパ仕様の規格)を流用しているため、再生速度の問題(4%の早回しで国内の既発盤より音声ピッチが高いこと)、『チャップリン・レヴュー』の原版違いによるカットなどが指摘されている。
  15. ^ 中でも人気だったのが『チャップリンの冒険』や『キッド』※但しサイレント版。サウンド版には著作権が存在する。
  16. ^ スタジオパークからこんにちは』(NHK 2011年10月26日放送)、『新堂本兄弟』(フジテレビ 2013年11月3日放送)にゲスト出演した際、現物を披露した。
  17. ^ 何れも監督没後38年と、公開後70年の長い現行法を適用。

出典編集

  1. ^ Was Charlie Chaplin a Gypsy?
  2. ^ Chaplin, Fairbanks, Pickford & Griffith Signing United Artists Contract - 1919 映像 - YouTube
  3. ^ Charlie Chaplin Returns Home Aboard RMS Olympic 1921 (HD/audio) - YouTube
  4. ^ C.チャップリンJr著『わが父チャップリン』p.41
  5. ^ "Charlie" Meets Gandhi (1931) - YouTube
  6. ^ Charlie Chaplin's Honorary Award: 1972 Oscars - YouTube
  7. ^ a b 1975 New Year Honours”. The London Gazette. 2020年3月19日閲覧。
  8. ^ Story of Charlie Chaplin's Kidnapping - YouTube
  9. ^ 1978: Charlie Chaplin's stolen body found
  10. ^ Charlie Chaplin - Kids Auto Races In Venice - YouTube
  11. ^ 『自伝』より。
  12. ^ Charlie Chaplin Conducts The Abe Lyman Orchestra - 1925 - YouTube
  13. ^ Honeysuckle and the Bee - Ragtime Parlour! - YouTube
  14. ^ 「ロバート・オルドリッチ読本1 - カリフォルニア・ドールズ / 合衆国最後の日」.遠山純生.通販番号RS121112-03.2012年11月12日.EAN 2122101000050.boid.
  15. ^ 大野裕之著『チャップリン・未公開NGフィルムの全貌』p.8[注釈 12]
  16. ^ Tokyo Art Beat. “チャップリンの日本”. 2018年10月10日閲覧。
  17. ^ a b 布とステッキの素敵な関係(柳谷廣之) 繊維と工業 Vol.69 No.12、2019年12月10日閲覧。
  18. ^ 読売新聞 2018年3月5日 P.8 「時代の証言者」『冤罪のち次官 村木 厚子 28 最終回
  19. ^ ウチくる!?』(フジテレビ 2013年3月10日放送)にて小野武彦自身の述懐。
  20. ^ 直営洋画劇場上映作品 1965-1983 有楽町、ロードショー(洋画)上映作品リスト (PDF) - 東宝株式会社
  21. ^ 『増補新版 黒澤明ムック』A5/ソフトカバー 304ページ ISBN:978-4-309-97730-0 Cコード 9474 2010.01.15。このベスト100の初出は『文芸春秋』1999年4月号。その他に日本版『PLAYBOY』2008年3月号にも再録され、2014年4月には文藝春秋より黒澤和子の解説つきで『黒澤明が選んだ100本の映画』ISBN-13:9784166609673 として出ている。
  22. ^ 爆笑問題の死のサイズ.2000/06/23.ISBN 9784594029333.扶桑社.
  23. ^ オー!!マイ神様!!」 2017年11月14日(火)放送 「オー!!マイ神様!!」 2017年11月14日(火)放送内容
  24. ^ 平成18(ワ)15552 著作権侵害差止等請求事件 : 裁判所 裁判例情報:検索結果詳細画面 (PDF)”. 裁判所ウェブサイト. 東京地方裁判所 民事第29部 (2007年8月29日). 2016年12月18日閲覧。
  25. ^ チャップリン博物館、ついに開館 スイス西部 2016年4月18日付 AFP通信
  26. ^ トヨタの豊田章男社長の偽チャップリン発言について、「ウォール・ストリート・ジャーナル」の取材に答 - 大野裕之 amebaブログ
  27. ^ Collector finds unseen Charlie Chaplin film in tin sold for £3.20 on eBay
  28. ^ 映画「ダンシング・チャップリン」公式サイト
  29. ^ 映画「チャップリン・ザ・ルーツ」公式サイト
  30. ^ カートゥーンネットワーク - チャップリン&CO

著作(訳書)編集

  • 『チャップリン自伝』 中野好夫訳、新潮社、1966年
    • 『チャップリン自伝〈上〉 若き日々』 新潮文庫、1981年、改版2005年
    • 『チャップリン自伝〈下〉 栄光の日々』 新潮文庫、1992年。解説淀川長治
  • 各 新訳版『チャップリン自伝 若き日々』 中里京子訳、新潮文庫、2017年4月
  • 『チャップリン自伝 栄光と波瀾の日々』 中里京子訳、新潮文庫、2017年12月
  • 『小説ライムライト チャップリンの映画世界』 集英社、2017年
    デイヴィッド・ロビンソン編、大野裕之監修、上岡伸雄南條竹則

関連書籍(日本語)編集

NHK教育テレビ知るを楽しむ』のテキスト、モーツァルト併録。 大野がチャップリンの魅力を語った4回シリーズ)
  • 大野裕之 『チャップリンの日本』 日本チャップリン協会、2006年
  • 大野裕之 『チャップリン暗殺 5.15事件で誰よりも狙われた男』 メディアファクトリー、2007年、ISBN 978-4-8401-2090-6
  • 大野裕之 『チャップリン・未公開NGフィルムの全貌』 日本放送出版協会、2007年、ISBN 978-4-14-081183-2
  • 大野裕之 『チャップリンの影〜日本人秘書・高野虎市』 講談社、2009年、ISBN 978-4063397598(100周年記念出版)
  • 大野裕之編 『チャップリンのために』 とっても便利出版部、2000年
    チャップリン自身と淀川長治江藤文夫澤登翠・小松弘・千葉伸夫・大野裕之の著作を収録
  • 『チャップリンと戦争 『チャップリンの独裁者』展 チャップリン没後30年記念』
    デイヴィッド・ロビンソン企画・監修/日本版・大野裕之編・監修、伊藤恵一・林愛沙訳、日本チャップリン協会、2007年
  • 橋本勝 『チャップリン イラスト版オリジナル』 現代書館「FOR BEGINEERSシリーズ」、1986年
  • 『サイレント・コメディ全史』 新野敏也ほか、喜劇映画研究会編・刊、1992年、ISBN 978-4906409013
  • マック・セネット 『〈喜劇映画〉を発明した男 帝王マック・セネット、自らを語る』 石野たき子訳・新野敏也監訳、作品社、2014年、ISBN 4861824729

品切・絶版書籍編集

  • 初版は中原弓彦の名義「喜劇の王様たち」校倉書房、1963年
  • 中原弓彦「笑殺の美学―映像における笑いとは何か」大光社、1971年
  • 杜こなて 『チャップリンと音楽狂時代 - クラシックとポピュラーをめぐる近・現代史』 春秋社、1995年

歴史ミステリ小説編集

関連項目編集

外部リンク編集