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反ユダヤ主義の歴史的発展については、ジェローム・チェーンズによる次のような整理がある<ref name=Chanes5>{{cite book|title=Antisemitism: A Reference Handbook|first=Jerome A.|last=Chanes|publisher=ABC-CLIO|year=2004|pages=5–6|url=https://books.google.com/?id=ju7U83nRDt8C&pg=PA5&dq=%22economic+antisemitism%22+antiquity#v=onepage&q=%22economic%20antisemitism%22%20antiquity&f=false|isbn=9781576072097}}</ref>。
# [[キリスト教]]以前の[[古代ギリシャ]]や[[古代ローマ]]における{{仮リンク|反ユダヤ教|en|anti-Judaism}}。これは[[民族主義|民族意識]]的な性格であった。
# [[古代]]・[[中世]]における[[キリスト教と反ユダヤ主義|キリスト教的反ユダヤ主義]]なもの。これは宗教的・[[神学]]的な性格を持ち、近代まで拡大していった。
# [[イスラームと反ユダヤ主義|イスラームにおける反ユダヤ主義もの]]。ただし、[[イスラム教]]ではユダヤ教徒はキリスト教文化圏よりも厚遇された。
# [[啓蒙時代]]の政治的経済的反ユダヤ主義なもの。これは後の人種的反ユダヤ主義なもの(反セム主義)の基盤をなした。
# [[19世紀]]以降の{{仮リンク|人種的反セム主義|en|Racial antisemitism}}。これは[[ナチズム]]において最高潮に達した。
# 現代の反ユダヤ主義もの({{仮リンク|新しい反セム主義|en|new antisemitism}}ともいう)。
 
チェーンズは、さらに反ユダヤ主義を大きく以下の3つの[[カテゴリ]]に分けることができるとする<ref name=Chanes5/>。
# 民族的な性格の強かった古代の反ユダヤ主義もの
# 宗教的な理由によるキリスト教的反ユダヤ主義なもの
# 19世紀以降の人種的反セム主義なもの
 
実際には、[[古代ローマ]]以前で民族間の一般的な虐待や酷使と後世の意味での反ユダヤ主義を識別することは難しい。[[ヨーロッパ]]諸国家がキリスト教を受け入れてからは、明確に反ユダヤ主義と呼ぶべき事態が生じていった。[[イスラム教]]世界ではユダヤ人は[[アウトサイダー]]と見なされてきた。[[科学革命]]と[[産業革命]]以後の近代社会では[[人種]]に基づく反ユダヤ主義(反セム主義)が唱えられ、[[第二次世界大戦]]中の[[ナチス・ドイツ]]によるユダヤ人[[大量虐殺]]をもたらした。1948年の[[イスラエル]]建国以後は[[中東]]においても反ユダヤ主義がはびこるようになった。
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以下では、反ユダヤ主義の歴史だけでなく、反ユダヤ主義が生まれた背景として、ユダヤ人をとりまく時代ごとの状況、各国各社会におけるユダヤ人の取り扱いのほか、ユダヤ側の反応などの歴史を述べる。
 
== 古代の反ユダヤ主義 ==
{{See|ユダヤ人#歴史|ユダヤ教|古代イスラエル}}
 
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[[紀元前2世紀]]、[[セレウコス朝]][[シリア]]の王[[アンティオコス4世エピファネス|アンティオコス4世]]は[[エジプト]]の[[プトレマイオス朝]]を打倒して当地のユダヤ人を支配した。[[紀元前167年]]にユダヤ人の反乱[[マカバイ戦争]]が起きると、アンティオコス4世は弾圧政策を開始したが、そこにはユダヤ種は他の民と友好関係を結ぼうとせずにすべてを敵とみなしているため、完全に絶やす意図があったと記録されている{{efn2|[[ポセイドニオス|アパメイアのポセイドニオス]]による記録<ref name="po-1-15-40"/>。}}。
 
=== ローマ帝国と初期キリスト教における反ユダヤ主義いて ===
[[Image:Marx Reichlich 001.jpg|200px|thumb|『[[石打ち]]に処される[[ステファノ]]』(Marx Reichlich作、1506年)。]]
[[File:Saint Paul Ananias Sight Restored.jpg|thumb|200px|『パウロの回心』([[ピエトロ・ダ・コルトーナ]]作、1631年)。]]
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キリスト教徒にとってのユダヤ人は、イエスの啓示を否定するとともにイエスを殺害した特別な民族であり、ユダヤ人は神の冒涜者で世界の道徳秩序の破壊者であり、これはキリスト教文化の原理となった<ref name="g-64-89"/>。4世紀にキリスト教教会が勝利を収めてから中世を通じて反ユダヤ主義は断絶しなかった<ref name="g-64-89"/><ref>James Parks,Antisemitism,1969,p.60.</ref>。
 
=== ゲルマン諸王国と反ユダヤ主義 ===
ヨーロッパのゲルマン諸王国ではカトリックへの改宗が進んだ。[[496年]]には[[メロヴィング朝]][[フランク王国]]の[[クロヴィス1世]]が、またイタリアの[[ランゴバルド王国]]、[[587年]]には[[スペイン|イスパニア]]の[[西ゴート王国]]がカトリックへ改宗し、[[中世ヨーロッパのキリスト教国家|キリスト教国家]]となった。
 
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北アフリカのイスラム王朝[[ムワッヒド朝]](1130年 - 1269年)でもキリスト教徒とユダヤ教徒が迫害された。
 
== 中世の反ユダヤ主義 ==
[[画像:jerusalem Holy Sepulchre BW 19.JPG|サムネイル|250px|イスラムに破壊された後、再建された聖墳墓教会]]
[[カペー朝]][[フランス王国]]では、[[992年]]、[[リモージュ]]ないし[[ル・マン]]で、キリスト教に改宗したセホクがユダヤ共同体から追放された腹いせに、蝋人形をシナゴーグの聖櫃に隠してユダヤ人はキリスト教徒への呪いの儀式を行っていると告発した<ref name="kanno1-16-26"/>。996年、[[ユーグ・カペー]]が死んだ場所が「ジュイ」であったため、ユダヤ人が死の原因とされた<ref name="kanno1-16-26"/>。1007年頃、[[ロベール2世 (フランス王)|ロベール2世敬虔王]]がユダヤ教徒へ改宗を強制し、従わない者は処刑すると命じた。ユダヤ教徒イェクティエルの直訴を受けた教皇は、フランス王に撤回させた<ref name="kanno1-16-26"/>。
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[[1084年]]、ドイツの[[シュパイアー]]司教リューディガーは、ユダヤ人にキリスト教徒の下僕や農奴、畑や武器を持つことを許可しており、この時は反ユダヤ主義はまだ激しくはなかった<ref name="po-1-50-59"/>。
 
=== 十字軍と反ユダヤ主義 ===
[[Image:PeoplesCrusadeMassacre.jpg|thumb|200px|[[民衆十字軍]]]]
[[ファイル:Peter the Hermit.jpg|thumb|200px|[[隠者ピエール]]率いる民衆十字軍]]
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中世のユダヤ人ラビは、イエスを詐欺師とみたり、また敬虔なユダヤ教徒であったが、弟子たちがイエスを聖人として新しい宗教を作ったとみた<ref>[[#上山安敏2005|上山安敏2005]],p.266.</ref>。このようにユダヤ教においても、キリスト教への憎悪がむき出しになっていた<ref name="uey-267-8">[[#上山安敏2005|上山安敏2005]],p.267-268.</ref>。
 
== 中世後期の反ユダヤ主義:14〜15世紀 ==
[[ファイル:Chevalier Roze à la Tourette - 1720.PNG|300px|サムネイル|ペストを描いた絵画]]
 
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*[[1345年]]、ボヘミア王[[ヨハン・フォン・ルクセンブルク]]は、レグニツァ、ヴロツワフで、ユダヤ人の墓地を壊して、その墓石で町の城壁を補修するよう命じた<ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.137.</ref>。
 
=== ペストと反ユダヤ主義 ===
[[1347年]]([[1348年]])から[[1350年]]([[1349年]])にかけての黒死病([[ペスト]])大流行ではヨーロッパの人口の3分の1以上が被害となったが、その[[スケープゴート]]としてユダヤ人迫害が各地で発生した<ref name="fr419"/><ref name="t">[[#立川昭二1971]],85頁</ref><ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.138-139.ではペストの期間を[[1347年]]から[[1350年]]としている。</ref>。フランス王国ではユダヤ人による毒散布の噂が広まり、最大規模のポグロムが起きて、フランス王国内のユダヤ人共同体はほぼ消滅した<ref name="fr419"/>。改宗しなかったユダヤ人家族は火刑台の火が見えてくると皆で歌いだして、歌いながら火に飛び込んでいったといわれ、こうしたことの背景には、集団自殺の契約、また[[殉教者]]としての固い決意があったとされる<ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.202-203</ref>{{efn2|ユダヤ教では、[[アブラハム]]が一人息子[[イサク]]を生贄に捧げるよう神に命じられる[[イサクの燔祭]]が信仰されており、アケダーと呼ばれる<ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.203. p.416 訳注によれば、アケダーは燔祭用の動物の足を縛ること、イサクの犠牲を意味する。</ref>}}。
 
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各地のゲットーのユダヤ人住民は厳密に規定された質素で敬虔な生活を送った<ref name="po-1-206-211"/>。ゲットーの生活は、キリスト教修道院の生活に似ており、周囲から隔絶され、神への奉仕をもっぱらとし、敬虔と自己犠牲、知的作業に染め抜かれた<ref name="po-1-206-211"/>。
 
=== 修道士の反ユダヤ主義と各地でのユダヤ人追放 ===
*[[1413年]]-[[1414年]] - [[対立教皇]][[ベネディクトゥス13世 (対立教皇)|ベネディクトクス13世]]が[[カタルーニャ州|カタルーニャ]]の[[トゥルトーザ]]で69回に亘る会議を開催、[[ナザレのイエス]]が[[メシア]]であることをユダヤ教徒に説得しようとしたが、失敗。のち公開勅書により、キリスト教徒が[[タルムード]]を研究することを禁止した。
 
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[[1499年]]、トレドで、ユダヤ人の改宗者[[コンベルソ]]の商人が課税をフアン2世に献策すると、キリスト教民衆が激昂して、コンベルソ商人の自宅を焼き討ちした<ref name="Sp188"/>。
 
== 近世の反ユダヤ主義 ==
=== 近世ドイツ ===
==== 近世ドイツの人文主義 ====
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ヨーゼルの論敵は、改宗ユダヤ人のアントニウス・マルガリータだった。ラビの息子だったマルガリータはレーゲンスブルクのユダヤ共同体を公権力に告発し、[[1522年]]にカトリックに改宗し、プフェファーコルンを模範としたユダヤ教批判を行った<ref name="po-1-283-305"/>。アウクスブルク国会でヨーゼルが「ユダヤ教の背教者によるユダヤ教の主張は根拠を持たない」と主張すると、マルガリータは有罪としてアウクスブルクから追放された<ref name="po-1-283-305"/>。またこの影響でハンガリーとボヘミアのユダヤ追放令は廃案となっている<ref name="po-1-283-305"/>。マルガリータの著書はルターが最大の典拠の一つとするなどその後も影響力を持った<ref name="po-1-283-305"/>。
 
==== ルターの反ユダヤ主義 ====
[[ファイル:Lucas Cranach (I) workshop - Martin Luther (Uffizi).jpg|200px|サムネイル|[[マルティン・ルター]]([[1483年]] - [[1546年]])]]
[[1517年]]に[[宗教改革]]をはじめた[[マルティン・ルター]]は、反ユダヤ主義的な意識を持っていたことでも知られる<ref name="po-1-269-283"/><ref name="sim-108">[[#下村 1972|下村 1972]], p.107-8.</ref>。初期のルターは、ユダヤ教徒を反教皇運動の援軍とみなしていた。ヴォルムス国会の期間中にユダヤ人と討論したルターは、[[1523年]]に『イエスはユダヤ人として生まれた』などの小冊子を著して、愚者とうすのろのロバの教皇党たちが、ユダヤ人にひどい振る舞いをしてきたため、心正しきキリスト者はいっそユダヤ人になりたいほどだ、と述べたり、ユダヤ人は主と同族血統であるから、ユダヤ人はメシアであるイエスに敬意を表明し、キリストを神の子として認めるよう改宗を勧めた<ref name="po-1-269-283"/><ref name="osw55-75">[[#大澤1991]],p.55-75</ref>。他方で、教皇がドイツ人を利用して第二のローマ帝国を築いたが、その名を持っているのはドイツ人であり、神はこの帝国がドイツのキリスト教徒の王によって統治されることを望んでいると述べたり<ref>『ドイツ国民のキリスト教貴族に与う』(1520)</ref>、1521年に「私はドイツ人のために生まれた」と述べるなどドイツ人の国民意識に立った発言を繰り返した<ref name="p-A-109-111">[[#ポリアコフ1985]],p.109-111.</ref><ref>「宗教改革」世界大百科事典,平凡社.</ref>。さらに[[騎士戦争]]や、ルター派の[[トマス・ミュンツァー|ミュンツァー]]による[[ドイツ農民戦争|農民戦争]]が起きると、ルターは反乱勢力を批判し、それ以来ルターは人間世界のいたらなさや、政治的責任を強く感じるようになり、人間の内的自由に、神によってもたらせた地上の事物の秩序が対置され、服従の義務を唱え、キリスト教徒は従順で忠実な臣下でなければならないと説くようになった<ref name="po-1-269-283"/>。そのうちにルターは、不首尾の原因をユダヤ人のなせる業とみなすようになっていく<ref name="po-1-269-283"/>。ユダヤ人の改宗者はごくわずかで、改宗した者もほとんどが間をおかずしてユダヤ教に回帰したためか、[[1532年]]には「あのあくどい連中は、改宗するなどと称して、われわれとわれわれの宗教をちょっとからかってやろうというぐらいにしか思っていない」と述べている<ref name="po-1-269-283"/>。同年、「ドイツほど軽蔑されている民族はない」としてイタリア、フランス、イギリスはドイツをあざけっていると述べている<ref name="p-A-109-111"/>。[[1538年]]、ロースハイムのヨーゼルに対してルターは、私の心はいまもユダヤ人への善意に満ちあふれているが、それはユダヤ人が改宗するために発揮されると述べた<ref name="po-1-269-283"/>。その後まもなく、ボヘミアの改革派がユダヤ人の教唆のもとユダヤ教に改宗し、[[割礼]]を受けて、シャバトを祝ったという知らせが入ると、ルターは[[1539年]][[12月31日]]には「私はユダヤ人を改宗させることができない。われらが主、イエス・キリストさえ、それには成功しなかったのだから。しかし、私にも、彼らが今後地面を這い回ることしかできないように、その嘴を閉じさせるぐらいのことはできるだろう」と述べた<ref name="po-1-269-283"/>。
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*1709年、大厳冬の飢饉<ref name="Louis XIV"/>。
 
==== フランス・カトリックの反ユダヤ主義 ====
[[File:Bourdaloue portrait gravé.jpg|thumb|left|110px|[[イエズス会|イエズス会士]]・[[オラトリオ会]]修道院説教師ルイ・ ブルダルー]]
 
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>>[[#19世紀イギリス|19世紀イギリスへ]]
 
=== 理神論・合理主義とスピノザの反ユダヤ主義 ===
[[ファイル:Spinoza.jpg|サムネイル|200px|[[バールーフ・デ・スピノザ]](1632 - 1677年)は匿名でユダヤの神を憎しみの神であると論じ、この見方は[[啓蒙思想]]に広がっていった<ref name="po-1-6-7"/>。]]
[[ファイル: John Toland.jpg|サムネイル|200px|[[理神論]]哲学者ジョン・トーランド(1670 – 1722) は当時イギリスで唯一ユダヤ人を擁護した<ref name="po84-95"/><ref name="po96-98"/>。]]
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[[オーストリア継承戦争]]でユダヤ人がプロイセンのスパイとして活動したということから、[[1744年]]、[[オーストリア大公]][[マリア・テレジア]]がボヘミアでユダヤ追放令を出した<ref name="po-1-283-305"/>。しかし、ヴォルフ・ヴェルトハイマーがユダヤ人の国際連帯活動を行い、フランクフルト、アムステルダム、ロンドン、ヴェネツィアのユダヤ人居住地は警戒態勢を敷き、ローマのゲットーには教皇に働きかけるよう指示があり、宮廷ユダヤ人の国際ネットワークの力によって、イギリスとオランダがマリアテレジアへ抗議して、マリアテレジアは追放令を解除した<ref name="po-1-283-305"/>。このウィーンでのユダヤ追放令が国家による大規模な追放政策としては最後のものとなった<ref name="po-1-283-305"/>。
 
== 近代の反ユダヤ主義 ==
=== 啓蒙思想と反ユダヤ主義 ===
[[File:Voltaire.jpg|200px|サムネイル|right|[[啓蒙思想|啓蒙思想家]][[ヴォルテール]]は反ユダヤ主義者でもあった<ref name="sim111"/><ref>[[#ポリアコフ III]],pp.124-142.</ref>]]
[[ヴォルテール]]、カント、フィヒテなど[[啓蒙思想|啓蒙思想家]]のなかでも反ユダヤ主義は多くみられた<ref name="sim111">[[#下村 1972|下村 1972]], p.111-112.</ref>。また、それはドイツの啓蒙思想、[[ドイツ観念論]]でも同様であった。
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[[1798年]]、ロシア、トルコが参戦し、オーストリアも戦列に復帰して[[第二次対仏大同盟]]が結ばれ、[[1799年]]11月、ナポレオンがクーデターによって政権を握った<ref name="RevoWar"/>。
 
==== ドイツ観念論と反ユダヤ主義 ====
[[File:Immanuel Kant (painted portrait).jpg|サムネイル|170px|哲学者[[イマニュエル・カント]]は、ユダヤ人がキリスト教を公に受け入れれば、ユダヤ教は[[安楽死]]できると述べた<ref name="p-kant">カント全集18巻、岩波書店、p.73-74.</ref><ref name="p-3-kant"/>。]]
[[ファイル:Johann gottlieb fichte.jpg|サムネイル|170px|[[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ]]はユダヤ人の害から身を守るには、ユダヤ人全員を約束の地に送り込むしかないと論じた<ref name="p-3-kant"/>。またナポレオン占領下のベルリンで『ドイツ国民に告ぐ』([[1807年]]-[[1808年]])を講演して反響を呼び、ドイツ国民運動の祖となった。]]
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1908年にはイギリスで優生教育委員会、1910年にはアメリカで優生記録局が作られた<ref name="p-A-381-405"/>。アメリカでは優生学者[[チャールズ・ダベンポート|ダベンポート]]が[[1911年]]には『人種改良学』を発表した<ref>Heredity in Relation to Eugenics.『人種改良学』大日本文明協会事務所 (1914)</ref>。ゴルトンの優生学では常習犯の隔離や精神障害者の生殖の制限も主張され、アメリカでは1907年以降各州で[[断種法]]が制定され、移民排斥法や[[アメリカ合衆国における禁酒法|禁酒法]]などにも影響が見られた<ref name="sano98"/>。
 
=== ワーグナーと反ユダヤ主義 ===
[[ファイル:ワーグナーの写真(1871年).jpg|サムネイル|180px|ワーグナー]]
作曲家[[リヒャルト・ワーグナー]]は若い頃には[[青年ドイツ]]派の影響を受けて、新しい音楽はイタリア的でもフランス的でもドイツ的でもないところから生まれると論じていた<ref>[[#吉田 2009]],p.46-49.</ref>。
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フランスではワーグナーから招待された[[ボードレール]]<ref name="tt"/>、[[マラルメ]]、[[モーリス・バレス]]がワーグナーに熱狂し、カチェル・マンデスはパルジファルに巨大で輝かしいアーリアの神々が浮かび上がるのを見た<ref name="p-5-410-7"/>。1886年、ヴォルツォーゲン男爵<ref>Baron Hans Paul von Wolzogen (1848 – 1938)</ref> は、ドイツ人とフランス人はアーリア人種であり、アーリア芸術を称賛した<ref name="p-5-410-7"/>。雑誌『ルヴュ・ヴァグネリアン』の発行者で作家のエドゥアール・デュジャルダン<ref>Édouard Dujardin</ref> はワーグナーは宗教を創始し、パルジファルは第三のアダムで、イエスが世界の終わりに現れるときにとる姿であるとした<ref name="p-5-410-7"/>。ワーグナーは[[#新異教主義(ネオパガニズム)とアーリア神話|新異教主義(パガニズム)]]に大きな影響力を持ち、ヒトラーもワーグナーの崇拝者であった。
 
=== 社会主義・無神論と反ユダヤ主義 ===
==== フーリエ、トゥスネル ====
[[ファイル:Fourier.gif|サムネイル|[[シャルル・フーリエ]]はユダヤ人解放政策は金儲け精神によるもので、やがてフランスはシナゴーグとなり、ロトシルト(ロスチャイルド)王朝が創始されると論じた<ref name="po-Fourier"/>]]
1,180行目:
プロイセンの[[フェルディナント・ラッサール]]はユダヤ人の社会主義者・労働運動指導者だったが、奴隷として生まれついたユダヤ人に対して正しい復讐がわかっていない、と自己指弾し、「私はユダヤ人のことをまったく好きになれない」と述べた<ref name="po537-538">[[#ポリアコフ III|ポリアコフ III巻]],p.537-538.</ref>。
 
==== ヘーゲル左派と反ユダヤ主義 ====
[[ヘーゲル左派]](ヘーゲル青年派)のユダヤ系社会主義者[[モーゼス・ヘス]]はユダヤ人は魂のないミイラ、さまよい歩く幽霊のような存在であり、「ユダヤ教とキリスト教の神秘が、ユダヤ=キリスト教徒の商店主の世界に開示された」と述べるなどしていたが、後年、人種主義者となり、[[1862年]]の『ローマとイェルサレム』などでヨーロッパ社会にユダヤ人は同化できないとして、[[シオニズム]]の[[テオドール・ヘルツル]]に影響を与えた<ref name="po540">[[#ポリアコフ III|ポリアコフ III巻]],p.540.</ref>
 
1,213行目:
晩年のバウアーは『キリストと皇帝たち』(1877年)で、キリスト教はローマ帝政期の[[ストア派|ストア哲学]]の精神からユダヤ教を骨格として誕生したものとし、現代を紀元後1-2世紀のローマ帝政期にユダヤ人の寵臣が[[アウグストゥス]]、[[ティベリウス]]、[[カリグラ]]皇帝を取り巻き、ユダヤ教が勝利を誇っていた時代と重ね合わせ、『ディズレーリのロマン主義的帝国主義とビスマルクの社会主義的帝国主義』などを著し、反ユダヤ雑誌の創刊にも関わった<ref name="shinohara1992"/><ref>Schmeitzner's Internationale Monatsschrift" - 1882 (Paul Widemann)</ref>。
 
==== マルクスと反ユダヤ主義 ====
[[File:Karl Marx.jpg|200px|thumb|思想家[[カール・マルクス]]はユダヤ系であったが、反ユダヤ主義者でもあった<ref name="poMarx556-568"/><ref name="huruta"/>。マルクスには「ユダヤ的自己嫌悪」があったとキュンツリは指摘している<ref name="Künzli"/>。]]
 
1,222行目:
1848年にマルクスが編集長となった[[新ライン新聞]]の特派員エードゥアルト・テレリングは、[[1848年革命]]後、テレリングはプロイセン政府の御用記者となり、1850年に小冊子「来るべきマルクスとエンゲルスによるドイツ独裁制の前兆」でマルクスを批判した<ref name="poMarx556-568"/><ref>Eduard von Müller-Tellering, Vorgeschmack in die künftige deutsche Diktatur von Marx und Engels, Cologne, 1850. Werner Blumenberg, "Eduard von Mueller-Tellering, Verfasser des ersten antisemitischen Pamphlets gegen Marx", Bulletin of the International Institute of Social History, Amsterdam, vol. VI 1951 pp. 178-197.</ref>。テレリングは反ユダヤ主義と反マルクス主義の一大勢力の前兆であった<ref name="poMarx556-568"/>。
 
==== プルードンと反ユダヤ主義 ====
[[ファイル:Portrait of Pierre Joseph Proudhon 1865.jpg|サムネイル|200px|社会主義・無政府主義者プルードンは金利に通暁したユダヤ人は[[サタン]]であると非難し、その反ユダヤ主義は生涯続いた<ref name="po-496-504"/>。]]
フランスの[[社会主義]]・[[無政府主義者]][[ピエール・ジョゼフ・プルードン|プルードン]]はユダヤ人は「でっちあげ、模倣、ごまかしをもって事に当たる」、ユダヤ人は金利の上昇と下降、需要と供給の気まぐれに通称しており、まさに「悪しき原則、サタン、アーリマン」であると非難した<ref name="po-496-504">[[#ポリアコフ III]],p.496-504.</ref>。[[1858年]]に出版したプルードンの主著『革命の正義と教会の正義』では近代世界の退廃はユダヤ人が原因であると論じた<ref name="po-496-504"/>。プルードンは、カトリシズムという有害な迷信の生みの親であるユダヤ人は頑迷で救いようがなく、進歩派の行動指針としては、ユダヤ人のフランスからの追放、シナゴーグの廃止、いかなる職業への従事も認めず、最終的にユダヤ信仰を廃棄させるとしたうえで、「ユダヤ人は人類の敵である。この人種をアジアに追い返すか、さもなくば[[絶滅]]にいたらしめなければならない」と手帳に記した<ref name="po-496-504"/>。プルードンは、ユダヤ人だけでなく、[[外国人労働者]]に対しても憎悪と懸念を抱いており、「彼らは国の住民ではないのだ。彼らは単に利益を手に入れようとして国に入ってくるだけである。こうして政府自体が外国人を優遇することで得をし、外国の人種がわれわれの人種を目に見えないかたちで追い払っているのだ」と見ていた<ref name="po-496-504"/>。プルードンは、ベルギー人、ドイツ人、イギリス人、スイス人、スペイン人などの[[外国人労働者]]がフランスに侵入して、フランスの労働者に取って代わることを嘆き、フランス革命、人権宣言、[[1848年革命]]の[[自由主義]]も、外国人に利益をもたらすのみであったとし、「私は自分の民族に原初の自然を帰してやりたい」と述べて、フランスの民族はこれまでにギリシア人、ローマ人、バルバロイ、ユダヤ人、イギリス人によって支配されてきたことを嘆いた<ref name="po-496-504"/>。プルードンにとって、ユダヤ人作家[[ハインリヒ・ハイネ]]、アレクサンドル・ウェイルは密偵であり、ロトシルト、クレミュー、[[カール・マルクス|マルクス]]、フールドは妬み深く刺々しく、フランス人を憎悪している<ref name="po-496-504"/>。またプルードンは、[[フェミニズム|女性解放運動]]に対して激しく攻撃する男性至上主義者でもあった<ref name="po-496-504"/>。ポリアコフは、こうしたプルードンには20世紀のファシストの原型として[[権威主義的パーソナリティ|権威主義的人格]]の先駆けを見て間違いないとしている<ref name="po-496-504"/>。
1,383行目:
1880年代に多くの著作で[[コレージュ・ド・フランス]]心理学教授ジュール・スーリは、人間は人種に由来する本能によって動かされ、アーリア人種の勇敢さやセム人種の無気力さは本性によるものとした<ref name="nakataniFRIII"/>。
 
===== ドリュモンの反ユダヤ主義 =====
[[File:Edouard Drumont BNF Gallica (cropped).jpg|サムネイル|エドゥアール・ドリュモン(1844-1917)]]
[[File:France juive (affiche édition illustrée).jpg|サムネイル|ドリュモン『ユダヤのフランス (La France juive)』([[1886年]])]]
1,503行目:
[[1877年]]の[[露土戦争 (1877年-1878年)|ロシア・トルコ戦争]]によって、ロシアでは反ユダヤ主義が国家上層部と大衆の間で広まった<ref name="po-4-109-121"/>。
 
===== ドストエフスキーと反ユダヤ主義 =====
[[File:Dostoevskij 1872.jpg|サムネイル|文豪[[フョードル・ドストエフスキー]]]]
作家[[フョードル・ドストエフスキー]]は、改宗ユダヤ人ブラフマンの『カハルの書』(1869)から影響を受けた<ref name="nakamura213-227">[[#中村 2004|中村 2004]],p.213-227</ref>。[[1873年]]以降死去するまで評論『作家の日記』や小説でユダヤ人への攻撃を繰り返した<ref name="po-4-109-121"/>。
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ドストエフスキーの反ユダヤ主義とアーリア主義は、[[ポリーナ・スースロワ]]の夫ヴァシリー・ローザノフ<ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.159-160</ref> や、ドストエフスキーの聖ロシア[[第三帝国]]論は、『[[第三帝国]]』を著したメラー・ファン・デン・ブルックや[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]など20世紀初頭のドイツ右翼知識人に多大な影響を与えた<ref name="kogisi48-63"/>。
 
===== トルストイと反ユダヤ主義 =====
[[File:LNTolstoy.jpg|サムネイル|トルストイ]]
作家[[レフ・トルストイ]]はヘブライ語で旧約聖書を読んだが、戒律と愛との関係においてユダヤ教とキリスト教は根本的に対立するとしており,ユダヤ教の選民思想については「民族的思い上がり」と批判する一方で、ユダヤ教は我々の似非キリスト教共同体の道徳よりも高いと述べるなど、アンビバレントな評価をしていた<ref name="akao">[[#赤尾 2007]]</ref>。しかし、死去するまで手紙や日記では反ユダヤ主義的な発言を繰り返した。
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他方、[[1896年]]の共和党大会ではプロテスタントとカトリックの緊張関係によってユダヤ教ラビが開会の祈祷を唱えたが、このように三宗派が同等のものとされることは当時のヨーロッパ諸国では見られないものであった<ref name="po-4-288-295"/>。
 
== 20世紀の反ユダヤ主義 ==
=== 20世紀イギリス ===
1880年代以降ロシアのポグロムから避難した250万人の東欧ユダヤ人は西欧諸国に殺到し、ロンドンだけでも[[1883年]]に4万7千だったユダヤ人人口は[[1905年]]に15万に膨れ上がり、各地方都市でも流入がすすみ、1880年に6万5千人だった在英ユダヤ人は1905年までに3倍以上になった<ref name="kono51-54"/>。ロンドンの[[スラム]][[ホワイトチャペル]]スターニー地区には東欧からのユダヤ人移民が10万人以上入植し、[[ステップニー]]地区の司祭はユダヤ貧民集団がキリスト教徒を追い出そうとしていると非難した<ref name="po-4-248-259"/>。[[第一次世界大戦]]時には[[タイムズ]]紙がこの地区にユダヤ人が国家内国家を形成していると批判した<ref name="po-4-248-259"/>。
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植民地大臣[[ジョゼフ・チェンバレン]]は、イタリアのユダヤ系外務大臣シドネイ・ソニーノに対して、卑怯なユダヤ人は自分が唯一軽蔑する人種だと発言した<ref name="po-4-248-259"/>。
 
==== 第一次世界大戦・ロシア革命とイギリスの反ユダヤ主義 ====
イギリスでは、[[第一次世界大戦]]中に反ユダヤ主義が盛り上がり<ref name="po-4-248-259"/>、それに続く[[ロシア革命]]でもさらに盛り上がった。
 
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[[タイムズ]]紙は[[1921年]]8月16・17・18日にフィリップ・グレイヴス記者による「議定書の終焉」記事を掲載し、タイムズ紙は以後、『シオン賢者の議定書』を情報源として使用しなくなった<ref name="po-4-267-287"/>。
 
==== 20世紀イギリス文学の反ユダヤ主義 ====
文学作家たちにも反ユダヤ主義的な意識が見られる。1913年には[[ラドヤード・キップリング]]が「イスラエルの[[士師]]、雪のごとき白き癩病者」と詩で書いた<ref name="po-4-248-259"/><ref>「Gehazi,Judge in Israel, A leper white as snow」</ref>。
 
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[[1917年]]6月、非戦派の左翼作家[[ランドルフ・ボーン]]は「ユダヤ人は自分たちの民族だけが宇宙の神の真の人民として選ばれたことに畏敬の念を表わす。同じぐらいにおめでたいのが、すべての戦争のなかで我々の戦争だけが一点の穢れもなく、胸躍らせるような善を達成するだろうと語る我々(アメリカ)の知識人」であると述べ、アメリカの主戦派をユダヤ選民思想に例えて批判した<ref>{{Cite journal |和書 |author = [[前川玲子]] |title = 「戦争と知識人」(ランドルフ・ボーン) : 翻訳と解題|date = 2010-02|publisher = [[京都大学]]大学院人間・環境学研究科英語部会 |journal = 英文学評論 |volume = 82 |issue = |naid = |pages = 78 |ref =前川}}</ref>。
 
==== アメリカの反共主義と反ユダヤ主義 ====
第一次世界大戦中に[[ロシア革命]]が起きると、イギリスと同じようにアメリカでも反ボルシェビキ・[[反共主義]]運動が高まった。[[1918年]]9月には『反ボルシェビスト(The Anti-Boshevist)』が発刊され、アメリカを参戦に駆り立てたのはユダヤ人であるとされた<ref name="po-4-296-310"/>。
 
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ジャーナリスト・小説家のケニス・ロバーツは雑誌[[サタデー・イブニング・ポスト]]で連載されたルポルタージュ『なぜヨーロッパは故郷を離れるか』([[1922年]])で、ロシア亡命者が美しく優秀なのは[[北方人種]]だからだとし、それに対して「地上の屑」のユダヤ人はポーランド人やルーマニア人の見せかけの下に大量にアメリカに流入しているが、ユダヤ人はアジア人であり、ヨーロッパ人ではないとした<ref name="po-4-311-320"/><ref>Kenneth L.Roberts,Why Europe leaves home.A True Account of the Reasons Which Cause Central Europeans to Overrun America.1922.</ref>。ロバーツは、少なくともユダヤ人は「[[ハザール|ハザル人]]」と混ざり合っており、部分的には[[モンゴロイド|蒙古人種]]であり、すでにカリフォルニア州は白人地区の入り口で[[モンゴロイド|蒙古人種]]を遮断したが、彼らは今度は何百万という単位で西から東に流れ出すと警告した<ref name="po-4-311-320"/>。また、ロバーツは、何の制限もない移住の結果として[[古代ギリシャ]]においてギリシャの人種は跡形もなく姿を消したと主張した<ref name="po-4-311-320"/>。ただし、ロバーツはユダヤ人による世界征服を信じていないとも述べていた<ref name="po-4-311-320"/>。
 
==== フォードの反ユダヤ主義とその時代 ====
[[File:Henry ford 1919.jpg|サムネイル|[[ヘンリー・フォード]](1863- 1947)。]]
自動車メーカー[[フォード・モーター]]創業者の[[ヘンリー・フォード]]は反ユダヤ主義者であり、『国際ユダヤ人』(1920-1922年、四巻)を刊行した。フォードによれば、ユダヤ人を敵視するようになったのは、[[1915年]]末にユダヤ系ハンガリー人のフェミニスト・[[平和主義|平和主義者]]のロージカ・シュヴィンメル<ref>Rosika Schwimmer</ref> と、ジャーナリストのハーマン・バーンスタインの企画でフォードが出資して「平和巡航船」を巡航させた時であった<ref name="po-4-321-335"/>。フォードは、シュヴィンメルとバーンスタインを「非常に尊大なユダヤ人」といい、二人はユダヤ人による金権支配とマスコミ支配について語り、ユダヤ人だけが世界大戦を中止できると述べたことに嫌気がさし、同時に世界戦争と革命の原因がユダヤ人にあることを見抜いたと述べた<ref name="po-4-321-335"/><ref>ニューヨーク・タイムズ1921年12月5日</ref>。
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[[1927年]]夏、フォードはこれまでの反ユダヤ著作物でユダヤ人に対する不正があったと謝罪して、これらの出版物を廃棄した<ref name="po-4-321-335"/>。フォードはドイツ語版『国際ユダヤ人』の回収を出版者フリッチュに依頼したが、フリッチュは損害賠償を要求したため、回収を断念した<ref name="po-4-321-335"/>。後にナチスの機関誌『[[フェルキッシャー・ベオバハター]]』はフォードの謝罪について、ユダヤ人銀行家が英雄的な老兵をねじ伏せたと評した<ref name="po-4-321-335"/>。また、フォードはワーグナー、チェンバレン、ヒトラーと同じく[[菜食主義|菜食主義者]]であり、強い酒、コーヒー、紅茶、タバコを[[御法度]]としたが、こうした「異物拒否」の強迫がユダヤ人に差し向けられたとポリアコフは見ている<ref name="po-4-321-335">[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.321-335.</ref>。しかし、フォード以後も、飛行家[[チャールズ・リンドバーグ]]やカトリック司祭[[チャールズ・カフリン|チャールズ・コグリン]]は1930年代に反ユダヤ主義発言を主張した<ref name="po-4-321-335"/>。
 
==== 20世紀アメリカ文学にみる反ユダヤ主義 ====
[[File:F Scott Fitzgerald 1921.jpg|サムネイル|130px|スコット・フィッツジェラルド]]
[[File:Willa Cather ca. 1912 wearing necklace from Sarah Orne Jewett.jpg|サムネイル|130px|ウィラ・キャザー]]
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ナチス政権以後の[[1934年]]の『ドイツ的社会主義』においてゾンバルトは、ユダヤ的な国際的社会主義・国際的資本主義に対して、ナショナリズムと社会主義が融合した[[国民社会主義|国民的社会主義]]としてのドイツ的社会主義を主張した<ref name="JHerf248-258"/>。これによれば、19世紀には経済がその他の領域(強さ、善良さ、賢明さ、芸術、家族、伝統、人種)を支配したため、知性化と即物化によって魂と人格が剥奪され、またマルクス主義も魂のない近代工場を進歩として歓迎した<ref name="JHerf248-258"/>。これに対してドイツ的社会主義は、経済時代と資本主義を放棄し、現在の「文明」状態をなくして以前のような「文化」状態に到達し、ドイツ国民を経済時代の砂漠からドイツの森へ戻す<ref name="JHerf248-258"/>。しかし、ユダヤ精神はドイツのすみずみまで浸透しており、「たとえ最後のユダヤ人とユダヤ人家族を絶滅したとしても」存続するだろうから、反資本主義闘争であるドイツ的社会主義はユダヤ精神との闘争であるとされた<ref name="JHerf248-258"/>。同年の国民投票で、ゾンバルトは哲学者の[[ハイデッガー]]や[[ニコライ・ハルトマン|ハルトマン]]や生化学者[[エミール・アブデルハルデン|アブデルハルデン]]と連名でヒトラー総統を支持する学者声明をナチ党機関紙[[フェルキッシャー・ベオバハター]]に発表した<ref>Völkischer Beobachter Nr. 231/232, 19./20. August 1934.</ref>。
 
===== 教育界・学生運動と反ユダヤ主義 =====
反ユダヤ主義はドイツ教育界にも浸透していた。1880年にはベルリンの市電で教師ジーケが反ユダヤ的な発言をしていたのでユダヤ人が怒って殴った<ref name="m98-184-204"/>。教育学者ヘルマン・アールヴァルトは「アーリア民族とユダヤとの絶望的な闘争」(1890)を発表し、ユダヤから免れた民族は自然に発展して世界を支配できる、民族はユダヤの脅迫と闘うために断固として行動しなくてはならない、ユダヤ人はドイツからだけでなくヨーロッパ全土から追放されなければならないと主張した<ref name="m98-184-204">[[#モッセ1998]],pp.184-204.</ref>。1907年ポーゼンの学校の校長は、ユダヤ人は神聖な感覚を持っていないからユダヤ人の生徒は郷土学の授業を受けさせるべきではないと主張した<ref name="m98-184-204"/>。また全ドイツ連盟は教師が多く、36%が教員だった<ref name="m98-129">[[#モッセ1998]],p129</ref>。
 
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2018年10月27日、[[ペンシルベニア州]][[スクイレルヒル (ピッツバーグ)|スクイレルヒル]]のユダヤ教会[[シナゴーグ]]で「全てのユダヤ人は死ね」と叫びながら銃を乱射した事件が発生し、11人が死亡した([[:en:Pittsburgh synagogue shooting|ピッツバーグ・シナゴーグ銃撃事件]])<ref>Nicole Chavez, Emanuella Grinberg and Eliott C. McLaughlin, [https://edition.cnn.com/2018/10/28/us/pittsburgh-synagogue-shooting/index.html Pittsburgh synagogue gunman said he wanted all Jews to die, criminal complaint says],CNN,October 31, 2018</ref>。
 
==== ブラックナショナリズムと反ユダヤ主義 ====
[[File:James Baldwin 37 Allan Warren.jpg|left|サムネイル|150px|ジェイムズ・ボールドウィン]]
[[File:Louis Farrakhan.jpg|サムネイル|150px|left|ルイス・ファラカーン]]