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| 特記事項 =
}}
'''賀茂 在昌'''(かも の あきまさ){{efn2|史料によっては「有昌」、「有政」などと(「ありまさ」と読めるような)誤記がされている<ref name="tajima-top">[[#tajima|但馬荒人]]{{信頼性要検証|date=2022-1}}</ref>が、『永禄元年記』によると、[[勘解由小路家#賀茂氏系 勘解由小路家|勘解由小路家]]の[[諱#通字|通字]]「在」は「あき」と読むのが正しいとされる{{Sfn|海老沢|1965|p=43}}。}}は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[公家]]・[[陰陽師]]。[[洗礼名]]は'''マノエル(Manoel)'''。[[正二位]]・[[勘解由小路在富]]の子。[[官位]]は[[従四位|従四位下]]・[[陰陽寮|陰陽頭]]。
 
== 未解明な点 ==
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=== 勘解由小路在昌 ===
在昌は[[賀茂氏#地祇系|賀茂氏]][[勘解由小路家#賀茂氏系 勘解由小路家|勘解由小路家]]の子息であるが、[[家長|当主]]を嗣いだかどうかは定かでない{{efn2|[[林淳]]は、''勘解由小路家の後継者になることはなかった''と述べている{{Sfn|林|2002|p=172}}。}}。「'''勘解由小路 在昌'''(かでのこうじ あきまさ)」と名乗った記録が無いためである<ref name="tajima-top"/>{{efn2|この時代、[[本姓]](勘解由小路家の場合、賀茂朝臣が本姓となる)を名乗るケースは多いのであるが、「勘解由小路在昌」とする史料が現状一切発見されていないのは不可解である。}}。一方、在昌の息子である可能性がある[[勘解由小路在信|在信]]{{efn2|[[村山修一]]は、在信は在昌の息子であると述べている{{Sfn|村山|2001|p=292}}。}}は、「勘解由小路在信」という名で史料に残っている<ref name="keicho">『[[#keicho|慶長日件録]]』, [{{NDLDC|1041785/121}} p. 230.]</ref><ref name="tajima-akinobu"/>。
 
=== キリシタン陰陽師 ===
在昌の最も特筆すべき点として、「'''[[キリシタン]]になった陰陽師'''」として知られる{{Sfn|海老沢|1965|p=43}}{{Sfn|西蓮寺|1996}}{{Sfn|斎藤|2014|pp=121f}}。しかし、キリシタン文献に記された「Manoel Aqui Marza」<ref name="ridatsu">『日本イエズス会離脱者名簿』, [[#ebisawa1965|海老沢 1965]], p. 39.</ref>・「Aquimasadono」<ref name="frois1">フロイス『[[#frois|日本史]]』, pp. 118f.</ref>といった人物と、日本側の史料に残る「賀茂在昌」が同一人物であるという確証は得られていない<ref name="tajima-top"/>。ただ、時代的に符合し、[[ルイス・フロイス]]の書き遺した『[[フロイス日本史|日本史]]』に''「日本で最高の天文学者(Astrolog)の一人で公家でありはなはだ高貴なAquimasadonoという人物」''という記述がある<ref name="frois1"/>{{Sfn|海老沢|1965|p=38}}<ref name="kiba407">[[#kiba1985|木場 1985]], p. 407.(1993, p. 175.)</ref>こと、これに該当し「アキマサ」という名前である人物は同時代に他に確認されていない{{efn2|[[勘解由小路在宗]]の別名が「在政」である<ref name="okugesan_com">[[#okugesan_com|公卿類別譜]]</ref>ため、これに比定する説もある{{Sfn|神田|1962}}が、[[海老沢有道]]は、年代が合わないとして否定している{{Sfn|海老沢|1965|p=42}}。また、[[勘解由小路在理]]に比定する説もあるが、海老沢はこれもまた年代が合わない上に、''「在理」を「あきまさ」と主む明証がない''として否定している{{Sfn|海老沢|1965|p=44}}。}}ことから、同一人物である可能性は否定できない{{Sfn|海老沢|1965}}。当記事では、「Manoel Aqui Marza」・「Aquimasadono」と「賀茂在昌」が同一人物であるという仮定に基づいて記す。
 
== 経歴 ==
=== 生まれ育ち ===
在昌は、家祖[[賀茂忠行]]・[[賀茂保憲]]以来、[[朝廷]]の[[陰陽寮]]にて[[陰陽道]]ことに[[暦道]]を司ってきた[[陰陽道宗家]]の一翼・[[賀茂氏#地祇系|賀茂朝臣氏]][[嫡流]][[勘解由小路家#賀茂氏系 勘解由小路家|勘解由小路家]]の当主・[[勘解由小路在富]]の子として生まれた。『[[歴名土代]]』<ref name=" ryakumyo1">『[[#ryakumyo|歴名土代]]』, p. 150.</ref>には、「故在富卿子実」{{efn2|「実子」ではなく「子実」と記されている点に注意。通常、「○○子 実△△」と書いて、「実は△△の子であり○○の養子になった」という旨を記す形式である。}}と記されており、何某かからの養子である可能性も指摘されている<ref name="tajima-akimasa">[[#tajima|但馬荒人]] - [https://seesaawiki.jp/consume_mind/d/%b2%ec%cc%d0%ba%df%be%bb 賀茂在昌]{{信頼性要検証|date=2022-1}}</ref>{{efn2|木村純子は義子であるとして記している{{Sfn|木村|2012|p=197}}。}}。
 
没年と[[享年]]から逆算すると、 [[永正]]17年([[1520年]])あるいは永正16年([[1519年]])に生まれたことになる<ref name="tajima-umare">[[#tajima|
但馬荒人]] - [https://seesaawiki.jp/consume_mind/d/%b2%ec%cc%d0%ba%df%be%bb%a4%ce%c0%b8%a4%de%a4%ec%a4%cb%a4%c4%a4%a4%a4%c6 賀茂在昌の生まれについて]{{信頼性要検証|date=2022-1}}</ref>。『耶蘇会士日本通信』の記述によると、[[山口市|山口]]の生まれという{{Sfn|海老沢|1965|p=38}}<ref name="yaso">『[[#yaso|耶蘇会士日本通信]]』, pp. 10f.</ref>。山口には勘解由小路家の[[所領]]があり、当時山口を治めていた[[戦国大名]][[大内氏#周防大内氏|大内氏]]と勘解由小路家は密接な関わりがあった<ref name="tajima-umare"/>
 
在富は、弟・[[勘解由小路在康]]の子であり甥にあたる[[勘解由小路在種|在種]]を養子としたが、天文20年([[1551年]])[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]{{efn2|『[[#ryakumyo|歴名土代]]』には「同(天文)廿三十四横死」とあるため、天文23年([[1554年]])[[10月4日 (旧暦)|10月4日]]没と読む説もある{{Sfn|林|2002|p=172}}{{Sfn|村山|1981|pp=363f}}が、『[[系図纂要]]』には「同廿年三ノ十四横死」と記されている。}}、21歳にて在種は在富の手によって「横死」させられた<ref name="ryakumyo4">『[[#ryakumyo|歴名土代]]』, p. 105.</ref><ref name="kiba398">[[#kiba1985|木場 1985]], p. 398.(1993, p. 166.)</ref><ref name="tajima-akitane">[[#tajima|但馬荒人]] - [https://seesaawiki.jp/consume_mind/d/%b4%aa%b2%f2%cd%b3%be%ae%cf%a9%ba%df%bc%ef%a1%a7%c9%d4%b6%f8%a4%ce%cd%dc%bb%d2 勘解由小路在種:不遇の養子]{{信頼性要検証|date=2022-1}}</ref>{{efn2|『[[尊卑分脈]]』にある「父卿殺害之」という記述<ref name="kiba398"/><ref name="sonpi">『[[#sonpi|尊卑分脈]]』, [{{NDLDC|991594/47}} p. 48].</ref>の「父」とは、養父[[勘解由小路在富|在富]]ではなく、実父[[勘解由小路在康|在康]]を指す可能性も指摘されている{{Sfn|村山|1981|pp=363f}}。}}。かくして在昌は、在富の唯一の息子となった。
 
=== キリシタンとして ===
在昌は、[[永禄]]2年[[12月 (旧暦)|12月]]([[ユリウス暦]][[1560年]][[1月]])、[[ガスパル・ヴィレラ]]らの上洛の折に逗留地を訪れ、[[宣教師#日本とキリスト教宣教師|伴天連]]達の[[天文学]]の知識に感銘を受けたことをきっかけとして、[[洗礼]]を受け[[キリシタン]]となった<ref name="frois1"/>{{Sfn|海老沢|1965|p=38}}。
 
さらに永禄7年([[1564年]])末には、妻子を連れて京を出奔して、[[府内 (豊後国)|豊後府内]]に下向した。豊後に向かう道中、[[伊予国]]堀江に立ち寄った際、在昌の妻は産気付き、永禄7年[[12月6日 (旧暦)|12月6日]]([[ユリウス暦]][[1565年]][[1月3日]])、男児を出産<ref name="frois2">フロイス『[[#frois|日本史]]』, pp. 214f.</ref>{{Sfn|海老沢|1965|pp=39f}}。この時の子が、のちの[[勘解由小路在信]]ではないかと考えられる<ref name="tajima-frois">[[#tajima|但馬荒人]] - [https://seesaawiki.jp/consume_mind/d/%b5%ad%bd%d2%a4%ce%b5%b4%a1%a2%a5%eb%a5%a4%a5%b9%a1%a6%a5%d5%a5%ed%a5%a4%a5%b9 記述の鬼、ルイス・フロイス]{{信頼性要検証|date=2022-1}}</ref>。折しもこの時、ルイス・フロイスと[[ルイス・デ・アルメイダ]]の両者が行き違いに豊後から[[堺]]に向かう道中であり<ref>{{Cite web|url=https://blog.goo.ne.jp/shuichimaeda/e/1358da6fadb9fec99b5eb068174e709b|author=堺から日本へ! 世界へ!|title=キリシタン受容の構図-「茶の湯」文化の発見|accessdate=2019-10-6}}</ref>、在昌と出会い、部下を送って産後容態を悪くした在昌の妻を介抱した<ref name="frois2"/><ref name="tajima-almeida">[[#tajima|但馬荒人]] - [https://seesaawiki.jp/consume_mind/d/%a4%bd%a4%ce%c3%cb%a5%a2%a5%eb%a5%e1%a5%a4%a5%c0 その男アルメイダ]{{信頼性要検証|date=2022-1}}</ref>。在昌は信心の印として、11歳の息子[[メルショル (賀茂家)|メルショル]](Melchior)を「神の奉仕に捧げる」すなわち[[修道士]]とする決意をした<ref name="frois2"/>{{Sfn|海老沢|1965|pp=39f}}<ref name="tajima-mersiol">[[#tajima|但馬荒人]] - [https://seesaawiki.jp/consume_mind/d/%a5%e1%a5%eb%a5%b7%a5%e7%a5%eb%a1%a7%c2%e8%b0%ec%a4%ce%c2%a9%bb%d2 メルショル:第一の息子]{{信頼性要検証|date=2022-1}}</ref>。メルショルは在昌の帰洛後も九州に留まり、天正8年([[1580年]])に[[イルマン]](修道[[助祭]])に[[叙階]]されたが、天正13年([[1585年]])には[[イエズス会]]を退会し、その3~4ヵ月後に[[天草市|天草]]で何者かによって暗殺された{{Sfn|海老沢|1965|p=40}}{{efn2|フロイス『[[#frois|日本史]]』によると、[[口之津町|口之津]]で病死とある<ref name="frois2"/>。}}。
 
=== 嗣子問題 ===
在昌が出奔した翌年の永禄8年([[1565年]])、在富は後継者が不在のまま、[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]死去。嗣子がないため、[[土御門有春]]の四男・福寿丸([[1553年]] - [[1575年]]・13歳)を[[勘解由小路在高]]として養子に入れて相続した<ref name="kiba401">[[#kiba1985|木場 1985]], pp. 401-406.(1993, pp. 169-174.)</ref><ref name="tajima-akitaka">[[#tajima|但馬荒人]] - [https://seesaawiki.jp/consume_mind/d/%b4%aa%b2%f2%cd%b3%be%ae%cf%a9%ba%df%b9%e2 勘解由小路在高]{{信頼性要検証|date=2022-1}}</ref>が、在高は[[天正]]3年([[1575年]])に23歳で夭折してしまう。
 
これを受けて同年、有春の嗣子・[[土御門有脩|有脩]]の子である[[土御門久脩]]が16歳で勘解由小路在綱と改姓改名して、勘解由小路家を嗣ぐことになった<ref name="tajima-akitsuna">[[#tajima|但馬荒人]] - [https://seesaawiki.jp/consume_mind/d/%b4%aa%b2%f2%cd%b3%be%ae%cf%a9%ba%df%b9%cb 勘解由小路在綱]{{信頼性要検証|date=2022-1}}</ref>
 
しかしそれも束の間、天正5年([[1577年]])[[1月2日 (旧暦)|1月2日]]、久脩(在綱)の父・土御門有脩が死亡してしまう。これに伴い、唯一の嫡子である久脩改め在綱は、同年[[3月26日 (旧暦)|3月26日]]、土御門久脩へと復姓復名し、土御門家当主を嗣いだ。これは、在昌が京に呼び戻され、勘解由小路家を嗣ぐことになったためと思われる<ref name="tajima-akimasa"/>。同年[[閏月|閏]][[7月12日 (旧暦)|7月12日]]、在昌は[[従五位|従五位下]]{{efn2|[[律令]]の[[官位相当制|官位相当]]では陰陽頭の[[位階]]に相当する。}}に叙位されている<ref name=" ryakumyo1"/>{{Sfn|海老沢|1965|p=45}}。
 
=== 帰洛後の活動 ===
『[[御湯殿上日記]]』天正8年([[1580年]])[[1月24日 (旧暦)|1月24日]]の記事に「あきまさ」という記述が登場するのが、日本側の[[史料#一次史料|一次史料]]における在昌の初出である。同[[2月17日 (旧暦)|2月17日]]の記事には、「おんようのかみあきまさ」と記述があることから、遅くともこの時点までに在昌は[[陰陽寮|陰陽頭]]に叙任されていたことが分かる<ref name="tajima-oyudono">[[#tajima|但馬荒人]] - [https://seesaawiki.jp/consume_mind/d/%b8%e6%c5%f2%c5%c2%be%e5%c6%fc%b5%ad 御湯殿上日記]{{信頼性要検証|date=2022-1}}</ref>
 
天正9年([[1581年]])[[10月19日 (旧暦)|10月19日]]、[[従五位|従五位上]]に叙せられる{{Sfn|海老沢|1965|p=45}}<ref name="ryakumyo2">『[[#ryakumyo|歴名土代]]』, p. 111.</ref>。
 
同年、いわゆる[[改暦#天正10年の例|天正十年改暦問題]]が起こり、翌天正10年([[1582年]])[[1月29日 (旧暦)|1月29日]]、在昌と土御門久脩は[[織田信長]]の居城・[[安土城]]に召され、共に[[具注暦|京暦]]側の代表者として[[三島暦]]の推進者と討論した{{Sfn|谷口|2007|pp=11-14}}<ref name="tajima-kaireki">[[#tajima|但馬荒人]] - [https://seesaawiki.jp/consume_mind/d/%c5%b7%c0%b5%bd%bd%c7%af%b2%fe%ce%f1%cc%e4%c2%ea 天正十年改暦問題]{{信頼性要検証|date=2022-1}}</ref>
 
天正18年([[1590年]])[[4月]]、[[方広寺]]大仏殿の着工に先立つ[[地鎮祭]]を斎行。時の天下人・[[豊臣秀吉]]に重用されていたことが伺える<ref name="tajima-hideyoshi">[[#tajima|但馬荒人]] - [https://seesaawiki.jp/consume_mind/d/%ba%df%be%bb%a4%c8%bd%a8%b5%c8 在昌と秀吉]{{信頼性要検証|date=2022-1}}</ref>
 
[[慶長]]4年([[1599年]])[[3月26日 (旧暦)|3月26日]]には[[従四位|従四位下]]に叙せられる<ref name=" ryakumyo3">『[[#ryakumyo|歴名土代]]』, p. 59.</ref>{{Sfn|海老沢|1965|p=45}}。それからほどなく、慶長4年([[1599年]])[[8月 (旧暦)|8月]]、『[[歴名土代]]』によると80歳<ref name=" ryakumyo3"/>{{efn2|『歴名土代』でも、『[[#gunsho|群書類従]]』所載([{{NDLDC|2559257/63}} 当該箇所])には81歳没とある。}}、『[[系図纂要]]』によると81歳にて没した<ref name="tajima-umare"/>{{efn2|『[[系図纂要]]』が[[江戸時代]]末期の書であるのに対して、『[[歴名土代]]』<ref name="ryakumyo3"/>は、同時代の人物で父・在富とも親交があった[[山科言継]]<ref name="tajima-yamashina">[[#tajima|但馬荒人]] - [https://seesaawiki.jp/consume_mind/d/%ca%e4%b0%e4%a3%b2%a1%a7%bb%b3%b2%ca%b8%c0%b7%d1 補遺2:山科言継]{{信頼性要検証|date=2022-1}}</ref>およびその嗣子・[[山科言経|言経]]の編であり、史料価値が格段に高い<ref name="tajima-umare"/>。}}。
 
=== 没後 ===
在昌の帰洛によって、勘解由小路家の相続問題は一旦は解消したと思われたが、[[江戸時代]]初期、在昌の息子と思われる[[勘解由小路在信]]<ref name="tajima-akinobu">[[#tajima|但馬荒人]] - [https://seesaawiki.jp/consume_mind/d/%b4%aa%b2%f2%cd%b3%be%ae%cf%a9%ba%df%bf%ae%a1%a7%c2%e8%c6%f3%a4%ce%c2%a9%bb%d2 勘解由小路在信:第二の息子]{{信頼性要検証|date=2022-1}}</ref>の代に至って消息不明となり、賀茂氏勘解由小路家は完全に断絶した。在信に関する記録としては、在昌の記録が途絶えるのと前後して慶長3年([[1598年]])[[3月 (旧暦)|3月]]から『御湯殿上日記』に記述がみられ、慶長10年([[1605年]])[[10月11日 (旧暦)|10月11日]]、「勘解由小路[[修理職|修理大夫]]在信」という人物が[[堺]]にいるという『[[慶長日件録]]』の記述<ref name="keicho"/>が最後である<ref name="tajima-akinobu"/>
 
在信の記録が消えた時期と入れ替わるかのように、賀茂氏[[庶家|庶流]]{{Efn2|男系では元来[[阿倍氏#陰陽道安倍氏|安倍氏]]の系譜。}}で[[ならまち|奈良]]を拠点とする[[幸徳井家]]が勘解由小路家に代わって[[暦道]]の家柄として台頭し、[[元和]]4年([[1618年]])には[[幸徳井友景]]{{Efn2|[[柳生宗厳]]の甥であり、幸徳井家の養子となった。『[[#koutokui|幸徳井世系考訂本]]』によると、[[安井永順]]の子で柳生宗厳の養子とある。}}が同家では初の陰陽頭に任ぜられた<ref name="koutokui">『[[#koutokui|幸徳井世系考訂本]]』</ref>。
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* {{citation|和書|last=木場|first=明志|author-link=木場明志|editor=北西弘先生還暦記念会|contribution=暦道賀茂家断絶の事―永禄~文禄期 宮廷陰陽道の動向|publisher=吉川弘文館|title=中世社会と一向一揆|year=1985|pages=393-422|isbn=4642026126|ref=kiba1985}}
:(所載:{{citation|和書|editor=[[村山修一]]他|title=陰陽道叢書|volume=第2|volume-title=中世|publisher=名著出版|year=1993|pages=161-190|isbn=4626017983}})
* {{cite web|url=https://seesaawiki.jp/consume_mind/d/%c0%ef%b9%f1%bb%fe%c2%e5%a4%ce%b1%a2%cd%db%bb%d5%a1%a7%b2%ec%cc%d0%ba%df%be%bb|author=但馬荒人|title=戦国時代の陰陽師:賀茂在昌|date=2014-10|accessdate=2019-10-6|ref=tajima}}{{信頼性要検証|date=2022-1}}
* {{citation|和書|last=西蓮寺|first=育子|author-link=西蓮寺育子|editor=[[岸野久]]|editor2=[[村井早苗]]|contribution=陰陽頭賀茂在昌のキリスト教受容をめぐって|title=キリシタン史の新発見|publisher=[[雄山閣]]|year=1996|pages=27-41|isbn=463901337X}}
* {{citation|和書|last=木村|first=純子|author-link=木村純子|title=室町時代の陰陽道と寺院社会|publisher=[[勉誠出版]]|year=2012|isbn=978-4585229001}}