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| caption = 1890セガンティーニ(1890
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| works = 『アルプス三連祭壇画』『[[悪しき母たち|悪しき母達]]』など
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'''ジョヴァンニ・セガンティーニ'''(Giovanni Segantini、[[1858年]][[1月15日]] - [[1899年]][[9月28日]])は、[[イタリア]]の[[画家]]。[[アルプス山脈|アルプス]]の風景などを題材とした絵画を残し、アルプスの画家<ref name="saku">[[#sakuma|佐久間 (1921)]] p.8</ref><ref name="May">May, U. (2001) ABRAHAM’S DISCOVERY OF THE ‘BAD MOTHER’- A CONTRIBUTION TO THE HISTORY OF THE THEORY OF DEPRESSION, ''Int. J. Psychoanal.'' '''82''' 283-305</ref>として知られている。一方で『[[悪しき母たち|悪しき母達]]』など神秘的、退廃的な作品を残したことから、作風は[[世紀末芸術]]とされることもある。
 
== 生涯人物 ==
ジョヴァンニ・バティスタ・エマヌエーレ・マリア・セガティーニは[[トレント自治県|トレンティーノ]]地方の[[アルコ (イタリア)|アルコ]](当時は[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の{{仮リンク|ティロル伯領|en|County of Tyrol}}の一部)で生まれた。ジョヴァンニは後に姓の「Segantini」の "a" の後に "n" を加えて、改姓した<ref>Stutzer, p13</ref>。ジョヴァンニはアゴスティーノ・セガティーニ(1802年 - 1866年)とマルガリータ・デ・ジラルディ(1828年 - 1865年)の第二子であった。兄のロドヴィーコはジョヴァンニが生まれた年に火事で死亡した。ジョヴァンニが生まれてから7年間、職人であった父は仕事を探して広く旅した。父がトレンティーノに戻ってきた1864年の6か月の間以外は、ジョヴァンニは母と過ごしたが、母は長男の死によって深刻な鬱病を患っていた<ref>Bachmann, p16</ref>。この時期は、母親が様々な事柄に対処できなかったため、貧困、飢餓、そして満足な教育を受けられない時期であった。
=== 幼少時 ===
[[1858年]]、[[オーストリア]]のトレンティーノ(現在の[[イタリア共和国]][[トレンティーノ=アルト・アディジェ州]])にある[[コムーネ]]の一つ、[[アルコ (イタリア)|アルコ]]で生まれた。父アゴスティノ・セガティニ(セガンティーニの旧姓)は農民階級の大工で、母マルゲリータ・デ・ジラルディは中等階級中のやや低い身分の出であった<ref name="saku0">[[#sakuma|佐久間 (1921)]] p.11</ref>。ジョヴァンニはマルゲリータの第2子(第1子はセガンティーニが生まれる前に火事で命を落とした<ref name="May"/>)で、生まれた頃には体が弱く、両親の周到な注意の下に漸く育つことが出来た<ref name="saku1">[[#sakuma|佐久間 (1921)]] p.12</ref>。しかし母マルゲリータはジョヴァンニを生んで病にかかり、[[1863年]]、ジョヴァンニがまだ5歳の時に29歳で夭折した<ref name="saku3">[[#sakuma|佐久間 (1921)]] p.13</ref>。
 
1865年の春、次第に健康を損っていた母が死亡した。父親はジョヴァンニの世話を前妻との第二子(ジョヴァンニの異母姉)のイレーネに任せ、再び仕事を探す旅に出た。父親はトレンティーノに戻ることなく翌年に死亡し、家族に何も残さなかった。遺産がなかったため、イレーネは極貧の生活をおくった。イレーネは生活費を稼ぐために単純労働に長時間従事するを得ず、ジョヴァンニは独りで生活するしかなかった。
父親はジョヴァンニを連れて[[ミラノ]]に向かい、先妻との間に儲けた息子と娘(ジョヴァンニにとっての異母兄妹)のもとを訪ねた。しかしその子供達の生活は困窮しており、ジョヴァンニとその父が到着した頃には店を閉じなければならなくなっていた<ref name="saku4">[[#sakuma|佐久間 (1921)]] p.15</ref>。ジョヴァンニの父と先妻との息子は、自分達の成功を夢見て、幼いジョヴァンニを残してアメリカに赴き、そのまま帰ってこなかった。後に残されたジョヴァンニは、異母の姉のもとで暮らしたが、異母の姉は毎日ジョヴァンニ一人を残して仕事に出かけた<ref name="saku4"/>。
 
イレーネは生活を向上させるためにミラノへの引越しを望み、1865年末に自身とジョヴァンニのオーストリア市民権の放棄を申請した。イレーネは手続きについて誤解していたか、単に最後まで手続きを行うための十分な時間がなく、自分達のオーストリア市民権が取り消されたにもかかわらず、イタリア市民権の申請を怠った。結果として、ジョヴァンのイレーネはその後生涯にわたって[[無国籍]]となった<ref>Stutzer, p13</ref>。セガンティーニが名声を得た後、スイスが一度ならず市民権の授与を申し出たが、セガンティーニは、イタリアが真の故郷であると述べ、多くの困難にもかかわらずこれを断わった<ref>Bachmann, p144</ref>。セガンティーニの死後、スイス政府は市民権を追贈した。
異母の姉のもとで、窓から空を眺めて単調な生活を送っていたジョヴァンニは、ある日[[フランス]]に歩いて行くという思いつきに魅せられ、姉が仕事に出た後歩いて街に出た<ref name="saku5">[[#sakuma|佐久間 (1921)]] p.28</ref>。しかし数キロ先で疲労のために倒れ、親切な人々に保護された。その翌日にミラノに送り返されそうになったが、ジョヴァンニがそれを嫌がり、またジョヴァンニの経歴を聞いた人々は不憫に感じたため、それからしばらくの間彼らの家においてもらえることになった。この当時ジョヴァンニは7歳だった<ref name="saku6">[[#sakuma|佐久間 (1921)]] pp.31-33</ref>。
 
7歳の時、セガンティーニは逃げ出し、後に[[ミラノ]]の路上で生活しているところを発見された。警察はセガンティーニをマルキオンディ教護院へ送り、セガンティーニはそこで基礎的な製靴の技術を学んだが、それ以外のことはほとんど学ばなかった。若年期のほとんどの期間、セガンティーニは読み書きがほとんどできなかった。読み書きができるようになったのは30代中頃のことである。幸運なことに、教護院付きの牧師がジョヴァンニが絵を描くのが非常に長けていることに気付き、自尊心を向上させようとこの才能を後押しした。
そののち再びジョヴァンニは姉の元へ帰ることになったが、そこでは再び冷遇された。ジョヴァンニはしばしば、姉の家ではなく、街中や人の住んでいない家屋の屋根裏部屋で夜を過ごしていた。そこでは[[飢え]]や寒さに苦しめられた上、孤独感から愛情にも飢えていた<ref name="saku7">[[#sakuma|佐久間 (1921)]] p.37</ref>。また屋根裏部屋で[[天然痘]]に感染した際にも、姉の元へ帰りたくないジョヴァンニは、医師の好意で出来るだけ長い間病院に留めてもらった<ref name="saku8">[[#sakuma|佐久間 (1921)]] p.36</ref>。
 
1873年、異母兄のナポレオンが教護院からセガンティーニを引き取り、翌年はトレンティーノでナポレオンと暮らした。ナポレオンは写真館を経営しており、セガンティーニはここでこの比較的新しい芸術の基礎を学んだ。セガンティーニは後に写真の技法を絵画にも取り入れた<ref>Bachmann, p22</ref>。
その後親戚の紹介で、ジョヴァンニは薬屋で働かせてもらうこととなった。しかしある夏の日に、他の店員と共に店の金を盗んで逃走した<ref name="saku9">[[#sakuma|佐久間 (1921)]] p.40</ref>。さらに、逃走中ジョヴァンニが疲労のため眠りについている間に、一緒に逃げていた店員は金をもって一人で逃走。ジョヴァンニは後悔のために死を決意し、3日間農場の枯草置場に潜伏していたが、農夫に発見され、結局ミラノへ送り返された<ref name="saku10">[[#sakuma|佐久間 (1921)]] p.41</ref>。
 
=== して出会い経歴 ===
[[Image:Segantini Coro di St.Antonio.jpg|thumb|聖アントニオ合唱の間 (1879年)]]
翌年、セガンティーニはミラノへ戻り、[[ブレラ美術アカデミー]]の授業に出た。ここで、セガンティーニは{{仮リンク|蓬髪主義|en| Scapigliatura}}(スカピッリャテゥーラ)と呼ばれる変革運動のメンバーと友人となった。これらの芸術家、詩人、作家、音楽家達は芸術と人生の間の差異をなくすことを目指していた。当時の親友には{{仮リンク|カルロ・ブガッティ|en|Carlo Bugatti}}と{{仮リンク|エミリオ・ロンゴーニ|en|Emilio Longoni}}がいた。両者ともセガンティーニの作品や関心に深い影響を与えた<ref>Bachmann, p197</ref>。
ミラノに戻ったセガンティーニは、絵師の助手兼門弟となり、画法の手ほどきを受けた。その当時は、友人の援助を受けながら風景画などをの作品を仕上げ、愛好家に売るなどしていた。しかし生活は困窮し、橋の下で夜を過ごしたこともあった<ref name="saku11">[[#sakuma|佐久間 (1921)]] pp.42-45</ref>。そののちに、セガンティーニは[[ブレラ美術学校]]の夜学校に進学、[[肖像画]]や劇場の小道具を描くなどして生活費を稼ぎながら絵画の勉強をした<ref name="saku12">[[#sakuma|佐久間 (1921)]] p.47-48</ref>。セガンティーニの最初期の作品である『聖アントニオ合唱の間』はこの時期に描かれ、展覧会に出品されて銀賞を受けた<ref name="saku13">[[#sakuma|佐久間 (1921)]] p.49</ref>。
 
セガンティーニの最初期の作品である『聖アントニオ合唱の間』(Il Coro di Sant'Antonio)はその力強い質が評価され、1879年にミラノのSocietà per le Belle Artiが購入した。この作品に画家でギャラリー主の{{仮リンク|ヴィットーレ・グルビシー・デ・ドラゴン|en|Vittore Grubicy de Dragon}}が注目した。グルビシーはセガンティーニの助言者、販売業者、そして生涯にわたる資金支援者になった。グルビシーと兄弟のアルベルト(画廊の共同所有者)はセガンティーニに[[アントン・モーヴ]]や[[ジャン=フランソワ・ミレー]]の作品を紹介した。これらの芸術家はどちらも長年セガンティーニの作品に影響を与えた<ref>Fraquelli, p22</ref>。
しかしセガンティーニは、決まりきった画法に忠実な絵を描くことを拒み、自由な方法で創作を行った。そのため教授たちには目の敵とされ、校長に対して苦情を申し入れられた上、展覧会でセガンティーニの作品を最後に展示されたりした。自身の作品が展覧会で最後に飾られているのを見たセガンティーニは激昂し、自作を壁から下ろして破り捨て、街中に飛出して街灯に登り、街灯のガラス板を破壊した。そのためセガンティーニは、結局ブレラ美術学校を退学になった<ref name="saku14">[[#sakuma|佐久間 (1921)]] pp.53-56</ref>。
 
同年、セガンティーニはブガッティの妹のルイジア・ピエリーナ・ブガッティ(愛称は "ビーチェ"、1862年 - 1938年)と出会い、生涯にわたる恋愛が始まった。セガンティーニは翌年にビーチェと結婚しようとしたが、無国籍状態のため正式な法的文書を得ることができなかった。このお役所仕事的な細かい解釈に反対して、彼らは未婚のカップルとして同居することを決断した。この取り決めは当時地域に影響を及ぼしていたカトリック教会と頻繁に対立を引き起こし、地域からの非難を避けるために数年毎の転居を余儀無くされることになった<ref>Fraquelli, p24</ref>。
=== 結婚、ブリアンツァへの移住 ===
[[ファイル:Ave Maria bei der Überfahrt 1886.jpg|thumb|湖を渡るアヴェマリア(第2作)(1886年)]]
ブレラ美術学校を退学になったセガンティーニは、友人達の援助を受けてミラノにアトリエを借り、そこで創作活動を行った<ref name="saku15">[[#sakuma|佐久間 (1921)]] p.57</ref>。しかしミラノでの生活に満足できず、アルプスの山々に憧憬をおぼえて、スイス国境に近い[[1881年]]に[[ブリアンツァ]]地方のコモ湖畔の村へ移住した。またその前年の12月、セガンティーニは、ミラノでも何度か絵のモデルとなっていたルイジア・ブガッティ(デザイナーの[[カルロ・ブガッティ]]([[w:Carlo Bugatti|en]])の従姉妹)と結婚した<ref name="saku16">[[#sakuma|佐久間 (1921)]] pp.64-66</ref>。
 
これらの困難にもかかわらず、セガンティーニは生涯をビーチェに捧げた。セガンティーニは家を離れた時には多くの恋文をビーチェへ送り、自分が摘んだ野花を同封することもあった。ある時には手紙に「これらの見苦しい花、これらのスミレ、を私の深い愛の象徴として受け取ってください。このようなスミレを送れない春が来たら、もう私は生きている者の中にいないのです。<ref>Heslewood, p53</ref>」と書いた。
セガンティーニ夫婦はブリアンツァにある村、[[プジアーノ]]に住まいを構えた。そこでアルプスの自然をもとにした作品を創作し、『十字架の接吻』『横木につながれた牛』『湖を渡るアヴェ・マリア(3作)』『花野に眠る少女』などさまざまな作品を残した。特に、[[アムステルダム万国博覧会]]で金賞を獲得した『湖を渡るアヴェ・マリア』は、19世紀の絵画史上で重要な位置を占める作品であるとされる<ref name="saku17">[[#sakuma|佐久間 (1921)]] p.87</ref>。また、[[1888年]]の[[グラスゴー国際博覧会]]([[w:International Exhibition of Science, Art and Industry|en]])にも多くの作品を出品し、[[イギリス]]でも名を知られるようになった<ref name="saku18">[[#sakuma|佐久間 (1921)]] p.118</ref>。
 
1880年、セガンティーニとビーチェは[[プジアーノ]]へ引っ越し、程なくしてカレラ村へ移った。カレラ村では友人のロンゴーニと共同生活した<ref>Fraquelli, p163</ref>。セガンティーニが[[戸外制作]]を始めたのはこの美しい山並みの中であった。戸外で絵を描いている間、ビーチェはセガンティーニに本を読んでやり、最終的にセガンティーニは読み書きを習得した。後に、セガンティーニはイタリアの芸術雑誌に記事を書いたり、他の芸術家への訪問などでヨーロッパを旅した時には多くの手紙をビーチェへ送った。
=== アルプス時代、突然の死 ===
セガンティーニ一家は、ブリアンツァ地方で生活している間も、[[プジアーノ]]から[[ルガーノ]]、[[カーリオ]]などへ移住していた。しかしアルプスのさらなる高地に思いを馳せ、[[1886年]]にイタリアから国境を越えて[[スイス]]へ向かい、[[ベルニナ]]地方([[w:Bernina District|en]])の[[ポスキアヴォ]]([[w:Poschiavo|en]])や[[シルヴァプラーナ]]([[w:Silvaplana|en]])を経由して、最終的に[[グラウビュンデン州]]の[[サヴォニン]]([[w:Savognin|en]])に到着、セガンティーニ一家はしばらくの間ここで生活した<ref name="saku19">[[#sakuma|佐久間 (1921)]] p.108</ref>。そこではアルプスの風景や肖像画などを製作して過ごした。また、妻ルイジアとの間には4人の子供をもうけた<ref name="saku20">[[#sakuma|佐久間 (1921)]] p.180</ref>。
 
当時、セガンティーニは{{仮リンク|国際植民地貿易博覧会|en|Internationale Koloniale en Uitvoerhandel Tentoonstelling|label=1883年のアムステルダム万国博覧会}}で金賞を獲得した『湖を渡るアヴェ・マリア』(セガンティーニ美術館所蔵)の初版を描いた。名声が高まると、セガンティーニは作品の総代理人としてグルビシー兄弟と正式な契約を交わした。これによって、セガンティーニは自身の芸術性を追求するより大きな自由を得ることができた。セガンティーニとビーチェは4人の子供(ゴッタルド〔1882年 - 1974年〕、アルベルト〔1883年 - 1904年〕、マリオ〔1885年 - 1916年〕、ビアンカ〔1886年 - 1980年〕)に恵まれたが、家族は長年比較的貧困に悩まされた。ビーチェを助けるため、セガンティーニは若い家政婦、バルバラ・"バーバ"・ウッフェルを雇った。バーバはセガンティーニのお気に入りのモデルにもなった。バーバはひどい貧乏で家族が多い期間を通してセガンティーニ家と一緒に暮らしたが、当時の多くの芸術家とモデルの関係とは異なり、セガンティーニとバーバが恋愛関係にあった証拠は存在しない<ref>Bachmann, p27</ref>。
1894年に、セガンティーニ一家はサヴォニンを後にし、より標高の高い[[エンガディン]]地方([[w:Engadin|en]])の[[マローヤ]](Maloja)に移り住んだ<ref name="saku21">[[#sakuma|佐久間 (1921)]] p.235</ref>。その地でセガンティーニは、『アルプスの春』などの作品を制作した。そして1898年から、エンガディンの風景が見渡せる[[シャーフベルク]]([[w:Schafberg|en]])にたびたび登り、大作『アルプス三部作』の制作に取り掛かった<ref name="saku22">[[#sakuma|佐久間 (1921)]] p.279</ref>。
 
この時期、セガンティーニはバーバをモデルとして、『Le madri(母たち)』、『Sull’alpe – Dopo un temporale(アルプスにて—嵐の後)』、『Un bacio(接吻)』、『Effetto di luna(月光の効果)』(1887年; [[ルーアン美術館]]所蔵)など重要な絵画を製作した。
しかし、第1作『生』を完成させ、第2作『自然』が完成に近づいた頃、セガンティーニは突然病に襲われた。高熱がつづき、やがて[[腹膜炎]]の症状が現れだした。セガンティーニは『私は私の山が見たい』と言い残し、[[1899年]][[9月28日]]、腹膜炎によって死去した<ref name="saku23">[[#sakuma|佐久間 (1921)]] pp.290-291</ref>。遺体はその2日後に共同墓地に埋葬された<ref name="saku23"/>。三部作の第3作『死』は未完のまま残された。『アルプス三部作』は、スイス、オーバーエンガディン地方、サン・モリッツの[[セガンティーニ美術館]]が所蔵、展示されている。
 
1886年、セガンティーニは住むのに費用が少なくて済む土地を探し、美しい山岳風景に魅かれて、家族と共に[[グラウビュンデン州]]{{仮リンク|サヴォニン|en|Savognin}}に移った。1886年11月から1887年3月まで、グルビシーが新居でセガンティーニ家と共に過ごした。モーヴやその他の画家の新作に興奮して、グルビシーは、輝きを増すために色をより分散することをセガンティーニに提案した<ref>Fraquelli, p14</ref>。セガンティーニはこの助言を『アヴェ・マリア』の第2版に取り入れた。この作品においてセガンティーニは{{仮リンク|分色主義|en| Divisionism}}の絵画技法を初めて使用した<ref>Bachman, p160</ref>。セガンティーニのより大胆な様式はすぐに称賛を受け、セガンティーニはミュンヘン(『アルプスの真昼』)とトリノ(『耕起』)で金賞を受賞した。翌年、[[リヴァプール]]の[[ウォーカー・アート・ギャラリー]]がセガンティーニの有名な絵画『{{仮リンク|淫蕩の罰|en|The Punishment of Lust}}』を購入した。
 
[[File:Mittag in den Alpen 1891.jpg|thumb|『アルプスの真昼』(1891年)。セガンティーニ美術館所蔵。]]
 
グルビシーはセガンティーニに[[象徴主義]]の概念を紹介したと考えられている<ref>Montreal, p37</ref>。フランスの芸術家との繋りによって、グルビシーは当時の直近に出版された[[ジャン・モレアス]]による{{仮リンク|象徴主義宣言|en|Symbolist Manifesto}}について知っていただろう。このエッセイ[[シャルル・ボードレール]]、[[ステファヌ・マラルメ]]、[[ポール・ヴァレリー]]によって率いられた当時生まれたばかりの文学運動に視覚芸術家達を紹介したものとして評価されている<ref>{{cite web|url=http://gallery.sjsu.edu/paris/symbolism/introduction.html|title=Symbolism|access-date=2011-05-01|author=Unknown|archive-url=https://web.archive.org/web/20110507151733/http://gallery.sjsu.edu/paris/symbolism/introduction.html|archive-date=2011-05-07|url-status=dead}}</ref>。
 
ブリュッセルの1890 Salon des XXにて、セガンティーニは展示室を与えられた。このような栄誉は[[ポール・セザンヌ|セザンヌ]]、[[ポール・ゴーギャン|ゴーギャン]]、[[フィンセント・ファン・ゴッホ|ファン・ゴッホ]]といった偉大な画家に与えられたものであった。セガンティーニの名声はヨーロッパ中で高まっていたものの、無国籍であったセガンティーニは旅券を得ることができず、国際展覧会に出席することはなかった。名声にもかかわらず政府が彼に市民権を授与しないことにいら立ったセガンティーニは、サヴォニンの州税の支払いを拒否した。債権者が追い回してきたため、一家はスイス国内の[[エンガディン地方|エンガディン]]谷(標高1,815メートル)へ移った<ref>Bachmann, p160</ref>。ここでは、高山の山道と澄んだ光が続く5年間にわたってセガンティーニの主な題材となった。
 
より高地へと移った後、セガンティーニは哲学を学び始め、人生の意味や自然界における自身の位置に疑問を投げ掛けた作家らに注意を向けた。セガンティーニは[[モーリス・メーテルリンク|メーテルリンク]]や[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ|ダンヌンツィオ]]、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]、そして特に[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]を学んだ。ニーチェには深く魅了され、『[[ツァラトゥストラはこう語った]]』の初のイタリア語訳のためにイラストを描いた<ref>Gibson, p198</ref>。
 
セガンティーニは[[ジョヴァンニ・ジャコメッティ]]([[アルベルト・ジャコメッティ]]の父)と知り合いになった。ジャコメッティは後にセガンティーニの死に際して彼の肖像画を描き、セガンティーニのいくつかの未完の作品を死後に完成させた<ref>Bachmann, p160</ref>。セガンティーニは、色彩技法を称賛していたイタリアの[[新印象派]]画家[[ジュゼッペ・ペリッツァ・ダ・ヴォルペード]]とも出会い、長く文通した<ref>Gibson, p198</ref>。
 
[[File:The_Evil_Mothers_by_Giovanni_Segantini.jpg|thumb|『[[悪しき母たち]]』(1894年、[[オーストリア・ギャラリー]]所蔵)。]]
 
セガンティーニはイタリアで認知度を高め続け、1894年にミラノの[[スフォルツェスコ城]]で自身の作品19点を展示した回顧展を行った。1895年の第1回の[[ヴェネツィア・ビエンナーレ]]にて、セガンティーニは『故郷への帰還(Il ritorno al paese natio、《帰郷》)』でイタリア国家賞を受賞した。1896年には[[ミュンヘン分離派]]においてセガンティーニの作品のために1部屋全体が充てられるなど、さらに名声を高めた。ミュンヘンでセガンティーニの絵画『L'ora mesta(悲しい時間)』を見た後、[[旧国立美術館 (ベルリン)|ベルリン旧国立美術館]]の館長がこの作品を美術館のために購入した<ref>Stutzer, p203</ref>。同年、『耕起(L’aratura)』がミュンヘンの[[ノイエ・ピナコテーク]]によって購入された。
 
1897年、セガンティーニは地元のホテルのグループから、1900年のパリ万国博覧会で特別に建設された円形ホールで展示されるエンガディン渓谷の巨大なパノラマ画を製作するよう依頼された<ref>Fraquelli, p163</ref>。このプロジェクトのため、セガンティーニはほとんど屋外で作業を行い、頑丈な木製シェルターで覆われた大きな複数のキャンバス上に絵を描いた。しかしながら、完成前に、財政的理由からプロジェクトは規模縮小することとなった。セガンティーニは作品構想を『生命』、『自然』、『死』(セガンティーニ美術館所蔵)と呼ばれる大型の{{仮リンク|トリプティク|en| Triptych}}(三連作)へと再設計した。この作品は現在セガンティーニの最も有名な作品である。セガンティーニは死去するまでこの作品の製作を続けた。
 
国際的芸術家としてのセガンティーニの重要性は、同年オーストリア国家がセガンティーニの作品だけを展示する豪華なモノグラフに融資したことで、さらに確立された<ref>Ritter, 1897</ref>。ヨーロッパ中の美術館がセガンティーニの絵画を買い争った。例えば、『信仰の慰み(Il dolore confortato dalla fede、《信仰によって慰められた痛み》)』は[[ハンブルク美術館]]が、『[[悪しき母たち]]』は[[ウィーン分離派]]が購入した。1899年、ブリュッセルの美術協会の年次展示会にてセガンティーニの作品のために一部屋全体が充てられた。
 
「アルプス三部作」の3作目『自然』(セガンティーニ美術館所蔵)の完成を切望し、セガンティーニはシャフベルク近くの高地へと戻った。高い標高と作品製作の速さはセガンティーニの健康に悪影響を与え、9月半ばにセガンティーニは急性[[腹膜炎]]で体調を崩した。2週間後、セガンティーニは死去した。息子のマリオと長年の連れ合いビーチェがセガンティーニを看取った。
 
11月を終わり、セガンティーニ作品の追悼展覧会がミラノで行われた。2年後、今日に至るまで最大のセガンティーニ回顧展がウィーンで行われた。1908年、[[サンモリッツ]]にセガンティーニ美術館が開設された。美術館の設計はエンガンディンのパノラマ画のためのパビリオンのためのスケッチの1枚から発想を得ている<ref>Stutzer (1999), p204</ref>。
 
== 作品 ==
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}}
*{{cite book|title=Segantini: catalogo generale|first=Annie-Paule Quinsac |location=Milan |publisher=Electa|year=1982}}
*Bachmann, Dieter, Guido Magnaguagno, Sam Keller, Ulf Küster. ''Segantini'' Otsfildern: Hatje Cantz Verlag, 2011. {{ISBN|9783775727655}}
*Bachmann, Dieter, Guido Magnaguagno, Sam Keller, Ulf Küster. ''Segantini'' Otsfildern: Hatje Cantz Verlag, 2011. {{ISBN|9783775727655}}
*Belli, G. and Annie-Paule Quinsac. '' Segantini. La vita, la natura, la morte. Disegni e dipint.'' Milan: Skira, 1999.
*Fondation Beyeler. ''Segantini: Mountain Worlds.'' Riehen: Fondation Beyeler, 2011. {{ISBN|978-3-7757-2765-5}}
*Fraquelli, Simonetta and others. ''Radical Light: Italy's Divisionist Painters, 1891-1910.'' London: National Gallery, 2008. {{ISBN|978-1-85709-409-1}}
*Gibson, Michael. ''Symbolism.''Köln: Taschen, 1995. {{ISBN|3-8228-9324-2}}
*Greene, Vivian. ''Divisionism : Neo-Impressionism, Arcadia & Anarchy.'' NY: Guggenheim Museum, 2007. {{ISBN|978-0-89207-357-3}}
*[https://books.google.com/books?id=Zz0bAAAAYAAJ&printsec=frontcover&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false ‘‘Dizionario degli Artisti Italiani Viventi: pittori, scultori, e Architetti.’’], by Angelo de Gubernatis. Tipe dei Successori Le Monnier, 1889, pages 465-468.
*Heslewood, Juliet. ''Lover: Portraits by 40 great artists.'' London: Frances Lincoln, 2011. {{ISBN|978-0-7112-3108-5}}
*Leykauf-Segantini, Gioconda. ''Giovanni Segantini 1858-1899: Aus Schriften und Briefen / Da scritti e lettere.'' Hof/Majola: Innquell Verlag, 2000. {{ISBN|3-00-004997-5}}
*Montreal Museum of Fine Arts. ''Lost Paradise: Symbolist Europe.'' Montreal: Montreal Museum of Fine Arts, 1995. {{ISBN|2-89192-194-1}}
*Quinsac, Annie-Paule. ''Giovanni Segantini 1858-1899.'' Zürich: Kunsthaus, 1990.
*Quinsac, Annie-Paule. '' Segantini: Catalogo Generale.'' Milan: Electa, 1982. {{ISBN|978-88-435-0731-3}}
*Quinsac, Annie-Paule and Robert Rosenblum. ''Giovanni Segantini: Luce & Simbolo / Light & Symbol 1884-1899.'' Milan, Skira, 2001.
*Rapetti, Rodolphe. ''Symbolism.'' Paris: Flammaron, 2005. {{ISBN|2-08-030492-5}}
*Ritter, William. ''Giovanni Segantini.'' Vienna: Verlag der Gesellschaft für vervielfältigende Kunst, 1897.
*Stutzer, Beat and others. ''Giovanni Segantini.'' Otsfildern: Hatje Cantz Verlag, 1999. {{ISBN|978-3-7757-0564-6}}
*Stutzer, Beat. ''Das Segantini Museum.'' Zürich: Scheidegger & Spiess, 2008. {{ISBN|978-3-85881-234-6}}
*Villari, Luigi. ''Giovanni Segantini.'' BiblioLife, 2009 (reprint of 1901 edition). {{ISBN|978-1-115-53134-4}}
 
== 関連項目 ==
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* [http://www.myswitzerland.com/ja/segantini-museum.html スイス政府観光局:セガンティーニ美術館(日本語)]
*[[世紀末芸術]]
*[[セガンティーニ美術館]]([[:de:Segantini Museum|de]])
 
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