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{{混同別人|劉衍}}
{{出典の明記|date=2021年3月}}
{{基礎情報 中国君主
|名 =平帝 劉衎
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|注釈 =
}}
'''平帝'''(へいてい)は、[[前漢]]の第14代[[皇帝]]。漢の第11代皇帝である[[元帝 (漢)|元帝]]の孫にあたる。名は、'''劉箕子'''であったが、帝位についてから、'''劉衎'''に改名した
 
漢の第13代皇帝であり、従兄にあたる[[哀帝 (漢)|哀帝]]の後を継いで漢の皇帝位につくが、帝位の期間、実権は完全に[[王莽]]に握られ、母の一族も王莽によって殺害され、平帝もまた、14歳にして死去した。
 
前漢の実質的な最後の皇帝であり、王莽に毒殺されたという説も存在するが、平帝の在位期間に、漢王朝は盛大を極めたとも伝えられる<ref>以下、特に注釈がない場合、出典は、[[s:zh:漢書/卷012 |『漢書』平帝紀]] </ref>。
 
平帝の在位期間に行われた王莽の礼制や官制を中心とした諸改革は、後に、「元始故事」や「元始中の故事」と呼ばれ、後漢に受け継がれ、さらに「漢魏故事」「漢魏旧制」として、後世の中国の王朝にも大きな影響を与えている<ref>以下、平帝の詔について、実際は、[[王政君]]や王莽が行ったものと考えられるが、儀礼などは漢の皇帝である平帝が主体となって行ったものと考えられるため、「平帝は」と表現する</ref>。
 
== 生涯 ==
=== 中山王時代 ===
[[元延]]5年([[紀元前8年|前8年]])、父の中山孝王{{仮リンク|劉興 (中山王)|zh|刘兴 (中山王)|label=劉興}}([[元帝 (漢)|元帝]]の末子)の死去にともない2歳で爵位を継承した。[[元寿 (漢)|元寿]]2年([[紀元前1年|前1年]])、従兄の[[哀帝 (漢)|哀帝]]の死去にともない、皇帝の璽綬を[[董賢]]から奪った[[王莽]]らによって9歳で皇帝に即位した。即位当初から王莽ら王一族が権力を握った。母の衛姫や衛氏一族は[[長安]]に入れなかったが、王莽の長男の[[王宇]]やその夫人の兄の[[呂寛]]らは、このことがのちのち禍根となることを恐れて、衛氏が長安に入れるように働きかけた。そのことが王莽の怒りを買い、平帝の母の兄弟にあたる衛宝・衛玄ら衛氏一族を(衛姫を除いて)ことごとく誅殺し、王宇や呂寛も衛氏一族とともに殺した。
劉箕子の母、衛姫の父の衛子豪は、[[中山国]]の盧奴県の出身であり、官職は衛尉に至った人物であった<ref>漢書 97巻 外戚伝下:中山衛姬,平帝母也。父子豪,中山盧奴人,官至衛尉。</ref>。衛子豪の妹は、宣帝の[[婕妤|倢伃]](高位の側室)となり楚王の劉囂を生み、衛子豪の長女もまた、元帝の倢伃となり、平陽公主を生んでいた<ref>漢書 97巻 外戚伝下:子豪女弟為宣帝婕妤,生楚孝王;長女又為元帝婕妤,生平陽公主。</ref>。劉箕子の父・中山孝王の{{仮リンク|劉興 (中山王)|zh|刘兴 (中山王)|label=劉興}}に子がなかったため、劉興の兄にあたる[[成帝 (漢)|成帝]]が、(子を産む)衛氏の吉祥により、衛子豪の下の娘にたる衛姫を劉興にめあわせた<ref>漢書 97巻 外戚伝下:成帝時,中山孝王無子,上以衛氏吉祥,以子豪少女配孝王。</ref>。
 
[[元延]]4年([[紀元前9年|前9年]])、[[元帝 (漢)|元帝]]の末子である中山孝王の{{仮リンク|劉興 (中山王)|zh|刘兴 (中山王)|label=劉興}}を父、衛姫を母として、生まれる。箕子と名付けられた。
 
[[元延]]5年([[紀元前8年|前8年]])、父である中山孝王の劉興が死去する。劉箕子は、後を継いで、中山王に立つがいまだ2歳であった<ref>劉箕子の年齢については、『漢書』平帝紀では、3歳とするが、『漢書』外戚伝下では[[元延]]4年([[紀元前9年|前9年]])に生まれ、この時2歳としており、また、この時、いまだ、生まれて1年にも満たなかったという記述もあるため、これに従う。</ref>。劉箕子は怪しい病気があったため、祖母の馮氏(中山孝王の劉興の母)が、自ら養育して、しばしば祈祷を行った<ref name="名前なし-rKNl-1">[[s:zh:漢書/卷097下|『漢書』外戚伝下]] </ref>。
 
しかし、中郎謁者の張由が、漢の皇帝であった哀帝(名は劉欣、劉箕子の従兄にあたる)に、馮氏が哀帝と[[傅昭儀|傅氏]](哀帝の実祖母)を呪詛していると誣告した。馮氏はかつて傅氏と元帝の寵愛を等しくした仲であり、傅氏はかねてから、馮氏を恨んでいた。傅氏の意をうけ、列侯に封じられることを願った中謁者令の史立が取り調べを行い、馮氏は自害し、馮氏の一族も多くは自害するか、処刑され、死者は数十人にのぼった。この告訴により、張由は[[関内侯]]の爵位を受け、史立は中[[太僕]]に昇進した<ref name="名前なし-rKNl-4">[[s:zh:漢書/卷012 |『漢書』平帝紀]] 及び[[s:zh:漢書/卷097下|『漢書』外戚伝下]] </ref>。
 
=== 平帝として即位する ===
 
[[元寿 (漢)|元寿]]2年([[紀元前1年|前1年]])6月、哀帝が死去し、哀帝に後継ぎがなかったため、哀帝の腹心であった[[大司馬]]の[[董賢]]に代わって漢の政治の実権を握った[[太皇太后]]の[[王政君]]と新都侯の[[王莽]]が、中山王であった劉箕子を迎えることに決める。秋7月、王政君に命じられた[[車騎将軍]]の[[王舜]]と[[大鴻臚]]の左咸は節をもって劉箕子を迎えにきた。9月に、漢の皇帝として即位させる。劉箕子は9歳で即位した(平帝)。王莽は政治をもっぱらにしようと考えて、成帝の[[皇后]]であった[[趙飛燕]]、董賢の一族や哀帝の外戚であった丁氏や傅氏を排除して、劉箕子(平帝)を成帝の後継とし、平帝の母にあたる衛姫や平帝の外戚に、都である[[長安]]のある[[京師]]には来てはならないとした<ref name="名前なし-rKNl-4"/>。
 
この頃、[[司徒|大司徒]]の[[孔光]]が奏上した。「張由は以前に(皇帝の)肉親を誣告し、史立は人を陥れて死罪とし、国家への怨みを天下に結んで、昇進し爵位を得ています。幸いに赦令にこうむりまして、二人を罷免して庶人とし、[[合浦郡|合浦]]に流罪としてください」<ref name="名前なし-rKNl-1"/>。
 
平帝の名の元で[[大赦]]が行われたが、平帝はいまだ9歳であり、太皇太后の王政君が朝廷に臨み、大司馬の王莽が政治をつかさどり、百官は全て、己の職務について王莽にきいた。平帝の名の元に詔が下された。「諸々の悪事が露見せずに暴かれず推薦されているものについては、みな、取り調べは行わないようにして、士に精勤させ、小さい悪事で有能な人物がさまたげられることがないように、今後は、大赦以前のことを述べて奏上することのないようにせよ。このようにしないものは、皇帝の恩をそこなうものとして、不道の罪をもって論ずる」。
 
=== 元始の政治の開始 ===
 
[[元始 (漢)|元始]]元年([[1年]])、春、正月、[[益州]]の[[越裳]]氏が通訳を通じて、白雉一羽、黒雉二羽を献じた。(平帝の名で)詔が行われ、[[三公]]に命じて、白雉と黒雉を[[宗廟]]に備えさせた。群臣たちが、王莽の功績は[[周]]の[[周公旦]]に匹敵するものであると奏上したため、安漢公の号を与え、[[太師]]の孔光たちの封じた土地を増やした。20世紀の日本の中国史学者である[[東晋次]]は、「白雉は瑞鳥であるという伝承は、この時代には既に定着していたと考えられる」「王莽は平帝を周の[[成王 (周)|成王]](周の二代目の王、武王の子)、自身をその成王を補佐した周公旦になぞらえようと試みていた」」と論じている<ref>『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.107 </ref>。
 
王莽は何度も辞退した後で、[[太傅]]と安漢公の号を受けたが、領地の加増は「願わくは、百姓の家が豊かになってから、褒賞をお与えくださいますように」として辞退した。群臣や王政君らは改めて受諾を 訴えたが<ref name="名前なし-rKNl-2">[[s:zh:漢書/卷099上|『漢書』王莽伝上]] </ref>、王莽はなおも辞退し、加えて「皇族や功臣の子孫たちに爵位を封じて食邑を与え、官職や爵位があるものを秩序づけましょう。また、宗廟を尊んで、[[礼楽]]を増し加え、士や民にも恵み、恩沢を施すところのない政治を行いましょう」<ref name="名前なし-rKNl-2"/>と、新たな体制での政策を訴えた。
 
2月、([[大司農]]の官を)羲和と改名し、外史と閭師の官を設置する。([[儒教]]による)教化を徹底し、[[淫祀邪教|淫祀]]と(淫靡といわれる)鄭声を禁止する。
 
5月、[[日食]]があった。天下に大赦を行い、[[公卿]]や将軍、高官のものに敦厚で直言できる人物をそれぞれ一人、推薦するように命じる。
 
6月、王莽の腹心である[[少傅]]・[[左将軍]]の[[甄豊]]を朝廷から派遣し、中山孝王姫であった(平帝の母の)衛姫は、璽綬を賜わり、中山孝王后に任じられた。また、衛姫の兄弟である衛宝とその弟である衛玄は関内侯の爵位を与えられた。また、平帝の三人<ref>『漢書』平帝紀では四人とする。</ref>の妹にあたる劉謁臣は修義君に、劉哉皮は承礼君に、劉鬲子は尊德君に封じられ、各々食邑各二千戸が与えられた<ref name="名前なし-rKNl-4"/>。
 
周公旦の子孫である公孫相如を襃魯侯に封じ、[[孔子]]の子孫である孔均を襃成侯に封じ、それぞれ先祖を祀らせた。また、孔子を追諡して、襃成宣尼公とした。
 
天下の女性の囚人たちでその罪が決まっているものは家に帰らせ、毎月、三百銭を払わせた。また、郷において貞婦を一人、推薦させた。
 
東晋次は、女性の囚人たちでその罪が決まっているものを家に帰らせたことについて、「[[顔師古]]の解釈によれば、元后(王政君)の徳を天下に知らしめ、恩恵を婦人にまで施す政策的意図を有しているという。これと関連して、女徒の帰家令とほぼ同時期に、元后が自らの[[湯沐邑]](皇后・公主など婦人の有する食邑)の十県を大司農(財務大臣に相当)に預け、その租税収入をもって貧民を贍わすように指示している」と論じている<ref>『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p. 115 </ref>。
 
[[少府]]に海丞と果丞の官を設置し、大司農に部丞の官を13人設置し、一人ごとに一州を管轄させ[[農業]]と[[養蚕業|養蚕]]をすすめさせた。
 
秋9月、天下の衆人に恩赦をくだした。
 
中山孝王后となった平帝の母にあたる衛姫に、中山の苦陘県を領地として与える。
 
=== 名をかえる ===
元始2年([[2年]])、諱の『箕子』は様々な場で用いられている漢字であるため、忌諱の都合を考慮して『衎』と諱を改める詔を発した。同年4月、王莽の提案を容れて各地の皇族の封爵、および宣帝代の宰相[[霍光]]の同族の霍陽、漢初異性王の一人の[[張耳]]の子孫の張慶忌、建国の功臣であった樊噲の五世孫の樊章、同じく建国の功臣周勃の玄孫の周共らの列侯を行った。東晋次は「これら王朝の功臣の子孫らへの封爵は、崩壊しかかった漢王朝の再建を目的としていたと考えられる」と論じている<ref>『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.114-115 </ref>。
 
同年、各地で猛暑と蝗害が相次ぎ、青州では民衆が流亡する事態となった。王莽を始めとする重臣たち230人余りは、自身の私有する田地を国庫に献上して民衆に施し、また民衆が[[イナゴ]]を捕らえて官吏に差し出した場合は、その量を計って銭を与える事を布告した。また財産を一定以上持たない民衆からの租税の免除、疫病に疾患した民衆の収容・手当の支給、死者が出た家庭への葬儀費用の支援、[[安定郡]]や首都長安の貧民の移住区域としての開放、田宅や[[什器]]、[[犂]]、牛、種もみ、食糧などの支給・貸与などの、人命救済のための政策を実施した。
 
後漢代に編纂された「漢書」によれば、この年は前漢としては盛大を極めたと伝えられ、郡や国の数は103、県や邑の数は1,314、道は32、侯国は241。地は東西9,302里、南北13,368里。領土は、1億4,513万6,405頃であり、その1億252万8,889頃の大部分は、宅地・道路,山川・林沢などで耕作できない土地であった。3,229万947頃は開墾できる土地であり、開墾済みの土地は827万536頃であった。民は1,223万3,062戸、人口は5,959万4,978人いた<ref>[[s:zh:漢書/卷028下|『漢書』地理志]] </ref>。東晋次は「元始年間における王莽の統治の妥当さを示す一例であろう」と論じている<ref>『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.114-115 </ref>。
 
=== 王莽の娘を皇后に迎える ===
元始3年([[3年]])、王莽が、太皇太后の王政君に提言した。「すでに即位して3年になる皇帝(平帝)に世継ぎが生まれるために、礼にのっとって、12名の良い女性を前代の二王朝(殷・周)の王の子孫や周公旦・孔子の子孫、列侯の子女たちの中から推薦させ、その中から皇后に迎えるべきです」。王政君が官吏に女性の名を報告させると、(王政君と王莽の)王氏の子女たちが多く含まれていた。王莽は、自分に徳がなく自分の娘が後宮に入ることを辞退した<ref>『漢書』王莽伝上によると、王莽の真意は推薦された女性たちが王莽の娘と皇后の地位を競い合うことになるのを恐れたとする。 </ref>。王政君は、王氏の子女は王政君の外家であるため、採用してはならないと命じた<ref name="名前なし-rKNl-2"/>。
 
しかし、宮殿正門に毎日、庶民・諸生(学生)・郎吏ら千人以上のものが、後宮に入る女性に王莽の娘を含めるように上書してきた。公卿や[[大夫]]もあわせて、王莽の娘([[王皇后 (漢平帝)|王氏]])を皇后とするように言上してくる。王莽は、部下を派遣して、公卿や諸生たちを諭したが、上書するものはますます増加した。王政君は仕方なく、王莽の娘を後宮に入る一人に含めることにした<ref name="名前なし-rKNl-2"/>。
 
王莽が、「皇后を推薦された女性から広く選ぶべきである」と申し上げる。だが、公卿たちが王莽の娘以外の女性を皇后にすべきではない、と進言する。王莽は、公卿たちに娘に会ってほしいと申し出ると、王政君は、少府・宗生・尚書令に命じて、王莽の娘に面会させた。みな、王莽の娘は皇后となるに充分なよい女性だと言った。王政君が占ったところ、吉とでたため、王莽の娘の皇后冊立は決定した<ref name="名前なし-rKNl-2"/>。
 
東晋次は「このように、みずから策しながら、自譲しつつ結局は成功に導く、つまり王莽自身は願望を果たすのだが、そのやりとりの中では自ら求めてのものではないという印象を人々に与えるやり方、これが若年以来の王莽に備わった政治的作法なのであった」とみなしている<ref>『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.134 </ref>。
 
詔を行い、皇后として、王莽の娘を選び、[[納采の儀|納采]]の礼をとり行わせた。さらに、詔を行い、[[光禄大夫]]の[[劉歆]]に様々な婚姻の礼を制定させる。これにより、四輔、公卿、大夫、博士、郎、官吏の家族は皆、その礼にのっとって婚姻を行い、婿が新婦を迎えに行くときには小さい車に乗り、馬を並べることとなった。
 
=== 礼制・学制の改革 ===
 
夏、王莽が「車や服飾の制度、官吏や民衆における養生(親の扶養)、送終(葬儀)、嫁娶(婚姻の礼)、奴婢や田宅<ref>東晋次は「哀帝の時に師丹が限田策を奏上したが、董賢や傅氏らの反対で沙汰やみとなった田宅や奴婢の制限が、ここに再び姿を現したと考えてよい。しかしそれが具体的にどのような内容であったかをうかがい知ることができないのは、後年王莽が発する王田制とも何らかの関連がある筈なだけに、残念ではある」と論じている。『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.116 </ref>、器械の品(身分による格付けの規定)」について奏上してきた。
 
また、王莽の進言により、漢王朝の[[社稷]]として、官社が建てられていたが、官稷は建てられていなかったので、官稷を官社のうしろに建て、官社で[[夏 (三代)|夏]]の[[禹王]]を、官稷で周の[[后稷]]を祀ることにした<ref name="名前なし-rKNl-3">[[s:zh:漢書/卷025下|『漢書』郊祀志]] </ref>。
 
[[渡邉義浩]]は「前漢の高祖劉邦は、国家の交替を明らかにするために秦の社稷を除いたあとで、漢の社稷として太社(大社)と太稷を建てた。さらに、官社(王社)を建て、夏の禹王を配食(ともに祭祀)する。その際、官稷を建てることはなかった。前漢は、太社・太稷と官社(王社)という「二社一稷」を祭っていたのである。
 
これに対して、王莽は、新たに官稷を官社の後ろに建て、周の始祖である后稷を配食して、太社・太稷と官社・官稷という「二社二稷」制を創設する。(中略)
 
[[光武帝]]は、王莽の「元始中の故事」を継承せず、高祖以来の「二社一稷」制に戻した。漢の故事を[[古文]]学派の[[経書|経義]]より優先したのである。(中略)やがて、後漢末には、古文学派は「二社二稷」、今文学は、「二社一稷」を主張するに至る。
 
王莽の「二社二稷」制は、[[魏 (三国)|曹魏]]に継承される。曹魏は(中略)伝説上の人物を崇める人鬼(亡くなって鬼となった人。神とは異なる)説を取り、王莽もまた、人鬼説に基づいて「二社二稷」制と取っていた(後略)」と論じている。<ref>『王莽―改革者の孤独』p.76-77 </ref>。
 
また、王莽の進言により、学官を立てて、[[郡]]や[[国]]には「学」、県や(異民族が住む)道、(有力者の領地である)邑、侯国には「校」という学校を設置し、「学」と「校」にそれぞれ経師(儒教を教える教師)一人を置いた。郷にも「庠」、聚には「序」を設置して、「序」と「庠」にもそれぞれ孝経師(『[[孝経]]』を教える教師)一人を置いた。
 
東晋次は「王莽による本格的な学校制度の整備は、その後の中国社会における儒学の普及や地方社会の文化的向上の促進にとって、おおいに意義のある政策であった。かかる面においても王莽の歴史的役割の重要性を認めないわけにはいかない」と論じている<ref>『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.134 </ref>。
 
陽陵県の任橫らが将軍を自称し、庫の兵器を盗み、役所を攻め、囚人を逃がした。大司徒の掾が討伐すると、皆、罪に伏した。
 
=== 王莽に母の一族を殺害される ===
 
'''この事件の詳細な内容は「[[王宇]]」の項目を参照'''
 
王莽の長男の[[王宇]]やその夫人の兄の[[呂寛]]、王宇の師である呉章は、平帝の母である衛姫が長安に入れるように働きかけるために、奇怪なことで王莽を脅そうと、王莽の屋敷に血をそそいだが発覚する。王宇は自害し、王宇の夫人や呉章は処刑され、呂寛も捕まった<ref name="名前なし-rKNl-2"/>。
 
王莽は、取り調べにかこつけて、王莽に批判的であった人物や、王莽が誅殺したいと考えていた人物まで王宇の事件に関与したとして逮捕して、処刑あるいは自害に追い込んだ。このため、平帝の母の一族である衛姫の兄弟にあたる衛宝・衛玄ら衛氏一族を、衛姫を除いてことごとく誅殺し、さらに、元帝の妹の敬武長公主、漢王朝の皇族である梁王の劉立、王莽の一族であたる[[王立]]と王仁まで、自害させた。また、王莽の様子から真意を悟った[[司空|大司空]][[甄豊]]は使者を使わしてその与党を取り調べさせ、元[[三公]]の[[何武]]、元[[司隷校尉|司隷]]の[[鮑宣]]、彭偉や杜公子など死者の数は百人以上、あるいは数百人にものぼった<ref name="名前なし-rKNl-2"/>。
 
この事件の後、大司馬護軍の襃は上奏した。「安漢公(王莽)は、子の王宇が罪を犯すという災難にあわれました。(王莽の)子に対する愛はとても深いのに、漢の帝室のために個人のことはあえて顧みなかったのです。(王莽は)子の王宇が罪を犯したということにあわれ、発憤されて8篇の『子孫を戒める』書をおつくりになりました。郡・国に配り、学官に教授させますように」<ref name="名前なし-rKNl-2"/>。
 
大臣たちは話し合い、天下の役人で、安漢公(王莽)の戒めを暗唱できたものは、官簿(官吏登用のための名簿)に記して、王莽の『子孫を戒める書』を孝経に比べるほどができる扱いにした<ref name="名前なし-rKNl-2"/>。
 
東晋次はこのことについて、「王莽の翼賛体制が地方官界にも次第に波及していく様が手に取るように分かるのである。」と論じている<ref>『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.142 </ref>。
 
=== 王莽が宰衡となる ===
 
元始4年([[4年]])、春、正月、平帝は、高祖を郊祀し、天に配してあわせて祀り、[[文帝 (漢)|文帝]]を宗廟に祀って、上帝に配してあわせて祀った(天子七廟制)<ref>このことについて、東晋次は「「配」」とは、主神とあわせ祀ることをいう。高祖と文帝をそれぞれ祭祀したのは、天子七廟制との関係による」と論じている。『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.144 </ref>。
 
平帝の名のもとで、詔を行われた。「過酷で乱暴な役人が犯罪者の親族や婦女、老人、子供を拘留することが多く、恨みをかまえ、徳化を損ない、多くの民が苦しんでいる。役人たちにいましめる。婦女で本人が罪を犯したもの、また、男子でも年が80以上あるいは7歲以下で、家が非道を行い連座して、詔で名指しするものでない限り、全て抑留してはいけない。取り調べの必要のあるものは、その居所で調べよ。これを法令で定めることにする」。
 
2月、平帝は、王莽の娘の王氏を皇后に立て<ref>王氏は平帝と同年齢の13歳である。 </ref>、大赦を行う。太僕の王惲ら8人を使わして、節を持たせ、分けて天下を巡回させ、その風俗を視察させた。[[九卿]]以下、六百石までのものと宗室で籍があるものに爵位を与える。天下の民に爵位一級を与え、老いて妻のない夫、老いて夫のない妻、みなしご、子のない老人と高齢者に絹を与えた。
 
夏、4月、太保の王舜らが、王莽に[[殷]]の[[伊尹]],周の周公旦のように大賞を与えるべきである、と奏上した。さらに、民に(同様のことを)上書するものが八千余人もあらわれ、公卿たちもみな言った。「伊尹は阿衡、周公旦は太宰となりました。(王莽に)同様の大賞を与えられますように」<ref name="名前なし-rKNl-2"/>。
 
官僚たちに検討させると、官僚たちは「大礼を明らかにするため」と言って、次のように要請してきた。
 
* 王莽が先に辞退した三万戸の領地を再度、与え、王莽に、伊尹の「阿衡」、周公旦の「太宰」の称号をあわせた「宰衡」に任じ、三公の上位とすること。
* 宰衡の属官は全て秩禄を六百石とし、三公が王莽に語りかえる時は、『敢言之(あえてこれをいう)』と称することにする。
* 全ての官吏は、王莽と同名を名乗らないこと。
* 王莽の母は、『功顕君』と号して、二千戸の領地を与え、特別に、黄金の印に、赤い綬(印につける組み紐)を使うこと。
* 王莽の公子(息子)である王安は襃新侯、[[王臨]]は賞都侯といった列侯に封じる。
* 皇后の聘金として、3,700万銭増して、合わせて一億銭とすること
<ref name="名前なし-rKNl-2"/>。
 
王莽は、はじめは母の「功顕君」の号以外は辞退するが、王政君や太師の孔光の要請により、ついに、応じた。王莽は、宰衡と太傅、大司馬を兼ねることになり、『宰衡太傅大司馬印』を新に身に着け、その綬(印の組み紐)は[[相国]]のものと同様とした<ref>このことについて、東晋次は「相国とは(中略)漢の初期に高祖の功臣である[[蕭何]]が[[丞相]]となり、その七年後に相国に遷っているから、丞相よりも官位の格が上になる官である。ただその後、丞相を相国とも称して宰相の意味になったが、王莽の官位の組み紐は、丞相よりも一段高い相国のそれであったことは言うまでもない」とみなしている。『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.136 </ref>こととなった<ref name="名前なし-rKNl-2"/>。
 
=== 礼制の改革 ===
 
王莽の奏上により、[[明堂]]と辟雍を建設する。
 
東晋次は「藤川正数氏の明堂に関する説明によると(『漢代における礼学の研究 増訂版』)、先秦時代には二つの明堂に関する考え方があり、一つは明堂を王道政治を行うところとする儒家思想。いまひとつは[[陰陽五行思想]]の影響をうけた[[月令]]頒布や[[五帝]]祭祀の場所としての明堂月令説である。前者は王莽時代に採用された考え方であり、(中略)
 
一方、王莽の明堂に関して藤川氏は、「礼教の堂であり、そこには太祖を奉祀すると見るのであって、要約すれば、儒家的王道政治を行う場所と考えたものである。したがって、王莽にとって三宮の制は、大がかりな儒家的礼教政策の一環なのであった。(中略)こうした明堂や辟雍の前例を承けた王莽は、儒家思想にもとずく明堂建設を強く念願したのである。」と論じている<ref>『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.145 </ref>。
 
群臣が奏上してきた。「周公旦ですら、7年もかけて制度を定めたのに、明堂と辟雍といった千年も廃され、再建されなかったものを、安漢公(王莽)が4年でなり遂げた功徳は燦然と足るものです。明堂建設の翌日には、諸生(学生)や庶民が十万人も賛同して集まり、命じもしないのに20日で明堂の建設を完成させました。[[堯]]や[[舜]]の事業、周の[[洛陽市|洛陽]]建設ですら及びません。(王莽のついた)宰衡の位を諸侯王より上にし、束帛と璧、大国の主の車と安車、各一台、(それをひく)驪馬(黒馬)を二駟(馬車を引くための四頭・二組の計八頭)を賜りますように」<ref name="名前なし-rKNl-2"/>。
 
平帝の名のもとに詔が出された。「よろしい。王莽に与える[[九錫]](『[[周礼]]』や『[[礼記]]』にもとづいた君主が大功ある元勲に授ける栄典)の法を議論せよ」<ref name="名前なし-rKNl-2"/>。
 
また、王莽の上奏により、[[宣帝 (漢)|宣帝]]の廟を尊んで、中宗とし、元帝の廟を尊んで、高宗として、天子は代々、祭ることにした(天子七廟制)。
 
東晋次は「この天子七廟制の問題については、元帝期以降さんざん論議されてきたにもかかわらず、ついには決着を見なかった長い経緯がある。(中略)ただ、哀帝期の孔光と何武による五廟制の提議に対し、劉歆が『礼記』「王制」などにもとづいた七廟制を強く主張し、武帝の廟号を世宗に決定づけるに大きな役割を果たしたこと、そして、それを承けた王莽が、元始四年に、宣帝の廟号を中宗、元帝の廟号を高宗と決定して、ひとまずの決着をつけたことだけは指摘しておきたい。つまり、高祖太祖廟、文帝太宗廟、[[武帝 (漢)|武帝]]世宗廟、宣帝中宗廟、元帝高宗廟の五廟を不毀の廟として、それに成帝と哀帝の廟を加えて七廟とする、というものである」と論じている<ref>『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.144 </ref>。
 
=== 官制の改革 ===
 
王莽が、中郎将の平憲に、多額の金幣を持たせ、西方の[[羌族]]を誘致させ、土地を献じて、漢に属することを願わせた。王莽は、西方に新たに[[西海郡 (前漢)|西海郡]]を設置することを願うとともに、「漢王朝の領土は、現在13州に分かれていますが、(儒教の)経書において、かつて、堯が12州に定めてから、禹が9州に定めたことに合致しません。漢王朝の領土を(経書の通り)9州にわけることは、領土を広げたためにできないため、経書の通り12州に分け、始めの正しさにあわせたいと思います」と、建言してきたため、実施することとなった<ref name="名前なし-rKNl-2"/>。
 
そこで、西海郡が設置され、さらに、法律を50条増やして、天下の犯罪者が西海郡に流刑されることとなった。流刑となったものが千や万をもって数えられ、民ははじめて(王莽の政治を)怨んだ<ref name="名前なし-rKNl-6">[[s:zh:漢書/卷012 |『漢書』平帝紀]] 及び[[s:zh:漢書/卷099上|『漢書』王莽伝上]] </ref>。
 
長安近辺の京師を分けて、前煇光、後丞烈の二郡を設置した。さらに、公卿、大夫、八十一元士の官名や位次を変更した。
 
また、王莽の建言どおり、十二州に変更する。王莽によって整理された州は、雍・予・冀・兗・青・徐・揚・荊・益・并・交の十二州である。首都近傍の七郡は雍・予・冀の三州に分属させた<ref>『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.140 </ref>。
 
東晋次は「王莽が武帝の州刺史設置による州・郡・県制を受け、さらに新たな地域区分を行うことによって、戦国期からの地域名称が次第に姿を消し、後漢時代に入ると、十三州が百五の郡国の上位行政区となって州・郡・県制がすっかり定着し、地域の名称についても戦国期の名残を払拭することになる。この州・郡・県制は、その後六朝時代の州の数の増大により、隋代には郡が廃止されて[[州県制]]へ移行し、その後の地方行政区画の基本となる。秦漢時代の[[郡県制]]が州県制へ移行するその一つのステップが王莽期の州・郡・県制であった」と論じている<ref>『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.141 </ref>。
 
しかし、官吏たちは、12州の分界や郡・国の所属の変更や、多くの制度や官名の新設や廃止、変更、改名が行われ、天下に事件も多かったため、対応することはできなかった、と伝えられる。
 
=== 王莽に九錫を賜う ===
 
元始5年([[5年]])、春、正月、平帝は、明堂において祫祭<ref>先祖を始祖の廟に集めて祀ることで、禘祭(正月に南郊で始祖の神霊を天帝に配して祭る)とあわせて毎年四季におこなわれる四時祭とは異なり、数年おきの大祭である。『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.147 </ref>を執り行う。諸侯王28人、列侯120人、宗室の子900余人を呼び、祭を助けさせた。祫祭が終わると、みなに、領地を与え、爵位や金や布を賜い、秩禄を増やして、官職を与えた。
 
この時、前後487,572人の官吏や民が、王莽が元始元年に辞退した賞賜としての新野県の田地を王莽に受納させるように上書してきた。また、諸侯、王公、列侯、宗室たちが皆、叩頭して王莽に賞賜を加えることを願い出てきた。王莽は上書してきて、自分の功績の無さをのべたて、九錫について議論する命令をくだしたことを取りやめて欲しい、自分はただ「制礼作楽」<ref>王莽が口癖のように言う言葉に「制礼作楽」がある。略して「制作」ともいうが、礼の制度化によって社会を等級づけて秩序あらしめることが「政礼」。「作楽」は「音楽を作(おこ)す」ことで、(中略)、淳風美俗の醸成に音楽を有効なものとして活用しようとすることである。『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.137 </ref>に尽力したいと願ってきた<ref name="名前なし-rKNl-2"/>。
 
甄邯らが太皇太后の王政君に申し上げ、また、平帝の名のもとに、詔が出されることとなった。「いまや制礼作楽のことは成就し、(元始元年に、王莽が先に条件としてつけた)天下和平や民の安寧の報告も行われているので、九錫の儀礼を奏上するように」。そこで、公卿大夫や博士、議郎、列侯の張純ら902人が皆、上奏してきて、王莽に九錫を賜うことを願ってきた。これも、平帝の名のもとに、裁可され、王莽に九錫を賜う[[策書]]が作成され、王莽は九錫を受けた<ref name="名前なし-rKNl-2"/>。
 
王莽は九錫以外にも、宗官・祝官・卜官・史官や[[虎賁]]の兵士300人,家令と家丞がそれぞれ一人ずつ与えられ、王莽を補佐することになり、王莽が役所や邸宅にいる時は虎賁の士が門衛となり、出入りする者の名簿を作成させた。かつての楚王の邸宅は王莽のものとなり、大規模な修繕が行われた。陳崇の上奏によって、王莽が城門を出て、祖先の廟を祀る時も、城門[[校尉]]が騎士とともに、王莽に従うようになった<ref>東晋次は、「王莽は位人臣を極めたと言うべきであろう」と評している。『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.152 </ref><ref name="名前なし-rKNl-2"/>。
 
同年、平帝の名の元に詔を出された。「宗室はそれぞれ氏族を率いて,郡や国に宗師(宗族の子弟を取り締まる官職)を置いてその氏族を正して、教訓を行い、宗師には、二千石の官職にあり、徳義者を選ぶように。宗師は文書で宗伯(王族のことを取り仕切る)に上聞を要請することができる。年の正月ごとに宗師にそれぞれ絹十匹を賜うことにする」。
 
羲和(官職名)の劉歆ら四人が明堂と辟雍の建設の使者として功績をあげ、[[文王 (周)|文王]]の霊台建設、周公旦の洛陽造成と符合させたことにより、列侯に封じた。
 
また、太僕の王惲ら8人が天下の風俗を視察して帰還し、天下の風俗はどこも同じになっていると言った。徳化を明らかにし、天下を同じくさせた功績により、皆列侯に封じられた<ref name="名前なし-rKNl-6"/>。
 
天下の失われた経書・古記・[[天文学|天文]]・[[暦算]]・鍾律・小学・史篇・[[方術]]・[[本草学|本草]]・[[五経]]・[[論語]]・孝経・[[爾雅]]に通じて教えられものを召しだし、その居所で一頭立て馬車を仕立てて、京師にまで至らせた。応じて来たものは数千人にのぼった。
 
=== さらなる礼制の改革===
 
この頃、王莽が奏上してきた。「王者は父を尊び、もって天に配(主神とあわせ祀ること)しようとし、父の意をくんで、祖父を尊ぶことを願います。そして、推していって、尊ぶことを先祖にまで及ぼすのです。周公旦は郊外の祀において(周の始祖の)后稷を天を天に配し、宗廟の祀りにおいて、(周公旦の父である)周の文王を明堂において上帝に配したのです。『礼記』では、「天子は天地と山川を祭り、年ごとに行う」とあります。また、『[[春秋穀梁伝]]』では、十二月のあとの辛の日をあらかじめ占い、正月のはじめの辛の日に郊外で祀ると記されています。漢では天地の祀りは次々と内容が変わり、(成帝の)[[建始 (漢)|建始]]元年([[紀元前32年|前32年]])にそれまでの甘泉の泰畤と河東の后土で行っていた天地の祭祀を長安の南北の郊外に行うことに変えました。その後も3度、天地の祭祀は入れ替わっており、甘泉の泰畤と河東の后土で行うことにもどしたため、福がなかったのです。私がつつしんで、太師の孔光、長楽少府の[[平晏]]、大司農の左咸、中塁校尉の劉歆、太中大夫の朱陽、博士の薛順、議郎の国由ら67人と議論したところ、皆、建始の時のように、また、長安の南北の郊外で天地の祭祀を行うべきと申しています」。そこで、王莽の建言どおり、実施することになり、30数年の間に五度も移り変わった漢の天地の祭祀は長安の南北の郊外で行うことになった<ref name="名前なし-rKNl-3"/>。
 
東晋次は「王莽みずから上奏して、長安の南北の郊外で天地を祀ることを要請して可とされ、それまでの三十年間に五たびも変更された紆余曲折に決着をつけることになった。王莽によって決着を見たこの南北郊祀制(中略)は、後漢時代にも継承、整備されて後漢の礼教国家建設の前提となったのである」と論じている<ref>『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.144</ref>。
 
渡邉義浩は「天子七廟制という皇帝による宗廟の祭祀、南北郊祀という天子による天地の祭祀は、こののち中国の支配者が重視する祭祀として、近代まで続いていく」と論じている。<ref>『王莽―改革者の孤独』p.32 </ref>。
 
王莽が奏上してきて言った。「つつしんで、『周官(周礼)』を読みますと『五帝を四郊に兆す<ref>祭壇と営域を設ける</ref>』とあります。山川はそれぞれその在るところに、したがうのですが、いまの五帝の兆居は雍の五畤にあって、これでは、(『周礼』に書かれた)古制とあいません<ref>漢ではこの時、天地の祭祀とあわせて、雍の五畤で五帝を祀っていた。</ref>。つつしんで、太師の孔光、大司徒の[[馬宮]]、羲和の劉歆ら89人と議論したところ、群神を分けるのに種類で五部に分け、天地の別神を兆し、それぞれ長安城の西南の地、東の郊外、南の郊外、西の郊外、北の郊外で兆しましょう」。これも、王莽の建言どおり、実施することにした。そのため、長安の近郊の諸廟と兆畤はとても盛んとなった<ref name="名前なし-rKNl-3"/>。
 
この王莽の建言によって定めた祭祀は、迎気(五郊)と呼ばれ、四時(四季)において、郊外で行う祭りのことで、風雨が時節ごとに潤し、寒暑が四時ごとに順調なことを祈念するものである。『後漢書』祭祀志中によれば、後漢の「迎気」は、この「元始中の故事」を採用して行われたものであるとされる<ref>ただし、渡邉義浩は、「後漢のものは「元始中の故事」そのままではない」とみなしている。 『王莽―改革者の孤独』p.74 </ref><ref>『王莽―改革者の孤独』p.74 </ref>。
 
=== 突然の死 ===
 
泉陵侯の劉慶が上書して言った。「周の成王は幼少にして孺子と称し、周公旦が摂政いたしました。今の帝(平帝)も(年少で)春秋に富んでいます。よろしく安漢公(王莽)には天子の事業を行うこと、周公旦のようにすべきです」。群臣もまた同意した<ref name="名前なし-rKNl-2"/>。
 
平帝は重い病にかかった。王莽は、策書を作って天命を泰畤に請い、「願わくは身をもって代わりたい」と書いて、前殿に置き、諸公に他言しないようにいましめた<ref name="名前なし-rKNl-2"/>。
 
冬、12月、平帝は、[[未央宮]]で死去した(享年14歳)。
 
天下に大赦が行われた。役人たちは議論して言った。「礼では、臣は君主を若死にしたとしてはいけない。皇帝(平帝)は、年14歲であったのだから、礼にのっとって葬儀を行い、[[元服]]を着せなくてはいけない」。詔が行われた。「皇帝は心優しく恵み深く、何事についても哀れないことはなく、病むごとに、気は逆上し、言語に障害があり、遺詔もなかったのである。側室を後宮から全て、家に帰して、誰かの夫人とさせることを文帝の故事にならうように」。
 
== 平帝毒殺説 ==
 
平帝の死については、古来、王莽による毒殺説がある。
 
漢書の平帝紀に注釈を行った[[顔師古]]によると、「漢注<ref>後漢後半期の[[服虔]]や[[応劭]]の注以前の諸家の注であるらしい。(中略)おそらくは後漢代の前半に誰かが漢書の注として作成したものであろう。『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.154-155 </ref>によると、平帝は成長すると、母の衛姫の一族が王莽に殺害されたため、王莽を怨み憎んでいた。王莽も自分がうとんじられていることを知り、それゆえに平帝を殺害しようと考えた。王莽は、[[臘日]]の祀りの時に、椒酒(山椒などを調合した酒)を平帝に献上し、酒の中に毒をいれていた。それゆえ、(後に王莽を攻撃した)[[翟義]]の檄文に、『王莽は孝平皇帝(平帝)を鴆殺(毒殺)した、と書いたのだ』としている。[[司馬光]]の『[[資治通鑑]]』でも表現は微妙に異なるが、同様の「漢注」の意見を採用し、王莽が平帝を毒殺したことになっている<ref>[[s:zh:漢書/卷012 |『漢書』平帝紀]] 及び『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.154-155 </ref>。
 
しかしながら、『漢書』「平帝紀」・「元后伝」・「王莽伝」には何らそのようなことは書かれていない。
 
東晋次は「むしろ、(『漢書』の)外戚伝の馮昭儀の伝によれば、平帝は幼時、眚病を患ったという記述があり、(中略)病弱であったことは否めないであろう。病弱であったいまひとつの証拠として、『後漢書』城陽恭王劉祉の伝に、(中略)、「太后(元后)も高齢であるし、帝(平帝)も幼くて病弱である云々」と伝えられている。(中略)
 
このように、定かではない平帝毒殺の「事実」を以て王莽の人柄やその政治家としての悪辣さをあげつらうのはどうであろうか。もとより宮中での出来事であるから、真相の解明は不可能であろう(後略)」と論じている<ref>『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.155-156 </ref>。
 
== 家族 ==
{{漢王朝系図}}
 
=== 后妃 ===
* [[王皇后 (漢平帝)|王氏]](王莽の娘)
 
== 参考文献 ==
* 東晋次『王莽―儒家の理想に憑かれた男』 (白帝社アジア史選書)、白帝社 、2003.10
* 渡邉義浩、『王莽―改革者の孤独』 (あじあブックス) 、大修館書店、2012.12
* 渡辺信一郎『中華の成立 唐代まで』(シリーズ中国の歴史①)、岩波新書、2019.12
 
== 脚注 ==
[[元始 (漢)|元始]]4年([[4年]])に[[王皇后 (漢平帝)|王莽の娘]]が皇后に立てられた。元始5年([[5年]])14歳のとき、[[未央宮]]に於いて王莽に因り毒殺され崩御した。『[[漢書]]』平帝紀注によると、王莽が[[臘日]]に献上した酒に毒を盛り殺したという。
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{{前漢の皇帝|前1年 - 5年|第14代}}
 
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[[Category:前漢の皇帝]]