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'''捕虜'''(ほりょ、Prisoner of war, '''POW''')とは、[[武力紛争]]([[戦争]]、[[内戦]]等)において敵の権力内に陥った者をさす。近代以前では、民間人を捕らえた場合でも捕虜と呼んだが、現在では捕虜待遇を与えられるための資格要件は[[戦時国際法]]により「紛争当事国の軍隊の構成員及びその軍隊の一部をなす民兵隊又は義勇隊の構成員<ref>1949年のジュネーヴ第3条約 第4条A(1)</ref>」等定められている<ref group="注釈">捕虜の定義は、1907年のハーグ陸戦条約附属規則では第1条〜第3条、1929年の俘虜の待遇に関する条約では第1条、1949年のジュネーヴ第3条約では第4条にある。</ref>。
 
[[第二次世界大戦]]以前の日本においては、公式には'''[[wikt:俘虜|俘虜]]'''(ふりょ)と呼ばれた{{Refn|group="注釈"|例:ハーグ陸戦条約(陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約)では、prisonniers de guerre(フランス語)の訳語に「俘虜」<ref>{{kotobank|俘虜}}</ref>を用いている。}}<ref>ただし日露戦争期から「捕虜」という用語が軍史料で使われることもあり、俘虜と捕虜の比率は変化している。</ref>。ただし明治以降、「捕虜」という用語も散見されている。日清・日露戦争以降は「捕虜」の頻度も徐々に上がり、史料名でこそ「俘虜」の方が圧倒的に多かったが、本文中では「俘虜」「捕虜」は併用されていた(最初に「捕虜」が登場するの明治時代の史料は、海軍は明治6年、陸軍は明治7年)<ref>{{Cite web |title=甲5套大日記 裁判所伺 水夫末松善藏外1名処分の件 |url=https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/result?DB_ID=G0000101EXTERNAL&DEF_XSL=default&ON_LYD=on&IS_INTERNAL=false&IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=%E6%8D%95%E8%99%9C&IS_TAG_S1=InD&IS_MAP_S1=&IS_LGC_S1=&IS_KIND=detail&IS_START=1&IS_NUMBER=1&IS_TAG_S18=eadid&IS_KEY_S18=M2009112515512067562&IS_EXTSCH=F2006083118101851446+F2006083118123751448+F2007112716152502401+F2006083118123751451+F2009112013523939706+F2009112515511467485&IS_ORG_ID=M2009112515512067562 |website=www.jacar.archives.go.jp |access-date=2022-08-31}}</ref><ref>{{Cite web |title=石川1等軍医正 賊の捕虜になった者の殺害に関する通知の通報 |url=https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/result?DB_ID=G0000101EXTERNAL&DEF_XSL=default&ON_LYD=on&IS_INTERNAL=false&IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=%E6%8D%95%E8%99%9C&IS_TAG_S1=InD&IS_MAP_S1=&IS_LGC_S1=&IS_KIND=detail&IS_START=1&IS_NUMBER=1&IS_TAG_S18=eadid&IS_KEY_S18=M2010073016550485536&IS_EXTSCH=F2006083118101851446+F2006083118133052046+F2006090108075391349+F2010040817114024108+F2010040817121724109+F2010073016544885333&IS_ORG_ID=M2010073016550485536 |website=www.jacar.archives.go.jp |access-date=2022-08-31}}</ref>。
[[第二次世界大戦]]以前の日本においては、公式には'''[[wikt:俘虜|俘虜]]'''(ふりょ)と呼ばれた{{Refn|group="注釈"|例:ハーグ陸戦条約(陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約)では、prisonniers de guerre(フランス語)の訳語に「俘虜」<ref>{{kotobank|俘虜}}</ref>を用いている。}}。
 
なお、[[古代]][[中国]]においては、中国に攻め込んできた野蛮人(虜)を捕らえることを捕虜と称した(例:「捕虜将軍」)。
 
== 近代国際法確立前 ==
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近代[[国際法]]が確立する前まで、かつては捕虜は捕らえた国が自由に処分しうるものであった。
 
捕虜は、それを勢力下に入れた勢力によって随意に扱いを受け、[[奴隷]]にされたり殺されたりした。一方、能力を認められた者は厚遇して迎え入れられることもあった。[[ヨーロッパ史|中世ヨーロッパ]]では相手国や[[領主]]に対し捕虜と引き換えに[[身代金]]を要求することがよく行われた。ただし[[李陵]]([[前漢]]の将軍)など敵方から名誉ある扱いを受ける例もあった。これは[[奴隷]]でも学のある者が重用されることがあったのと同様の現象と言える。
 
加えて、捕虜に対して安易に虐待や殺害を行うことは、敵兵に投降の選択を失わせ戦意を向上させてしまう恐れもあることから、その意味でも捕虜に対して相応の扱いをする例はあった。日本の鎌倉時代末期において、前述の事情から助命されるだろうと期待して、赤坂城の反幕府の兵士が幕府に降伏した所、予想に反して全員が殺害されてしまい、それがために同じく反幕府の千早城の兵が激怒し、かえって戦意が高まったという逸話がある。
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それだけでなく、捕虜になることを全て違法とすることが、軍事的なデメリットをもたらすことも少なくない。
# 違法として禁じた所で、生命の危機において捕虜になることを全て阻止することは事実上不可能である。
# 捕虜になることを認めれば、戦略的価値を無くした戦線、形勢逆転の可能性の無くなった戦線をあえて見捨てるという選択肢が可能となり、純軍事的にもメリットが大きい。捕虜になることを認めない場合は、それが不可能になるため、戦略に影響しない僅かな兵を救出するために多くの装備や人員を割く必要が出てくる。仮にそれだけの犠牲を払っても、救出が成功する保証もない。
# 捕虜になることさえ認めずに見捨てることは、実質死を命ずると同義であって人道的非難を免れず、自軍兵の戦意を削ぐおそれがある。([[三国志]]において、[[公孫瓚]]は敵中に取り残された配下を見殺しにした結果、兵は戦意を失い敗北したとされる)
# 帰国すれば捕虜になった罪で処罰が待っている捕虜たちは、敵国に取り入らざるを得なくなり、過剰な対敵協力を招く恐れがある([[独ソ戦]]においてソ連は、赤軍将兵に対してドイツ軍に降伏して捕虜になることを禁じた{{仮リンク|国防人民委員令第270号|ru|Приказ № 270|en|Order No. 270}}を発令したが、その結果捕虜になったソ連兵は祖国に帰っても反逆者として扱われることになったため、ドイツ軍の補助部隊である{{仮リンク|東方軍団|de|Ostlegionen}}や[[ロシア解放軍]]に身を投じるものが続出した。司令官[[アンドレイ・ウラソフ]]もその一人)。
 
他方で、捕虜を受け入れる側も、捕虜を保護しないことにはデメリットがあり、捕虜を保護することが考えられるようになった。
# 捕虜を虐待・殺害したことが敵軍に発覚した場合、敗北が決定的になった場合であっても、敵兵は投降の選択を失う。その結果として戦闘が無意味に継続され、対処するために装備や人員を割かなければならず、無駄な損害が増大する。
# 捕虜になった自軍の兵に対しても、報復として虐待や殺害が行われる危険性が高まる。
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将校を除く捕虜は、抑留国のすべての将校に対し、敬礼をし、及び自国の軍隊で適用する規則に定める敬意の表示をしなければならない(第三条約第39条第2項)。捕虜たる将校は、抑留国の上級の将校に対してのみ敬礼するものとする。ただし、収容所長に対しては、その階級のいかんを問わず、敬礼をしなければならない(同条第3項)。
 
=== 捕虜の処遇と虐待 ===
[[ファイル:Katyń, ekshumacja ofiar.jpg|thumb|[[カティンの森事件]]の虐殺遺体]]
 
近代の国際法では、捕虜に対して危害を加えることは[[戦争犯罪]]とされるに至った。1899年の[[ハーグ陸戦条約]]では「俘は人道虐殺する事件決し少なくなかった。捕虜を保護し取り扱うこと」(第4条)とされそれを知らしめる事により早期の降伏を促す事のメリットは上記日露戦争、第一次世界大戦述べた通りであるが、現実に日本側は捕虜を適正に扱うにも食糧や医薬品提供などの負担処遇は人道的見地必要であかな、補給の途絶や不足が生じ配慮されてい場合に。ハーグ陸戦条約で認められた労働(賃金労働)も日露戦争でその余裕がほとんどされる。よて捕虜の虐待は、そういった余裕の無い場合に頻発し<ref name=":4" />
 
しかし、その後は捕虜を虐殺する事件も決して少なくなかった。捕虜を保護し、それを知らしめることにより早期の降伏を促すことのメリットは上記で述べた通りであるが、現実には捕虜を適正に扱うにも食糧や医薬品の提供などの負担が必要であり、補給の途絶や不足が生じた場合にはその余裕がなくなる。よって捕虜の虐待は、そういった余裕の無い場合に頻発した。
 
第二次次世界大戦中の枢軸国側の捕虜虐待は、戦後に連合国によって戦争犯罪として裁かれ、なかには充分な審理を受けられないまま処刑された例も少なくない。それに対して、連合国側の行った捕虜虐待の大半は全く責任を問われないまま終わってしまった([[ベルリンの戦い#ドイツ人への報復|ドイツ人への報復]]など)。更には、ソ連によるポーランド軍将校の大量虐殺を枢軸国側の捕虜殺害に転嫁した例すら存在した([[カティンの森事件]])。
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また捕虜には、ジュネーヴ諸条約の規定を越える情報を提供する義務は無いため、必要な情報を得るために拷問などの虐待が行われるケースがある。近年では[[イラク戦争]]において、アメリカ軍による捕虜虐待事件([[アブグレイブ刑務所における捕虜虐待]])が起きている。
 
また、国際的な戦争においては、捕虜と管理する敵国の将兵の間に文化の違いがあるケースがあり、これにより将兵に虐待の意図がなくとも、捕虜にとっては虐待をされたと解されてしまうケースも考えられる。有名な逸話としては、第二次世界大戦中、日本の[[捕虜収容所]]で捕虜に[[ゴボウ]]を食べさせた結果「木の根を食べさせた」として捕虜虐待として処罰されたとする事例がある。真偽には疑問がもたれているが、[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]『[[山河燃ゆ]]』でも紹介された有名な話であり、捕虜の管理における一つのリスク要因を示している。また捕虜に医療行為として[[灸]]を行ったことが虐待とされ、[[笹川良一]]は誤解を解くために奔走したと自著に記している。またイギリス軍では、ドイツ軍の捕虜の健康のために食事メニューに[[マーマイト]]を支給したが、これがあえて粗末な食事を供する虐待と誤解されたという逸話もある。
 
== 法律 ==
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と定めて、濫りに投降することを制限していた。
 
しかしながら同時にこれは、然るべき場合においては投降することが認められていたことをも意味している。
 
=== 日清・日露戦争 ===
[[File:JapaneseIllustration Beheadingof the Decapitation of Violent Chinese Soldiers by Utagawa Kokunimasa 1894.jpgpng|thumb|[[日清戦争]]中の捕虜殺害を描いた図]]
 
[[日清戦争]]においては、日本軍、清軍ともに捕虜の殺害は横行しており、処遇は劣悪であった。清国の捕虜となって終戦後に身柄送還によって生還した日本兵は一名だけだった。
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[[日露戦争]]、[[第一次世界大戦]]などでは、戦時国際法を遵守して捕虜を厚遇したことが知られている。ただし前述の経緯から、非白人の捕虜に対しては、白人の捕虜ほど厚遇はされなかった。そういう差別があったため、あくまで近代国家を目指す日本の欧米に向けたポーズでしか無かったという指摘もある。
 
==== 日露戦争の捕虜(ロシア側の捕獲した日本軍捕虜) ====
また、日本ロシア側で捕虜となった日本の将兵の処遇も後世と異なっていた。日露戦争では開戦直後の1904年2月21日に俘虜情報局が設置され、両国の俘虜の名前が交換され、官報での公表や家族への通知も行われた。旅順要塞降伏後、日本人捕虜101人(陸軍80名、海軍17名、民間人4名)が解放されたが、彼らは「旅順口生還者」と呼ばれ、冷遇されることは無かった。海軍捕虜の一人であった万田松五郎上等機関兵曹(第三次閉塞作戦で「小樽丸」に乗り込み、捕虜となる)は、解放後に上京し、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将に面会して作戦状況の報告を行い、記念に金時計を授与されている。また、陸軍においても開戦直後の1904年2月19日、[[義州]]領事館に所在して情報収集活動をしていた韓国駐在陸軍武官・東郷辰二郎歩兵少佐はロシア騎兵部隊の包囲を受けて部下の憲兵5名(中山重雄憲兵軍曹、坪倉悌吉憲兵上等兵、古賀貞次郎憲兵上等兵、牛場春造憲兵上等兵、山下栄太郎憲兵上等兵)とともに降伏、捕虜になった。日露戦争における捕虜第1号となった東郷らは[[ノヴゴロド]]近郊メドヴェージのロシア軍歩兵第199連隊駐屯地に設けられた収容所へ移され、約1800名の日本側将卒・軍属・船員達とともに俘虜生活を送った後、戦後の1906年2月14日に帰国したが、東郷は任務遂行中に捕虜になった不注意で軽謹慎30日の処分を受けたのみであり、後に少将まで進級している。なおメドヴェージからの帰国後に将校の多くが俘虜審問委員会にかけられ、そのうち輸送船[[常陸丸事件|金州丸]]に乗船していた陸軍5名と海軍3名の計8名が免本官となり、うち5名は位階勲等を返上させられている。これは航行中にロシア艦隊から包囲を受け、将校が降伏交渉のため全員でロシア艦に赴き、その間に船が攻撃を受けて下士卒多数を死亡させた責任を問われたもので、降伏行為そのものを軍法会議で裁かれるには至らなかった。
 
==== 日露戦争の捕虜(日本側の捕獲したロシア軍捕虜) ====
一方、日露戦争のロシア兵捕虜は約7万人に及び、日本各地29都市の自社境内などに設けられた[[捕虜収容所]]に収容された。[[兵庫県]][[姫路市]]に設けられた収容所の例では約2200人の捕虜が暮らしており、捕虜には新しい衣類が支給されたほか、条件付きながら運動や市内散策も許されるなど比較的物資に恵まれる自由な環境にあった。収容されていた一[[軍曹]]は、母国への手紙に「規律もなければ、教練もなく、何もすることがない」と収容時の様子を記している<ref>{{Cite web |date= 2019-05-08|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201905/0012309772.shtml |title=日露戦争で収容「捕虜でなく人間」 ロシア兵の手紙、母国の新聞に |publisher=神戸新聞 |accessdate=2019-05-08}}</ref>。
日露戦争で日本側の捕虜となったロシア将兵は約7万人に及び、日本各地29か所の寺院境内や軍用地などに設けられた[[捕虜収容所]]に収容された。1904年2月の開戦時には、陸軍史料によれば[[松山市|松山]]と丸亀が候補地であった<ref>「陸軍大臣ヨリ 松山及丸亀二俘虜収容所設置ノ旨通知」(明治37年2月12日)『俘虜ニ関スル書類綴』大本営陸軍副官部、防衛研究所所蔵。</ref>。実際、1904年3月に松山(大林寺、衛戍病院、城北バラック他)、6月に丸亀(塩屋別院)に収容所が開設された。その後、姫路、福知山、名古屋、似島、浜寺、大里(門司近郊)、福岡、豊橋、山口、大津、伏見([[東福寺]]、[[本圀寺]]、[[妙法院]]、[[智積院]])、小倉、習志野、金沢、熊本、仙台、久留米、佐倉、高崎、鯖江、善通寺(現在の海岸寺付近)、敦賀、大阪(天下茶屋附近)と次々と開設され、樺太で開戦すると樺太戦の捕虜収容のために弘前、秋田、山形にも開設された<ref name=":0">{{Cite book|和書|edition=Shohan|title=ロシア兵捕虜が歩いたマツヤマ|url=https://www.worldcat.org/oclc/122987011|publisher=愛媛新聞社|date=2005|location=Matsuyama-shi|isbn=4-86087-038-7|oclc=122987011|others=|first=昇|last=宮脇|last2=}}</ref>。29の収容所のもとで、収容施設数は全国で221に及び<ref group="注釈">姫路収容所については、公式史料には現れていない施設が近年新たに見つかっている。[https://mainichi.jp/articles/20180622/ddl/k28/040/516000c]</ref>、例えば松山では16か所に収容施設が分散していた。収容施設は、急増する捕虜に対応するため、収容能力の比較的高い寺院に限らず、軍施設(衛戍病院、練兵場の仮設バラック)、公共の建物(公会堂、県庁、開院前の病院施設)、民有建物(屋敷、私立学校)など多岐にわたった<ref>{{Cite book|和書|title=日露戦争裏面史|year=2003年|publisher=私家版|author=鈴木敏夫}}</ref>。それぞれの施設に通訳と衛兵がついた。収容施設の内外を分けるものは、既存の塀(土塀、竹垣など)であることが多く、外からのぞき見する者、密売する者もおり、捕虜の中には脱走を企てる者もいた<ref name=":0" />。
 
1899年の[[ハーグ条約 (1899年及び1907年)|ハーグ陸戦条約]]に基づき、捕虜は概して人道的に取り扱われた<ref>{{Cite journal|author=宮脇昇|year=2012|title=日露戦争の捕虜収容所をめぐる競合規範の間隙」|journal=『政策科学』|volume=19巻4号}}</ref>。家族を戦場で失ったり経済状況の悪化もあり、一般市民の間では当初捕虜に対して厳しい処罰感情があった。対して収容所行政及び警察は秩序を重視し、市民による捕虜に対する暴力や暴言を取り締まった。当時の捕虜収容が厚遇か冷遇かという「処遇論争」の余地が存在するが<ref>例えば、喜多義人「日本はロシア捕虜をいかに扱ったか--捕虜収容所の生活と待遇」『正論』(通号 391) (臨増) [2004.12] ,pp.282~293は、厚遇論である。 </ref>、国際法、あるいはロシア側の捕虜収容行政と比較すれば、総合的に考察して少なくとも冷遇とは言いにくい。むろん帰国した捕虜たちが本国で発行した書籍(例えば、1905年2月に早期帰国し、春以降の自由散歩制度を体験していないクプチンスキーの著作<ref>{{Cite book|title=Matsuyama Horyo Shūyōjo nikki : Roshia shōkō no mita Meiji Nihon|url=https://www.worldcat.org/oclc/20252101|publisher=Chūō Kōronsha|date=Shōwa 63 [1988]|location=Tōkyō|isbn=4-12-001686-2|oclc=20252101|first=F. P.|last=Kupchinskīĭ}}</ref>)では、収容所行政を批判する記述も少なくない。しかし、第一に、衣食住の異文化理解の壁、第二に、帰国後の本国世論への著者の社会的配慮などを差し引かなければならない。第三に捕虜の内部では、戦争継続を支持する派と、革命派あるいは反ロシア的感情をもつ者に分かれており、前者は結果的に捕虜収容行政に畢竟批判的となり、ロシア人以外の少数民族を含め後者は迎合的であったとも考えられる。逆に収容所行政の[[政策評価]]についても、公式史料や新聞史料の客観性が吟味されねばならない。
 
厚遇の論拠として、国際法の規定を越えた明らかな厚遇の事例が多く存在することは事実である。具体的には、将校・兵卒別に各地で[[遠足]]が執り行われている。例えば松山収容所では地元の協力により、[[道後温泉]]の入浴をはじめ、市内の学校、[[梅津寺公園|梅津寺]]・[[三津浜 (松山市)|三津浜]]の海水浴、[[石手川]]での水浴、[[伊予鉄道]]を利用した彩浜館(郡中)・[[砥部焼|砥部]]焼見学等の遠足が収容所によって行われた<ref name=":1">{{Cite book|edition=Shohan|title=Roshia-hei horyo ga aruita Matsuyama : Nichi-Ro Sensō ka no kokusai koryū|url=https://www.worldcat.org/oclc/122987011|publisher=Ehime Shinbunsha|date=2005|location=Matsuyama-shi|isbn=4-86087-038-7|oclc=122987011|others=宮脇昇|first=Noboru|last=Miyawaki|last2=宮脇昇}}</ref>。1905年の春に入ると、「宣誓」を行った将校には、時間と距離を限定しつつ監視なしで散歩させる自由散歩制度が各収容所で適用された。例えば松山では公会堂から半径4kmの広大な区域が自由散歩区域とされている。名古屋では自由散歩で自転車を運転していた捕虜将校が事故を起こしているほどである<ref name=":2">{{Cite book|和書|title=マツヤマの記憶 日露戦争100年とロシア兵捕虜|url=https://www.worldcat.org/oclc/123012888|publisher=成文社|date=2004|location=Yokohama-shi|isbn=4-915730-45-X|oclc=123012888|others=Matsuyama Daigaku,松山大学.}}</ref>。芝居の見物や登楼も各所で行われた<ref>{{Cite web |url=https://researchmap.jp/readnoborumiyawaki/published_works |title=資料公開 |access-date=2022年8月4日 |publisher=Researchmap}}</ref>。陸軍省発行の『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774514 俘虜取扱顛末]』によると、最終的な自由散歩許可者は、松山で陸軍79名、海軍78名の計157名、他の名古屋、静岡、山口、伏見、小倉、金沢、熊本、仙台、高崎、鯖江、弘前、秋田、山形の13の収容所をあわせた14の収容所では、陸軍408名、海軍235名、文官5名の計648名であった<ref name=":3">{{Cite book|和書|title=2005年度 松山ロシア兵捕虜収容所研究|year=2006年|publisher=松山市}}</ref>。また一部の将校には、収容施設外に民家を借りて居住する「民家居住制度」が適用され、ガネンフェリド陸軍少将をはじめ民家に移る将校もいた(妻子との同居も許可された)。『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774514 俘虜取扱顛末]』によれば民家居住制度の適用者は、松山の18名をはじめとして、伏見13名、弘前5名、名古屋2名、静岡1名の計39名である<ref name=":3" />。この2つの制度は、日清戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦の日本収容の外国人捕虜にはほとんど適用されておらず、遠足も日露戦争と第一次世界大戦のみである。そのため、これら二つの制度の目的のいかんにかかわらず(厚遇そのものが目的か、戦術的に捕虜を分断するためのものか、あるいは収容所行政上の利点があるのか)、処遇の度合いとして考えるならば、日露戦争の捕虜将校は相対的に厚遇であったと言える歴史的根拠となる。加えて、松山収容所で開催された捕虜と市民の自転車競走会(1905年8月5日)などの企画は、厚遇の事例である<ref name=":4" />。
 
ロシア兵捕虜といっても当時のロシア帝国の範囲は広く、ロシア人に限らず、今日の[[ウクライナ人]]、ベラルーシ人、ポーランド人、フィンランド人、ドイツ人、[[タタール人]]等、諸民族が捕虜となっていた。捕虜内部で民族間対立がみられたため、収容所のなかで施設を民族別に分けることもあり、また各宗派(正教、カトリック、プロテスタント、仏教など)の宣教師・司祭・神父が曜日を決めて祈祷に訪問している<ref name=":2" />。捕虜将校の多くは、ロシアの貴族であり経済的な余裕があったため、捕虜収容所内の[[酒保]]での注文、直接の注文、自由散歩時の購買により、「捕虜景気」<ref name=":4">{{Cite book|和書|title=松山収容所|date=1969年|publisher=中央公論社|author=才神時雄}}</ref>と呼ばれる[[好景気]]が生まれる場合もあった。そのためか、[[奉天会戦]](1905年3月)の結果、多数の捕虜が来ることが判明すると、上述の捕虜収容所以外でも岡崎、高田、和歌山、浜田等が収容所設置を願い出た。しかし浜田以外は[[衛戍地]]でないため収容所が設置されず、また浜田も交通が不便であるとして、収容所は結局設置されなかった<ref>{{Cite book|和書|title=明治三十七八年戦役業務詳報|year=1906年|publisher=陸軍省}}</ref>。
 
 
一方、日露戦争のロシア兵捕虜は約7万人に及び、日本各地29都市の自社境内などに設けられた[[捕虜収容所]]に収容された。[[兵庫県]][[姫路市]]に設けられた収容所の例では約2200人の捕虜が暮らしており、捕虜には新しい衣類が支給されたほか、条件付きながら運動や市内散策も許されるなど比較的物資に恵まれる自由な環境にあった。収容されていた一[[軍曹]]は、母国への手紙に「規律もなければ、教練もなく、何もすることがない」と収容時の様子を記している<ref name=":5">{{Cite web |date= 2019-05-08|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201905/0012309772.shtml |title=日露戦争で収容「捕虜でなく人間」 ロシア兵の手紙、母国の新聞に |publisher=神戸新聞 |accessdate=2019-05-08}}</ref>。同時に一方では、日本人について「今ではあらゆる面で私たちを捕虜でなく、同等の人間に対するような態度で接してくれます。収容所でのたまにある作業の際には、(日本人の)下級労働者たちは門に入るとすぐに帽子をとります」「ものすごく腰の低い人たちです」などと記している<ref name=":5" />。姫路収容所では所内で球技をする捕虜の写真が残っており、また1905年11月(講和条約発効後)に市内で観劇する写真が残されている
 
静岡では捕虜将校がテニスをしている写真が残っている<ref>大日本陸軍副官部『明治37年12月ヨリ明治39年5月マテノ分 俘虜ニ関スル書類綴』</ref>。また松山では中学を訪問した際に捕虜がテニスをしている<ref name=":1" />。
 
捕虜収容所の「厚遇」ぶりを日本政府は対外的に宣伝しようとしていた。加えて国内の雑誌(『軍国画報』『軍事画報』『日露戦争実記』『日露戦争写真画報』 『[[風俗画報]]』など)でも捕虜収容所を大きくとりあげ捕虜の写真を掲載した。加えて国内外で英語・日本語併記で捕虜収容所の写真を掲載した絵葉書や[[立体写真]]が発行されている<ref>{{Cite web |title=Highlights from the Archives |url=https://fanningtheflames.hoover.org/highlights |website=fanningtheflames.hoover.org |access-date=2022-08-19}}</ref>。収容所には、[[中立国]]フランスの公使ポサリューをはじめアメリカ赤十字社のマッギー婦人([[:en:Anita_Newcomb_McGee|Anita Newcomb McGee]])、国内外の新聞・雑誌記者、地元関係者、宗教関係者、学校の教師・生徒らが慰問に訪れている。巡業中の力士が収容所を慰問することもあった<ref name=":0" />。収容所、訪問者に加えて捕虜将校たちも写真を撮影することが多く、日露戦争は写真史料を後世に大量に残すこととなった初めての戦争であった<ref>例えば北海道大学スラブ研究センター [https://www.lib.hokudai.ac.jp/slv/gallery/gallery1/ 日露戦争捕虜収容所関係絵葉書帖 – Hokkaido University Library (hokudai.ac.jp)]</ref>。また日露戦争後の1906年、松山収容所の収容施設の見取り図がフランスの雑誌に掲載されている。
 
==== ロシア兵捕虜の遺したもの ====
[[第一次世界大戦]]のドイツ兵捕虜が多くの現物史料や文化的遺産を残したのに比べて、ロシア兵捕虜の場合は収容期間が最も長い場合でも700日弱であり、捕虜の手記はロシア側で残されたものの<ref>例えば松山で646日を過ごしたエカテリーノスラフ艦長のセレツキー海軍中佐の手記が残っている。646 дней въ плieну у японцевъ / Г. Селецкiй, In-house reproduction:Reprinted by xerography. Ogirinally published: С.-Петербургъ : В. Березовскiй, 1910</ref>、現物史料は比較的少ない。捕虜将校が最も多かった松山でも、戦災と冷戦時の反ソ感情を経て現在に残るのは、弘願寺(収容施設)の壁の落書き([[愛媛県立博物館]]所蔵)<ref name=":4" />、長持、軍刀、スプーンとフォーク等に限られると考えられていた<ref name=":1" />。加えて伏見収容所(京都)の東福寺塔頭には[https://www.sakanouenokumomuseum.jp/sp/display/event007/leaflet.pdf バラライカ]をはじめ手紙、スケッチなどが残されているが、そうした例は僅かに過ぎない。しかし近年、休眠史料が再発見されることがある。例えば、短期間ながら収容施設であった松山衛戍病院(現在の[[松山城二之丸史跡庭園]])の大井戸で1985年に発掘されたロシア帝国の10ルーブル金貨に、2000年代になってからの再調査によりカタカナの人名が手彫りされていたことが判明した<ref>{{Cite web |title=【松山編】松山に残るロシアとの絆 ー映画化により注目されるスポットを巡るー {{!}} IRC|株式会社いよぎん地域経済研究センター |url=https://www.iyoirc.jp/post_industrial/post_industrial-5371/ |website=www.iyoirc.jp |access-date=2022-08-23}}</ref>。それは、松山収容所の捕虜の名前と、手当をしていた[[看護師|看護婦]]の名前であった<ref>{{Cite web |title=二之丸史跡庭園 {{!}} 恋人の聖地 {{!}} 松山城 |url=https://www.matsuyamajo.jp/ninomaru/lovers.html |website=www.matsuyamajo.jp |access-date=2022-08-19}}</ref>。戦場における敵・味方の関係を離れた人間同士の関係に立脚した人道的見地から、この歴史をもとに松山で演劇が2010年代に上演された<ref>{{Cite web |title=誓いのコイン:坊っちゃん劇場 - BOTCHAN THEATER |url=https://www.botchan.co.jp/coin2/ |website=www.botchan.co.jp |access-date=2022-08-19}}</ref>。また戦場で敵・味方として遭遇しながらも生き延びるために水と外套を互いに差しだすなどして助けあい、日本軍負傷将校とロシア兵捕虜として松山に向かう同じ船で再会したことが当時の全国紙でも美談として紹介・報道されている<ref>[https://www.shikoku-np.co.jp/bl/digital_news/photo.aspx?id=K2016101900000001400] 捕虜は1904年9-10月に松山に収容された後、1905年に善通寺収容所に転送された。善通寺収容所で撮影された写真が後世に残っている。[https://www.shikoku-np.co.jp/bl/digital_news/photo.aspx?id=K2016101900000001400 徳島の写真家と元ロシア兵捕虜のひ孫 100年の時経て交流 県内収容時の写真が縁 | BUSINESS LIVE (shikoku-np.co.jp)]</ref>。また日露戦争後に奉納された絵馬でもこの逸話は描かれている。敵・味方を分けるのが戦場であるならば、戦場から離れた捕虜と地元・周囲の人間は未だなお敵・味方なのか、それとも人間同士として関係を築けるのか。当時多く報道されたこれらの美談には、「戦時」において捕虜を人間として見る心理的葛藤がみられ、人道規範と戦争還元主義の2つの規範の競合がみられる。
 
そのほか現在に継承されているものとして、姫路のビーツ(赤かぶら)栽培<ref>{{Cite web |title=ビーツでまちおこし! 姫路とロシア兵の縁とは… {{!}} おでかけトピック {{!}} 兵庫おでかけプラス {{!}} 神戸新聞NEXT |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/odekake-plus/news/detail.shtml?news/odekake-plus/news/gourmet/201702/9914651 |website=www.kobe-np.co.jp |access-date=2022-08-19}}</ref>、松山のハワイセリあるいは[[オランダガラシ]]<ref>{{Cite journal|author=平井屯|year=1985|title=「郷土の帰化植物」|journal=『松前史談』|volume=創刊号}}</ref>、などが遺産として伝承されている。またロシアの[[マトリョーシカ人形|マトリョーシカ]]の一部の形態が、松山の[https://matsuyama-sightseeing.com/spot/39-2/ 姫だるま]に類似しているという指摘がある<ref>{{Cite web |title=愛媛県の姫だるまがマトリョーシカの起源?神㓛天皇がモデルとされる説も |url=https://dogoehime.com/lifestyle/himedaruma/ |website=DO?GO!愛媛 |access-date=2022-08-19 |language=ja}}</ref>。
 
また遺産ではないものの相関関係がある事象の研究として、B型肝炎のウィルスの[[分子時計]]による研究がある。1973年に松山で流行したGianotti病の検査の結果、ゲノタイプの中の、日本にはないとされていたD型の遺伝子型であった。主にこの遺伝子型は欧州方面に分布するにもかかわらず、D型が日本に流入したのはいつであったのか。その推論として、分子生物学的方法により、日露戦争期前後の時期にまでさかのぼることができると推定し、ロシア兵捕虜の滞在がその遠因となっているかもしれない、という医学的研究もある<ref>{{Cite journal|last=森一|first=恩地|last2=浩二郎|first2=道堯|last3=典生|first3=堀池|date=2006|title=愛媛Gianotti病顛末記|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/kanzo/47/11/47_11_518/_article/-char/ja/|journal=肝臓|volume=47|issue=11|pages=518–523|doi=10.2957/kanzo.47.518}}</ref>。
 
=== 第一次世界大戦 ===
{{main|日独戦ドイツ兵捕虜}}
{{main|板東俘虜収容所}} ''(同収容所のみならず同大戦中のドイツ兵捕虜の処遇について詳述されている。)''
 
=== シベリア出兵 ===
この戦いは国家対国家の正式な戦争ではなかったこと、日本側の軍人、民間人が虐殺行為を受けることがしばしばあったこと([[尼港事件]])もあいまって、捕虜の厚遇などは全く見られなくなる。特に[[ボリシェヴィキ]]が組織した赤軍や労働者・農民からなる非正規軍、パルチザンの存在が兵士たちを困惑させ、時には虐殺行為すら生じた。これが日本軍における捕虜の処遇においての転換点となった。
 
=== 日中戦争・第二次世界大戦初期 ===
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[[File:March of Death from Bataan to the prison camp - Dead soldiers.jpg|thumb|[[バターン死の行進]]で死亡したアメリカ・[[フィリピン]]兵捕虜]]
 
日本軍兵士自身の投降については[[戦陣訓]]により厳しく戒められるようになった。その原因は敢闘精神の不足と敵への情報の漏洩を恐れたことと言われる。捕虜となれば本人や家族が厳しく糾弾されるため兵士は戦死よりも捕虜になることを恐れ、しばしば自決や玉砕の動機となった。日本軍は[[竹永事件]]などきわめて少数の例外のほか組織的投降を行わず、個人の投降者も稀であった。このことは欧米と比べとても異質であるため海外から見た日本軍のイメージに大きな影響をあたえている。
 
一方で、捕虜となった際に敵による尋問や強要を切り抜けるための教育がなされなかった上、捕虜となったことを日本軍に通知されることを極度に恐れた日本兵捕虜は、氏名や階級などを偽ったり、投降前や投降直後の態度とは一転して積極的な対敵協力者になる例が多くあった。また集団心理から恐慌状態となり、[[カウラ事件]]のように絶望的な反乱を起こした例もあった。
 
また、投降を認めないことにより、不利になった戦場の味方をあえて見捨てて降伏させるという決断が不可能になり、作戦の自由度を大きく削ぐという問題も生じている。[[キスカ島撤退作戦]]が「奇跡の作戦」として特筆されているが、裏を返せば他の撤収作戦は失敗していることと、救出を諦め守備兵の降伏を認めるという選択肢が当時の日本軍には無かったことをも意味している。
 
[[海軍乙事件]]のように、遭難した高級将校がゲリラに捕縛され、後に解放され帰還した事件で、これを敵の捕虜となったと看做すかどうかということのみが重要議題となり、機密文書を奪われたという重大事についての議論がおざなりになるという、滑稽な事態も起きている。
 
なお、大本営の「機密戦争日誌」や「陸支密大日記」等には捕虜による軍事機密の漏洩に触れた個所はなく、「捕虜」「俘虜」といった言葉すら殆ど登場しない。こうした捕虜そのものが日本軍に存在しないという前提は、参謀本部の情報管理を杜撰なものにした<ref>『日本兵捕虜は何をしゃべったか』 山本武利 2001</ref>。
286 ⟶ 310行目:
* 『[[戦場のメリークリスマス]]』、[[大島渚]]監督、日本映画、1983年
* 『[[バルトの楽園]]』、日本映画、2006年、第一次世界大戦中の[[徳島県]]にあったドイツ軍捕虜の板東俘虜収容所が舞台
* 『[[ソローキンの見た桜]]』、日本映画、2020年、日露戦争の松山俘虜収容所が舞台。
 
=== 文学 ===
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* [[長谷川伸]]『日本捕虜志』中央公論社、1979年
:1956年の第4回[[菊池寛賞]]を受賞した。
* 吹浦忠正 ・[[秦郁彦]]日本人捕虜の文明史新潮社上下二巻、原書房、[[19901998年]]、ISBN 4-10562-60038703071-2
* [[秦郁彦]]『日本人捕虜』上下二巻、原書房、[[1998年]]、ISBN 4-562-03071-2
:[[白村江の戦い]]から[[シベリア抑留]]まで取り扱った日本人捕虜に関するノンフィクション。
* [[吉村昭]]『[[海軍乙事件]]』文藝春秋、[[1976年]]
:連合艦隊参謀長[[福留繁]]中将が捕虜になった事件に関するノンフィクション。
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; 日本人捕虜の尋問
* 大庭定男『戦中ロンドン日本語学校』中央公論社、[[1988年]]、ISBN 4-12-100868-5
326 ⟶ 351行目:
* [[中田整一]]『トレイシー 日本兵捕虜秘密尋問所』講談社、2010年 のち文庫
: [[カリフォルニア州]]にアメリカ軍が設けた尋問所「[[トレイシー (軍事施設)|トレイシー]]」について。
* 山本武利『日本兵捕虜は何をしゃべったか』文藝春秋、[[2001年]]、ISBN 4-16-660214-4
 
:米英軍の捕虜になった日本兵の尋問の記録
 
''' 日露戦争のロシア兵捕虜'''
 
・松山大学編『マツヤマの記憶─日露戦争100年とロシア兵捕虜』[[成文社]]、2004年
 
・宮𦚰昇『ロシア兵捕虜が歩いたマツヤマ』[[愛媛新聞社]]、2005年
 
・吹浦忠正 『捕虜の文明史』新潮社、1990年、ISBN 4-10-600387-2
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; 独ソ戦におけるソ連人の捕虜
* ユルゲン・トールヴァルト『幻影 <small>ヒトラーの側で戦った赤軍兵たちの物語</small>』[[松谷健二]](訳)、フジ出版社、[[1978年]]
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* [[棟田博]]『日本人とドイツ人 <small>人間マツエと板東俘虜誌</small>』光人社、[[1997年]]、改題復刻版、ISBN 4-7698-2173-5
:第一次世界大戦の[[青島攻略戦]]で捕虜となったドイツ軍人に関するノンフィクション。
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; 日本軍の捕虜となった英連邦諸国兵士
* 笹本妙子『連合軍捕虜の墓碑銘』草の根出版会、2004年。(米軍兵士も含む)
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* [[フランク・エバンス]]『Roll Call at Oeyama - P.O.W. Remembers 大江山の点呼 - 捕虜は思い出す』私家本、1985年、日本語訳は未出版
:日本軍によって香港で捕虜となったウェールズ出身のイギリス軍兵士の自伝。
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;日本軍の捕虜となった米軍兵士
* サミュエル・B・ムーディ『Reprieve from Hell』Pageant Press、1961年、日本語訳は未出版
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* [[日本国俘虜情報局]] (Prisoner of War Information Bureau)
* [[イルカボーイズ]]
* [[ハーグ陸戦条約]]
 
;事件
* [[直江津捕虜収容所事件]]