「漢委奴国王印」の版間の差分

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ただしこれは、現代の[[中国語]]の[[方言]]と同様、中国の国土全体が古来単一音であったということを意味しない<ref>[[王育徳]]「中国の方言」方言史『中国文化叢書1 言語』 [[大修館書店]]、1967年</ref><ref>坂井健一『魏晋南北朝字音研究―経典釈文所引音義攷』 [[汲古書院]]、1975年</ref>ので、金印の印文の読音についても「漢語の方言論」の視点から再考すべきことが提唱されている。三宅の当時「ノ音はあってもド音はなかった」とする漢語単一論に対し、漢語方言論に基づく、地域を違えてのド音とノ音(ナ音)の同時並存説がある。久米雅雄は前漢の[[揚雄]]が著した『[[方言 (辞典)|方言]]』や『[[漢書]]』西域伝に登場する「難兜国」へ頒給された印章「新難兜騎君」印に注目し、漢代には上古北方[[漢音]]系の「ど」と上古南方[[呉音]]系の「な」「の」が並存したとする説を提唱している<ref>久米雅雄『日本印章史の研究』 [[雄山閣]]、2004年</ref><ref>久米雅雄「国宝金印『漢委奴国王』の読み方と志賀島発見の謎」『立命館大学考古学論集 IV』 [[立命館大学]]、2005年、55-68頁</ref><ref>久米雅雄「国宝金印の読み方」『月刊書道界』2009年8月号、藤樹社</ref>。
 
== 中国大陸史との比定 ==
=== 『後漢書』の記述との対応 ===
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 [[東夷伝|東夷傳]]」に
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という記述があり、[[後漢]]の[[光武帝]]が[[建武中元]]2年([[57年]])に[[奴国]]からの朝賀使へ([[冊封]]のしるしとして)賜った印がこれに相当するとされる。
 
[[中国]]漢代の制度では、冊封された周辺諸国のうちで王号を持つ者(外臣)に対しては、内臣である[[諸侯王]]が授けられるよりも一段低い金の印が授けられた(詳しくは[[印綬]]の項を参照)。
 
=== [[滇王之印]]との対応 ===