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[[1938年]](昭和13年)に予備役編入。[[1939年]](昭和14年)、[[平沼内閣]]において[[拓務大臣]]として初入閣した。翌年には[[米内内閣]]でも拓務大臣として再入閣を果たした。
 
太平洋戦争開戦後の[[1942年]](昭和17年)に[[朝鮮総督]]に就任し、「[[内鮮一体]]」をスローガンに前任者の[[南次郎]]総督が行った[[皇民化政策]]をよりいっそう押し進めた。小磯は朝鮮人官吏の登用、朝鮮人企業の推進、朝鮮人の政治関与の実現などを掲げ、[[1943年]](昭和18年)8月1日には[[日本統治時代の朝鮮|総督府統治下の朝鮮]]にも[[徴兵制度]]を施行した。戦後、朝鮮独立したと聞につ小磯は「今更、朝鮮の独立を夢みるのは[[九州]]や、[[北海道]]が独立を企図すると同じで馬鹿げた意味のないこと」と否定的だった。{{要出典|date={{#time:2021年9月|+9 hours}}|}}
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[[1922年]](大正11年)の[[ヨーロッパ|欧州]]航空兵力視察の経験から、[[空軍]]力の充実を持論としていた。