「アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)」の版間の差分

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中等教育を終えた16歳のメイは1831年、庶民院図書館にて職を得てキャリアをスタートさせているが{{Sfn|Essays (Evans: Introduction)|2017|p=31}}、その翌年1832年には長年の階級間対立が[[1832年改革法|第1次選挙法改正]](第1次選挙改革)の形で結実し、「イギリスにとっては政治的に決定的な出来事であった」とも評されている{{Sfn|レーヴェンシュタイン訳書 (1)|1989|p=66}}{{Efn2|1832年の第1次選挙改革では、有権者の資格(選挙権)が「10ポンド戸主」(年価値10ポンド以上の家屋・店舗などを占有する戸主)と定められ、有権者数が1.5倍に増えている{{Sfn|中村|1976|pp=30–31}}。しかしながら庶民院への立候補資格([[被選挙権]])は第1次選挙改革から6年後の1838年に実現されている{{Sfn|レーヴェンシュタイン訳書 (2)|1990|pp=74–75}}。また、イギリスは[[貴族院 (イギリス)|貴族院]](上院)と[[庶民院]](下院)の二院制を敷いているが、選挙で議員を選ぶのは庶民院のみが対象となっている。したがって1832年の第1次選挙改革によって、貴族院に対する庶民院の優位性が「制度的に」直接規定されたわけではなかった。あくまで「社会的に」(実質的に)庶民院の影響力が増した転換点として1832年の選挙改革は捉えられている{{Sfn|レーヴェンシュタイン訳書 (1)|1989|p=62}}。}}。当改革により、庶民院の選挙権が都市部の小売店主クラスにまで拡大された{{Sfn|中村|1976|pp=30–31}}。その一方で、ブルジョワ的な金権政治の弊害も招き{{Sfn|レーヴェンシュタイン訳書 (1)|1989|pp=67, 70}}、従前から行われていた選挙票の買収などの腐敗行為はむしろ悪化した{{Sfn|中村|1976|pp=32–33, 37}}。
 
このような政情にあって、メイは30歳手前にして通称『[[アースキン・メイ (書籍)|アースキン・メイ]]』(1844年初版)を上梓し、議会運営と意思決定の公平性(フェアプレイの精神)を説いた{{Sfn|Palonen|2012|p=13}}。議会運営の準則を定めた教本は他にも複数あるものの、メイの視点は外部からの研究・評論ではなく、実務経験に根差して諸問題の事例を引用・解説したことが特徴として挙げられ{{Sfn|Palonen|2012|p=15}}、本書は21世紀に入ってからもしばしば実質的なイギリス憲法の一部として位置づけられている{{Efn2|name=Uncodified|一般的な国の憲法とは異なり、イギリスの場合はいわゆる「憲法」に該当する法律文書が一つに体系化・法典化されているわけではない。そのため「[[不文憲法]]」(unwritten)あるいは「不成典憲法」(uncodified)と呼ばれる{{R|BritishLibrary}}。どの法律文書をイギリス憲法の構成要素と見做すか見解は異なるものの、『アースキン・メイ』をこれに含める立場が複数存在する{{R|Gallop2020|GriffithsLeach2018}}。また憲法とまで断言せずとも、「議会手続を定めたバイブル」「議会運営準則の中で最も権威のある書」などと位置付けられている{{R|Parliament|Heywood2015}}。}}。その内容は不正選挙の公判・弾劾といった司法手続に関するものや{{Efn2|『アースキン・メイ』初版 第22章および第23章を参照のこと{{Sfn|May|1844|p=ix–xiv|loc=§ contents}}。}}、私法律案({{lang|en|private bills}})の請願審理手順{{Efn2|『アースキン・メイ』初版 第19章および第24 - 29章を参照のこと{{Sfn|May|1844|p=ix–xiv|loc=§ contents}}。}}、[[庶民院]](下院)・[[貴族院 (イギリス)|貴族院]](上院)・国王間の意思疎通と権限分担{{Efn2|『アースキン・メイ』初版 第19章および第16 - 17章を参照のこと{{Sfn|May|1844|p=ix–xiv|loc=§ contents}}。}}など多岐に渡る。
 
[[File:First passenger railway 1830.jpg|thumb|世界初の旅客鉄道[[リバプール・アンド・マンチェスター鉄道]]が1830年に開通。1840年代までの[[鉄道狂時代]]には議会に敷設の請願が相次ぐ{{R|ODNB}}。]]
また、メイが著作を通じて説いたのはフェアプレイの精神(効果性)だけではない。議会審議の脱線と時間不足(すなわち効率性)が慢性的な課題となっており{{Sfn|Vieira|2015|p=25}}、[[パンフレット]]『議会公務を促進するための所見と提言』(1849年)では、選挙の集票目的で議会弁論が冗長化していると指摘した{{Sfn|Vieira|2015|p=25}}。これに関連しメイは、議会審議に無関係な発言や長演説の禁止といった議事規則の具体的な改革を提言した{{Sfn|May|1849|pp=26–33}}。当時のメイは私法律案請願の審査員を務めており{{R|Cokayne|DNB}}、1830年代から40年代のイギリスは[[鉄道狂時代]]とも呼ばれ、鉄道敷設を求める私法律案の請願などが議会に殺到する状況をメイは目の当たりにしていたのである{{R|ODNB}}。メイの議会改革提言の一部は、敬愛する{{仮リンク|チャールズ・ショー=ルフェーブル (初代エヴァーズリー子爵)|label=チャールズ・ショー=ルフェーブル|en|Charles Shaw-Lefevre, 1st Viscount Eversley}}庶民院議長を通じて1853年に穏健な形で実現している{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|pp=158, 160}}。メイの各種改革案は緻密徹底していたものの、同時に長年培った憲政の先例・原理や伝統を重んじる姿勢を忘れることはなかった{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=158}}{{Sfn|May|1881|p=4}}。
 
その後、1855年12月(40歳)に庶民院書記官補佐{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=25}}、1871年2月には庶民院書記官に昇格任命されている{{R|gazette1871-02-03}}。庶民院書記官とは議会運営・手続に関わるアドバイザー職のトップである{{R|AboutClerk-BC}}{{Efn2|庶民院書記官の職責は記録上、少なくとも1363年まで遡る。当時は絶対君主が庶民院書記官を直接任命する重要な職であり、庶民院議員や内閣には罷免権がない独立した立場であった。その後手続面のアドバイザーから徐々に職責が広がり、議会運営実務における執行責任者の役割も現代では含まれている{{R|AboutClerk-PSA}}。}}。既にメイの書記官補佐時代には『アースキン・メイ』がイギリス国外でも評価を得て{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|pp=25–26}}、第6版まで改訂が進み{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=25}}、書記官に昇格後も第9版まで改訂に従事した{{Sfn|Palonen|2012|p=14}}。当時のイギリスは対外的には[[イギリス帝国|帝国主義]]に基づいて覇権を拡大した時期であり{{Sfn|竹内|2015|pp=8-9}}、諸外国の議会関係者がメイに接触した記録も残っている{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=26}}{{R|Gendai}}。しかしながら国内での実務上では、書記官補佐時代のメイは議会規則改革の諸提言で議会の委員会から合意を得られず{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=165}}、書記官昇格後も改革の努力を続けた{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=165}}。
 
さらに1860年代以降、職務の傍らで執筆活動の幅も広げ、直近100年間のイギリス憲政史をまとめた『ジョージ三世の王位継承以降のイギリス憲法史(1760年-1860年)』(1861年-、全3巻)や、古代欧州から当時のアジア諸国にいたる民主主義を俯瞰した『ヨーロッパ民主史』(1877年)を記している。イギリス議会史に詳しい[[中村英勝]]は、[[立憲政治]]の母国たるイギリスにおいて19世紀以降は憲政史の研究が盛んであったと考察しており、その代表的な史家としてメイの名前を挙げている{{Efn2|中村が挙げたのは、『ジョージ三世の王位継承以降のイギリス憲法史(1760年-1860年)』を記したメイ、メイに影響を与えたとする先人の{{仮リンク|ヘンリー・ハラム|en|Henry Hallam}}(1777年 - 1859年)、およびメイと同世代の{{仮リンク|ウィリアム・スタッブズ|en|William Stubbs}}(1825年 - 1901年)の3名である{{Sfn|中村|1976|pp=142, 173}}。}}。ただし、歴史学者[[ハーバート・バターフィールド]]からは、メイの[[ホイッグ史観]](国王や国教会に対抗する議会側の主権優位性をことさら強調する視座{{R|WhigHist}})が批判されている{{R|Butterfield}}{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=26}}。イギリスは政党政治の長い歴史を有するが{{Sfn|中村|1976|pp=27–28}}、19世紀に入ってからは[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]](前身は宮廷党、後の保守党、[[ジェントリ|地方の土地所有名望家]]が支持基盤)と[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]](前身は地方党、後の自由党、名望家以外が支持基盤)との二大政党による舌戦が繰り広げられ、政権交代を繰り返した時代であった{{Sfn|中村|1976|pp=257–258}}。メイが立場上ホイッグ党員であったかは不明だが、少なくとも議事規則をめぐっては強固なホイッグ党支持だったと言われている{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=158}}。
 
== 生涯 ==
=== 幼少期 ===
[[File:Statue of Sir William Harpur, old Town Hall, Bedford - geograph.org.uk - 1377987.jpg|thumb|{{仮リンク|ベッドフォード・スクール|en|Bedford School|label=ベッドフォード・グラマースクール}}創立寄付者で16世紀豪商の{{仮リンク|ウィリアム・ハーパー|en|William Harpur}}像。メイの学んだ旧舎に残る。]]
1815年2月8日{{R|Cokayne}}、[[ロンドン]]北西部の[[カムデン区]]{{仮リンク|ケンティッシュ・タウン|en|Kentish Town}}に生まれる{{Efn2|ケンティッシュ・タウンは庶民院および貴族院の議事堂がある[[ウェストミンスター宮殿]]から北に6kmほどに位置する地域。}}{{R|RG11}}{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=31}}。同年9月21日に[[セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ]]で洗礼を受け、洗礼記録における両親の名前はトマス・メイ({{lang|en|Thomas May}})とサラ・メイ({{lang|en|Sarah May}})である{{R|christening}}。メイの父は弁護士業を営んでいた{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=31}}。ただし、アースキン・メイの日記を編纂した{{R|McKayJournal}}{{仮リンク|ウィリアム・マッケイ (庶民院書記官)|en|William McKay (parliamentary official)|label=サー・ウィリアム・マッケイ}}によると、アースキン・メイは{{仮リンク|トマス・アースキン (初代アースキン男爵)|en|Thomas Erskine, 1st Baron Erskine|label=初代アースキン男爵トマス・アースキン}}(司法長官の役割を果たす[[大法官]]{{R|LordChancellor}}などを歴任)の息子または孫だった可能性があり、メイ自身もそれをほのめかしたという{{R|ODNB}}。
 
1826年から1831年まで{{仮リンク|ベッドフォード・スクール|en|Bedford School|label=ベッドフォード・グラマースクール}}で校長ジョン・ブリアートン({{lang|en|John Brereton}})の教え子として中等教育を受けた{{R|DNB|Cokayne|RG11}}。[[グラマースクール]]の多くは成功した商人の寄付によって設立された私立校であり{{R|Edu18th}}{{Efn2|グラマースクールの「グラマー」は文法の意味。その前身は12世紀にまで遡り、下級聖職者にラテン語の文法を教える教育機関であった。19世紀中頃時点では、他の教育機関がラテン語などの古語を教える割合が8%未満だったのに対し、グラマースクールの7割強は古語教育を継続していた{{R|HES}}。}}、16世紀設立と古い歴史を持つベッドフォード・グラマースクールも、メイの頃には親元を離れて学ぶ[[寄宿学校|寄宿制]]を採用していた(すなわち寄宿費を支払うだけの財力のある子弟を受け入れていた){{R|BedfordHistory}}{{Efn2|イギリスでは自宅から通学する「ローカル」スクールの対義語として、全土から学生を募る寄宿制の[[パブリックスクール|「パブリック」スクール]]が存在する。安価な授業料の公立校の意味ではなく、寄宿費を捻出できる富裕な家庭に開かれている私立校である。パブリックスクールはグラマースクールを前身とし、18世紀ごろから展開し始めた{{R|BritannicaPubSchool}}。}}。なお、当時のイギリスはヨーロッパ大陸と比較して一般大衆を対象とした教育制度が遅れており{{Sfn|中村|1976|p=36}}、中等教育はおろか初等教育も公立校が未創立の状況であり、教育格差が存在した時代であった{{Efn2|公立の初等教育学校を設置する法案が可決されたのが1870年であり、ほぼ全ての児童が初等教育を受けられるようになったのは1880年代に入ってからである{{Sfn|中村|1976|p=37}}。[https://www.parliament.uk/about/living-heritage/transformingsociety/livinglearning/school/keydates/ イギリス教育改革の年表] も参照のこと。}}。
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{{仮リンク|議事規則本|en|Parliamentary authority}}『[[アースキン・メイ (書籍)|議会の法、特権、手続と慣習]]』(原題: {{lang|en|''"A Treatise upon the Law, Privileges, Proceedings and Usage of Parliament"''}})、通称『アースキン・メイ』の初版をメイが上梓したのは、庶民院日誌の索引付け業務を完了してから5年後の1844年のことである{{Sfn|May|1844|pp=i|loc=§ 前表紙}}。当時のメイは30歳手前であり、肩書は庶民院図書館員補佐のままであった{{R|BioParliament}}。後世の庶民院日誌局秘書官マーティン・アトキンス({{lang|en|Martyn Atkins}})は『アースキン・メイ』を執筆できた要因として、ヴァードンとともに庶民院図書館の業務に関わった経験と、すでに出版されていた議事規則本に触れたことを挙げている{{Sfn|Essays (Atkins: Chapter 4)|2017|p=83}}。
 
当時、1832年の[[1832年改革法|第1次選挙法改正]]に伴う議事時間の不足は議事日程における争点になっており{{Sfn|Vieira|2015|p=25}}、研究者カリ・パロネン({{lang|fi|Kari Palonen}})によればこの非効率性が『アースキン・メイ』で扱われたテーマだったという{{Sfn|Palonen|2012|p=18}}。メイは第1次選挙法改正を「議案の通過は複雑で長い手順であり、1832年時点でも[[エリザベス1世 (イングランド女王)|エリザベス1世]]の議会とそれほど違わなかった」と感じていた{{Sfn|Essays (Sharpe & Evans: Chapter 13)|2017|p=228}}{{Efn2|議員は議案について質問することができ、(1832年時点の)最短手順をとったとしても第一読会で4問、第二読会で5問、法案委員会で9問、第三読会で6問が必要だった{{Sfn|Essays (Sharpe & Evans: Chapter 13)|2017|p=228}}。修正案が提出された場合は必要な質問数がさらに増えた{{Sfn|Essays (Sharpe & Evans: Chapter 13)|2017|p=228}}。}}。
 
1830年代から40年代にかけて、イギリスはいわゆる[[鉄道狂時代]]を迎えており{{Sfn|中村|1976|p=37}}、鉄道敷設を求める私法律案({{lang|en|private bills}})の請願が議会に殺到した{{R|ODNB}}。これらの請願が議事規則({{lang|en|standing orders}})に従っているかの審査が法案委員会の大きな負担になっており、{{仮リンク|チャールズ・ショー=ルフェーブル (初代エヴァーズリー子爵)|en|Charles Shaw-Lefevre, 1st Viscount Eversley|label=チャールズ・ショー=ルフェーブル}}(庶民院議長在任: 1839 - 1857年)はこの職務を「これまでの庶民院に関する職務の中で最も骨の折れる仕事」と形容した{{R|ODNB}}。なお『アースキン・メイ』初版を出版したとき、メイは鉄道法案に関する解説書の執筆という商機に目をつけていたが、結局は議会に関する簡単な解説に留まった{{R|ODNB}}。
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==== 『議会公務を促進するための所見と提言』執筆(1849年) ====
本書は、議事規則改革を唱えた小冊子パンフレット(原題: {{lang|en|''"Remarks and Suggestions with a View to Facilitate the Dispatch of Public Business in Parliament"''}}、ロンドン、1849年、[[八折り判|8vo]][[パンフレット]]{{R|DNB}})である。その執筆背景としては、1847年から1848年の会期の長さがある{{Sfn|May|1849|p=1}}。この会期は1847年11月18日{{R|Hansard1847}}に開会し、1848年9月5日にようやく閉会したが{{R|Hansard1848}}、293日にわたる会期は記録である270日(1802年 - 1803年の会期)を大幅に更新した{{Sfn|May|1849|p=1}}。
 
1847年から1848年の会期は、[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党首]][[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵)|ジョン・ラッセル卿]]率いる{{仮リンク|第1次ラッセル内閣|en|First Russell ministry}}の最中にあり、ラッセルは1846年に首相に就任した後{{仮リンク|1847年工場法|en|Factories Act 1847}}(通称「十時間労働法」)、{{仮リンク|1848年公衆衛生法|en|Public Health Act 1848}}など改革法案を次々と打ち出し、ラッセルと連携していた[[ピール派]]から「急行列車の速さ」と形容されたが、実際は内閣が弱体だったため法案成立が遅く、1847年から1848年の会期では法案200件に対し採決が255回と多く(前年と比べ、法案数は22%増、採決数は50%増)、会期中に会議が行われた1,407.5時間のうち136.25時間は0時以降だった{{Sfn|Vieira|2015|pp=66–67}}。メイはこの状況においても[[立法府]]の目的が果たされたとの見解を示しつつも、多くの「時間、エネルギー、健康を浪費」して得た結果であると付け加えた{{Sfn|May|1849|p=6}}。
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議会弁論の冗長化を数字として表す一例としては演説回数の統計があり、1810年に1,194回行われた演説が1847年には5,332回と3.4倍増であった{{Sfn|Vieira|2015|p=25}}。演説回数が増えた理由として、メイは選挙の自由化により大衆が代議士の活動状況に注目するようになったことを挙げた{{Sfn|Vieira|2015|p=25}}。その前年には[[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|第14代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリー]]が貴族院で「選挙区が代表をさらに入念に見守るようになった」ため「議員が選挙区の注目を引くために演説回数を増やした」と指摘しており、メイと見解が一致した{{Sfn|Vieira|2015|p=25}}。
 
こうした情勢のなか、庶民院は公務委員会({{lang|en|Committee on Public Business}})を設立して議事規則の改革を検討{{Sfn|May|1849|p=1}}、メイも敬愛する議長ショー=ルフェーブルに提言し、ショー=ルフェーブルは委員会でメイの提言の一部を提出した{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=158}}。メイは改革の勢いが衰えないうちに小冊子パンフレット『議会公務を促進するための所見と提言』を出版し{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=158}}、無関係な発言を制限する、採決数を減らす、米国の「1時間ルール」(1時間を超える長演説を禁止)の導入、フランスの「弁論終了動議」の導入といった方策について意見を述べた{{Sfn|May|1849|pp=26–33}}。メイは「議事規則をめぐっては(時として露骨なまでに)ホイッグ党支持」であったとされ、メイの議事規則に関する「提言の多くが徹底的であるが、全般的には明らかな濫用を防ぐための改正を好み、古い原則を捨てることには渋った」と言われる{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=158}}。
 
==== 『議会立法機構』執筆(1854年) ====
1848年から1849年にかけての庶民院公務委員会は最終的にはショー=ルフェーブルが提出した提言の一部を容れ、穏健な改革案を通した{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=160}}。改革案が1853年に発効すると、メイは再び議事規則改革を目指すようになり、1854年1月に『{{仮リンク|エディンバラ・レビュー|en|Edinburgh Review}}』に論文「議会立法機構」(原題: {{lang|en|''"The Machinery of Parliamentary Legislation"''}})を寄稿した{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|pp=160–161}}。投稿時点では匿名だったが{{R|Edinburgh}}、1881年の再版で記名となった{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=161}}。
 
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メイが「議会立法機構」で論じた提言は多岐に渡るが、実現したのはその一部のみである。議長が職務を執行できない場合に{{仮リンク|歳入委員会委員長|en|Chairman of Ways and Means}}が副議長として議長職務にあたるという提言は1855年副議長法({{lang|en|Deputy Speaker Act 1855}})で受け入れられたが、1854年の庶民院業務特別委員会({{lang|en|Select Committee on the Business of the House}})は[[保守党 (イギリス)|保守党]](旧トーリー党)多数であり、結局改革は急迫なもの(例としては、貴族院からのメッセージを庶民院に届ける業務を含む官職が廃止される予定だったため、秘書官がその業務を受け継ぐという提言が受け入れられた)を除いてほとんど進まなかった{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=163}}。
 
『議会立法機構』はメイの晩年の1881年になって小冊子パンフレットの装丁で再出版されているが、メイは再出版にあたって筆者序文を寄せ、「1854年という大昔に書いた記事を再出版するという提案は喜ばしいが、(記事が)今の状況にも適用できるか疑わざるを得なかった。しかし、それをもう一度読むと、有効な立法への障礙がそれほど残っていることと、議事規則という古い制度の欠点を補い、濫用を防ぐ措置のそれほど行われていないことに驚いた」と振り返った{{Sfn|May|1881|p=4}}。
 
==== 『選挙法の統合について』執筆(1850年) ====
メイの改革提言は議事規則(立法のプロセス)に留まらず、成文法の法典化・統合・索引作成(立法の成果物)にもおよんでいる。その第一歩として1850年に『選挙法の統合について』({{lang|en|''On the Consolidation of the Election Laws''}}、ロンドン、1850年、8vo小冊子[[パンフレット]]{{R|DNB}})を出版した{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=169}}。『選挙法の統合について』では議員の選挙と就任に関する法律を扱っており、メイは選挙関連の法律が250件近くもあり、その多くがすでに失効していたが正式に廃止されておらず、また重複や矛盾する箇所も多かったと指摘した。このような成文法間の不整合を正すべきとの課題認識は、選挙法に限らず既に19世紀前半には広く争点となっていた{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=169}}。
 
このような成文法間の不整合の原因として、メイは初期法案が審議の過程でその解釈が歪められやすい立法プロセス上の問題点を指摘している。しかしながら、立法府の権限を制限するような急進的な方法でこの問題を解決するのも不適切と考えていた。つまり、選挙を経ていない人物が法案起草に関わるべきではないとの見解である。そこでメイは、既存の庶民院各委員会の下部に法案起草を目的とした小委員会を創設する階層構造を提唱した。この改革案は、1857年の成文法委員会特別委員会({{lang|en|Select Committee on the Statute Law Commission}})にて進言されている{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|pp=169–170}}。しかし、メイがこの改革により立法に遅延が生じると認めた結果、委員会が提言を受け入れることはなかった{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=170}}。
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=== 庶民院書記官補佐として ===
[[ファイル:Charles Shaw-Lefevre, Viscount Eversley.jpg|thumb|right|アースキン・メイを重用した庶民院議長{{仮リンク|チャールズ・ショー=ルフェーブル (初代エヴァーズリー子爵)|en|Charles Shaw-Lefevre, 1st Viscount Eversley|label=チャールズ・ショー=ルフェーブル}}、1860年代の写真。]]
 
1840年代中頃から50年代中頃にかけて私法律案請願審査官などを務め、各種改革を提唱していたメイだが、その後の昇進は円滑にはいかなかった。『アースキン・メイ』の序文で献呈され{{Sfn|May|1844|pp=iii, vii}}、メイの提言の耳ともなっていた庶民院議長のショー=ルフェーブルは、1850年にメイを{{仮リンク|庶民院書記官 (イギリス)|en|Clerk of the House of Commons|label=庶民院書記官}}(庶民院の議事運営に関するアドバイザー職トップ)に推挙するも見送られている。これは1850年に庶民院書記官現職のジョン・ヘンリー・リー({{lang|en|John Henry Ley}})が急死したことを受けての後任人事であるが、首相で[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]首であった[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵)|ジョン・ラッセル]]が同じくホイッグ党員であった{{仮リンク|デニス・ル・マーチャント (初代準男爵)|en|Denis Le Marchant|label=初代準男爵サー・デニス・ル・マーチャント}}を推したためである{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=23}}。後年になって、ショー=ルフェーブルはこの出来事を回想し、メイへの手紙で「単に友人のため、政府を長年支持してきたために彼を任命したというラッセル卿の行動はなかなか正当化できない」と述べた{{Efn2|庶民院議員経験者が庶民院書記官に任命されたのは1659年という議会が低調の時期に任命されたトマス・セント・ニコラス({{lang|en|Thomas St Nicholas}})以来のことだった{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=23}}。また、18世紀の[[ジェレマイア・ダイソン]]のように庶民院書記官から議員に転身する例もある{{R|HOP1754}}。}}。
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1855年12月(40歳)から庶民院書記官補佐を務めていたメイだが、50代半ばにして書記官への昇格が見えてくる。当時の庶民院書記官現職はル・マーチャントであり、庶民院議長の事務会議に毎日出席するル・マーチャントはまるで「軍艦に乗る兵士」のようだ、とのちの庶民院書記官[[アーチボルド・ミルマン]]は述べている{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=25}}。しかしながら、このル・マーチャントが1870年秋にもうすぐ引退する予定であると明らかになった。メイがその後任になるのはもはや疑いようもなく、首相[[ウィリアム・グラッドストン]](当時の[[ピール派]]、後にホイッグ党と合流して[[自由党 (イギリス)|自由党]]を形成)が庶民院議長{{仮リンク|エヴリン・デニソン (初代オッシントン子爵)|en|Evelyn Denison, 1st Viscount Ossington|label=ジョン・エヴリン・デニソン}}に対し「わずかなためらいですら不当であろう」と述べるほどであった{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=26}}。
 
こうしてメイの庶民院書記官への昇進は1871年2月2日に決定され、2月3日に発表された{{R|gazette1871-02-03}}。メイ、56歳の時である。ル・マーチャントは自身の引退のときにアースキン・メイに対し感謝を述べている{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=25}}。
 
庶民院書記官に就任した後も議事規則改革の提言を続け、1871年の庶民院業務特別委員会では「0時30分以降、異議が唱えられた業務について討議を始めることを禁止する」規則の導入を、1878年の庶民院業務特別委員会では「週に1日、歳入関連の審議のみを行い、それ以外の弁論を禁止する」規則の導入に成功した{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=169}}。また、1877年に[[チャールズ・スチュワート・パーネル]]がアイルランド自治問題に注目を集めようとして議会で遅滞戦術をとると、庶民院議長{{仮リンク|ヘンリー・ブランド (初代ハムデン子爵)|en|Henry Brand, 1st Viscount Hampden|label=サー・ヘンリー・ブランド}}は議員が再発防止を目指して議事規則の変更を検討しているとして、メイに返答用の資料を準備させた{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=168}}。メイは昔提起したことのある「遅滞用の動議では弁論禁止」「議員が故意に繰り返して議事を妨害した場合、議会侮辱罪で有罪とし、登院停止などの処罰を与える」などの改革案を提起し、[[庶民院院内総務]]の[[スタッフォード・ノースコート (初代イデスリー伯爵)|スタッフォード・ノースコート]]はその一部に賛成したが、ブランドはノースコートには改革を通過させる決心も票数も足りないと考え、結局1878年7月に問題が再発するまで何の処置もなされず、メイはブランドへの手紙でノースコートの態度を批判した{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=168}}。その後、1881年1月末に[[1881年人身財産保護法|人身財産保護法案]](一般的には「アイルランド強圧法」({{lang|en|Coercion Act}})と呼ばれる)が提出されると、アイルランド人議員36名が再び遅滞戦術をとり、1月31日から2月2日には会議が41時間連続で行われた{{R|Koss}}。ブランドはやむなく議会の緊急状態を宣言して、2月4日から28日まで「議会の独裁者」({{lang|en|parliamentary dictator}})として振舞い、遅滞戦術をとった議員を追い出した後法案の審議を続けた{{R|Koss}}。この事件とそれを受けてグラッドストンが1882年に行った議事規則改革は1883年に出版された『アースキン・メイ』第9版に大きな影響を与えた{{Sfn|Palonen|2012|p=20}}。
 
庶民院書記官以外の職責・栄誉の面では、1875年と1885年に貴族院書記官への就任も目指したが、いずれも実現しなかった{{R|ODNB}}。しかし、1873年11月21日に出身校ミドル・テンプルの{{仮リンク|評議員 (法曹院)|en|Bencher|label=評議員}}に選出され{{R|DNB}}、翌1874年6月17日に[[オックスフォード大学]]より{{仮リンク|民法学博士|en|Doctor of Civil Law|label=D.C.L.}}の学位を授与され{{R|DNB}}、1880年にミドル・テンプルの朗読者({{lang|en|reader}})に{{Efn2|法曹院の法令読会({{lang|en|reading}})において、法令の解釈を披露し、それに対する批判に反論する役割を持つ人物{{R|Tanaka2015|p=11}}。}}{{R|Hutchinson2003}}、1884年8月11日には[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]]に任命された{{R|DNB}}。庶民院書記官経験者が枢密顧問官に任命されるのは2017年時点でもアースキン・メイの1例しかなかったという{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=29}}。
 
=== 憲政史家として ===
庶民院書記官補佐および書記官時代のメイは執筆の幅も広げ、後に憲政史・民主史家としても評価されることとなる{{Sfn|中村|1976|pp=142, 173}}{{Sfn|レーヴェンシュタイン訳書 (1)|1989|pp=61, 65}}。この時期のイギリス社会は、民主主義が真の意味で大衆に浸透し始めている{{Sfn|中村|1976|p=39}}。1850年頃から1870年代初期までは「イギリス資本主義の空前の繁栄」を見せ、各地で急速に工業化が進んだ時代である{{Sfn|中村|1976|p=35}}。1860年代には労働運動が高まった{{Sfn|中村|1976|p=257}}。また、「{{仮リンク|知識税|en|Taxes on knowledge}}」とも批判されて一般大衆の学ぶ自由を阻んでいた{{仮リンク|1712年印紙法|label=印紙法|en|Stamp Act 1712}}(別名: 新聞税)の1855年廃止も大きい{{Sfn|中村|1976|p=34}}。これにより地方新聞が急速に発達、各地に敷設された鉄道網に乗って新聞が流通し、ロンドン中央政界のニュースが地方の政情にまで影響を与えるようになった{{Sfn|中村|1976|p=34, 37}}。不正と審議遅延を招いた1832年の第1次選挙法改正から35年後の1867年には{{仮リンク|1867年国民代表法|en|Reform Act 1867|label=第2次選挙法改正}}が、続く1884年には{{仮リンク|1884年国民代表法|en|Representation of the People Act 1884|label=第3次選挙法改正}}が行われ、選挙権が2次で都市労働者まで、3次では農村・鉱山労働者まで広がった{{Sfn|中村|1976|pp=33, 37–38}}。つまり、大衆民主主義に必要な社会インフラが整備された時代に、メイはイギリス憲政史と民主主義を論じたのである。
 
==== 『ジョージ三世の王位継承以降のイギリス憲法史(1760年-1860年)』執筆(1861年 -) ====
『ジョージ三世の王位継承以降のイギリス憲法史(1760年-1860年)』({{lang|en|''The Constitutional History of England since the Accession of George III, 1760–1860''}}、[[ロンドン]]、1861年 - 1863年初版、2巻、8vo。1871年第3版、3巻){{R|DNB}}{{Efn2|name=TransJP1861|本書の日本語定訳はないことから、渡辺・小山・浜田共訳{{Sfn|レーヴェンシュタイン訳書 (1)|1989|p=65}}に従った。当訳書の原著は憲法論などで知られる哲学者・政治学者{{仮リンク|カール・レーヴェンシュタイン|en|Karl Loewenstein}}であり、革命後の共和制フランスや君主制ドイツなどとの対比の文脈で、レーヴェンシュタインはメイの著作『ジョージ三世の王位継承以降のイギリス憲法史(1760年-1860年)』を参照文献として挙げている{{Sfn|レーヴェンシュタイン訳書 (1)|1989|pp=61–65}}。}}はイギリスの憲政史に関する著作であり、[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]が即位した1760年から1860年までの100年間を扱っている{{Sfn|May|1874|pp=v–vi|loc=§ preface}}。しかし、ジョージ3世の即位が憲政史における分水嶺というわけではなく、取り扱う期間が1760年から始まる理由はそれまでの歴史が{{仮リンク|ヘンリー・ハラム|en|Henry Hallam}}の著作ですでに扱われていることだったという{{Sfn|May|1874|pp=v–vi|loc=§ preface}}{{Efn2|イギリスにおける近代的な議院内閣制の発展研究の観点からは、ジョージ3世の即位(1760年)ではなく、曾祖父の[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]の即位(1714年)をターニングポイントとするのが通説となっている。ジョージ1世はハノーヴァー家出身のドイツ人であり、英語を解すことができなかったことから、首相との会話にはラテン語を用いていたとされる。かつ即位は50歳を超えてからである。したがって「王は君臨すれど統治せず」の政治姿勢は意図したものではなく、必然的に責任内閣制が必要とされた背景がある{{Sfn|中村|1976|p=123}}。その後、ジョージ3世は1760年の即位後に王権回復に努めて民主化・立憲主義の後退が一時的に起こるものの、[[ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)|大ピット]]による長期政権運営によって責任内閣制と首相の地位が確立している{{Sfn|中村|1976|p=26}}。}}。
 
[[島田三郎]]と[[乗竹孝太郎]]による日本語訳は1883年から1888年にかけて秀英社(のちに輿論社が出版を引き継ぐ)より『英国憲法史』として出版された{{R|Shimada}}。このほか、メイの死後1894年時点でドイツ語とフランス語訳も出版され、19世紀末の『[[英国人名事典]]』が「ハラムに比肩する」と評価したものの{{R|DNB}}、[[ホイッグ史観]]を採用しており{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=26}}、20世紀の歴史学者[[ハーバート・バターフィールド]]は「(アースキン・メイの)証拠の様々な部分を合成する能力により、平凡な先人たちよりも大きな誤りを作り出してしまった」「歴史にドクトリン的要素を入れたことで、最初の誤りを増大させて、著作を真実から遠ざける結果となった」と批判している{{R|Butterfield}}。ただし、先人のハラムが既にホイッグ史観に立脚しており、メイはこの立場を踏襲したとも評されている。ハラムと比較して、特に社会学的な観点からの考察がメイの著作では充実した内容となっている{{R|NYT-Review1863}}。同じく20世紀の歴史学者である{{仮リンク|イアン・ラルフ・クリスティ|en|I. R. Christie}}はメイの著作が「ジョージ3世の活動は権力を政治家から国王に移行させ、憲政上のバランスを破壊した」というホイッグ史観の通説に「1714年から1760年までの間に党派政治と[[責任内閣制]]が発展し、政治家がヴィクトリア朝後期のそれと同じように活動した」という仮定を追加し、ジョージ3世時代の実態が歪められてしまった{{R|Christie}}。[[ロムニー・セジウィック]]によれば、この見方の結果、ジョージ3世が同時代の政治家から[[名誉革命]]で成立した体制の転覆を疑われたところは、歴史家の目には責任内閣制の転覆を疑われたと映ることになるという{{R|Christie}}。
 
1912年にジャーナリストのフランシス・ホランド({{lang|en|Francis Holland}})が1860年から1911年までの内容を追加して3巻で出版したが、脚注をほとんど用いないなどメイの作風とかけ離れているほか、著者の個人的な意見が含まれている作品であるため勝手に内容を追加すべきではないとして、同年のC・E・フライヤーによる書評で批判された{{R|Fryer}}。
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首相[[ウィリアム・グラッドストン]]は同書の出版が「歴史文学の発展における一大イベント」と手放しで絶賛した{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=26}}。同時代の歴史家[[ジョン・アクトン|初代アクトン男爵ジョン・ダルバーグ=アクトン]]も1878年1月の書評でメイが「法律は社会の状況に依拠し、現実に基づかない考えや論争に依拠しないことを信じている」ため、「常に地に足をつけ、選別された事実、健全な判断力、信頼のおける経験に頼っている」と評価した{{R|Hawkins}}。
 
『ヨーロッパ民主史』は川田徳二郎により『欧州民力史論』として日本語訳され、1882年3月に出版された{{R|Kawada}}。
 
=== 引退と死 ===
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=== 人物評 ===
『英国人名事典』は初代ファーンバラ男爵メイを「有能、誠実で称賛に値する公務員」({{lang|en|a most able, faithful, and meritorious public servant}})と称え、多くの人から尊敬されたとした{{R|DNB}}。しかし、後世に庶民院書記官を務めた{{仮リンク|ウィリアム・マッケイ (庶民院書記官)|en|William McKay (parliamentary official)|label=サー・ウィリアム・マッケイ}}は初代ファーンバラ男爵メイが栄典に強い興味を持ったと指摘し、1884年に庶民院議長ブランドが首相グラッドストンにアースキン・メイの枢密顧問官への任命を推薦したとき、アースキン・メイが「ずうずうしくも『格別に適切』であると答え」、庶民院書記官から引退するときに賃金と同額の年金を求めたという{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=29}}。また、公務員としては公正だったものの、社交界では自由主義者と親しく、また庶民院勤務の公務員に[[自由党 (イギリス)|自由党]]党員の息子を推薦することが多かったという{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|pp=27–28}}。
 
=== 議事規則本著者ベンサムとハットセルとの比較 ===
「最大多数の最大幸福」で知られる功利主義の哲学者・経済学者・法学者[[ジェレミ・ベンサム]](1748年 - 1832年)も議事規則について記しており(『{{lang|en|Essay on Political Tactics}}』、1798年 - 1816年)、ベンサムと67歳年下のメイを比較したカリ・パロネン({{lang|fi|Kari Palonen}})の研究(2012年)が存在する{{Sfn|Palonen|2012|p=13}}。
 
パロネンによると、ベンサムとメイは双方ともに議会運営の公平性を説いている点では共通する{{Sfn|Palonen|2012|p=13}}。また、ベンサムも議題提出のタイミングや審議の長さといった時間に着目している{{Sfn|Palonen|2012|p=16}}。しかし、ベンサムが議会の「部外者」であるため実務経験を持たず、議会で生じる可能性のある問題や議事規則で定めるべき点を列挙して、イギリスの議会のみならず立法議会全般に適用できるようにしたのに対し、メイは議会に実際に関わり、イギリスの議会史において繰り返して議論された議事規則の問題を事例を引用しつつ解説した違いがある{{Sfn|Palonen|2012|p=15}}。
 
また、『アースキン・メイ』の初版序文でもメイ自ら言及している通り、メイ以前のイギリス議事規則本の権威としては{{仮リンク|ジョン・ハットセル|en|John Hatsell}}による著作(1781年初版、1818年第4版)が存在する{{R|Hatsell1781}}。『アースキン・メイ』では1818年以降の庶民院における事例を取り上げたほか、ハットセルの著作では取り扱われなかった貴族院における事例も採用したという{{Sfn|May|1844|p=A3–A4|loc=§ preface}}。また、ハットセルの著作が先例に基づくアプローチで{{Sfn|Palonen|2012|p=17}}、あくまでも先例集({{lang|en|collection of precedents}})という形をとっているのに対し{{R|Hatsell1818}}、メイは年代順ではなくトピック毎に原則、根拠、先例という順で並べ、議会規則を読みやすくした{{Sfn|Palonen|2012|p=17}}。さらに、独立した問題への回答ではなく、議事規則の根底にある原則とロジックを明示することで、読者に議事規則について再考し、それを合理化できる機会を与えることになる{{Sfn|Essays (Seaward: Chapter 6)|2017|p=114}}。
 
=== 各国への翻訳・波及 ===
{{Main|アースキン・メイ (書籍)#影響}}
『アースキン・メイ』は1850年代にはすでにイギリス国外でも評価されており{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=25}}、スウェーデンと[[オスマン帝国]]の議会がアースキン・メイに接触したほか、『[[タイムズ]]』紙は『議会の法、特権、手続と慣習』が本国よりも[[オーストラリア]]で有名であると報じた{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|pp=25–26}}。
 
メイの死から8年後の1894年時点で、日本語、イタリア語、スペイン語、ドイツ語、ハンガリー語、フランス語訳が出版された{{R|DNB}}。日本では1879年(明治12年)に[[小池靖一]]による日本語訳『英國議院典例』が律書房より出版されている{{R|Meiji12}}(翻訳元は1873年に出版された第7版{{R|Trans-JP1873}})。明治期の日本ではメイの名前を「多摩斯阿爾斯京理」(トマス・オルスキン・メイ)と表記していた{{R|Meiji12}}。
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== 著作一覧 ==
*「帝国議会」({{lang|en|''The Imperial Parliament''}}、『{{lang|en|Knight's Store of Knowledge for All Readers}}』への寄稿、ロンドン、1841年){{R|May1841}}
*『議会の法、特権、手続と慣習』({{lang|en|''A Treatise upon the Law, Privileges, Proceedings and Usage of Parliament''}}、1844年初版{{Sfn|May|1844|pp=i|loc=§ 前表紙}}、[[八折り判|8vo]]{{R|DNB}}、メイ本人は第9版まで改訂)
*『議会公務を促進するための所見と提言』({{lang|en|''Remarks and Suggestions with a View to Facilitate the Dispatch of Public Business in Parliament''}}、ロンドン、1849年、8vo[[八折り判|8vo]]パンフレット]]{{R|DNB}})
*『選挙法の統合について』({{lang|en|''On the Consolidation of the Election Laws''}}、ロンドン、1850年、8voパンフレット){{R|DNB}}
*「議会立法機構」({{lang|en|''The Machinery of Parliamentary Legislation''}}、『{{仮リンク|エディンバラ・レビュー|en|Edinburgh Review}}』への寄稿、1854年1月) - 投稿時点では匿名だったが{{R|Edinburgh}}、1881年の再版で名となった{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=161}}
*『庶民院の公務進行に関する規則、命令と形式』({{lang|en|''Rules, Orders and Forms of Proceedings of the House of Commons, relating to Public Business''}}、1854年出版){{R|Patrick2017}}
*『ジョージ三世の王位継承以降のイギリス憲法史(1760年-1860年)』{{Efn2|name=TransJP1861}}({{lang|en|''The Constitutional History of England since the Accession of George III, 1760–1860''}}、[[ロンドン]]、1861年 - 1863年初版、2巻、8vo。1871年第3版、3巻){{R|DNB}}
*『ヨーロッパ民主史』({{lang|en|''Democracy in Europe: A History''}}、ロンドン、1877年、2巻、8vo){{R|DNB}}
*『[[ブリタニカ百科事典第11版]]』の記事『{{lang|en|Parliament}}』(議会)(1911年出版、[[ヒュー・チザム]]と共作){{R|May-Chisholm1911}}
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* 1844年 - 『アースキン・メイ』初版上梓
* 1847年 - 私法律案請願審査官および弁護士費用査定官に就任(1856年まで){{R|DNB|BioParliament}}{{Sfn|Essays (McKay: Chapter 9)|2017|p=158}}{{Efn2|name=CareerGap}}
* 1849年 - 小冊子パンフレット『議会公務を促進するための所見と提言』上梓
* 1850年 - 小冊子パンフレット『選挙法の統合について』上梓
* 1852年 - 『アースキン・メイ』第2版改訂
* 1854年 - 論文「議会立法機構」寄稿
225行目:
* 1855年12月 - 庶民院書記官補佐に就任(1871年2月まで){{Sfn|Essays (McKay: Chapter 1)|2017|p=25}}
* 1857年 - 庶民院日誌索引(1837年から1852年まで)を共著出版{{Sfn|Essays (Atkins: Chapter 4)|2017|p=83}}
* 1861年 - 『ジョージ三世の王位継承以降のイギリス憲法史(1760年-1860年)』上梓
* 1866年 - 成文法改正委員会の議長(1884年まで)、および法律摘要委員会の委員に就任{{R|DNB}}
* 1867年 - {{仮リンク|1867年国民代表法|en|Reform Act 1867|label=第2次選挙法改正}}(選挙権が都市労働者にまで拡大){{Sfn|中村|1976|pp=33, 37–38}}
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<ref name="May1841">{{Cite journal2|language=en|last=May|first=Thomas Erskine|title=The Imperial Parliament|journal=Knight's Store of Knowledge for All Readers|pages=97-112|editor-last=Knight|editor-first=Charles|publisher=Charles Knight & Co.|location=London|date=1841|url=https://books.google.com/books?id=ZJteAAAAcAAJ&pg=PA172}}</ref>
 
<ref name="Edinburgh">{{Cite journal2|language=en|title=The Machinery of Parliamentary Legislation|journal=The Edinburhg Review, or Critical Journal|date=January 1854|volume=XCIX|publisher=Adam and Charles Black|location=Edinburgh|pages=243–282<!--匿名であることの出典のため作品の全ページを明記-->|url=https://books.google.com/books?id=WMaruqSjw_EC&pg=PA244}}</ref>
 
<ref name="Patrick2017">{{Cite journal2|language=en|work=Essays on the History of Parliamentary Procedure: In Honour of Thomas Erskine May|editor-last=Evans|editor-first=Paul|last=Patrick|first=Simon|publisher=Bloomsbury|date=28 December 2017|title=A History of the Standing Orders|pages=189-205|isbn=978-1-50990-022-0|url=https://books.google.com/books?id=3udBDwAAQBAJ&pg=PA189}}</ref>
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<ref name="Shimada">{{国立国会図書館のデジタル化資料|2937415|英國憲法史 第一巻}}</ref>
 
<ref name="NYT-Review1863">{{Cite web2 |url=https://www.nytimes.com/1863/07/14/archives/books-of-the-week-the-constitutional-history-of-england-since-the.html |title=BOOKS OF THE WEEK.; THE CONSTITUTIONAL HISTORY OF ENGLAND, SINCE THE ACCESSION OF GEORGE III., 1760 --1860. BY THE AS ERSKINE MAY, C.B. in two volumes, Volumes II. Boston: CROSBY & NICHOLS. |trans-title=今週の書籍紹介: アースキン・メイ著『ジョージ三世の王位継承以降のイギリス憲法史(1760年-1860年)』(第2巻、Crosby & Nichols社、ボストン)|publisher=[[ニューヨーク・タイムズ|The New York Times]] |date=1863-07-14 |access-date=2020-03-13 |language=en}}</ref>
 
<ref name="Christie">{{Cite journal2|language=en|last=Christie|first=Ian Ralph|author-link=イアン・ラルフ・クリスティ|title=George III and the Historians – Thirty Years on|journal=History|volume=71|issue=232|date=June 1986|page=211|publisher=Wiley|jstor=24415259}}</ref>
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== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
*{{Hansard-contribs|mr-thomas-may|Mr Thomas May}}
*{{NPG name}}
*{{OL author}}
*{{UK National Archives ID}}
*[https://archive.org/details/treatiseonlawpri00maytrich/ 議会の法、特権、手続と慣習 第9版]{{en icon}}
*[https://tile.loc.gov/storage-services/service/ll/llmlp/Const-History-England_Vol-I/Const-History-England_Vol-I.pdf ジョージ三世の王位継承以降のイギリス憲法史(1760年-1860年) 第1巻]{{en icon}}
*[https://tile.loc.gov/storage-services/service/ll/llmlp/Const-History-England_Vol-II/Const-History-England_Vol-II.pdf ジョージ三世の王位継承以降のイギリス憲法史(1760年-1860年) 第2巻]{{en icon}}
*[https://archive.org/details/democracyineuro05maygoog/ ヨーロッパ民主史 第1巻]{{en icon}}
*[https://archive.org/details/democracyineuro00maygoog/ ヨーロッパ民主史 第2巻]{{en icon}}