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ポンティアック酋長(Chief Pontiac、1720年- 1769年4月20日)とはアメリカ合衆国ネイティブアメリカンオタワ族酋長ポンティアクの戦争1763年-1764年)でイギリス人入植者に対して反乱を起こした事で有名。フレンチ・インディアン戦争にも関与したと言われている。

ポンティアクは1720年オタワ族の父とチペワ族の母との間でデトロイト周辺の村で生まれて、ポンティアクは17世紀から18世紀にフランス人商人と交渉していたと言われている。そして1755年までオタワ族の強国な酋長で、彼はすぐに3つの部族の議会のトップ、オタワ族、ポタワトニ族、オジブワ族を結成した。1689年から1763年に、フレンチ・インディアン戦争が起きた時、オタワ族の戦士はフランス側に付いて戦うが、フランスはイギリスに敗北。フランスの城砦をイギリスが引き継いだ。ジェフリー・アムハーストや主要なロバート・ロジャース及び、イギリス軍が城砦デトロイトを占め、イギリスは五大湖の地域のまわりで他の城砦を所有した。 アムハーストを含んでイギリスの何人かはインディアンに対して軽蔑的で貿易制限させ部族を怒らせていた。1762年ポンティアクは全てのイギリス入植者を追い払うために部族の戦士を動かした。 イギリスはこの行為を「ポンティアックの陰謀」だと見なしていた。ポンティアクの作戦は城砦を1763年5月のそれらに最も近くに攻撃し、次にイギリスとの条約を除去する18の部族のそれぞれを持つ事だった。そして城砦デトロイトを占領して暴動を始めることを計画した。 しかし1762年5月7日、城砦デトロイトを占領するために計画された、ポンティアクの計画はイギリスがそれについて察知し調べられていたので、従って彼は計画通りに城砦を攻撃しなかった。 ポンティアクは包囲をデトロイトに置き、戦士が付いている城砦を囲み、供給や補強を妨げた。 7月31日にポンティアクは勝利したが、補強はデトロイトに結局来て、ポンティアクは退いた。 部族は攻撃し、条約は台なしで去った12の城砦の8つを捕獲した。1764年ついにポンティアックは降伏し、1766年7月23日と25日に城砦オンタリオで平和条約を結んだ。しかし平和条約を結んでから3年後の4月20日に、ポンティアックはピオリア族の者によって殺害されてしまう。 オタワ族はポンティアクを殺したピオリア族に復讐するためにピオリア族を攻撃している。

ミシガン州ポンティアック市がある他、デトロイトにある自動車メーカー、ゼネラルモーターズが製造・販売する乗用車のブランドの一つポンティアックなどは彼の名から因んでいる。