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浪人となった一家は[[江戸]]に身を寄せ、おなあは暇に任せて多くの書物に触れ、この時期に多くの知識と教養を得た。その後、この教養を見込まれ、おなあの叔母で、当時の[[大奥]]を取り仕切っていた[[春日局]]から、自分の補佐役を依頼され、大奥に出仕するようになった。
 
おなあと春日局の性格は正反対であ大奥に入ったといわれるが、おなあは暴走し、やちであった春日局との正面からの対立を避けつつ、根回しなどを駆使しこれを諌めた。おなあに対する春日局の信任は篤かったようで重要な案件について、局は必ずおなあに相談したという。雑華院で得た経験を生かし、大奥の女たちに[[禅]]の心を説いて聞かせるなど、女中の意識向上に尽力した。このような日々を送るうち、おなあは[[将軍]][[徳川家光]]の勧めもあって、[[1643年]]に[[出家]]し「祖心尼(そしんに)」と名乗った。
 
祖心尼と春日局の性格は正反対であったといわれるが、おなあに対する春日局の信任は篤かったようで、重要な案件について、局は必ずおなあに相談したという。祖心尼は暴走しがちであった春日局との正面からの対立を避けつつ、根回しなどを駆使してこれを諌めた。家光の[[側室]]探しに躍起になっていた春日局が、伊勢慶光院の院主であった[[永光院|お万の方]]を強引に側室にしようとした際には、自らと同じ仏道を志す尼としての立場から、外見がお万の方に似た[[宝樹院|お楽の方]]を身代わりとして側室に入れるなど、お万の方を伊勢に帰すために尽力した。この努力は結果的には押し切られているが、以後、お万の方のの心の拠り所となったようである。
 
 
 
祖心尼は、将軍にも禅を説き、やがて、家光は祖心尼に幕府祐筆の大橋龍慶屋敷跡を寺領を寄進して寺院建立を指示し、祖心尼が開基となって済松寺が建立される。家光は臨終の際に祖心尼を呼び、『わが身は日光に葬られても、わが心はこの済松寺に留まる』と言い残した。家光公の死後、祖心尼は大奥を去り、余生を済松寺で過ごした。