「祖心尼」の版間の差分

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祖心尼と春日局の性格は正反対であったといわれるが、おなあに対する春日局の信任は篤かったようで、重要な案件について、局は必ずおなあに相談したという。祖心尼は暴走しがちであった春日局との正面からの対立を避けつつ、根回しなどを駆使してこれを諌めた。家光の[[側室]]探しに躍起になっていた春日局が、伊勢慶光院の院主であった[[永光院|お万の方]]を強引に側室にしようとした際には、自らと同じ仏道を志す尼としての立場から、外見がお万の方に似た[[宝樹院|お楽の方]]を身代わりとして側室に入れるなど、お万の方を伊勢に帰すために尽力した。この努力は結果的には押し切られているが、以後、お万の方のの心の拠り所となったようである。
 
[[1643年]]9月に春日局が死去。臨終に際して、局は祖心尼を呼び、自らが就いていた大奥総取締(大奥を統括する[[御年寄]])の後継者に指名、家光を託したと言われている。祖心尼はこれを受けるが、大奥はこの後、指名を受けた祖心尼と、家光の寵愛を受けたお万の方の共同指導体制となる。
 
祖心尼は、将軍にも禅を説き、やがて、家光は祖心尼に[[幕府]][[祐筆]][[大橋龍慶]]屋敷跡を寺領を寄進して寺院建立を指示し、祖心尼開基となって済松寺が建立される。家光は臨終の際に祖心尼を呼び、『わが身は日光に葬られても、わが心はこの済松寺に留まる』と言い残した。家光公の死後、祖心尼は大奥を去り、余生を済松寺で過ごした。
 
家光公の死後、祖心尼は大奥を去り、余生を済松寺で過ごした。
祖心尼は、将軍にも禅を説き、やがて、家光は祖心尼に幕府祐筆の大橋龍慶屋敷跡を寺領を寄進して寺院建立を指示し、祖心尼が開基となって済松寺が建立される。家光は臨終の際に祖心尼を呼び、『わが身は日光に葬られても、わが心はこの済松寺に留まる』と言い残した。家光公の死後、祖心尼は大奥を去り、余生を済松寺で過ごした。