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==来歴・人物==
高校時代は、同じ県内に[[杉浦正則]](後の[[近代オリンピック|オリンピック]]日本代表、[[日本生命]]野球部監督)がいたこともあり、注目されなかった。早稲田大学進学を目指して一浪したが落ちてしかたなく[[東京経済大学]]に進学。卒業後[[朝日生命]]\\\\\\\\\\呼ばれを経いた。(通算27勝17敗)実際藪がメジャ[[1994年]][[阪神タイガ移籍した際ス]]広島の首脳陣が[[ドラフト会議|ドラフト]]1位で入団、[[背番号]]はエースナンバー(藪がメジャーに移籍してく18」を与えらて)正直、ほっる。このとき[[姓名判断]]で登録名を「恵市」とした」とまで語っている
 
入団1年目の1994年に9勝(9敗)をあげ[[最優秀新人 (野球)|新人王]]を獲得。またファン投票で[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]にも出場した。
負け数も多いが、[[1996年]]~[[1998年]]は3年連続二桁勝利。90年代後半の阪神のエースとして活躍した。阪神時代の象徴的な記録として、どんなに前半好投していても、6回あたりから途端に崩れてくるパターンが多く、ファンや評論家の間では「勝負弱いピッチャー」とイメージされていた。このことからか、[[三浦大輔]]や[[黒田博樹]]らと同様に好投しても援護点に恵まれない選手としても有名であった。
 
切れ味鋭いスライダーとフォークを主体に、後にシュートを習得しゴロを打たせる投球スタイル。幾度となく死球を与えた[[清原和博|清原]]に対し「避けようともしない人にぶつけてもなんとも思わない」「(シーズン3個目の死球を与え、清原が指を3本突き出しながら「3回目だぞ」とすごんできた事を受けて)年俸3億もらってるんだって意味でしょ」と全く動じなかった強気な投球は藪の真骨頂であるといえよう。またプロ初勝利を[[広島東洋カープ|広島]]戦であげるなど広島にはめっぽう強く「鯉キラー」とも呼ばれていた。(通算27勝17敗)実際、藪がメジャー移籍した際に広島の首脳陣が「(藪がメジャーに移籍してくれて)正直、ほっとした」とまで語っている。
 
[[2001年]]右肩のケガで未勝利に終わるものの[[2002年]]、[[星野仙一]]監督の就任とともに再開花、[[読売テレビ]]の番組「[[週刊トラトラタイガース]]」の生放送中、阪神タイガースOB[[川藤幸三]]との電話会談で背番号4を薦められ、以来ピッチャーとしては珍しい背番号「'''4'''」(阪神では過去に[[ジーン・バッキー]]、[[マット・キーオ]]がいる。また「[[侍ジャイアンツ]]」の主人公[[番場蛮]]の背番号としても知られる)に変更し10勝をあげた。[[2003年]]も怪我がありながらも8勝(3敗)を挙げ、[[優勝]]に貢献した。