「伊藤博文」の版間の差分

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[[周防国]][[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]]束荷村字野尻(現・[[山口県]][[光市]]束荷字野尻)に[[百姓]]十蔵、琴子の長男として生まれる。家が貧しく12歳ころから奉公に出る。父が[[萩藩]]の[[中間]]水井武兵衛(後に伊藤直右衛門と改名)の養子となり、下級武士の身分を得る。[[吉田松陰]]の[[松下村塾]]に学び、[[高杉晋作]]、[[井上馨|井上聞多]]らと[[倒幕運動]]に加わった。
 
[[文久]]2年([[1862年]])には[[公武合体]]論を主張する[[長井雅楽]]の[[暗殺]]を画策し、イギリス公使館焼き討ちに参加するなど[[尊王攘夷]]の志士として活躍した。また、[[山尾庸三]]とともに、[[塙忠宝|塙次郎]]・[[加藤甲次郎]]を暗殺した。まもなく[[イギリス]]に渡航し、帰国後に革新派に加わる。
 
[[元治]]元年([[1864年]])、長州藩が[[幕長戦争#第一次|幕長戦争(長州征伐)]]で幕府に恭順の姿勢を見せると、高杉らに従い挙兵の下準備を整え、農民や町民を中心とした[[奇兵隊]]を率いて挙兵。各所で勢力を増やして萩城へ攻め上り、恭順派を倒した。
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