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'''リュシアン・ルバテ'''('''Lucien Rebatet''', [[1903年]][[11月15日~1972]] - [[1972]][[8月24日)]])[[フランス]]の[[作家]]、[[ジャーナリスト]]である。[[第二次世界大戦]]中のフランスにおける対独協力派「[[コラボラトゥール]]」の一員。
 
== 略歴 ==
[[1903年]]、[[ドローム県]]モラ・アン・ヴァロワール村生まれ。[[1923年]][[ソルボンヌ大学]]哲学科に入学。経済的な厳しさから、中学校で教職にあたりながら学んでいた。[[1927年]]同大卒。同年より[[兵役]]に就き、そのころより[[王党派]][[右翼]]団体[[アクション・フランセーズ]]発行の新聞『アクション・フランセーズ』を購読していた。<br>
 
翌年兵役を終えたルバテだが、[[世界恐慌]]による[[就職]]難で、某[[保険会社]]の[[営業]]職に不本意な[[給料]]で就職せざるを得なかった。一部ではこの学生時代より連綿と続く経済的不遇が、彼を強烈な[[反ユダヤ主義]]者にしたといわれている。<br>
 
翌[[29年]]に愛読していた『アクション・フランセーズ』の音楽欄のコンサート評を執筆したのをきっかけに、文筆業に専念する。ルバテの担当する高い教養に裏打ちされた音楽欄は、評判がよく、ルバテは文筆家として若くして頭角を表すようになった。<br>
 
[[1933年]]より、同じく[[保守]]系の新聞『[[ジュ・スィ・パルトゥ]]』に寄稿。以後は、以前より政治的主張で違和感を感じていた『アクション・フランセーズ』ではなく、こちらを中心にジャーナリストとして活躍する。<br>
 
1933年に隣国[[ドイツ]]において、[[ヒトラー]]を中心とする[[ヒトラー内閣|内閣]]が誕生すると、ルバテはその強行的な”改革”([[ドイツ共産党|共産党]]、[[ユダヤ人]]に対する弾圧等)を観て、驚嘆し、自国フランスにおいても、強力なドイツに対抗しうる政権を臨むようになる。そのためには緊急かつ強力にユダヤ人を排除せよという主張を繰り広げた。<br>
 
しかしその後、ヒトラーによる[[オーストリア併合]]、[[ズデーテン]]地方の併合を黙認している[[フランス第三共和政|フランス第三共和国]]において、このような強力な国家を樹立することは不可能と断じ、その後、[[対独戦]]が始まると、[[敗北主義]]的論調を執筆するようになった。<br>
 
対独戦においては従軍するも、フランス軍は連敗に継ぐ連敗で、前線は後退しつづけ、ルバテもそれに従い国土を南下する。その後フランスは対した戦果を挙げることもなく降伏。首都[[パリ]]は占領され、南部[[ヴィシー]]に親独中立の[[ヴィシー・フランス]]が成立した。このころ、反ドイツの思いからパリを脱出した『アクション・フランセーズ』を脱退。パリで『ジュ・スィ・パルトゥ』への寄稿に専念することになった。<br>
 
[[1942年]]に、ユダヤ人、『アクション・フランセーズ』の盟友、フランス革命以来の伝統的右翼、第三共和国、[[連合国]]、はては[[ナチス・ドイツ]]に対する不満や怒りや憎悪をぶちまけた問題作『残骸』を発表する。これは占領下のフランスでベストセラーとなった。<br>
 
[[1943年]]以後、次第に敗色が濃くなってゆく[[第三帝国]]を見て、多くの対独協力派が離反してゆくことになるが、ルバテだけは最後まで[[ナチズム]]信奉を貫いた。ちょうど同時期に取り掛かっていた大長編小説を執筆しながら、撤退してゆくドイツ軍に従軍し、ドイツやオーストリアを転々とするも、その膨大な原稿から逃亡が不可能になり、原稿を妻に託して、[[1945年]]5月8日、連合国軍に出頭した。<br>
 
==略歴==
[[1903年]]、[[ドローム県]]モラ・アン・ヴァロワール村生まれ。[[1923年]][[ソルボンヌ大学]]哲学科に入学。経済的な厳しさから、中学校で教職にあたりながら学んでいた。[[1927年]]同大卒。同年より[[兵役]]に就き、そのころより[[王党派]][[右翼]]団体[[アクション・フランセーズ]]発行の新聞『アクション・フランセーズ』を購読していた。<br>
翌年兵役を終えたルバテだが、[[世界恐慌]]による[[就職]]難で、某[[保険会社]]の[[営業]]職に不本意な[[給料]]で就職せざるを得なかった。一部ではこの学生時代より連綿と続く経済的不遇が、彼を強烈な[[反ユダヤ主義]]者にしたといわれている。<br>
翌[[29年]]に愛読していた『アクション・フランセーズ』の音楽欄のコンサート評を執筆したのをきっかけに、文筆業に専念する。ルバテの担当する高い教養に裏打ちされた音楽欄は、評判がよく、ルバテは文筆家として若くして頭角を表すようになった。<br>
[[1933年]]より、同じく[[保守]]系の新聞『[[ジュ・スィ・パルトゥ]]』に寄稿。以後は、以前より政治的主張で違和感を感じていた『アクション・フランセーズ』ではなく、こちらを中心にジャーナリストとして活躍する。<br>
1933年に隣国[[ドイツ]]において、[[ヒトラー]]を中心とする[[ヒトラー内閣|内閣]]が誕生すると、ルバテはその強行的な”改革”([[ドイツ共産党|共産党]]、[[ユダヤ人]]に対する弾圧等)を観て、驚嘆し、自国フランスにおいても、強力なドイツに対抗しうる政権を臨むようになる。そのためには緊急かつ強力にユダヤ人を排除せよという主張を繰り広げた。<br>
しかしその後、ヒトラーによる[[オーストリア併合]]、[[ズデーテン]]地方の併合を黙認している[[フランス第三共和政|フランス第三共和国]]において、このような強力な国家を樹立することは不可能と断じ、その後、[[対独戦]]が始まると、[[敗北主義]]的論調を執筆するようになった。<br>
対独戦においては従軍するも、フランス軍は連敗に継ぐ連敗で、前線は後退しつづけ、ルバテもそれに従い国土を南下する。その後フランスは対した戦果を挙げることもなく降伏。首都[[パリ]]は占領され、南部[[ヴィシー]]に親独中立の[[ヴィシー・フランス]]が成立した。このころ、反ドイツの思いからパリを脱出した『アクション・フランセーズ』を脱退。パリで『ジュ・スィ・パルトゥ』への寄稿に専念することになった。<br>
[[1942年]]に、ユダヤ人、『アクション・フランセーズ』の盟友、フランス革命以来の伝統的右翼、第三共和国、[[連合国]]、はては[[ナチス・ドイツ]]に対する不満や怒りや憎悪をぶちまけた問題作『残骸』を発表する。これは占領下のフランスでベストセラーとなった。<br>
[[1943年]]以後、次第に敗色が濃くなってゆく[[第三帝国]]を見て、多くの対独協力派が離反してゆくことになるが、ルバテだけは最後まで[[ナチズム]]信奉を貫いた。ちょうど同時期に取り掛かっていた大長編小説を執筆しながら、撤退してゆくドイツ軍に従軍し、ドイツやオーストリアを転々とするも、その膨大な原稿から逃亡が不可能になり、原稿を妻に託して、[[1945年]]5月8日、連合国軍に出頭した。<br>
その後フランスで開かれた[[ドゴール|シャルル・ド・ゴール]]による法廷で、戦前からの反ユダヤ主義扇動、対独協力の全てを罪状に挙げられる。[[共産党|フランス共産党]]員で占められる裁判においては、[[死刑]]以外の判決は考えられなかった。死刑判決後、いつ刑が執行されるともわからない状況の中でも彼は執筆を続けた。一方牢獄の外では、夫人やかつての盟友たちが熱心に減刑運動を展開しており、敵味方問わず多くの[[署名]]が集まった。47年には運動の甲斐あり、[[無期懲役]]に減刑された。<br>
[[52年]]2月に彼の渾身の大長編『ふたつの旗』が出版され、7月には釈放された。しかしこの彼の力作は、出版当初はほぼ何の反響もなく迎えられた。<br>
 
54年より彼は再びパリに居住し、執筆活動を続けるが、なかなか彼自身の満足する作品が出来なかったのか、いくつかの作品がお蔵入りとなっている。ようやく出版できたのが執筆十年にわたる、[[1969年]]の『ひとつの音楽史』であり、これはコラボラトゥールの悪名に反し、現在でも重版を重ねている。72年に次回作「美術史」の構想を抱えながら死去。68歳。
 
== 評価 ==
『アクション・フランセーズ』以来、彼の豊富な教養は評価されているものの、現代フランスでルバテの名は「コラボラトゥール」の悪名で知れ渡っている。但し『残骸』が急進的反ユダヤ主義の政治的、暴力的内容であったのとうって変わって『ふたつの旗』は西洋に連綿と続く[[人文主義]]、[[教養主義]]、[[信仰]]、[[恋愛]]をテーマとした大作であり「『残骸』の作者がいかにして『ふたつの旗』を書くことができたのか」と言わさしめた。<br>
 
戦後の大作『ひとつの音楽史』においても[[メソポタミア]]の太古から[[クセナキス]]など[[現代音楽]]まで網羅した、常軌を逸した大作であり、その極めて高い教養力が伺え、現代において問題の多い作家の一人である。
 
== 関連項目 ==
* [[シャルル・モーラス]]<br>
* [[ジャック・ドリオ]]<br>
* [[ゲットー]]<br>
 
{{DEFAULTSORT:るはて りゆしあん}}
[[Category:1903年生]]
[[Category:1972年没]]
[[Category:フランスの作家]]
[[Category:フランスのジャーナリスト]]
 
[[en:Lucien Rebatet]]
[[fr:Lucien Rebatet]]
[[it:Lucien Rebatet]]